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(1)

中曾根康弘政権における日米同盟の拡大 : ペルシ ャ湾安全航行問題を事例として

著者 山口 航

雑誌名 同志社法學

巻 64

号 4

ページ 1409‑1455

発行年 2012‑09‑30

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014083

(2)

(    同志社法学 六四巻四号二二九

― ―

ペルシャ湾安全航行問題を事例として

山    口         

序 論

 中曾根康弘政権の対米外交は、経済面で摩擦を抱えたものの、安全保障関係において概して肯定的に捉えられている。中曾根政権が発足した当時、前任の鈴木善幸首相のもとで日米関係は﹁戦後最悪﹂と評されるまでになっており、中曾根はその修復に奔走した。その外交を川上高司は﹁日米関係の改善と進歩が最大の業績であった 1

﹂と評価し、草野厚は中曾根外交の実績として、﹁首脳同士の個人的信頼関係に基づく日米関係の修復﹂を指摘して、﹁西側の一員として日本の役割を国際的に明らかにしたことが重要である﹂と論じている 2

。また、村田晃嗣は﹁新冷戦下での日米同盟の強化は、ヨーロッパとアジアでアメリカと対峙するソ連の国力を分散・消耗させ、間接的ながら冷戦の終焉に大きく貢献した 3

一四〇九

(3)

(    同志社法学 六四巻四号二三〇

としている。このように、ガイドラインの制定によって日米同盟が深化する流れの中で、日米防衛協力や日米技術協力の緊密化など、中曾根政権期に﹁同盟の実質化 4

﹂が進んだことを先行研究は示している。 本稿は、日米同盟における中心部という概念を提示して、中曾根政権期の日米安全保障協力を捉え直す。日米安全保障条約に基づいた日米の安全保障協力、すなわち、日本有事に対処するという日米協力、および極東の平和と安定を目的とする日本の米国への協力を日米同盟の中心部とする。従来の中曾根外交研究は、日米同盟の中心部における連携の緊密化、すなわち深化という垂直方向への進展に主眼を置いていた。しかしながら、中曾根政権期には、深化のみならず中心部以外にもその役割を拡大しようとしたという、水平方向への圧力が存在したことを明らかにしていく。ここでの拡大とはたんなる地理的概念にとどまらず、国際安全保障への参画という機能的拡大も含む。 そのために焦点を当てるのが、イラン・イラク戦争時の一九八七年に生じた、ペルシャ湾安全航行問題である。ペルシャ湾に敷設された機雷を除去するためにアメリカなどが出兵し、それに対して日本も何らかの役割を果たすことが求められた。これは、ロナルド・レーガン(

R on ald W . R ea ga n

)政権のシグール(

G as to n J. Sig ur , J r.

)米国国務次官補をして﹁米政府にとって現下の最優先事項 5

﹂と言わしめた問題であった。海上自衛隊の掃海艇や海上保安庁の巡視船を派遣することを日本政府は試みるが、最終的には挫折し電波灯台を設置するなど非軍事的貢献に終始した。 この事例で注目すべきは、日米同盟の中心部以外において直接的な貢献が検討されたことである。従来、日米の安全保障協力は日米安保条約に基づいていたため、あくまでも日本および極東に限定され、日本が実質的に国際的な安全保障に参画することはなかった。それと対照的に、ペルシャ湾安全航行問題では自衛隊などを中東に派遣するという直接的な人的貢献が求められた。ここに、日米同盟の機能的および地理的な拡大が図られたのである。 これを日米同盟の拡大に失敗した一事例として看過すべきではなかろう。なぜならば、この後、日米同盟は拡大と深 一四一〇

(4)

(    同志社法学 六四巻四号二三一 化をさらに遂げていったからである。その第一歩は、湾岸戦争をめぐる一連の動揺の中で、自衛隊の海外派遣が実現したことであった。その後も日米安保が再定義され、新ガイドラインが策定され、九・一一後はインド洋およびイラクに自衛隊が派遣された。このような日米同盟の範囲と程度における進展は、今日においてもなお継続している日本外交の主要なイシューの一つとなっている。 ペルシャ湾安全航行問題は、以上のように日本外交における意義が認められるにもかかわらず、学術的で詳細な研究はほとんどなされていない 6

。この事例に言及される場合も、後藤田正晴官房長官が果たした役割の大きさ、および中曾根と後藤田との意見の齟齬という、個人のレベルのエピソードに還元されてもっぱら描かれる 7

。 そこで、本稿は、情報公開法により入手した公文書やインタビューの成果を盛り込みつつ、ペルシャ湾安全航行問題を詳細に追うことによって、中曾根政権期の日米同盟の緊密化を捉え直すことを目的とする。具体的には、中曾根政権はなぜ日米同盟の拡大を模索したのか、日米同盟の中心部以外における問題をどのように認識し、それにいかに対応しようとしたのかを論じていく。その上で、本事例と湾岸戦争後の自衛隊ペルシャ湾派遣との連関を示し、中曾根政権期における拡大と深化という二方向の圧力の存在が、冷戦後にどのようなインプリケーションをもたらしたのかに迫る。 以下、第一章では日米同盟の中心部という観点から中曾根政権までの戦後日本外交を瞥見する。第二章にてペルシャ湾安全航行問題が浮上してきた経緯および背景を概観し、第三章で日本国内における政策形成過程および官僚機構の認識を、掃海艇および巡視船の派遣計画に注目して明らかにする。そして第四章において、後藤田官房長官の反対によって人的貢献が挫折し、経済支援にとどまったことを追う。最後に、ペルシャ湾安全航行問題を、今日の日本外交にも通底する、日米同盟の拡大および深化の一側面を示すものとして跡づける。

一四一一

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(    同志社法学 六四巻四号二三二

一 日米同盟の中心部における深化

⑴ 日米安全保障条約とガイドライン 今日まで至る日米同盟の根幹をなすのは、一九六〇年に締結された、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(以下、日米安保条約)である。第五条で日本防衛のために米国が日本に協力し、第六条にて﹁日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため﹂米軍が日本の基地を利用することになった。この﹁物と人との協力

