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アートと自然のエコノミー : 未知と合目的性に関する予備的検討

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アートと自然のエコノミー

−未知と合目的性に関する予備的検討−

長 田 陽 一

研究紀要 第45号 抜刷

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アートと自然のエコノミー

−未知と合目的性に関する予備的検討−

長 田 陽 一

1.形式の合目的性としての美 美しさの観念は、古代ギリシャの時代から─たとえばプラトンは真・善・ 美が一体となったイデア界の臨在パルーシアあるいは分有を個々の美しさの存在論的根拠 とみなしていたように─美的感覚についてだけでなくモラル的に優れた行為 についても用いられていた。近代にいたって、美学的パラダイムの目標は、不 変不滅の美のイデアから、美を感受したり産出したりする人間の主観的な美的 経験の探求へと移行する。しかし、美の位置づけがイデア界から人間の側へ変 化したとしても、いずれにしろ美しいものは相変わらず時空を超えた純粋さや 完全性を開示し、それを私たちの感性へと送り届けてくれるように感じられる のである。 美の概念的把握の困難さは、それが知性や感性と関わりつつもいずれか一方 へ単純に還元されることがないためであろう。また、美的な感覚はある種の直 観的把握によってもたらされると容易に考えられるからであろう。美しさにつ いて論じようとすることは、無粋で美的感覚を欠いた「笑うべきこと」なのか もしれない。しかし、ここで検討してみたいのは、美しさ(あるいは美の主観 的経験)を把握しようとする際の困難な条件のリストについてではなく、その 困難さを可能にするような条件についてである。いい方をかえるなら、なぜ美 を論じ理解しようとすることが二次的なものにとどまるのか―そして自然や 天賦の才に恵まれた芸術家は境界を踏み越えて美の理想を実現するのか―と いう問いそのもの ...... が、言を俟たぬこととして色あせ失効してしまう、その場所

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についてである。おそらくそこでは言語ロ ゴ スの限界が境界づけられるだけでなく、 論理 ロ ゴ ス がその限界を欲望しているのである。 イマヌエル・カントは、『判断力批判』(1790)において美の普遍的絶対性と 主観的相対性の調停を試みている。この著作は、カントがそれ以前に公刊した 『純粋理性批判』と『実践理性批判』という二つの批判のあいだの埋めがたい 裂け目―感性的なものと超感性的なものの対立、主観と客観の対立、自然と 精神の対立等―を乗り越えようとしているのだが、このとき美しいものに関 する判断が、これら対立項の接合点として、きわめて重要な意義を与えられる。 なぜなら美的な判断とは、感覚と理想、個別と普遍を、さらには(カントが明 確に述べているわけではないが)人間と神的なものをつなぐ超越論的批判とな りうるからである(しかしこうして『判断力批判』という書物は、類を見ない 奥深さと同時に、抑えがたい矛盾を抱え込むことになる)。 カントは、美についての判断を「趣味判断(Geschmacksurteil)」と呼ぶ。 あるものを美しいと判断する場合、そこには客観的な法則は存在しない。美に ついては個々の表象についてなされる判断(「単称的判断」)であるため、「そ の規定根拠が主観的でしか ...... あることができないような判断」なのである。 あるものが美しいか美しくないかを区別するためには、われわれは〔そのものの〕表 象を、悟性によって認識のために客観へと関係づけるのではなく、構想力(おそらく 悟性と結びついた)によって主観と主観の快または不快の感情へと関係づける。趣味 判断は、それゆえ、なんら認識判断ではなく、したがって論理的ではなくて、美的 (情感的ästhetisch)であるが、ここで美的判断ということで理解されているのは、そ の規定根拠が主観的でしか......あることができないような判断である。[Ku.B.39/85-86] (太字による強調は引用者。以下同様。) ただたんに、あるもの(たとえば「カナリア産のシャンパン」)が気に入る というとき、それは「私にとって.....快適である」ということであり、したがって 快適さ(快、適意Wohlgefallen)に関しては「各人は自分自身の趣味..........〔味覚..〕

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を持つ...」ということができる(「あるひとにとっては、すみれ色は穏やかで好 ましいが、別の人にとっては生気なく死んでいる。あるひとは管弦楽の音を好 むが、別の人は弦楽器の音を好む」[Ku.B.49/107])。けれども、美しいものが 快適さをもたらすとしても、もちろん快適なものすべてが美しいわけではない ―すぐに立ち戻るつもりであるが、カントにとって、「すみれ色」や「管弦 楽の音」等は純粋な...趣味判断の対象とはならない。 美しいものについては、快適なものに関する個別的な趣味と、つぎの点で事 情はまったく異なってくる。美に関わる趣味判断とは、主観的であるというだ けではなく、一種の共通感覚として与えられる。美的な判断を行なうとき...........、人. は.「たんに自分に対してだけ判断している.................」のではなく.....、「あらゆる人に対し........ て判断している.......」のである....。したがって、もしあるものが「私にとって美しい」 というなら、「笑うべきこと」となるだろう[Ku.B.50/107]。ある人が何かを美 しいと判断するなら、「かれは快〔適意〕についての彼の判断に他の人びとが 一致する」ことを、けっして経験上の理由から期待するのでなく、ア・プリオ リに「要求する....」[Ku.B.50/108]ことができるのである。「このバラは美しい」 という判断は、主観的であると同時に普遍的である。このように美的な趣味判 断においては、快を生じさせる美しさはつねに個別的であるが、同時に主観的 な「客観的 ... 普遍的妥当性」[Ku.B.52/112]をもつ特異な判断となる。 こうした快適さと美との入念な区別は―とはいえ、同時に縫合を行なって もいるような区別であるが―、「質量性」と「形式性」という古典的で無意 識的な対立概念を考慮しない限り、理解することはできない。「カナリア産の シャンパン」や「すみれ色」や「管弦楽の音」、すなわち味覚と色と音は、「質 量性」に属するものとみなされ、本来の純粋な趣味判断から除外される。「質 量性」は、「魅力(Reiz)」として対象に彩りや活気を与えるとしても、外的な 付加物(パレルゴン)でしかなく、ときに美を損なう「虚飾(Schmuck)」へ 転じてしまう。美の内面や本質を構成するのは種々の形式であって、「形式性」 に関わる場合のみ―カントの例によると、「デッサン」や「曲の組み立て」 などであるが―、美的な判断は純粋で本来的なものとなる。「形式の合目的

