︻ 詫間地区の史的概観
こ 近世の詫間塩田
1特に詫間古浜﹁囁浜築立成就之覚﹂の究明1
三 多度津藩松崎塩町とその近代化
四 明治以後の詫阻塩業
五 塩屋塩田の開拓と土蕃塩田革畔
六 仁尾塩業の発展
﹁∴深間地区の史的概観
西部讃岐の一角︑三度郡詫間及びその周辺は︑北軋塩飽諸点をひかえて水島灘︑西軋燵灘をのぞんで︑き﹂とに
風光絶佳な暴騰地である︒管見に拠れば︑この地方は既に中世以来塩業地となっているが︑更に遡って上せ及び先
史時代に於ても︑史趣飽かな場所柄でほあり︑多くの考古学的遺跡も残している︒即ち南の仁尾海岸紅は︑著明な
小嵩島及び南草木貝塚が聖て︑︑縄文式文化人の生活遺跡を示し︑ついで詫周町本村でほ﹂弥生式時代の文化遠慮
を残している︒殊に後者の場合︑這は弥生式平地文化の時代としてうけとられる初期農耕時代に︑長尾佐の奥︑ 第二十八巻∵第二号 詫艶地区に於ける豊田の研究
先 王 洋 八一二五︶ 二ハ
博智山の屋根伝いに︑常へ三〇〇米の地点︑海抜三〇〇〜二七〇米の地点から下ね向いて︑山二〇米位までの傾斜
三十皮地面に︑多くの弥生式土器の散乱遺物が発掘きれた︒かかる高地に住居した場合︵日常生帝に不可欲な水を
何処から運んだかが︑ひと⁚つの大きな問題を提供替るであろうが︑当初祭記具の拾場と考えられたこの遺跡も大場
磐雄氏が昭和二十四年四月︑此の散乱現地の中腹から︑巾九†糎・長さ七〜八米堅旦る炭層を発見されて︑恐らく
わ ・q
ても︑刷特約な住居蘭と見る場合︑耕作地少き弥生式文化民の狩猟・魚粉生活も考えられ︑経済史的には興味深き
示唆となるであろう︒此の他︑中郷に︑或は田井・永出に矢じりの類が発掘され七おり︑横峯越以西の荘内村近在
も幾多の古史跡に富んでいるのであ
も行われたであろうが︑詫間の上世文化民ほ︑此の浪静かな多鳥海辺の幸に気づかぎる筈もなく︑魚貝採取の生活
に入るノと共︑に︑海藻採集・藻塩煎茶の煙も遠浅海岸咋なびか.せたであろうと推測される︒古墳時代にしては︑比較
的多くの住民がすみついていたであろうことは︑西ほ天満の片山から東ほ蟻の山紅至る稜線の累々たる古墳群がこ
れを象徴するであろう︒香撃山古墳群にしても︑祝郡土怨の蓋杯・高杯・平瓶が出土しているし︑家族のもの′と思
われる鋼製耳環・剣とおぼしき傲片が傲個出ているか片山古墳償既に破壌されて知る由もないが︑蟻の山古墳の琴
梶物ほ片岡見炭氏蔵となってい㌃のが注目をひく︒
元来詫間は︑時に託磨・宅間・託麻七も書かれてい挙が︑﹁托馬之地名﹂ によって托馬=詫間とつけられたとい 車仇空 い︑其の牧場は不明であるが︑牧=馬城とも関係があをうと思える︒大化二年正月軋は讃岐の国造ほ廃止され︑国 \l 都制の設置に伴う伊予の総嶺︵細別謂︶ぬよって儀められ籠が︑上世末でほ恐らく此の蟻の首︵桐現針宗㌶桐︶・的場・
松崎辺は設の茂る海岸であり︑高谷半島も島であり︑そして其の名の示す本村を中心に︑神田・田井辺あた診が僅
詫間地区に於ける塩田や研究 ︵一三ハ︶一七
ス
\
二二七︶ 山八 第三十八巻 軍事
3ムチシテノチタ かに開拓されていたものであるまいか︒統打本紀竺の文武紀に︑四年︹鑓︺三月十七日︑﹁令下請国軍牧地敵中
チ 牛啓上﹂とあるが︑∵︑計上紅﹁詫間﹂の名称の現れるのは︑一二代実録巻十一に︑ ヽ︑ヽヽチ ﹁貞観七年︹誤︺十二且九日︑停二廃讃岐国三野託磨牧L
4
の島とも酪係深く︑郷村粟島に官牧の面影を残す伝承史料と符合するとさえ思われるのである︒史上にこの前後殆ど
止V 詫間の字句が現れず︑・やむなくいま﹁西讃府志﹂をとりあげて︑︑詫間郷中に散見する塩関係の地名から詮索するこ
ととしたい︒先ず﹁塩生山・塩生之谷﹂・﹁塩生﹂・﹁汐本山﹂・﹁汐木﹂ほ塩及び墟の煎糸と関係深小と思われ はぷ るや府志の著者達は和名妙に﹁駿河国安倍郡の埴生は反布﹂とむるところからこの塩生も埴生を誤れるなるべしと
しているが︑塩生は詫間地区でほ既に寛文末︑近在の塩業地に放けで∵塩の飛燕を開始している︒塩生山の新燃軋
もあり︑近在の伝承︵紺㌫新邸︶などから推しても︑新浜・塩生の一線ほ塩の煎糸地帯と決定する㍗とが出来るし
︵譜ほ逮卵配㌍㍍離跡鮎檎腎開猟鵠㌍謂鞘謂咽摺竿汐木山・汐木も決し滝償と無関係でほあ
り得ない︒海塩は所詮その生風のほじまりから煎熱のエネルギー源とぼ無関係ではないのである︒
か⊥.る藻塩火や藻塩木転ついてほ︑新古今集紅﹁沖つ風夜寒になれや田子の浦の蟹の藻塩火たき質さるらん﹂・
ヽヽヽ
きものかを理解七うるのである︒いま︑乗紅丹念症府志を見ると︑詫間郷内音階村には︑塩木原・塩木あり︑仁保
村覧保山︵響り︑大浜浦造谷・契があり︑香田清覧田・塩㌃り︑生計浦造坪・潔代の外︑志保山が
箱浦富見られ︵聖転置︶︑前述の来場にほ塩谷㌃られる︒これ等︑の地名の多くは︑恐らく富牒呼称ではあろ
うけれども︑その讐には表芸るを得ないので莞て︑現蓋間駅正面︵鎚膵︶にも﹁カマヤモト﹂︵釜屋元︶
なる地名がみって︑優美と切離しては考えられない︒此の小さな詫間町に近代的真空式射塩工場が松崎・西野●詫
間合同の三箇所匿も鼎立しているさまは︑⁝の偉観であろう︒塩其の素人にすら流石製塩地帯と讃欺せしめるの
である︒いま筋をいとわず﹁潜讃府志﹂左肺く′に︑託間郷紅就いて伽︑
﹃託間郊 今按ニ︑女徳実録ニ︑貞観七年十二月九日︒停二隠語岐国・三野郡託磨牧了見エクレバ︑琴−牧馬卜置レンコービプレ ︵て∵ 0 0 タリ︑ヨテ考へ得タルハ︑肥後国二託磨郡︑又薩摩国高城郡テ託馬郷ナドアリ︑此高城郡デル託馬トカケルゾ︑正字ニテ託レ
馬之地トイフ義ナリ︑粟島ナル八幡宮ヲ馬木トイへぺ是牧地ニチアリソナルヘ︑シ︑当時是ヲ都久万ナド訓レケン︑近江国ナ 00 ル筑摩チ万葉琴宣託馬トアリ︑ナチ文武紀ユニ.四年三月丙貰︑骨壷国定二牧地表峯席上﹂ト見ミ此時ナドニ置レ雲
モアルべ.シ﹄
るようである︒西讃府志ほ更にその地味紅就いて︑﹃詫間︑書津︑仁保︑香田等ハ︑五分慕雪五分砂交り︑箱浦
ハ七分黒土砂交り︑三分赤土砂交り︑生里ハ総テ砂地︑東浦ハ八分砂地︑二分真土︑
妄潮田︑積浦真土赤土相交レリ︑志々︑粟島等ハ総テ赤土交り︑﹄という土質の興味深い分析を試み︑
〇.〇 ﹃託間村
東西し四十三町五十五問︑高北三十町︑丸亀ヲ去ルコト四畢∵巽富津年末ノガ仁保︑周酉家浦︑香田等ノ諸相二隣サ︑南冒西 中
蒜キテ︑志保山樺り︑東北海ヲ受デ︑東自力村卜海域相警︑北粟魯壷ル壷︑海ハ志々︑粟島︑毎上等ノ諸島ト︑沖中
ニテ各半ヲ分テ境界アリ︑高谷ノ内︑及洲甲新浜等J三処二舟泊アリ︑村丸首九石八斗四升七合五勺︑﹄
と説明している︒塩田関係軋就いては︑﹃︵塩畦︶八町竃屋十三戸︑戸毎⁝干四︒五壷ヨリ︑l︑四十芸ル︑壷総
テ八十︑運上銀年攣二女六百八十日︑外二新塩畦畝数未詳‡フズ︑﹄としているのみであって詳細を知り得\ないが 詫間地区に於ける塩田の研究 ︵一二八=九 としており
010)鵬..
