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支那に於げる近代工業

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(1)

支 那 に 於 げ る 近 代 工 業

−發展過程の精神史的基礎と現状の概觀−

重藤威夫 第

一 章   經 濟 致 展 の 倫 理 的 基 礎 第 二 節   經 濟 發 展 過 程 に 於 け る 精 神 史 的 要 因

第三節 西洋近代文化に於ける新教の倫理

第 四 節   終 末 諭 と 西 洋 文 化

第五節 新教の倫理と西洋近代資本主義

第六節 儒教・道教と支那經濟

第 二 章   近 代 工 業 の 發 展 過 程 及 現 状 の 概 觀

第二節 指導的工業

第 三 節   工 業 經 濟 計 量 以 上

支那に於げる近代工業       一

(2)

第一章経済援展の倫理的基礎

第一節経済史に於て経済後展階段設が主張せらる﹀理由

各園の経済後展の過程は︑その園の文化に内在する個性的なる歴史的諸僚件に制約されて︑同一なる後展過程

を辿り得ないことは明かである︒嘗て︑同・ピ

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た︑一聯の所謂経済後民階段設は︑従来︑経済史的見透しの方法に就いて指導的勢力を占めて来︑にのであるが︑

それらは各国の経済議展の過程が︑同一の過程をとるものなりとの前提を根本に含むものである︒然るに︑一図

の経済後展過程といふが如去︑流縛して止ま事︑複雑なる大なる歴史の流れを︑か﹄る簡単なる類型車的鋳型の

中にはめこむことは事責不可能であり︑方法論として誤謬である︒従って︑それらは史資に合はぬといふ結果を

生ぜぎるを得ない︒その非賢詮性はの・︿・出

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等の資設的史家の立場から峻烈

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種々雑多なる形に於て存在する史料に基き︑経済後民過程を分析し綜合して︑文化史としての立場から︑後展

(3)

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那訟に存するでわ・ヤソか

惟ふに︑{一川一以・哲問中・美術・文萎・図家・家扶・経済・法待等文花の各側面は︑何れも同一の明瞭さを以て︑

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川村むかー‑一不すでおらうが︑れれ生的は之与とは大いに臭って︑各同に特有なるれ伎︑を示すこと収めて乏しき事情に

ある︒然らば︑何故に︑終出生治は︑他の生活部門と兵勺て︑しかく各問に特有なる償供︑在示すことが乏しいの

であらうか︒この烈在明かにすることによって︑自ら第一の問題に併合へ符られるであらう︒

経済生活の目的は︑人生目的から一一一一日へば第二義的人生的債値を有するに過ぎない︒即ち︑人間生活にとって︑

本源的な人生目的を官現するにめに必要な生活保件の作出設に保障といふことが経済生活の目的である︒本滅的

な人生目的とは︑信仰︑日現︑一尖の創設等の如く︑人生に於て︑他から制約されホして︑それ自身債偵の加にる

ぺき生活H的を芯味する︒次に︑本初的な人生目的を賢現するために必要な生活保件とは︑第一に︑人間彼等白

山討の有する肉間的生命即ち︑日労働力である︒第二に︑この肉躍的生命を維持するために必要な諸財貨であり︑第三

に︑か﹄る生命︑そ活際︑強部せしめ︑以て︑各個の生活目的巻官現せしむるに泊切なるが如き物的政境︑そ意味す

唱 ‑

︐る︒通常︑終消印十上︑第一のものは﹃ぎロ司︑第二のものは向︒︒岳芳くはgV ‑ E ‑

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支那に於ける近代工設

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三谷隆正:国家哲皐, p. 23. 

(4)

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EEBの名で呼ばれるとこんのものである︒

﹁かくの如ま生活保件が有するところの人生的償値が︑経済接的意義に於ける債値である︒人生目的の如︑ぎ人間

にとって本源的な似似から派生したれ一一一代的戎は泊三花的な仰俄である︒この沢生的促値の本源たる債値は︑経

前仰い的には奥へられにるものとして︑間単純に前提せられに侭俄である︒経・山政で所謂宮とは︑右の意味に於ける

生活保件若くはその生前傑件身作わ出す力ぞ言ぶのであるから︑経消息的な宮の意義は︑前提殻想せられた人生

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Lる第二義的人生的債値を位するものであることにあるよ目的によって似他づけられた債値︑

﹁元米︑怒川生活とは経済問早的宮を第一義としての生活の謂である︒従って︑経消的官をして宮たらしめつL

るところの侭値づけの本源︑印ち︑本来の人生的債倍それ自身︑例へば︑人は何を目的として生くぺきや︑或は

何故生命中ぜ宣んムダペきやといふが如︑まことに就いての哲接的反省は︑経済担ーの主題外である︒経済問中にとって

は︑人生の債佐の如きは営然自明の前提である︒か﹄る前提それ自般の償値づけの問題は︑経済撃(純粋な意味

で)の領域ぞ超えた問題である︒即ち︑純粋に経済恩一的な立場は︑経済墜的債値に絡始するものであって︑経済

m的低位それ自身在来礎︒つけるところの似伯︑終消印的ほの似依づけの源たる人生促値それ自身に封しでは︑

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しかし︑経済的償佐は︑経問的肘阿倍をして人生に於ける一の債値たらしむるところの廷に本源的な人生債値か

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いはゾ︑之は純粋なる意味に於ける経済問的即ち︑理論経済撲を超えた

同上書, p. 2!J.  同上書, p.  31:  2) 

(5)

る立場であって︑経済哲阜の問題となる︒之は経済堅が社合科早即ち︑人生的債佐一に関する思問であることから

官然生中る問題であって︑︐経済問聞が人生的債値に関する以上はそれは草に

宮(因果法則)の問題に止ることなm o

く︑更に印︒

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( 官魚)の問題にまで後一民せねばならぬ︒経済生活に於ける因果法則の問題は︑卵理論経済壊が取扱