)8

﹂が日米安保条約の基本原理である。 日米安保条約発効後二〇年近くもの間、有事に備えた日米防衛協力はほとんど進展しなかったにもかかわらず、このことが日米間で大きな争点となることはなかった。日本が経済的に大きくなるまでは、米軍が自衛隊と作戦上の協力を進める意義はほぼなかったからである 9

。しかも、一九七〇年代の前半、米国は日本の急激な防衛力増強には消極的であった。米国が日本の中立化志向や自主的行動を警戒して、日本に﹁西欧向きの姿勢﹂をとらせることを基本的な政策としていた結果、そして日本の軍国主義復活を恐れる東アジア諸国の動向を鑑みた結果であった。したがって、米国の対日要求の主眼は、在日米軍基地の自由使用や経済援助の拡大、米軍行動への積極的な支持と共同責任の分担にあった ₁₀

。 事態が動くのは七〇年代半ばになってからである。当時、国内的にはポスト第四次防衛力整備計画の動きが本格化し、国際的には米国のアジア離れが懸念されるようになっていた。そこで、防衛庁は日米防衛協力の話し合いを公式に進展させていく ₁₁

。その日米間の協議が結実したものが、一九七八年に策定された日米防衛協力のための指針(以下、ガイドライン)である。これにより侵略を防止するための態勢の強化、日本有事の共同対処や極東有事の日米協力が明文化された ₁₂

。ガイドラインの策定過程において、日米は軍事的にあるいは運用上緊密化したのみならず、デタントの終焉とい 一四一二

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(    同志社法学 六四巻四号二三三 う国際情勢への認識をも共有することになる ₁₃

。 それまでは、自衛隊の行動範囲は日本領域内、米軍のそれは日本領域外と地理的に規定されていた。この垣根をガイドラインが取り払った結果、日米共同作戦が活発に行われるようになる ₁₄

。たとえば、一九八〇年には、米海軍主催の軍事演習、リムパック(

R im pa c

)に海上自衛隊が初めて参加している。﹁物と人との協力﹂という日米同盟の基本的な構造は変化しなかったものの、共同作戦という﹁人と人との協力﹂の要素も取り入れられるようになったと表現できよう ₁₅

。 このように、ガイドラインによって日本防衛のための防衛計画 ₁₆

と訓練が認知されたのと同時に、日米安保条約第五条の日本防衛の一環として、シーレーン防衛が日米防衛協力の正当な分野とされた。﹁海上自衛隊及び米海軍は、周辺海域の防衛のための海上作戦及び海上交通の保護のための海上作戦を共同して実施する﹂とガイドラインに明記されたことで、防衛庁の一部で検討されたに過ぎなかったシーレーン防衛が、日本政府全体に認められることになった ₁₇

。 このことは日本の戦略的重要性にとって大きな意味を持つ。地理的に考えて、日本列島はソ連太平洋艦隊が太平洋に進出する際の出口に位置していた。したがって、日本が防衛力を増強し、日本および日本周辺の海域や空域の防衛に尽力することは、ソ連太平洋艦隊の封じ込めにもつながり、米国を中心とする西側の戦略的利益に資することとなったのである ₁₈

。 これを受け、一九八一年五月の日米首脳会談の後、時の総理大臣鈴木善幸は日本周辺数百海里とシーレーン一〇〇〇海里の防衛に言及した。いわゆる﹁シーレーン防衛構想﹂である。鈴木首相はみずからの発言の意味を十分に理解していなかったといわれるが、外務省の高官や自民党の国防族は、レーガン政権の担当者たちとの密接な協議を通じて、シーレーン防衛の意味を正確に理解していた ₁₉

一四一三

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(    同志社法学 六四巻四号二三四

⑵ 中曾根政権による深化の加速 日米同盟の中心部が深化していく流れを強く推し進めていったのが、一九八二年一一月に発足した中曾根康弘政権である。まず、防衛関連費の増額を指示するとともに、日本からの技術移転を求めるアメリカの声に応じて、武器輸出三原則を緩和し対米武器技術供与に踏み切った。先の鈴木政権が、防衛費においてアメリカを満足させておらず、武器輸出三原則の緩和に難色を示していたのとは対照的であった。 さらに、中曾根は鈴木の﹁シーレーン防衛構想﹂を包含する﹁不沈空母﹂論と﹁四海峡封鎖(のちに三海峡に訂正)﹂論を表明する。第一に、日本列島はバックファイヤー爆撃機(

B ac kfi re

)の侵入を阻止する巨大な防護壁となる不沈空母であるべきである。第二に、日本列島の四海峡を全面的にコントロールし、ソ連の潜水艦や水上艦艇の通過を許さない。第三に、海上防衛範囲を数百海里に拡大し、グアム東京間および台湾海峡大阪間のシーレーン防衛を達成すべきだ。このように中曾根は防衛論を展開した ₂₀

。この宣言はパフォーマンスの側面が強かったと見ることもできよう。しかし、結果的には、レーガン大統領の賞賛を得て、良好な日米関係が始まったのであった ₂₁

。 中曾根の防衛論を踏まえ、一九八三年三月には日米防衛協力小委員会でシーレーン防衛共同研究の実施について合意され、一九八六年まで研究が実施された。戦術や装備において日米間で共通性を確保する、相互運用性の研究も一九八四年から始まる。さらに、レーガン政権の求めに応じ、戦略防衛構想(

St ra te gic D ef en se In iti at iv e: SD I

)研究への参画も決定された。 日本の防衛力自体も着実に増強される。一九八五年には中期防衛力整備計画が策定された。この計画は、防衛計画の大綱を基礎とすることを建前としつつも、実質的には、日米協力を強化し、対ソ封じ込めを可能とする防衛力の整備を目指していた ₂₂

。これに加え、防衛費の対GNP比一%枠も撤廃する。レーガン政権は、日本が自らの領土、周辺海域と 一四一四

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(    同志社法学 六四巻四号二三五 空域、および一〇〇〇海里のシーレーンの防衛を引き受けることをかねがね望んでいた ₂₃