応牧馬の地と理解している︒この見解望呂宋伍博士の大日本地名辞書︵諾摘矩︶紅︑も踏襲されてい
︵一二九︶二〇 第二十八巻 第二号
賂壷数の八十は恐らく誤りで︑竃屋十三声もあれば五首ちかくもあろうと思われる︒しかし塩英地と
瑚
1 は洲田に塩竃大明神あり︑社地八畝としており︑更に新浜′に尾崎八幡宮あり﹃播敵国赤穂ヨ∴り移シ祭レリ﹄としてい
かと点ろから﹂塩業地赤穂との密接な関係も考えられるであろう︒元来この西讃府志の編述が丸亀薄に地志掛がお \d.
かれてこの﹁天凰己真十年︶ノ歳ヲ以デ事ヲ始メ﹂られてよ㌢京極侯の序文にある如ぐ安政五年の脱稿とすれほ︑
その間︑二十年間の史実が盛られている筈であるが︑遺憾なことには︑詫間の塩関係に就いてほ止述の外殆どその
ことの様子がわからない︒
い要﹂こに中世末から近世末へと詫間地区を概観する紅︑秀吉の長曽我部討伐以儀讃岐の領主は︑仙石氏・尾藤
民と代.っているが何れも長く続かず︑大正十五年には︑h生駒親正の入府となっている︒この生駒家は寛永十七年︑
高俊が出羽由利に流されるまで﹂四代五十四年間︑讃岐の領主として君臨したのであるが︑この五十余年間に︑朝
つ等ここ.で注目すべきは︑この京極象が掃磨竺万石を観治七て.いることであり︑二﹂の事が丸亀薄と赤穂塩業と 鮮征伐もあり︑関ケ原の戦︑ふ還氏滅亡・由蘇教禁止・検地等時代変貌のあわたゞしい大事件の連続である︒この 間詫間の治者︑被治者も深刻な影響をうけた筈であるが︑生駒家時代の塩凛史的文献には事炊き殆ど究明し得な い︒生駒牒去って後︑寛永十八年︑西讃紅は山崎家治封ぜられ︑蔓年にほ松平頼垂︵琴が高松蛋ぜられ︑詫間は 山崎治下となるが︑しかし万治元年粧は︑栄極高知︑丸亀城を賜ゎり︑西讃︑登臨・三野・多度三部︑那珂郡の内二 十ニケ村︑鵜足郡の内.山ケ村で五万六十七石︑僧磨揖保郡の内山万石︑︷併せて六万六十七石を領有することとな
の療びつきを考えざせられる叫つの連鎖となり︑事庚近世西讃地区塩業ほ播州とほ切離して考え得られないのであ
−る︒これ以後︑明治維新まで詫間のうち︑大字詫間と香田ほ京極丸亀薄給下となり︑高或のとき︑多度津薄が分封
せられ︑︑松崎は此の管轄に入って明治維新を迎えることとなる︒
こ 近世の詫間塩田
1特に詫間音浜﹁塩浜築立成就之選﹂の究明1﹂
女軍産︵㌫︶兵輝北閑人船帳紅従えは︑この頃︑詫間塙三三〇石が︑黎6石と共に問丸道祐・船首紀三郎紅
よ クマ塙﹂の銘柄滝知られ︑これ丈の産塩の近畿紅運ばれたこと自体は既紀宝町時代に於いて塩生産適地として著聞し
ていたものと思われる︒著しく史料に制約されて︑この西讃地区の塩業が中世後期如何なる技術によって ート例え
ば揚ケ洪形式軋よってか︑それとも入浜形式軋よってか︑或ほ混合形式によったものか︑ぎ近世への引継が甚だ
不明瞭である︒併し︑突如として近世入浜式塩菜がこの詫間地区軋創設されたもの・でないことは憶かであって︑こ
の事ほ又別の機会に詳論しよう︒既に前に述べたよう紅︑地名∴地形から推論し︑伝承毯吟味してゆけば︑現在の
西野塩田の北に﹁塩生・塩生山﹂があり︑この蟻生から束へ須田紅かけて︑昭和四年塩生塩田が廃止塩田となる遠
か以前︑近世的な山連の塩焼浜があったであろう事ほ推察に難くなく︑それど上ろか中世的な揚ケ浜があったかも
知れないのである︒自然地理的な計測から推して︑この大谷南岸から須田へ見通し︑その地勢は屋島の相引川の束
\
西南側紅酷似し︑近世以前は恐らく︑現存のような突出半島でほなく︑孤立した島であっただろう︒新浜の地名も近
世的なものと思えるし︑この島の南岸及び浜田から天満せ結ぶ北岸地帯誓﹁塩生宙浜﹂の原塾を求めることは至難
な事ではあるまい︒万治から寛文にかけて丸亀藩ほその創蘭期であるが︑上の頃その港内の治山・治水と福利に漸
く限ざめた多くの徳川領主逮ほ1丸亀藩主京極高豊もその血例と思われるが ー 多くの土木事業を起している︒
塩田築造磨から言えは︑この﹁塩生﹂の迫在に寛文十年︵㌫︶藩直営軋ちかい塩田を干拓して︑寛文十三年︵㌫︶三
詫間地区に於ける塩田の研究 ︵一三〇︶ 二一
I・\ \ \
Fか八八一.トも言・へ
第二十八巻第二号 ︵三三︶十≡ 月竣工したのが囁矢といえようごの頃︑内海沿岸︑殊に塩業適地でほ︑かかる試みがひとつの企業的流行であっ ∵・.∴.∵∵ト.−︑ −.\・.二 い
ととである︒彼は池尻・的場の新田を開いて︑尚古池を拡警︑緑地を築い雷・いわれるが︑当初国苗池の水を引
いて︑この新田賢れ這木︵摘㍍鮒木︶に溝渠雲㌢もの牒︑潜針が竣工するに㌢で不用覧ったといわ れ︑今晶冊型の水田Ⅵぁる地帯ほこの道跡と見られよう︒かくて詫間地区雷滞築の場合︑これ等の新田・新地 の閲警並行して︑毒草ろ差等工事に随伴しっつ︑続いて起ったのが︑︑海浜の干拓︑塩田構築であろうと推測さ
れる︒片岡文事に従うと︑︑蟻の首︑舌浜塩田の樽讐れた︑のは延宝二寅年︵㌫︶となっているが︑恐らくこ仇頃餅 \ 紅完成したものであろう︒
的場の北部︑高瀬川冨岸デルタ蒜している現在の詫間塩田に就いて︑ほ︑妄の起源を決誉うや古文書が︑宝
寿院の住職理厳の著すところの﹁塙浜成於之覚﹂である富賢gれ︵摘別相朋は謂遽は鍔も︶︑最近片岡貞蔵埼文革の なかから完全なるものを発見し得たから︑蕊に塩田関係を摘記して推敲して見たい︒ . ⁚り 塩浜′築立成就之覚
高年十二牒十三日子石原文衛門殿竹腰2浜功者孫兵衛一主地見七小汐時之干潟塵蒜申候 忘年十二月廿日テ中野四郎兵衛殿犬幡宮へ代参遠藤八右衛門殿御越口上之趣老境浜成就仕儀ハ蒜杜建立叉墟浜御附可被 成候鳥井ハ四郎兵衛殿自分一感立可被風候埜別品御闇ヲ入御閣下り慣ハハ塩浜御築立可被成と右之通神前蒜言上御間取候得老 勧閣下り申候所八右衛門腰へ閣下づ申γ候旨計入候 完禄十島十方廿六日董野四郎兵衛殿石原文衛門殴塩浜和良分表出
