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六段本 『平治軍物語』 翻刻並びに研究

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六段本 『平治軍物語』 翻刻並びに研究

著者名(日) 石井 久美子

雑誌名 大妻国文

巻 32

ページ 145‑164

発行年 2001‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001392/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

六段本

﹃ 平 治 軍 物 語

翻刻並びに研究

井 久 美 子

はじめに

︿

︿

出版年も不明である︒しかしながら︑この巻之七のみからも﹃平治物語﹄との関係など︑幾つかの点で重要な問題が指摘

できそうである︒したがって︑本稿ではこの﹁平治軍﹄の翻刻を行い︑研究に着手する事で﹃平治軍﹄の位相を明らかに

調

使

(3)

いる挿絵入りの作品である︒六段本とは水谷不倒によれば︑﹁金平本の流行に起因し︑金平本に肖らうとして強いて浄瑠璃

︿

た︑絵は︑菱川師宣・奥村政信・近藤清治らの作品が多いとされるが︑この﹃平治軍﹂の絵師については︑現在のところ

一方︑本文については︑柱の部分に﹁保元ノ七﹄とある事と︑﹁水谷不倒著作集﹂の目録に﹃平治軍物語﹄の他に﹃保元

軍物語﹄の書名が見えるところから︑﹃保元軍物語﹄と対をなして刊行されたものと推定できる︒このことは︑﹁平治物語﹄

の諸本が﹃保元物語﹄と対をなすものが多く︑古活字本はじめ︑江戸時代刊行の流布本も﹃保元物語﹄と一対で刊行され

また︑﹃平治軍﹄は﹃平治物語﹄に本文上一致する部分が多く︑私見によれば︑とりわけ永積安明の分類する第十一類流

上記のように︑﹃平治軍﹄は﹃平治物語﹂と本文上一致する部分が多いところから︑ここでは︑本文と﹃平治物語﹄の流

布本本文を比較し︑その異同の概略を把握することにより︑その性格についてふれておくことにする︒

第一に主語について︑﹃平治軍﹄﹁平治﹄共に大方の表記方法は似ているが︑﹃平治軍﹂は﹃平治﹄より主語を明示する傾

向が強く︑登場人物の名前を明確にしている︒

(4)

の表記は一一六例が一致しており︑全体の約半数を占める︒中でも︑

流一重盛

六一重もり参て父に

のように人物名で表記している例は十六例ある︒

父の前に出給ひ

また︑表記が相違するものは一八例で︑

流一申せば兵衛佐

六一とひければすけ殿仰ける

のようにうち八例がほぼ似た表記となっていた︒

また︑七例が﹃平治軍﹄が人物名で︑﹃平治﹄が官職名・その他で表記している︒例えば

流一難波

申けるは

六一なんばの三郎つねふさふるい

さらに︑﹃平治箪﹂にのみ明記されている例は十六例と︑﹁平治﹄のみに銘記されている例の四倍となっている︒

﹃平治軍﹄が﹃平治﹄をほぼ参考にして書かれているといえるが︑﹃平治軍﹄はさらに登場人物の名前を明らかにしてい る︒さらに作者の判断により︑主語の明記を決定している︒

これらの事から︑﹃平治軍﹄は﹃平治﹄の模倣ではなく作者独自の簡易な物語を描こうとしていると考えられる︒

第二に文章については︑﹃平治﹂に記載されている︑本筋から外れる場面を︑﹃平治軍﹄

では削除している︒例えば︑頼

朝が宗清に預けられた因果関係︵校本扇

O

1

OO︶といった人物の経歴・人間関係や︑眉輪王・越王の説話

1

O九︶といった噂話︑たとえ話等が﹃平治軍﹄では削除されている︒

γ

(5)

