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北大法学論集 第68巻 第1号 全1冊

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北大法学論集 = The Hokkaido Law Review, 68(1)

Issue Date

2017-05-31

Doc URL

http://hdl.handle.net/2115/65800

Type

bulletin (other)

File Information

lawreview̲vol68no1.pdf

(2)

北大法学論集

第 68 巻   第 1 号

中世後期ドイツ国王裁判権の活動としての確認行為(3・完)

 田 口 正 樹    1

「独占的状態の規制」に関する音楽著作権管理事業における再検討(4・完)

  ──独占禁止法第2条第7項と第8条の4の法解釈と適用──

 姜   連 甲   49

一部無効の本質と射程(5)

  ──一部無効論における当事者の意思の意義を通じて──

 酒 巻 修 也  135

脱离西欧中心主义性质的【市民社会】之发展与平等主义性质的自由主义   ── 为了东亚市场社会中的【法治】与【人权】问题 ──

 今 井 弘 道  366[  1]

徐 冬 睿 訳 個人情報の刑法的保護の可能性と限界について(6・完)

 佐 藤 結 美  344[ 23]

研 究 ノ ー ト

インフォームド・コンセントにおける仮定的同意(1)

 富 山 侑 美  306[ 61]

担保取引に関するUNCITRALモデル法の対訳(1)

 曽野裕夫・山中仁美  268[ 99]

北海道大学法学会記事    211

2017(平成29)年

北大法学論集第六八巻  第一号(二〇一七)北海道大学大学院法学研究科

THE HOKKAIDO LAW REVIEW

CONTENTS

ISSN 0385-5953

Vol. 68  May 2017  No. 1

ARTICLES

BestätigungalsTätigkeitderköniglichenGerichtsbarkeitimdeutschen Spätmittelalter(TeilIII)☆   MasakiTaguchi    1 AReexaminationofthe“RegulationofMonopolisticSituations”inthe MusicCopyrightManagementBusiness(4):LegalInterpretationsand ApplicationsoftheArticle2(7)andArticle8-4oftheAnti-MonopolyAct☆

 RenkouKyou   49

(LianjiaJiang)

L’essenceetlaportéedelanullitépartielle(5):

Contributionàl’étudedusensdelavolontédespartiesdanslathéorie delanullitépartielle   NaoyaSaKamaKi  135 ThedevelopmentofNon-Eurocentristiccivil-societyandthe

EgalitarianLiberalism:RuleofLawintheEast-Asianmarket

societyandtheHumanRight   Hiromichiimai  366[  1]

TranslatedbyDongRuiXu Thepossibilitiesandthelimitsofpersonaldataprotectionunder

Japanesecriminallaw(6)   YumiSaTo  344[ 23]

NOTE

DiehypothetischeEinwilligunginderInformedConsent(1)

 YumiTomiyama  306[ 61]

MATERIAL

UNCITRALModelLawonSecuredTransactions:English-Japanese

BilingualText(1)   HirooSonoandHitomiyamanaKa  268[ 99]

[ ]…Indicatesthepaginationforarticlestypesethorizontallythatbeginat theendofthejournal  ☆…IncludesanEuropeanlanguagesummary

Publishedby

HokkaidoUniversity,SchoolofLaw Kita9-jō,Nishi7-chōme,Kita-ku,Sapporo,Japan

(3)

平成29年5月24日  印 刷 平成29年5月31日  発 行  編 集 人

田 口 正 樹

 発 行 人 北海道大学大学院法学研究科長

加 藤 智 章

 印  刷   北海道大学生活協同組合 情報サービス部

札幌市北区北8条西8丁目 TEL 011(747)8886

 発 行 所 北海道大学大学院法学研究科 札幌市北区北9条西7丁目

TEL 011(706)3074 FAX 011(706)4948 ronshu@juris.hokudai.ac.jp

執筆者紹介

(掲載順)

田  口  正  樹 北海道大学大学院法学研究科教授 姜    連  甲 北海道大学大学院法学研究科高等法政教育研究センター協力研究員酒  巻  修  也青山学院大学法学部准教授

今  井  弘  道 北海道大学名誉教授徐    冬  睿 佐  藤  結  美 上智大学法学部法律学科准教授 富  山  侑  美 北海道大学大学院法学研究科博士後期課程 曽  野  裕  夫 北海道大学大学院法学研究科教授 山  中  仁  美 法務省民事局付兼外務省国際法局検事

齊  藤  正  彰 北海道大学大学院法学研究科教授

北海道大学大学院法学研究科・附属高等法政教育研究センター教員名簿

雑誌編集委員  *は大学院公共政策学連携研究部専任教員△は理事(副学長) (経法)(行学)(法学)(国法)(商法)(憲法)(政治思想史)(法学)(国法)  (行学)(行法)    芳太郎(法学)(商法)(憲法)    (民法)(刑事訴訟法)(国法)  (比法)(民法)(比法)(憲法)  (民事訴訟法)(労法)(国治)(憲法)(刑法)(行法)(法学) (商法)(経法)(民法)  (政治思想史)    三四彦(民法)(法学)(民法)  (行法)     (比法)(民法)      (政史)    信太郎(刑事訴訟法)  (国治)(法学)小名木    (刑法)(社会保障法)(行法)(日本法制史)児矢野    (国法)(政治思想史)(憲法)佐々木    寿(憲法)  (国法)(刑法) (民法)  (法学)(知的財産法)  (政学)(憲法)    晶比兒(経法)(経法)(商法)長谷川    (法学)      (民法)(民法)  (民事訴訟法)(法学)  (行学)(行学)(行法)(商法)(民法)  (知的財産法)(行法)    (民務)      (刑務)      (刑務)      (法実務基礎)      (法実務基礎)     壯太郎(民務)   (労法)(国法)(民法)(法論)  (商法)(民法)(民事訴訟法)(刑法)(行法)西(憲法)(民法)ハズハ・ブラニスラブ(知的財産法)(比治)(日本政治史)  (商法)(行学)山木戸 勇一郎(民事訴訟法)(民法)         (民法)      (比法)(行法)  知的財産法西      (民法)(刑事訴訟法)