山元禄十六班年正月廿日一遍鎮被仰下御輿旅処工而修行仕候
山間廿自責浜普請之鍬始御座候
一同甘言日一州都領内人足寄普請被仰付儀
一同三月五日一−汐留被成候
山同廿∵日一面勘左衛門殿山田源太兵衛殿作久問次循門殿大塚入着衛門殿御出被成候
一同四月千鵬日入川出来仕候
○十三日一− ︺
山四月廿日二塩初穂八幡宮へ上り候
山岡十月盲工佐克郎兵衛毀佐﹂碍蔵殿西脇与禰門殿林治術門殿土田久衛門殿船蒜御賂被下僕
細見分工船︒而衡巡英和庚ぺ痴寄被成慣 ︺ 一富永元年耶四ヨ廿日工岡勘左衛門殿西脇与衛門殿木村茂衝門殿土田久衛門殿杉村箔左傾門殿浦〜浜辺へ松木′境木一疲成候︒付
︵荘慧造彗汐氷山のこと︶
腑周七月十七日一石野四郎兵衛殴郡奉行︑小川作左衛門殿︑︵下略︑人名列記のみ︶
一同八月廿日−高田三木右衛門殿河口久衛門殿山崎与衛閏殿小倉十右衛門殿富山安兵衛殿山口左衛門殿土田久衛門殿中野四郎
兵衛殿塩浜見物工船工而御越被成候 山岡十六甘塩浜持初任候
四月十六日塩浜持初任候
劇五月七日二塩竃初焼申候
二軍永二乱年十六日一涙木作衛門殿桜井良作敢塩浜見物−惑こ而御越被成候
同月十九日林治郎衛門殿□□太左衝門殿木村茂衛門殿中野四郎兵衛殿江中御巡之時塩浜へ御寄被成候
詫間地区に於ける墟田の研究 才
︵一三二︶こ一三
劃同五月甘五日塩浜年買五石︒被成中野四郎衛門殿ご被仰波勧赴−−被成
劃同月六旦ハ月木七首一義分処三野郡那野郎小川作衛門殿豊田郡多度郡中野四郎兵衛殿被仰付候
山間七月十ごq4須藤八右衛門殿宮崎ロロロ票浜会所一疲仰付辻本彦衛門殴真部又衛門澱両人ハ丸亀へ戻昇後者四人両人宛廿日
替工被語口
仙尚十二月五日工加地子六石−疲成塩浜御預被成候
とあるが︑一見して管見は次の如く質的せられる︒
先ず服針即つものほ︑中野四郎兵衛光忠以下多くの薄役人が関与している薄営開竪であり︑物見遊山も兼ねてか
藩役人ほしばしば丸亀′・多度津より来航している︒本藩の塩按ほ大体赤穂の流儀をくむとこかであるが︑先進地竹
原の隠築技術を採ったらしく︑小汐時干潟の膀示打込鬼ど︑沖仙文字の捨石打込などからことを起して大失敗をし
た元禄末の多宮浜開築と異り︑極ぬて慎吾な行動が僅かの文面に観取される︒日本近代社会の物事始めにすち観ら
れるととろの御閻入れの神社占いや裸軋よる物事始めのレヤーマン的世界観が特匿塩園開築に深く結びつき︑しぼ
しば塩田の一角
g・. 門を適わして︑鳥井の個人寄付を申甘で︑附遮音姓の労働力振作に.ごれつとぬていること︑更紅汐留の構築も︑入
川の汝深も意外に早く工事が進んでいて︑通例見むれる数年の鍬下年季もなく竣工直後の五月末には︑いきなう年
東玉石も定められ︑更紅年末紅ほ加地子が六石に増やされ︑現地塩浜御預けとしていることほ︑この詫間舌浜冊
は︑急に思い立㌣てこ砂特製塩業務を始めたものではなく︑可なり古くから︑かかる塩浜作業を継続していたらし
く推定されること︑︑猶末尾に由人の役人が・こ人宛廿日替に︑浜会所へ出仕していることなどは︑最初から藩営介入 第一手八巻 第二号 ′
T同月□u四月十二乱山田源太兵衛殿中野源之塵殿衡越候 ︵一三三︶∵一四
の企図を継続する稔りであった計画の諸点が観取されるのである︒
いま仔細艦片岡氏文溜を検討する払︑﹁寛文十三丑年︵霧︶詫瀾村腰下新田出来申候御奉行川口市太夫様庄屋藤
兵衛組頭与四.郎︑其後蟻ノ首小浜軋釆申候﹂と見え︑夷後とほ片岡氏の見解で町新田埋立の翌延宝二重︵㌫︶と
される︒この時︑兼間甘浜も含む蟻の首小浜仙療が塩浜化したとすれば︑元禄十五年を遡る二十八年酷に於てすで
4 甘塩田らしき∵応の基礎工車むすすみ︑其後の基盤築造も︑た易くした事であろう︒
かくて元魔十六年に成功したこの新浜も濁水四年︵㌫︶十月の大地震濫鹿防が崩壊し1て塩田海となり薄東山城
患四郎と家族松田吉右衛門がその修覆を藩に乞うたが許されず︑浜も放置されていたが︑鳶右衛門の子英右街門が J′
→芥決意を以て薄吏を動かしセ丸亀薄重ハ代京極高朗の容れるところとな︑り︑天ノ保十三年より十四年の間転落成t
元禄の頃よりも梢厚くなって︑南北に長く電屋二十二軒が出来上ったという︒今日の.所謂詫間浜一番から二十二番
迄がこの時の増築であって︑詫間塩田の︑東部分が天保の造築という事転なるであろう沌これ奪の閲策動械は惑紅し
て見れぼその名目ほ難民の・生活救済ということ紅あったが︑実質ほ殆ど藩の直営紅よる財政収入増加にあっ・たらし
く︑明治四年に至って藩主より松田英右衝門外十三名軋払下げられ民有となっている︒′その後明治十八年に至る迄 −
ほ地主の直営であった︒かくてこの頃迄の資本主義勃興期に於てほ︑天災さえなけれほ︑この安全確実にして︑腐
2 放することなき塩の生産は塩田地主達の好個の投資対象となった︒いま明治初年に於けるこ﹂の地方の労賃支払形式
を見るに︑塩田労贋ほ現金でほ支払われずに︑次の上︵表︶・下︵裳︶のような
詫間地区に於ける塩田の研究 無利子
金 弐︑銭 塩田労賃預券
引換満五拾銭十五日定 明治六年 欝五月ヨリ
十二目限 三豊郡詫間村
松周元太郎
二三四︶ 二五
第一劇十八巻 第二号
メ
二三五︶二六
労働預券と称サる縦四寸五分︑幅一寸三分五厚の小券による支払を為し︑弐銀券二十五枚による五十銭払︑十五
日を支払日として︑現金と交換していたようである︒種類ほ乳厚・菅銭・弐絨の三種である︒その後明治二十五
年から暗和十三年迄は小作請負制が実施せられ︑この制度では大体山ケ年乃至三グ年間の期間契約で︑年間凡そ
塩生産巌の二如五分程度が金円紅換算されて徴収されたと伝えられる邪︑殆ど詳細な記録ほ残っていない︒昭和
十三年以後は再び地主直営となったようである︒
三 多度津青松崎塩田とその近代化
先ずこの詫間地区でも松崎塩田は丸亀藩でほなく︑多度津藩に所属していることを注目せねばなるまい︒元禄七 勘 年︵.㌫︶京極高道は丸亀薄より多度津一万石の分封を受けてその藩主となるが︑松崎村はそのうちに含まれてい葱
