中国初期禅門における『維摩経』
著者
? 雋, 余 新星(訳)
著者別名
GONG Jun, YU Xinxing(Japanese Translation)
雑誌名
国際禅研究
号
5
ページ
147-176
発行年
2020-08
URL
http://doi.org/10.34428/00012131
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止要旨
本論文は思想史の視点から、『維摩経』と中国初期の禅学思想との関係 について詳らかに探究した。研究の手法に関しては、拙論は思想史と文献 学の結合に基づき、達摩禅・東山法門から、保唐宗及び南北二宗といった 様々な流派に至るまでの「初期禅」は、どのように『維摩経』を会通して、 またどのように各自それぞれの禅学論述を展開したか、について微に入り 細を穿って分析を行った。 キーワード:維摩経、初期禅、方便通経、達摩、東山法門、保唐宗、荷沢宗 『維摩経』は中国中古の仏教義学に対して重要な影響を与えた。六朝か ら隋唐にかけての仏教義学では、『維摩経』に対する注釈は、様々な流派 において行われ、極めて盛んであった。唐以降の中古の義学では、維摩経 学が衰退し、次第に禅宗に取って代わられた。 従来、禅宗は「不立文字」、「教外別伝」の流派として見なされ、あたか も禅師達は経教に対して一向に排除したように認識されがちである。しか しながら、中国初期の禅( 5 世紀末から 8 世紀中頃にかけて)の法流は、様々 な形で経典を扱ったり、解釈したりしていた。禅師は、義学僧のように経 典に対して体系的に論述と注釈を行うことが少ない。しかし、「教に遵ひ、 教を慢そしり、相に随ひ、相を毀そしる<遵教慢教、随相毀相>」で示される禅宗中国初期禅門における『維摩経』
龔 雋
*著・余 新星
**訳
*中国・中山大学哲学系教授 **東京大学大学院人文社会系研究科博士課程の二種類の宗風を有する流派とも、程度こそ異なるものの、「六経を以て 我を注す」という形で、経論を大量に応用し、援引をしていた。宗密によっ てよく指摘されたように、初期の禅宗における伝承は、顕と密を兼ねてい た。密というのは即ち「黙して心印を伝ふ<黙伝心印>」であり、顕とい うのは「教に藉よりて宗を悟る<藉教悟宗>」─つまり経典の教えによっ て心法をしらべ証しょうすることである。宗密は「其の顕かに伝ふる者は、学徒 辨じ易し、但だ言説を以て疑ひを除くのみ。況んや既に言に形あらはれば、経論 等を引きて証と為すに足るべし<其顯傳者、學徒易辨、但以言說除疑。況 既形言、足可引經論爲證>」1と述べた。永明延寿も似たような見解を示し、 禅門は概ね経典に拠って宗を明かし、而して「顕了」と「秘密」という両 説に分けて宗義を闡明するのである。いわゆる「 各おのおの経宗に拠り、其の異 なる号を立つ<各拠経宗、立其異号>」2、と述べた。 中国の「初期禅」は大概にして「方便通経」という方式で異なる経典を 会通して、禅法を裏付ける教義面の根拠を探し求めていた。曾て学界では、 初期禅の発達は『楞伽経』から『金剛経』への転換を経たという流行の観 点があった。その延長線上、胡適は、『金剛経』が『楞伽経』に対して革 命を行ったとまで言った3。実はこれは単なる初期禅宗史に関する簡易す ぎる叙述に過ぎない。『維摩経』は中古禅宗史の思想形成に対して重要な 影響を与えた。『維摩経』は「不思議を以て宗と為す」。この点は、禅門に おける「秘密之説」の根拠だと見なされている4。禅師達は様々な形で『維 摩経』の観念を使用し、禅師の偈頌には維摩詰をテーマとする「五更 転」5も現れた。そして、宋代の『伝灯録』になると、維摩詰は禅門の系 譜で七佛に直に繋がる中核となる人物に記されるようになった。
1 、達摩と『達摩論』における『維摩経』
達摩に関する資料は、例外なく達摩は「教に藉よりて宗を悟る」という形 で四巻の『楞伽経』を伝授したと記している。しかも、達摩の教えとされる「二入四行」は、明らかに『維摩経』の経義を援引して禅法を説いてい る。一番明らかに見える箇所は、「四行」の中で「称法行」の文句は、『維 摩経』「弟子品」における「法は衆生無し、衆生の垢を離れたるが故に。 法は我有ること無し、我の垢を離れたるが故に<法無衆生、離衆生垢故。 法無有我、離我垢故>」を援引して、「性浄之理」の「染ぜん無く著じゃく無く」を 解釈したのである6。先達の研究によると、「二入四行」における最も核 心的な理念、即ち「理入」の中で表される「含生の凡聖同一真性なること を深く信ず<深信含生凡聖同一真性>」という観念は、『維摩経』「菩薩品」 における弥勒章の思想から影響を受けている。それのみならず、「四行」 における「無所求行」に述べられる「理として俗と反し、心を無為に安ず <理将俗反、安心無為>」という義は、同じく『維摩経』「不思議品」に おける「法は無為と名づく。若し有為を行ぜば、是れは有為を求め、法を 求むるに非ざるなり<法名無為、若行有為、是求有為、非求法也>」から 啓発を受けたと指摘されている7。達摩が『維摩経』から影響を受けた原 因については、印順は、達摩が江南に逗留していたことと関連があるかも しれない、と推定している8。何故かと言うと、六朝時期に江南地方の仏 教義学は取り分け『維摩経』の流布と講習を重んじたからであった。 また、現存する、達摩の著と名乗って流布している各種の禅宗文献(関 口真大はこの類いの撰述を「達摩論」と称した)に関して、杜朏は、これ らは達摩と同時代の学人は「自らの得た語に随って以て真論と為す<隨自 得語以爲眞論>」、つまり達摩の名を仮託して偽造した作品だと見なして いる9。杜朏自身は教を離れて宗を明かすという思想的立場を取っている。 彼が「達摩論」に対して否認と批判をするのは理解しやすい。一方、杜朏 は、これらの「達摩論」から反映されるのは同時代における別の流れの禅 者達の考えであることを明らかに指摘した。従って、「達摩論」を初期禅 の思想を代表する作品として扱えるであろう10。「達摩論」には、『維摩経』 からの引用がとても多い。そこから、中国の初期禅の時代に、『維摩経』 は禅門で非常に流行していたことが分かり、その思想が禅宗に対して与え
た影響は深くて且つ広範にわたることが窺えよう。例えば、敦煌文献『天 竺国菩提達摩禅師論』(『達摩禅師論』)は広く経典を引用してその禅法を 証して解釈していた。その中で、『維摩経』からの引用回数が最も多い11。『二 入四行』が凡聖平等及び不二の観念に重きを置くのと違い、この論は禅定 観心という法門への偏重が見える。例えば、禅門が即ち「住心門」である ことを解釈する際に、「又た住心門と言ふは、常に心を看守するに由るが 故に、心即ち起こらず。動くこと無きが故に、心即ち安住す。『維摩経』 に云はく、心は常に安住せば、無礙にして解脱すと。故に住心門と言ふ <又言住心門者、由常看守心故、心即不起。無動故、心即安住。《維摩經》 云。心常安住、無礙解脫。故言住心門>」と述べた。「定心門」を論じる 際にも、同じく『維摩経』を引いて経証と為した。「定心門と言ふは、常 に心を看守するに由るが故に、五欲の境界に於いて、乱れず惑はず。心を 看るに由るが故に、中において乱さしめず。故に『維摩経』に云わく、念・ 定をもって総持し、辯才は断えず。故に亦た定心門と名づくと云ふ<言定 心門者、由常看守心故、於五慾境界、不亂不惑。由看心故、中不令亂。故 《維摩經》云。念定總持、辯才不斷。故云亦名定心門>」12と。また、『達 摩禅師論』は最後に、大乗と小乗における観門の違いを総じて論じる際に、 論及した大乗と小乗の観法は主に『維摩経』を根拠としている。例えば、 論の中に、「若し菩薩の観法に依らば、出入有ること無し。湛然として一 相たり、変異有ることなし。身は動作すと雖も、心は常に動かず。『維摩経』 に云わく、心は常に安住せば、無礙にして解脱す<若依菩薩觀法、無有出 入、湛然一相、無有變異、身雖動作、心常不動。《維摩經》云。心常安住、 無礙解脫>」と論じた。また、「行住坐臥、挙動施為すと雖も、心王は常 に動かず。心王もし動かば、即ち生死に流浪し、法の財宝を運載すること 能わず。『維摩経』に云わく、「世間に著せざること蓮花の如し、常に善く 空寂の行に入る。諸の法相に達して掛礙することなし、稽首す、空の如く 依る所無し<雖行住坐臥、舉動施爲、心王常不動。心王若動、即流浪生死、 不能運載法之財寶。《維摩經》云。不著世間如蓮花、常善入於空寂行、達
