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(1)

ロンドンにおける電灯事業の成立

坂本悼志

(2)

ロンドンにおける電灯事業の成立

I

は じ め に

II  1890

年代初期のロンドンにおける電灯事業の成立基盤

ロンドン「電灯企業」の形成と中央発電所の建設

結びにかえて

I

は じ め に

321 

19

世紀の

70

年代末から

80

年代初めにかけて,欧米諸国のすぐれた科学技術 者・発明家によって商業化への技術的基盤が確立されたとみなしてよい電灯 照明は,以後,既存の主要な照明手段であったガス灯との競合過程の中で,

漸次それを代替しつつ,照明市場の主役の座への地歩を固めていくことにな る

O

しかしながら,その場合,電灯事業(=電気照明に必要な電気エネノレギ ーの生産・供給を主目的とする産業)が必ずしも各国間で足並みを揃えて発 展したというわけではない口ここでわれわれにとって端的に問題となるのは,

経済的先進国・後進国間の電灯事業発展の格差一般についてではなく,具体 的にいうと,当時世界の最先進工業国であったイギリスにおいて電灯事業が 極めて緩慢な展開しか示さなかったことと,欧米,とくにアメリカ合衆国に おいては急速な発展がみられたという対照的事実である

O

アメリカでは,電 気照明が技術的に商業化段階に突入すると同時にその急速な普及が開始され,

電灯事業は

1880

年代のうちにすでに産業的基盤を確立していたといえる。そ れにひきくらべ,イギリスにおいては,

80

年代には電灯が照明手段として利 用されることがほとんど広まらず,したがって電灯事業はその端初期から全 くの「比滞」を経験していたのである。イギリスにおいて,電灯~工業が産栄 的

l

こ成立しえたのは

1890

年代にはいってからのこととみなしてよいであろう

O

イギリスでは,電気科学分野で多くのすぐれた科学者・技術者・発明家が

輩出し,電気照明の実用化への泣を切開く主要な任務のー認を担ったにもか

かわらず,電灯の商業化に関する限り,すくなくともそのスタート時点、で極

端な遅れがみられたわけであるが,この事実はいったいいかなる事

't

.iによっ

てもたらされたのであろうか

r

電灯時代」の端初期に,イギリスには次の

ような少なくとも二つの固有な問題が存在した。

(3)

322 

(1)  1882

年「電灯事業法

J(The Electric 

L i

ghting Act)

の制定。

1888

年に改正されるまでの同法の実施が,

1880

年代イギリスにおける電気普及の 重大な阻害要因のーっとなっていたことは, ほぼ否定しえない事実であろ うわ。同法の最大の問題点は1"強制買収条項」にあったとみてよい。すな わち,私企業の電気供給事業に対して,供給区域の自治体は,その企業の諸 設備・装置を事業開始2

1

年後に強制民収しうる権限を賦与されていた。しか も,買収価格は,建物・装置・その他諸設備の市拐価格(買収時点の) ! こ 定 められていたから(これはほとんどスクラップ価格を芯味する) ,私企業に とっては,事業継続期間が実質的には2

1

年 間 に 限 定 さ れ た も 同 然 で あ っ た。大量の投下資本を2

1

年間で回収しうるかどうかは,当時,産業界・金融 界で大きな疑問となり,それは,電灯企業への資金調達の困難につながった

のである。

(2) 

電灯事業の他の主要な障害要因になったものとして,電気とガスとの 相対コスト格差を指摘することができるであろう

O

日iJ杭の分析結果による と

2) 1880

年代初期において,アメリカ合衆国における電灯コストとガス灯 コストはほぼ同じぐらいであったのに対して,イギリスでは,電灯はガス灯 の約

3

倍のコストがかかる「賀沢な光 J

(1ight  of  luxury)

であったので ある

D

これは,ガス産業,したがって都市ガス・システムの発達程度の差に よるものであって,電気技術ないし電気コストは両国でほぼ同じであったと みてよいであろう。投言すれば,イギリスにおけるガ、ス産業の高度な発展水 準が,初期の電灯企業の照明市場への参入を阻止するー要因となっていたの である

D

1880

年代のイギリスでは,上記の

2

大要因のほかに,都市形成述度の鈍化

・住宅建設投資の停滞などによって電灯への潜在市要が高まらなかったこ と ,

82

年の小ブーム後の景気下降によって電気のようなず[産業部門へはなお さら資金が流入しにくくなったことなど,さまざまな不利な事情が存在し,

「初期電灯企業」の活動はほとんど胎動の域を出るものではなく,したがっ て,電灯事業の産業的成立は未発に終ったのである

O

さて,しかしながら,イギリスにおいても

1980

年代の初めから,多数の電

(4)