片岡貞艮冥書の大胡建学四年︵㌫︶八月の﹁卯之御物成帳﹂は多度津薄収税の根本台帳と見えるが︑新田・新旭も
無数に散見し︑この小地区の高八官給八石計斗九升菅合は永野の望ハ拾四石弐斗仙升七合と庄屋姶七石分を差引ト
銀〆七盲九匁弐厘吉尾
と雪のが限をひく︒如ちこのこと柊建学三富年︵竪頃︑松崎賢なお塩田の存在したであろうこと
その所在も乱らく高瀬川右岸今日の詫間駅近く︑松崎小学校の下の﹁カマヤモー﹂︵釜屋元︶と呼ばれる辺であろう
︑ て︑残り六百四拾七石七升四合とな各外︑綿有目と
一銀四首九拾九匁四分六厘
と推測される︒更にいま〟つの確認は﹁酉讃府志﹂を探索すると︑高瀬郷松崎村の項紅 叫同首八拾弐匁六厘 一同弐拾七匁五分五厘 市原市兵衛分 子寅ノ改 塩 浜 運 上 右 同 断 右 同 断
﹃﹁︵墟畦︶三町四段九敬二十八歩青首十四外−孟壁ハ畝言草貞宰元年十月廿五日塩屋畑林茂兵衛誇﹂道上銀七育九整ハ璧
と見宜て︑元禄七年を遡る十年すてに貞亨元年頃から建事末釘で七官九匁余の運上銀を納め\ていたことが知られ
る︒商讃府意の述作年代は天保末かち安政五年にかけてであるから︑なおこの頃三町五反にちがき塩畦があったと
簸解されねばなるまい︒
その儀明治時代に入って︑塩の専売制の施かれる︵川場軍直前明治三十五年にほ︑高瀬川の河口三角州の埋立地に
安藤英作・山地覚治・山地勇吉・吉田利助・布田嘉三郎等により今日︑の松崎墟田の構築が始められ︑撃ニ十六年陀
●. ほ完成している︒採掘地面積ほ二九・五〇登二階で為るが︑高瀬川の関係紅よる淡水浸入の危険が比較俄に多いこの
塩田は︑′石釜式から平釜式煎糸による経営変遷の過渡期に於て幾多の迂余曲折はあったが︑昭和汁二年の.労働争議
を契機として︑全塩田が会社組織軋切替られている︒第二次大戦中昭和十六・七の両年にほ製塩燃料節約の見地か
ら︑蒸偶の利用を狙う集約煎糸が行われ︑従来十八グ所に散在せる塩焚小屋を二棟のエ場に集約し︑丸型蒸気利用式
に改造したことは︑当時の平釜式時代から見て果断な処置といえるし︑塩煎糸史の上に特記きるべきであろうが︑併
も終戦後瀬戸内海製塩諸施設のノ機械化周遊の醸成され来ったとぎ︑真空式方式へ・の切替は意外におくれ︑寧ろこの しんが少 地区では殿であった︒その工事は昭和二十六年五月に完成しているが︑附属塩田ほ二九・五〇四三隅︑製塩許可高
は四〇〇〇屯である︒前述したように︑もともとこの塩田は人家に接近し︑僻も高瀬川一二角川砂上に臨在せるため
淡水便通の馨影響を蒙る極めて不利な立地条件におかれている︒上のため鍼永の濃度を稀薄化し︑蒸気利用丸型煎
糸時代ですら︑この稀薄朗水がたたって︑往々その煎戯採算を不利紅導き︑⊥特称働を中止にさえ追込んだが︑幸
い真率式製塩工場となっ<︑稀蒋鹸水をも煎糸することとなった為漸く蘇生したかの感がある︒製塩施設近代化方
式の勝利といえるだろう︒更に採観面紅暦ても藩水源・潮水溝の改築・拡張が効果的に行われや漸く紅して塩田本
詫間地区に於けを塩田の研究 ︵ニュ六︶.二七
然の姿に立道った感がある︒松崎の場合︑その煎熟形式ほ橡準型蒸発総四重効用でありr日産鍼水濃度ポーメ此重 ヽ.
一五.五度に於て塩妄︑000鞄である︒今後染界の敵勢として︑入浜式塩田として改築費用が嵩み改良見込薄
のところほ︑逐次流下式・枝篠架式併設の旛におしすす.められるであろうから︑識者ほそこに︑平凡な構造変化の
うち紅︑採朗面近代化の相貌を見いだす事であろう︒公社も亦勿論その技術指導の方針を採っているが︑しかし流
下式塩田で蔑が下からどニールを突き抜ける例もあり︑今後その耐久力と採算面の検討が期待されるであろう︒
四 明治以後の詫間鑑英
次に西野浜であるが︑この三野津洛西岸の地ほ今井滑兵衛によって︑塩田適地として撰ばれ︑明治三五年音域
田と七て着手され︑廊三十七年竣工したものである︒その後彼ほ二号塩野㊥艶造を計画したが挫折t︑代って西野
嘉衝門が瀾治四三年完成するが︑そのため名称も一﹁西野虜﹂となったものであろう︒明治四三年といえほ︑塩の専−
党利も初まって五各彼のことであり︑塩田築造史の上から見ればさ程古い訳でほないが︑此の浜田辺の地質ほ北部 こうや 高谷岬の影響によるものか︑現在の塩田面から約四〇凍の深さまでほー︑東金な粘土層であって此の時の塩田境防
護岸工事には測す知れぬ苦心があった七いう︒この事は当時の璧冗局作成﹃三豊瓢塩田地図﹄上に画かれた設計時 図のかきかけと完成地図の比較紅よ︑つて藩幾分察倒しうるが︑エ場建設の基礎工事に多額の工費を要し︑しかも尚
地盤の不等沈下によって鱒構築物紅思わぬ傾斜を生じ︑扱儒家の苦しんだ事も伝えられている︒従って塩田地盤 ′
も亦可成粘土質傾向が強く入浜塩田としては︑必ずしも優れた資質を備えているとは思えない︒しかむなお探幽成
紙のおちな小切は︑Jその地力の錬を労働力によって補えるもの︑絶えざる研究は︑終戦直後燃料の甚しく逼迫せる
とき︑短冊型数本の入浜塩田が天日塩田に改造され︑充分の採算をあげた事からも知られる︒昭和二五年九月には
寡空式設備の菜成と同時匿操共闘始を見たが︑∴﹂この塩田面積ほ三四陥︑ノうち六隋ほ既に流下式に切換えられ︑ 第二十八巻 第二骨 三七︶ 二八
朗水潜も昭和二八年には従来の容積五︑000野に対して⊥︑八〇〇好も増設され︑製塩許可高も五︑000屯と
なっている︒
既に述べたように︑漉世詫間浜はまず丸亀洋直営にちかきものとして︑天保末再出尭するが︑阻治初年にこの新
︵竿・旧︵翫︶塩田ほ民間企業者松田英右衡刊等十数名に払下げられ︑爾来松田家は父祖伝来の尭として継承︑こか
塩田中松田三徳所有の塩田︵三ハ・四九七廿隔︶は大正十由年小月十日松瓢塩田株式会社となり︑それが次の松崎