ふべき封象であって︑経済生活に於ける営為の問題︑換言すれば︑本来︑経済生活とは何であるべきかを考へ︑

それによって経済そのもの﹄根祇たる或る規範を明かにすることは︑経済哲阜の封象となる︒経済哲降一の解躍は

人によって異b︑必中しも一致した見解が示されてゐない︒少数乍ら経済哲阜の名によって書かれたる文献の内

容は︑著者の世界観の具るが如く具った内容を示してゐる︒しかし︑右の如き立場をとる限り︑経済哲阜の問題

は経済倫理の問題に障する︒

先に述べたるが如く︑経済接的富は主として︑生物思一的人類としての人間の生存のための債値を中心として肯

定承認せられたる人生的所奥保件の謂であることが多い︒さうして︑此種の所興佼件の肯定は︑その根抵が生物

閥抗的人類としての人間の生存に関する実の自然的必然的要請の肯定であるから︑

ある所の原理も亦自然的必然的なる原理であるβ その肯定を直接に基礎づけつ﹄

多分に自然科皐的なる原理である︒

原理は歴史に制約せられずる受賞値を持つことをその本質とする︒人間の生存に関する自然必然的要請︑

ば︑衣といひ食といひ住といふが如︑吉社合的一般的にそれを保障すべきであるやうな生活要請は︑人類一般に共

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遇するやうな性質のものであって︑一般日本人に封して保障せらるべきや}至首とするやうな生活要請は︑また自

文那に於ける近代工業

(6)

一然支那人に封しでも米国人におしでも一般的に保障せらるべきが営然であるやうな生活要請である︒すべて個が

もつ一般的個的生活要請は︑その音質︑に於て本来極めて普遍人類的なる根抵巻︑そつものである︒従って︑人生的

所血ハ僚件に関する自然科鼠一的なる原理に基く此種の肯定も︑その原理と共に超歴史的なる普遍安営値を要請し得

るに近い︒しかも斯くの如く超歴史的なる普通安営値を要請し得るにちかきが如︑き種類の債値要請がいはゆる経

y4・消息十的債値の主たる中心を成すところの要請である︒

経済生活に於て追求し賓現せられるところの経済的債値は︑超歴史的超個性的なる普遍安営値を要請し得る債

値であるから︑経済生活は極めて合理的なる生活部円であることは明かである︒従って︑また経済問的的債値が︑

其藤史を各異にする諸国家間の医史的に興へられたる障蛍にも拘らやJ ︑比較的容易に図際的に・晋遁安常なるを得

て︑人と人との園︑を超えたる相生相活が︑経済の世界に於いて最先に開かるL

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らぬ︒之︑私法のうちでも殊に経済生活に関係の深い部分︑印ち︑手形法が国際的なる統一手形法の成立を見た

根本の理由である︒それは又︑同時に︑経済史の部門に於て︑各国に特殊なる経消後民過程ぞ無視して︑国際的

に普遍安営性︑そ有する類型皐的な経済後民階段設が起り得ぺき基礎を形成するものである︒

Lる関係は︑経済を他の生活部門︑例へば︑{一万数・哲関学・美術・文雲乃至図家・家族等の諾部門と比較する

時︑一一局明瞭となる︒宗設や背阜の如く︑人生に関する根本問題︑卸ち︑本源的な人生債値に関する部門に於て

は︑経済生活に於ける如き普遍安営値一を要請心得ぬことは明かである︒何となれば︑﹁人生に闘する此根本問題に

同上書, p. 85. 

三谷隆正:法律哲串原理, p. 185. 

向上書, p.86.法律哲串原理, p.  205.  2) 

(7)

就て

ほど

人と人と其の最も根本的なる所信を異にするものはないからである︒この根本問題に就てほど︑人と

人とその態度を相異にじ︑ま大は相逆にすることはない︒例へば︑同C宗教的信仰に於いて相結ぶ友垣ほいこ強く

して深ま結びはないと共に︑宗数的信仰ぞ具にするの故争以て相離る﹄離れほr遠くして深きはない︒古来︑幾

多の執念深き較が戟はれたけれか﹂も︑宗教的信仰を根に持つ鞍ほE執劫なるものは少い︒し更に︑美術・文蓄の如

くその内容が美的債値を中心とするものに於ても同様である︒美的債値は︑宗教・哲閥単に於ける債値︑即ち︑根

本的な人生的債値と同様に︑各人各個の主観的なる判断に依存するものである︒主観的債値判断であるから︑経

済的債値判断の如く普遍安営値4

要請

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﹁国家乃至家校生活は︑経済生活に於けると同様に︑本源的な人生目的を賢現する九めに必要な生活僚件の保障

乃至整備にあって︑人生目的それ自身にはない︒真理それ自身︑美それ自身︑すぺて人生目的それ自身は︑各個

の人格の哀より湧き出づべきであって︑全然図家若くは家族園鰹の千の及び得る範国外のことであり﹂その目的

が生活保件印ち︑経済壊に所謂宮中ぞ主たる封象とする黙に於て︑図家生活と経済生活とは深す関係争‑有すること

は明かである︒然し乍ら︑図家生活の目的は︑経済生活の目的の如く︑一般的にして墓礎的なりと認めらるL

活保件叉は富の作出なり保障なわに表きるものではない︒それは経済生活巻超へて︑本源的な濁自の安営値特有

すべきであるQ然らば︑園家生活が経済生活に優越して︑本源的な人生的な債伎+杷有する根擦は何庭に求めらる

べきであらうか︒

支那に於ける近代工業

三谷:国家哲皐, p. 76.  三谷:園家哲皐.p. 28.  2) 

(8)

/

﹁人類の現賓なる位舎生活の賓際に於ては︑個人の伺的生活の前に肢とした活存するところの康史的個性的なる

国強生活印ち図家がある︒伺人はこの歴史的なる特定圏胆間生活のうちに生れ落ちるのであって︑この隠史的閏躍

生活が個人の聞から生れるのではない︒この意味に於て︑社合生活に於ける個の生活は思惟による拍象の結果で

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現賓なる第一次的存在ではないo現賢なる第一次的存在は︑事の一世合生活現震に関する限り︑歴史的個