諸法相無掛礙、稽首入空無所依>」13。 敦煌禅籍の中には、上述した文献のほかに、『禅策問答』と『請二和尚 答禅策十道』という二点の文書もある。この二つの文書は、問答形式で禅 法を闡明し、大体として初期の禅門の思想を代表する。その中にも『維摩 経』の影響を反映する箇所が多分にある。『禅策問答』(方広錩整理本)に おいては、『法華経』・『維摩経』・『涅槃経』といった経典を依拠として禅 法を論述している。その中に、『維摩経』の見出が三箇所ある。ただし、 実際に『維摩経』からの経文を引用したのはただ一箇所のみである。その 他の二箇所は『維摩経』と名乗って、実は他の経の文句を引用したのであっ た。『請二和尚答禅策十道』という文書は、十の問答に分けて禅法の意趣 を示した。その第一問の内容は次の通りである。「第一の問。禅経には「心 浄ければ則ち国土浄し」とあるが、心と〔仏〕土は、何を体としているの か?空の対。心は浄を体とし、仏土は色と倶に心の浄を以て〔体としてい るから〕、則ち仏土も浄なのだ。自の対。心も浄であり、仏土も浄である から、〔その意味で〕総ては一に帰するのだ。体といっても亦た〔とらえ るべき何物も〕ないのだ。これを真の浄というのだ<第一問。禪經云。心 凈則佛土凈。未知心之與土、以何爲體? 空對。心者以凈爲體、土者以色 心俱凈、則佛土凈。自對。心凈即佛土凈、總歸一。體亦無、是名真凈 >」14。ここに『維摩経』「佛国品」を引用して唯心浄土を説き、しかも終 に空性に帰することは、『維摩経』の趣旨と一致する。そして、注意され るべき点は、この論は経典名を『維摩経』と言わずに、禅経といっている 点は重要で、そこからも、中国の初期禅宗で『維摩経』の果たした役割が いかに大であったかを窺い知ることができよう15。
2 .東山法門と『維摩経』
中国の初期禅は、道信・弘忍の時代に至っては、「令望の帰する所、裾 履は門に湊あつまる<令望所歸、裾履湊門>」という様子を呈して中国の禅法の主流となった16。『楞伽師資記』の記述によると、道信は「常に禅定を作 して」、心を明らめることに勤しんでいたが、その入道の方便に、随所詳 らかに経教を援引して義を証し、自らの見地は「皆な経文の述べる所に依 り、理外の妄説にはあらざる<皆依經文所陳、非是理外妄説>」ことを表 明した。道信の禅法の入道方便は、主に「『楞伽経』における諸佛心第一」 と「『文殊説般若経』における一行三昧」を拠り所としている。しかしな がら、道信は「一行三昧」の無差別相を論じる際に、「夫れ、身心方寸、 挙こ そ く足下あ そ く足、常に道場に在り<夫身心方寸、舉足下足、常在道場>」と述べ た。この言い方は正しく『維摩経』「菩薩品」における「挙こ そ く足下あ そ く足、当に 知るべし、皆な道場従り来たることを。<舉足下足、當知皆從道場來>」 という観念から出ている17。 『楞伽師資記』に記載される道信の「入道要安心法門」の中に、『維摩経』 より展開した思想は少なからず存在する。主として菩薩の観念と禅定とい う二つの面に見られる。例えば、菩薩行に関しては、「深行の菩薩は、生 死に入りて衆生を化度して、而も愛見無し。若し、衆生は生死有り、我は 是れ能度、衆生は是れ所度なりと見れば、菩薩と名づけず<深行菩薩入生 死化度衆生、而無愛見。若見衆生有生死、我是能度、衆生是所度、不名菩 薩>」18は、『維摩経』「問疾品」における「一切の衆生を摂すと雖も、而 るに愛著せず、是れ菩薩行なり<雖攝一切衆生、而不愛著、是菩薩行 >」19から来ている。菩薩の身心の空性義を論じる際に、道信は『維摩経』「方 便品」の文章を引用して「是の身は浮雲の如く、須臾にして変滅す<是身 如浮雲、須臾變滅>」20を説いた。坐禅に関しても、道信は『維摩経』を 多く援引して自説を証していた。例えば、「守一不移」の禅修行方法を解 説する際に、経典の根拠として、「『維摩経』に云はく、「摂せっ心しんは是れ道場、 これは摂心の法なり」と<《維摩經》云。攝心是道場、此是攝心法>」21 を引証した。坐禅の方法と「心地明浄」、「心性寂滅」という効果について 議論する際には、『維摩経』「弟子品」の「豁かつ然ねんとして還って本心を得うと、 信 まこと なり其の言や<豁然還得本心、信其言也>」22を引証して論じた。
弘忍の禅風も、経典に対して一向に排除したわけではなく、「本真心を 守るは是れ十二部経の宗なり<守本真心是十二部經之宗>」を主張したの であった。つまり、まず「自ら本心を識る<自識本心>」、然る後に「十二 部経において念々にして常に法輪を転ず<十二部經念念常轉法輪>」23る のである。敦煌文献の『修心要論』は、弘忍の門徒による改編を経て成立 した可能性があるとはいえ、弘忍の禅思想を代表するものだと学界では認 められている。この僅か一巻の論書の中で、『維摩経』からの引証は数箇 所もあった。その内容から見ると、『修心要論』の『維摩経』に対する援 用は、達摩や道信以来の傾向を踏襲している。つまり、『維摩経』を依拠 として、性浄の理が無二無別なることと、禅定によって心を静めること、 という二つの内容を説く。例えば、『修心要論』は自性体を説く時に、自 心は本来消滅せずと提起した。真如と法性とは同一無二なることを論じる 際にも、経文を引用して「自性は無くして他性も無し、法は本より生ぜず、 今則ち滅するは無し<無自性無他性、法本不生、今則無滅>」と記した。 坐禅に関しては、『修心要論』は「緩緩として心を静める<緩緩靜心>」 を説く時に、『維摩経』「見阿閦仏品」の文章を援引して「緩緩として尋思 し、此れは是れ実語なり<緩緩尋思、此是實語>」と述べた。弘忍におけ る経典の引証には、非常に鮮明な禅門的特徴がある。というのは、弘忍は 「了了として証知す」との心証を重んじ、「文に依りて義を取る」ことに反 対する。心法の体得は「文疏の能く解することには非ず<非文疏能解>」 と考え、「若し文に依りて執らば、即ち真の宗を失ふ<若依文執、即失真 宗>」24と指摘した。そのために弘忍は、経文の援引において多くは「意伝」 を重んじて自らの禅法を闡明した。経典の文字言句に対しては軽く見てい た。例えば、『修心要論』において引用される「生滅有ること無し」とい う一段落の経文は、『維摩経』「菩薩品」における維摩詰の弥勒受記に関す る論説から来ているはずであるが、経文自体は全く自心の生滅に言及する ことはない25。同様に、禅定に関する文句の引証は、『維摩経』「見阿閦仏品」 との関連が見える。しかしながら、『維摩経』「見阿閦仏品」には、『修心
要論』において援引されたこれらの文句はない。「見阿閦仏品」の内容か ら見ると、維摩詰は観心・観仏の方法を説き、強調したのは如来の不来不 去を観ずる「不住」の観法であった。経文の中には、心を観察する時の緩 静の意に言及することもなかった。ここから判断すれば、弘忍の『維摩経』 に対する引証は、心法の発明を重んじ、そして初期禅宗の法流における「心 地に伝ふ<伝乎心地>」と、意で妙道を伝える(意伝妙道)という面を展 開したものだった26。