ロンドンにおける電灯事業の成立 323 

灯企業が筏生し活発な発電所建設が各地でみられるようになり,ほぼ90年 代 半ば頃までには電気供給事業が全国的に成立しえたとみなしてよいであろうO

小論においては,イギリスの電気事業形成のさきがけとなった「ロンドン電 灯事業」の成立過程を考案の対象に限定し,まずその成立の背景・基盤を明 らかにし,さらに ii電灯企業」の具体的な形成過程を若干フォローし,そし て,初期の電気事業の経営形態・規枝を特に当時の技術水準との閃迎で把握 しようとするものである。初期の屯気事業の経営的特質がそれぞれの技術シ ステムと密接にかかわりあっていたことは十分注意されるべきであろうO 注1) li弔灯事業法」の内宮と影響については,さしあたり,拙稿「イギリス百気ポ

業の成立過程一一1880年代『む気照明法』との関連を中心に一一Jr一杭論詰』

723号を参照されたい。

2)  1m

11880年代イギリスにおける電気古ー及の遅れと初期電灯企業

J

r経日'と経

済 J

55

l 115‑6

II 

1890 年代初期のロンドンにおける電灯事業の成立tLt~H~

イギリスにおいて, fS気供給事業の産業的形成が最も早くみられたのはほ かならぬロンドンであり,時期的にはそれは1880年代末から90年代初めにか けて急速に進行したO これは, ロ ン ド ン に お け る い わ ゆ る 「 電 灯 企 栄 」 (Electric 

L i

ghting  Companies)の 相 つ ぐ 設 立 と 多 数 の 発 電 所 建 設 に よ って,ロンドンの中心地区,住宅街への配電網が急速に整備されていくのを もって,一つのメノレクマーノレとみなしてよいであろう。これに照応して,ロ ンドンにおけるむ灯普及はごく短期間のうちに急速に拡延し, 1890年末時点 ですでに26万灯が取付けられているほどで,この数字はニューヨークのそれ をはるかに凌ぎ,世界で最大の都市電灯利用数であったわ。

ロンドンの電気事業の成功に刺激されて,地方の大都市(とくに北部の工 業諸都市)においても中央発屯所建設がさかんになり, 1890年代中j切にはイ ギリス屯気供給事業の産業的基拾が形成されるに至るのであるO こ の よ う 1880年代の「沈日目白」から脱して, 90年代にはいるとほとんど数年のう ちにイギリス市気事業の成立がみられるのであるが,それには一体いかなる 事情が作用していたのであろうか。

(5)

324 

以下では,イギリス包気事業発展の口火を切ったロンドン電灯事業成立の 要因をさぐることによって,かかる事情の一半を明らかにしておきたい

D

イギリスにおいて包灯事業がロンドンでまず最初に成立しえたのは,照 明に対するロンドンの託契情造と深く閃述していると思われる。イギリス最 大の人口を擁する大都市であったロンドンが最も有望な屯灯市切であったこ

とは,ほぼ異論のないところであろう

O

しかし,単にそれにとどまらず,ロ ンドンには,削

j

易,ホテ

j

, レストラン,公会堂,教会,商庖,銀行,主務 レ 所,大私邸等々

r

貨沢な光」を逸早く採入れる傾向のある大口需要家が多 数存在したこと,しかも,それらが比較的相近拡二して建てられていたこと が,初期の屯灯企業にとって大きな認〈因になったと思われる。当時の発電規 伎,送電炭市の水準の低さを考);J1にいれるなら,このような需要椛造の存在 は,むしろ,電灯事業の不可欠な要素であったともいえるであろう

O

当初支 配的な送電技術であった低圧直流送電は,若干の技術改善(たとえばエジソ ン

3

線式など)がみられたとはいえ,ごく狭い範囲にしか電気供給ができな かった。また,当時の直流発電機の

1

基の最大出力はせいぜい

100kw

であり,

これら数基の機械を仙えた発屯所の規伎の経済もおそらく

1

000kw

が 限 界 であった

2)