(4)

   

中世後期ドイツ国王裁判権の活動としての確認行為 (三 完)

田   口   正   樹

論   

      目   次はじめに一.一三世紀後半から一四世紀初めまでの確認行為(一二七三

- 一三一三年)

二.ルートヴィヒ四世治世(一三一四

- 一三四七年)の確認行為

(以上六七巻五号)

(5)

四.カール四世のもとでの宮廷裁判所による確認行為   宮廷裁判官や支配者に代わる裁判官が、宮廷裁判所印章付きの証書を発行して、先行する証書などを確認する実践は、上述のように既にルートヴィヒ四世治世後期には出現していたが、カール四世期に入って更に数を増し、盛んに行われるようになった。

  宮廷裁判所による確認に関してまず注意すべきは、以下に見るように、この現象が基本的にフランケン地方において展開されていたことである。この地域的文脈は明白であり、その意味については後に考察する。

  時期的には、宮廷裁判所による確認は、特に一三六〇年代になって増加する。一三六〇年代は一般にカール四世の統治が最も安定した時期と評価されているが、先に述べた委任裁判官の行為の皇帝本人による確認の類型と同様、宮廷裁判所による確認の増加もまた、この時期の皇帝宮廷を中心とする裁判活動の活発化を示すものといえ る。  宮廷裁判所による確認に関しても、特徴的な一つの類型は、ユダヤ人にかかわる。すなわち、一三四八・四九年のユダヤ人大量殺害と追放に関連してカール四世が発行した特権状を、宮廷裁判所が確認するケースがかなり見られるのであ る。ユダヤ人に関して貴族や都市が結んだ和解をカール四世自身が後から確認する例は既に取り上げたが、それら 三.カール四世本人による確認行為(一三四六

- 一三七八年)

(以上六七巻六号)四.カール四世のもとでの宮廷裁判所による確認行為おわりに(以上本号)

(6)

中世後期ドイツ国王裁判権の活動としての確認行為(3・完)

とは異なる文脈で、宮廷裁判所による確認も行われたのであった。

  おそらく一三四九年八月に、宮廷裁判官フリードリヒ・フォン・ハイデックHeideckがケルンで発行した宮廷裁判所の証 書によれば、裁判所はフランケンの下級貴族ウルリヒ・シェンク・フォン・ガイエルンGeyernらの求めに応じて、同年七月にカール四世が彼らに与えた特権 状を確認した。証書に挿入された特権状は、ウルリヒらをユダヤ人に対する債務から免責するものであった。裁判所は全体判決Gesamturteilをもって、ウルリヒらがユダヤ人にいかなる義務も負わないこと、および教会裁判所・世俗裁判所においてウルリヒらに対して提起された訴えは無効であることを宣言 し、理由として国王はユダヤ人の身体と財産を自由に処分しうるという点を挙げ た。同様の証書は、一三五〇年一一月にも宮廷裁判官テッシェンTeschen公ウラディスラフWladislawにより、ニュルンベルクのドイツ騎士修道会のために発行されてい る。前述の宮廷裁判官ハイデックは、一三五〇年五月にも、フランケンに所領を持つエッティンゲン伯アルブレヒトのために国王が一三四八年一二月に出した特権状を、挿入したうえで判決により確認している が、特権状は伯がライヒから得ているレーン(封)と質入れを確認するとともに、伯の領内に住むユダヤ人の財産を伯に委ねるものであっ た。また、おそらく一三五〇年六月ごろにニュルンベルク市民ゴットフリート・シェファインGottfriedSchefeinおよびその妻アグネスのために出された宮廷裁判官の証書は、ニュルンベルクの二人のユダヤ人が保有していた家屋の夫妻への譲渡を確認してい (1

る。これは債務からの免責ではないが、ユダヤ人に対して関係当事者が利益を得る点では類似したケースと言える。

  同様な確認事例は、ユダヤ人大量殺害からかなり時間が経った後でも見られる。一三六〇年三月には、宮廷裁判官テッシェン公プシェミスルPřemys ((

lが、ニュルンベルク市民ウルリヒ・シュトローマーUlrichStromerが提示した皇帝証書(挿入されている)を宮廷裁判所の判決によって確認し (1

た。証書はカール四世が一三五五年四月に発行したものであっ

(7)

たが、追放前にユダヤ人に属していたニュルンベルク市内の二軒の家を、シュトローマーに贈与する内容であっ (1

た。このときの宮廷裁判所証書は、シュトローマーとその相続人の必要に応じて、ユダヤ人のもとでもキリスト教徒のもとでも、また裁判所の外でも内でも効力を有するべきものとされ (1

た。ここでも、もとのユダヤ人財産の帰属が問題となっていることが目を引く。一三六七年一月に皇帝に代わる裁判官ヘンネベルク伯ベルトルトは、ハイディングスフェルト

Heidingsfeldで証書を発行して、ヴュルテンベルク伯エーバーハルトの側から提出された一三六一年一二月の皇帝証書を挿入したうえで判決によって確認し、それが教会裁判所および世俗裁判所の内でも外でも、伯の必要に応じて有効であると宣言し (1