3 .北宗禅における『維摩経』
敦煌文献の北宗に関する資料を見ると、八世紀の北宗の門下における「方 便通経」はよく『維摩経』を取り上げる。田中良昭は北宗禅の思想を検討 する中で、『維摩経』、『金剛経』の空思想は北宗禅の思想に対して深い影 響を与えたことを指摘した27。神秀・法如・浄覚・普寂といった北宗の重 要な代表的人物は、その禅法が悉く『維摩経』と何らかの関係がある。 まず、神秀について検討して行く。神秀は経典の理解を重んじるとはい え、経師・論師の一流に属すると簡単に理解してはいけない。神秀にも、 やはり「文は経の中に出づるも、証は心内に在り<文出經中、證在心內>」 という禅師の宗風が現れている28。神秀における有名な「五方便」の第三 方便は、『維摩経』より来たのである。この点に関しては北宗文献の『大 乘五方便』・『大乗無生方便門』の中に具体的な表現が多く見られる。『大 乘五方便』の重要な内容は、異なる経典からの引文について、心法という 高所から一つ一つ解説を行ったものである。その中の多くは、『維摩経』 の内容に対する解読である。神秀は、『維摩経』によって菩薩観と大乗の 禅定を説くという東山法門の伝統を踏襲する一方で、新しい議題と論述を も付け加えた。『楞伽師資記』には、神秀は「芥子は須弥に入り、須弥は 芥子に入る<芥子入須彌、須彌入芥子>」を以て、『維摩経』「不思議品」 における菩薩の解脱の境界を解説したと記されている29。『大乗五方便』第15節は、菩薩の有・無方便慧縛及び有・無方便慧解の問題について特別 に議論し、「禅味に貪着せば二乗涅槃に堕し、是れを名づけて無慧方便縛 という<貪著禪味墮二乘涅槃、是名無慧方便縛>」の問題を提起した30。 これは正しく『維摩経』「問疾品」の思想に対する展開である。また、『大 乗五方便』第50節には、ことに『維摩経』の「宴坐」の理に対して闡明し た。神秀は次のような禅的解釈を行った。「夫れ宴坐とは三界に於いて身 意を表さざる、是れを宴坐と為す。此の義は如何? 答ふ。六根は起こら ず、六道に生まれず。六道に生まれざるは是れ三界を出づるなり、即ち三 界に於いて身意を現さず、是れは真の宴坐なり<夫宴坐者不於三界現身意、 是爲宴坐。此義云何? 答。六根不起、六道不生。六道不生是出三界、即 不於三界現身意、是眞宴坐>」31と説いた。神秀における経論の解通は、 自らの一格を成し、経師・論師とは異なる。神秀は経文に順って解釈する のではなく、還元主義的に禅門の心法の視点から経義を統べ貫き、心意を 起こさざることで宴坐の根本意を説明し、禅門的な特徴を示した。ここに おいて、神秀は、荷沢神会を代表とする南宗禅の見方とは本質的な違いは 存在しない。 神秀の時代に至って、禅定に関する論述は、一層定と慧との関係に合わ せて論究するようになる。『大乗五方便』第55節には、定・慧の二義を以 て『維摩経』「問疾品」で文殊が説いた「不来の相にして来たり、不見の 相にして見る<不来相而来、不見相而見>」を解釈するのであった。「来 たらざるは是れ定なり、而して来たるは是れ恵なり。見ざるは是れ定なり、 而して見るは是れ恵なり<不来是定、而来是恵。不見是定、而見是恵 >」32と。ここから南宗と北宗との違いが見て取れる。即ち、南宗が強調 する定慧不二の議論は、神秀の経典解釈では展開されていない。この点に 関して、後述する神会の『維摩経』解釈と対照すれば、南北分宗の意趣が 明らかに見える。 また、神秀の『維摩経』に対する展開は、新しい議題にも触れた。具体 的言うと、『大乗五方便』第30-34節は、ことに『維摩経』第六「不思議品」
における多くの議題について議論した。例えば、維摩詰は舎利弗に空室無 座の空性妙理について回答した。神秀は更に「浄体」と「初心」という相 対的概念を創出して表した。それに、第53節には、『維摩経』「弟子品」に おける迦葉乞食の義に関しても新たな禅的解釈を施した。ここでは逐一の 詳しい論述を省く。 八世紀に、北宗のもう一人の重要な学者である浄覚は、自らの禅学的傾 向を「潜神玄黙」と称したものの、「聖道玄微」の理は経教を通じて表現 できると主張した。浄覚は「教に藉よりて宗を悟る」ことに傾くのであった。 王維は、浄覚が「律儀細行に至りて、周密に護持す。経典の宗を演ぶるは、 毫釐をも剖析す。其の二翼を窮め、即ち仏乗に入る<至於律儀細行、周密 護持、經典演宗、毫釐剖析、窮其二翼、即入佛乘>」33と述べた。『注般若 波羅蜜多心経』において、浄覚は般若を「文字般若」と「深浄般若」との 二種類に分けて、前者は即ち「口説文伝」して経典の教えに通じるのであ る。浄覚の『心経』に対する解釈は、その形式といい、内容といい、頗る 「文に依りて義を解し、文に随い注を作す<依文解義、隨文作注>」とい う経師の特徴を有している。その中で、『維摩経』を援引する箇所が多い。 例えば、『心経』の「無眼界、乃至無意識界」を解釈する時に、浄覚は『維 摩経』「問疾品」における「四大無我、身亦無我」を引いて説明を行った。 また、『維摩経』「佛国品」における「浄土を得んと欲せば、当に其の心を 清むべし、其の心の浄きに随って、即ち仏土は浄し<欲得淨土、當淨其心、 隨其心淨、即佛土淨>」を以て、『心経』の「無無明亦無無明尽」を解釈 している。『心経』の「心無罣礙」を解釈する際に、『維摩経」「佛国品」 における「諸の法相に達すること罫礙無し、稽首す、空の如く依る所無し <達諸法相無罣礙、稽首如空無所依>」を引いて解読している34。その他に、 浄覚はその著『楞伽師資記』の自序において広く経証を援引して禅法を闡 明した。中には、『維摩経』から心浄仏土浄の一段の文を引用して禅法の 要義を説いたのであった35。 また、『大乗開心顕性頓悟真宗論』と『頓悟真宗要訣』という二つの文
献は、八世紀の北宗系の禅法を代表する重要な文書であり、中国の学術界 でまだ十分に検討されていない36。この二点の文献から、北宗禅には観心 の法門において頓悟を主張する一流派も存在することを示したのみなら ず、しばしば『維摩経』における空思想を援引して禅法を論究したことも 分かる37。例えば、『真宗論』は『維摩経』における不二の義を以て禅法 の動寂一如を闡明して、次のように説いた─「即ち分別の中に於いて無 分別智を得て、常に分別を行じながらも分別せず、此れは是れ不壊世法な り。是の故に経に云わく、諸結の相を分別して、第一義に入りても動かず。 是 ここ を以て能く之れを覚る者は、動に即して寂を起こすなり。又た問ひて曰 く、『維摩経』に云はく、常に実相の智恵を求め、世間の法に於いて欲少 なくして足るを知り、出世間の法に於いて之を求めて厭わず、威儀を壊せ ずして能く俗に随って神通の恵を起こし、衆生を引道すと…<即於分別中 得無分別智、常行分別而不分別、此是不壞世法。是故經云。分別諸結相、 入第一義而不動。是以能覺之者、即動而起寂也。又問曰≪維摩經≫云。常 求無念實相智惠、於世間法少欲知足、於出世間法求之無厭、不壞威儀而能 隨俗起神通惠、引道於衆生…>」38。こういった説き方は南宗禅の思想に 相通じることが明らかである。事実上、八世紀初頭に北宗と南宗との思想 的分際は、後世で想像されているほどはっきりしたものではなくて、この ような二項対立という構図の形成は、大きくは後代の宗派意識からの意図 的な「創造」によるものである。
4 、『維摩経』と保唐系