。中曾根政権の一連の動きは米国の意向に沿うものであった。 留意すべきは、これらの決定が、あくまでも日米安保条約やそれに関連する取り決めの趣旨に沿ってなされたことである。防衛力の増強はもとより日本防衛のためであり、共同訓練などの日米防衛協力もガイドラインで日本防衛の一環として認知されていた。また、日米技術協力も日米安保条約に基づいている。対米武器技術供与は技術の相互交流の一環として、﹁防衛分野における日米間の相互協力を定めた日米安保条約及び関連取極の趣旨﹂に沿い﹁我が国及び極東の平和と安全に資する﹂とされた ₂₄

。SDI研究への参画もこの技術交流の流れに位置づけられる。米国のSDIに対する戦略的野心が耳目を引いたが、SDI研究への参画もあくまで﹁従来からの防衛分野における米国との技術交流と同様に取り扱うとの立場に立って ₂₅

﹂なされた。すなわち、防衛力増強および日米防衛協力、日米技術協力という、中曾根政権の一連の対米協力は、日米同盟の中心に属する事柄であったのである。 では、なぜ中曾根政権期に、日米同盟の中心部における深化が著しかったのであろうか。もとより、中曾根総理大臣のリーダーシップの存在を忘れることはできない。日米間の懸案をトップダウン型の政策決定を用いて解決し、ロン・ヤス関係に象徴される日米関係の一時代を築いたことは事実である。しかしながら、すべてを中曾根個人の役割に帰することもまたできまい。なぜならば、シーレーン防衛の研究などは中曾根の前任者たる鈴木総理大臣の頃から始まっており、指導者が中曾根でなくとも漸進的な変化は生じていたと考えられるからである ₂₆

。中曾根はガイドラインの策定に始まる日米の緊密化を加速させたと表現する方がより正確であろう。 したがって、当時日米関係の緊密化が進展した要因は、中曾根個人の役割のみならず、国際的な環境と、日米おのおのの国内事情にも求められる。

一四一五

(9)

(    同志社法学 六四巻四号二三六

 国際的には、日本の重要性が向上し、ソ連の脅威が増大していた。サミット体制を通じて、日本は政治と経済のみならず、安全保障面でも西側主要先進国の一員に列した。日本のプレゼンスが向上したことをうけ、日本が応分の負担を負うことは当然であると、米国では日本に対する防衛力増強の期待が次第に高まっていった ₂₇

。そもそも、世界第一位の経済と第二位の経済の間では、冷戦の有無にかかわらず、適切な役割分担を求められることは避けられなかったのである ₂₈

。さらに、七〇年代の後半にはソ連が顕著な軍拡を開始し新冷戦に突入していた。ソ連は東アジアにおける軍事力を増強したのみならず、第三世界に介入する能力と意図を見せつける ₂₉

。ソ連がアフガニスタンに侵攻し、ベトナムのカンボジア侵攻を支援したことは、日米の協力関係が進展する触媒となった ₃₀

。 日本の政治に目を向けると、日米安保体制を支持する土壌が成立していた。従来、政府や官僚組織内では、日本の安全保障政策の基本方針をめぐって、日米安保中心か自主防衛かということが議論になっていた。しかしながら、この時期には、中曾根、防衛庁と外務省、そして自衛隊という政官軍の一体化ができたことで、日米安保協力強化という路線が決定づけられている ₃₁

。さらに、保守陣営が優位に立つ中で国防族の重要性が増しており、防衛力増強に反対する国内の声にあまり注意を払う必要がなくなっていた ₃₂

。 一方、米国では政権が交代するとともに、日本に対するアプローチにも変化が見られた。ジミー・カーター(

Ja m es

E . C ar te r, J r.

)政権は、具体的な数値を示して日本に防衛費増額を迫っていた。しかし、この方法が不調に終わったため、跡を襲ったレーガン政権は別の方策をとる。すなわち、役割と任務に基づいて、防衛協力について協議することになった。米国は対ソ封じ込めのための日米欧共同作戦努力を呼びかけ、日本をヨーロッパ並みに扱うことによって、日本の自発的な努力を期待したのである ₃₃

。国防族の政治家に非公式に働きかけた点も、日本の防衛努力が不十分であると公に批判したカーター政権と異なっていた ₃₄

一四一六

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(    同志社法学 六四巻四号二三七  以上のように、日米同盟は深化、いわば垂直的な進展を遂げたが、この時期における日米同盟の深化が十分であったとは言い難い。なぜならばあくまでも日本有事が想定されていたからである。日米安保条約第六条に示された、極東有事についての具体的な計画は等閑に付されてしまった ₃₅

。これは、対ソ戦略上、日本の軍事的重要性が増し一見理解しやすい役割分担が成立した結果であり、日米関係の緊密化を推進した中曾根政権でさえも、この限界を克服することはできなかった。 さらに、いかに防衛費を増額し防衛体制を強化しようとも、対GNP比で西側諸国と同様の水準に防衛費を引き上げることは、日本にとって事実上不可能であった。日本は経済規模が大きく、戦略環境も西側諸国と異なっていたからである ₃₆

。自衛隊の実力は、ヨーロッパの中規模国とほぼ同等であるともいわれる ₃₇

。冷戦構造に支えられ、なおかつ内向きの世論をもった国家に、急激な軍備拡張は望むべくもなかった。 そこで、中心部における限界を相対化させるために考えられたのが、日米同盟をより幅広く捉え直し、日本や極東の有事における協力という分野以外においても対米協力を行うことである。これは日米同盟の範囲における拡大、いわば水平的な広がりであった。 その最たるものが戦略援助である。防衛費だけではなく対外経済協力費もあわせた﹁総合安全保障﹂経費で西側に貢献しようとしたのである ₃₈

。この経済援助という手段は、日本国内で支持を集める。動機は多様であったものの、労働組合、メディア、知識人、財界およびすべての政党など、様々なアクターが経済援助に賛意を表していた ₃₉

。防衛予算とは違い論争を呼ぶこともなく、経済援助は﹁平和国家﹂として発展途上国に支払わなければならない対価であるとほとんどの日本人にみなされていた ₄₀

。 ただし、一九八〇年代初頭には、経済援助が軍備拡張や防衛努力を代替するとアメリカは決して認めなかった。しか

一四一七

(11)