。したがって,需要密度の稀薄な地域では,中央発電所方式の電 気供給は自家発電装置の場合よりもかえってコストの割高になったであろう。

さて,このような電灯の適合的需要構造をもっロンドンにおいて,電灯事 業が8

0

牢代の低迷期を脱して8

0

年 代 末 , . . . . . ,9

0

年代初頭に至ってはじめて自立的 発展の基盤をうちたてることができたのは,いかなる原因によるものであろ

うか。

(1) 

まず第

1Iζ

, 

80

年代の企業活動の大きな障害になっていた「電灯事業 法」の改正(1

888

年)があげられる。

r82

年電灯事業法」では

r

強制買収 条項」の存在によって,私企業の事業活動が実質的には

r21

年間」に限定さ れていたのに対し,

r88

年改正法」ではこの期限が

r42

年」に延長された的。

資本回収期間がこのように 2 倍に延びた乙とによって電灯事業の見通しが明

るくなり,それに伴って資金調達の制約要因となっていたものが一挙に取払

われたとみてよいであろう

D

事実,

1888

6

月に法改正成立後,商務省

l

(6)

ロンドンにおける電灯事業の成立

325 

よる事業許可の一方法である「哲定命令

J (provisional order)

の申請が殺 到し,その認可件数は,同年中に

13

件,翌

89

年には

75

件 ,

90

59

件 ,

91

25

件という多数にのぼった

5) O

ここに,

1882

年以来の

2

度目の「電灯ブーム」

が 生 じ た と い え る

O

ただし,

r82

年ブーム」が経済の一時的好転を反映 した,新産業部門への単なる投機的性格以上のものではなかったこと,した がって,その後の景気後退とともに何ら実を結ぶことなく崩れ去ってしまう

「誤った」ブームでしかなかったことに比べると,

8990

年のブームは最初 の「真の」電灯ブームであったということができるであろう。実際,ロンド ンの電灯事業はこのブームに乗じて確立したともいえるし,ブームが全国的 規模での発電所建設開始のー契機になったのも事実である口

このように,

1888

午の「電灯事業法」改正によって,電灯企業の資本調達 の困難が除去されたことが,

90

年代初めのロンドン電灯事業成立の一要因に なったと認めてよいであろう。

(2)  80

年代末

'"''90

年代初めにおける急速な包灯普及を可能にした他の要因 として,

80

年代初期に比較すると,電灯企業の照明市場への参入条件が,そ の聞の技術進歩によってかなり改善されていたことをもあげることができる。

80

年代のイギ、リス電灯事業の遅れを技術的な遅れに起因せしめようとする見 解があるなら,それは適切とはいえないであろう。このころの国際間の技術 伝播はかなり速やかであったといえるし

6) 

, またイギリス自体が電気科学技 術の進歩に少なからず貢献していた時代であったからであるの。イギリスの 電灯事業が低迷していた時期も,電気技術はたえず発達していたとみてよい。

この技術進歩は,電灯とガス灯との相対コスト格差を縮小せしめた。ここで は,その相対コストの厳密な論証を展開する余裕はないが,とりあえずノイイ アットの見解を引用するなら,

1880

年代末のイギリスにおいて白熱電灯コス トはガス灯のそれの約

2

倍であり,

90

年代末には両者の照明コストはほぼ同 じになった

8)

。すでに触れたように,

80

年代初期のイギリスでは,電灯コス トがガス灯コストの約

3

倍であったことと比較すれば電気産業の若宍な技術 進歩の跡がうかがえる

D

さて,

80

年代初期に「賀沢な光」であった電灯は,

コスト格差が存在する限り,

80

年代末

90

年代初めにおいても「賀沢な光」

(7)

326 

に変わりはないが, しかし,その差が

3

倍から

2

倍に縮小したことによって 電灯需要は急増したと思われる

D

すでに述べたようなロンドンの照明記要構 造からすれば,電灯価格がガス灯価格に等しくなる以前に多くの市要家がガ スから電気へ照明手段を切替えていったと思われるが,事後的な見方をすれ ばその転換点はコスト格差が 2 倍の時点のあたりにあったのではなかろうか。

電気照明がいくら「すぐれた光」であったとしても,ガス灯の

3

倍も

D1

用 がかかるのでは,需要家にとって容易には電灯の採用に踏みきれなかったで あろう。しかし,電気価格がガスの

2

倍前後にまで落ちこむと,電灯の「質 的な優秀性」がコスト格差を相殺するほどの利点をもつに至ったのではない だろうか。このような事情は

r

電灯会社」の価格政策の変化からもある程 度推察できょう。

80

年代初めから半ばにかけて白熱電灯照明の供給を試み た企業の多くは,コストに比例した電気価格では需要創出が困難であると推 断し,できるだけガス灯価格に近づけて電灯供給した。当然ながら,このよ うな価格政策をとった電灯会社は採算がとれず,結果的にはほとんど事業を 中絶せざるをえなかった針。しかし,