東山法門の四川での展開には、保唐無住禅師の教法が最も重要である。 保唐の宗風に関しては、宗派系統の異なる禅宗史書における記述には違う 所が見られ、一部は相反する記述も見られる。例えば、『歴代法宝記』の 記載によると、保唐無住禅師の禅風は経典を軽んじ、「文字をもって妄想 を喩え」、「教示に依らず」39。しかし、宗密の『禅源諸詮集都序』によると、保唐は北宗と同じく、「息妄修心宗」に帰され、禅の修行面においては「師 の言教に依る」もので、経論を重んじる法流である40。『伝法宝記』に記 載される保唐無住の禅法から見れば、無住は一向に経教を反対していたの ではなくて、むしろ常に『楞伽経』・『大乗起信論』・『維摩経』といった経 論を引用して禅の道理を解き明かした。勿論、無住の経論に対する援引は、 多くの禅師達と同じように、自らの意によって文章を摘出し、裁定を加え て、解説を施すのである。 無住も選択的に『維摩経』における「直心を以て道場と為す」、「深心を 以て道場と為す」という言い方を強調し、心法を用いて大乗禅定の「宴坐」 の観念を説き明かした41。実は、無住の『維摩経』に対する展開は自らの 傾向性を持っている。というのは、無住は特に経証を引いて禅修行におけ る心の「無念」なるを観じることと、見聞覚知との区別について説明した。 そして、見聞覚知を行じないことこそが、禅門の観行及び『維摩経』にお ける静黙して「不二法門」に入ることの根本である。無住は、「『維摩経』 に云わく、若し見聞覚知を行ぜば、即ち是れ見聞覚知なるのみ、法は見聞 覚知を離る。無念なれば即ち見無く、無念なれば即ち知無し<《維摩經》云。 若行見聞覺知、即是見聞覺知、法離見聞覺知。無念即無見、無念即無知>」 と説いた。また、「生滅心を以て、実相法を説くこと無かれ、法は眼耳鼻 舌身心を過ぎ、法は一切の観行を離る。法相は是の如し、豈に説くべけん や。是の故に、文殊師利菩薩は維摩詰を讃ずらく、言説有ること無きは是 れ真に不二の法門に入るなりと。<無以生滅心說實相法、法過眼耳鼻舌身 心、法離一切觀行。法相如是、豈可說乎? 是故文殊師利菩薩讚維摩詰、 無有言說是眞入不二法門>」と説いた42。無住の理解では、「無念」は即 ち「憶念無き」ことであり、心の無念なるを観じることこそが覚りに入る 境地である。「『維摩経』に云わく、不行は是れ菩提なり、憶念無きが故に。 常に無念にして実相の智慧を求む、と<《維摩經》云。不行是菩提、無憶 念故、常求無念實相智慧>」。この一段の文字は、『維摩経』の「菩薩品」 と「菩薩行品」からそれぞれ抽出して組み合わせたものである43。無住の
引証と経文を対照してみれば、無住の経文に対する援引は、随意で飛躍が ある。無住の経教に対する引用法は、言説の相を離れて大義を重んじるの であると言えよう。正に『歴代法宝記』に記されるように、無住和尚の特 徴は、「引く所の諸経の了義にして、直に心地の法門を指し、並びに言説 を破す。……但だ義に依って修行せよ、言説に著じゃくすること莫かれ。若し言 説に著せば、即ち自ら修行の分を失ふ<所引諸經了義、直指心地法門、并 破言說。……但依義行、莫著言說。若著言說、即自失修行分>」と44。こ れが正に禅者における経典を説く流派だと言えよう。 中古の仏教史において一つの注意すべき現象がある。それは、戒に関し て、禅師と戒律師との間で理解の対立があったということである。「禅律 相諍」と称されるこの状況は、彼らの経典に対する理解が違うことにも多 少反映される。初期の禅宗における『維摩経』に対する解釈を例にすれば、 禅師達が『維摩経』を経証として援引するのは、多くの場合、心法を説明 するためである。彼らは『維摩経』の思想を応用して相を破して義を顕す のであり、戒を心法の一種に内在化して伝授しようとする。『維摩経』の 経典自体にこういう思想的傾向がある。例えば、「弟子品」の中に、仏陀 の大弟子であり、戒律に精通する優波離を論破したという記述がある。『維 摩経』は行いから律を論じるのではなくて、「意を以て意を浄むるを解と 為す<以意淨意爲解>」ことで戒の意趣を理解する傾向があるが、これは 正しく律学において心法を重視する立場に立つものである45。このような 見方は、一般の律学にとっては多少破壊性を有するものである。しかも、 このような例は一つだけにとどまらない。中古の禅師達にも、『維摩経』 の経義に基づいて律師の戒相に拘り過ぎることを批判するものはあった。 最も代表的な例は、『景徳伝灯録』巻二十の「志公和尚十四科頌」におけ る「解縛不二」の解釈は、正しく『維摩経』の観点を引用して根拠にした のである。「律師は律を持して自らを縛り、自らを縛って亦た能く他をも 縛る。外には威儀恬静を作して、心の内には恰も洪波に似たり。……二の 比丘有りて律を犯して、便ち却って往きて優波に問ふ。優波は律に依りて
罪を説き、転た比丘の網羅を増す。方丈の室の中の居士、維摩はすなはち 来たりて訶す。優波は黙然として対ふる無し、浄名は法の過無きことを説 く<律師持律自縛、自縛亦能縛他。外作威儀恬靜、心内恰似洪波。……有 二比丘犯律、便却往問優波。優波依律説罪、轉增比丘網羅。方丈室中居士、 維摩便即來訶。優波默然無對、淨名説法無過>」46。保唐の一派も特にこ ういう特徴を有した。無住は『維摩経』「佛国品」における「常に善く空 寂の行に入る<常善入於空寂行>」という義を用いて、戒律の空性寂滅の 相を説き明かした。無住は「戒相は虚空の如し、持する者は迷倒なり<戒 相如虛空、持者爲迷倒>」と考えていた。そのために、無住は律師の戒法 観を批判した。彼は、「今時の律師は只だ名聞利養の爲にするのみ。猫の 鼠を覓もとむるが如く、細歩徐行し、是を見、非を見る<今時律師只爲名聞利 養、如貓覓鼠、細部徐行、見是見非>」と言った。無住は、更に、このよ うな外相と枝葉末節に拘る律儀は、仏法の発達を成就できないばかりでな く、むしろ法の消滅を来すのだとまで提起した。「触を説きて浄を説き、 持を説きて犯を説き、相を作して戒を授け、相を作して威儀す<說觸說凈、 說持說犯、作相授戒、作相威儀>」、「是れ仏法を滅するなり、沙門の行に 非ず<是滅佛法、非沙門行>」47と言った。禅師達は経典を細かく究める 流派ではないが、『維摩経』の律法に関する観念を自説に融合したのは、 彼らは『維摩経』に対して工夫を凝らしていると言わざるを得ない。
5 、南宗禅の門流における『維摩経』の応用─慧能と
荷沢系を例として
慧能は学問を事としないが、経教を一向に排斥していたわけではない。 慧能の経典に対する姿勢は、「一切の経を解・用・通す<解用通一切経>」 のである。これは典型的な禅門の風格である48。『壇経』の記載から見れば、 慧能は経典に対しては方便通用の箇所が少なからず存した。慧能は『金剛 経』によって悟りを開いたと一般的に考えられており、『金剛経』から受けた影響が重視されてきた。実際には、現存する各版本の『壇経』から見 れば、慧能の禅における多くの核心的な観念は『大乗起信論』や『維摩経』 などからの影響も見受けられる。慧能の『維摩経』に対する応用は主に三 つの面に現れる。第一に、『維摩経』の不二法門を会通して、禅の「体一 無二」と「無念」について説いた。第二に、「一行三昧」に関して東山法 門とは異なる新しい解釈を行った。また、第三に、浄土の思想に関しては、 慧能は唯心浄土を以て西方浄土を対治することを強調した。 ( 1 )不二の観念は、慧能の禅学における非常に重要な思想的ベースで ある。『壇経』の中では、様々な不二思想の説き方がある。例えば、「定慧 体一不二」、「頓漸不二」(「法無頓漸」)、煩悩智慧不二(「即煩悩是菩提」) といった不二の観念は、ほとんど『維摩経』に由来するものである。この 点について、慧能に関する初期の文献の中にその手掛かりが示されている。 