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駒澤短期大學佛教論集 7 010木村 誠司「『倶舎論』における'svalaksanadharanad dharmah'という句について」

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(1)

Komazawa University

NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty 駒 澤 短 期 大 學佛教 論集第

7

號 

2001

10

      

倶 舎

svalaksanadharanad

 

dharmah

      

う句

37

1

 

svalaksanadharanAd  

dharmah

’ 「svalak ana

自相

を保 持 す るの でダル マ

で あ る」。 こ れ は 、 ヴ ァ ス バ ン ドゥ

Vasubandhu

『倶

論』

AbhidharmakosabhtZsya

 i》

場 す

る き わ め

有名

か か わ ら

、 この

対す

解釈

は一

して い の 理

は、

句中

の svalaksana に

対す

る 理

が異な るか ちで ある。 ま

学の所 説 を探る こ とか ら、 考 察 を始め たい 。

 

説一切

Sarvastivadin

研 究の 権 威である桜 部 建 博士 は 、次の よ

な解 釈

示 して お られる。

 

広 義の 法 こ そが 問題 なの で あるが 、 それは、た だ 、「自相 を保 持 す るか ら法である」

 

と定 義さ れ るの み で ある。 …略 … 「 自相」 は 「共相samanyalaksapa 」 に対する語

 

で あ る。 「

dharmalak

§apa 」 に は 自相 と共 相 とが あ るの に、 法 を定義 して、

 svasamanyalakSarpadharanat あ る い は 単 に

lak

apadharapat と 言 わ ず に 、

 

svalakSa4adharapat とした所に は そ れだけの 意 味 を認め ね ば な らぬ 。 svalakSapa   は svabhava とシ ノニ ム に用い られ2〕 桜 部 博士 は、 こ こ で、 svalak $aロa  = svabhava

自性

解 釈 を提 示 しお ら れる。

 

一方、仏

全 般にわ た る該 博な知識 を持た れ る平川彰博士 は 、全 く逆の解釈 を示 された。

士 は、 同 じ

につ い て、 次 の よ

に述べ て お られ る。

 

しか し自相は 「ス ヴ ァ ラクシャナ」 であ り、 自性は 「 ァ バ ー ヴァ 」 であ り、 両   者は用 語 も異っ て い る。 『 倶舎論』 の他の 場 所 に は、 自相 を持 す るが 故 に 法 で あ る。   と説明 して い こ の場 合 は 「自相 」 と言 うの であ り、「自性 を持す る が故に」 と は

 

言わない の である。 もし自性 を持 するもの が法である とする と、 法は 「自性 を持 す

270

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(2)

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38

 

『倶舎 論』に おけ る

svalak $arPadhararPad  

dharmab

’とい う句に つ い (木 村 )

 

る もの 」 と な るか ら、「法」 と 「自性」 とは別の もの に なっ て し ま う。 しか し有 部   は、 自性 と法 と は 同 じもの で ある と見てい るの で ある3 )。 また、 以下 の よ

に も言わ れ る。

 

こ こ に 明瞭に 、 「 自相 を持

るか ら法 で あ る」 と言っ て い るの で あ り、 「 自性 を持 す   る」 の で は ない 。 自相 を持す るもの が 自 性 で あっ て、 こ の 自 性 が法で あ る とい うの  が 、有部の の 理解である4) 。

平川博 士は 、明ちか に 、svalak $ana ≠svabhava とい

を取っ て お られ る。 こ

の よ

に 、 現 在の

る御二人 の

は、 全 く正反

で ある。 た だ

は 、 きわ め て 明瞭である 。すな わ ち 、「

句 中

の svalak §ana は svabhava と同

っ てい るの か」とい う点に尽 きる。 しか し、

点が は っ き り して い る と

して も、その 当否 を考

するの は

易では ない

考察

対 象

と な る術 語の 使

用 状 況 を整理 して お くべ

倶舎

に 限 え ば

、   svalak §ana が

独 で

使

用 され る

場合

 

  svalak §aロa と samanyalak §apa が対に なっ て

使

用 さ

れ る

場合

 

◎svalakSana とsamanya が対に なっ て

使

用 され る場 合があ る5)。 この う ち 、  に お い て 、samanyalakSapa は必ず 無常 等の 十 六行 相 (

Sodasakara

) を 意味する。 次の 記 述に そ れが明瞭に 示 さ れ てい る 6 ) 。

 

svalak §aa作 意 と は、 例 えば、 「 色は破 壊さ れ るこ とを相 とする」とい うが如きもの

 

等である。 samanyalak §apa 作 意 と は、十 六行相 を具えたもの で あ る。

 

svalak $arpamanask 巨rah

 tad 

yath亘一rOpa

lak

§aOalp

 

rOpam

 

ity

 

evamadih

 

samanyalakSa4amanask2rah §odasak 巨rasamprayuktah (『倶舎 論

p

370

, 

ll

3

 

4

別 な記 述 を参 照 して、 さ らに 、svalakSana と samanyalak apa との

わ りを

て み よ

 

実に 、 ある受 は svalak §apa として 楽 (abhipreta で ある。 そ 〔の受〕が 、 同 じ そ れ

 

〔=svalakSarpa て 不 楽 (anabhipreta こ と は、 絶 対に ない ま り

 聖 者 達は、 それ 〔楽 受 〕 を、別な観 点 (

akarantara

)か ら嫌 うの である。 これ を放

 

逸の 足場 (

pramadapada

)、 大き な労に よっ て達 成され るもの (mahabhisalpskar ・

 

asadhya )、 変化するもの (viparinamini )、 無常 (anitya )と み なすの である。 それ

 に よっ て、不 楽 となる。

 

ya

 

hi

 vedana  svena  

lakSapenabhipreta

 nasau  

punas

 

tenaiva

 

jatv

 anabhipreta

 

bhavati

tatha

 

hy

 enam  akarantare a vidUSayanty  

aryah

 

pramadapadarp

269

(3)

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倶 舎論

』に おけ る

svalak arPadharanad  

dharmah

’とい う句に つ い て (村)

 