沖塩田株式会社︵二二・二八二二階︶︑それに詫間埴菜組合の塩田︵八∴二七九九附︶を含めた三者合体となり︑今日
詫間合同製塩株式会社として新発足している︒従って︑この親会社ほ各関係塩田会社から朗水を購入し︑て煎熱する
という方式をとり︑採輌会社とペ煎紫︶製塩会社とは刷応別個の二本建経常となっている︒因みに吸収されたさきの
松崎沖塩田株式会社の松崎沖浜は松崎塩野の釆北に突出して造築きれ︑明治四十三年七月三十日樺式組織を以て︑
加藤勧学︑由井愈︑山地党治郎等紅よサ起されたもの︑大正元年十仙月十日にほ︑この松崎字北浦の沖合にメ十則
塩ヂ︑二十二町歩の塩田が完成し︑たものである︒この外また他の個人塩田︵二・九山四六隔︶から離水の受入れを
し︑更に二八年度より松田塩田の三・六八九隋は流下式塩田紅改造せられ︑結局今日詫間塩田紅観水を供給する塩
田の総面積は入浜塩田五五・〇九六五隔︑流下式塩田三・六八九隔︑計五八.・七八五七陪となり︑他に枝篠架式が
床面積三七〇坪︑製塩許可高八・五〇〇屯となサている︒
五 塩屋塩田の開拓と土器塩田事件
生駒正俊の時代︑元和元年三月七日にほ播州赤穂の人二十八人が丸亀市境屋に来住し︑製塩業を始めている︒こ
の事ほ﹁西讃府志﹂に見え︑
詫間地区に於ける塩田の研究
8
︵ニ八︶ 二九
﹃鹿屋村 ︑
塩犀と号くるは︑元和元年三月七日︑播摩国赤穂の人田中孫六︑芥五郎太夫︑中山治者衝門︑為久甚太夫︑永安助右裾門︑尾
崎藤太夫及び其外二十二人相伴ひ此地に来り︑塩畦を開きて此菜を姶む︒遂に村の名となれり︒栄西七町五十六問︑南北六
町︑東丸亀に連り︑南今津︑西下食倉等に隣り︑元のカ海を受けて塩飽島に向へ′り︒外の尾常に流れて福島に統くを名づけて
新塩屋とよべり︒
東西三町四千四間︑南北三町︒村高九十五右九斗八升五合︒初塩睦たりしにより︑諸役すべて免されたりと云ふ︒
塩瞳七町五段余︒穴数七育五十︒運上塩二宮六十石二斗五升六合︒静銀四育三十日七分︒三町七段余︑右新塩睦︑穴数三育七
十三︒運上銀二貰二育九十日︒
以上の塩畦の内︑今摩れて畑となるもの凡十鞘二反余﹄
となって.おり︑塩田全体が海面下紅ある近世入浜塩田とは若干縁遠き﹁塩哩﹂必用詠も使われ︑その末尾を見ると
天保末から安政にかけ︑余程衰退したらしく察せられる文句である︒それが明治に入る紅及んで︑急速にとの塩業
適地に周拓熱が勃興したらしきことは︑次の大庄屋進達文書によって確認潰れる︒ \
兼テ昨巳年御願済ニデ元伐仕儀松林畑裏手緻先ニテ同所堤強︑︑\ニモ相成候労先ツ為試塩浜窺家三軒前斗東西百三拾間南北六野
間相関申度旨署姓共ヨリ申出候問御伺中上候何卒御許容被為成下候ハハ忽チ窮屈救助ニモ相成如何斗力難有仕合存奉候此段宜
へ願︶カ 御断被仰上可被下候以上
明治三年
年五月
大庄屋 第二十八巻 第二号
属 場 周 吉 殿 御伺申上目上之覚
塩屋村庄屋
司 田 中 幸 之 助 ⑳
田 中 七着荷門′ ⑳ 三九︶三〇
矢 野 多寄治殴
右之通商出候二付奉伺上候以上
大 ′庄 屋
矢 野・多 事 次 ⑲
馬 場 周 吉 ⑳ 議 政 局
御 中 ﹄ 9 ︑ とあっヤ既鼻‰一毎︵栂︶壷より塩屋柑百姓共より松林章匿笥屋三富︵醐舶獅箭関︶の干拓運動あう︑難民救
済あため誓﹂の議取上げられたいと庄屋より東庄屋へ︑更拡大庄屋より丸亀薄議政局へと歎願に及んでりる︒時に
明治一一尋五月八日であるが︑この申請をうけた試政局は調査の上へ同年十方こ闇これを許可している︒そこで塩
屋村民は明治四年八月二十二日に凛って︑漸く着エしたのでをるが︑なかなか軋進捗しない︒.その目論見ほ僅か奄
璽一軒耐分︑東西百三十問南北六十聞︑鵜坪数七千八百坪︵柏鍋剛Ⅷ鮎川諾朋鋤首︶︑であって︑七ハニ圭○円五十銭のエ
静をかけて施工を急いだが︑なか査か尼収益を挙げるという草でに至っていない︒当時この近在の塩価は︑明治三
年二斗五升入叫俵五十二︑銭八厘二糸五︑同四年十八銭五厘﹂毛六糸に暴落し︑同五年更に十;銭七原料毛五糸と漸
落︑以下六年十二銭七厘三毛︑同七年八月迄十三銭二度七竺糸という価格変動で︑塩浜ほ雨天を除き休浜なしとい
ぅ状態を続けても︑予期の利益はあげ簡られなかったと見える︒いま明治八望月十八日讃岐国都珂郡∵小区塩屋
村の区長から塩田製産取詞書を県へ掟出した文書に㌫ると︑この頃に至?て︑塩屋柑の浜が東西三宮八十四間︑南
ふる 北九十間︑鹿反別十毒六空転二歩︹㌍醸押㍑昌騙㌶完髭穏︺に拡張せられ︑字其浜と経浜の台数合せて六音
読問地区に於ける塩田の研究 ︵蒜○︶三±
となって︑塩ほ二斗五升入と換算して︑両方九千七百三十俵と庵り︑産塩一ムロに付五十七俵という当時の常例から
推せば︑六七〇ムロ分の総俵三巧八千苫九十俵ほなるが︑何れにしても丸億市史所載︵叩蒜卵︶の人上表︶東浜分ほ著も
く過大であり︑︵下表︶経浜分は過少と見られる︒管見によれば︑この頃︑この程慶の広さ︑塩浜十山町六反骨の出
来塩ほ凡そ二・三万俵と推計ぶれる︒煎糸は︑石庚よりも松葉
でおこなわれ︑その出来塩の七創造は近郷へ売捌き︑残り三割ほ芸州・備中へと船積したものらしい︒
次に明塗二年の土静塩田事件紅もふれたい︒′これと全く同山性質の事件が昭和二十九年高松市と弦打村にも生起 2 し︑歴史の漁り返すという一面を完璧に露呈したからでもあ聖土器塩田事件とは︑明治三年五月高松港鵜足郡土
器村土器川下流東岸に塩田を営築せんとせる際虹︑隣薄丸亀薄の土器川西岸三浦の村民との間に生じた紛争である
が︑結果から兇.て︑結局高松港の主木五郎等により土益川東岸の造築がおしすゝめられている︒之に就いてほ︑明
治三年午五月の三浦︑御個所・北平山︒西平山の組頭共が夫々の庄塩代に掟出した歎願書が最も論理小異している︶
ようであるから此処に採録したい︒隣接高松薄の請求紅よって︑丸亀薄では三浦村民にこの塩田築造計画是正の意
図を諮問したところ︑庶民代襲組顧縫蔵等の答申は次の如く︑冒同松御支配境土器川近辺へ新塩浜営築に付︑御上 ︵小四こ一三血 第二十八巻 第二号