性的なる圏憧生活そのものである︒この歴史的世合的事震に基くとニろの︑国佳生活要請の個的生活要請に封す

る優位︑これが超個的生活要請︑即ち︑園家的生活要請が起個的ハ公的に安営する債値の根源である︒﹂

Lに汎人類的なる根底を有する伺的生活要請をその主たる封象とする経済生活に封して︑更にそれを超えた

る歴史的個性的且つ超個的生活要請をその封象とする園家生活が優越して安賞する根按がある︒園家生活は歴史

・的個性的所奥であるから︑経済生活の如く︑自然科接的原理に基く︑隠史に制約せられぎる従って合理的なる安

営値を要請し得ない︒もとより経済生活の合理性の程度は他の生活部門に比較すれば山︒ょの大なりと畳一日ひ得られ

Jが︑しかし︑その合理性は純粋に自然科皐が研究封象とする自然現象に於ける合理性の意味に於けるものでは

ないことは勿論である︒経済生活も社合生活現象なる限り︑或程度の歴史的制約在兎れわことは明かである︒

国家生活は︑右の意味に於て︑設理的所血(なりと言ひ得る︒例へば︑日本図は何故に東海の斯島図をその図土

の医史的所奥に究極するのである︒園家生活は︑︑1︑ その事は絡に唯理的基礎つけを一泊するところ

歴史的淡理的個性的所奥なる花けに︑各国家は各大その具問問的 とし︑何故にこの七千寓人を園民としなければならぬのであるか︑

三谷:法律哲皐原理, p. HJO. 

(9)

資質︑を特異にし︑市もその特異なる各々の賓質が歴史的には最も重要なる所興賓質である︒各々の国間生活部ち

Lる歴史的特具性︑そ維持存続する事をその主要なる目的とするのであるから︑園家

生活は経済生活に於ける如く図際的なる普遍受賞値を要請し得ない︒手形法に於て国際的統一が賓現されしに反

し︑憲法乃至親扶・相続法に︑未記嘗て園際的統一が宣現された下︑か﹄る機運すら醸成されなかったことはか﹄ 各々の図家乃至各家族は︑

る坦回に基く︒反之︑経済生活は前越の如く︑自然科間目的︑合理的活動をその内容とするものであって︑比較的

より・晋遍的に之を質現し符べま性質のものであるから︑国際的にJ晋遁受賞性︑そ有する経済後展階段設が構想され

るに至つにのも盟国なきことではない︒

以上︑経済生活の性格が他の生活諸部門と相遣する貼を述べ︑それが図際的に普遍安蛍性︑を有する所以を明か

にし︑従って︑後展階段設が生じ得べき根擦を説明せんことを試みた︒以上述べ穴理由により︑我々が一閣の経

済溌展過程︑を跡づけんとする場合には︑経済生活のかLる性格に基いて類型車的な設展階段一討を構想し︑それに

よって後民過程合説明せんとするの方法論的誤謬に陥り易いのである︒各国経済の後民過程︑を跡づけんとする場

合に︑先づ︑右の方法論的誤謬に陥らざるの用意を要請されざるを得ない︒然らば︑積極的には如何なる方法を

以て把握さるべきであらうか︒

第二節

経済後展︑過程に於りる精神史的要因

支那に於ける近代工業

(10)

一因の経済護展過程の特争ゼ明かならしめんとすQには︑標準となるぺき先進国の設展過程との比絞考察が必

要である︒その比較をなすに蛍つては︑経済後民を保件づけるところの基本的なる諾奥件巻比較の標準として取

上けらるべきである︒かLる基本的一語奥件には︑経済倫理︑資本蓄積︑問労働力︑交通・通信制度の他︑経済地理

皐的及び工業立地論的保件︑図家及び家族の構遁等に関する一位合態的傑件等が存在する︒今︑これらのすべての

保件を通じて︑支那経済後民過程の特質︑を分析することはこの論文の営面の目的とするところではないが︑以上

の諸保件のうちで︑従来多くの経済史家により比較的に等閑に附され勝であった経済倫理の側面よりする比較考

察が︑最も重要な︑る諸保件の一なる理由を明かにせぎるを得ない︒ιとより経済農は社合科阜であることから生事る営然の性格として︑戎程度の歴史的制約を兎れ得ないのであ

Jが︑しかし︑経済率︑か本来の領域である自然科明学的な超歴史的な理論の千百に止ってゐる問は︑経済哲事的な

考察を必要としないであらう︒か﹄る千百は理論経済簡単の封象である︒その限りに於て︑経済債値をして債値た

らしむるその本源にまで遡って問ふを要しない︒換言すれば︑経済皐的債佑一それ自身を基礎︒つけるところの債

値︑経済率的富の債値づけの源たる人生債値それ自身に封しては︑経済問佳・自身は全的・投批判の態度︑を保ってよい

現賢には汗在することなき経済人(70

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5)

が︑替利原であらう︒理論経済事が封ゑとする世界は︑

則を唯一の指導原理として活動する極めて抽象化されたる唯理的な世界であるからである︒

しかし乍ら︑経済生活在歴史的個性的な百に即してその愛展を跡づけんとする場合︑いはゾ立時的に経済現象

(11)