39

 

cain 巨rn paSyanti  mah 亘

bhisalpskarasadhyarp

 ca viparinaminirp  c且nityarp  ca

 yenanabhipretA

 

bhavati

/ (『倶 舎 論

p

881

 

ll

4

6

こ こ で 、「あ る受はsvalak ana と して 楽である」 と言 わ れる時、  svalak §ana はあ

る受の 「

を示 して い 。 その 同 じ受が 、別 な観 点か ら無 常

す な わ ち

sfimAnyalak apa と して 認 識 さ れ てい

。 svalak $aロa と samanyalakSa ロa は 、

は っ きり と

区別

さ れ てい るの である。 さ らに、 こ の svalak §aロa をヴ ァ スバ ン ドゥ は、 svabhava と同 一 視 してい 。 次の 記 述に お い て、 その こ とが 示さ れて い よ

。   〔あ る受 に は〕自性 と して楽性が あ る。 心に とっ て望 ま しい もの だ か らで ある。 しか  し、 異 門 (paryaya )か ら、 苦 性 で あ る。 変 化 と 無 常 を 性 質 と し て 持 つ

 

(vipariqamanityadharmitva )か らで ある。

 sukhatva 即  ca  svabhavato  manapatvad  

duhkhatvarp

 ca  

paryayato

 

viparipamanityadharmitvat (『 倶舎論』

p

882

11

6

> こ れ は、

の 記 述に

くもの である。

述に おい て 「 ある

はsvalaksana と して

で ある」 と述べ られ た

分 が、 こ こ で は 、 「

に は〕自性 楽 性

と表現 され てい る。   に お い ては 、 svalakSana = svabhava である 。

 

次に 、◎に お い て 、svalak §aロa と samanya は

立概 念 を示 してい る。 両

は、 そ れ ぞ れ、

間や

所に限定 さ れ るもの 、

時 間

や場 所に 限

され ない もの を意 味す るこ とがある。 この

、 svalaksana は 「 個

特質

とい

よ りあ る もの の あ り方 を規 定 する もの 」 で あ る。 次の 記 述に、 その こ と が、 明 瞭に示さ れ て い る η 。

 

ま と め る と、 こ の 随 眠 (

kle

§a)は二 種 で あ る。 貧 ・慢 とsvalak §apa と して

 

の 随 眠 と、 見 ・疑 ・癡 とい うsamanya としての 随 眠であ る。 … … 、 こ れ ら は  svalaksana と し ての 随 眠 なの で、必 ず しも、 すべ て者に、常に生ずるの で はない の  で あ る。 見 ・疑 ・癡は 三世 に属 する。 彼の すべ ての 者に よっ ても、 すべ ての 物に結  びつ くの である。 samanya と しての 随 眠である故に。

 

sam 巨sata  

ime

 

dvividhah

 

kle6

svalakparpakle §

a

§ ca  ragapratighamanab /

 

sam 氤nyakle §

a

§ca 

dr

§

icikitSavidyah

/ …ete 

hi

 svalak $arpakleSatvan  na  sar ・

 

vasyavaSyarP

 

sarvatrotpadyante

 

 

dT

§

tivicikitsavidyas

 traiyadhvikah  

 

taih sarvair  api sarvasmin  vastuni  samyuktab  samanyakle §atvat / (『倶舎 論

p

 

801

1

13

p

803

1

3

) こ こで は 、samanya は随 眠の あ り方 を時 間や

所 に限定 さ れ ない もの と して規 定      

268

一 N工 工一Eleotronio  Library  

(4)

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40

 

『倶舎 論』に お け る

svalak $aロadhararPad  

dharmah

’ とい う句につ い て 木村 ) して い る。svalaksa ロaは 随 眠の あ り方 を時 間や場 所に限定 さ れ る もの と規 定 してい る。 つ ま り、 svalakSarpa は 限

、 samanya は無限定とい

ニ ュ ア ン ス を 示 して い 。 明 らか に  とは

っ た

使

で ある。 こ こで は、 svalakSa ロa と svab −

hava

と が 同一視 さ れて い るの か ど

か不明で あ る。 な お、

言 してお け ば、

従来

  と◎は混 同されて きた。 それは  の samanyalak $aロa と◎の samtinya が 同 じ

の と され た か らである。 例 えば 、玄奘 訳 『倶 舎 論 』 で は、 samanyalak §aロa と samanya は、 共に共相 と訳さ れ て い る 8) 。

玄奘

如何

なる

原典

に基づ い て

訳 し て い た か を知 るこ とはで きない 。 しか しな が ら、 現

存梵 本

の 『

倶 舎

論』 に よ る 限 り、

samanyalak apa と samanya は 区別

。 そ

しなけれ ば、 svalakSana

意 味は不 鮮 明 な ま まであろ

し、 思わ ぬ誤

を招 くこ ともあ るに違い ない 。

少々 廻 り道に なる が 、こ こ で 、次の よ く知 られた記 述に触 れて お くの も、本稿 に と

っ て無駄 では ない だ ろ う。

 

五 識身は、

合 した もの

samasta

を対象とするの だか ら、 samanya を対 象とす

 

るこ と に な り、svalak §apa を対象とし ない の で は ない か ?

 

処の svalak apa に つ

 

い て、こ れ ら 〔五 識身〕は svalaksa ロa を対 象とす る と 認 め ら れ て い るが 、 事 の

 svalaksana に つ い て 〔認め られ るの 〕で はないか ら、 過失はない の である。

 nanu  caivarp  samastalambanatvat  samanyaviSayab  

pafica

 vijfianakayab  

prap

 

nuvanti  na

 

svalak apavi $ayab

 ayatanasvalak

爭aparp

 praty 

ete

 

svalak 爭apa

 

viaya  

i

yante

 na  

dravyasvalak

arpam  

ity

 ado §ah (『倶 舎論

p

36

1

10

p

37

 

1

2

) 一に は 、 こ で samanya

多数

の もの が 集合 した もの、 svalak §ana は 「単 一 な も 」 を意 味 す る と さ れ る。 こ れ も、 限定 ・不 限定 ァ リエ ー ン と考 え られ ない こ とはない 9) 。 も しそ