た。皇帝証書は、ヴュルテンベルク伯をユダヤ人のもとで負った債務から免れさせるものであった (1

が、その際に問題となっていたのは、一三四九年のユダヤ人殺害までに伯たちがユダヤ人とりわけシュトラースブルクのユダヤ人に負った債務であっ (1

た。時期的にかなり後になってからであるが、一三四八・四九年のユダヤ人大量殺害に関わる特権状が後に宮廷裁判所によって確認されるという、これまで見てきた事例に連なるケースである。この確認はしかしまた、シュヴァーベンの貴族が確認を求める主体として登場するという意味でも、注目すべきものである。後述の事例もあわせて考えると、ヴュルテンベルク伯エーバーハルトは、宮廷裁判所による確認という実践を、シュヴァーベン地方へも広げる役割を果たしたと評価することができると思われる。

  このように、一三四八・四九年のユダヤ人大量殺害に関係し (1

て、ユダヤ人の財産や債権を処分したカール四世の特権状について、別に宮廷裁判所が判決によってそれを確認していることは、興味ある現象である。少なくとも、確認を求めた特権状の受益者たちは、特権状を保有するのみでは、みずからの権利が十分に確保されない可能性があると見ていたのである。ユダヤ人が原告としてキリスト教徒を訴える裁判は、例えば一四世紀前半のニュルンベルクのラント裁判所についてかなり知られてお (1

り、カール四世によるこの種の処分について、提訴があった場合に備えて特に対応が必要

(8)

中世後期ドイツ国王裁判権の活動としての確認行為(3・完)

と考えられていたのかもしれない。しかし、カール四世の証書を宮廷裁判所が別に確認するというケースは、ユダヤ人関係のみにとどまらない。

  支配者が与えた裁判籍特権状を宮廷裁判所が確認する類型は、上述のようにルートヴィヒ四世期に現れていたが、カール四世治世に入って、更に多く見られるようになった。

  宮廷裁判官テッシェン公ウラディスラフは、一三五三年一二月にマインツで、ローテンブルク市の求めに応じて、一三四七年一一月にカール四世が同市に授与した特権状(挿入されている)を判決によって確認し、裁判所の内外で効力を有すべきものとし 11

た。国王の特権状は、ローテンブルク市民を市外の聖俗裁判所および国王宮廷裁判所への召喚から免除するものであっ 1(

た。前述のように、ローテンブルク市は既にルートヴィヒ四世のもとで、宮廷裁判所による裁判籍特権の確認を得ていた。宮廷裁判所からの免除を認めた特権を宮廷裁判所自身によっても承認されるのは、特権受領者にとって価値あることであったであろう。加えて、背景としてこれも前述したようなローテンブルク市とヴュルツブルク司教の争いがあったと考えられる。宮廷裁判所による特権状確認と同日に、カール四世は両者の和解に関してローテンブルク市あてに証書を発行 11

し、また市に対してローテンブルクのラント裁判所の保護を命じてい 11

る。更に一三五五年一二月にニュルンベルクで出された宮廷裁判所の証書において、宮廷裁判官ファルケンベルクFalkenberg公ボルコBolkoは、ローテンブルク市の求めに応じて、上述の一三五三年の証書を挿入したうえで宮廷裁判所の判決によって確認し 11

た。一三五九年五月にも、宮廷裁判官ファルケンベルク公はプラハで、やはりローテンブルク市のために、一三五八年一二月の皇帝証書を挿入したうえで確認し、同市および市民のためにすべての聖俗裁判所で効力を有するものとし 11

た。

  同じく一三五九年五月、このローテンブルクのための証書と同日付で、宮廷裁判官ファルケンベルク公は、フランケ

(9)

ン地方に隣接するオーバープファルツに主な拠点を持つ貴族、ロイヒテンベルクLeuchtenbergのラントグラーフ・ウルリヒとヨハンのために、皇帝カール四世が一三五八年一二月に彼らに与えた裁判籍特権状を挿入したうえで同様に確認し 11

た。確認を求める理由としてラントグラーフたちは、特権状がすべての法廷で効力を認められるように、という点を挙げてい 11

る。また、一三五六年一月にもファルケンベルク公は、ブルクハルト・フォン・ゼッケンドルフBurkhardvonSeckendorfのために、カール四世が一三四九年一〇月にブルクハルトに授与していた特権状を、挿入したうえで判決によって確認し 11

た。ここでも証書受領者はフランケン地方の下級貴族であるが、確認されたカール四世の特権状は、年市・週市の授与、流血裁判権の授与、都市法の授与、他の裁判所からの免除を含むものであった。最後の部分からすると、この件もやはり裁判籍特権の確認と見ることができる。

  一三六〇年代に入ると、フランケン地方の裁判籍特権受領者のために、皇帝が出した裁判籍特権状を宮廷裁判所が確認するというケースがまとまって出てくる。一三六〇年一一月に、宮廷裁判官テッシェン公プシェミスルはニュルンベルクで、バンベルク市の求めに応じて、カール四世が一三五五年七月に同市に与えた特権状を証書に挿入したうえで判決によって確認し 11

た。特権状は、ラント裁判所、ツェント裁判所、その他あらゆる裁判所で有効とされ、それに反して提起された訴えや獲得された判決は無効とされた。もとの特権状の内容は、バンベルク市民を市外の世俗裁判所への召喚から免除する裁判籍特権であっ 11

た。一三六一年一月に、皇帝に代わる裁判官ルードルフ・フォン・ヴァルトWartがニュルンベルクで発行した証書も、裁判籍特権の確認に関わる。フランケンのシトー派修道院ラングハイムLangheimが提出したカール四世の一三六〇年一一月の特権状は、修道院を保護下に置くとともに、皇帝宮廷裁判所、ニュルンベルク、ローテンブルク、バンベルクのラント裁判所などの世俗裁判所、ツェント裁判所、ラントフリーデ裁判所への召喚から免除し、皇帝自身ないし皇帝が特に委任した裁判官のもとでのみ裁判されることを認めるものであっ 1(