を把握せんとする場合には︑前の場合とはその認識方法を具にせざるを得ない︒この場合には︑抽象的唯理的な

る世界とは具り︑生々躍動し流縛して止まざる具照的なる歴史的世界である︒営利性原則のみが作用する抽象

的︑合理的なる世界とは具り︑歴史的に制約された種々なる非合理的なる佼件が相錯綜して働︑雪合ふ複雑なる現

買を封象とする︒抽象的なる理論の世界が現賓に現はれて来る場合には︑種々なる保件に制約されて︑純粋なる

理論の千百から歪曲され花形に於て出て来る︒経済史の場合に於ては︑かLる歪曲された姿に於ける経済生活の

受動をその認識のお象とする︒従って︑それらの諸僚件に熔じて種々なる形にあらはれる歪曲の度を︑諸僚件︑を

一通じて分析することが免されねばならぬ︒

︑かくて︑歪曲される度合は︑各国の個性的なる歴史的諸保件が具るに従って具るべきは営然である︒それらの

諸保件を通じての分析が︑問労働力︑資本︑土地等の所謂生活諸僚件の枠内に止ってゐる限り︑経済墜(理論・歴

史・政策を合む由民義)的研究の範囲を越えない︒しかし︑その分析がか﹄る箆国に止る聞は︑各国の経済生活の

歴史的把握は︑異に深奥なる意味に於て︑各国の個性的な経済設展過程の特殊相を重き出し得ないであらう︒そ

の理由は︑第一節に於て述べた如く︑それらの諸僚件が経済問中が取扱ふ範園内の諸僚件なる限り︑それらは普遍

安営性︑を有するものなるが故に︑各国の諾保件の聞に相遣を一不ことが比較的に乏しいからである︒従って︑震に個

それらの諸保件の中で︑各閣問に最も顕著なる相達︑を示すところの園性的なる経消史の把握︑を試みんが翁には︑

家・家族の構造等の吐合皐的保件︑就中︑倫理的・宗教的保件よりの分析及び解緯が要請されざるを得ない︒特に

支那に於ける近代工業

(12)

一一図の倫理的或はその倫理に決定的影響を及帰すところの宗教的側面よりの解緯が魚されねばならぬ︒何となれ

ば︑先に述べた如く︑倫理的・宗教的生活部門は︑本源的なる人生目的をその内容とするものピけに︑他の生活

諾部門に及一悼す影響は庚汎に亙り且つ徹底的であり︑更に︑各図聞に於て最も顕著なる相遣を示す生活部門なる

が故である︒従って︑各国経済史の特殊性は︑それが各国の宗教の側面よりの解緯・が得されて始めて︑深奥なる

意味に於て︑その護展の特殊なる過程が霊斗百出され︑又︑その特殊なる勤きの深き意味が理解されるであらう︒

人生に於ける倫理的・宗毅的生活部門は︑直接に本源的なる人生目的を内容とするものだけに︑こLに経済史

は︑経済墜を超へたる立場よりの把握︑換言すれば︑経済底一的債値の基礎づけの問題︑印ち︑経済哲皐(経済倫

理)の立場よりする把握が震されねばならぬ︒従って︑経済史がそのまL経済哲皐となる語ではないが︑経済史

は従来の内容の外に︑更に︑経済倫理の立場よりする解騒が魚さ作ねばならぬ︒

経済史に限ら中︑庚く経済問中に於て︑その経済接的債値の基礎づけを問題とする限り︑即ち1経済哲壌を問題

とする限り︑それは経済倫理の問題に蹄する︒何となれば︑社合科開中がその研究の封象とする閤家乃至社合生活

の本質を形治るものは倫理的契機であるからである︒

﹁園家乃至一位舎は人格と人格と相生き相営み出づる生活の名である︒人と人と相生くとは︑人と人と互に他を人

と隼びつ﹄生くることである︒間単なる共同本能ではない︒人と人と互に人とじての債値を認め合ひっ¥その債

値意識じ基いて互の生活を律正し合ふことである︒即ち︑人間的社合生活に於て︑士(根祇一たるべき社合心は皐純

(13)

なる共同意識でなくして︑人としての債値についての共同意識である︒単純なる心理的共同又は共同心理の問題

ではない︒自ら人として生去︑他をまた人として牟重しつ与この自他に於ける人間値牟重を互の生活交渉の問に

賢現せんとするもの︑それが枇曾生活の真諦であるι然るに︑償値的倫理的見地に於て人間を見るとき︑個はお

の/¥一個の人格であるo故に吐曾生活とは人と人ど互に自他の人格を相敬重しで相生くることであ勺﹂

﹁枇曾生活の根本的原理が倫理問題である限︒︑その原理は自由を張相似する原理である︒何となれば︑自由のな

い所に倫理的規範があり得る理︑かないからである︒印ち︑一位舎生活の根本原理は自由を輸出想する原理である︒賢

践的営潟の原理である︒随って︑枇舎に関する閥単的原理も亦︑その根抵に於て蜜践的宮震の原理でなければなら

︐ も﹂経済阜︑がその根祇に於て︑経済倫理の問題に蹄せ.ざるを得ない所以である︒倫理問題を決定的に左右するも

のは宗教であるから︑こLに経済と宗教とが密接なる関聯を有すぺき所以を知る︒

第三節

西 洋 近 代 文 化 に 於 げ る 新 殺 の 倫 理

欧洲近代文化の全国に亙つての根本的性格は︑個意識の後遺にあると言つでも過言ではなく︑そ/の文化が人類

に貢

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の後

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もとより︑個の自党といふことは︑近世にのみ存在したものではなく︑古代にも存在した'であらう︒叉︑それ

は西洋にのみ特有の現象ではなく︑東洋殊に支那に於ても見出される現象である︒古代ギリシャ文化頚陵期に於

支那に於ける近代工業

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1)  2) 

(14)

けるエピクルス汲の快楽主義的功利主義的個人主義︑ストア閥的汲のコスモポリタニズムに陥つ穴個人主義は︑西

洋古代に於ても既に個人の莞醒.か援連してゐた﹃﹂との例である︒

支那に於ては恐らくは︑白に早く諸子百家の封立してゐた古代から︑或は︑遅くとも貌耳目の時代かb︑個の自民耳は溌遣して ゐた︒竹林の七賢はそのよさ例である︒支那では︑かふふ個人主義的傾向は説菅の時代以後︑特に著るしくなったのである︒

その時代の閉宣告は国事に無関心であることによって掌敬され︑貌時代の基d者の問では飲酒・清談に耽り︑道教的神仙術を夢想 し︑不老不死の神薬を求むる風が昼?のワた

o

かふる傾向は支那民抜本来のものではなく︑周・漢時代まではかふる傾向は見 られなかった︒それは漢の末期︑印ち︑西紀二ハ六年から一六九年に至る賞銅の獄そ契機として支那見上に現はれるに至つ