(    同志社法学 六四巻四号二三八

し、中曾根政権が防衛政策を強調し、米政権が日本の責任分担に対する態度を変化させると、米国も日本の議論に理解を示すようになる ₄₁

。戦略援助の目的が、米国を中心とする西側諸国への貢献にもあったことを考えると、日本の対米協力が、経済的な分野において日米同盟の中心以外に拡大していったといえよう。 だが、米国への協力という文脈においては課題が残った。戦略援助は一定の成果をあげたものの、激化する日米貿易摩擦を背景とした日本への反感を前にすると、ほとんど意味をなさなかった。日米同盟の中心以外における経済的な協力のみでは、中心部の安全保障協力を必ずしも補完することができなかったのである。

二 ペルシャ湾安全航行問題と米国

⑴ イランの機雷敷設と米国の対応 一九八〇年九月、イラクがイランの空港を奇襲し、イラン・イラク戦争 ₄₂

が勃発した。両国の国境を定めたアルジェ協定を、イラクのフセイン(

Sa dd am H us se in

)大統領が一方的に破棄したのである。 一九八四年二月にはイラクが口火を切り、イランとイラクが双方のタンカーに攻撃を加えるようになった。次第に相手側と取引のある第三国のタンカーも無差別に攻撃しはじめ、事態は深刻化していた ₄₃

。さらには、イラクの原油輸出を阻止するため、イランが浮遊機雷による封鎖作戦を実施し、ペルシャ湾の安全航行が一層脅かされることとなった。イラン・イラク戦争を通じて、四〇七隻の各国民間船舶が被弾し、三三三人の船員が死亡、三一七人が負傷することになる。そのうち、被弾した日本船は一八隻、死者は二人、負傷者は一九人にのぼった ₄₄

。 タンカー攻撃に耐えかねたクウェートは、一九八六年末に米国とソ連にタンカーの護衛を依頼する。クウェートは共 一四一八

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(    同志社法学 六四巻四号二三九 産圏との関係も深かったので、ソ連は駆逐艦一隻と掃海艇三隻をただちに派遣する。これに衝撃を受けたのがアメリカである。西側の経済の要衝ペルシャ湾に、ソ連の艦隊が招かれるのを傍観するわけにはいかなかった ₄₅

。 クウェートのタンカー警護に関してクウェートとソ連が交渉したことを知った後、レーガン大統領は、一九八七年三月四日の朝食会で、フランク・カールッチ(

F ra nk C . C ar lu cc i

)国家安全保障担当大統領補佐官、キャスパー・ワインバーガー(

C as pa r W . W ein be rg er

)国防長官、ジョージ・シュルツ(

G eo rg e P. Sh ult z

)国務長官と方針を決めた。もしクウェートがソ連の港湾施設へのアクセスを認めないのであれば、クウェートの要求に応じ、タンカーを警護して海軍のエスコートをすることとなった。これに対しクウェートは米国の条件を拒否するが、それにもかかわらず、結局米国はクウェートのタンカーの警護を進めることになる ₄₆

。 米国がクウェートのタンカー保護を決定したのは、クウェートの思惑通りであった。そもそもクウェートは、ソ連ではなくアメリカの護衛を望んでいた。しかしながら、アメリカの腰が重かったため、ソ連を巻き込むことによってアメリカをペルシャ湾にコミットさせようとした ₄₇

。アメリカが支援しないのであればソ連の力を借りるという、一種の﹁弱者の恫喝﹂であった。米国がペルシャ湾でプレゼンスを示すことは、ソ連の影響力増大を阻止するという対ソ戦略上の狙いもあったのである。 このようにしてペルシャ湾に関わった米国とソ連は、それぞれ新たな事態に巻き込まれる。一九八七年五月一六日にはソ連のタンカー、チュイコフ(

M ar sh al C hu ik ov

)がクウェート沖で触雷し被害を受けた ₄₈

。さらに、翌一七日、民間タンカーを護衛していたアメリカのフリーゲート艦スターク(

St ar k

)が、イラク軍機のミサイルによって攻撃される。米艦艇がペルシャ湾で攻撃されたのはこれが初めてであった。米国はイラクと友好関係にあったためこの攻撃を誤爆であるとしつつも、イラク政府に抗議する ₄₉

。この死者は三七人に上った ₅₀

一四一九

(13)

(    同志社法学 六四巻四号二四〇

 それでも米国のコミットメントは続く。触雷の被害が多発したことを受け、米海軍の専門家チームがペルシャ湾で掃海作戦を開始した ₅₁

。さらに、米海軍はクウェートのタンカー一一隻に米国籍を登録させた上で、そのタンカーを護衛する。ミサイル巡洋艦九隻を含む艦艇一五隻、空母コンステレーション(

C on st ell at io n

)、および搭載機F

ト以ベ戦ナム戦争来れ最大規模の護、さ作機たっなと五〇以定上の動員が決衛 ₅₂

14

な機空航ど

。だが、米海軍の大規模な作戦にもかかわらず、クウェートのタンカーが触雷するという事件も発生し、状況は悪化していく ₅₃

。湾岸地域におけるコミットメントを拡大すると同時に、米国は国連を通じて戦争を終結させるという外交戦略をとっていた。その結果、イラン・イラク戦争の即時停戦を求める国連安保理決議五九八号も採択されたが、戦火は収まらなかった。 ただし、湾岸地域へのコミットメントに関して、米国が一枚岩でなかったことは特筆に値する。民主党主導の議会を中心に米国内には、レーガン政権の対応に対する批判も強かった。例えば、米国は十分な石油を保有しているから、たとえペルシャ湾の石油輸送が脅かされても、米国民にとってはあまり深刻な事態とはならない。あるいは、クウェートの要請に応えることは、米ソ関係を損なう。そもそもクウェートは米国にとって信頼のできる友人ではなかった。という議論が巻き起こった。さらに、議会は﹁戦争権限法﹂でレーガン政権の権限を制限しようともした ₅₄

。 米国によるクウェートのタンカー護衛に関して、国防総省と安全保障委員会は賛成し、国務省は反対していた。海軍は、護衛にはコストがかかるため他の長期的な計画に支障が出ることや、人命や艦船の喪失に繋がることを危惧して、消極的であった。レーガンが最終的な決定を下した後も、必要な軍事力の大きさを巡り海軍は反論を試みている。ジェームズ・ウェッブ(

