六段本 『平治軍物語』 翻刻並びに研究
著者名(日) 石井 久美子
雑誌名 大妻国文
巻 32
ページ 145‑164
発行年 2001‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001392/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
六段本
﹃ 平 治 軍 物 語
﹄
翻刻並びに研究
石
井 久 美 子
はじめに
大妻
女子
大学
が所
蔵す
る︑
六段
本﹃
平治
軍物
語七
之巻
﹄︵
薄茶
色原
表紙
・原
題築
﹁鳩
平治
軍物
語枇
ノ﹂
︑半
紙本
︿縦
二二
・
五糎
︑横
一五
・六
糎﹀
一冊
︑う
ろこ
がた
や板
︶︿
以下
︑﹃
平治
軍﹄
と略
称す
﹀は
現在
まで
翻刻
・研
究が
され
てお
らず
︑作
者・
出版年も不明である︒しかしながら︑この巻之七のみからも﹃平治物語﹄との関係など︑幾つかの点で重要な問題が指摘
できそうである︒したがって︑本稿ではこの﹁平治軍﹄の翻刻を行い︑研究に着手する事で﹃平治軍﹄の位相を明らかに
して
いく
事と
する
︒
﹃平
治軍
﹄は
︑﹁
其後
其頃
﹂等
の序
調︑
﹁中
中申
計は
なか
りけ
り﹂
等の
結語
の使
用に
より
︑構
成面
で六
段本
の形
式を
採っ
て
六段
本﹃
平治
軍物
語﹂
翻刻
並ぴ
に研
究
一四
五
一四 六
いる挿絵入りの作品である︒六段本とは水谷不倒によれば︑﹁金平本の流行に起因し︑金平本に肖らうとして強いて浄瑠璃
正本
の如
く見
える
やう
に仕
立て
た絵
入本
﹂︵
﹁新
収絵
入浄
瑠璃
史﹂
︿﹃
水谷
不倒
著作
集第
四巻
﹄所
収・
一三
七頁
︶
であ
る︒
ま
た︑絵は︑菱川師宣・奥村政信・近藤清治らの作品が多いとされるが︑この﹃平治軍﹂の絵師については︑現在のところ
不明
であ
る︒
なお
︑﹃
国書
総目
録﹂
には
﹃平
治軍
﹄
の記
述は
見ら
れな
かっ
た︒
一方︑本文については︑柱の部分に﹁保元ノ七﹄とある事と︑﹁水谷不倒著作集﹂の目録に﹃平治軍物語﹄の他に﹃保元
軍物語﹄の書名が見えるところから︑﹃保元軍物語﹄と対をなして刊行されたものと推定できる︒このことは︑﹁平治物語﹄
の諸本が﹃保元物語﹄と対をなすものが多く︑古活字本はじめ︑江戸時代刊行の流布本も﹃保元物語﹄と一対で刊行され
たことに倣うものと考えられる︒
また︑﹃平治軍﹄は﹃平治物語﹄に本文上一致する部分が多く︑私見によれば︑とりわけ永積安明の分類する第十一類流
布本
との
関係
が深
いも
のと
考え
られ
る︒
そこ
で笠
栄治
﹁平
治物
語研
究校
本一
属﹄
︵桜
楓社
・一
九七
七年
︶
の流布本本文と比較
した
とこ
ろ︑
﹃平
治軍
﹂七
之巻
は︑
﹁平
治物
語﹄
の末
尾の
部分
に︑
一致
する
部分
が多
く︑
﹃平
治軍
﹄そ
のも
のは
この
巻之
七で
完結
する
もの
と推
定さ
れる
︒
上記のように︑﹃平治軍﹄は﹃平治物語﹂と本文上一致する部分が多いところから︑ここでは︑本文と﹃平治物語﹄の流
布本本文を比較し︑その異同の概略を把握することにより︑その性格についてふれておくことにする︒
第一に主語について︑﹃平治軍﹄﹁平治﹄共に大方の表記方法は似ているが︑﹃平治軍﹂は﹃平治﹄より主語を明示する傾
向が強く︑登場人物の名前を明確にしている︒
﹃平
治軍
﹄﹃
平治
﹄ の表記は一一六例が一致しており︑全体の約半数を占める︒中でも︑
流一重盛
六一重もり参て父に
のように人物名で表記している例は十六例ある︒
父の前に出給ひ
また︑表記が相違するものは一八例で︑
流一申せば兵衛佐
六一とひければすけ殿仰ける
のようにうち八例がほぼ似た表記となっていた︒
また︑七例が﹃平治軍﹄が人物名で︑﹃平治﹄が官職名・その他で表記している︒例えば
流一難波
自 日
申けるは
六一なんばの三郎つねふさふるい
など
があ