又︑内容に大幅な違いは見られないが︑文章が改変されている部分も見られた︒例を挙げると︑

流一手つからもととり取上てふところよりゑぼし取いたしひたときて

六一われとかみ取あげゑぼしをちゃくし

の様に内容は同じでも﹃平治軍﹄ではより短縮された表現となっている︒さらに︑

流一十三日と

六一みようみようご日と

等の様に日時を明確に表示している﹃平治物語﹄とは逆に﹃平治軍﹂は暖昧な表現となっている︒

逆に﹃平治軍﹄にのみ見られる文章に付いて見ていくと

流一子ともはおさなく

六一子尤におゐてはおさなし

といった強調する語句・段末等の他︑人物の心情が﹃平治軍﹄にのみ見られた︒例えば︑﹃平治物証巴では時葉御前の苦悩・

では書かれていない︒しかし︑頼朝や頼朝への池禅尼の激励等が書かれている︒

以上を前提とし︑﹃平治軍﹄の位相を検討していく︒

﹁平治軍﹄は﹃平治物語﹄と基本的には内容・構想が同じである︒しかし主語の明示性・表記の面や︑文章の削除・表現

方法から﹃平治軍﹄がより簡潔性を重視した物語である事が明らかである︒さらに強調・暖昧な表現から︑﹃平治軍﹄が事

実を伝える為のものではなく物語・昔話の要素を含んだものといえる︒

つまり︑﹁平治軍﹂は読者の立場に立って作られた︑簡潔・平易な本であり︑﹃平治物語﹄を参考としながらも﹃平治物

語﹄とは違った別の物語として存在しているといえるだろう︒

(6)

平治軍物語

七之 巻

︵ 翻

刻 ︶

其後其頃平治はかいげん有永りやく元年の春の比よし朝の三なん兵衛の介よりともはみの冶国大はかの長じゃがもとにま

しますが心に思召さる﹀は我此所に有ならば終にはかたきにさがし出されていけ取られんはぢてう也いかにもして東国に

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か又は打死するとても我が身の上は力なし源氏重代ひげ切を平家の手へ取られん事こそ口おしけれとやせんかくやあらん

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のみ候也おはりあったの大宮司はかねて御へんもしらることくよりともにしたしき人なればかしこへとずけ大明神のほう

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此由かくと申上れば清もり大きに悦びいしくもしたる宗清とてほうび給はり天きをうかがいちうせんほどはなんぢにあづ

け置との

Lハ段本﹁平治軍物語﹂翻刻並びに研究

(7)

五 。

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はれさせ給ふベく候へば此上ながら何とぞして御命たすかり度は思召さずやと云ひければすけ殿聞給ひさんぬる保元にお

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召すならば愛によりもりの母上にゐけのぜんにと申は清もりの御ためにはけいぼにてましませ共清もりおもくしつし給へ

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に候が其すがた右馬のすけ殿によくにさせ給ふと申ければょにゆかしげに思召たる御けしきにて候ひしかと云ひければそ

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(8)

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(9)

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たず事に候はず八まん大ぽさつの御はからいにて候也某がをもひ合する事候へば必と申せばすけ殿心へたりと打うなづき

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(10)

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子一人おはします女子は後藤兵へさねもとがあづかりより朝の御代の時一条二位の中将殿の北のかたにならせ給ひし姫君

也今一人のなんしは後とさのくわんじゃまれよしと申せしよりともの御しゃてい也かくてせたのはしを

も打わたりかしこを見ればかみすみあれたるやしろ有いか成神ぞととはせ給へばたけベ大明神と申けるさらば今宵は此ほ

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をいだひて御内ぢんに向ひよしともが弓やをめして参り候と申さるれば御内ぢんよりさしもけたかき御こへにでふかくお

さめ置ベし終にはよりともにゑさせんするぞや是より朝にくわせよと仰らるれば天どう何かはしらず持出て君の御前に置

せ給ふを何なるらんと見奉れば大き成のし也君おそれでさうなく参らざればそれたべよと仰けるかぞへて御らん候へば六

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ば夢はさめて候也かうの殿こそ一たんでう敵とならせ給ひ候へ共御弓やをば八まんの御ほうでんに納置れつゐには君に給