た︒その匪具的事情は次の如くである︒

漢の末期︑革者遣は国事に冷淡ではなかった︒事費︑時の政治に封ずる批判はこの時代が最高潮に還した︒その数三高僚に 上る指導的な皐者並に皐生達は︑屡々政治上の時事問題に針して草々たる論難を注しくした︒時の朝廷並に宣官遣の概怒を物 ともせず︑敢えて政府の政策若︿は朝廷の人々の行動に針して強力な攻撃の兎を向けた︒然るに︑憲法上の保障を快いて居っ

λ

めに︑この運動に封して宜官の手によって徹底的な弾毘が加へられ還にそれは終燥するに至った︒二︑三百人に上る皐

者︑又︑或場合には︑その家族企腫をも共に死罪︑流罪に庭ぜられ︑或は幽囚の身となづた︒宜⁝銅の獄とはこの事件をいふ︒

右の弾毘は大規模に徹底的に行はれたので︑すべての運動は直ちに逼塞して了ったのであるが︑その影響は一世紀以上の後ま でも強︿人心に及んでゐる︒次いで反動が起り︑無関心を伶ぷ風が生じ︑酒色に耽溺し︑詩及び道教的神仙術に波頭するの風

が盛になって来た︒:::その後間もなく竹林の七賢が現はれがo

西洋近代に於ける個の自覚と古代ギリシャ乃至支那に古くから存在するそれとは︑等しく個の白究或は個人主

三谷隆正:近代に於ける個の畳程(一橋新聞,昭1G10),法律哲苧原理, p. 11. 

Lin Yutahg: My Coul1try  and my People, p.  50, (拙稿体語堂,支那及び

支那人,長崎高商研究館実報,昭139月読 p.33). 

1)  2) 

(15)

義の名の下に呼ばるべきものではあっても︑

覧は文化頚庭期の所産であり且つ︑ その意味内容を根本的に異にするものである︒後者に於ける個の自

ヒューマニズムに立脚する︒それは前者に於ける場合の如く︑プロテスタン

トの信仰による宗教的基礎づけを紋きしものであった︒従って︑賓践的意力を依くために主知主義に偏せずる在

得ホ叉超個的立場を考へぬために功利主義に陥らぎる︑を得なかった︒

惟ふ

に︑

ヒューマニズムに立脚する個人主義では︑債値判断の究極の原理は人間郎︑ち自己である

人間以上のo p

判断者又は審判者はゐない︒非常に傑出した人は︑己れ自ら自己を審判せんとする︒邸ち︑孟子に所謂﹁自ら反

りみて結くんば千高人と臨も我往かん﹂である︒しかし︑賓際に於て︑最後まで自分一人で自他の審判は出来るで

あらうか︒恐らく不可能であらう︒少く'とも大多数は自分一人で審判が出来ないから︑結局︑世人一般乃至世評

といふものや審判者とする︒それが支那人の所謂﹁面子﹂であり︑叉︑ギリシャ人の所謂名血管であるo何れも根本

は人間以上の審判者を持にない世界での債値判断である︒かLる世非に於ける個の完醒は人間的個についての自

力的覚醒に止るものであって︑それ在基礎づけるところの他力への信仰がない︒そこでは自己を超へたる立場︑

即ち︑自己に死して結封他者裡に桂一るといふ立場は考へられない︒伺が七ゾ己一個に立つての自覧であるo

たゾ

一人での一入力しかない自覚である︒索莫'にる自覚である︒かLる宗主(たる自覧を以てしては千高人と路も我往

かんといふやうな官践的意力を生み得るものではない︒寧ろ︑一人封干高人ではとうてい勝負にならぬことをい

も平く感得する底の自党でしかあり符ない︒従って︑此種の自売人は巧に自他の利害を安協せしめつ¥柔軟に

支那に於ける近代工業

(16)

時勢に従って流れる︒生命を賭けてまで正義の魚に挺身するといふ熱意巻生じない︒従って︑資践的意力を紋く

ために︑見る世界印ち純粋観照の世界にのみ止らずるを得示︑その世界を超えて︑そこより異質なる賓践の世界

へ出て来ることをよく魚し得ない︒かくて︑文化創建への溌別立る活力を失ひ︑迭に一世舎的に無力である︒アリ

スト

テレ

lスは︑人聞の究極的な幸一臓は純粋観照的な活動にありとなし︑更に︑彼は紳自身のことに就ても︑紳

はその幸一脂さに於ても凡てのものに上越する︒然るに︑各種の働きの中で考へるといふ働きが至高︑至稿︑最も

神々しい働きである︒従って一抑は考へる働きそれ自躍である︒神は印ち思惟なりと一吉ふ︒プロテスタントの世界

は︑かくの如︑号︑主知主義的なもの勺ほなくて︑もっと挺身的な主意主義的な世界である︒

理智の世界に踏み止るものであり︑究極に於て理智は自己以外のものを知らないか

ら︑自力主義に立つ︒信仰は﹁ギリシャ人には愚なるもの﹂(コリン吋前書

1

0幻)である︒古来︑多くの預言者や ヒューマニズムに於ては︑

宗教改革者を動かしたやうな紳よりの使命感といふが如︑雪︑自己を超えたる立脚地に立つ高き使命の白血却を有し

得ない︒従って︑自己を全く棄て去って紳に依り頼み︑紳の大義︑ぞ賓現せむといふが如︑き他力的な挺身的な境地

に到ることは困難である︒自力主義であるから︑究極に於ては︑自己を活かさゾるを得ホ︑自己を減して結封他

者に生き得ない︒従って︑自己中心的な功利主義に陥ら.ざるを得ない︒功利主義的人生観はヒューマニズムには

必然的に伴ふ︒無{一示敬的功利主義からでは︑.真理とか正義とかは自己の功利的目的のために手段として徒はれ︑

その震には身命をも弛つといふ厳粛なる境地に到ることは困難である︒そこからは真理の前に襟を正して向ひ︑

三谷隆正:mr掲論丈並に教育論,

上 : 問 題 の 所 在 p.15:3

アリストテνース:ユヨマヨス倫理事(高田三郎謬)p.  540

(聖書講義,昭152)3競). 