た。修道院

(10)

中世後期ドイツ国王裁判権の活動としての確認行為(3・完)

は、挿入されたこの特権状の確認、およびその侵害に対しては一〇〇金マルクの罰金が科されることの宣言を求め、判決を経てそのように確認がなされ、特権状は裁判所の内外で有効であるべしとされ 11

た。一三六二年三月には、皇帝に代わる裁判官シュヴァルツブルク・アルンシュタットSchwarzburg-Arnstadt伯ハインリヒのもとで、一三六一年一月にカール四世がフランケンのメルゲントハイム市に授与した証書が挿入されたうえで判決によって確認され、裁判所の内外で効力を有するべきものとされ 11

た。証書の内容は、すべてのラント裁判官等に対して、メルゲントハイム市民を裁判しないよう命じるものであっ 11

た。一三六四年五月に宮廷裁判官であったマクデブルクのブルクグラーフ・ブルクハルトがバウツェンBautzenで発行した証書によれば、フランケンのシトー派修道院エブラッハEbrachのために、カール四世が一三六三年三月に同修道院に与えた特権状が判決で確認され、裁判所の内外で効力を有するべきものとされ 11

た。証書に挿入された特権状はやはり裁判籍に関するもので、皇帝・国王以外の裁判所への召喚からの免除を保証するものであっ 11

た。

  一三六四年一二月に、皇帝に代わる裁判官ヘルフェンシュタインHelfenstein伯ウルリヒがプラハでネルトリンゲン市のために発行した三通の証書も、少なくとも部分的には、裁判籍についての特権の確認に関係す 11

る。第一の証書で確認された一三六一年三月の特権状は、市民に同市のアンマン以外の前で裁判されないことを保証する条項を含んでお 11

り、第三の証書で確認された一三六三年三月の皇帝証書は、ネルトリンゲンの市民と施療院Spitalをエッティンゲン伯ルートヴィヒによる訴えから免れさせるものであっ 11

た。一三六五年一月に皇帝に代わる裁判官テック公フリードリヒがプラハで発した証書によれば、ヴュルツブルクの聖シュテファン修道院の求めに応じて、その直前に皇帝が修道院に与えた特権状が宮廷裁判所の判決を経て確認され 11

た。挿入された特権状は、修道院について、ラント裁判所や世俗裁判所への召喚から免れさせ、皇帝宮廷の宮廷長官Hofmeisterのもとに裁判籍を指定するものであっ 1(

た。

(11)

  また、一三六六年四月に宮廷裁判官マクデブルクのブルクグラーフ・ブルクハルトがプラハで出した証書によれば、オッペンハイムのブルクマンたちの求めに応じて、一三五三年にカール四世が与えた特権状の写しが作成され、宮廷裁判所の印章が付されている 11

が、特権状は、オッペンハイムのブルクマンと市民は国王その他いかなる裁判官のもとへも訴えられず、ただ同地のシュルトハイスのもとへのみ訴えられると定めるものであっ 11

た。ただ、ここでは特権状が挿入されてはいるものの、宮廷裁判官による判決人への質問・判決人による決定・宮廷裁判官による確認という裁判手続がとられず、写しが作られたことだけが述べられている。特権状の授与自体からかなり時間が経っていることからすると、特に宮廷裁判所による認証が必要となるような何らかの事情があったものと思われる。また、中ライン地方のオッペンハイムのブルクマンという、フランケン地方からはずれる受領者のケースであることも、例外的である。

  宮廷裁判所による、フランケン地方の受領者のための、裁判籍特権の確認は、一三七〇年代にも引き続き行われた。一三七二年七月に皇帝に代わる裁判官シュレージェン・ブリーク公ハインリヒがズルツバッハSulzbachで発行した証書は、一三五五年にカール四世がディンケルスビュールに授与した裁判籍特権状を判決によって確認し、裁判所の内外で有効であるとし 11

た。挿入された特権状は同市市民をラント裁判所だけでなく宮廷裁判所への召喚からも免れさせるものであっ 11

た。一三七五年一二月には、同じく皇帝に代わる裁判官シュレージェン・ブリーク公ハインリヒがエーガーEgerで、ヴィンズハイム市の要請に応じて、裁判籍特権状を判決でもって確認し、裁判所の内外で効力を有するべきものとし 11

た。挿入された特権状は、一三五五年一一月と一三六七年一月にカール四世からヴィンズハイム市に授与されたものであり、同市市民を市外の裁判所への召喚から免れさせてい 11

た。一三七六年四月にはニュルンベルクで、やはり皇帝に代わる裁判官シュレージェン・ブリーク公ハインリヒが、バンベルク司教ランプレヒトの求めに応じて、一三四七年一一月にカール四世がバンベルク司教教会に与えた裁判籍特権状を判決によって確認してい 11

る。加えて、今

(12)

中世後期ドイツ国王裁判権の活動としての確認行為(3・完)

後、特権状に反していかなる世俗裁判所で得られた権利も、無効であるとされてい 11

る。

  一三七六年一〇月に皇帝に代わる裁判官ヴェルトハイムWertheim伯ヨハンが、バンベルク司教ランプレヒトのためにニュルンベルクで発行した二通の証書も、広い意味での裁判籍特権の確認に関わる。一通は前日にカール四世がザイフリート・クロプフSeyfriedKropfのバンベルク司教に対する訴訟に関して出した証書を挿入のうえ判決で確認し、すべての聖俗裁判所で有効であるとしている 11