例えば、王維による『六祖能禅師碑銘』は、『維摩経』の思想を多く援引 して六祖を称賛した。『碑銘』の冒頭で宗旨を開き明かす内容は、『維摩経』 の「入不二法門品」や「菩薩品」における「法は本より生ぜず<法本不生 >」、「無漏を観じて諸漏を断たず<觀於無漏而不斷諸漏>」及び「挙足下 足、当に皆みな道場従より来たりと知るべし<擧足下足、當知皆從道場來>」 といった観念を使って、慧能の境界を説き明かした49。しかも、これらの 説はみな『維摩経』に基づくものである。『祖堂集』巻第二の「慧能伝」 に記載される唐の高宗の勅書は、慧能を維摩詰に喩えており、慧能の禅思 想を説く際にも、「不二之法」を説き明かしている。「師、浄名の托疾のご とし、金粟をもって大教を闡し弘む。諸の仏心を伝へ、不二の法を談ず。 毗耶の口を杜とざさしめ、声聞は呵しかられ、菩薩は辞退す。師はかくの如し<師 若凈名托疾、金粟闡弘大教、傳諸佛心、談不二之法、杜口毗耶、聲聞被呵、 菩薩辭退、師若如此>」50と記されている。また、『曹渓大師別伝』(781年) のような慧能に関する早い時期の資料の中にも、似たような考え方が見え る。この伝記の中で、慧能から中使の薛簡への回答が記され、明暗二法の 関係について『維摩経』の思想を使って闡明している。「道には明・暗無し、
明・暗は是れ代謝の義なり。明明無尽なれども、亦た是れ有尽なり、相待っ て名を立つ。『浄名経』に云はく、法には比べ有ること無し、相待つこと 無きが故なりと<道無明暗、明暗是代謝之義。明明無盡、亦是有盡、相待 立名。《凈名經》云。法無有比、無相待故>」51と説いたのであった。 ( 2 )南宗の門流における「一行三昧」に対する解釈は、新たな地平を 開いたと言えよう。慧能の「一行三昧」についての開示は、自家の宗義に 準じて道信の観念に対して「造り直し」を行った。それと同時に、北宗禅 の「一行三昧」の思想に対して批判を行った。慧能における「一行三昧」 は完全に『維摩経』に基づいて展開し、道信や神秀の法流との明かな違い を示している。東山法門では「一行三昧」を説く際に、三昧と坐禅との関 係を強調した。それに対して、慧能はそのような執着を打ち破ることを目 指した。敦煌本の『壇経』には「一行三昧」について長い解説があり、北 宗の門下に対する明確な批判を示している。その依拠となる経典は『維摩 経』である。ここではその批判の文章を引用してみよう。「『浄名経』に云 はく、直心は是れ道場なり、直心は是れ浄土なり。心に諂曲を行じ、口に 法の直を説くことなかれ。口に一行三昧を説き、直心を行ぜざるは、佛弟 子に非ず。但だ直心を行じるのみ、一切の法の上に於いて、執着有ること なかれ、名づけて一行三昧という。迷人は法の相に著し、一行三昧に執しゅうし て、直ただ坐して動かず、妄を除きて心を起こさず、即ち是れ一行三昧なり と言うのみ。若し是くの如くならば、此の法は無情に同じくす、却って是 れ道を障る因縁なり。道は須く通流すべし、何ぞ却って滞るや? 心は法 に住せざれば、道は即ち通流す。住せば即ち縛らる。若し坐して動かざる は是なれば、維摩詰はまさに舎利弗の林中に宴坐するを呵るべからず。善 知識よ! 又た人有りて人に坐するを教ふるを見て、心を看て静を看て、 動かず起こらず、此従り功を置く。迷人は悟らず、便ち執らわれて顚と成 す。即ち数百般の此くの如くに教道する者有り、故に大いに錯ることを知 る<《淨名經》云。直心是道場、直心是淨土。莫心行諂曲、口說法直、口 說一行三昧、不行直心、非佛弟子。但行直心、於一切法上、勿有執著、名
一行三昧。迷人著法相、執一行三昧、直言坐不動、除妄不起心、即是一行 三昧。若如是、此法同無情、却是障道因緣。道須通流、何以却滯? 心不 住法、道即通流、住即被縛。若坐不動是、維摩詰不合訶舍利弗宴坐林中。 善知識! 又見有人教人坐、看心看靜、不動不起、從此置功。迷人不悟、 便執成顛。即有數百般如此教道者、故知大錯>。」52 ここから、慧能が『維摩経』に基づいて説き明かした三昧は、その重点 は既に境相上の一相不二にはなく、行門上の動静不二にあったことが窺え る。そこは、『文殊説般若経』及び道信以来の、念仏または実相を静かに 観じるという禅法とは、明らかに流れを異にすることが窺える。 ( 3 )慧能の禅法は「無念を立てて宗と為す」ものである。慧能は無念 の思想に論及するに当たり、『維摩経』を援引して経証とした。最も有名 なのは、敦煌本の『壇経』における「自性より念を起こし、即ち見聞覚知 すると雖も、万境に染まずして、常に自在なり。『維摩経』に云はく、外 には能く諸の法相を分別し、内には第一義において動かずと。<自性起念、 雖即見聞覺知、不染萬境、而常自在。《維摩經》云。外能善分別諸法相、 內於第一義而不動>」という文句である。此の義に関しては、後に成立す る『壇経』の諸本では、文章の意味は類似するが、その思想が『維摩経』 に関係することが明確な形では示されていない。例えば、「大乗寺本」では、 「見聞覚知と雖も、萬境に染まず、真性にして常に自在なり。外には能く 諸の色相を分別し、内には第一義に於いて動かず。<雖見聞覺知、不染萬 境、眞性而常自在。外能分別諸色相、內於第一義而不動>」と記されてい る。「興聖寺本」に引かれる内容は「大乗寺本」とほぼ同じである。「徳異 本」と「宗宝本」に至っては、引かれる内容は明らかに『維摩経』の経文 であるが、その経文の出所を明記しなくなる53。この点は、中国の禅宗が、 通経から語録へのシフトを経て、禅宗の祖師伝統が既に形成され、経典へ の依存が大いに低減したことを反映しているかもしれない。九世紀以降、 中国の禅はもう経典を解釈する必要がなくなり、祖師の「語録」そのもの が自らの市民権を確立したのであった。
慧能の無念に関する思想には「不二」の観念が暗に含まれている。保唐 無住が『維摩経』によって無念を説くのと照合すると、無住は、見聞覚知 を離れてこそ、無念の境地を成就できるのだと考え、北宗の離念を主張す る法流に近い。それに対し、慧能は見聞覚知のその場で「無染」なるを以 て無念を成就するのだと主張する。慧能の主張は「不二にして異なる<不 二而異>」に傾き、同じく『維摩経』から出ていることが窺えよう。慧能 と保唐の両系統は、経文の出所からしても、思想的傾向からしても、大き な違いを見せた。同じように、この不二無念の思想は、慧能の禅定に関す る論述にも直接的な影響を与えた。禅定に関して、慧能の『維摩経』の思 想に対する新解釈も、見聞を離れないで、経の説くように「実時豁然」た ること、つまり、即今の心地の活動において染着しないようになるという ものであった。敦煌本の『壇経』では次のように解釈している。「何をか 坐禅と名づくるや? 此の法門の中に、一切は無礙なり、外には一切の境 界に於いて念の起こらざるを坐と為し、本性を見て乱れざるを禅と為す。 何をか禅定と名づくるや? 外に相を離るるを禅と曰ひ、内に乱れざるを 定と曰ふなり。外に若し相を離るれば、内性は乱れず。本性は自ら浄らか なるを定と曰ひ、只だ境に触るるに縁りて、触るれば即ち乱る。相を離れ て乱れざるは即ち定なり。外に相を離るるは即ち禅なり、内に乱れざるは 即ち定なり。外は禅にして内は定なるが故に名づけて禅定といふ。『維摩経』 に云はく、実時に豁然たれば、還って本心を得と<何名坐禪? 此法門中、 一切無礙、外於一切境界上念不起爲坐、見本性不亂爲禪。何名爲禪定? 外離相曰禪、內不亂曰定。外若離相、內性不亂。本性自淨曰定、只緣境觸、 觸即亂、離相不亂即定。外離相即禪、內不亂即定、外禪內定、故名禪定。《維 摩經》云。実時豁然、還得本心>」54と解釈している。 中古の中国仏教史で浄土宗も一時流行していた。それに、禅宗、特に北 宗とは交渉があった55。浄土教の他力観念は、禅宗の一切を自心に還元す る思想とはっきりとした違いがある。従って、浄土教の観念に直面する際 に、初期の禅宗は西方浄土説に関して多少のリスポンスを示した。現存の