(17)

天地中ぜ震拡せしむるが如き資践的意力は生じ得ない︒ルーテルの宗毅改革に於ける唯一の武器は﹁なんじら立か

へりて静にせば救巻得︑平穏にして依弱まば力を得べし﹂(イザヤ初o

日)

であ

り︑

リヴイングストンのアフリカ

大陸横断に於ては﹁われシオンに一つの石をすゑてその基となせり︑これは試をへたる石︑にふとき隅石︑かた

くすゑたる石なり︑これに依積むものはあわつることなしL(千ザヤおoM)との信仰によって常に力づけられた

りと言ふ︒何れも徹底したる他力の信仰に立つ︒

人が真に強くなるのは︑自己について自己を超えたる自売を持つに至るときである︒この白魔は宗毅的信仰に

よら示しτは得難い︒欧洲に於てはかLる自売はキリスト殺によって奥へられた︒近世に於ける人間的個の自究

を{一示設的に裏づけたところの宗教改革に負ふ︒印ち︑プロテスタント的信仰の感化に基く︒その代表的なものが

カルヴイニズムである︒この意味に於て︑近代文化に封するカルヴイニズムの影響は賢に深刻である︒

然ら

ば︑

カル

︑ず

イニ

ズム

Eこ

が︑

近代に於ける個の覧醒にしかく強靭な賓践的意力を付奥したのであるか︒

それは個に於ける深ま責任の自売である︒プロテスタント的信仰に於ける個の自売は︑自己を紳のいとほしみ給

ふむすこむすめと自売することである︒従って︑この自究は個をして己を紳の故に惜ましめる︒己を瓦礁に等し

からしむることは一仰の大愛に背くことである︒一神の大愛に一紳の大義に背かぎらんがためには︑個は深遼にひとり

を重んじ惜まねばならぬ︒忠誠なる責任感はひとりを豆んホることから生ホる︒この責任の自覧は権利の主張で

はなくて︑一仰に封する義務の履行に他ならぬ︒この義務は人聞が全能の紳に封して負ふものであって︑生命にか

支那に於ける近代工業

(18)

i¥. 

へでも果さなければならぬところの重大責任である︒この責任の自覚がすぺての清教徒を担くした︒彼等をして

人を恐れ争︑唯一紳のみを恐れしめに︒これが彼等の強親なる賢践的意力の源であっ作︒叉︑ひとり近代経済に於

けるのみなら示︑諸々の近代に於ける建設的な社合革新の原動力であった︒即ち︑プロテスタントの信仰の立場

は︑ヘレニズム的な主知主義的な組粋観照の世界ではなくて︑主意主義的なもっと活動的な境地である︒﹁己を棄

て︑十字架を負ひて︑我に従へ﹂(マクイ

m

o潟︑ルカ日o幻)で︑罪に汚れてゐるがこの身このま﹄を父なる科

の大前に投出して︑一泊封他者なる紳の愛に匙らんとする他カ的な立場から生手る挺身的な境地である︒︒ハウロの

わが骨肉のためならんには︑我みづから鼠はれてキリストは棄てらるLも亦願ふところなり﹂

﹁も

し我

が兄

弟︑

(ロ

903)といふ境地である︒

第四節

終末論と西洋文化

私︑を減して義に生きんとするプロテスタント的な精神は必宇しも新教特有のものではない︒我図古来の武士道

に於ける滅私奉公の精神は︑プロテスタントの精神と果して幾干の淫庭があらうか︒士は﹁死而後己﹂で︑士は死

に至るまでその本分︑宇二生是れっとむべきこと即ち義に生ぐべきことを読ま︑更に︑﹁大人は死を恥とせ割︑士は

生くるを恥とす﹂(楠正成)となして︑士は君図の大義に殉ぜんが魚には︑行住坐臥常に死ふれ}心掛くべしとなち

有名な人口に時間交せる﹁武士道とは死ぬことL見つけたり︒二つ/¥の場にて︑早く死ぬ方に片附くばかりな

三谷隆lE:前掲論文.

山鹿語類,第21巻,第四巻, (山昆素行全集第7 p.  1ι, p.  182). 

(19)

σ別に仔細なし︒胸すわって進むなり︒:・:::毎朝毎夕︑改めては死に/¥︑常住死身になりて居る時は︑武

一生落度なく︑家職︑そ仕果すべきなり︒しとの文章︑そ以て始る﹁実際﹂に於ける精神は︑滅私であ

道に

自由

を件

hJ

且奉

公の

精一

脚に

他な

らぬ

0・武士は常に君国の大義のにめに死すぺま覧悟あるべきことを設いにもので︑何時で

も武士道の義のために死に得る境地︑これ以上に徹底しに滅私があり得るであらうか︒武士はその特椿的地位の

椋章として武器︑か﹂帯び七︒そのことは彼等そして︑普通人以上に霊会責任感と廉恥心と克己心とを有せしめに︒

武士は敵をも同胞として見た︒故に︑仁侠と愛敵とは武士道の華であった︒

我国古来の武士︑が一誌に生きに精神︑叉︑死ーを見ること蹄するが如くであっ允精神は呆して何に由来する︑もので

あらうかc今こLに之を詳論する飴一同はない︒武士道の倫理︑か我図中世以来︑近代に至るまで我図民道徳の背桂

をなし︑我図文化が頒肢に陥ることや}救ったのみなら中︑我国開園営初﹁庚ク智識ヲ世界二求ムル﹂図是により決

その華を咲かしむる精神的地盤となったヲ﹂とは言︑そ侯たぬところである︒河の勢で流入した西洋文化を受容し︑

しかし︑武士道はヒューマニズムの世界中ぜ超えにるものではない︒来世の信仰がない︒

キリスト款は室約時代以来︑

終末

論(

開山

手三

oG

WH

V

三︒

‑ o m 芯)の信仰に生きる︒

世界最後の日にキリスト

の再臨があり(マクイ

mo

幻・

om

マル

コ 9 0 1

・ル

90

mm

・使徒行停初

o m

) それと共に審判が行は︑

れ︑キリストの信仰に生まる者は一仰と共に永誌の生命に血(・り︑不信仰なる者は悪魔とその炉らとのために備へら

支那に於ける近代工業

1)葉信,第一巻, (去さ隠金書, p.  12). 