が、当該証書においてはザイフリートが司教に対して宮廷裁判所で得た処分や権利がすべて撤回・廃棄されてい 1(

た。この確認は、まさに宮廷裁判所で下された決定の変更が皇帝によって行われたことに関係しているのであろう。もう一通は、一週間前にカール四世がバンベルク司教に授与した裁判籍特権状を挿入のうえで判決で確認し、やはりすべての聖俗裁判所で有効であるとしてい 11

る。特権状は、宮廷裁判所およびすべての裁判所やツェント裁判所からの免除を規定したものであっ 11

た。

  最後に挙げた一三七六年の確認に含まれているように、裁判手続関係の証書を確認する例は他にも見られる。一三六五年一月の皇帝に代わる裁判官テック公フリードリヒの証書は、フランケンのシトー派修道院ラングハイムの要望に沿って、一三六〇年一一月の皇帝証書が判決によって確認され、裁判所の内外で有効とされたことを伝える 11

が、挿入されたもとの皇帝証書はアルブレヒト・フォン・プンツェンドルフAlbrechtvonPunzendorfの同修道院に対する訴えに基づいてニュルンベルクのラント裁判所と宮廷裁判所で行われていた手続を撤回するものであっ 11

た。宮廷裁判所における手続をいったん否定した皇帝証書が、その後再び宮廷裁判所によって確認されている点は、上述の一三七六年の確認の場合と同様である。なお、同じ証書は、一三六五年三月に国王に代わる裁判官マクデブルクのブルクグラーフ・ブルクハルトによって、再度確認されてい 11

る。また、宮廷裁判官ファルケンベルク公ボルコは、一三五六年一月に、シュマルカルデンSchmalkaldenの参事会教会のために、前日付で出された皇帝特権状にあるように参事会教会の財産が差

(13)

し押さえられないことを、判決によって宣言し 11

た。この証書では、皇帝特権状は挿入されていない。皇帝特権状は差押えに関するものであったから、広い意味では裁判手続に関する特権状の確認であったと言える。

  こうした確認事例は、既にカール四世から特権状を得ていたにもかかわらず受領者が更に宮廷裁判所の判決と証書による確認を求めたことを示しており、興味深い現象である。確認を求めたのはほとんど、フランケンの諸侯、教会、修道院、都市であったが、彼らにとっては、カール四世が発行した特権状だけでなく、宮廷裁判所の判決を通じた確認を取っておくのが望ましかったのである。その際に宮廷裁判所証書が、裁判籍特権が各種の裁判所において、ないしは裁判所の外でも有効であると繰り返し宣言していたことは、裁判とそれに付随する手続という分野における裁判籍特権の作動をより明確にするという意義をうかがわせる。更に言えば、この種の確認事例は、そこで確認された裁判籍特権が、宮廷裁判所への召喚とそこでの裁判からも受領者側を免除するという内容をしばしば含んでいたということからも、あるいは説明できるかもしれない。特権状によって管轄を制限される裁判所からも特権内容について承認を得ておくことは、特権の機能を確実にするために有効な措置のように見える。しかし、確認されたすべての特権状が宮廷裁判所からの免除を含んでいるわけではないことに加えて、上述のように特権確認を求めているのがほぼすべてフランケンの勢力であるという所見は、むしろフランケン地方特有の原因が存在することをも示唆する。この点については、後の箇所で更に詳しく論じることにしよう。

  更に、ある受領者が得た多くの特権状を宮廷裁判所がまとめて確認するケースも一三六〇年代以降いくつか知られている。一三六一年六月に宮廷裁判官テッシェン公プシェミスルがプラハで発行した三通の証書は、いずれもニュルンベルクのブルクグラーフ・フリードリヒ(五世)のためのものであ 11

る。それぞれ、カール四世がブルクグラーフに与えた証書を、挿入のうえ判決を経て確認しているが、第一の証書は一三四七年一〇月に与えられた保護 11

状、第二の証書は

(14)

中世後期ドイツ国王裁判権の活動としての確認行為(3・完)

ニュルンベルクのラント裁判所を騎士によって構成することを認める一三四八年二月の特権 11

状、第三の証書はカールの皇帝戴冠直後の一三五五年四月に与えられた従前の諸特権状の確認証書であ 1(

る。一三六五年八月に、皇帝に代わる裁判官シュヴァルツブルク伯ハインリヒは、やはりブルクグラーフ・フリードリヒのために五通の証書を発行し、挿入された一三六三年から一三六四年にカール四世および選挙侯が出した文書を、宮廷裁判所の判決を経て確認し 11

た。確認されたのは、フリードリヒに諸侯としての権利を認めた皇帝証書 11

と、その措置に対する同意を表明する選挙侯の同意書Willebriefであった。ツォレルン家のブルクグラーフとカール四世との関係は、カール即位当初の緊張関係を経て、一三六〇年代には両家門の間で二度にわたって婚約が結ばれるなど、密接なものとなってい 11

た。宮廷裁判所による確認は、そうした関係をも背景として行われたと思われる。

  一三六五年一〇月に、宮廷裁判官マクデブルクのブルクグラーフ・ブルクハルトは、いくつかの証書で、皇帝・国王の特権状を確認した。そのうち三通はコンラート・ヴァルトシュトローマー・フォン・ニュルンベルクKonradWaldstromervonNürnbergのために出されており、森林長官Forstmeister職などの授封や森林規則に関する皇帝・国王証書が挿入のうえ確認され、裁判所の内外で、またラント裁判所やその他の裁判所で効力を有するべきものとされてい 11