る︒
さらに︑﹃平治箪﹂にのみ明記されている例は十六例と︑﹁平治﹄のみに銘記されている例の四倍となっている︒
﹃平治軍﹄が﹃平治﹄をほぼ参考にして書かれているといえるが︑﹃平治軍﹄はさらに登場人物の名前を明らかにしてい る︒さらに作者の判断により︑主語の明記を決定している︒
これらの事から︑﹃平治軍﹄は﹃平治﹄の模倣ではなく作者独自の簡易な物語を描こうとしていると考えられる︒
第二に文章については︑﹃平治﹂に記載されている︑本筋から外れる場面を︑﹃平治軍﹄
では削除している︒例えば︑頼
朝が宗清に預けられた因果関係︵校本扇
二二
O七
1
二O一O︶といった人物の経歴・人間関係や︑眉輪王・越王の説話︵二
一一
七一
1二
九
O九︶といった噂話︑たとえ話等が﹃平治軍﹄では削除されている︒
六段
本﹁
市
γ
治軍物
一語
﹂翻
刻並
びに
研究
四 七
四 人
又︑内容に大幅な違いは見られないが︑文章が改変されている部分も見られた︒例を挙げると︑
流一手つからもととり取上てふところよりゑぼし取いたしひたときて
六一われとかみ取あげゑぼしをちゃくし
の様に内容は同じでも﹃平治軍﹄ではより短縮された表現となっている︒さらに︑
流一十三日と
六一みようみようご日と
等の様に日時を明確に表示している﹃平治物語﹄とは逆に﹃平治軍﹂は暖昧な表現となっている︒
逆に﹃平治軍﹄にのみ見られる文章に付いて見ていくと
流一子ともはおさなく
六一子尤におゐてはおさなし
といった強調する語句・段末等の他︑人物の心情が﹃平治軍﹄にのみ見られた︒例えば︑﹃平治物証巴では時葉御前の苦悩・
感謝の心情は﹃平治軍﹄では書かれていない︒しかし︑頼朝や頼朝への池禅尼の激励等が書かれている︒
以上を前提とし︑﹃平治軍﹄の位相を検討していく︒
﹁平治軍﹄は﹃平治物語﹄と基本的には内容・構想が同じである︒しかし主語の明示性・表記の面や︑文章の削除・表現
方法から﹃平治軍﹄がより簡潔性を重視した物語である事が明らかである︒さらに強調・暖昧な表現から︑﹃平治軍﹄が事
実を伝える為のものではなく物語・昔話の要素を含んだものといえる︒
つまり︑﹁平治軍﹂は読者の立場に立って作られた︑簡潔・平易な本であり︑﹃平治物語﹄を参考としながらも﹃平治物
語﹄とは違った別の物語として存在しているといえるだろう︒
平治軍物語
七之 巻
︵ 翻
刻 ︶
﹁初
オ﹂
其後其頃平治はかいげん有永りやく元年の春の比よし朝の三なん兵衛の介よりともはみの冶国大はかの長じゃがもとにま
しますが心に思召さる﹀は我此所に有ならば終にはかたきにさがし出されていけ取られんはぢてう也いかにもして東国に
くだりせんぞの家人共をもよをし今一たぴほんもうとげんと思召すでに出させ給ひしがもしも敵に見あひっ︑いけ取らる︑
か又は打死するとても我が身の上は力なし源氏重代ひげ切を平家の手へ取られん事こそ口おしけれとやせんかくやあらん
としあんして長者に近付此太刀は源氏重代なれば我こそむなしく成とても平家の方へ取られん事のざん念なれば御身をた
のみ候也おはりあったの大宮司はかねて御へんもしらることくよりともにしたしき人なればかしこへとずけ大明神のほう
でんに納てたべと兵へのすけが申せしとてたしかにとずけて給はるべしとであるしにわたし此程の御情忘れはせましさら
ばとて大はかを出給ひあつまをさしてぞ下らる︑か︑る所になむさんぼう清もりのしゃてい池の大なごんよりもり其此は
おはりの守とて今度のけんしやうにおはりの国を給はりその郎等弥平兵へむねきよ大ぜいうって通りしにはたと行あい給
ひけるよりともはっと思ひかさをかたむけ通り給へは宗清めはやきおのこにてすはすけ殿と見るよりもしらざるていにて
行きちがふふ︑ぜいにてゑたりゃあふと云ふま﹀に頓而いけどり奉り馬にうちのせ奉り都をさしてぞのぼりける都になれば
此由かくと申上れば清もり大きに悦びいしくもしたる宗清とてほうび給はり天きをうかがいちうせんほどはなんぢにあづ
け置との﹁
初ウ
﹂︵
挿絵
︶
﹁二
オ﹂
︵挿
絵︶
﹁二
ウ﹂