80

年代の末から

90

年代初期にかけて登 場する電灯会社は,はじめから採算のとれる価格政策を採用し

10)

しかも,

需要の増加に応じて急速に規模を拡大していくことができたのである。電灯 がガス灯よりも割高であったにしろ,いまや,そのコスト格差は照明需要が ガス灯から電灯へ移行するのを妨げるほどの高い障壁ではなくなったとみて よいであろう。

かくして,電気工学における技術進歩によって,電灯とガス灯とのコスト 格差はいまだ解消してはいないにしろ, ?折次縮小の傾向をもち,

1890

年前後 には,ロンドンのような大都市における一大「電灯市場」を形成しうるほど までに進展していたといえる

D

乙の「電灯市

*bjJ

は,その後の技術的発展に よって,さらに拡大の一途をたどるのである。

(3) 

ロンドン電灯事業の成立とその後の展開に大きな影響を及ぼしたもの

として

r

商務省調査 J

Board of  Trade Inquiry 

(調査委員長の名を冠

して「マリンディン調査

JMarindin Inquiryとも呼ばれる)を忘れてはな

らないであろう

11) r

調査」の目的は,

1888

年の「電灯事業法」改正にと

(8)

ロンドンにおける電灯事業の成立

327 

もなって提出された数多くの「事業認可」申請のうち, ロンドンにおける 事業を対象にして,申請内容と電気事業の現状を調査することによって,

適切な行政的指導を与えることにあった。

I

調査」は,

1889

4

月から

5

月 にかけて(延べ

18

日間) ,電気産業の主な関係者(経営者・技術者・科学者

・自治体代表者など)をほとんど総動員してお乙なわれ,その結果は「マリ ンディン報告 J

(Report of  Major Marindin)

として公表された

12) I

報 告」においては,ロンドン「電灯企業

J8

社の供給システムの分析と分類,

供給区域の指定,電気事業の現状と展望などが主な内容となっているが,中 でも注目すべき点は

I

独占」についての見解がみられる乙とである

D

そ れは次のように要約することができょう

D

すなわち,一定区域の電気供給は,

「競争」があったほうが好ましいが,しかし,その競争は 2 企業までに限定 するというものである

O

ただし,場合によっては

1

企 業 の み に よ る 供 給

「独占」をも推奨している

13) 

。ともかく, 競争は認めるが, それが無制限 の競争であってはならず,一定区域においては

1

企業による「独占」供給か

2

企業による「複占」供給のどちらかの形態しかとることはできなかった。

ところでこのような商務省の見解に対し,今日のいわゆる「自然独占」

~ , ~14)

(natural monopoly)概念に照りして

,すぐさま「公益事業」に対する 政策論的認識の低さを強調するとすれば,それは危険であろう。むしろ,当 時の技術水準,そしてそれによって規定される経営規税・形態などを考慮に いれた場合,かなり妥当な見地に立った政策的指導であったといえないだろ うか。たとえば,乙の

I

時期の大問題として「底流」と「交流」というシステ ムの侵劣問題があって,どちらも技術的にいまだ初歩の段階にあった。

I

マ リンディン報告」は乙の二つの供給システムを競合させることによって,消 費者にシステムの選択権を与え,同時に,両システムの一応?の開発を促し,

ひいては電気産業全体の技術的発反に刺激を与えようとする芯図を合んでい たと思われる

D

「商務省調査」をもとにした「マリンディン報告」は,ロンドン電灯事業

の現状を迎確にとらえ,当時の技術水準に見合った辺正な指導方針を示した

といえる。もちろん,その後の技術の急速な発展によって,

1890

年代後半に

(9)

328 

なると,電気供給会社はさまざまな点で商務省の規制を弊害として感じはじ めるのではあるが,すくなくとも, 90年代半ば頃までの電気事業成立j切にお いては rマリンディン報告」を基調にした産業的発展がみられたとしてよ いであろうo

1880年代末から90年代初めにかけてのロンドン電灯事業の急速な成立を促 進した要因として,上述のように, (1)  1888年「電灯事業法」の改正, (2)  電気産業の技術進歩による電灯とガス灯とのコスト格差の縮小, (3)  1889