2) 新戸渡治法:武士道, (矢内原忠雄喜〉参照.

(20)

, 

O

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14

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市し

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る︒

審判

中ぜ

Cて紳の救が完成され︑一抑のれに永遠の火に投ぜられる︒

経末の信仰は一別による救の成就︑一洞の図の宣現の信仰であり︑信仰の目標そのものであるので︑これが現在の

信仰生活に於て︑常に生会生きと活かされてゐることは極めて重要である︒キリスト教が終末の信仰を失ふこと

一種の現世主主に陥るものでその墜落を意味する︒現在の信仰と絡末の信仰は不可分離的に結合さるべきで

あって︑絡末の信仰4ゼ依如した現在の信仰は︑何らかの形で現世主義に堕し︑

︒ ︼

は活ける希望の信仰とは言へない︒ 現在の信仰から離れた終末の希望

基督者は終末の信仰に生きるから︑その死は審判の意味をもっと同時に︑それによって生命に移される意味を

もつ︒基替者はキリストにある者とげυて自らの死に就いてか﹄る意味を信U認める︒﹁我拐に世に勝てり﹂と言へ

るキリストに於いて︑基督者は自らの死に封して拐に勝利してゐる︒かくて死は基替者にも残されはするが︑そ

こでは審判の意味が失はれ(ヨハネ5oM)︑死の刺がとり除かれる(コリント前日o拐)︒信仰者にとって死を思

ふことはもはや恐怖ではなく︑生活守主化せしめる意味.をもってくる︒それ在忠ふことにより︑伎は一肺の永遠な

る生命にのみ期待をかけ︑この世一同な欲望から敵院し︑主我的な生活と人間中心的な文化に封して信仰的な一抑中

心的な生活をなすこと︑を促される︒さうして︑最後に死そのものに直面ずる時︑信仰の最後的な決断を以て︑全

能なる紳に凡てを投けかけ︑地上に於ける信仰生活の員賞︑そ設しその貫徹を期するのである︒かくて最後の事件

(1.  Hastings:  Dictionary  of  the  Bible.  S.  D. F. Salmond: 

Vol.  1. p.  735正)

桑田穿延:基督教神亭概論, p.  553. 

Eschatology 

(21)

としての死は︑基督者にとって︑一種サクラメンタルな意味をもっと言ひ得られ︑この地上の生から一仰の生に移

される最も段踊な瞬間である︒かくて信仰者は信仰的畏怖の念ぞ以て死に封するが︑ただ之︑を怖れることをせ

J︑寧ろ信仰と希望とに於て之に臨み︑之を超え︑

(ピリピ

1 0

)

キリストと共に生に入れられることん﹂喜び之を待つのである

かくてキリスト毅に於ける死は︑その絡末論の故にそこに寂しき影在宿さないのである︒永遠の生命に奥る歓

菩に喜んで殉教の死を途﹁るのである︒

古代は知ら中︑中世以来の日本文化に伴ふ或程の寂しさ︑ものぐらさは何人も否定し得ないであらう︒かL

傾向は文化の各側面を通じて見受らけれるが︑就中︑文壊に比較的明瞭に現はれてゐ%ものと考へられる︒我国

の代表的文阜の中の或種のものL中に表はれてゐる思想は諦観的なる色彩が濃く︑叉︑そこに設かれてゐる道徳

は律法主義に偏したる形式的道徳に過ぎぬものが見られる︒日本文化が有する性格の一にかLる傾向が存在する

理由は間対して何庭に求めらるべきであらうか︒今︑この問題に就てはこの論文の営面の問題とするところではな

如西洋中世去替毅文阜の代表と見らるふグンテの一柳曲︑或は近世初頭に於けるミルトンの失楽園に見らるL

き︑力強き生の肯定︑溢るL生の歓喜︑罪の霊荷在取去られて鷲の如く実を張むつL高知刈せんとする積極性等の

これらの西洋文化を特色づける諸性格は何庭より由来し七ものであらうか︒それはキリスト数的絡末論を母胎と

支那に於ける近代工業

./ 

桑田:向上書, p. 5H1. 

(22)

して欧洲に生成したものである︒柊末への希望の故に︑現世生活を深遠にム同定することから生れる︒

﹁そ

れ(

基督

設)

は︑

一暦高貴にして永遠的なる天上生活の故に地上生活をそれ白留の故に肯定するのでなくて︑

地上生活を肯定するのである︒古から地上生活それ白慌が超地上的に︑隠って又超時間的に意義づけられること

になり︑地上生活を地上生活白慌の故にム同定するよりも逢に根強く叉根深く地上生活が肯定されるのである︒之

ぞ個人の生活にとって考へて見ても︑若し唯個人の故に個人が背定されるのであったならば︑個人の生活の意義

は個人大の深さしか持ち得ない︒高々地上五十年記けの意義である︒件以じ基督者にとっては個人は個人の魚の個

人では芯いο伺の一生は之を十字架の魚に欧けつくした一生である︒かく除けつくして後︑改めて紳より托せら

れに一生である︒戎る人は五グラント︑或る人は二クラント︑戎る人は一グラント(マクイおoは)︑各特異の個

性的天賦を授けられ︑その天賦に従って粉骨砕身すべき任務巻負ム伺である︒伺は一人一人神の公器︑故にまた

紳立け牟貴なる個である︒是Jが基替者の自我肯定である︒﹂

Lる深刻な自我肯定が︑基替者人生観の根祇にある︒車なる自我肯定に止らやしで︑あらゆる自然と歴史と

に封する敬﹂民なる肯定がある︒一仰の遁り給へる宇宙高物︑或は現世生活に封する敬﹂反にして深刻なる肯定は顕著

なるキリスト殺の特質である︒終末論によって神の図の賢現を確信するごとにより︑一抑の国の高さ冗け︑地上生

活が高貴となる︒﹁械土を嫌忌して浄土に遁れ去るのではない︒地上生活の侠陥を癒されて神の図にまで完成され

るのである︒肉程を原離するのでなくて︑同C素材︑ぞ復活時にまで霊化せらる﹄のである︒地と肉とは世の格り

三 谷 隆 正 : ア ウ ゲ ス チ ヌ ス , p.  151. 