Jim W eb b

)海軍長官は反対を明確に表明し、米国にはっきりとした目標がないために、国民の支持を得ることも兵力を維持することもできず、さらに同盟国や友好諸国からの支持も期待できないと主張した ₅₅

。 それにもかかわらず、レーガン政権がペルシャ湾の安全航行問題に積極的であったのは、ソ連にこれ以上の海軍力を 一四二〇

(14)

(    同志社法学 六四巻四号二四一 湾岸地域に投入させないためであった。もし米国がクウェートの要求に応じなかったときに、国民から非難されることが危惧された ₅₆

。また、イラン革命の教訓も大きな要因であったと、ワインバーガーは回想する。米国は長期にわたりイランの国王に大きな援助をし、ソ連の中東侵略を阻止するためにイランがいかに重要かをいくども強調してきた。しかし、イラン革命が起き、イラン国王が最大の危機に瀕したときに米国が彼を見捨てたことは、湾岸諸国のアメリカに対する信頼度を著しく低下させたのであった。もしクウェートの要請を断れば、﹁アメリカは危機の時には頼りにならず、また決して強くもなく、役に立つ友人でもない﹂と評価されることをワインバーガーは恐れていた ₅₇

。さらに、シュルツによると、一九八四年にベイルートからアメリカが撤退したことも、同様の見捨てられの恐怖をアラブ諸国に与えたという ₅₈

⑵ 各国の対応 米国は西側諸国にも掃海艇の派遣を要請した。背景には米海軍の事情がある。米軍はベトナム戦争時の旧型掃海艇を二十数隻しか保有しておらず、実戦配備されていたのは三隻のみだったのである。空母や潜水艦、戦略核システムに重点的に投資し、局地戦術兵器を軽視した結果であった ₅₉

。強大な軍事力を誇る米軍も、掃海という分野においては、グローバルな優位性を確保することができなかった。冷戦の勝利を目前に控えながらも、米軍のパワー・プロジェクション能力の限界が露呈することになる。 だが、米軍の呼びかけに西欧諸国は応じなかった。イギリスやオランダは要請を事実上拒否する ₆₀

。フランスも独自に空母をペルシャ湾に派遣することを決めたため、掃海艇の派遣には難色を示した ₆₁

。西ドイツ政府は憲法を理由に拒否している ₆₂

。イタリアも関与するつもりはないことを表明した ₆₃

一四二一

(15)

(    同志社法学 六四巻四号二四二

 しかし、事態は一転する。八月一〇日に、パナマ船籍の米タンカーがペルシャ湾の外側のオマーン湾で浮遊機雷に触雷した。それまではホルムズ海峡の外側は安全と見られていたが、これによりその神話が崩れるのである。この件を受け、翌一一日には、早速イギリスが機雷掃海艇四隻と支援船一隻を、フランスが掃海艇二隻および同行の船団をそれぞれ派遣することを決定した ₆₄

。 最終的には、アメリカとソ連に加え、イギリスとフランスが八月中旬にペルシャ湾に掃海艇などを送り、イタリア、オランダ、ベルギーも続いた ₆₅

。また西ドイツも最終的に地中海に艦艇を派遣した ₆₆

。 さらに、イランまでもが掃海艇を派遣することを表明する。自国の原油を積載した船舶が触雷したことを受け、イランは﹁オマーン湾の機雷敷設は、すべての湾岸諸国の脅威であり、ペルシャ湾への軍事介入を正当化しようとする狙いを持ったものである﹂とした ₆₇

。 かくして、ペルシャ湾安全航行問題は、中東の一海域というリージョナルな問題から、東西両陣営の国家がコミットする、国際的な安全保障の問題へと変貌を遂げていったのである。

⑶ 米国の対日要請 日本では、米国議会や世論を中心とする日本の貢献を求める声の高まりが、当時の政策決定者に認識されていく ₆₈

。なかんずく、五月に米海軍のスタークが攻撃を受けた件によって、ペルシャ湾の安全航行がにわかに国際社会、特に米国議会の注目の的となった。ペルシャ湾における安全航行を守る際に、利益を有している米国以外の国もリスクとコストを分担すべきではないかという声が米議会からあがったのである ₆₉

。 たとえば、五月二〇日には、米上院のボーレン(

D av id L . B or en

)情報特別委員長が、ペルシャ湾の海上輸送防衛の 一四二二

(16)

(    同志社法学 六四巻四号二四三 ために日本やフランスの﹁責任の分担﹂を求める書簡を大統領に送る。サッサー(

Ja m es R . S as se r

)上院議員、トリセリ(

R ob er t G . T or ric ell i

)下院議員、ケンプ(

Ja ck F . K em p

)下院議員、スターク下院議員(

F or tn ey H . S ta rk , J r.

)なども相次いで、日本や欧州諸国がみずからの国益を守るために十分な責任を果たしていないと批判した ₇₀

。さらに、米下院は、西側の一員の果たすべき責任として、日本が防衛予算を対GNP比三%にするか、それ未満の場合はその差額を米国に支払うよう求める法案を可決する ₇₁

。 さらに、米軍からも不満が噴出する。横須賀を母港とする空母ミッドウェーの艦長も、日本は中東の石油輸送ラインの恩恵を最も受けているにもかかわらず、その防衛に貢献していないと日本の対応を批判した ₇₂

。 政府レベルでは、﹁大事なことは、湾が んの安全保障とペルシャ湾の航行安全確保に日米は共通の利害を有していることを明確に認識することであり、日本が目に見える形で、できるだけ具体的なこ うけんを行っていただくことは極めて有用(

H E L P F U L

₇₃

﹂と考えていることや、﹁湾内における自由航行を守りまたこの地域の穏健諸国の安全保障を促進するための西側の努力を具体的に支援する方法を見出されることを希望する ₇₄

﹂こと、レーガン大統領が﹁この点についての貴総理の御返事或いは、我々共通の目標に対する日本の最も効果的な貢献についての貴総理御自身の何らかのお考えについて伺うことを強く望んでいる ₇₅