Lハ段本﹁平治軍物語﹂翻刻並びに研究
四 九
五 。
給へば畏て候とですけ殿をあづかり宿所にかへりすけ殿の心見んとや思ひけんよきにゐたはり奉り定而近きうちにうしな
はれさせ給ふベく候へば此上ながら何とぞして御命たすかり度は思召さずやと云ひければすけ殿聞給ひさんぬる保元にお
ほくのおぢしんるいをうしない今度のかせんには父も打れ兄弟共もちうせらるれば此上はそうほうしにもなり一もんのほ
だいをとふらはばやと思ふにぞいのちはおしきとの給へば宗清こつずゐに通てあはれに思ひそばちかく立よりさやうに思
召すならば愛によりもりの母上にゐけのぜんにと申は清もりの御ためにはけいぼにてましませ共清もりおもくしつし給へ
ば此あま君をふかくたのませ給は主もし御命計はたすからせ給ふ事も候べし此あま君は若き時よりじひふかき人にてまし
ますがタ部参り候へばなんぢかもとによりともとやらんが有ときくゐか成者ぞと御尋候ゆへ御年の程よりもおとなしやか
に候が其すがた右馬のすけ殿によくにさせ給ふと申ければょにゆかしげに思召たる御けしきにて候ひしかと云ひければそ
れもたれをたのみで申入ベきゃうもなし知何せんとの給へば宗清承りさも思百すならばかなはぬ迄も某申て見んと云まh
にいそきゐけ殿へ参り何者か申けん君を大じひしゃと開給ひあはれよりともが命を申たすけ給へかし父の後世とふらはん
と申され候事のいたはしさよ何とぞ然べきやうに御はからい候へかしと申上ればぜんに開給ひそれ程に此あまをじひしゃ
とはたれがしらせて有やらんされば古た冶もりの時はおほくの者を申ゆるして有けれ共当代はいかゾあらんされ共右馬の
介ににたるときけばむざんなり家もりだに有ならば鳥にもなりて雲をしのぎうをになって水にも入らいせにてあふべくは
只今し︑てもゆかまほしく思ふぞや扱よりともはいつ比切らる︑ぞとの給へ︑はみやう/\ご日と承り候と云ければさあ
﹁ 三
オ ﹂
らばかなはぬ迄も申て見んとの給ひて急き小松のしげもりをよぴ給ひよりともが此あまをたのみ命たすけよおやの後世と
ふらはんと申也余りふびんに候へば何とぞよきやうに申てたべ事に家もりがおさな立ににたるときけばなつかしゃ家もり
は御身のためにもおぢぞかしよりともをたすけていへもりがかたみに此あまに一め見せて給はれとてなみだと共にの給へ
ば重もりせんかたなくまづ申てこそとの給ひて立出給へばぜんにも御ざを立給ひぜひかならずとの給へばいさゐ心へ候と
てそれよりすぐにまいらる︑かのぜんにの御心たのもしき共中/\申計はなかりけり
第 企其後重もりは父の前に出給ひかゃう/\との給へば清もり開給ひいけ殿の御事は偏に古殿のわたらせ給ふと思へばたと へいか成ひが事の給ふ共そむくべしとは思はね共是はゆ冶しき大事也よしともが子共におゐてはおさなしとてもしさい有 ベき事ぞかし事によりともは官か︑いも兄にこゆるはゆ︑しき所があればこそ父も見る所有つらん家の重代もの﹀ぐ迄も あにをさし置あたへけめ此よりともにおいてはかたん\もってたすけがたきものぞとて以の外のけしき也力及すしげもり はいけ殿に参り叶ひがたき趣をいち/\にの給へばぜんには開あへ給はず泊とともにかきくどきあはれ恋しきむかしかな 忠もりの時ならばかほどにかろしめられ候まし源氏の一もんほろぴはてあのおさなき者弁二人たすけ置たりとていか計の 事かはんべらん此あまがさきの世によりともにたすけられてや有つらんかくと聞よりいたはしく我か身にかゑてふびん也 かくいへばとて御身をおろそかとは思はね共ひとつは又使がらと申事のはんべるぞやぜひになげきて叶はずは力なし此あ まがおしからぬ老の身のかいなき命ながらへなにかせんよりともゆへに家もりが事の思はれてむねふさがりゆ水もいら
﹁三
ウ﹂
︵挿
絵︶
﹁四
オ﹂
︵挿
絵︶
﹁四
ウ﹂