(23)

‑ d ⁝に蹄せらるぺきものでなくて︑完成せらるべきものである︒現世は来世への道場︑民宜︑そもでこの地上生活

に精進するものは︑それ︑にけ紳の図への準備を整へつL

ある

もの

であ

る︒

﹂か

Lる終末の信仰こそ︑地上に於ける

基格者の信仰に生き生きとしたる活力巻奥へ︑以て︑地上生活の類庭部ち文化の頚陵告発れしめたのみなら示︑

その信仰よh愛する現世生活の力強き肯定は︑文化創造への限りなき力強き街勤となって現れた︒かくて西洋文

化の人類への赫々にる貢献‑か生れいに︒もとより︑西洋文化の後一遂の基礎をキリスト殺のみに臨することは誤であ

るが

しか

し︑

キリスト教的終末の信仰を欲︑ましならば︑近代に於けるが如︑き西洋文化は形式され得なかったで

あら

う︒

終末の信仰に生きる基督‑者は︑例へば西洋の著名なる科閥単者の勢作の如く現世に於ては如何に弊苦多く酬はる

Lこと少ま業をも︑之︑紳よりの召命に基くものであって︑一抑之を知し召し給ふものなりとの確信身有し︑キリ

スト再臨の日の復活を希望じっL

生き

るが

故に

︑孜

唱え

Lて朕身的なる研究に精進するのである

0

か﹄る員理探.

究の精神が欧洲科問中界の力強き倖統となったことは疑ひ得ない︒従って︑欧洲の科聞出d殊に一古代科阜の進歩は終末

論に負ふといっても過一言ではない︒西洋近代科閥的の後注はルネサンス戸川多くそ負ふことは明かである︒しかし︑

ルネサンス文化はそのギリシャ的現世主義の故に︑文化頚肢の危険を伴ふ︒ルネサンスの科閥単精神を異に生かし

たものは︑宗教改革に基くプロテスタントの信仰である︒カルヴイγの宗教改革がなかったならば

1

'

ルク

l︑

世カトリック数合の堕落と共に西洋文化は矧践し淡落してアつにであらう︒従って︑西洋近代科問中は生れ得なか

支那に於ける近代工業

向上書, p.  167‑8. 

(24)

ったに相遣ない︒西洋文化に絡末論信仰に基く深遠なる現世肯定が存寵する限り︑それは頚庭︑を兎れ得る︒西洋

文化が終末の信仰仰を弱めるか或は失ふときは︑その文化が頚駿若くは淡落ずる時である︒

絡末観は諮信ではない︒同建博士は次の如︑品川︑意味のこと奇述べてゐられる︒現在︑そ作るものは過去であり︑

叉︑逆に過去の意味をつくるものは現在である︒現在と未来との関係も同様で︑現在が原因となって未来を透る

が︑しかし現在を意味あらしむるものは未来である︒基替教の柊末観︑即ち︑人類の歴史は一定の目的に向っ

て進んでゐ・るのであって︑世の絡りに最後の審判があり︑之をもって紳の図が成立するといふ考へは︑迷信では

なく道理ある考へ方である︒﹁歴史の最後に世界審判があるとするのは︑勿論特殊な宗毅的信仰に束縛された見

解誌としても︑一々の現在に永遠的なるものが意味を奥へるのであるといふ意味でBし勺﹂

要約:::以上に於て︑先づ各園の経済強一民の過程が普遍安営的なる類型撃的強展過程をとるものなりとす治経

済強展階段設が生じ得べき根按を︑

図の経済後展過程の現賓は︑ 現費相としての経済生活の基本的性格たる普遍受賞性に求めた︒市して︑各

それよ¥特有なる過程を示すことを述べ︑後展階段設の誤謬であること各論じた0

然らば︑各国の経済後展過程が相違する所以は何に求むべきかとの問題が営然起って来る器であるから︑

相遣を生命る所以を各園の文化の各部門に於ける歴史的諸保件の相違に求めた︒それらの諸保件中で最も有力な

る原因の一たる経済倫理の側面よりする考察の重要なる所以を控ぺにのである︒而して︑経済倫理の問題は︑経

済撃の根本的問題卸も︑経済が人生に於て何故に安官すべきかの基礎づけの問題︑換一一一目すれば︑営震としての経

その

同法元:r歴史的現賃Jp67.

(25)

済の意味を考ふることに他ならぬ︒従って︑経済問中的雷魚の問題は︑究極に於て︑本源的な人生的債値の問題即

ち︑人生観︑世界観の問題にまで遡って顧今られねばならぬ︒市し士︑世界観は宗教的煮識に多く依存するか

ら︑経済後展の過程は{一万数との関聯に於て考察さるべきことを要請される所以を述ぺたのである︒

次に

その関係の共鰭的考察に入るべき順序となるが︑その前提として次の如き事柄︑を考察するところがあっ

西洋近代経済の倫理を考ふるに官つては︑西洋近代交化形成の母胎たりし新殺の倫理ぞ除外しては無意味に局 に じ

するので︑その前提として︑新殺の信仰が西洋近代文化形成の原動力たりし所以ぞ考察した︒その際︑新教の立

場︑を儒設的なヒューマニズムと比較することによって明かならしめんとした魚に︑所論は勢︑基桂一戸数的終末論に

まで設展せざるを得宇︑それによって︑西洋文化が中世以後頚肢に陥ら示して︑よく近代に於て偉大なる文化を

創治し得大根本的原因を明か考察したのである︒

第五節新殺の倫理と西洋近代資本主義

かくて︑問題はいよ/¥第一章の結論的部門印ち︑新教の倫理が西洋近代資本主義の後展に及惜した影響並に

儒一枝︑道款の倫理と支那経済後展との交渉との問題に入らねばならぬ︒

西洋近代資本主義経済も近代欧洲文化の一側面であるから︑それは宗一敬一改革以後の新教の所産なり川f

ニ 一 一 一

口 ふ 直 接

支那に於ける近代工業

参照

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