ならば 、 こ の 記述 を 「 識 身無 限定 な も を対

るの で はな く、処 に

限定

さ れ た

を対象

とし、

に限

された

の を

対象

と し な い の で ある」 と 言 い 換え る こ と が で きる。 こ れ は 、別 な個 所 で 厂極 微

paraMapu

とい

、 そ れの

集合

した 処 が認

対象

とな る」 とい

趣 旨 を説い た こ に、 基 本 的に付 合

る ’° 。 おそ ら く、 ヴ ァ ス バ ン ドゥ は、 こ こで、五 識

対 象 を確認 した だけ であ る。 そ して 、

者は その こ とに何の 不都

合 も感

じない 。 しか るに、 近

の 研 究

が 、 こ の

記述

づ い て 、 ヴ ァ ス バ ン ドゥ は、 svalakSana とsamanyalakSapa

を区別す

る基

を示 してい ない と

断 を下す

11 の は 、二 重の

で誤 りで あ る。 なぜ な ら、

に 見た よ

に  におい て、svalaksana       −

267

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』に おけ る

svalak apadhararpad  

dharmah

’とい

に つ い て

木 村 )

 

41

とsAmanyalak §apa は載然 と

区別

さ れ て い たの であ り、 この 記 述は あ くまで も

svalakSapa と samanya に

関 す

る◎ な の で あ るか ら、 こ こ で svalakSana と

samanyalaksapa を

る必要は、 全 くない の である。

かに 『

大 毘婆

』 で は、 次 の 記述 が示 す よ うに、svalakSa ロa と samanyalakSapa の 区別は不明瞭で ある。

 

自共相の 別は無辺な り。 且 ら く地の 大種 をい えば、 亦は自相 と名 け亦は共相 と名   く。 自相 と名 くと は 三 の 大 種 に対す るもの に し て、 共相 と名 くる は 一 地 界 は 皆  堅者なる が故な り。 ( 『大 毘 婆 沙論』

405b7

−1° ) こ こ で は 、同 じ もの が svalakSa a と

samanyalak §aa と も呼ばれ てい か し、 ヴァ ス バ ン ドゥは  を見る限 り、 こ の よ

な あい まい さ を払 拭 して い る。 さ ら に、 『

』 の この

述 を、 次の もの と同列に扱

こ とも、問 題 なし と は

わ れ ない 。

 

問 う。 云何が 身 識共相 境 を縁 ずる や 。 答 う。 自相に 二 種有り。 一 に は事の 自相。 二

 

に は處の 自相 な り。 若 し事の 自相 に依 る と説か ば、五識 身亦 共 相 を縁 ず 。若し處の  自相 に依 る と説か ば、 則 ち五識 唯 自相 を縁 ず るが 故に、相 違に あらず。 ( 『大 毘

 

論』

 65a12

−16

こ れ は 、 下 線 部 以 外 『倶 舎 論 』 の 記 述 と一 致 しよ

。 下

線 部

は 「 同 じ もの が svalakSana に もsamanyalakSapa に もな るこ と」 を示 してい るよ

で ある。 しか し、『

沙論』 も玄

の 訳 した もの である こ とを思 えば 、 こ の 記述 中の 共 相は samanyalakSa a で は な くsamanya で ある可

駐 も捨て 難い の で ある。 い ずれ に して も、   ◎の

識さ れ るべ 12) 。  次に  につ い て考察 しな け れ ば な らない 。 冒頭で見た句は  に分 類 され る。 正 直 に言

と、   を個々 の ケ ー わ た っ て、 その すべ て を考

す るこ とはで きなか っ た。 本 稿にお い て は 、その 一 部 を扱

に 止 まる。 これにつ い て は、

し く

た い まずに 、svabhava とsvalakSa a ・samanyalak §apa りを考

察す

る上で、 重

述 を

て お こ

II

実 に 、 こ の 包 摂 (saエ

pgraha

)と は 、どの ようなもの につ い て言われ る場 合で も、 〔次 の よ

に〕理解さ れ な けれ ば な ら ない。 「svabhava よ る 」 と。 

parabhava

(他 性 〉 によるの で は ない の であ る。理 由は何で あ る か ?。 「

parabhava

を 欠 如 して い       一

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42

 

『倶舎論』に お ける

svalak arPadhararPad  

dharmah

’とい うつ い 木 村

  

(viyoga )か らで る」。 実に、 ダル マ と は、 

parabhava

を 欠 如 し た もの なの であ

  

る。 そ れ故、欠如 した もの 、そ れ 〔欠如 した もの 〕 自身に よっ て 、包 摂さ れ るの   は、理 に合わない の である。 例 えば、 眼 根は、 色 蘊に よっ て 、 眼処 と 〔眼 〕界に よ   っ て 、 苦 〔諦 〕 と集諦に よっ て包 摂 さ れ るの で あ る。 そ れ ら をsvabhava とする か

  

ら で ある。 〔し か し〕、 他 の 蘊等に よっ て で は ない 。 そ れ らの

bhava

性)を欠 如 し   てい る か ら で13 )。

 

sa 

khalv

 e§a sarpgraho  yatra  

kvacid

 ucyamano  veditavyab −

       svabhfivena

 

na  

parabh

巨vena /

kiM

 

karapam

       parabhavaviyogatah

//

18

//

 viyuko  

hi

 

parabhtivena

 

dharmah

tasman

 na 

yena

 viyuktas  

tenaiva

 sa

grhlto

 

yujyate /

tad 

yatha

 

 

cak §urindriyar rUpaskandhena

 

cakSurayatanadhatub −

 

hy

議1p 

duhkhasamudayasatyabhyarp

 ca sa

grhitalp

 

tatsvabhavatvat

nanyaih

 

skandhadibhih  

tadbhavaviyuktatvat

/ (『倶舎 論』

p

54

, 

ll

5

11

) こ こ に は、 svalakSarpa もsamanyalak §aロa

しない 。 しか し、 こ こで示 さ れ る例 を検 討 す れば、 それ ら とsvabhava との

関係

は、 あ る程

度推

るこ とが で き る。 プー ル ナ ヴ ァ ル ダナ

Parnavardhana

の 『倶 舎 論 注

 

随 相 論』

Abhidharmako

.sa 一

σα

s4η 以下随相 論 』 と略

〕が

測の 手助 け をして くれ るの で、 以 下に示 そ

。   「例 え、 眼根 色 蘊 〔よ っ て 〕」等 と詳 しく述べ られ て い る。 す なわ ち、 色の 相

  

(mtshan  nyid , 

laksapa

) と結 合 して い るか らで ある。

眼処 と 〔眼〕 界に よっ て 」

  