﹂ことを米国が日本に伝えている。 このように、米国は日本に対して様々なルートで貢献を求めた ₇₆

。中曾根首相はアメリカ筋から日本の掃海艇派遣を要請されたことを明かしている ₇₇

。 では、なぜ米国は日本の役割分担を要望したのか。 直接的には、日本﹁ただ乗り﹂論あるいは﹁安乗り﹂論の高まりという、米国の国内情勢のためである。日本は防衛費の増額や対米協力に努めてはいたものの、西側諸国の水準や日本が実行可能な、そして実行すべきであるとされる水

一四二三

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(    同志社法学 六四巻四号二四四

準には達していなかった ₇₈

。このような批判は、従来の﹁外圧﹂がソ連の脅威に起因していたことと比べるとやや異質である ₇₉

。また、プラザ合意後も日米間で貿易の不均衡が収束しなかったため、アメリカは日本を同盟国というよりむしろ経済的ライバルと捉えはじめる。衰退論がささやかれる米国とバブル景気に沸きはじめた日本との関係は緊張を孕むものとなっていた ₈₀

。 これに加え、米国の国内政治も影響した。八六年一一月の中間選挙の結果、共和党は上院の議席数で民主党に逆転され、上下両院で民主党の後塵を拝していた。さらに、期を同じくして発覚した、イラン・コントラ事件もレーガン大統領の権威を貶めた。レーガン大統領は、中曾根首相とロン・ヤス関係と呼ばれる親密な関係を築いたが、議会の対日批判を封じ込めることはできなかった。 だが、より深層の要因としては、冷戦構造の緩みを指摘することが可能であろう。 新冷戦期、日本は自国およびその周辺の防衛を固めさえすれば、極東ソ連軍の封じ込めることになり米国や西側の戦略的利益にかなっていた。﹁八〇年代の前半で、当時のアメリカのレーガン政権の日本に対する要求というのはあくまでも安保条約の枠の中で、日本がどこまで防衛力の分担をするかということ﹂であり、﹁端的に言ってしまうと、ソ連の潜水艦を封じ込めるために日本の海上自衛隊と航空自衛隊の能力を強化してもらうということが、アメリカの最大の関心事﹂だったのである ₈₁

。 しかしながら、この日本にとって納得しやすい役割分担の構図は、冷戦が終焉に向かう中で崩れつつあった。安全保障面においては、一九八五年三月のゴルバチョフ(

M ik ha il S. G or ba ch ev

)ソ連共産党書記長の登場を引き金に、熾烈な新冷戦は漸次後退し、世界的に冷戦終結のプロセスが始まっていた。主たる脅威があいまいになる中で、日米の自然な役割分担の姿が見えなくなっていったのである ₈₂

一四二四

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(    同志社法学 六四巻四号二四五  その結果、米国が日本に求める役割は、﹁安保条約の枠の中﹂だけにとどまらなくなった。これが、日本の防衛とは質的に異なる、日米同盟の中心部以外への地理的および機能的拡大をアメリカが欲するようになったゆえんである。

三 掃海艇・巡視船派遣の検討

⑴ 外交的努力 高まる米国の期待に対して、日本政府はただ手をこまねいていたわけではなかった。 中東において政治的に中立であるという立場を活かし、イラン・イラク戦争に対して外交的努力を日本は展開した。イランとイラクの間に立ち意思疎通のパイプとなり、事実関係を双方に伝えることによって、両国のコミュニケーション・ギャップを埋めようと努力したのである ₈₃

。イランとイラクも日本に仲介をひそかに求めてきていた。日本が選ばれたのは、武器輸出をしていない日本にとって、戦争を早期に終結させイランおよびイラクが石油生産を増加させることが国益となるであろう、と両国が見越したためである ₈₄

。また、極秘にイランと接触したがっていたアメリカの意向を汲み、イランとアメリカの仲介も試みた ₈₅

。さらに、デクエヤル(

Ja vie r P ér ez d e C ué lla r

)国連事務総長に対しては、倉成正外相と中曾根首相が相次いでペルシャ湾における安全航行の確保やイラン・イラク戦争の解決を要請している ₈₆

。 六月八日から一〇日まで催されたヴェネチア・サミットの最中には、日米首脳会談が開かれ、日本が協力の方法を検討していることがアメリカに伝えられた ₈₇

。サミットの後、倉成外相はイラン外務省にてベラヤチ(

A li A kb ar V ela ya ti

)外相と会談する。そこで、イラン・イラク戦争の早期終結を望む声が国際的に高まっていることを強調し、ペルシャ湾を航行する船舶の攻撃を控え、イラクとの和平の話し合いを行うよう倉成は求めた ₈₈

。しかしベラヤチ外相は、あくまで

一四二五

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(    同志社法学 六四巻四号二四六

もイラクのフセイン大統領の処罰が和平の前提であるとする、従来の立場を譲らなかった ₈₉

。 さらに、イラン・イラク戦争に関する停戦決議五九八が七月の国連安全保障理事会で採択されたことを受けて、倉成外相はイラクを訪問しフセイン大統領とも会談した。イラン・イラク戦争解決のため、イランおよびイラク双方に働きかけを行うが、この努力が実を結ぶことはなかった ₉₀

。外交的努力が奏功しなかった日本は、直接的な行動を一層求められることになる。

⑵ 海上自衛隊掃海艇派遣の検討 ペルシャ湾安全航行問題に対する日本の貢献が国際的に望まれていたころ、日本では海上自衛隊の海外派遣の可能性がにわかに脚光を浴びた。口火を切ったのは、中曾根康弘首相の国会答弁である。 中曾根首相は、政治的判断から自衛隊を中東に派遣することはしないと明言しつつも、日本船舶を護るため公海たるペルシャ湾で機雷を除去するという行為は武力行使でも海外派兵でもないとの国会答弁を行った ₉₁

。しかも、この発言は内閣法制局などで詰めた上での見解であることを中曾根はあかしている ₉₂

。 自衛隊の中でも、海上自衛隊は日米同盟の深化における中心的アクターである。一九八〇年にはリムパックに海上自衛隊が参加し、実務レベルにおける日米協力は着実に進展していた。その海上自衛隊の掃海能力をアメリカ政府や米海軍は高く評価していた ₉₃