材料から見れば、道信は唯心浄土の立場から西方浄土説を明確に批判した。 その思想の源泉は正しく『維摩経』から出ている。『楞伽師資記』の道信 章の記載によると、道信は西方浄土説に対してこのように批判を行った。 「若し心は本来不生不滅にして、究竟じて清浄なりと知らば、即ち是れ浄 仏国土なり、更に西方に向かふことを須いず<若知心本來不生不滅、究竟 清淨、即是淨佛國土、更不須向西方>」と説いた。それに続いて、道信は 『維摩経』「問疾品」における菩薩が「愛見に縛られず」という思想を依拠 として、生死に対する恐怖から衆生は西方浄土を信仰するのだと指摘する。 それに対して、「深行の菩薩は生死に入りて、衆生を化度して、而も愛見 無し<深行菩薩入生死、化度衆生、而無愛見>」と記して、このような怖 れることなしに生死に出入する精神こそが、大乗菩薩の行道だと主張す る56。慧能は東山法門の西方浄土説への批判を継承しながらも、もっと明 確な形で『維摩経』を引用して、西方浄土について改めて解釈を施した。 慧能の示した西方の境界は、完全に内在化した「自性西方」である。慧能 は『維摩経』の心浄国土浄の観念に基づいて自性浄土の思想を打ち出した。 敦煌本の『壇経』は西方浄土の観念に論究する際に、「迷人は念仏して彼 に生まれ、悟る者は自ら其の心を浄む。所以に仏は言ふ、其の心の浄きに 随って仏土も浄しと。<迷人念佛生彼、悟者自凈其心。所以佛言。隨其心 凈佛土凈>」と説いた。後の大乗寺本から宗宝本に至るまで、みな同じ説 き方を踏襲している。その中の異なる所と言えば、『壇経』の諸本の中で、 大乗寺本のみが、心浄国土説を踏まえて、「但だ心清浄なれば、即ち是れ 自性西方なり<但心清淨、即是自性西方>」57と端的に総括しているとい う点である。このような形で、唯心浄土の立場をいっそう明確な形にした と言えよう。 曹渓の門流で、『維摩経』に基づいて禅を深く究める風潮は流行していた。 『維摩経』は曹渓門下で最も流布した経典にはならなかったが、その思想 面に対して与えた影響は脈々と続いていた。荷沢系の説法をめぐって簡略 的に説明しよう。
神会は通経を重んじ、知解を追求した。ただし、神会の経典に対する会 通は、あくまでも心法に準じるという禅師の原則に従って展開している。 『南陽和尚頓教解脱禅門直了性壇語』の中で、「若し師の處に於いて禅法を 受け得て、学ぶ所は各自平章し、唯だ其の心を通ずるのみ。若し心を通ず るを得れば、一切の経義、通ぜざる者無し<若於師處受得禪法、所學各自 平章、唯通其心。若心得通、一切經義無不通者>」58とはっきりと説いた。 依って、神会の経典に対する展開と解釈も、しばしば随意に読み替えを行っ ている。例えば、経の中の「不二法門」に関しては、『維摩経』の中では元々 「一切法に於いて言わず説かず、示さず識らずして、諸の問答を離るる、 是れ不二の法門に入る為なり<於一切法無言無說、無示無識、離諸問答、是 爲入不二法門>」とあり、即ち言葉で伝えられない寂黙の法流を指す59。 しかし、神会は定慧不二で禅の解明を行った。『南陽和尚頓教解脱禅門直 了性壇語』には、「『経』に云わく、道法を捨てずして凡夫の事を現じ、種々 の運為世間、事に於いて念を生ぜざるは、是れ定慧の双修なり、相い去り 離れず」、「慧に即する時は即ち是れ定なり、定に即する時は即ち是れ慧な り。慧に即する時は慧有ること無し、定に即する時は定有ること無し。此 れは即ち定慧の双修なり、相い去って離れざるなり。後の二句は、是れ維 摩詰の黙然して直に不二の法門に入るなり<《經》云。不捨道法而現凡夫 事、種種運爲世間、不於事上生念、是定慧雙修、不相去離>、<即慧之時 即是定、即定之時即是慧。即慧之時無有慧、即定之時無有定。此即定慧雙 修、不相去離。後二句者、是維摩詰默然直入不二法門>」と記される60。 経典の判釈においては、神会は般若を禅宗の頓法の依拠とすることを主 張し、「若し般若波羅蜜を学ぶならば、須く広く大乗の経典を読むべし」 と提起した。神会は特に『金剛経』からの禅に対する決定的な意義を強調 し、「『金剛般若波羅蜜』は最も尊く最も勝れ最も第一なり、一切の諸佛は その中従り出ず<《金剛般若波羅蜜》最尊最勝最第一、一切諸佛從中出 >」61と明確に指摘した。しかしながら、神会は実際に禅法を論じる際には、 同様にしばしば『維摩経』を引用してその裏付けにした。神会の『維摩経』
に対する扱いと解釈は多方面に亘った。以下、三つの面から簡略的に検討 していく。 ( 1 )声聞に対する批判。『維摩経』は本より「菩薩を以て教主と為す」 のであって、「小道に非ざるを簡ぶ<簡非小道>」経典であり、小を弾じ て大を嘆ずという思想的傾向を有する62。神会の『維摩経』に対する応用も、 声聞の禅に対する批判に重きを置き、それによって大乗禅と小乗禅との法 義上での違いを分別する。神会は『壇語』の中で、『維摩経』「佛道品」の 「天女、舎利弗に語って云はく、凡夫は仏法に於いて返覆有り、而るに声 聞は無し<天女語舍利弗云。凡夫於佛法有返覆、而聲聞無>」との説を引 いて、声聞の禅定に対して以下のように批判した。「当に二乗は定に在る 時に、縦ひ為めに無上菩提の法を説くとも、終に領受するを肯んぜず<當 二乘在定時、縱為說無上菩提法、終不肯領受>」63。此れに関して、神会 は幾多の面から説明を展開した。例えば、神会は大乗禅の「不作意」を議 論する際に、小乗声聞の禅が「空を修して空に住す」、「定を修して定に住 す」もので繋縛に偏ることを批判した。それに、神会は、『維摩経』「問疾 品」における菩薩の調伏心行で闡明を加えた。「『維摩経』に云はく、其の 心を調伏するは、是れ声聞の法なり。心を調伏せざるは、是れ愚人の法な り。人あ な た者は既に心を用いれば、是れ調伏の法なり。若し調伏の法ならば、 何ぞ解脱者と名づけんや?<《維摩經》云。調伏其心者、是聲聞法。不調 伏心者、是愚人法。人者既用心、是調伏法。若調伏法、何名解脫者? >」64。また、神会は、禅法の動寂・定慧といった面において区別し、声 聞の禅は動静を円満し、定慧を会通することができないと貶めた。宗密の 『円覚経大疏釈義鈔』巻三之下に記される神秀の禅法は正しくこの通りで ある。─「第三に不思議解脱を顕す。『維摩経』による。心を瞥起せば 是れ縛なり、心起こらざるは是れ解なりと謂ふ。二乗の人、喧を厭ひ寂に 住して、禅味を貪著するは、是れ菩薩の縛なり。沈まず寂ならず、方便を 以て生ずるは、是れ菩薩の解なり。二乗の人、定に在りて即ち説法するこ と能わず、定より出でれば則ち生滅の法を説く。定水の心を潤すこと無し、