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の雪をうちながめゃう/\ゆけば程もなくいづの国になりしかば伊藤のなにがしうけ取てよきにしゅごし奉る介殿の心の

うちこそあはれなれ是はさて置ことにあはれをとずめしはよしともの

六段本﹃平治軍物語﹄翻刻並びに研究

(11)

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若君になぐさみてけふ迄かくてましませ共今もや敵に取られんとやすき心もましまさずさればとて立忍ふべきたよりもな

く身一つだにかくしがたき世の中にまして三人の若共を引ぐしてはたれかしばしも宿すべきこは如何せんとなげきかなし

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になる今若を先にたて六さいのおと若が手を引ことし二才のうし若をいだきっ︑たそかれ時に立出てたどり行こそかなし

けれ仏ぜんになりしかは二人の子共を左右にすへなむや大ひのくわんせをんみづから九つの年よりふかくたのみをかけま

くも毎日三十三くわんのふもんぽんよみたてまつるりせうにはわらはが事はともかくも三人の子共の命あんおんに守らせ

給へとふしおがみ其夜はほうでんにつや申夜もほの/\とあけければ御前を立出てやまとぢを心さしみなみをきして行水

のながれとずまるかたもなくしばしはこ︑にふしみのおばごせたのまんとかしこへ立より給へ共むかし源氏の大将かうの

殿のみだひ所と云ひし時こそあれ今は引かへむほん人のさいしとて平家の聞へもおそろしくおばはるすとておい出すは情

なふこそ見へにけるすでに其日もくれければ立よるかたもあらいその泊ひまなき道しばにたおれふし二人の若君こへをあ

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にともないよきにゐたはり参らせてそれ

よりやまとの園︑ったのこほりりうもんといふ所へおくりとずけ奉ればおぢをたのみて愛に忍びておはしますときわ御ぜん

(12)

の心の内あはれ共中/\申計はなかりけり

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ゆくゑなしとのふうぶんなりさあらばときわが母をめし出しかれらが行へを尋べし急ぎつれて参れと仰ける長て候とて頓

而宿所へおしょせらうほを引立参りける清盛見給ひゃあいかににかう御身がむすめのときわ三人の子共を引ぐしおちたる

よし聞て有いづくへ行けるぞ有のま︑に申ベしすこしもいつはる物ならばがうもんしてとふべきぞゃいかに/\と仰ける

老母聞てさん候ときわはかうの殿打れさせ給ふと聞子共引ぐしいづち共なくまよひ出て候へばいかでか行へをぞんぜんと

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︵ ママ ︶

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六段本﹃平治箪物語﹂翻刻並びに研究

一 五

(13)

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りもこはうらめしきときわかなおいの命をたすけんとてなにしに出ては有けるぞおことら四人をうしなひて老たるあまが

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(14)

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六段本﹁平治軍物語﹄翻刻並びに研究

五 七

(15)

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はん為よしのちゃくなんさまのかみよしともの子なればあつはれたれにかおとるべきいかにもして平家をほろぽし父のほ

んもうたっせんと思はれけるこそおそろしけれさるによってぶげいに心をょせそうじゃうか谷にかよひ天ぐにちかづき兵

法の大事をならいはやわざとびわざなとは人げんのしょいとは見へざりけり比はぜうあん四年三月三日御とし十六と申に

はおふしうのこかねあき人吉次のぶ高をたのみくらまの寺を忍び出あづまぢはるかに下らるる心の内こそあはれなれあふ

みの国かずみのしゅくにつき給ひわれとかみ取あげゑぼしをちゃくしみづから源九郎よしっねとなのりそれよりいづの国

になりしかばしやきゃう兵衛のすけよりとも其比は北条の四郎時正がたちにましませばひるが小嶋へ打こへよりともに御

たいめんありあふ州へくだりひて平をたのむべきよしの給へばよりとも見給ひ御身二才の春の比みたるばかりなれば父よ

しともの二たびよみかゑらせ給ふ心ち也まして御身は一一才の時なれば父もをほへ給ふまし此よりともをかうの殿と思はる

べしとて泊にむせばせ給へばよし経もむかしの事はしらねとも兄ときけば今さらに父よし朝の恋しくてともになみだはせ

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供をもつれず行ならばひで平が郎等共取っぐ者はよもあらじこ﹀に一とせかうの殿のめしっかはれし女ほうあふ州にくだ