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性を規定根拠に持つ趣味判断が、純粋趣味判断である」[Ku.B.62/133]。 カントのこの形式主義は、たんに 美 学 エステーティク にとどまるものではない。「形式性」 と「質量性」の区別は、そしてそれがつねに可能であるという前提は、内面/ 外面、純粋/不純、本質/非本質の区別を可能にしつつその区別のうえに成り 立っている―歴史を歴史たらしめている―あるシステムと渾然となった形 式主義である。この「形式性」は西洋の思惟の歴史において秘められたエコノ ミーを打ち立てている。カントの批判哲学においても、ほとんど言及されない にもかかわらず、エコノミーという語の周りに取り集めることができる複雑な 働き(経済、節約、省略、交換、交感、分配、関心=利益、交渉=交流、摂理) をいたるところに認めることができるだろう。 2.未知なるものへの判断力 たとえば、第一批判(『純粋理性批判』)の「超越論的弁証論への付録」にお いて、カントは理性がエコノミーの法則に従って使用されることを述べている。 私たちが体験している世界は、見たところきわめて多様な力の源泉から構成さ れているように思われるが、それはたとえば、人の心に「感覚、意識、想像、 記憶、機知、判別力、快、欲望などがあるのと同様」である(後で検討するが、 このうち「快」には特別な地位が与えられる)。だが、こうした差異は見かけ 上のものであり、「想像は、意識と、また記憶、機知、判別力と、おそらく悟 性や理性とすら結合してはいないかどうか」検討することで、現象の背後に隠 されている同一性を見出し、最終的には諸力の統一としての「根本力」をめざ すことになる[KrV.B.677/469]。もちろん、こうした絶対的で唯一の根源的な力 の存在とは、確かめようがない仮説的な理念である。したがって、統一は「事 実上」見いだされるべきものではなく、「経験が手渡しうる種々さまざまな諸 規則にとって、ある種の諸原理を整えるために求められなければならない」。 つまり(超越論的)理念は実体化されるものではなく、統制的(regulativ)に のみ使用されなくてはならない。もしそれを実体化してしまうなら、「超越論

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的理念はたんなる詭弁的(弁証論的)概念」になってしまうだろう。しかしカ ントは、そう述べたすぐ後で、「根本力」という理念は仮説であるにもかかわ らず「客観的実在性」をもつと主張する。 しかし、悟性の超越論的使用に注意するなら、根本力一般というこの理念は、問題と して仮説的に使用されるよう定められているのみならず、客観的実在性をもっている と申し立てて、この客観的実在性によって一つの実体の種々さまざまな諸力の統一が 要請され、一つの確然的な理性原理が立てられるということが、明らかになる。なぜ なら、私たちが種々さまざまな諸力を合致させようと試みたことが一度もないとして も、いや、どのように試みてもそうした合致を発見することに失敗するときですら、 私たちはやはり、そうした合致(Übereinstimmung)が見いだされうるであろうと 前提するからである。しかもこのことは、いま挙げた事例〔心の諸現象〕においての ように、実体の統一においてのみではなく、物質一般でみられるように、ある程度ま で同種的であるにせよ、まったく多くの諸力が見いだされる場合にさえも、理性は多 様な諸力の体系的統一を前提とするが、それは、特殊的な自然法則はいっそう普遍的 な法則に従い、だから原理の節約は理性の経済的法則となるのみならず、自然の内的 法則ともなるからである。[KrV.B.678/470] 諸現象に共通する隠された同一性としての合致。しかもそれが一度も試みら れたことがないとしても、またそれを見出すことにつねに失敗し続けていたと しても、客観的に実在する合致がある。この合致が実現される(と想定される) 地点は「根本力一般」として、私たちが経験するいっさいの現象を可能とする のだが、しかしそれは「虚焦点...(focus imaginarius)」として、「可能的経験 の限界のまったく外にある」[KrV.B.672/464]。というのも、経験を可能にする 基本的な条件は、それ自体けっして経験に左右されることはないはずだからで ある。ジャン=リュック・ナンシーが述べるように、カントが主張する「客観 的実在性」とは、「準−論理的ないし準−虚構的な実在性」ではなく、「実践的... 実在性」(1985, 38頁)と解されなくてはならないだろう。 したがって、ある究極の目的があたかも .... 実在するかのように ..... 、多様な諸現象 や自然の偶然的生起のなかに痕跡として残された、合目的的に合致するような

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「しるし」に関心をもて、というのがカントのメッセージなのである。「あたか... も . 可能的経験は、一つの絶対的ではあるが徹底的に依存的であって依然として 感性界内で条件づけられている統一をなすかのように ..... 」、つまり世界内におけ る現象や経験は同じく世界内に実在する一つの統一的な理念にしたがって秩序 立てられているかのように.....、しかし「それにもかかわらず同時に、あたかも....す べての現象の総括(感性界自身)はある唯一の円満具足な至高の根拠をおのれ の範囲外にもっているかのように ..... 」、すなわち世界の現象や経験の外に、自由 で創造的で根源的な理想が存在しているかのように.....、私たちはふるまわなくて はならない。そうすることで、「私たちは、私たちの....理性のすべての経験的使 用を、あたかも諸対象自身がすべての理性のあの原型から生じたかのように.....、 最大限に拡張」することができるのである[KrV.B.700-701/494]。 それゆえ、「あたかも(als-op)」という条件のもとに導出される仮想的かつ 実践的な客観性は、類比 アナロジー による「合致」を結束点とするような理性のエコノミ ックな使用によって支えられているのだといえるし、それによってある種の目 的論的な理念は人間の判断力に対して統制的に作用することになる。そして、 一種の「虚焦点」としての「根本力一般」という理念は、認識の労力の節約エコノミーを 理性の経済的法則にかえるばかりでなく、自然の「内的法則」とも合致する。 批判哲学においては、「自然の内的法則」が、範例的合法則性としての特別 な位置を与えられている(「私たちの諸力の自然的本性のうちに根拠をもつす べてのものは、合目的的でなければならず、それらの諸力の正しい使用と合致 しなければならないが、それは、私たちがある種の誤解を防ぎ、それらの諸力 のめざす本来の方向を発見することができさえすれば、という条件においてで ある」[KrV.B.670/462])。目的論的体系としての世界観を樹立しようとするカ ントにとって、たとえその目的が解明されなくとも、理性は自然と類比的に (自然を範として)合目的的だということになる。そして、それまでの理性批 判という極度に抽象的なテーマだけでなく、第三の批判書である『判断力批判』 において自然の合目的性という目的論的な視座を大きく拡張・展開すること で、カントは体系 システム という「建物のどこか一部分が沈下し、全体の崩壊を引き起