の「商務省調査」とその「マリンディン報告」などの存在を認めることがで きるのであるo

注1) ただし, 26万灯のうち約3分の

l

は自家発電装置によるものである。 F. Bai‑

ley, "Electric Lighting Progress  in London"  The Electrician, Decem‑

ber 19, 1890, pp.  207209.なお,ロンドンにおけるむ灯台‑及はその後も急速 に進行し, 1898年には100万灯に達した。

2)  後抱第l去を参照。

3)  アメリカにおいても,電気照明の供給が必ずしもすべて中央発電所からなされ ていたわけではない。 80年代, 90年代では,むしろ,自家発電方式は中央発電方

l

とほぼ匹敵する地位を占めて発展してきた。乙れは, 当初の発電・送電技術 の水準と電灯需要椛造のギャップを示すものといえよう。 H.C.PasserThe  Electrical Manufacturers

, 

1875‑1

銃刀.

(1953) Pp.  112123. 

4)  The Electri ci an, ne 22, 1888, PP.  2089.拙稿,前向「イギリス電気事 業の成立過程J3601

5)  1.  C.  R.  Byatt

, 

The  British  Electrical  Industry

, 

18751914.  (unpub‑

lished Ph.  D. thesis

, 

Oxford

, 

1962) p.  28. 

6)  電気技術の国際的伝播過程の具体例については次を参照されたい。 T. P.  Hughes

The International Diffusion of Electrical Power Technology

, 

1870‑‑1920" Journal of Economic History, XXXIV, PP.  108130. 

7)  とりあえず P. Dunsheath, A History of Electrical Engineering. (1962)  の巻末年表をー官されたい。

8)  Byatt

, 

0ρ. cit.

, 

PP.423.

9)  たとえば South Eastern  Brush Electric Light and Power Co. 1884年に

l

キロワット時あたり6ペンスで電気供給をしたが,その収入は経常文

(10)

ロンドンにおける電灯事業の成立

329 

出の

30

必をカヴァーしたにすぎない。

Byatt

0ρ.cit.

p.4

1 . ちなみに,

6

ンスの単価は

1890

年代半ばごろのロンドンにおける電気料金である。

"Electric Light Supply Companies." The Statist

, 

]uly 2 1 1900

, 

PP.llO‑

l.また,

他の例としてイギリス最初の中央発電所であるエジソン社の「ホウノレボン発電所」

(1882

年運転開始)もガス灯と同ーの価格で供給した乙とで失敗し,

1886

ζl

閉 鎖された。

R.H. Parsons

, 

The Early  Days ofthe Power Station Industry. 

( 1

939) P.  10. 

10) 

したがって,さらに付け加えるなら,ロンドン「電灯会社」の大半は,事業開 始直後から数%の株式配当をすることができた。

"ElectricLighting Com‑

panies

, 

1.  II.  ill.

町.

V. VI. "The Statist. FebruarY9

1907

, 

pp.285‑7; 

Fe bruary 23

, 

1907

, 

PP. 384‑5; March 2

, 

1907.  PP.  442‑3; March 9

, 

1907.  PP.  491‑3; March 16

, 

1907

, 

PP.543‑4;  April 6

1907

, 

pp.693‑4. 

11)  r

調査」の詳細な内容は ,

The Electricia71. April  5

1889......May  10

, 

1889. 

に毎週号述哉されている。

12)  "Report of Major Marindin on the Board of Trade Inquiry into the  London Provisional Orders

, "  

The Electrician

, 

May 24

, 

1889

, 

PP. 56‑60. 

13) 

より詳しくは次のようになる。

(a)

一定地区において,自治体が自ら電気供給事

;廷を意図するととなく,管内へのいかなる私企業の可灯事業参入をも拒むとき は , 商務省は, その拒否

tm

を認めず, 私企業に電気供給権を与えることができ る。ただし,この場合,供治会社は 1企業に限定する。 ( b ) 自治体が 2企業以上に 管内の事業

1

告を与えた場合は,一定区域の屯気供給は

2

企栄に制限する。しかし この場合,而企栄とも「交流」を供給してはならない。

"Ibid.. .