とい うの は、 それ らを svabhava (rang  

bshin

)として い る か らで あ る。

苦 〔諦 〕

  と集諦に よっ て 」 とい うの は、 何 で あれ無常な る もの そ れ は苦で ある と言わ れ る か

  らで あ り、 苦の 原 因で ある故に 、 集 諦に よっ て 包 摂 さ れ るの で ある。

 

dper

 na mig  

gi

 

dbang

 

po

 ni 

gzugs

 

phung

 

po

 

dang

 zhes  

bya

 

ba

 

la

 sogs 

pa

 rgyas

 par

byung

 ste /

gzugs

 

kyi

 mtshan  nyid  

dang

 

jes

 su ’

brel

 

ba

i

 

phyir

 ro //mig  gi

 

skye  mched  

dang

 

khams

 

dag

 

gis

 ni 

de

 

dag

 

gi

 rang  

bzhin

 yin pa’

i

 

phyir

 ro //sdug

 

bsngal

 

dang

 

kun

byung

 

pa

i

 

bden

 

pa

 

dag

 

gis

 zhes  

bya

 

ba

 

la

gang

 mi  rtag  

pa

 

de

 ni sdug  

bsngal

 

lo

 zhes  

bya

 

ba

i

 

phyir

 

Ia

/sdug  

bsngal

 

gyi

 rgyu  

yin

 

pa

i

 

phyir

 

na  

kun

byung

 

gi

 

bden

 

pas

 

bsdus

 so

随 相論

Ju

 

48bL49a1

こ こ で 注 目さ れ るの は 「無

」 とい

で あ る。  の 考

に よれ ば、 無

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(7)

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』に おけ る

svalak §apadhararPad  

dharmah

’とい

に つ い て 木村 )

 

43

samanyalaksa a で

る。

筆 者

の 調 査 の 範 囲 で は 、

倶 舎 論

』 に お い て 、

samanyalak apa は 単独 で使わ れ る こ と はない 。 とすれば、 svalak $ana が、 こ こ

に登 場 しない て も、 そ れに該 当するもの が 暗々

に 示 さ れ て い るの では ない だ ろ

か。 『倶 舎 論 』 で は、 五根 は 「色 を本

とする

rapatmaka

五 つ の清 浄な

るもの

ye

 

pafica

  rOpatrnak2b  

prasadas

, 

p

31

1

1

と規

さ れ てい る。

rapatmaka をrUpasvalak $ana と 理

解 す

る こ とが 許 され る な ら ば、眼 根 の

svalaksana は

で ある。 プ ー ァ ル ダナが 、 「眼根 色蘊に よ っ てとい

個 所 を 「 色の

lak

ana と結 合 して い る か

釈 す

1aksapa

とい

う語

を使用 したの は 、 眼根の

な わ ち svalak §ana

識 した か らで は ない だ ろ

か。 以 上 の 推 測が 正 し け れ ば、 『倶 舎 論 』 の 先の 記述 中に は 、表立 っ ては現わ れな い に せ よ、 svalak §aロa とsAmanyalakSapa が示 さ れ てい るこ とに な る。 この こ と か ら、 次の よ

な説明 も可

となろ

。 「svabhava

parabhava

使

用さ れ る時、svabhAva は 、 svalak §aa と samanyalakSa a

摂 す る」。 こ の 場 合、

svabhava キ svalakSapa であ る。

 

とこ ろで 、 こ の 説明 は、

川博士の

釈 と付 合 す るよ

に思 わ れる。 博士 は、 svalak §aロa とsamanyalakSapa につ いて、

 

例 えば 、 赤色に は濃淡い ろい ろな赤が あ るが、 そ れ らに共 通に見 られ る 「 」 が、

 

赤とい う法の 「自相で あ る。 した が っ て、赤 とい う自相は、赤とい う法の み につ い て

 

言 えば 、 種々 なる赤 色の 「共通相」 になる わけで ある。 した が っ て これは、 種 々 な  る赤 の 「平 均 的 な 赤 」とい うこ と もで き る。即 ち赤の 自相 は、すべ て の赤 に 存 する 共  通 相 である と ともに、赤を 認 識 する 人 の 「観 念で ある とい こ と が で き よ う14) 。 と述べ られ 。 博士 の 説明 は、 svalak §aロa とsamanyalakSapa

を 

に おける よ

に区別 し ない 点 で、 『倶 舎 論』 に は一致 しない が 、先に見た 『大 毘

沙 論』 の 考 え方 を受 け 継 ぐもの であろ う。 と もか く、平川 博 士の

釈 は、 首 尾 一貫 し である。

 

さて、 実は、

の svabhava の 用例につ い て、桜部 博士 も着 目 し、

とか ら め 、次の よ うに述べ て お られ る。

  した が っ て 、逆に い え ば、

parabhava

−viyuktatva が svabhava である すな わ ち そ  れは他 の あ り方に対 して 、 そ れ よ り区別せ られ た る 自らの 方 を もとい うこ

 

と であ る。こ の 「自性 svabhava を もつ い うこ と は、 また 「自相svalakSapa   もつ とい 言葉で も言わ れ る。 倶 舎 本 論 で も、ヤ シ ョ ー ミ トラ の 釈 疏 で も、 一

264

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

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44

 

『倶 舎 論』に おけ る

svalak §arPadharanad  

dharrnah

’とい う句につ い て(木 村)

 

svalakSa ロa は屡々svabhava と シ ノニ に 用い ら れ る。 こ の 自相の 語は、元来 、共

 

相samanyalak aa と相 対せ しめ ら れ る語なの で あるが 、こ の場 ・合に は、そ うい う 自   相 ・共 相 をひ っ くるめ て 、 広 い 意 味で そ れ を 自相 とい うの である。 法

dharma

とい

 

う語 を定

して 、「能 持自相svalak apadhararpatva の 故に 法 で ある」 とい う場合の

 

自相 」 もそ うい う用法で ある15 }。 桜 部博士 は、 こ こ で も、 svabhava = svalakSana と う立場 を堅持 してお られ る。