ねはみづからとても久しかるべし共思はれすあまがいのちをいかさんと思はればよりともたすけて給はるべしさなくはか れより先にきへなんとて天にあをぎちにふしてなきくどきあこがれ給へば重もりはめいわくしあきれはて︑ましますがさ ほどに思召すならば御でうの趣今二度申てこそ此度はよりもり殿をもそへらるべし諸共かたり申さんとてよりもりも打つ れて西八条へうちこへかくのよしをの給へば清盛もさすがいわきならねばあんし煩給ひけるしげもりかさねて女性のいわ げなき御心にひたづら思ひしづみて仰られ候をば知何仰候べきもし御せういんなくは御うらみふかく候はんより朝一人ち うせられ候共御うんつきなばしよ国の源氏いづれか敵にならざらん又たすけ置れ候共御くわほうあらばなんのおそれか候
六段
本﹃
平治
軍物
語﹄
翻刻
並び
研に
究
五
五
べきとの給へばながきしやめんはしれね共近き日取はのびにけりよりともは聞給ひ偏に氏神八まん大ほさつの御たすけ也
とていよ/\しん/\あさからず一日も命のびん其程は父のほだいをとはん其為に弥平兵へ宗清にちかづき小刀と木のき
れをこはせ給へば宗清あやしみ是は何ゆへの御用にやととひければすけ殿仰けるはきれば天下にもの思ふ者は我にまさる
人あらじこぞの三月母におくれ今年の正月父打れよしひらともながにもはなれ奉りたれば此人々のためにちいさきそとば
をつくらばやと思ふゆへぞかし父の四十九日もちかければくぶつせそうのいとなみこそはかならずとも御経也共一筆かき
ゑこうせばやとの給へば宗清かんし奉りちいさきそとば百本つくらせ奉ればみづから御経しよしゃなされ有そうをたのみ
くやう有こそあはれなれいけ殿はかゃうの事共開給ひゐよ/\申させ給へばるざいにこそはさだまりけるはいしよはいづ
の国にきはまればいけのせんにはよりともをめされ御たいめんまし/\て泊をながしの給ふはきのふ迄もおん
﹁ 五
オ ﹂
身ゆへにこそ心をくだきしかは有てまづ命っ︑がなくはいしょに趣給ふ也わらはとしおいあすをもしらぬ身にあればいづ
くのうらにまします共かならず忘れ給はずは念仏の一へんもあまにゑかうおはしませ何にでもふそくなる事有ならばより
もりにの給へや今生のたいめんは今計さらば/\との給へばよりとも聞給ひ御思にてこそかいなきいのちたすけられ奉り
候事しゃうハ\世々をかさねてもいかでかほうじ奉らんそれにつゐてもはる/\の道すがら我がかたさまの者とでは一人
も候はねば如何仕らんとの給へばげにそれはいたはしゃふだいの家人は身をかくし有べき也なだめられてあづまへ下ると
ひろうして見給ふべしとの給へば頓而かくとひらうし給へばあんのごとく愛かしこより少々参りろしの御供申けり其中に
かうげつ源五もりやすはすけ殿のみ冶にさ︑やきゐかに人の申共かならず御かみをろさせ給ふまし君のたすからせ給ふ事
たず事に候はず八まん大ぽさつの御はからいにて候也某がをもひ合する事候へば必と申せばすけ殿心へたりと打うなづき
ぜんに︑御いとまごひまし/\ていけ殿を出給ふより朝の心の内うれしき共中/\なににたとへんかたもなし
第
A a
其後比は永りやく元年三月廿日兵へのすけよりともはしゅごのぶしにかこまれですでに都を出給ふ介殿仰けるやうはそれ世の中のるにんは大きなるなげきとこそは申せ共今よりともがるざいは身にあまる悦び也との給へは人々げにもとかん
じけりよし朝の御子あまたまします其中に此よりともはおはりの国あったの大宮司すへのりがむすめのはらに男子二人女
子一人おはします女子は後藤兵へさねもとがあづかりより朝の御代の時一条二位の中将殿の北のかたにならせ給ひし姫君
也今一人のなんしは後とさのくわんじゃまれよしと申せしよりともの御しゃてい也かくてせたのはしを
﹁五
ウ﹂
も打わたりかしこを見ればかみすみあれたるやしろ有いか成神ぞととはせ給へばたけベ大明神と申けるさらば今宵は此ほ
うぜんにつや申いのりをかけんとの給ひてしゃだんにとずまりふかくきせいかけ給ふ人しづまりでよりやすは介殿のそば
ちかく立より某都にて御出家ならせ給ふなとかたくとずめ申せしは君池殿ゑ入らせ給ふ折ふしにふしぎなるれいむをかう
むり候也君八まんぐうへ御参り有けるに某御とも仕り御うしろにかしこまり候所にいづく共なく十二三計のどうしの弓矢
をいだひて御内ぢんに向ひよしともが弓やをめして参り候と申さるれば御内ぢんよりさしもけたかき御こへにでふかくお