。米国の掃海能力の限界が表面化していた折に、世界でも屈指の掃海技術を持つ日本に白羽の矢が立ったことは、いわば当然であった。 このような流れの中、海上自衛隊は秘密裏に具体的な研究に着手する ₉₄

。研究を担ったのは、当時第二掃海隊群幕僚であった森田良行である ₉₅

。もし派遣することになった場合のために﹁スタディ﹂をするよう自衛艦隊から指示を受けてい 一四二六

(20)

(    同志社法学 六四巻四号二四七 た。当時は海上自衛隊内でも研究をしていること自体、秘されていた。 そのスタディはHプランやホテル・プランと呼ばれる。その名はペルシャ湾とオマーン湾の間にあるホルムズ海峡に由来した。ペルシャ湾に到達するまでの航路や日数、機雷の情報、潮の流れ、塩分濃度、そして気候などが細かく研究された。特に重視されたのが補給である。本来掃海艇は日本近海でのオペレーションが想定されたため、遠洋航海では補給が必須となる。したがって、燃料や水、食糧の調達や修理のために寄港できる場所が研究された。 さらには、具体的な編成も決められていた。掃海艇六隻、掃海母艦一隻、それをエスコートする護衛艦一隻、ヘリコプター一機である。掃海艇が六隻というのは、被害が生じることを想定して、三隻は常時稼働状態にできるようにと考えられた数字であった。戦争に参加するわけではないが、海賊などは撃退できるようにと考え出された編成である。 このように具体的なプランが検討されたものの、掃海艇の海外派遣について、海上幕僚監部で出された結論は否定的であった。隊員の補償をはじめとして解決すべき問題点が多すぎたのである ₉₆

。 外務省も、掃海艇の派遣は法的にも政治的にも不可能との結論に早期に達していた ₉₇

。なぜならば、掃海艇の派遣は﹁対米効果は最大﹂であり、﹁憲法上派遣自体は可能﹂であるが、﹁実際に掃海作業を行うに際し、予見すべきイランの敵対行動に対応するには自衛隊法上厳しい制約があり、実施困難﹂であり、﹁イランの強い反発が予想され、海運、石油業界の反応も微妙と思われる﹂からであった ₉₈

。 他にも課題は残された。掃海艇そのものが他国からの攻撃を受けた場合は、正当防衛によって撃退することが可能である。しかしながら、日本のタンカーを護衛している際に、そのタンカーが攻撃された場合、果たして掃海艇が反撃することは許されるのかが問題になる。この法律論が決着を見るには時間を要し、国民の理解も必要である。退陣を控えた中曾根内閣には十分な時間が残されておらず、掃海艇派遣は断念されざるを得なかった ₉₉

一四二七

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(    同志社法学 六四巻四号二四八

 そもそも、国会答弁で自衛隊派遣問題に火をつけた中曾根自身も、自衛隊の海外派遣に固執していたわけでは必ずしもなかったという。中曾根は以下のように回想する。

あのときは勉強のスタートを切ろうと思った。終戦後の日本の国家体制、あるいは安全保障観というものはこのまま維持できないだろうと。湾岸あたりに起きているからまだいいけど、日本列島近辺にそういうものが起きた場合はそれに持ちこたえられないだろうと。そんなものをやるという場合に、急に憲法改正なんて形でドラスティックにぶつかるよりも、なるたけ時間をかけて国民の前で議論をうんとさせて、そして浸透させていく、漸進主義で転換を遂げていく、それが望ましいと。つまり私が掃海艇問題というのを取り上げたのは、まずこれで議論をうんと起こさせようと思ったからで、掃海艇を実際に派遣できるとは思っていなかった 100

 このようにして、掃海艇派遣は断念され、ホテル・プランも海上幕僚監部の金庫の中で眠ることとなった 101

⑶ 外務省における海上保安庁巡視船派遣の検討 外務省は、九月四日と五日に対米関係検討会議を開催し、村田良平外務事務次官や松永信雄駐米大使らが出席した。そこで、中長期的に﹁日本自らの選択で、経済力にふさわしい国際的責任の自覚と実行が重要﹂という認識が一致し、ペルシャ湾安全航行問題への対応では、ペルシャ湾の米軍経費を間接的に肩代わりすることが検討された 102

。また、在日米軍駐留経費の拡充や、国連平和維持軍への自衛隊以外の人員派遣も積極的に検討していくことが決定された 103

。 さらに、松永駐米大使の要請に基づき、九日には特別作業班が設置される。栗山尚一外務審議官を長として、憲法や 一四二八

(22)

(    同志社法学 六四巻四号二四九 法律の枠内でいかなる貢献が可能であるかについて、本格的な対応策の検討が開始された 104

。このように、外務省では官僚機構が主体的に検討を推進していった。 立ち消えとなった掃海艇派遣以外にも、経費分担や在日米軍経費の増額という選択肢も検討された。しかしながら、前者は﹁対米効果は限られ﹂、﹁出し方によっては議会の反発すら有りうる﹂上に﹁類似のケースにおける分担要求を誘発﹂するため﹁対米関係上悪しき先例﹂と、経済協力のエスカレーションが懸念された。後者は、﹁現行﹃地位協定﹄の下で増額できる余地は法的に小さい。また、米国自身、今日のペルシャ湾情勢との関連で対米効果はきわめて小さいとしている﹂と指摘された 105

。 対策会議は幾度も開かれたが、なかなか妙案はなかった。九月のある日の会議終了後、栗山が執務室に岡本行夫北米局安全保障課長を残らせて、何か対応策がないか訊ねた。すると、岡本は海上保安庁の巡視船の派遣を提案する。岡本は巡視船の通信機能に着目し、機雷の情報をタンカーに連絡するセンターにしようと考えていた 106

。海上保安庁の巡視船が、ホルムズ海峡の外側から、機雷の場所やイラン革命防衛隊の動きなどの危機情報を通達し、海上交通をコントロールする。すると、日本政府もこの国際オペレーションに参加していることになり、米国の評価も得られる 107