その 立 場か ら、件の 句の svalak $aロa は svabhava で あ り、 そ れが svalak $aロa と

samanyalaksana を包

摂す

る とみ な さ れ てい の で

る。 こ の

士 の

解 釈

は、 や や 強 引なよ

わ れ る。

士 は 「 自

・共

をひ っ くるめ て、

味でそれ を 自相 とい

の で 断 言さ れ い る が、 「 っ くる め る」の は、 svabhava であ っ てsvalak §aaで はない の ではない か。 しか し、 博士 の解 釈 を強 力に支 持 するか の よ

な研 究が発 表 されてい 16} 宮 下 晴輝 氏は 、svabhava と

parabhava

に関 する 『倶 舎 論』 の 記 述お よ び

につ い て 、 こ

述べ てい る。

 

そ して こ の ような包摂 は 「自性に よっ て 」 成 立 す る とさ れる。 それ を

TA

はっ ぎの  ように 説 明 して い

  

自性 (svabhava )と は 自相 (svalakSarpa )で あ る。 自相 も諸の 存在 を互い に区分    する。 区分 された もの に 対 して包摂があ る な らば 不 合 理 は ない 。 も し そ うでない    な ら、 区分が 存 在 しない の だ か ら包摂 す るこ と も成立 しない 摂 との 個々

  

の 存 在 (

dravyantara

)を一つ の もの の もと に 〔総 合 〕 す る こ と であ る。   「自性 」 は個 々 の 存在 を区分 する原理 で ある と ともに、 その こ と に よっ て包摂 す る  原理 ともなっ て い る。 こ の ような諸法の 区分 と包摂を成 り立 たせ る 「自性 」 とい う  概念が、「 」 (

dharma

)その もの を定 義 する概 念として 用い られ てい るこ と に も注  意 し な けれ ば な ら な い。

  

自相 を保持 する か ら

で ある」 (svalakSarpa −

dhara

η

ad

 

dharmab

)とい うの は 、

   自性 を越 えない ’ svabhavan  natikramatiい う意味 で17) こ の 宮 下 氏の 所 論に よっ て 、桜 部 博 士の 解 釈は 、に わ か に説得 力 を持っ て くる。

者 として は、

下氏の

所論

討 して み なけれ ば な ら ない 。

論拠

は、 二

に わ たっ て引 用 され る

TA

る。 

TA

は、 ス ティラマ ティ

Sthiramati

の 『 倶

論 注

 

真 実

Abhidharmakosabhasya

σ

7

灘’爾 7 ’

1

纛 〔以 下 『真 実

』 と略 す 〕 の こ とである。 第 一 用 に お て 、か に 、svabhava とsvalakSa ロa とは同一 で

り、 共に

区分

包摂

とい

う機能

つ と

か れて い る」 よ

に 見 える。 だ が、

263

N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(9)

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倶 舎 論』に お け る

svalak $apadhararPad  

dharmah

’とい う句につ い て (木村)

 

45

実 義

』 の 当 該個 所 をそ の 直

の 記述 と合 わせ て 読 む と、 svabhava と

svalaksarpa との 関係は複 雑 である。 以 下に拙 訳 を示 して み よ う。

 

諸の 存在 を包 摂る svabhava (rang  

bzhin

と は こ こ で 、 svabhava (rang  

bzhin

 

は svabhava (rang  

gi

 ngo  

bo

)で は ない と他の 者達 は 言 うの で ある。 svabhava (rang

 

gi

 ngo  

bo

) とはsvalak §arpa (rang  

gi

 mtshan  nyid ) である。  svalak arpa も諸の 存

 在 を互い 区分 す る が 、区分 さ れ た の そ れ 自体に対 し て包 摂があ る な ら ば不合理  は ない も し でない の な らば、 区分が存在 しない の だ か ら包摂 するこ と 自体 も

 

あ り得 ない の である。 包摂 とは他の もの (rdzas  

gzhan

 

pa )

と に

  な らない の であ る。

 

dngos

 

po

 rnams  

kyi

 

bsdus

 

pa

i

 rang  

bzhin

 ni /’

dir

 rang  

bzhin

 

gyi

 rang  

gi

 ngo  

bo

 

ni ma  

yin

 no  zhes  

gzhan

 

dag

 zer  so //rang  

bzhin

 ni rang  

gi

 mtshan  nyid  

do

//

 rang  gi mtshan  nyid  

kyang

 

dngos

 

po

 rnams  

phan

 

tshun

byed

 

par

 

byed

 

pa

 yin

 

la

gang

 

la

 

phye

 

ba

 

de

 nyid  

du

 

bsdu

 

ba

 

Ia

 mi  rig 

pa

read  mi  rigs pamed  

do

//

 

de

 

lta

 ma  

yin

 na  

dbye

 

ba

 med  

pas

 

bsdu

 

ba

 nyid  

du

 mi  ’

gyur

 

te

bsdu

 

ba

 ni rdzas

 −

(『実 義

To

 

80a6

−8 ) 非 常に わか りに くい 記 述で あるが 、こ こ で は お そ ら く、svabhava の 々 な意味 が 論 じ られてい の である。 『

論 索 引』18 )に よ れ ば、 svabhava とい

同 一 の梵 語 は、 チベ ッ ト

では、 rang  

bzhin

rang  

gi

 ngo  

bo

・rang  

gi

 ngo  

bo

 nyid りに 訳 し分 け ちれて い る。 これ は、 単に翻 訳に おい て、同 じ訳語の繰 り返 し を避 け たい とい

よ りもsvabhava の意 味が三 通 りあるこ とを示 唆 してい の で はない だ ろ

か。 『真実

』 の 記述は 、 そ

とで も考 えない か ぎ ワ、 理

で き ない の で あ る。 そ れ らの訳語の 意 味 する ところを考

しなけ れ ば な らない が、 『

倶舎論

』 全

用 例 を調 い 。 そこ で 、svalakSarpa = svabhava を示す 記 述手掛 り を 求めて み たい そ れが、 明瞭に示さ れ て い の は、 次の 二個

で あ る。 それ ぞ れ、 チベ ッ ト

も付 し

て おこ

 

そ れ らの svalak 爭aロa と は、 svabhava な ら ない 。

 svabhava  evai §

arp

 svalaksa am (『倶 舎 論

p

902

, 

ll

8

9

 

de

 

dag

 

gi

 rang  

gi

 mtshan  nyid  ni rang  gi ngo  

bo

’o //

Ngu

 