名づけて乾慧というなり。但だ不動の中に住して説法するのみ。不動は是 れ方便なり、説法は是れ慧なり。二乗の人は説法を聞きて動かざるを方便 と為し、便ち不動の中に住して、自在の知見無し。定に在りても亦た説法 すること能わず。菩薩は定の中に自在の知見有り、即ち縛られず、定を得 て慧を得て、無相無作の法の中に於いて自らを以て調伏す。名づけて慧と いう<第三顯不思議解脫、依《維摩經》。謂瞥起心是縛、不起心是解。二 乘人厭喧住寂、貪著禪味、是菩薩縛。不沈不寂、以方便生、是菩薩解。二 乘人在定即不能說法、出定則說生滅法。爲無定水潤心、名爲乾慧、但住不 動中說法。不動是方便、說法是慧。二乘人聞說法不動爲方便、便住不動中、 無自在知見、在定亦不能說法。菩薩定中有慧自在知見、即不被縛、得定得 慧、於無相無作法中以自調伏、名之爲慧>」65。 ( 2 )北宗に対する批判。神会の禅思想は南宗の宗旨を確立することに 傾く。そのために、神会は努めて南宗と声聞や北宗などの他法系との違い を弁別しようとした。従って、神会の思想は強い批判的な色合いを帯びる。 経典も神会にとって、他法系を批判するための鋭い武器となる。神会は『維 摩経』によって小乗の声聞禅を排斥したのみならず、広く『維摩経』を援 引して北宗の「看心看浄」の観心法門をも批判した。例えば、『菩提達摩 南宗定是非論』の中で、神会は、神秀の「心を凝らして定に入り、心を住 めて浄を看る」という禅は「愚人の法」であると批判した。それに、神会 は『維摩経』の「宴坐」に関する論述を引用して「心は内に住せず、亦た 外にも非ずして、是れは宴坐為なり。かくの如き坐は、仏即ち印可す。上の 六代従り来たりて、皆、一人として心を凝らして定に入り、心を住めて浄 を看、心を起こして外に照らし、心を摂めて内に証すこと有ることは無し <心不住內、亦不在外、是爲宴坐。如此坐者、佛即印可。從上六代以來、 皆無有一人凝心入定、住心看凈、起心外照、攝心內證>」66。神会は、「宴 坐」こそが諸見を離れずして、「滅定を起こさず」して直入する不二の法 門であり、大乗道の法であると主張した。従って、神会から見れば、北宗 禅が染を離れて浄を取るのは声聞禅に落ちたのである。神会は正しくこの
点から、北宗を「只だ道を学ぶが如し、妄を抜き浄を取るは、是れ垢の浄 むるなり、本より浄らかには非ず<只如學道、拔妄取凈、是垢凈、非本自 凈>」というように批判して、それに、『維摩詰』「問疾品」における「垢 れた行に非ず、浄らかな行に非ざるは、是れ菩薩の行なり<非垢行、非凈 行、是菩薩行>」を引いて説明を加えた67。本来、この一段の経文は声聞 禅を批判するのであったが、神会はここに引いて北宗禅に対して批判を 行った。北宗禅の説く内容が実質的にはなお「正位に入らず」、小乗の類 いの禅に属するということを明らかに述べようとした。そのためには、神 会は「莫作意」を以て北宗一門の観心方法を取り替えようと主張した。し かもここで引証する経典は正しく『維摩経』であった。「莫作意とは、即 ち自性の菩提なり、若し微細の心ならば、即ち不著を用ふ。本体は空寂な り、得べき一物有ること無し、……『維摩経』に云はく、無住の本より、 一切の法を立つ<莫作意、即自性菩提、若微細心、即用不著。本體空寂、 無有一物可得、……《維摩經》云。從無住本、立一切法>」と引用し た68。 ( 3 )「無念」に関する主張。保唐無住における無念は、北宗の見聞覚知 を離れて心を看て浄を看るという流れに近い。それに対し、神会は慧能禅 の見聞を離れずして染まずという無念の思想を継承し、「無念とは、見聞 覚知有りと雖も、而して常に空寂なり<無念者、雖有見聞覺知而常空寂>」 と主張した。論述においても、神会は独自の特色を有する。神会における 「無念」についての説明は、一方では『大乗起信論』に依って「無とは二 法有ること無し、念とは唯だ真如を念ずるのみ<無者無有二法、念者唯念 真如>」と論じた。この理解によれば、無念はつまり正念であり、真如あ るいは自性に対する悟りである。従って、「無念を看るとは、自性を了す るを謂ふ。自性を了すとは、無所得を謂ふなり。其の無所得を以て、即ち 如来禅なり。維摩詰は言ふ、如し自ら身の実相を観ぜば、仏を観じても亦 た然り。我、如来を観ずるに、前際に来たらず、後際に去らず、今既に無 住なり、無住を以ての故に、即ち如来禅なり、と<見無念者、謂了自性。
了自性者、謂無所得。以其無所得、即如來禪。維摩詰言。如自觀身實相、 觀佛亦然。我觀如來、前際不來、后際不去、今既無住、以無住故、即如來 禪>」というのである。これは真正面からの無念についての解説である。 一方では、神会は『維摩経』における「第一義空」の空性観を援引しなが ら、中観に合わせて解き、こうして無念という義も同時に空性の意義を持 つようになる。神会は繰り返し『維摩経』の経文を引用して、自身の無念 に関する深義を解説した。例えば、神会は、「有無双ふたつながら遣すて、中道 も亦た亡ぶは、即ち是れ無念なり。……維摩詰言ふ。自ら身の実相を観ず るが如く、仏を観ずるも亦た然り。我、如来を観ずるに、前際に来たらず、 後際に去らず、今既に無住なり、無住を以ての故に、即ち如来禅なり。如 来禅は、即ち是れ第一義空なりと<有無雙遣中道亦亡者、即是無念。…… 維摩詰言。如自觀身實相、觀佛亦然。我觀如來、前際不來、後際不去、今 既無住、以無住故、即如來禪。如來禪者、即是第一義空>」69と説いた。 荷沢系が『維摩経』を経典の依拠にする風潮は宗密に至っても絶えるこ とがなかった。宗密が重視したのは『円覚経』・『大乗起信論』ではあるが、 禅法と禅の歴史について論じる際には、しばしば『維摩経』を援引して論 述を加えていた。しかし、宗密の南北宗についての論述は、神会が両者を 峻別しようとしたのとは異なり、会通と融合を計ろうとするものであった。 宗密は『禅源諸詮集都序』巻上で、自身の旨とするのは、禅経頓漸の二つ の流れを調和することであり、それに身の丈を知らずにも他の縛を解こう と努めると述べている。宗密は、「今の講者は偏に漸義を彰し、禅者は偏 に頓宗を播く。禅と講と逢わば、胡と越との隔たるあり。宗密は、宿生に 何をか作して此の心を薫得せしことを知らず。自ら未だ解脱せざるも、他 の縛を解せんと欲す。法の為に軀命を忘じ、人を愍みて神情に切なり<今 講者偏彰漸義、禪者偏播頓宗、禪講相逢、胡越之隔。宗密不知宿生何作熏 得此心、自未解脫、欲解他縛、爲法忘於軀命、愍人切於神情>」と述べ、 それに続いて『維摩経』を引いて説明を行った。「亦た浄名に云へるが如し。 若し自ら縛有りて、能く他の縛を解かんこと、是の処有ること無し。然る
に罷めんと欲するも能く験しるさず、是れは宿世なり、改め難し<亦如凈名云。 若自有縛能解他縛、無有是處。然欲罷不能驗、是宿世難改>」と述べている。 宗密は禅宗史についての理解も多くは『維摩経』を拠り所にしたもので ある。例えば、宗密は頓・漸・解・行を会通する際に、「其の中に頓と漸 とは相ひ間へだて、理と行とは相ひ参まじわり、遞たがひに相ひ縛ばくを解けば、自然に心は 住する所無し(浄名に云はく、禅味を貪著するは是れ菩薩の縛なり、方便 を以て生ずるは是れ菩薩の解なりと。)悟修の道は既に備われば、解行は 是 ここ に於いて圓通す。次に傍らに諸家を覧て、以て聞見を広む。<其中頓漸 相間、理行相參、遞相解縛、自然心無所住(凈名云。貪著禪味是菩薩縛、 以方便生是菩薩解。)悟修之道既備、解行於是圓通、次傍覽諸家、以廣聞 見>」と述べている。また、『維摩経』を拠り所にして「宴坐」の義を論 じた。「心は境界に随って流れ、云何名づけて定と為す? 浄名に云わく、 滅定を起こさずして諸の威儀(行住坐臥)を現し、三界に於いて身意を現 さず、是れを宴坐と為す、仏の印す所の身なり、と。<心隨境界流、云何 名爲定? 凈名云。不起滅定現諸威儀(行住坐臥)、不於三界現身意、是 爲宴坐、佛所印身>」。教相に対する判釈において、宗密は同じく『維摩経』 の説き方を応用した。『禅源諸詮集都序』巻二は教判について論じているが。 宗密は唯識破境教と北宗禅の息妄修心宗との類似性を明かし、北宗の観心 の法門を努めて弁護するために、『維摩経』における「必ずしも坐せず、 必ずしも坐せざるもせず、坐と不坐とは機宜に任せ逐う<不必坐不必不坐、 坐與不坐任逐機宜>」という説を引いて、北宗の「妄を息やめて浄を看て、 時時に払拭し、心を凝らして心を住め、一境に専ら注ぐこと、及び跏趺、 調身、調息等<息妄看凈、時時拂拭、凝心住心、專注一境及跏趺、調身、 調息等>」は、すべて「種々の方便」であり、「仏の勧め讃える所」である、 と弁護した70。 以上、論じて来たように、東山法門以下、中古の禅宗は分かれて教化を 弘め、「方便通経」しながらも各々に論説を行ない、各自の展開があった ことが分かった。そこから、初期禅は、経典に対する解読と応用が一つの