。ここに来て、海上保安庁の巡視船派遣が有力な選択肢として浮上した。 外務省は巡視船の派遣と掃海艇の派遣についての比較を次のようにまとめた。自衛隊派遣は、貢献度が大きいものの、国内からの、またアジア諸国やイランからの反発も予想された。一方巡視船は、貢献度は小さいけれども、国内的反発も﹁比較的軽微﹂であり、アジア諸国およびイランの反発も小さいと予想された 108

。 当時の外務省の基本的な認識は、九月一四日に作成された﹁ペルシャ湾航行安全確保のための日本の貢献について﹂という文書に、以下の通り示されている 109

一四二九

(23)

(    同志社法学 六四巻四号二五〇

  1.ペルシャ湾の自由航行(その結果としての石油の安定供給)の確保は、我が国を含む西側先進民主主義国にとり、また、世界経済全体にとり死活的重要性を有する。ヴェニス・サミットの声明はかかる認識の反映。  2.通常の外交努力に限界がある以上、上記1.のための国際的努力に我が国が具体的な形で参加することは、我が国の国益および国際責任に照らし当然。  3.多くの西欧諸国が掃海艇等の派遣あるいはその他の形でかかる国際的努力に参加しつつある際に、我が国のみが外交努力以外は﹁何もしない﹂ことは、米国(議会のみならず、行政府、国民一般)の対日イメージを一層悪化させ、政治、経済両面に亘る日米関係全般に由々しき悪影響あり。早期に具体的行動をとることを決定し、これを表明することが決定的に重要。

 世界経済や西側先進民主主義国に言及しつつ、日米関係を悪化させることへの危機感があらわになっている。同文書では﹁具体的行動﹂として、海上保安庁の巡視船派遣が念頭に置かれていた。その目的は﹁海上保安庁法の範囲内でペルシャ湾内における商業船舶への航行情報の提供、航路指導、事故の発生した船舶(邦船を主として対象とするが第三国船舶も含む)とその乗組員の救難・加療等﹂とされた 110

。配慮を要する点としては、以下の五点が指摘された 111

  ①米国との通信、調整、情報交換、救援等についての協力の枠組作り  ②イラン側の明示又は暗黙の了解  ③補給、休養目的のための寄港地の確保と湾岸国の協力  ④法的問題点の詰め、世論対策 一四三〇

(24)

(    同志社法学 六四巻四号二五一   ⑤米国側の評価を得ることに関する事前の確認  国内的制約と米国の評価との相剋である。さらに、日本がペルシャ湾安全航行問題で貢献しているとの米国の評価を得るためには、米国の協力が必要であるという逆説もここからは読み取れる。 また、巡視船が派遣される場合には、任務は安全航行に関する情報提供と海難救助に限定すること、﹁現地において最も情報を有すると思われる米国﹂から情報を入手する体制の整備をすることなどもまとめられている。政府部内や自民党内、諸外国などに説明をして、理解を得ることも強調された 112

。 法律的にも、合理的な判断は求められるが、海上保安庁の所掌事務に地理的限界は定められておらず、ペルシャ湾に巡視船を派遣することが禁じられてはいないとの結論に達した 113

。任務についても、武装した巡視船が直接船団を護衛することには問題があるとされながら、海難救助や安全情報の提供などは遂行可能であると判断された。 同時に、外務省はイランの反発も想定していた。中曾根総理とイランのハーメネイ(

A li H os ey ni K h ā m en e’i

)大統領の会談に際して、﹁日本がペルシャ湾の米海軍の経費分担その他の形で支援することは反イラン的行為である、旨が先方よりある場合﹂は﹁日本としてはイランに敵対する意図は全く無い﹂と応答することが決められていた 114

。 そして、九月三〇日には、﹁ペルシャ湾への巡視船派遣について(改訂案)﹂という文書が作成され、外務省の基本的な考え方が再び明文化される 115

。そこでは、巡視船の位置づけについて三点指摘された。 第一に、ペルシャ湾における日本船舶の安全航行を確保することは本来日本が責任を負うことであり、巡視船を派遣することによって、公海上の自国船舶を保護することができる。第二に、日本の原油輸入の五六%はペルシャ湾を経由しているがゆえに、安全航行の確保は日本の基本的国益に関わると同時に、これは国際的な安全航行を確保するために

一四三一

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(    同志社法学 六四巻四号二五二

日本が応分の責任を負うという問題でもある。したがって、巡視船を派遣することによって、安全航行確保のための国際的な努力に参加しつつ、日本の国益の擁護することにもなる。第三に、巡視船を派遣することによって、日本に対する好ましくない国際的な認識を改善させることができる。すなわち、日本が外交努力以外の手段を特に講じていないことは、﹁結果的に、国の重要な責任の一端を放棄し、あたかも重大な国益の擁護を他国の手に委ねたかの如き形となっており、経済大国に相応しくない無責任な姿勢として国際的に認識されていること留意する必要がある。巡視船の派遣を実現できれば、このような我が国にとり好ましくない国際的認識を改める効果をあげることにもなる﹂とされたのである。 この文書を、九月一四日に作成された﹁ペルシャ湾航行安全確保のための日本の貢献について﹂で述べられた外務省の認識と比べると、日本の責任や国益に言及している点は共通しているものの、米国に関する言及がほとんどなされていないことに気がつく。一四日の文書では対米関係が軸として据えられていた。しかしながら、三〇日の文書においては、実務的な分野における米国や米軍との協力体制は依然として必要であると明言されていながら、総じて対米関係の色合いが薄まり、あくまでも﹁国際的﹂な文脈が主として言及されている。

⑷ 運輸省・海上保安庁における巡視船派遣の検討 外務省内での検討と並行して岡本は運輸省を説得し、厳しい交渉の末、事務レベルでの理解をおおむね得ることに成功する。運輸省の長、橋本龍太郎は当初巡視船の派遣に否定的であったが、岡本や栗山の説得により翻意する。橋本は、巡視船派遣の許可を中曾根よりとりつけ、巡視船派遣実現に動く 116

。 橋本は、栗林貞一海上保安庁長官を中心とした主要幹部によるチームを発足させ、巡視船派遣の可否などを具体的に 一四三二

参照

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