P. 58.  14)  r

自然独占」概念については,さしあたり,次を参照の乙と。北久一『公益企

業論~ (昭市

36"f)沼3

=i;J:,佐々木弘『イギリス公企業論の系諮 J (昭和

48

年〉

J3i

ロンドン「屯灯企業」の形成と中央発電所の建設

ロンドンでは,

1890

年 前 後 に 「 電 灯 企 業 」 の 新 規 設 立 な い し 再 組 織 が 集 中

的になされ,

90

年 代 初 め ま で に は 約

10

指 を 数 え る 企 業 が ロ ン ド ン 中 枢 部 の 電

灯 市 場 を 分 別 し て い た 。 以 下 に お い て , 二 ・ 三 の 「 屯 灯 企 業 」 を と り あ げ て

(11)

330 

その形成過程を具体的に跡づけておこう。

〔ロンドン電気供給会社コ (LondonElectric Supply Corporation, Ltd.) 

ロンドンにおける電灯会社のなかで最も早く事業を開始したのが,乙の「ロ ンドン社」であった。すなわち,その前身である「グロヴナ・ギャラリ一発 電所

J

(Grosvenor Gallery Station)は,すでに1885年末に一般市安易〈への 電気供給を始めている1)。この発電所は,その名のとおり,クーツ・リンゼイ (SirCou tts Lindsay)がニュー・ボンド街にある一回廊の照明のために

1883年に自家発電装置を取付けたのがそもそもの始まりで,その後彼は,近 隣の商庖や住宅における電気照明への需要の大きさに注目し,これらへの電 気供給を企図して,翌年には大規校発電のために設的拡張を閃始した。ち なみに, この時の発電装置の概要は, 回廊の地下に機械室をつくり, そこ に,ジーメンス単相交流発電段2基,マーシャノレ版関3il (総出力950

1 .

H. 

P.)を備え,ボイラはそこから50フィート隔たった新しい建物に設置して,

機械室とはトンネノレで述結するというようなものであった。 これらの装置 当時の最新鋭機であったにもかかわらず, 1885年哀れに迩転開始の直 後,故障のため総動不能におちいった。ここに,のちに「イギリスのエジソ ン」と称せられる若き天才,フェランティ (S.  Z.  de Ferranti)が笠拐す る。顧問技師として迎えられたフェランティは,発電機,変圧器,電圧計な どに技術的改良を加えることによって,グロヴナ発電所の採業を軌道

l

こ釆せ ることに成功したO

「ロンドン社」は, この「グロヴナ発電所」をリンゼイ卿からテイク・

オーヴァーしさらに事業拡張する目的で, 18878月に授権資本100万ポン ドで設立された幻。当初, 54万ポンド (5ポンド株式)の応募額のうち,そ

3)

の大部分はわずか

28

名の株主によって占められるといっ ,イギ、リス企業に しばしば共通な特徴としてあらわれる資本形態をとった。それはともかくと して rロンドン社」の設立,そしてその後の企業展開は,フェランティと いう 1人の天才の技術者的能力と雄大な構想力を基盤としていたのであるO

それは, のちの「デッドフォード計画J (Deptford  Scheme)においてい かんなく発邦されるのであるが,初期の「グロヴナ発電所」においてもすで

(12)

ロンドンにおける電灯事業の成立 331  にその1虫倉山生を3忍めることができるであろうO

フェランティ・システムの最大の特徴は,大量発電と高圧送電にあったと いえるD 当時,低い技術水準に制約されて,電気事業は,需要調密な区域 に発電所を建設し周辺の需要家に送・配電するという, いわば「分散的経 営」の形態をとるのが一般的であった。フェランティは,このような状況の 中で,早くも,大規模な集中発電の構想を抱いており,そのために高圧送電 が可也な「交流」に最初から取組んでいた。 rグロウ、、ナ発電所」もこの線に 沿って漸次規模拡張され, 1888年末期には,電灯取付数ほ35000灯ClOi.E'; 灯換算)に達した4) O しかも, この発電所はフェランティ交流発電機2ilt けで運lほされていたから,フェランティの製作した発電機そのものの出力も 群を抜いていたといえる(1基あたり約400KW5

)O

しかしながら rクゃロヴナ発電所」が市街地の中心に立地する限り,規校 の拡張にはおのずから限度があろう。コスト問題だけでなく,発電所迎転中 の振動,騒音, i!点煙などの公害発生も,そのWlJ約要因となった。フェランテ ィは,その打開策として,ロンドン郊外のデッドフォードに大規収集中発百 所を建設し,そこからロンドン内のいくつかの変電所まで高圧送電し( 万ボノレト) ,これら変電所を経由して需要家へ配電するという,当時として は遠大なシステムを175741した。いわゆる「デッドフォード計四」であるG) もちろん,この計画の実現には,発電装置,送電線,変圧器などにおける高 度な技術的哀づけが必要であるo しかも,それらは当時の技術水準をはかる に超越したもので産業界では少なからず疑問視されたが,フェランティはこ れらの技術的難関をことごとく克服し, 1891年の初めには「デッドフォード 発電所」からの本格的送電が開始された。これにともなって rグロヴナ発 電所」は4変電所のうちの一つになった。