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こさざるをえないような事態にいたるのを防ぐ」[Ku.B.3/15]だけでなく、おそ らくは自らの全理性批判体系の再構築を図ろうとしていく。 自然の諸形式はきわめて多様であり、いわばそれだけ多くの普遍的な超越論的自然諸 概念の変様があって、純粋悟性がア・プリオリに与えるかの諸法則は自然(感官の対 象としての)一般の可能性にかかわるだけであるから、これらの諸形式はこの諸法則 によっては無規定のままに放置されており、そこでこれらの諸形式〔を規定する〕に はこれまた〔別の〕諸法則がなければならないが、この諸法則は経験的な諸法則とし て、われわれの.....悟性洞察に従えば、偶然的であるかもしれないが、それでもそれらが 法則と呼ばれるべきである(一つの自然という概念もそれを要求しているように)以 上、われわれには未知な原理であるにせよ、多様なものを統一するある原理に基づい て必然的であるとみなさなければならない。[Ku.B.16/40-41] 判断力とは.....、特殊性と普遍性をめぐって思考する能力である.....................。カントは判断 力を規定的判断力と反省的判断力とに区別している。規定的判断力とは、普遍 なもの、すなわち法則や原理があらかじめ与えられていて、特殊なものをたん にその下に包摂して規定する判断力である。『純粋理性批判』や『実践理性批 判』で使われる判断力は主として規定的判断力である。これに対して反省的判 断力とは、特殊なものだけが与えられていて、そこから普遍なものを反省を通 じて見出す能力のことである。反省的判断力は、無規定で多種多様な「自然の 「諸形式」を包摂する高次の法則を見出す能力であるが、それらを統一するた めの原理を、みずから発見的に作り出さなければならない。これは統一のため の法則を与えられている規定的判断力との大きな差異であり、いうなれば規定 的なものは虚焦点から放射される光線によって照らし出されることができる が、反省はその虚焦点を生み出す能力となる。したがって、反省的判断力は規 定的判断力に対して、いわばメタ判断力というべき関係にある。 ―自然における特殊なものから普遍なものへと上昇する職務を持つ反省的判断力は、 それゆえある原理を必要とするが、しかし反省的判断力はこの原理を経験から借りる ことはできないのであって、それと言うのも、この原理は、まさに一切の経験的諸原

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理の、同じく経験的であるがいっそう高次の諸原理の下での統一と、したがってそれ ら両原理の間の〔一方の他方への〕体系的従属関係の可能性とを基礎づけなければな らない原理だからである。それゆえ、反省的判断力は、このような超越論的原理を自 分から自分自身にのみ法則として与えることができるのであり、この原理をほかから 取ってくることはできず(さもなければ判断力は規定的判断力であることになろうか ら)、またそれを自然に指定することもできない。なぜなら、自然の諸法則についての 反省は自然に従うのであり、〔逆に〕自然が次のような条件に、つまりわれわれがそれ に従って自然の概念を、しかもこの条件にかんしてまったく偶然的な自然の概念を獲 得しようと努力する、そうした条件に従うのではないからである。[Ku.B.16/41] この反省的判断力について、カントはもっぱら美的な判断力として(主とし て『判断力批判』の前半部分「美的(情感的)判断力の批判」で)論じている。 すでに述べたように、あるものが「美しい」とか「崇高だ」と判定する能力は、 規定的判断としての論理的判断や理論的判断でなく 美 的エステーティッシュ(情感的)判断と 呼ばれるが、カントによればここには反省的判断力の本質的な問題が含み込ま れている。というのも、美しいものの判断は具体的な個々の表象についてしか なされないため、それは規定的判断力でなくひとえに反省的判断力の働きによ っているからである―チューリップ一般が美しいのでなく、いま私が目にし ているこのチューリップが美しいと判断される。美的(情感的)判断は、必ず 快不快の感情に関わっているが、このことは「この能力が〔規定的でない〕な んらかのア・プリオリな原理に従って」いることを、つまり主観的な「客観的 ... 普遍的妥当性」を有していることを証左している。なぜなら、美しいものは、 悟性を通さず(すなわち諸事物の概念を経ることなく)、私たち..にとって直接 的な快適さをもたらすものだからである。そして、美的な判断力がア・プリオ リに普遍的な共通感覚に関わるものであるためには、次節で検討するように、 美しいものはみずからの目的からこのうえなく純粋に切断されていなくてはな らないし、少なくともそのように見えなくてはならないだろう。 それでは、なぜカントは美的な判断力にこのように手の込んだ仕組みを想定 したのだろうか(とはいえ、これはけっしてカントが一人で仕組んだことでな

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いし、カントの特殊性に還元しおおせるものでもない。西欧の精神史のなかで、 「私は何を知りうるか? 私は何をなすべきか? 私は何を望んでよいのか?」、 という問いをもっとも精密に練り上げ析出した人物の一人がカントであり、そ の要諦となるべき著作が『判断力批判』であるというにすぎないのだ)。 カントが『純粋理性批判』のアンティノミーにおいて証明したように、世界 の内側で私たちが経験する諸物についての認識から、世界のなかに現前するこ とのない最高の存在者へと遡及的に行きつくことはできない。人間的理性は、 世界の限界を踏み越え、最高の存在者に思いを至らせるという自然な本性をも っているが、この超越論的理念は世界の「現実的な物の概念と解されるときに は、超越論的理念はその適用において超越的となりえ、まさにこのゆえに欺瞞 的となりうる」[KrV.B.671/462]。 それゆえ最高の存在者は、理性のたんなる思弁的使用にとっては、一つのたんなる理 想、しかし完全無欠な理想.......にとどまる。それは、全人間的認識を締めくくって完成す る一つの概念である。この概念の客観的実在性はこのような方途によってはなるほど 証明されえないが、しかしまた論駁されることもない。[KrV.B.669/460] 理論的(思弁的)理性によっては、証明されることも論駁されることもない ―かといって人はそうした思考を拒むことも、それに耐えることもできない のだが―最高存在者の客観的実在性。では、どうすれば私たちは最高存在者 について実践的な思考を続けることができるのだろうか。それは第一に「類比 アナロジー 」 によってである。世界の内には存在しないこの最高の存在者を「経験の諸対象 との類比にしたがって少なくとも思考」することは「差しつかえない」。とい っても、最高存在者が「世界の仕組みの体系的統一や秩序や合目的性の或る私 たちには未知の基体であって、この体系的統一や秩序や合目的性を理性がおの れ の 自 然 研 究 の 統 制 的 原 理 た ら し め ざ る を え な い か ぎ り に お い て の み 」 [KrV.B.725/520]―いわば虚焦点として想定される場合においてのみ―類比 による思考は妥当なのである。