14a1

 

実に、svalak aaが実証 さ れ てい るもの につ い て は そ れ ら がる とこ と

 

は、 理に適 うが、形 〔色〕の 部分につ い て は、 顕色等の ように、svabhava が実証 さ   れてい い の で、 どこ に そ れ ら 〔形 色 〕の 集 合が あ ろ うか。

262

(10)

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46)

 

『倶舎論』に おけ る

svalak apadhararPad  

dharmah

’とい う句に つ い て (木村 )

 

siddhasvalak $apanam  

hi

 teSam  saficayo  

yujyate /

na ca sarpsthanavayavanam

 

varrpadivat  svabhavah  siddha  

iti

 

kutah

 e §

a

 saficayab  (『倶 舎 論』

p

576

, 

11

2

4

 rang  

gi

 mtshan  nyid  rnams  

grub

 na ni 

de

 

dag

 

bsags

 

pa

 rung  

bar

gyur

 na  

dbyibs

 

kyi

 

yan

 

lag

 rnams  ni 

kha

 

dog

 

la

 sogs  

pa

 

bzhin

 

du

 rang  

gi

 ngo  

bor

 

grub

 

pa

 

yang

 

med  na  

de

 

dag

 

bsags

 

pa

 

ltar

 zhig  

ga

 

la

 

yod

Gu

 

l92b8

193al

この 二におい て、 svabhava は rang  

gi

 ngo  

bo

と訳 さ れ てい る。 少 い 例では あ るが 、 svabhava

= svalak

§apa で あ る場 合、  svabhava は rang  

gi

 ngo  

bo

と訳さ

れて い こ とが 確認 で きた 19 )。 こ の確 認 を基に して、 『真 実 義 』 の 考

を行っ て み よ

。 こ の

の 「

達」は 、 お そ ら く、 こ こでの svabhava をsvalakSa ロa と同一

視す

るこ とに反

対す

る人々 で ある。 そ れ

、 「svabhava rang  

gi

 ngo  

bo

では ない 」 と述べ の である。 その 直 後の 「

rang  

gi

 ngo  

bo

とはsvalakSapa

である」 とい

記 述は 、 「rang  

gi

 ngo  

bo

と しての svabhava がsvalak §aロa であ る」と述べ て い る にす ぎない 。 そ れ以 降の 記述 は、 svabhava = svalak §apa と さ れ る場 合が あるこ とを承 知 した上 で、 両

機能

の相

を明 らか に して い るの で

る。 下

部 を

下 氏は 「包 摂 と は

の 個々 の

在 を一つ の もの の もとに 〔統 合 〕す るこ とで あ る」 と訳 して お ら れ るが、 こ こ は素直 に 、「包 摂 とは他の もの を一つ に

るこ とに

な ら ない と訳

。 こ れ に よっ て、 区

と包 摂 とい

似 た よ

な機 能 を持つ と さ れ た svabhava とsvalakSana の 相 違が示 さ れ てい の である。 他の もの を

parabhava

に置 き換えて み る と、両 者の相 違は よ りはっ き り する であろ

。 す なわ ち、svabhava の 区分 と包 摂は

parabhava

除外

するの に

し、 svalakSapa の そ れ は

parabhava

含むの で ある。 では 、こ の よ

な相 違 は、 『 倶

論 』 に 示 さ れ てい るの だ ろ

か 。 次の 記 述は 、

らかの ヒン トを

え て い る よ

に思わ れ る。   「 に 、 他の 蘊 ・処 ・界 も適 宜 に、svalaksana を考察して 、 説か れ た もの の 中に

 

整 理すべ である

pratipadya

)」他の 経典に説か れ て い る他の 蘊・処 ・界 もそれち  の 各svalaksana をこ の 論 書に おい ての み規 定 されたよ うに考 察 して、〔こ の論 書に  お い て 〕説か れ た蘊 等の に 整 理すべ あ る

   

tathanye ’

pi

 

yathayogyarp

 skandhayatanadhatavah /

   pratipadya

 

yathokte

u sampradharya  svalak §apam //

27

//

 

ye’

py

 anye  skandhayatanadhatavah  sUtrantare $uktah  

te

py

 e串v eva  

yathokteSu

 skandhadi $u 

pratipadyab

 svaM  svalp  svalak apam 才甫tt・ 1 ) esalp yathavyavasth −

       一』

261

(11)

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』に お け る

svalak §a ロadharapad  

dharmah

’とい う句つ い て (木 村 )

 

47

 

apitam  asmirpc  chastre  vimrsya

『倶 舎 論

p

72

 

ll

8

12

こ の

述 中の 「

の 経

に説かれてい る他の 蘊 ・処 ・

parabhava

解 す

る こ とは い きす ぎ が、筆 者 は、こ こ に svabhava と は異な る svalakSana の 機 能が示 さ れ てい る と思

の で ある。 少 くともsvabhava は包 摂

samgraha

す るの に

し、 svalakSana は整 理

pratipadayati

とい

相 違は 、

て取れ る。 以上に よっ て、

下 氏が 引 用 した第 一

真実義

』 に

対 す

考察 を

終 え よ

。 とこ ろ で 、

者は 、こ の 考

の 途 上で 、svabhava に

する チベ つ い て

れ た が、 大 事な こ と を言及 し

れ たの で、 こ こ に記 してお きたい 。 svabhava =

svalakSa a で

、 svabh2va が rang  

gi

 ngo  

bo

と訳 されて い るこ とは 、す

で に 確認 済み で ある。 そ して 、 svabhava が

parabhava

に なる

、  svab −

hava

≠ svalakSana であるこ とも確 認で きた 。 とこ ろ が、 その

に な る

場合

に 登 場

する偈が問題 なの で ある。 その 偈の

文 は ‘

svabhavena  

parabhavaviyogatah

あ り、 その 語 訳

rang  

gi

 ngo  

bo

 nyid  

kyis

 ste

gzhan

 

gyi

 

dngos

 

dang

mi  

ldan

 

phyir

Gu

 