さめ置ベし終にはよりともにゑさせんするぞや是より朝にくわせよと仰らるれば天どう何かはしらず持出て君の御前に置
せ給ふを何なるらんと見奉れば大き成のし也君おそれでさうなく参らざればそれたべよと仰けるかぞへて御らん候へば六
十六本有けるを両の御手にておしにぎりでふとき所を一一一口まいりてちいさき所を某になげ給ひしをくわいちう仕ると存れ
ば夢はさめて候也かうの殿こそ一たんでう敵とならせ給ひ候へ共御弓やをば八まんの御ほうでんに納置れつゐには君に給
はらせ給はんとの御事也又うちのし六十六ほんは日本六十六ヶ国を御手にもたせ給はんずる事︑ったがひなしと申ければす
け殿しんふくし給ひてすでに其夜あけければあつまをさしていそがる︑あふみ国も過行ばいかになるみのしほひがたふた
むら山やみやし山はまなのはしを打わたりさよの中山うつの山見てこそゆけばみやこにてなにのみき︑しふじのねの高ね
の雪をうちながめゃう/\ゆけば程もなくいづの国になりしかば伊藤のなにがしうけ取てよきにしゅごし奉る介殿の心の
うちこそあはれなれ是はさて置ことにあはれをとずめしはよしともの
六段本﹃平治軍物語﹄翻刻並びに研究
一五
三
一五 四
﹁六
オ﹂
北のかたとき御ぜんにてとずめたりかうの殿におくれ給ひてせんかたなきにも忘れがたみにいま若おと若牛若とて三人の
若君になぐさみてけふ迄かくてましませ共今もや敵に取られんとやすき心もましまさずさればとて立忍ふべきたよりもな
く身一つだにかくしがたき世の中にまして三人の若共を引ぐしてはたれかしばしも宿すべきこは如何せんとなげきかなし
み給へ共さて有ぺきにあらざれば年比たのみ奉るくわんぜをんゑ参らんと三人の若君たちを引ぐし清水寺へ参らる︑八つ
になる今若を先にたて六さいのおと若が手を引ことし二才のうし若をいだきっ︑たそかれ時に立出てたどり行こそかなし
けれ仏ぜんになりしかは二人の子共を左右にすへなむや大ひのくわんせをんみづから九つの年よりふかくたのみをかけま
くも毎日三十三くわんのふもんぽんよみたてまつるりせうにはわらはが事はともかくも三人の子共の命あんおんに守らせ
給へとふしおがみ其夜はほうでんにつや申夜もほの/\とあけければ御前を立出てやまとぢを心さしみなみをきして行水
のながれとずまるかたもなくしばしはこ︑にふしみのおばごせたのまんとかしこへ立より給へ共むかし源氏の大将かうの
殿のみだひ所と云ひし時こそあれ今は引かへむほん人のさいしとて平家の聞へもおそろしくおばはるすとておい出すは情
なふこそ見へにけるすでに其日もくれければ立よるかたもあらいその泊ひまなき道しばにたおれふし二人の若君こへをあ
げなふつめたやかなしゃ母上とてたおれふしてぞなき給ふ母はめもくれ心きへともにたへなん露の身のつれなき命うらめ
しゃとおや子諸共ふししづみ給ひしをあたりのしづのめ見参らせ情有者なれば余りに御いたはしく思ひ奉りしつがわらや
にともないよきにゐたはり参らせてそれ
﹁六
ウ﹂
︵挿
絵︶
﹁七
オ﹂
︵挿
絵︶
﹁七
ウ﹂
よりやまとの園︑ったのこほりりうもんといふ所へおくりとずけ奉ればおぢをたのみて愛に忍びておはしますときわ御ぜん
の心の内あはれ共中/\申計はなかりけり
第 四
企其後六はらにて清もりは侍共をめされよしともが子ともときわ腹に三人有いつれもなんしと聞けるが母諸共に落︑っせて
ゆくゑなしとのふうぶんなりさあらばときわが母をめし出しかれらが行へを尋べし急ぎつれて参れと仰ける長て候とて頓
而宿所へおしょせらうほを引立参りける清盛見給ひゃあいかににかう御身がむすめのときわ三人の子共を引ぐしおちたる
よし聞て有いづくへ行けるぞ有のま︑に申ベしすこしもいつはる物ならばがうもんしてとふべきぞゃいかに/\と仰ける
老母聞てさん候ときわはかうの殿打れさせ給ふと聞子共引ぐしいづち共なくまよひ出て候へばいかでか行へをぞんぜんと
事もなげにぞ申さる︑清もり大きにいかつてやあしらぬと申かおや子の聞にいかでかしらぬ事の有べきおのれは此清もり
をあなどりさゃうの事を申かやそれ/\是悲あらそはばがうもんしてもいわせよとて大のまなこにかどをたてはったとに