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第二に、たとえ私たちのあらゆる認識が経験とともに開始されるとしても、 認識のすべてが経験から生じるのではない。認識に先立つのは「形式性」であ り、それが「質量性」に時間と空間の枠組みを与える。したがって、「形式性」 は経験にたいしてア・プリオリであり、経験を可能にする基本的な条件なので ある。かりに世界の内部に現前しない最高存在者が、その姿を何らかのかたち で示すとしたら、それは「質量性」でなく「形式性」に宿るはずである。 最高存在者は、世界の内側に現前しない。また、その存在を、世界内の事象 に基づいて(経験の総体によって)証明することも反駁することもできない。 わたしたちにできるのは、自然の美しい諸形式がもつ合目的性―それも純粋 な切断がなされそれ自身の目的から逸らされた合目的性―によって、その存 在を類推することである。そしてこのことは、人間にとってきわめてモラル的 な関心事なのである。 〔‥‥〕理性は、自然が自らのうちに、一切の関心に依存しないわれわれの適意(われ われはこの適意〔快〕をア・プリオリにあらゆるひとに対して法則と認めるが、もっ ともこのことはいかなる証明にも基づくことはできない)に自然の諸産物が合法則的 に合致(Übereinstimmung)していると想定するなんらかの根拠を含んでいることに ついて、自然が少なくともその痕跡 (Spur) を示すか、あるいはあるしるし=記号 (目配せWink) を与えるということに関心を抱くのであって、そうした理由から、理 性はこの合致に類似した合致を示す自然のあらゆる現われに対しても関心を抱かざる をえないのである。したがって心は、自然..の美について考えを巡らすとき、その際同 時に関心を抱いていることに気づかないでいることはできない。だがこの関心は、同 族性〔類似性〕にかんして言えば、道徳的な関心である。また、この関心を自然の美 しいものに対して抱くひとは、前もってすでに道徳的に=善いものに対する自分の関 心を十分樹立している限りにおいてのみ、自然の美しいものに対して関心を抱くこと ができるのである。[Ku.B.152/314] こうして、『判断力批判』のもつ射程をある程度見通すことができるだろう。 最高存在者は世界の内部に存在しない。しかしその存在は私たちに対して、自 然のなかに「しるし=記号(目配せ)」というかたちを残している。それは自

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然の美しい諸形式として、あるいは去勢された合目的性として、「人間性の最 終目的」へ向かうモラル的な指標を類比 アナロジー によって心に喚起するのである。した がって、ここでの美はそれが「自然の美であることを是非とも必要とする」 [Ku.B.154/317]のである。 3.チューリップの美しさ カントは美しいものを二つのカテゴリーに区分する。たとえば、「馬」や 「人間」や「建物(教会、宮殿、武器庫、東屋など)」のもつ美しさは、それら が何であるかといった目的の概念や、その目的に沿った完全性の概念を前提と しているため付随的な美(pulchritudo adhaerens)といわれる。これに対し て、「花」や「多くの鳥(鸚鵡、ハチドリなど)」や「海の多数の貝類」は、そ れが何であるかという目的に関していかなる概念も必要とせず、ただそれだけ で美しい。これらは自由な美(pulchritudo vaga)と呼ばれる(「そうじて花 は自由な自然美である」[Ku.B.69/147])。純粋な美しさは、自由な美でなくて はならない。 しかし、この区別には曖昧な部分が残されている。たとえば、花と馬はいず れも自然に存在する対象であるのに、なぜ前者が自然な美であって、後者はそ うではないのか。カントはこの疑問についてこれ以上答えようとはしない。推 測するに、人は馬を見るとき、そこに馬に関する(有用性や経済的価値を含ん だ)概念や表象から完全に自由でいることができないため、馬は付随的な美へ 分類されるのであろう。それでは、花を見るとき、それがどのようなものであ るかという懸念から私たちは完全に解放されるのだろうか。カントによれば諾 である。花は植物の生殖器官でもあるが、この目的を知悉している「植物学者 ですら、かれが趣味によってその花を判断するときは、この自然目的をなんら 顧慮しない」 [Ku.B.69/147]。 自然の美と付随的な美の対比は、ある隠されたエコノミーに従って、分離さ れ、配列されているのではないだろうか。そしてそのためには、両者の純粋な

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区別を維持することが、とりわけ重要なのである。ここで花は、たまたま選ば れた例ではなく、おそらく代替不可能な一つの範例を形成している。花のなか でもとりわけチューリップの美しさが、この『判断力批判』をある方向へと差 し向けているのである(「花、たとえばチューリップは、美しいと見なされる が、それはある種の合目的性が、つまりわれわれがそれを判定する場合のよう に、いかなる目的にも関係づけられない合目的性が、その花の知覚において見 いだされるからである」[Ku.B.61/160])。 チューリップに関する一節は、古代の墓から発掘される石器類についての記 述のすぐ後に現れる(さらに付け加えると、チューリップや古い墓の石器類に 関する一節は、カントが重要な解明―「美.はある対象の合目的性....の形式であ るが、それはこの合目的性が目的の表象を欠いたまま...........その対象において知覚さ れる限りにおいてである」―を終えた直後の注のなかに見出される)。これ ら石器類は、たとえその使用目的がわからなくとも、生活の道具であっただろ うことは容易に理解できる。その際、人は石器類を技術作品(Kunstwerke)、 すなわち道具として、「一定の目的に関係づけて」見ているのであり、そこに すでに目的論の視座が設定されてしまうため、直接的な快を起こさせない。し たがって、石器類は自由な美でない。 ひとはこの解明に反対して、次のような事物が存在することを例としてあげるかもし れないが、その事物とは、ひとがその事物において目的を認識することなく、合目的 的な形式を見る、といった事物であって、たとえば、しばしば古い墓丘から発掘され る、柄のためと思われる穴を備えた石器類がそれであるが、この石器類はなるほどそ の形態において、その目的が分からないある合目的性をはっきり示しているが、しか しそうだからといって美しいと判断されるわけではない〔と反論する〕。けれども、ひ とがこの石器類を技術作品と見なしていることが、それらの形をなんらかの意図や、 ある一定の目的に関係づけていることを認めざるをえないのに十分〔な理由〕なので ある。したがってまた、それらの直観に対する直接的な適意〔快〕はまったく生じな い。これに反して、花、たとえばチューリップは、美しいと見なされるが、それはあ る種の合目的性が、つまりわれわれがそれを判定する場合のように、いかなる目的に も関係づけられない合目的性が、その花の知覚において見いだされるからである