七十台︑︑釜屋む十一軒之な牒∵経虜でほ十五町二反歩の新規開拓見込も襲われる︒その生産高を見ると︑両浜併せ
て︑二斗五升入︑其浜は九万二千四百恵十三俵九歩五度︑経浜ほ千首十俵︑計九万三千五空ハ十三俵九歩五歴とな
るが︑ 告した文書を精査するに︑
砂糖脚ケ年産出
塩/ 同\ 凡高八十九挺 但し官片入
九千八百六十五俵但し五斗入
様遮り下方にて羞支の儀御尋被レ為レ在候配付︑浦方之者澱申談じ候処︑左の通り﹄とて先ず三番川流れと申義
は︑川上鵜足郡大川山より相流候処にて御座候﹂とて︑定義をひとくさり︑次に詳しく微に入り細をうがって両岸
沿村の土手・川筋・填の馬踏・根巻・流水慣行を述べ︑﹁御支配境と申義は︑土器川中程より向ひ島︑塩飽本島に
て亀山と申処見渡を海域と申事︑往古より老人共聞伝紅て居申候︒然る笹新地棒杭見受候処︑少し入込候様に奉レ
存候得典∵御両配境の御車に御座候闇﹂水門より墟丁沖中に案出し候得ば︑︷丁栄え引︑又十築出候はぼ︑又
一丁釆へ引︑追々山丁1紅て段々釆へ引取候様に奉二欺上顔︒﹂と言って此の塩田西側築堤 ︵土器川下流右岸︶
の段々東へ引込めちれ度ぎ旨を慧網王左様にせざれば︑出永の御三浦沖手の浦尻相つまり困腐い.たす旨請願し︑
少し宛引込めさえしてくれれば︑洪水の節三浦の人命に相かかわる事があっても苦しからずと開陳し︑最後に左の
如く結んでいる︒
覇地塩浜十二丁も沖中へ築出し候ては︑自然と汐の滞曳之節少々宛砂押寄せ︑三浦沖手相埋り候得ば︑出水打槻︑無品押
懸候様に奉養候︒是迄睦も洪水の皮革匿︑浦方へ切懸り候事も度々御座候得共﹂只今迄は色々凝防候得共︑新地営築に相成
はひ︑ 候てほ︑迫も浦方之不レ及=力に∴土器川肢ロロ強く浦方へ押懸け候節は︑多く高松御支配地之水にて︑何れ浦方の者共人命
にも相掛候程之義も攣覚宋∴且は浦方老人共初−統之者共昼夜心痛のみにて相歎居申候得共︑前文中上候通り︑沖中へ築出し
候通り追〝に栄へ御引取︑新地営築に相成候て︑瞥ひ洪水之節浦方之人溜相懸候共不レ苦候得共︑只今之棒析にては浦万人命
之義ほ不レ及二中上るに∵西川口も追々には相埋り候節ほ自然と商船乱入通行も難こ出来︑∴左慣節は浜方問屋初︑市中商人︑ 釘 \
仲便︑小間者た至る迄︑渡世攣有成一候間︑無拠懸る御暗合柄︑別て恐多琴南上嘉候得共︑第ヤ人命に相掛り︑且は浜方
入船通行も相障り候問︑何卒格段之御憐怒を以︑前段泰土款←顔通り︑新地沖中へ出慣紅ほ︑追々に宋へ徹引取営築に相成候
棟御仁配之程御論客被レ攣仰下議レ下候ほゞ︑滞方之者共攣此上正大無辺之初男助︑如何計攣有仕合に奉レ存候︒ 詫間地区に於ける垢由の研究 ︵一四二︶三三
西平山庄屋乗数 第二十八巻 第二号 明浄三年
牛五月 三 浦
御供所組預
槌
土口
元
北評山組頭
栄 万
嘉
■r
ロ 左 衛
西平山組頭
松∵右 衛
︑典 薯
伊 吾 書 卯 佐 左 同 左
︵一四三︶ 三四
乎
衛 岩 衛 門 平 門 八 印 印 印 印
蔵 印
蔵 印
治 印
門 印
RHJ P P 仁卜
衛 印
衛 印
片山輝之助 殿
北平山庄屋
岡田藤太郎 殿
御供所庄屋代
﹄ 件数 伊
この結末ほ必ずしも明確な黒古の蒜を劃し得ないのであ嘉︑私蔵文書︑明治晶年﹁石賂石警方丁場削附 ∵り
人別紹﹂︵進藤姓︶紅よ牒と﹁曹十文字困角ヨリ栗わ折廻り長六拾間﹂から初まり︑同沖副文字釆より囲わ折廻り長
六拾三酪︑釆竪豊泉さ十八問︑同所商わ長五十三間︑︑西竪登り中より南わ長五十問︑同所商わ長九拾八間等碁盤型
の築堤捨石の土方名も見えで︑併も備前・伊勢
土木の巧者が雇傭されているのが知られる︒恐らく若干釆へ寄りつ\明治四年から六年にかけて﹂前記三木五郎
の外に︑宇多津の嘗井清八郎︑高松の揚行蔵等も徐々にとれに関与していったのであろう︒
六 近代仁尾塩田の発展
仁尾利ほ勿紛詫間郷の山野分であるが︑この地ほ天正七年三月︵三日︶長曽我部元親が侵入する以前ほ︑細川土佐
守頼弘が現在の覚城院高地に居城を償えていた・︒僻地とはいえ︑▲西讃管領の地と心て︑かなり栄えたらしく﹂細川
公より与えられた西讃に於ける酢・酒・醤油・油の醸造権は︑丸亀藩主生阻・京隆氏の時代となっても保護せられ
ていた︒燵灘東岸の粟津と←て海上貨物も幅湊し︑琴平及び多度津と結ぶ正三角形の二浪点であるだけに︑商業は
殿賑を極めノていた︒ところが︑明治維新の変革後︑上記液体類醸造批護の既得権庵賽失し︑新鉄道の敷設も本町を
経由せず︑七宝山脈にさえぎられたこの町は︑さながら交通・経済と滝に孤立の地帯紅追いこまれた︒これが明治
︵﹂四四︶三五 詫間地区に磨ける塩田の研究
︵一四五︶三六 第一し手八巻 讐亨
以後のこの地区の特殊産業を伸展軋導いた︑︷つの導火線である︒虻のためか陸上交通の不便を克服して︑山畑の開
墾による蜜柑・︑除虫矧・唐辛子の哉培ヾ煙草の耕作︑緬羊の飼育︑或ほ模造真塊の原玉製造︑人形造り︑利器類の
製造︑瓦製造機の製造等を試みさせ︑ほては町の前半疫遊ぶ広大な干潟地利用紅よる約六十町歩の入浜塩田開拓に
カ痛を入れさせる二軍動力となぺたのである︒ ノ
従って仁尾塩業\の発展ほ︑近世的といノケよりは︑・寧ろ明治近代以降軋その華やかさが窺われ︑ときた学近在田圃
のなかから塩罷らしきものが掘出きれるけれども︑それむ恐らく近世末のものであっ七︑さ程古きも臥でほあるま
い︒史料も極めて乏しく︑塩田家等に伝えられる仁尾塩田の囁矢は天保五年から七卑にかけて造築された塩田広太
郎他三名の先覚者転よる計画であって︑他地方紅比し特優性をもつというわけではない︒この仁尾旧塩田も明治十七
年堤防決敬に射い荒廃するが︑之を復旧したのほ塩由忠産街門の先代であ毎当時の伝承汽石釜で煎警れた仁
尾塩ほ専ら伊予川之江辺の松葉駄科を積送して来た返り便船を利用して積出され︑川之江・池田方面軋主として販