る。その翌日に、ヘルフェンシュタイン伯ウルリヒのために出された証書は、挿入された皇帝による同年四月の授封証書を判決により確認している 11

が、宮廷裁判所で、ヘルフェンシュタイン伯はエッティンゲン伯ルートヴィヒによって代理され、当該授封証書自体もエッティンゲン伯の求めによって発行されたものであっ 11

た。ヘルフェンシュタイン伯はシュヴァーベンの貴族であるが、フランケン地方に所領を持つエッティンゲン伯によって媒介されて、宮廷裁判所による確認の受益者として登場しているものと考えられる。同日付で、そのエッティンゲン伯のためにも、同年八月の皇帝証書が挿入されたうえで判決によって確認されている 11

が、こちらは伯自身の裁判籍を宮廷に置くことなどを内容とし

(15)

た裁判籍特権であ 11

る。

  一三六六年一〇月に宮廷裁判官マクデブルクのブルクグラーフ・ブルクハルトが出した証書によれば、フランケンのシュヴァインフルト市の求めに応じて、挿入された特権状が宮廷裁判所の判決によって確認され、裁判所の内外で効力を有するべきこととされ 11

た。確認されたのは直接的には皇帝カール四世が一三六二年二月にボヘミア王として発行した同意書であるが、そこに含まれていたのは、一三六一年から六二年にかけて皇帝が同市に与えた三通の特権状で、あわせて包括的な諸特権を付与するものであった。このうち最も新しい一三六二年一月の特権状は、多くの特権と並んで、宮廷裁判所その他市外の裁判所での応訴から免除される地位を同市市民に与えるものであっ 1(

た。この特権状に対するカール四世の別の同意書も、もう一つの宮廷裁判所証書によって確認されてい 11

る。

  一三七〇年一〇月にはニュルンベルクで宮廷裁判官カッツェンエルンボーゲンKatzenelnbogen伯エーバーハルトのもとで、フランケンのシトー派修道院カイスハイムKaisheimのために多くの証書が宮廷裁判所により確認され 11

た。中には、ラテン語およびドイツ語で書かれたカール四世の証書の中から、特定の条項を選んで確認しているケースが見られるが、条項の中には裁判籍特権が含まれてい 11

る。また、皇帝の委任を受けた裁判官として活動したテック公フリードリヒが出した証書も確認対象となってい 11

る。特にヴィッテルスバッハ家の支配下に組み込まれるおそれがあった同修道院にとっ 11

て、特権確認は重要であったと思われる。

  一三七一年一〇月には、宮廷裁判官テッシェン公プシェミスルがピルナPirnaで数多くの証書を発行して、ニュルンベルク市に対してカール四世が授与した諸特権を判決によって確認し 11

た。内容を確認された多数の特権状はすべて挿入されており、一三四九年から一三七一年までにわたってい 11

る。ニュルンベルク市とカール四世およびその宮廷との間の緊密な関係が、こうした大量の特権状確認の背景にあるものと考えられ 11

る。

(16)

中世後期ドイツ国王裁判権の活動としての確認行為(3・完)

  一三六七年三月八日にはプラハで、宮廷裁判官マクデブルクのブルクグラーフ・ブルクハルトのもとで、パッサウ司教のためにいくつかの皇帝・国王証書が判決によって確認され、裁判所の内外で効力を有することとされ 11

た。確認されたのは司教とパッサウ市との争いに決定を下した一二九八年のアルブレヒト一世の国王証 1(

書、市に有利なルートヴィヒ四世による処分を撤回した一三四八年のカール四世の国王証 11

書、更にパッサウ司教に数々の権利を贈与した九九九年のオットー三世の皇帝証書であっ 11

た。これらの確認証書においては、それぞれのラテン語証書が読み上げられた後、ドイツ語に訳されたことが明記されている点も興味深 11

い。このケースでは、例外的にフランケン地方以外の特権受領者が登場しているが、その原因はパッサウ司教とパッサウ市の対立が宮廷裁判所に持ち込まれていたことにあると思われ 11

る。宮廷裁判所の手続は、一三六六年一二月に皇帝がパッサウ市を宮廷裁判所へ召喚したことに始ま 11

り、一三六七年三月二三日には市に三万銀マルクの支払いを命じる宮廷裁判所の判決が出され、同時に市にアハトが科されるべきことが宮廷裁判所判決により決定され 11

た。前記三月八日の確認は、宮廷裁判所の手続の途中において、司教側が自己の立場を根拠付けるべく、証書を提出して獲得したものだったのである。それゆえ、このパッサウ司教のケースに関しては、通常と異なる特別な状況を、確認が行われた原因として想定してよいであろう。

  このパッサウのケースを除けば、一部裁判籍特権も含みつつまとまって特権確認を受けている受益者は、またもフランケン地方にほぼ集中している。皇帝・国王の特権状や選挙侯の同意書などの関連文書を、宮廷裁判所による判決という形式で確認してもらい、宮廷裁判所印章を備えた証書の発行を受けるという行動は、やはりフランケン地方特有の環境に由来しているように見える。

  こうしたフランケン地方への関連事案の集中は、ラント裁判所における判決などを記したラント裁判所証書を、宮廷裁判所が判決で確認するという類型についても、基本的に同様である。フランケン地方を中心に、それに隣接する一

(17)

部地方に関連事例が見られるのである。ラント裁判所の証書を宮廷裁判所が判決で確認するという実践は、前述のようにやはりルートヴィヒ四世治世末期に始まっていたが、カール四世のもとで一層活発化した。

  カール四世期には、ニュルンベルクのラント裁判所が発行した証書を宮廷裁判所が確認する事例が数多く見られるようになった。最初のケースは、一三五六年一月に宮廷裁判官ファルケンベルク公ボルコが、短い期間に近接して行った確認行為の一つとして現れ 11