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[Ku.B.61/160] 目的をもたない(ように見える)合目的性。チューリップが美しいのは「い かなる目的にも関係づけられない合目的性」を表現している(ように思える) からである。花の美がなんらかの意図によって、たとえばチューリップが見る 人の目を楽しませるだとか、そういった目的によって生じたものとは思われな いにもかかわらず、自然の分配ないし摂理(エコノミー)にしたがって花を咲 かせるからである。もちろん、自然のエコノミーを完全に把握することはでき ないが、少なくともそうした法則があるかのように(als-op)感じられること、 それが美しさの判定にとって不可欠なのである。 純粋に美しいものは、自由でなくてはならない。ここで言われる自由とは、 目的に束縛されず(vaga)、何らかの概念づけから解き放たれているというこ とである。自然の事物は、それが何であるかという目的の概念を欠いているの だから、言い換えれば、それを観賞する人間が存在するかどうかにかかわりな く自然の事物はただそこにあるのだから、美しいものは自然のなかに求められ ることになる。「野生の花」などの美しい形態をひとりで(しかも自分が観察 した事柄をほかのひとびとに伝達しようという意図をもたないで)賛美し、そ の美しい形態が自然のなかから失われてしまったらと心配する人は、「自然の 美に対して直接的な、しかも知性的な関心を抱いている」[Ku.B.150-151/312] のである。たとえ、自然の美に直接的な関心(intérêt/interest)を抱くことで その人にとって何らかの利益(intérêt/interest)を損なうことがあったとして も、そうした心をもっている者はモラル(道徳)的な関心を持っているといえ る。 さらに念を押すかのように、カントは次のような例をもとに説明を加える。 もし、だれかが自然を愛する者を欺こうとして造花を飾っておいたとして(し かもこの造花は「自然の花にまったく似せて作り上げることができる」のであ る)、その人為性(技術)が明らかになるや否や美への直接的な関心はたちど ころに消え失せてしまうし、その美しさも急速に色あせてしまうだろう。とこ

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ろが、この場合、「自分の部屋を人目につくようにこれら〔造花〕で飾り立て るといった、虚栄の関心」が直接的な関心の代わりに現れてくるかもしれない。 後者の虚栄の関心については、モラル的な心性とはまったく関係がない。した がって、目的なき合目的性の例は自然の事物から採ってこられるのがもっとも 適切なのである。それは何ものにも束縛されてはならないし、屹立し、ただそ の現前だけで美しくなくてはならない。 自由な美は「いかなる目的にも関係づけられない」のだから、それは自分自 身へのみ折り返される、あるいはこう言ってよければ自分の生命の発露のみを その存在の使命とすることになる。花はその存在の各瞬間において、自然の生 命エネルギーの純粋な発現であり、その完全性において美しいのである。美し いものは「直接に生を促進させる(強化するBeförderung)感情を伴っており、 したがって魅力や戯れる構想力と一体になることができる」[Ku.B.89/189]。そ してジャック・デリダが指摘するように、その美しさの完全性は、どんな目標 からも切り離され目的地なくさまよい続けるという不完全性を前提としてい る。 このチューリップが美しいのは、それが自由なもの、もしくは束縛のないものだから であり、言いかえれば非依存的 アンデパンダント だからである。それは、おのずからに、ある種の完結 性を享受している。それは何ものをも欠如しない。けれども、それが何ものをも欠如 しないのは、それが目的を(少なくとも、われわれがそのチューリップにおいてなす 経験において)欠如しているからである。それは、おのれの目的から解き放たれ〔ab-solue(独立して、絶対的で)〕、釈放され〔absoute(赦免されて)〕―切断されて ―あるかぎりで(「完全な形態.....、すなわちカップの形態..........」)、したがって絶対的に不完 全であるかぎりで、非 アン ―依存的 デパンダント なのであり、それ自身だけとしてあるのである。 (Derrida, J. 1978, p.107, 153頁) したがって、花一般、チューリップ一般が美しいのではない。チューリップ と言ったときに、すでに私たちはチューリップという花のカテゴリーを想定し てしまうのであり、それが何であるのかという目的の概念や表象が入り込んで

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しまう。そうでなく、目の前にあるこの花だけが美しいのであり、それはその 個別性において美しい唯一の ... チューリップである。だが、この帰結について、 カントは言及を省略している、もしくは回避しているように思われる。チュー リップの美しさを死守するために、そして個別(特殊)なものが普遍なものへ と飛躍するために、ここでは2つの暴力的な操作が行われているのである。 第一に、目的の切断。「花において植物の生殖器官(Befruchtungsorgan) を認識する植物学者ですら、かれが趣味によってその花を判断するときは、こ の自然目的をなんら顧慮しない」。もし、生殖という目的が認識されてしまう なら、チューリップは美しくない。しかし、これは生殖能力を喪失していると いうことではない。もしそうだとすれば、やはり目的から完全に解放されてい ることにはならないだろう。したがって、この中断は否定性でなく純粋な切断 であり、そうであればこそ美しさは生殖のエコノミーへも、弁証法的な円環へ も入っていくことはない。チューリップは、生殖能力があるにもかかわらず、 それに無頓着、もしくは絶対的に無関心だからこそ美しいのである。そして、 この切断が純粋であればあるほど、それだけいっそう美しくなるだろう。 そして第二に、自由な美と付随的な美の切断。古墳から掘り出された石器類 は、その使用目的はわからなくとも、それが道具とみなされる以上は目的に従 属しており、純粋な美しさではない。石器の刃物につけられた穴(開口、空洞 Loche)は、手で持ちやすいよう柄(Hefte)をつけるためだと推測されよう。 道具類は、生活水準の向上に奉仕するという目的地や着地点がはっきりしてい るため、それ自体では不完全なのである。しかし、この石器類の不完全さは、 先取りされた目的の観点から得られたものであって、そこにはある種の目的の 表象が、すなわち純粋な切断によるのでなく、あらかじめ否定されるべく与え られた目的性が埋め込まれている。したがって、チューリップの場合と異なり、 付随的な美は自由な美にとっての否定性として労働を強いられる。それは、自 由な美を自らの上へたえず押し上げ続けるという弁証法的な労働である。 種子はおのれを彷徨させる(おのずから彷徨するs’erre)。美しくあるもの、それはデ