らんでの給へばにかうから/\うち笑ひなふいかに清もり殿いかにはらがたてばとてさすが平家の大将といわる︑人が六
十にあまるあまに向てげう/\しき有様はさりとはにあい申さぬぞやまづ思召ても御らんぜよむそぢにあまりけふあすし
︵ ママ ︶
らぬ身をおしみいまだ若きむすめやいとけなさまごともをそにんしてかれらがいのちをいかでかうしない申べきたとへぞ
んしたり共申ましきにましてしらぬ事をばなにと申上べきぞや此上はかうもんにでもなににでも心のま︑におこない給へ
ゃいのちよりほか取らる︑ものはもたずとて其後ものはの給はす二座のさふらひ是を間あつはれかう
﹁八
オ﹂
なるにかうかな源氏によりそふものはゑんるいゑんじゃのによしゃう迄もかくもかうに有けるかとほめぬものはさらにな
し清もりもあきれはてまづ/\めしこめおけとの給へば畏て候とてしばらくかしこへ入置ける是はさて置やまとのうだに
おはしますときわ御ぜんは此よしをったへき冶あら浅ましゃ母うへの御ために我こそうきめにあふとても我ゆへに母にく
るしみかけん事思ひもよらぬ事ぞかしさぞや仏神三ほうもさこそにくませ給らんいざや若ともこなたへとて三人の子共引
ぐして都へかゑりのほらる︑心の内こそあはれなれみやこになればすぐに六はらへ参りばんの者にちかづきわらははよし
六段本﹃平治箪物語﹂翻刻並びに研究
一 五
五
一五 六
ともがつまときわと申者なるがおんなの身のはかなさはおさなき者共のもしゃいのちのがれんと身をかくし候へ共とがも
なきおいたる母をめしこめらる︑と承りさてこそ出て候也おさなきもの諸共にわらはがいのち取給ひ老たる母をはや/\
ゆるして給はれとてなみだとともにの給へば番のさふらい此よし申上れば清もり立出たいめんし子共引ぐし参らる冶条し
んべうなりとの給へばときわ御ぜんは二人のわかをばさうのわきにしたがいうし若をいだきなみだをおさゑての給ふは老
母はもとよりとがなきみにてさふらへば御ゆるし有べき也子共がいのちをたすけ給へと申さばこそ一じゅのかげの雨やど
りおなしながれをわたる迄いづれかおとり申べき我らはは此若共をうしなゐてはへんしもながらへ申まし此上の御じひに
はまづわらはをさきに切らせ給ひて其後に子共をばともかくも御はからひ候はぱ今生の御なさけのちの世迄の御りやくに
て候べしとかきくどきの給へば六つになるをと若丸母のかほを見上げつ?なかでよく申させ給へと云ひければ母はいよ/
\なみだにむせばる︑是を
﹁八
ウ﹂
︵挿
絵︶
﹁九
オ﹂
︵挿
絵︶
﹁九
ウ﹂
見てさしも心つよき清盛もしきりになみだのこほれしをおしのごひ/\さらぬていにもてなし給へばさすかにたけき兵共
こぼる冶泊をおさへかねざしきを立人おほかりけりときわは今年二十三こずへの花はかずちりですこしさかりは過れ共み
めかたちょにすぐれ思ふ心をそのま冶にかきくどきの給へばみどりのまゆすみくれないの泊にみだる︑のみならず此程の
物思ひにうちしほれたる有さまはたとへて云はんかたもなしげに此ときわ御ぜんはぴ人千にんの中より百人ゑらみ百人の
内より十人すぐりその十人の中の第一とすぐり出されたる女性なれば申もなか/\おろか也か︑る所へにかう立出見るよ
りもこはうらめしきときわかなおいの命をたすけんとてなにしに出ては有けるぞおことら四人をうしなひて老たるあまが
跡に一人残らんかゃうらめしのときわやとていたき付てぞなき給ふ清もりもせんかたなくよしともが子共の事は清もりが
わたくしにはばからいがたしせんしにこそはまかせめとの給へば一もんの人々一座の兵共是はいかに御心よはき仰也すへ
の世の御敵はれきぜんなり是は/\といひけれ共清もりいや/\是よりおとなしきよりともさへいけ殿の仰にてたすけ置
上はあにをばたすけ弟をばちうせん事はひが事也との給ふ事ひとへにくはんおんの御りしゃう也とておや子の人々いよ/\
しん/\浅からず此人々の心のうちうれしきともなか/\申はかりはなかりけり
五第
A其後清もりはときわに心を︑つつし給ふゆへちかきあたりに取すゑてかよひ給ふと聞へけりときわ御前は道にもあらぬ事