36b8

で あ る。 こ こ で svabhava は、 ‘

rang  

gi

 ngo  

bo

ある

い は‘

rang  

gi

 ngo  

bo

 nyid ’訳されて い 前 者の よ

に 訳 さ れ てい の な ら、

先の確 認に矛 盾が 生 ず るこ とになる。 rang  

gi

 ngo  

bo

と rang  

gi

 ngo  

bo

 nyid は

nyid 以外 全 く同 じあ り、こ の nyid は強 調の た め に置 か れ た よ

に も見 える。 しか

し、

は、 nyid を

付す

こ とに よっ て、こ この svabhava が rang  

gi

 ngo  

bo

ない こ とを示 した の ではない だ ろ

か。

倶 舎 論 索 引

』 2°)に よる と、svabhava を

rang  

gi

 ngo  

bo

 nyid と訳 すの は 、こ こ 一個

だ けで ある。 と

る と、

倶舎

の チベ い て、 rang  

gi

 ngo  

bo

と rang  

gi

 ngo  

bo

 nyid 混同 す るこ

とはない は

である。 お そ ち く、

は、 混 同 を避 けるため に nyid を付 したの

で あろ

。 また、訳 され てい る個 こ とを思 えば、 韻 律 を整 えるため

の 訳

である と推 測 す るこ とはで きよ

。 だ が、 その

合、rang  

gi

 ngo  

bo

で は

な くrang  

bzhin

を使

工夫 も可能 なはずである。 た だ 、現 在の

筆者

に は 、 rang

bzhin

意 味が、不明瞭 な まま で ある。

は、 svabhava の チベ ッ ト

訳の精 査 を

して、

真相

を期 す

しか ない 。

 

さて、次に宮下 氏の 引用 する第二 の 『真 実

』を検 討 しなけれ ば な ら ない が 、 そ れ は

に関わ る もの である。 そこ で、 以 下で は 、宮下 氏 の 引用 だ け でな く、 ‘

svalakSa adharanad  

dharmah

う句

、 詳 し く考察 してみ るこ と に しよ

そ れ は、 自ず と、宮下 説、そ して さ らに は桜 部 説に対 す る筆 者の 見解 を明 ちか にす

260

(12)

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48

 

『倶舎論』に おけ る

svalak §aロadhararPad  

dharmah

’とい う句につ い て (木村

る もの と な るだ ろ う。 その 前に、 こ れ ま で得た情 報 を整理 して 、考 察に臨み た い 。 重複

る部分 もあ る が 、 万全の 理解 を期 するため と了解さ れ たい 。 svalak §ana 等 を、

筆者

も交

えて整理

れば、 次の よ

に な る。   svalakSa a とsEmanyalak aa が

に なる場 合

 

svabhava = svalak ξaロa

 

svabhava に

するチベ ト語訳 は rang  

gi

 ngo  

bo

 

svalakSaOa は 「個

特質

、 samanyalakSana 「無

常等

行相

◎svalakSa ロa と samanya が対に な る

 

svabhava とsvalakSa aの 異 同につ い て は

 

svalakSa ロaは 「限定」、 samanya は

不 限

D

 svabhava

parabh

五va が

場 合

 svabhava ≠svalak §apa

 

svabhEva はsvalak §a ロa とsamanyalakSana の 両 方 を含む。

 

svabhava に

す るチベ ト語 訳 は rang  

gi

 ngo  

bo

 nyid

  svalaksapa が単独 で使用 され る場 合  

e

1svabhava

= svalak

$aqa

    

svabhava に

対す

るチベ

rang  

gi

 ngo  

bo

 

  一

2

 svalakSana は svabhava

parabhava

両 方 を含む 場合が ある 、 と推         測 され る。 「svabhava とsvalakSana っ て い るの か とい

こ と に つ い て、 解 釈が一定 しない 理 由は、    

oe

を 区別 し ない た めで あろ

。  次 に 、本稿 で扱 う文 献に関 する 問題に も是 非触 れて お か ね ばな らない 。 本 稿で は、 終始 『

論』を考

心に据 えるが、 それ 自体 きわ め て

雑 な性 格 を持 っ てい 『倶

基 本 的に は説一有部の

を まとめ た綱 要 書で ある21〕 。 し か し、 そ れ は

部の 教

を忠 実 に祖述 し た もの で は な く、 そ こ に は、 経 量

Sautrantika

の立 場に立っ た記 述や 22>、 唯 識 (vijfiaptimatra )の 見解 も盛 り込 ま れ てい 23)。 した が っ て、 svalak §aロa

を考

する

合に も、 その 言

が如 何 な る 立

に おい て

使

用 さ れ て

明 ちか に しな け れば、 真に

厳 密

考 察

とは 言 えない で あろ

。 また、

部の教

に絞っ て

考 察

を進め る

合で も、 『

it

先行 す

る膨大な

有部 論書

や、 『 倶

舎論

』 の 後に著わ さ れ た 『順 正 理論』 24)

を無 視 す るわ

には い か ない。 さ らに、

本稿

で は、 イ ン ド

撰述

の三つ の 『

倶 舎論

を 一

259

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(13)

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倶 舎 論

』に おけ る

svalak §apadhara

ad

 

dharmah

’とい う句につ い て(木 村

 

49

るが 、 そ れ らに

も問

題は

る。ヤ シ ョ ー

Ya

§omitra の 『倶 釈 論 注

 

明 瞭

Abhidhamazkosa

勿45 助

吻 7痂

以 上 『明瞭

』 と略

す)

に は、 デ ィ グナー ガ

Dignaga

量 論』

P

η 〃 認 α 初 勿oo σの

帰敬

が引 用さ れて い る し25) 、 ステ ィ ラマ ティ

Sthiramati

の 『

真 実義

』 に も 『

量 論』 の 名が挙 げ られて い 26)。 そ して プ ー ナヴァ ル ダナの 『随 相 論 、 『

』 と 『

真実義

』 の 影 響 下に著 わ された と指 摘 されて い つ ま り、こ れ らの 三注釈は 、すべ 、 デ ィグ ナー ガの く通称仏

論理学の 洗 礼 を受けて い る こ とに なる。 デ ィグナ ー 想に は、

有部教義

承 とい

面が

濃厚

に見 られ る と して も、 その 独 自性は疑い得 ない の で ある27) 。 そ れ故、 これ ら三注釈 を

使

時 も

心の 注

が 必

。 こ の よ

な課 題 をク リア し なけれ ば な ら ない の だ が、 そ れ は、 今の 筆

の よ く な し

る とこ ろ で は ない 稿 は 厳

欠 け る と認 め ざ るを得 い の で ある。 と も

れ、 以 下に

句 を

論議

現 して、 その

味 を考 察 してみ よ

Ili

 