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り佐藤しのぶの庄司もとはると云ふ者のつまと也

子共二人三郎次のぶ四郎忠信とて二人子共出来もと春をばひで平が大事にするときこゆればまづもと春が方へ打こへゐさ いかたり給はぱ女ぼう昔を忘れずおっとをす︑めてひで平へ取持ベしぞとをしへ給へばよし経ゐさいにだんこうしそれよ りもたがいにいとまごひましくてあふ州さしてそ下られけるよりともよし経兄弟の心の内何にたとへんかたもなし

第六企去程に兵への介よりともはさんぬる永暦の春の比いづの国へながされ給ひきのふけふとは思へ共廿余年の春秋をおくり

給ふ所に治承四年に至り思はざるにもんがく上人のす冶めによってご白川の法皇のいんせんを給はり北条はしうと也とい っちゃ三うらおかざきをはしめげんしふだいのか人共をもよをし同八月十七日いづのもく代ゐづみの判官かね高を夜︑っち にしそれより石ばし山やこつぼきぬがさ所々のかせんに身をまったふしてあわかづさのせいをつけひたち下総をしたがへ むさしのくにへ打出給へば八ヶ国の諸侍もとよりげんし相でんの者共なれば我も/\とはせあつまり其せいすでに廿万ぎ と成給ふ然ればときわ腹の今若殿たいごのてらにましますが介殿むほんときくよりはやく男に也あくぜんし吉久とかい名 しはせ下り給ひけり扱源九郎よし経はいつぞやよりとものおしへにまかせ佐藤もとはるにたよりひで平を頼てましますが 介殿ぎへゐをあげたまふ由聞給ひ大きに悦び秀ひらにかくとの給へばひで平がはなむけにこん地のにしきのひたたれにく れないすそこのよろひにこがね作りの太万をそへ御馬は御用にしたがってめさるべしとぞ申けるそれよりしのぶにうちこ へ給へば佐藤庄司悦びちゃくし一一一郎次のぶこなん四郎忠信兄弟の子共を御供に申付ればよし経ゑっき浅からず夜を日につ

いで急がせ給へばするがの国にて頼

(17)

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ぬしと成事は偏に古いけのぜんに︑たすけられ奉りしゅへなればよりもりの御事は申に及ず宗清も心にかなはぬ事あらば

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(18)

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(20)

T治軍物語﹂翻刻並びに研究

(十一オ) (十ウ)

‑1.‑

(十三オ) (十二ウ)

(21)

笠栄治﹃平治物語研究校本一一﹄︵一九七七・六−一一十桜楓社︶

黒木勘蔵﹃浄瑠璃史﹄︵一九四二了十二・1十青磁杜︶

祐田義雄﹃浄瑠璃史論考﹄︵一九七五・八・十中央公論社︶

佐藤喜代治﹁国語学研究事典﹄︵一九七七・十一・五明治書院︶井伏鱒二訳﹁現代語訳﹃日本の古典﹄十四﹂︵一九七九・五・十河出書房新社︶

国史大事典﹃国史大事典﹂十三︵一九九一・五・一二十古川弘文館︶

編集委員会日下力﹁古典講読シリーズ﹁平治物語﹂﹂︵一九九二・十二・七岩波書店︶

児玉幸多﹁くずし字解読辞典﹂︵一九九八・八・二十東京堂出版︶

なお︑翻刻基準は丁移り表記を除き︑八文字屋本研究会編﹁八文字屋本全集﹄︵二000

一 六

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