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ィセミナシオン(散種dissémination)なのである。否定性のない純粋な切断、否定性 も意味作用もない<なしに...>なのである(un sans sans négativité et sans significa-tion)。否定性なるものは有意味的 シ ニ フ ィ ア ン ト である。それは意味への奉仕において働く。穴のあ いたくだんの道具の否定性は有意味的(signifiante)である。それは一つの能記 (signifiant)である。くだんのチューリップの<目標−なし>(sans-but)、<なぜ− なし>(sans-pourquoi)は、有意味的ではなく、一つの能記ではない。欠如の能記で すらない。少なくとも、このチューリップ、ここにあるこのチューリップが美しいか ぎりでは。能記シニフィアンなるものは、たとえ所記シニフィエのない能記でさえ、そのものとしては、美し くあること以外なら、どんなことをも説明することができる。少なくともこれが、カ ント的もしくはソシュール的チューリップが内包していると思われる....ことである。 (Derrida, J. ibid. pp.108-109, 156頁) 自然の美しい諸形式は、何も意味しないし、「意味しない」ことからも絶対 的に逃れ去る。しかし、「否定性のない純粋な切断」は、そのこと自体によっ て隠された―クリプト化された―「しるし=記号(目配せWink)」でもあ る。この、<目標−なし>、<なぜ−なし>は、自然と人間の間に交わされる ノン・ランガージュとしてのランガージュなのである。 カントの考えでは、美を私たちに与えるのは、純粋な非−テロス(目的)と してのテロスであり、純粋なテロスを目指しその途上にある類似物 ア ナ ル ゴ ン の方ではな い。自由な美があり、そこから派生して多様で価値の低い付随的な美がはびこ っていくのである。ここには、目的からの切断の純粋さの度合に応じて、さま ざまな種類の付随的な美があることになるが、これに対し自由による美の本質 は、目的との関係(無関係という関係)からすれば、純粋な切断によるものた だ一つしかありえない。両者の間には、いかなる交流も交換も、すなわちエコ ノミーもあり得ないし、そういう動きが生じないよう、絶対的に切断されなく てはならない。 しかし、付随的な美という否定性が、そのつど自由な美を作り出しているの だから、付随的な美がなかったら、自由な美もまたありえない。何ものにも束 縛されない、ただそれのみで成立するはずの自由な美しさは、その他多くの付 随的な美によってその位置を維持することができる。したがって、カントの議

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論を押し進めていくなら彼の主張とは反対に、自由な美は付随的な美に付随し.............. ている ... のである。 目的の切断、および自由な美と付随的な美の切断は、純粋な美を維持するた めになくてはならない操作なのである。この二重の切断が、たんなる切断でな く純粋な切断となればなるほど、そして刃がこの上なく鋭く研がれ、切断がな されたことにだれにも気づかれないようになればなるほど、両者はある目的を 目指して「関連−なし」という様態で結びつきをますます強めていく。という のも、切断の純粋さは、美の理想がアート(芸術)を通して人間へと注ぎ込む ために不可欠な契機となるからである。 4.人間の位置 繰り返しになるが、自由な美の例としてカントが持ちだしてくるのは「花」 (なかでも「チューリップ」)や「多くの鳥(鸚鵡、ハチドリなど)」や「海の 多数の貝類」であり、付随的な美の代表としては「馬」や「人間」や「建物 (教会、宮殿、武器庫、東屋など)」、そして死者とともに墓に葬られた「石器 類」である。目的の概念に貼りついている付随的な美は、さほど美しくないと 判定される。あるいは、付随的な美をとりわけ喜ぶなら、その人の心は虚栄に よってつき動かされていることになる。こうした例(見本)は無意味なもので はない。『判断力批判』に込められたカントの意図を、これらの例とその配列 から遡って、ある程度見定めておきたい。 これまですでに言及されてきたが、そもそもここで注意しなければならないのは、判 断力の超越論的情感〔美感〕論においてはもっぱら純粋な情感〔美感〕的諸判断が問 題でなければならず、したがってさまざまな実例は、目的にかんする概念を前提とす るような自然の美しい諸対象や崇高な諸対象から取ってこられてはならない、という ことである。[Ku.B.117/238] けれども、花や鳥や貝類は純粋に美しくて、馬や人間や建物は付随的な美し

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さにとどまるのはなぜか? 実際、花の範例として取ってこられたチューリッ プは、人間の思惑や欲望だけでなく史上初めて投機の対象とされた花である。 これほど、自由な美にふさわしくない花もないだろう。17世紀前半のオランダ で起こった「チューリップ・バブル」はつとに有名であり、カントがこうした 事情を知らなかったとは考えられない。『判断力批判』が出版されたのは1790 年であり、また『自然地理学』に代表されるようにカントは世界中の風物や文 化に並々ならぬ関心を抱いていたのだから。チューリップを観賞する人は、人 間の虚栄と狂乱をもっとも伝えてくれる花であっても、この花にまつわる目的 の概念を捨象できるのなら―とはいえ、これはかなりの力業であるが―チ ューリップを自然の花として眺めることができる、ということなのだろうか (それとも、カントは野生のチューリップについて語っているとでもいうのだ ろうか)。 そうであれば、馬に対してはなぜ目的の概念を除外して眺めることができな いのか? 鳥は「自然の美しい諸対象」に分類されるのに、なぜ馬はそうでな いのか? おそらく人間の位置づけを考慮に入れない限り―だが、これがも っとも困難な作業であるのだが―、これを理解することはできないだろう。 一方で、それを眺める際に対象が何であるかという目的の概念を前提とせざる をえず、他方でその目的を捨象するのは、言うまでもなく人間である。諸対象 のなかに目的が嵌めこまれているのでなく、人間の主観性がそれぞれに応じた 目的を付与したり差し引いたりしているのである。そう考えると、花や鳥や貝 類は人間にとってなくてもいいようなものであり、したがってそれらへ対する 賛美は趣味の領域に属する。他方、馬や建物は人間にとってなくてはならない ものであり、完全に切り捨ててしまうことはできない。付随的な美を表すもの の方が、人間が生きていくうえで―生活していくという意味であるが―は るかに重要なのである。そして、それぞれが人間との距離に応じて、ある意図 に従いつつ配列されている。 美しいものの判断に先立って、そして自由な美と付随的な美の区別に先立っ て、判断を行なうのは人間であるという認識が前提されているのである。純粋