る。ファルケンベルク公はズルツバッハで、ブルクハルト・アウス・デア・アウエ

BurkhardausderAueの子フリッツのために、彼がニュルンベルクのラント裁判所で獲得した勝訴判決を確認し 11

た。ただし、ラント裁判所の証書自体は挿入されていない。ファルケンベルク公は同時に、フリッツのためにニュルンベルクのブルクグラーフ・ヨハンとアドルフの兄弟や、前述のブルクハルト・フォン・ゼッケンドルフなどのフランケンの下級貴族たちを保護者に任命している。更に、一三五九年一二月にプラハで宮廷裁判官マクデブルクのブルクグラーフ・ブルクハルトが発行した三通の証書は、フランケン地方の下級貴族アルブレヒト・フォン・プンツェンドルフのために、同年にニュルンベルクのラント裁判所で出された証書を、挿入したうえで確認するものであっ 11

た。もっとも、この確認は数日後の皇帝証書で否定された 1(

他、既述のように翌年には撤回されることにな 11

る。

  一三六一年二月に、皇帝に代わる裁判官ルードルフ・フォン・ヴァルトがニュルンベルクで発行した証書によれば、クニグンデ・グロッツライヒンKunigundeGrozzleichinが提出した一三六一年二月のニュルンベルクのラント裁判所の証書が確認され、裁判所の内外で、また聖俗の裁判所において効力を有するべきものとされ 11

た。挿入された当該証書自身、ニュルンベルクのシュルトハイスと参審人が一三五四年と一三五九年に下した判決を確認したものであった。一三六一年四月にはニュルンベルクにおいて、皇帝に代わる裁判官テッシェン公プシェミスルが、ハインリヒ・フォン・ヴェンクハイムHeinrichvonWenkheimの要望に応じて、一三五八年に出されたニュルンベルクのラント裁判所の証

(18)

中世後期ドイツ国王裁判権の活動としての確認行為(3・完)

書を挿入のうえ確認し、裁判所の内外で効力を有するものとし 11

た。確認された証書は、ハインリヒのための財産譲渡を記したものであった。

  一三六三年二月に、皇帝に代わる裁判官シュヴァルツブルク・アルンシュタット伯ハインリヒが発行した証書では、ニュルンベルクのブルクグラーフ・フリードリヒのために、同じ一三六三年二月のニュルンベルクのラント裁判所の判決が宮廷裁判所判決により確認されてい 11

る。挿入されたもとの判決は、裁判収入と流通税収入に関してニュルンベルクのシュルトハイスであったハインリヒ・グロスとコンラート・グロスの兄弟に対してブルクグラーフを勝訴させたものであった。一三六三年二月に同じく皇帝に代わる裁判官伯ハインリヒがニュルンベルクで発行した証書では、ニュルンベルク市民アルブレヒト・シュムゲンホッファーAlbrechtSmugenhofferが提示したニュルンベルクのラント裁判所の証書が判決によって確認され、裁判所の内外で有効とされ 11

た。当該証書は一三五九年一月に出されたもので、それ自体一三五八年一〇月にニュルンベルクのシュルトハイスと参審人が発行したアルブレヒトとその義母アンナ・フェルスレリンAnnaVelslerinとの間の嫁資に関する取り決めを記した証書を確認するものであった。

  一三六四年一一月に、皇帝に代わる裁判官ヘルフェンシュタイン伯ウルリヒがバウツェンで発行した二通のラテン語宮廷裁判所証書は、ニュルンベルクの森林長官オットー・コーラーKohlerとフランツ・コーラーのために、それぞれ一三六四年一〇月に発行されたニュルンベルクのラント裁判所の証書を、挿入のうえ判決で確認してい 11

る。それぞれのラント裁判所証書は、それ自体、従前の森林長官が皇帝・国王から得ていた特権を確認するものであり、第一の証書で確認された特権は、一二八九年一〇月の国王ルードルフ一世の証書に遡り、第二の証書の場合は一三〇九年六月のハインリヒ七世の証書に由来す 11

る。一三六四年一二月にプラハで、やはりヘルフェンシュタイン伯が発行した証書は、メルゲントハイムのドイツ騎士修道会地区長Komturにして同騎士修道会のフランケン管区Balleiの管区長Pflegerであっ

(19)

たマルクヴァルト・ツェルナー・フォン・ローテンシュタインMarquardZöllnervonRothensteinの求めに応じて、彼が一三六四年八月にニュルンベルクのラント裁判所でハインリヒ・フォム・シュタインに対して得た勝訴判決証書を、挿入のうえ判決で確認し、裁判所の内外で効力を有するものとしてい 11

る。

  一三六六年四月に宮廷裁判官マクデブルクのブルクグラーフ・ブルクハルトがプラハで発行した証書は、ネルトリンゲン市の要請を受けて、宮廷裁判所が同年三月のニュルンベルクのラント裁判所の証書を判決で確認したことを伝え (11

る。挿入されたラント裁判所証書は、ネルトリンゲンなどの都市と貴族に対する権利譲渡の判決を記したものであった。宮廷裁判官ブルクハルトは、一三六七年九月にもプラハで証書を出して、宮廷裁判所がウルリヒ・フォン・ラーバー

UlrichvonLaaberの要請を容れて、同年四月のニュルンベルクのラント裁判所証書を確認し、裁判所の内外で効力を有するものと宣言したことを伝えてい (1(

る。挿入されたラント裁判所証書は、ウルリヒにレーゲンスブルク市に対する権利を認めるものであった。

  一三七〇年九月には皇帝に代わる裁判官リーグニッツLiegnitz公ループレヒトが、ローテンブルクの女性市民グート・シュトレクフューゼンGutStrekfuezzinnのために、彼女に権利を認めたニュルンベルクのラント裁判所の判決を挿入のうえ確認し、裁判所の内外でまた聖俗の裁判所で効力を有するものとしてい (10