「ロンドン社」の集中発電による大規校fE気供給は,世界的にみても時代 をはるかに先月日けた高水準のものであったが, しかしながら,営栄そのもの は決して順調であったとはいえず, 1894'"'"'97年間は経営悪化のため官財‑人の 手に委ねられるほどのものであった口技術的な先駆性にもかかわらず向栄的 な不成功という結果に至った経件は,先述の資本形態などの閃j1¥で,初期の

(13)

332 

電灯会社の経営分析に興味ある素材を捉供していると思われるが,そのたち いった考察は別の般会に譲らざるをえない。

〔 メ ト ロ ポ リ タ ン 電 気 供 給 会 社 )

(Metropo

1 i

tan  Electric  Supply  Company

, 

Ltd.)

この電灯会社の前身は「ホワイトホーノレ電気供給会社」

(Whitehall  Electric  Supply  Company

, 

Ltd.)一一188710

月,資本金

20

万ポンドで設立一ーであるといえる

o

I ホワイトホール社」は,ホワイト ホール・コートおよびその周辺の建物への電灯供給を目的として,中央発電 所を建設,

88

5

月には運転を開始していた。

1887

11

月にすでに設立され ていた「メトロポリタン社」が実際に電灯事業に若手したのは,

88

7

月に この「ホワイトホーノレ社」を吸収合併して「ホワイトホール・コート発電所」

(Whiteha

l 1  

Court Station)

を所有したととに始まる

8)

。 合 併

l

とともなっ て,ゴードン(J.

E. H.  Gordon)

とベイリー

(F. Ba

i 1

ey) 

という

2

人の すぐれた技術者を確保したことが I メトロポリタン社」のその後の発展の 重要な要素となったと思われる

9)

と こ ろ で I メトロポリタン社」は,

89

年の「商務省調査 J の結果[ロ ンドン社」とならぷ広域供給

(Marylebone

Bloomsbury

,  L i

ncolns'  Inn

, 

10)

、 一

Covent Garden

地区)を認められたか , 供 給

ν

スアムは同じ「交流」で ありながら I ロンドン社」とは対照的に,電灯市場の拡大に対しては,発 電所を次々に増設していくという方式をとった。

88

年から

90

年にかけて「サ ー デ ィ ニ ア ・ ス ト リ ー ト 発 電 所

J(Sardinia  Street Scation)

,  I マンチェ スタ・スクェア発電所

J (Manches"!"er  Square  Station)

を建設,稼動開 始し

11

に その問にラスボン・プレイスの小発電所を貝収した。 さらにのち に,パディントン地区への色気供給のために「アムパリ・ロード発電所」

(Amberley Road Station)

が建設された

0893

3

月始動)

12)

。 か く し て I メトロポリタン社」はロンドン電灯企業の中では最も多くの発信所を 経営していた乙とになる

o

〔ケンジントン=ナイツブリッジ電灯会社)

(Kensington and Knights bridge Electric Light Company

, 

Ltd. ) 

この会社の前身である「ケンジ

ントン・コート電灯会社

J(Kensington Court Electric 

L i

ght Company

, 

(14)

ロンドンにおける電灯事業の成立

333 

Ltd.)

は ,

11882

年電灯事業法」の施行のもとで,供給区域の自治体の同 意を得た上で商務省から事業「免許 J

Oicense)

を取得して電灯供給を行な いえた例外的企業であった

13) 1887

年初めに運転開始されたときの発電所 の規模は,

35kw

クロンプトン発電機

2

基を備えただけの小容量であったが,

その後需要増に応じて,

90

年には総出力

400kw 

~こまで拡大されていた14) 口

「ケンジントン=ナイツブリッジ社

J

( 1

888

3

月設立,資本金

25

万 ポ ン ド)は

1

ケンジントン・コート社」を買収することによって電気供給事業 を開始し,さらに第

2の発電所をチェパル・プレイスl

こ建設した

O

しかし,

この会社の規模は,

1892

年時点で約

1000kw

の発電容量を有する程度で,他と 比較すると決して大きくはなかったが,直流

3

線式の低圧送電でごく狭い区 域の需要を充たしていくという営業方針によって,経営的には成功をおさめ た電灯会社の一つであったといえる

15)