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な切断は、世界は人間によって、人間のために、体系化され、秩序立てられて いるという世界観を一層確実にするという使命を負っているのだ。ここで、付 随的な美の例として人間があげられていることに注意したい。人間の諸器官は それぞれ何らかの役割をもって内的に関連している以上、そうしたものとして 見られる人間の美しさは付随的なものでしかない。しかし、人間は対象である と同時に、世界を作り出し、それらをしかるべく配置する主体でもある。人間 は、目的の概念を貼り付けられる付随的な対象であるとともに、それを行なう 当のものなのだ。 自らの現存在の目的を自分自身のうちにもつものだけが、すなわち人間..が、つまり理 性によって自らの諸目的を自分で自分に規定することができる、あるいは諸目的を外 的知覚から受け取らなければならない場合でも、〔それらの目的を〕本質的で普遍的な 諸目的と結びつけ、その際また前者〔理性の諸目的〕との合致を美的に判定すること のできる人間が、それゆえこの人間..こそが、美.の理想の資格をもつのであって、それ は人間の人格における英知としての人間性が、世界のなかのあらゆる対象のうちでそ れだけが完全性...の理想の資格を持つのと同様である。[Ku.B.74/155] すべての目的は最終的に人間を目指して方向づけられる。そして人間だけが、 「自らの現存在の目的を自分自身のうちにもつ」ことができる。そして、美し いものを判断できるのも人間だけであり、世界の存在者のなかで唯一「美の理 想の資格」と「完全性の理想の資格」をもつことが許されている。こうして、 『判断力批判』における純粋な趣味判断は、「自由な美」と「付随的な美」の対 比から、「自然の美」と「アート(芸術・美術・技術)の美」の対比へと移し かえられてゆく。 あるものがアートと見なされるためには、そこに「自由による産出」がなく てはならない。アートは理性と関係づけられている以上、自然の美しさより劣 っているのだが、その理性ゆえにアートはつねに「人間の作品」となるのであ る。たとえば蜜蜂が作り出す蜂の巣は、それがいかにアートに見えるとしても、 本能的な規則に適合して作られたものであり、「その結果がその原因によって

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思考される必要がない」ため、つまりその根底に理性の働きがないためアート とは認められない[Ku.B.155/323]。 カントは、つねに自然の美をアートの美より上位に置く(「われわれがそれ でもって美しいものそのものに対して直接的な関心を抱くことができる当のも のは、自然でなければならないか、あるいはわれわれによって自然とみなされ なければならない」[Ku.B.155/318])。それゆえ、アートが美しいと見なされる ためには、それがあたかも自然であるかのように .............. 、すなわち自然と同じように、 目的の表象を欠いた(純粋に切断された)合目的性の形式が見出されなければ ならない。こうして「目的なき合目的性」は、芸術ア ー トと自然の結節点となる。そ してまたここでも、「かのような合致」、「あたかも(als-op)」というパースペ クティヴが果たしている重要性を明確に見て取ることができる。 美術 ア ー ト (Kunst)の産物〔作品〕においては、それが技術 ア ー ト (Kunst)であって自然ではな いということが意識されていなければならない。だが、このものの形式における合目 的性は、あたかもこのものがたんなる自然の産物〔作品〕であるかのように、随意の 諸規則のあらゆる強制から自由であると見えなければならない。われわれの認識諸能 力の戯れにおける自由のこの感情は、それでも同時に合目的的でなければならないが、 この感情に、それのみが普遍的に伝達可能な快が、しかも概念に基づくことなく基づ いている。自然は、それが同時に技術〔芸術〕のように見えたときに、美しかった。 ところでこの技術〔芸術〕は、われわれがそれが技術であることを意識していながら、 それでもそれがわれわれに自然のように見えるときのみ、美しいと〔美術と〕呼ばれ ることができるのである。[Ku.B.159/330-331] 『判断力批判』において、アート(芸術)と自然をつないでいるのは、第一 に「自由による産出」という観念である。アートにおける自由は、自然のいか なる規則にも依拠してはならない。アートが自然の法則にしたがっているのだ とすれば、それは自由でなく自然への隷従を意味するからである。アートは自 然から離れ、自然の諸規則から自由でなくてはならないが、不思議なことに、 アートはそれ自身に固有の自由な産出性(創造性)を手にすればするほど、自 然に似かよってくるのである。というのも、アートは自然の自由な生成物と類

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似しているのでなく、自然の自由な生成の働き、力の戯れと類似しているので ある。アートと自然は、自由において、逆説的であると同時に解きがたい結び 目を作っている。 アートと自然をつなぐ第二の結び目は天才である。カントは天才について、 「技術〔芸術〕に規則を与える才能(天分)」であると述べている。天才の才能 は自然の恵み(贈与)であり、それ自身自然に属するものなので、天才は「自 然として規則を与える」ことになる。別の言い方をすれば、「天才とは生得的 な心の素質(ingenium)であり、この素質によって自然が技術〔芸術〕に規 則を与える」[Ku.B.160/333]のである。 天才は自然から送られる指示を一種のインスピレーションとして受け取るの だが、それがどのように送られてくるのかについては何も知ることができない し、実際のところ自分が何を作ろうとしているのかも理解していない。また、 自然が与える意図を他の人々に「学的に」伝達することもできない(したがっ て「美の学というものは存在しないし、存在するのはただ〔美の〕批判であり、 ま た 美 し い 学 も 存 在 し な い し 、 存 在 す る の は た だ 美 し い 技 術 〔 美 術 〕」 [Ku.B.157/327]である)。天才が自然の意図を人々に伝える場合、それは概念に よらない諸規則というかたちで、「学にではなく、技術〔美術〕に規則を指令 する」。逆に言うと、自然は天才を迂回してみずからの意図を表現する(「自然 が技術〔芸術〕に規則を与える」)のである。 さらに、真に独創的である天才の作品は「範例的でなければならない」 [Ku.B.161/334]。つまり、後の人々にとって「基準もしくは判定の規則」とし て役立つものでなくてはならない。しかも、作品のうちに示される範例的な規 則は、「諸規則の束縛から自由」でなくてはならないのである。 アートと自然は、自由による産出と天才の形象という地点において、いった ん互いの関係を断ち切る。この地点は、同様に、美しいもの(美の主観的経験) がロゴスから切り離される地点でもある。しかし、まさにそうした離別の身振 りによって、以前より緊密で隠された関係を再建するのである。「目的論 (Teleologie)」という言葉は、18世紀の前半にクリスチャン・ヴォルフによっ