売されたといわれているが︑松葉墟の名を以て変用され︑宇摩郡から三好郡奥地にかけての煎糸資材は仁尾墟との
よき交換対象となったのである︒かかる煎糸燃料と塩の交摸は近世の能筆・九十九里浜等にむ見られた慣習である︒
塩電神社以南江尻川河口に至る六十町歩にちかき新塩田の造築討画は大正年代に入って個々別々にその気道が醸
成されて釆た掛︑これを先頭にたって経めたのは︑痙瞥心左衛門である︒大正八年七月二十四日漸く水面埋立の認可
を得て︑同年十月十四日に会社の定款案作成︑年末十二月十四日に資本金七拾五万円の仁尾塩田株式会社が創設され
ている︒かくて翌犬正九年六月二十六日より塩田築造工事に着手し︑途中大正十二年三月末日二拾五万円の増資を為
し資本金す万円とし︑塩田五九∵〇五八九隔と平釜式製塩場十塩戸の完成したのは︑滞四年彼の大正土二年五月二
十八日のことである︒その採繭作業はこの前年寡七月から作業労務請負により開始していたが︑煎糸はこの時より
分離して平釜式二十五遷によヶ会社直営として開姫され製塩が行われ初めた︒
乎釜式釜屋に電動機直結朗水渡揚東ソプ及び遠心分離機︵盟インチ︶が設置され︑塩の品質向上︑煎糸機械化をお
しすす︑めた牒は漸く昭和六年四月一日︑であるが︑それでも仁尾ほ︑よの塩業界後進性の・停頓状態紅清新の寓を注入
せるもの︑︑昭和十年二月二十二日に至って全国塩菓界紅組けて平釜式製塩法.を廃し⁚近代的なカナワ式元碓十三基︑
三重効.用真空蒸発缶による真空式カナワ折襲の煎糸方式紅改造したので為る︒∵まき痘塩業界に於ける産業革命の
輸進といえるが︑この改造に伴って採繭面では胡水輸送襲訝の蝉設︑更に旧仁尾塩璧ハ・五五三晒の買収︑資本金
官拾万円へ・の増資も実行に移されていったひその後昭和十三年十月十〟日にほ玉土手の改良によって︑塩田面積が
〇・四五六七隋増加したことも採鍼面での非常な進歩であって︑この時全探幽地面積が六六・〇六八六隔へと躍進し
た︒探幽面での機械化を躍進させ得ないとすれほ︑既存塩田面での探幽畳増進はその塩田面積の増大をほかるより
他に方法がなく︑平凡な事ではあるがこの時玉土争改良軋手を染めたのは業界紅於慧功綴といわねばなるまい︒
いま昭和十年二月︑カナワ式元綺と三重効用真空式蒸発確折壌併用方式が試験的紅推しすすめられた事を述べた
が︑カナワ式元権の腐蝕損傷卦だしシ昭和十六年ご月二十七日にほ改造に着手さ勃た︒しかしこの頃既に︑第二
次世界大戦によるエ期が非常に艮びき︑タクマ水管式汽碓・タービン発電機の完備されたのほ︑漸く敗戦\の混乱滝 /
静まれる昭和二十四年五月十三日の事である︒その間︑昭和二十山年十二月二†山日にほ南海大地窟があり︑探幽
こそ最も濱敢な対自然への生きた紺争史と思えるのである脚︑最後瞥﹂針ルース鞄風によって荒廃した旧仁尾塩田 地隆起陥没も甚だしく沼井ムロ施設の大破︑昭和二十三年七月∵日の職責安定法による採朗労務静負制の廃止︑更濫 ひき鰐いて昭和二十五年一月一日の第一次再評価実施等経営面の波瀾万丈を体験するうち︑又もや昭和二十六年十 月十五日ルース職夙の襲来をうけ︑旧塩田南埋防ぶ必死の防水作業の甲斐も
︵一四六︶三七 詫間地区檻於ける塩田の研究
第二十八巻 第二号 ︵仙四七︶三八
も今でほ全国のモデルケースとして流下式壇田に改造せられ︑塩業界軋返り咲き︑内海に於ける枝篠架兼流下式磯
後の科学的・経営経済的研究が要諦される所以である︒かくてこの転換塩田は︑患いの外良好成繚を見たが︑摂り半分の入浜 ′し ヽ
/ 田の模範型式となれることを附託したい︒
註記 天保五年から七年にかけて塩由広太郎等により創築されたこの仁尾旧塩田ほルース鵜夙に対してほ意外に脆ぐ︑堤防る決
潰ほ致命的であったが︑この時旧城田地盤の布旧対策につき︑徒らに原型復旧に執着することなく︑研究の結果︑入浜式塩田
として成繚不良の北側半分三・96八隋を流下式紅改良し︑更に枝条架濃縮装置を併設したのほ︑採朗面合理化の見地より
して︑たしかに聴明であった︒その完全な復旧を見たのは昭和二十七年六月十五日であるが︑この流下式塩田は香川県では最
初の試みであった︒爾後瀬戸内海各地の入浜式被害塩田︒老朽堀田が逐次︑流下式に転換せられ︑この転換の勝利ほ専売公社
もこの勧奨方式を採っている事実から見て判断されるであろう︒経営面に於てもての方式がプラスするであろう事はここ数年
の芙於がそれを明証するであろうが︑しかもなお︑流下式地盤の下から戟が生えて突き出るとい.う如き笑えぬ事実も起︑り︑今
式填田紅復旧を見た地帯ほ過湿と淡水浸透に禍されて成緻芳しからざりしため︑昭和二十八年三月一日より再転換工事に着手
し︑同年六月三十日紅完成した︒玄において被災旧垢望ハ・六三六隋ほ面目を嘉し︑最近代的な蘭下式塩田となり︑採繭甲
近代化の山巽をにないつつあるのである︒昭和二十八年度仁尾培田における流下式採繭成攣竺貯当りポーメ〟七度換算平均
凡そ一︑三〇〇肝であって︑入浜式採朗成絞り平均約て000肝に対し︑約三割の増収と見られよう︒
我が国墟菜に於ける枝篠架のヒンーも︑その源流をたずねると︑既に上代人の ﹁藻墟垂る﹂ の思考方式のうちふ
に︑私ほ完璧紅見出しうると思うが︑さらに近代科学による気圧・風速・風向・湿度・晴雨等の気象観測学的方面
よりする研究ほも守より︑枝篠来そのものの高さ︑笹掛方法の変化等に至るまで︑なお近代科学人として為さるぺ
︸ き幾多の分野が残されて居り︑専売公社中央研究所など其蟄な研究を続けている︒かくて︑数年来の実績に徹すれ
ば採崩面封建性残渾の払拭される日も程遠く濾あるまいというのが私の観測である◇
誼仙・吻∵この事ほ大場盤雄博士が序文を贈った﹁詫間町誌﹂ 二ハ・一七頁に見えるが︑恐らく著者田中定次郎氏との共同発見なの
であろう︒経済史的な考え方からすれば︑其処は単なる工人の職場とも見られようが︑弥生式文化民にはそれ程の職能分化