なれ共三人の子共がいのちたすけんため計にはぢもちじよくもかへり見ず我が身をすて︑清もりのせうと也給ふゆへにこ
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比は仁安二年十一月清もりやまひにおかされ年五十一にてていはつし法名じゃうかいとそ申けるげにも出家のくどくにや
病気次第に本腹し給へばよく年の七月七日つの国に聞へたるぬの引のたき見物せんとて清もりはしめ平家の一もんらうど
う共下らる︑なんばの三郎は此程ゆめみあししとて御供せざれば弓取のゆめみ物いみにあはざるとてわらひたてられつね
ふさげにもと思ひあとよりおいっき参りける清もりはじめ人々たきつぼにのぞみさてもけう有たきかなとてをの/\かん
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にらみつけあしく切らばいかづちとなりてけころさんとてにらみしまなこねればゆめさむればうつ冶をもかげにつねに見
ゑて候がひといのゆめにつゐにいかづちとなりけころされたりと見候と云ひもはてぬにくろ雲一むらつねふさがうへにお
ほふと思へばからかさ程のひかり物大地もくづる︑をとにておつると思へばむざんやっねふさはみちんになって死にけり
此ひかり物なをうせず清もりの方へとびけれ共おりふしこうぼう大師のじひつのしんぎゃうまもりにかけられしにやおそ
六段本﹁平治軍物語﹄翻刻並びに研究
五 七
五
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しきたりうし若すでに十一才になり給ひっね/\母の云ひしを思ひ出し家のけいづを見給へば清和天わうより九代のべう
ゑい六そん王
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︵挿
絵︶
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挿絵
︶
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はん為よしのちゃくなんさまのかみよしともの子なればあつはれたれにかおとるべきいかにもして平家をほろぽし父のほ
んもうたっせんと思はれけるこそおそろしけれさるによってぶげいに心をょせそうじゃうか谷にかよひ天ぐにちかづき兵
法の大事をならいはやわざとびわざなとは人げんのしょいとは見へざりけり比はぜうあん四年三月三日御とし十六と申に
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みの国かずみのしゅくにつき給ひわれとかみ取あげゑぼしをちゃくしみづから源九郎よしっねとなのりそれよりいづの国
になりしかばしやきゃう兵衛のすけよりとも其比は北条の四郎時正がたちにましませばひるが小嶋へ打こへよりともに御
たいめんありあふ州へくだりひて平をたのむべきよしの給へばよりとも見給ひ御身二才の春の比みたるばかりなれば父よ
しともの二たびよみかゑらせ給ふ心ち也まして御身は一一才の時なれば父もをほへ給ふまし此よりともをかうの殿と思はる
べしとて泊にむせばせ給へばよし経もむかしの事はしらねとも兄ときけば今さらに父よし朝の恋しくてともになみだはせ
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郎清ひらが孫なれば源氏ふだいの郎等なれ共もとより出羽あふ州両国の大将なれば其ゐせいおびた冶しくた︑今御へんが
供をもつれず行ならばひで平が郎等共取っぐ者はよもあらじこ﹀に一とせかうの殿のめしっかはれし女ほうあふ州にくだ
り佐藤しのぶの庄司もとはると云ふ者のつまと也
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﹂ 子共二人三郎次のぶ四郎忠信とて二人子共出来もと春をばひで平が大事にするときこゆればまづもと春が方へ打こへゐさ いかたり給はぱ女ぼう昔を忘れずおっとをす︑めてひで平へ取持ベしぞとをしへ給へばよし経ゐさいにだんこうしそれよ りもたがいにいとまごひましくてあふ州さしてそ下られけるよりともよし経兄弟の心の内何にたとへんかたもなし