型に拘らないことが窺えるであろう。 【注】 1 宗密『禅源諸詮集都序』、『大正蔵』四八、四〇二中、四〇五上。 2 延寿『宗鏡録』巻二、『大正蔵』四八、四二七上。 3 胡適、『楞伽宗考』、『胡適学術文集─中国仏学史』、北京、中華書局、1997年、 129頁。 4 延寿『宗鏡録』巻二、『大正蔵』四八、四二七上。 5 「維摩五更転」、詳しくは田中良昭・篠原寿雄編『敦煌仏典と禅』、大東出版社、 昭和55年、268,269頁。 6 柳田聖山『禅の語錄 1 達摩の語錄─二入四行論』、筑摩書房、昭和44年、45頁。 7 前掲『禅の語錄 1 達摩の語錄─二入四行論』40,43頁参照。また、『維摩経』 「菩薩品」の弥勒章の中に、弥勒が「一切の衆生は皆な如なり、一切の法も 亦た如なり、衆の聖賢も亦た如なり<一切衆生皆如也、一切法亦如也、衆 聖賢亦如也>」と説いたように、「如とは二にあらずして異にもあらず」と いう観念は、「理入」観の思想的源泉である可能性が高い。引文は『大正蔵』 一四、五四二、五四六上。 8 印順『中国禅宗史─従印度禅到中華禅』、南昌、江西人民出版社、1990年、11頁。 9 杜朏の『伝法法記』には、「今人間或有文字稱達摩論者、蓋是當時學人隨自 得語、以爲眞論、書而寶之、亦多謬也」とある。柳田聖山『初期の禅史Ⅰ ─楞伽師資記・伝法宝紀』、筑摩書房、昭和54年、337頁。 10 関口真大『達摩の研究』、東京、岩波書店、昭和42年、311頁。 11 この論は中国人僧が禅宗初祖の菩提達摩に仮託して撰述した典籍で、著者 は不明である。一巻。学界では、この論を達摩の名を借りた偽撰であると する意見が多いが、基本的には初期の禅宗、特に達摩から東山法門にかけ ての時代の禅思想を反映していると思われる。田中良昭は、この論は『維 摩経』を一番多く引用していることを指摘した。氏はP2039本の『天竺国菩 提達摩禅師論』を例にして、このテキストにおける『維摩経』からの引証は、 『法華経』・『華厳経』・『観無量寿経』といった経典からの引用より多いこと を提起した。初期禅の観心禅法に関する観念において、『維摩経』の影響は 相当深いことが断定できよう。田中良昭『敦煌禅宗文献の研究』、東京、大 東出版社、昭和58年、195,201,202頁。 12 『維摩経』「仏国品」の経文と対照す。『大正蔵』一四、五三七上。
13 拙論が引用する『天竺国菩提達摩禅師論』は、すべて方広錩整理本による。 『蔵外仏教文献』第一輯、北京、宗教文化出版社、1995年、33-34頁。 14 前掲『敦煌禅宗文献の研究』、265頁。 15 前掲『敦煌禅宗文献の研究』、274頁を参照。 16 『伝法法記』、前掲『初期の禅史Ⅰ─楞伽師資記・伝法宝紀』、386頁。 17 前掲『初期の禅史Ⅰ─楞伽師資記・伝法宝紀』、186,192頁。 18 前掲『初期の禅史Ⅰ─楞伽師資記・伝法宝紀』、213頁。 19 『大正蔵』一四、五四五中。 20 前掲『初期の禅史Ⅰ─楞伽師資記・伝法宝紀』、225頁。 21 前掲『初期の禅史Ⅰ─楞伽師資記・伝法宝紀』、241頁。ここに関して、『維 摩経』「菩薩品」の原文は、「伏心是道場,正觀諸法故」である。『大正蔵』 一四、五四二下。 22 前掲『初期の禅史Ⅰ─楞伽師資記・伝法宝紀』、255頁。『維摩経』「弟子品」 の原文においては、「即時豁然、還得本心」で維摩詰が三昧の境地に入った ことを表現している。 23 弘忍『修心要論』、ジョン・R・マクレー整理本、JohnR.Mcre,The Northern School and the Formation of Early Ch'an Buddhism,Honolulu:University ofHawaiiPress,1986.付録 9 頁。 24 『修心要論』、前揭ジョン・マクレー整理本、付録 2 , 4 ,14頁。 25 『維摩経』「菩薩品」に、「若以如生得受記者、如無有生。若以如滅得受記者, 如無有滅。一切衆生皆如也、一切法亦如也、衆聖賢亦如也」とある。『大正蔵』 一四、五四二上。 26 杜朏『伝法宝記』序、前揭『初期の禅史Ⅰ─楞伽師資記・伝法宝紀』、331頁。 27 前掲『敦煌禅宗文献の研究』、251頁。 28 前掲『初期の禅史Ⅰ─楞伽師資記・伝法宝紀』、312頁。 29 前掲『初期の禅史Ⅰ─楞伽師資記・伝法宝紀』、313頁。 30 『大乘五方便』、藍吉富主編、『禅宗全書』「語録部一」(36)、北京、北京図 書館出版社、2004年、191,192頁。 31 前掲『禅宗全書』「語録部一」(36)、218頁。 32 前掲『禅宗全書』「語録部一」(36)、220,221頁 33 王維『大唐大安国寺故大徳浄覚禅師塔銘』、『全唐文』巻三百二十七、上海 古籍出版社、1990年版。 34 浄覚『注般若波羅蜜多心経』。此の文章は、柳田聖山の『初期禅宗史書の研
究─中国初期禅宗史料の成立に関する一考察』(禅文化研究所、昭和41年) 資料七の中に収録されている。598,603,604,606頁を参照されたい。 35 前掲『初期の禅史Ⅰ─楞伽師資記・伝法宝紀』、67頁。 36 『真宗論』・『要訣』と北宗との関係は、最初に柳田聖山によって発見された。 それぞれは柳田による「北宗禅の資料」(『印度学仏教学研究』19- 2 、 1971年 3 月)と「北宗禅の思想」(『禅文化研究所紀要』 6 、1974年 5 月) において論じられている。やや遅れて、田中良昭も緻密な論究を行った。 詳細については田中良昭『敦煌禅宗文献の研究』とその編著『敦煌仏典と禅』 の関連部分を参照されたい。柳田と田中の両氏とも、この二つの文献は曾 て南宗の文献だと誤認されてきたが、実は北宗の思想を反映する作品であ ることを提起した。神会からの批判を受けた後に、北宗が行ったリスポン スの反映である。その思想により、北宗の伝統は本より頓悟を主張するも のであることが知られる。 37 前掲『敦煌禅宗文献の研究』、243,251頁。 38 『大正蔵』八五、一二七八中。 39 柳田聖山『初期の禅史Ⅱ─歴代法宝記』、筑摩書房、昭和51年、142頁。 40 宗密『禅源諸詮集都序』巻第二、『大正蔵』四八、四〇二中。 41 『歴代法宝記』に以下のように記載されている。無住は『維摩経』を引いて 説いた、「以直心爲道場、以發行爲道場、以深心爲道場、以無染爲道場、以 不取爲道場」と。また禅定の「宴坐」を解釈する際に、南宗禅・北宗禅と 同じように、ただ心法の説明のみに重きを置いている。「『維摩経』に云はく、 心不住內、亦不住外、是爲宴坐。若能如此者、佛即印可」。前掲『初期の禅 史Ⅱ─歴代法宝記』、164頁。 42 前掲『初期の禅史Ⅱ─歴代法宝記』、259頁。 43 前掲『初期の禅史Ⅱ─歴代法宝記』、200頁。前の二句は『維摩経』「菩薩品」 から出ている。経の原文は「不行是菩提,無憶念故」である。「常求無念実 相智慧」は「菩薩行品」における「不盡有為」を論じる一段から引いたも のである。経の原文は、「以大精進、摧伏魔軍、常求無念實相智慧行」。そ れぞれ、『大正蔵』一四、五四二上と五五四中。 44 前掲『初期の禅史Ⅱ─歴代法宝記』、258,259頁。 45 『維摩経』巻上「弟子品」、『大正蔵』一四、五二三上。 46 『大正蔵』一四、四五一中。 47 前掲『初期の禅史Ⅱ─歴代法宝記』、290頁。