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て、ギリシャ語のテロス(teloj/telos目的)とロゴス(lÿgoj/logos言語、論 理)から作られた造語であるという事実、また18世紀末にカントが「目的論」 について執拗なまでにその可能性を探求する書物を著したことは興味深い。美 しいものに関して、テロスとロゴスは失墜を余儀なくされるのだが、その廃墟.... において....絶対者の理想という壮大な「目的論」が打ち立てられ維持されうるの である。 さらに、自然の美しい諸形式においてモラル的使命を案出するこのプロセス は、同時に人間(現存在)の内面性を創出する。 自然はその美しい産物において技術ア ー トとして自らを示すのであり、それもただ偶然にで はなく、いわば意図的に、合法則的な配置・構成に従って、〔しかも〕目的なき合目的 性として、そうするのである。われわれはこうした目的を〔自分たちの〕外部のどこ にも見いだせない以上、われわれは当然これをわれわれ自身の内に求める。まさしく われわれの現存在(Dasein)の最終目的、すなわち道徳的使命(moralischen Bestimmung)を構成しているもののなかに求めるのである。[Ku.B.153/315-316] 「目的なき合目的性」―目的についての表象をともなわない合目的性の形 式―によって関心を呼び起こされる完全性の目的(ないし完全な目的)は、 私たちから絶対的に切り離されておりアクセス不可能なもの(不可能なもの以 上に不可能なもの)だからこそ、「シニフィエなきシニフィアン」ですらない ..... 「しるし=記号」、あるいはノン・ランガージュとしての一つのランガージュ となる。そして、そうした目的は私たちの外部に見出されない―概念的な表 象によらない―以上、内面へと折り返され、ここに主体としての現存在が誕 生する(とはいえ、これは継起的に生じるのでなく、事後的ないしアナクロニ ックに理解されなくてはならないだろう)。したがって、美しいものの判断 (純粋な趣味判断)において、自然を合目的に眺めることと、モラル的な関心 を抱くこと、そして内面の声に耳を傾けることは、「いわば意図的に、合法則 的な配置・構成に従って」類比的に....結びつけられている。

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純粋な趣味判断、つまりなんらかの関心に依存しないで適意〔快〕を感じさせ、この 適意〔快〕を同時にア・プリオリに人類一般にふさわしいものと考える純粋な趣味判 断と、これとまさに同じことを概念に基づいてなす道徳的判断との類比は、たとえ判 明で精緻な、前もっての熟考をしなくても、後者〔道徳的判断〕の対象に対するのと 同じく前者〔趣味判断〕の対象に対する同等の直接的な関心へと導くのであって、違 うのはただ、前者が自由な関心であるのに、後者は客観的諸法則に基づいた関心であ る、という点だけである。[Ku.B.153/315] 純粋趣味判断は、一切の関心(利益)を欠いた快でなくてはならない。すで に述べたように、モラル的な関心(intérêt/interest)をもつということは、そ れが自分にとっての利益(intérêt/interest)と無関係だということである。何 も得になることがないにもかかわらず、自然の美しさを観賞し愛でる人は徳を 積んでいる。しかし、その場合、自然の美しさの判断によって、モラル的な利 益が生じているのではないだろうか。利益がないことがモラル的次元において 関心をもたらす、あるいは利益がないことが逆に利益をもたらすという奇妙な 交差配列 キ ア ス ム である。デリダは、このディスクール全体に密かに織り込まれている 「ある一つの政治学とある一つのポリティカル・エコノミー(une économie politique)」を鋭く指摘する。 私たちにとってはなにも利益・関心のない、自然の産出から引き出されたモラル的な 収益。こんな自然の産出から、ひとは利益・関心なしに財=富を得ることになる。特 異な剰余価値である。つまり純粋な切断(=紙幣)の<なしに(sans)>から生じる、 独特の、モラル的な剰余価値である(singulière plus-value morale du sans de la coupure pure)。こうしたこと一切は、自然が示す痕跡(Spur)やしるし(Wink)と 必然的な関係をもっている。なにゆえ自然は私たちにしるし=記号を残しているのか といえば、それは、私たちが、純粋な切断の<なしに(sans)>ということにおいて、 それでもなお得をするよう、私たちの目的を満足させるよう保証されている、と感じ ることができるためである。さらにはまた、私たちの株〔評価〕や値打ちが、モラル 的な意味で、値上がりするのを眼にするよう保証されている、と確かに感じることが できるためなのである。(Derrida, J. 1975, 57頁)

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自然の美への感受性(関心)を持つということは、人格的な成熟の印と交換 されうる。こうして、交換不可能なはずのものが、あるエコノミーの過程へと 取り込まれてゆくのである。カントが導入する、「形式性/質量性」、「自由な 美/付随的な美」、「規定的判断力/反省的判断力」、「自然の美/アート(芸 術・美術・技術)の美」といった種々の区別ないし切断は、こうしたエコノミ ーを密かに、しかし強力に支えている。そしてこの政治的エコノミーが目指す のは、類推 アナロジー を介しつつ、一定の価値によって「合法則的」に秩序づけられ規則 的に循環する抜きがたい人間中心主義のヒエラルキーである(さらにいえば、 ここでの関心は、この世界(現世)においてモラル的な貯蓄をすることが、死 後の生での利益となるような、そうした利益=関心でもあるだろう)。 そうであれば、このエコノミーに取り込まれることができず吐き出されつづ けるものとは何だろうか? 趣味と味覚(Geschmack/goût/taste)は、たんに 隠喩的というだけでなく、むしろ表象不可能性において .......... 関連しているのではな いか? 芸術ア ー トは、「復讐、病気、戦禍など」についても、美しく叙述し、表象す ることができる。しかしカントは「ある種の醜さだけが、自然に即して表象さ れることはできない」と指摘する([Ku.B.166/344])。それはアートの美を台な しにするだけでなく、「嘔吐をもよおさせる醜さ」なのである。 それ(吐き出されるもの)は何かという問いが、そのものとして ....... ただちに不 適切な問いとなるような探究において、ひきつづき私たちは快・不快の彼岸へ 向かわなくてはならないだろう。 文献

Derrida, J. (1975) .Economimesis. Flammarion, Paris. 湯浅博雄・小森健一 郎(訳)(2006).エコノミメーシス,未来社.

Derrida, J. (1978) .La Vérité en Peinture. Flammarion, Paris. 高橋允昭・阿 部宏慈(訳)(1997)絵画における真理 上,法政大学出版局.

池田雄一(2006).カントの哲学 ―シニシズムを超えて―,河出書房新社. Kant, I. (1781/1787) .Kritik der reinen Vernunft. [KrV.B.] 原佑(訳)(2005).

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純粋理性批判(中),平凡社.

Kant, I. (1790) .Kritik der Urteilskraft. [Ku.B.] 宇都宮芳明(訳)(1994). 判断力批判(上),以文社.

Nancy, J-L. et al. (1985) La Faculté de Juger. Les Édition de Minuit, Paris. 宇田川博(訳)(1990).どのように判断するか ―カントとフランス現代思 想―,国文社.

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参照

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