第六企去程に兵への介よりともはさんぬる永暦の春の比いづの国へながされ給ひきのふけふとは思へ共廿余年の春秋をおくり
給ふ所に治承四年に至り思はざるにもんがく上人のす冶めによってご白川の法皇のいんせんを給はり北条はしうと也とい っちゃ三うらおかざきをはしめげんしふだいのか人共をもよをし同八月十七日いづのもく代ゐづみの判官かね高を夜︑っち にしそれより石ばし山やこつぼきぬがさ所々のかせんに身をまったふしてあわかづさのせいをつけひたち下総をしたがへ むさしのくにへ打出給へば八ヶ国の諸侍もとよりげんし相でんの者共なれば我も/\とはせあつまり其せいすでに廿万ぎ と成給ふ然ればときわ腹の今若殿たいごのてらにましますが介殿むほんときくよりはやく男に也あくぜんし吉久とかい名 しはせ下り給ひけり扱源九郎よし経はいつぞやよりとものおしへにまかせ佐藤もとはるにたよりひで平を頼てましますが 介殿ぎへゐをあげたまふ由聞給ひ大きに悦び秀ひらにかくとの給へばひで平がはなむけにこん地のにしきのひたたれにく れないすそこのよろひにこがね作りの太万をそへ御馬は御用にしたがってめさるべしとぞ申けるそれよりしのぶにうちこ へ給へば佐藤庄司悦びちゃくし一一一郎次のぶこなん四郎忠信兄弟の子共を御供に申付ればよし経ゑっき浅からず夜を日につ
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六段
本﹃
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がきかずみの次郎秋山あさかなんぶしも山我も/\とはせ集りふじ川のかせんに打かち平けを都へおいのほせ給ふ所にす
の又のかせんにこそあくぜんじ士口久打死し給ひけり扱頼朝はかまくらにとずまり御しゃていかばのくはんじゃのりより九
郎よし経兄弟を大将にて都へのぼりきそよし仲をちうりくし夫それよりさい国に下り平けをたいぢし給ふが頼朝はかねて
よりいけの大なごんよりもりへ内?っし古いけのぜんにと存奉り候へば都にとずまらせ給へと有ゆへによりもりは都にとず
まり給へはより朝悦び本領は申に及ず金銀は山のごとくしん上有其外弥平兵へ宗清を召下し所領給はり今より朝が天下の
ぬしと成事は偏に古いけのぜんに︑たすけられ奉りしゅへなればよりもりの御事は申に及ず宗清も心にかなはぬ事あらば
此より朝に申べし叶へてゑさすべしとの給へは宗清有がたし/\と御いとま給はり都へこそはかへりける担又おはりの国
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治軍
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六段 本﹁ 巾
T治軍物語﹂翻刻並びに研究
(十一オ) (十ウ)
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︵参
考文
献一
覧︶
﹁絵
入平
治軍
物語
七ノ
巻﹄
︵う
ろこ
がた
や版
十一
一一
了十
六版
本・
大妻
女子
大学
図書
館所
蔵︶
笠栄治﹃平治物語研究校本一一﹄︵一九七七・六−一一十桜楓社︶
黒木勘蔵﹃浄瑠璃史﹄︵一九四二了十二・1十青磁杜︶
祐田義雄﹃浄瑠璃史論考﹄︵一九七五・八・十中央公論社︶
佐藤喜代治﹁国語学研究事典﹄︵一九七七・十一・五明治書院︶井伏鱒二訳﹁現代語訳﹃日本の古典﹄十四﹂︵一九七九・五・十河出書房新社︶
国史大事典﹃国史大事典﹂十三︵一九九一・五・一二十古川弘文館︶
編集委員会日下力﹁古典講読シリーズ﹁平治物語﹂﹂︵一九九二・十二・七岩波書店︶
児玉幸多﹁くずし字解読辞典﹂︵一九九八・八・二十東京堂出版︶
なお︑翻刻基準は丁移り表記を除き︑八文字屋本研究会編﹁八文字屋本全集﹄︵二000
・十
完結
一 六
四
汲古書院︶のそれに準じた︒