・ト 麒すすんでいたという訳でもなく︑此処でば一応興味深き問題示唆とうけとり 場でも出来うる可能性が大きいからである︒喜平島の場合は︑そのよきひとつの研究命層々あろう︒
㈱欝層笑系竺栗東︒
㈱ 同上︑第四巻︑二ハ七頁︒
㈲ 三豊郡誌第九欝託磨牧︵一三三頁︶に詫間の﹃牧場は不明なるも︑和名抄に牧を﹁ムマキ﹂と訓む︑即ち馬城の義にして︑
世﹁マキ﹂というほ﹁ムマキ﹂の略なり︒思うに︑粟島小地名に馬木あゃ︑叉馬水八幡宮あり︑神功皇后︑応神天皇︑日本
式尊を祭を馬木ほ﹂和名抄の﹁ムマキ﹂にして︑馬木八幡宮は牧八幡宮なるべし︑此地もと牧場なりしを︑後八幡宮を蕊
に建立せしょり︑属木八幡宮と称せしならん︒しと述べ延音諸国牧に︑長門の角鳥︑備前の長島︑筑前の寵臣︵乃古︶︑肥前の
生属︵生月︶・相島諸島ほ牛︑廊予の勿都島は牛馬め牧とあるところから︑粟島も亦牧場とするのが︑不当でないとしている︒ まき また箱浦には﹁馬神域﹂もあるが︵西讃府志二五一員︶︑詫間町誌︵三二頁︶ほ現在放牧地のないところから牧の蕊取解せず
\ 託馬を馬の中継地としているようである︒私は前者の餞がよいと考えている︒
脚 建長二年関白道家処分記に﹁讃岐国託麻荘有長朝臣領﹂︑亀山院凶事記に︑﹁讃岐国宅間郷西殿準后細分﹂と見える鎌倉中
期まで︑貞鶴年代から凡そ乳首年間︑魔ど史上に現れない︒
m 西讃府志︑二三八1五四頁︒
㈲ 同上︑二四〇頁︒
柳 同上︑二三八東︒
㈱竜田東伍博士ほ大日本地名辞審︵諾摘針J託瀾郷紅三代英銀︑貞観七年讃岐閏詫間牧を停靡とあれは︑本牛馬の牧場たり︑
二四八︶三九 詫間地区に於ける塩田の研究
第一子八巻 第二号 ︵山四九︶四〇 中世詑問民あり︑郷の土質たり︑夢蒜領日録紅ほ︑託問郷廊御方とあり︑浪打八幡宮を此郷の鎮守とす︒﹂とし︑託問浦
紅就いては﹁今託問村と日ふ︑正凝元奪︑宗良親王︵妙法院尊聾此浦に配流せちれ︑暫く滞留したまへりと伝ふ◇太平記
云︑妙法院ほ兵藤より備前固まで︑陸路を経て児島吹Jより船に百て讃岐国託問につかせ給ふ︒海辺近き所なれば︑竃霧御
身を侵し︑囁海の気冷叱して︑漁歌牧笛の声︑璧芳の秋の色︑すべて耳にふれ限に遮る串︑哀を催し︑御洞をそふるもの
なちずと云ことなし﹂と添えている◇宗良親王のごと1船積寺︵地名︶︑箱浦のことなどは先年広島県加茂郡西条町御薗宇林
家文書のうち紅その由緒を発見し得て︑こ
案外真実にちかいものであろうことを考えた︒拙稿﹁塩業展望﹂罪五巻第四号十四参看︒
㈹・血∵西讃府志︑二三八頁︒
凋 同・上︑二三九寅︒
礪∴同 上︑四頁︒この著︑原版六十二冊の大冊を堀周噂左右翁が東大学生時代︵明治三†左春︶に要点を蒜に纏め︑嘱
せられて刊行したものである︒凡例に学殖豊かな爵は扁何せん六工巻ほとのものを劃冊に約むることなればその約め方
な郁なかにかたくて漸くに成功せしまてなり観むものその心してよ﹂とノ謙虚さを発揮せられ︑良心的な縮刷版となっている
が︑鹿典そのものの産業・財政史的史料に乏しいのが遺憾である︒私事軋捗るが︑八十五才の爵と筆者は今月なお文通を恭 しておれ︑静は丸亀市九番町に墜銀としていられる︒
㈲ 三豊部史︑三六四頁︒
㈹ 周上︑四一六頁︒四三四−三八頁参看︒此処に京極高和・高盛・高或・高矩・高中・高朗・朗徹など︑高和が元和五年牲奏
してから朗徹が明治十五年卒する迄の歴代丸亀藩主の略伝が見える︒此処で注目すべきほ︑初代高和が万治元年こ月二十六
日丸亀城を賜封せられて︑西讃二十三箇朴五万六十七石を治める以前︑播州竜野監ハ万石を領知していた事であり︑.そのた
めの均衡からか︑癖磨国掃像郡内一万石を併せて︑六万六十七石となるのである︒高和の子高豊も明暦元年六月二十六日竜
野紅生れ︑寛文二年十二月四計就封している︒
m・鍋 丸亀薄の多度津分封に就いて
㈹ 例えば拙稿﹁紀伊甫嶺公︵徳川租宣︶の経済政策﹂︵内外研究罪七巻四号=昭和九年七月号︶参署︒備にその晩年の経済政策︒ 高畳その手高道の才を愛し︑遼命してその所領せ分たしめたが︑高或父高畳の後を襲うて丸亀を領知するや︑先君の命を奉 じて帯府に請うて三野都の内上の村︑朝田︑羽方︑大見︑松崎の五村︑多度郡にて多度津︑青木︑庄︑三井︑山階︑碑殿︑ 阻白方︑常白方︑輿自方︑葛原︑道福寺︑南鴨︑北鴨︑堀江︑新郎の十五村を偽造に譲って多度津領とした︒是において三
ヰ ㈹ 所謂埴生浜の・一番から七番までであっ七︑それは塩生と城山の中間にあるあたり︑昭和四年に埋立てて畑となれる辺である︒
そのものが極めて順調紅進捗したものと考えられる︒これ等の私め見解は先年林塩脳部長と同行して︑現地たおいて︑披渥 豊郡は丸亀・多度津の二薄に分たれ明治に及んだのである︒︵三豊郡史︑四六二頁の﹁第十四欝罪八章︑丸亀蒲の多度津分封 と本郡﹂ゐ項参看︶
㈹ 発京大学文学部所蔵文書﹁叉安二年兵庫北開入船納帳﹂︒拙稿﹁塩業史講座﹂第四題︵塩業展望第四逸欝四号所収︶
00 この元禄十五年十副月廿六日に丸亀薄の普請奉行中野四部兵衛尉光思の塩浜検分を終った場所は︑今日の所謂﹁詫間吉浜﹂
であって︑蘭問浜二十三番より二十七番に当る処と決定したい︒また現在八幡神社前の大鳥井はとの﹁覚﹂書第三項に示さ
れている文言通り︑中野四郎兵衛がその約束を実行して︑諸頗成就の願施に建立したものと確認しうる︒これ滝文書と実物
が﹂致している︒更に︑この塙田構築の汐留が︑元禄十六年正月廿日に鍬初が行われ︑︑三月五日になって完成した軍は工事
した所見と今も変りはない︒
鋤 ﹁甘今讃岐名勝図絵﹂詫間浦︒
幽 この時松田英宕衛門は其の決意も濁ましく︑塩田再建を薄に懇辞するのに︑﹁七兵衛﹂の意見を容れ︑自らは死装束をして音
更を説きまわり︑これこそ最後の願なる旨述べ︑生別して帰ったと語り伝えられている︒
詫間地区紅於ける塩田の研究 ︵一五〇︶ 四一