る。一三七八年三月に皇帝に代わる裁判官ゲアラッハ・フォン・ホーエンローエGerlachvonHohenloheがニュルンベルクで発行した証書は、宮廷裁判所がアイヒシュテットの司教座聖堂参事会のために、一三七八年一月のニュルンベルクのラント裁判所証書を挿入のうえ確認したことを記してい (10

る。このラント裁判所証書自体も、その約半月前のヒルシュベルクHirschbergのラント裁判所の判決を確認するものであった。

  以上のように、一三六〇年代を中心に、ニュルンベルクのラント裁判所証書の宮廷裁判所による確認が数多く伝わっ

(20)

中世後期ドイツ国王裁判権の活動としての確認行為(3・完)

ている。ニュルンベルクのラント裁判所は、国王ルードルフ一世によって一二七三年に、ツォレルン家のニュルンベルクのブルクグラーフに授封されていた (10

が、いわゆる皇帝ラント裁判所の一つとしてニュルンベルク近辺だけでなくフランケン地方で広い管轄を主張してい (10

た。しかし、それだけでなく、フランケンおよび隣接地方の他のラント裁判所証書の確認も行われている。

  ルートヴィヒ四世のもとで既に見られた、ローテンブルクのラント裁判所証書の確認は、カール四世治世からも伝わっている。一三六〇年一二月に宮廷裁判官ファルケンベルク公がニュルンベルクで発行した証書がそれであ (10

る。フランケンのシトー派修道院シェーンタールSchötalの代理人が提出したローテンブルクのラント裁判所証書は、下級貴族による修道院への所領売却を記したものであった。宮廷裁判所は挿入されたこの証書を判決によって確認し、それがすべての聖俗裁判所の内外で効力を有することを宣言した。また一三七二年五月にマインツで発行された証書で、皇帝に代わる裁判官リーグニッツ公ハインリヒは、ローテンブルク市民ハインリヒ・シュトリューヴェHeinrichStrüweのために一三七〇年五月に出されたローテンブルクのラント裁判所の判決証書を、挿入のうえ判決で確認し、裁判所の内外で効力を有すべきものとしてい (10

る。

  バイエルン公の支配下にあって、バイエルン公領を越える広い管轄を主張していた、アイヒシュテット司教区のヒルシュベルクHirschbergのラント裁判所についての確認事例もあ (10

る。その際、元のラント裁判所証書には皇帝が何らかの形で関わっていた。一三六〇年二月に宮廷裁判官ファルケンベルク公ボルコは、プラハで証書を発行して、ハインリヒ・フォム・シュタインの求めに応じて、ヒルシュベルクのラント裁判所の証書を挿入のうえ確認し (10

た。確認されたラント裁判所証書は、一三五八年八月に出されたもので、ハインリヒのために、皇帝カール自身、ブランデンブルク辺境伯ルートヴィヒ、アイヒシュテット司教ベルトルトらを保護者およびアンライターAnleiterに指定したものであっ ((1

た。宮廷

(21)

裁判所の判決によれば、ラント裁判所証書は教会裁判所であれ、世俗裁判所であれ、裁判所の内外で有効とされ、他のラント裁判所の権限を留保しつつ、ヒルシュベルクのグラーフシャフトとラント裁判所管区において効力を有するものとされ (((

た。一三六六年八月にニュルンベルクで、宮廷裁判官マクデブルクのブルクグラーフ・ブルクハルトは、フリードリヒ・フォン・ハイデックのために、一三六六年一月のヒルシュベルクのラント裁判所の証書を、挿入したうえで宮廷裁判所の手続を経て確認し、裁判所の内外で効力を有するべきものとし ((0

た。元のラント裁判所証書は、フリードリヒのために所領譲渡を確認し数多くの保護者を指定するものであったが、保護者の筆頭には皇帝自身が挙げられている。また、フリードリヒは、みずから宮廷裁判官をつとめたこともある、カール四世の宮廷に近いフランケンの貴族であった。このような皇帝との関係が、宮廷裁判所による確認の背景にあったものと思われる。

  同じようにバイエルン公の支配下にあって、バイエルン公領を越えて比較的広い管轄を主張していた、グライスバッハのラント裁判所の証書については、前述のようにルートヴィヒ四世期から確認例が伝わっているが、カール四世時代からも、ラント裁判所側が確認を求めた史料が残る。一三五六年一月に、当時バイエルン公からラント裁判所の質入れを受けていたテック公フリードリヒに代わってラント裁判所の裁判官をつとめていたネレンブルクNellenburg伯ヴォルフラムは、宮廷裁判官に対して、ラント裁判所証書の確認を求め ((0

た。すなわち、アウハウゼンAuhausen修道院が、修道院近くの牧草地に関してラント裁判所で判決を得たが、その後修道院側は更にその証書を最高裁判所(dazoberstegericht)へ持ち込んでそこで確認してもらうことができるかどうかの判断をラント裁判所に求め ((0

た。ラント裁判所は判決によってそれを可能と宣言し、伯ヴォルフラムは宮廷裁判官に対して修道院のためにラント裁判所証書を確認するよう要請した。その際に伯は、最高裁判所は下級裁判所を助けるべきであるから、と理由を述べてい ((0

る。ディーステルカンプが指摘しているように、最高裁判所という表現が現れる点でこの史料は注目すべきものである ((0

が、グライ

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