svalaksa adharanad  

dharmab

う句は 、わ め て

有名

な もの である。 そ れ

は、 一

に は、 ダル マ

法)を定義 す

の と

られ てい る。 しか し、 『

倶舎論

』 におい て、 こ の

は 「 ビダル マ

abhidharma

とは何か」 を考 察 する文 脈の 中 で、 語 源

nirvacana

として

入 さ れた もの なの である。 した が っ て 、 その よ

な文 脈の

に おい て、 こ の

は理

されるべ きである。 『

論』 以

有部

論 書に お い て、 こ の と酷 似 した表現は見 られ る。 例 えば 、 『倶 舎 論 』 の 範 と さ れ た と言わ れ る 『雑阿毘

心 論』 2B)で は 、「法 とは

な り。 自性 を

持 す

る が故に法 と

870C5

と述べ られ、 そ れに

先行 す

る 『

毘曇心論

』 に は 「

とは

な り。 自性 を

する」

834a2

−3

と あ る。 両論

にお い て、 これ らの 句は 「 を定 義 す る もの と して提示 さ れ て い て、ア ビダル マ を考 察 す 中に現わ れて い い 。 っ ま り、 『

論』 の

とよ く

た もの で は ある が、

っ た文 脈の

に登

し てい るの で

る。 とこ ろで、 『

曇心

』 では、

の 直 後に、 自相 ・ 共 相 に関 す る記 述が 続い て い とす れば 、自性 と自相は訳 し分 け られ てい た と

る。 「自性 を持 す 」 とい う句 の 原 文 を ‘ svabhaVadharanad

dharmab

’ と

想定 す

るこ と

。 ヴァ ス バ

ゥは、

当然

雑 阿毘曇心論

』 の

っ てい たで

がその

をその ま ま 『

』に採 用 しなか っ た理 由は何だ ろ

か。 ア ビ ダル マ の 考 察の 文 脈におい て、 それが不 都 合 な面 を有 して い 一

258

一 N工 工一Eleotronlo  Llbrary  

(14)

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50

 

『倶 舎 論』に おけ る

svalak §aロadharaUad  

dharmah

’とい う句につ い て (木村)

た か ち であろ う。 で は、 不 都 合 な面 とは何か。 おそ ら く、 その こ とも、件の 句 中に 採 用 され た svalak $apa を考

するこ とに よっ て解明 され るであろ う。

 

とこ ろで、 こ の

有名

は、 ヴ ァ ス バ ン ゥ の ジ ナル なの だろ

か。 それと も、 何 らかの 由 来が あるの だ ろ

か 。 『倶 舎 論 』 に おける阿含 経典の 引 用 ・言及 を 精査 した シャ マ タ デ ー ヴァ

§

amathadeva の 『ウパ ー イ カ』

UPdyika

で は、 全 くそ の

に触れ てい い 29)

こと は、 阿含 経

にその

由来

を求め るこ と は で きな い とい

こ とか。 しか し、 チベ ッ

ト仏教

代表的

倶舎

論』

注釈

3°〕に は、 次の よ

な記 述が ある。

 

法 とは、 『釈 軌論』 (rNam  

bShad

 rigS 

pa

, 

VyakhyayUkti

)に おい て、 十の 意味に

 

適 用 さ れ てい 明 さ れ てち、散 逸 阿 含

lung

 sil 

bu

に おい 、 相

 

(mtshan  nyid  

lakSapa

) を保持 す もの を法 と述べ て い の で 、 こ こ で、 所知 の

 

svalak §aaを保持する諸 法そ れ らの こ となの である。

 chos  ni rnam  

bshad

 rigs 

par

 

don

 

bcu

 

la

jug

 

par

 

bshad

 

pa

 

las

 

lung

 sil 

bu

 

las

 

mtshan  nyid ’

dzin

 

la

 chos  shes  

brjod

 ces  

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 mtshan  nyid

 

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// (「ム ズ ー』 mChims  mdzod , 

p

31

, 

ll

10

11

こ こで は 、件の 句は 、 『散 逸阿含』に由来 す る とさ れて い る。 以前、筆 者は 、

lung

sil 

bu

を迂

、 「四分

律雑事

品」 と訳 し た が、

明 を恥 じ る しか ない 31

筆者

が その よ うな 誤 訳 を した理 由は 、 『蔵 漢 大 辞 典』 の 記 述に引 きづ ら れ た か らで あ る。 そこ には 「’

dul

 

ba

 

lung

 sde  

bzhi

i

 

ya

 

gyal

 zhig 四分

の 一 とい

あ り、

《朶事

とい

う中国語 も

添 え られ てい た 32 。 また 、 『

辞典

』33)には 「 ’

dul

ba

i

 

bstan

 

bcos

 shig

の 論

書)

」 と

され てい た。 

lung

 sil 

bu

散逸

』 で あるこ とは確か だ として も、二つ の 辞 典に 「 」 との関 わ りが記 載さ れ てい るの は

に か か っ た。 そこ で、 大正蔵 経の

律 部

調

査 して み る と、 『

本薩婆 多部律攝

』 に 「法 と言 うは 、 皀卩ち是 れ 自性 を持 す るの

な り

533b8

の が 見つ か っ た34 )。 これ はチ ベ ト語 訳

攝律

Vinayasamgraha

に比

されてい るの で35)、 そ れ を調べ る とル マ と 言 わ れ るの は 、svalak §ana を保

する か らで ある」

chos  zhes  

bya

 

ba

 ni rang  

gi

 mtshan  nyid ’

dzin

 

pa

i

 

phyir

 

te

Phu

 

139b5

−6

とあっ た。 こ れ は 、

と 一

る。

た辞 典の 記

は、 『

攝律

』の 記述 を

識 し た もの なの だ ろ

か。 想

を逞 しくすれ ば 、 「 ぼ れ もの が、

の 注

る 『

攝律

』 に

り上 げ られ、 『

倶舎論

』 に

も採

用 さ れた」 と い こ とに な る。 はた して、 これが、 どの よ

な問 題 を孕 んでい るのか。

に も経 一

257

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