〔チェノレジー電気供給会社)

(Chelsea  Electricity  Supply  Company

, 

Ltd.) 1884

11

月設立。

182

年法」のもとで「哲定命令」を認可され,最終 的に議会から「追認 J

(confirmation)

を獲得した唯一の電灯企栄である

16)

しかし,同法の「強制買収条項」の影響で資金調達は困難をきわめ,実際 l 乙 事業着手したのは

1888

年の法改正後のことである。まず「ドレイコット・プ

レイス発電所

J (Draycott Place Station)

を建設,

89

11

月に始動させ,

のち

93

年には「カドガン電灯会社 J‑

17) 

. /  

(Cadogan Electric 

L i

ghting Com‑

pany

, 

Ltd.)

を買収して,その「マナ・ストリート発電所 J

(Manor Street  Station)

のシステム改造を行ない

1

ドレイコット・プレイス発屯所」と 述系運転できるようにした。

1

チェルシ一社」の供給システムの特徴は,

直流発電阪で比較的高圧の電流を発生させ,それを

2

次電池を利用した変屯 所で電灯電圧にまで下げるといういわゆる「チェノレシー・システム」にあっ た

18) 1

チェノレシ一社」の電灯市場には

1

カドガン社」のほかに

1

ンドン社」が強力な競合会社として存在していたが,後者はすでに触れたよ

うに

1893

年以降営業困地におちいるため,

90

年代半ばにはほぼ競争市場を独

占する乙とができた。

(15)

334 

1)

初期の「グロヴナ発電所」の詳細な技術的内容については

Parsons

0ρ.  cit. ,PP.21‑23.

を参照。

2)  The Electrician

, 

September 9

, 

1887

, 

p.386. 

3)  "The Financial Position of the London Electric Supply Corporation

, "  

The  Electrician

, 

November 9

, 

1888

, 

P.  20.

中でも最大の株主は,ウォン ティジ卿

(LordWantage)

22

万ポンドを占め

2

位がリンゼイ卿の

49

000

ポンドであった。

4)  The Electrician

, 

November 9

, 

1888

, 

P.  10.

なお,同じ時期のアメリカの 発電所規模と比較しても,

r

グロヴナ発電所」の規肢が当時の水準をはるかに越 えたものであったことが推測できょう。

1888

10

月において,エジソン中央発電 所の平均規校は, 10燭光灯 IL1~# して約 3 , 300 灯,ウェスティグハウスのそれは 約

2

700

灯にすぎなかった

(Passer

op.  cit.

, 

Pp.  12 1 149.

より計算)。

5)  Parsons

, 。

ρ.cit.

, 

P.  24. 

6)  r

デッドフォード計画」の技術的側面の概要は,次を参照のこと

"The Central Lighting  Station of the London Electric  Supply Corporation  at Deptford

, "  

The Electrician

, 

October 26. 1888

, 

PP. 786‑7; "The Deptford  Central Lighting Station

, "  

The Electrician

, 

November 2

, 

1888

PP.818‑9. 

7) 

この間を合めて,

90

年代の「ロンドン社

J

の営業経過については, さしあた り ,

"London Electric Supply  Corporation

, 

Ltd

, "  

The Stati

st

August  4

, 

1900

, 

PP.  192‑3

を参照のこと。

8) 

買収価格は

40

211

ポンド。なお,この時の「メトロポリタン社」の資木金は

50

万ポンド。

TheElectrician

, 

April 12

, 

1889

, 

P.  649. 

9) 

ゴードンとベイリーは,

r

ホワイ卜ホーノレ・コート発 E 所 」 の 起 設 以 前 に は

Telegraph  Construction  and Maintenance Co.

, 

Ltd. 1

乙所属して,すで にパディントン駅枯内の照明を手がけたという実績をもっ。この点については

Parsons

, 。

ρ.c

丸,

chp.3.

を参照。

10) 

しかも供給区域はロンドンで最も官裕な地区で,その市街路は延べ

80

マイノレに 及んだ。

The Electrician

, 

December 20

, 

1889

, 

PP.  178‑9;  October 24

, 

1890, P.  703. 

11)  r

サーディニア・ストリート」と「マンチェスタ・スクュア」の両発電所は,

「交流」システムとしては当時の典型的形態をとっていたといわれる。その杭造

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