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『宗教研究』第3年第9号(*9号)

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(1)

――目次―― 1,大乗仏教興起の一面観,特に仏蔵経を読みて,宮城信雅,Shinga MIYAGI,pp.1-24. 2,支那の石経,松本文三郎,Monzaburō MATSUMOTO,pp.25-70. 3,弘法大師につきて,神山諦鑁,Taiban KŌYAMA,pp.71-106. 4,讃美歌にあらはれたる基督教の信仰,青木誠四郎,Seishirō AOKI,pp.107-138. 5,フィロオ考,比屋根安定,Antei HIYANE,pp.139-168. Posted in 1918(大正7)年

(2)

取回−¢起興敦併発大

宮 城 信 雅

大乗係数の興起に就てほ、数理史上よゎの見方、即ち法身思想の発達とか、哲嬰的本鰹諭の

撥達筆言方而よりの見方と、敦骨史的方面よ♭の見方、即ち散開内部の事情、乳轢とか分裂

とか云ふ方面Jてソの見方とがあると息ふ。勿論数理史と致骨史とは、相互密接不離の銅係があ

ゎ、数理の発達が致固の分裂を促し、致圃の分裂の結果、数理は自由の発達を蓬げるに至った

事であろうが、少なくとも数理を中心としての見方と、致骨を中心としての見方とがあると恩

ふ。龍樹も智皮諭節首巻に於て、怖法は一都一塊音韻解脱門であるが、此菩競解版門に但自身

大乗彿教典起の一両観

︵特に体液脛を譲みて︶ _.・・・・・.・_ J −

(3)

戟九終 年三軒 先軒数采

の為にすると発て一切衆生の劣にするとあり、故に大小二痍の差別が生じ化ので、此二称の人

の鰯に、彿は三蕨拳闘放と摩討紆大乗法とを説かれた︵往五一。五︶と云ひ、一般に大衆は自利利他

の故にして小乗は自利の数なゎと云ふが、是は数理上の見方と云ほんー㌣りは、峯ろ散骨の賓際

問題−†り見たものではないかと思ふ。

教理の上より見て、阿含部の経典等に、何魔を見ても自の食めにすべし他の承めにすべから

すとは云ってゐない。のみならす阿含部の本文に眈に大桑なる文字が現はれて居り、英字鼓は

大なる乗物の義にして、此大社る乗物に爽じて世食も成道し、又一切人天を比して捏柴の彼岸

に敦らしめんと云ふに外ならなかった。

俳瓜梅舶帥 法橋淡河沖 火乗法之畢一切汲天人 亦鑑日脚結 彼岸柑昇側

部彼繍弟子 紺仰柑浬鷹 ︵長阿合遊行紆、灰九机J

げに彿ほ放漫の船師となり法の橋とばゎ、自ら結を解きて彼罠に至ると共に、一切人天を圧せ

んと云ふ大雪駁を立てられ、此一切人天をして成俳担架の共に至らしむる桑撃jそ、大衆と名

くべきものであつた。一系の放と云ふもの亦此大乗にして、三世の諸彿同一乗によりて正兜を

成じ、衆流の大海に蹄するが如く、一切人天をして此一系の正道に乗じて、解脱の彼岸に至ら

ー ク __.

(4)

鱒押一の起単数彿舞木 しめん︵♯河合、辰四払ムごとの大柿翻であつた。 然らば此大桑一乗の正造とは何ぞやと云ふに、伐って以て担架滅諦に入るべき遁辞八正道 に外ならぬ。是によりて見れば、元雑犬癖とは頂飴価故に於ても成仰の致と云ふ事にて、乗は 郎連接の義掟れば、賓践修行をはなれては北ハ志茂なきものである?抑も彿致は宗教として起れ るものなれば、ゝ英日的は解脱捏柴にあり、而して解脱担架は是れ理論の問題に非すして賓践鰹 巌の極地である。此盤想の極地に達すペき八正道大桑を、北ハに進む偶数の致願は、雄阿含粒井 田にも云−へる如く、沙門魔轟のみが正党を成するものに非す、比丘。比丘尼¢優姿塞。優姿英、骨 大雨水の下に流る∼如く、俳法笹二軍平等法中に流入すべきものであつた。︵璧一一。ニ︶賓に無上 正眞道中、杵姓を撰ばざる︵灰九三こ四楳姓四衆、悉く流入する仰陀の旗大なる慈悲理想が、即 ち大乗にして、此意味の大東は、所謂小乗それ自身、否虎く偶数の理想にして、数理上より、 後の所謂大衆のみが自利利他成彿の致にして、小乗は自利孤調解脱の′維洪の敢行7りと云ふたり するのほ普を待た事ではない。然しながら、此平等普化の大乗の理想が、果して完全に行はれ ていつたであろうか。不孝にして此理想は種々の数個の事情により完全に行はれなかった。是 が秀め後に督時の彿敢を小乗備致として破斥し、大乗彿致が、新たに旗臓を研さねばならぬ串 ■■■・− √) J −■■■■ ̄■■■■■■■■■■■ ̄■■■■■ ̄

(5)

戟九霹 年三界 究軒数素 傍となつて凍たのである。 今此大乗偶数興起の事情を、致界の貿際問題より考察し、特に彿蕨経の思想に現はれたる昔 時の事情を考へて見たいと息ふのであるが、此問題に入るに発ちて、順序として敵国分裂の事 情を概観する必要がある。

俳滅後、 内部に数理上の差異を生じたる事は、勿論大なる原因をなしたものであろうが、戒律に封する 異静ほ、又是が原因を注したるものにて、節一結集後に於ける、富棋郷の食物に闊する八串の 異秩や、彿滅後宮年に起ったと云はれてゐる十串の非緋の如き、極めて小成偶の串にして、今 日より見れば重大問題でもなき楼であるが、常時にありては叉正大ける意義の存する事であつ た。是れたゞ八串十箪の問題に非ゃして仰の制戎に対する椒本的態舷の相異を示してゐる事に 注意すべきである。 抑も件の制戎の意義を考へて見るに、俳故に於ては、成定箪二撃を以て彿造の門な総じてゐ ・一 心 ー

(6)

粧画一 ¢起異数併発大

るので、人間精帥の意情智の三方南の修養に該督するとも見られ、一切彿道の門に入るものゝ

畢ばざるべからぎるものにして、戒撃は人間の意的方面抑止恵修善の道徳的方面を修養するも

のにて、八正道中にては正語正命是にあたゎ、粒中に説かれたる五戒十善戒の如きもの是にし

て、律なる牒のは、此或拳が二百五十戎と云ふ如き細目の致糊の規定となりて現はれ、律就に

於て特に述べられてゐるのである。威撃の租本精醐は普遍的のものなるが、敵国の規定と行アり

て表はれたる律なるものは、敵国の和竺敦と世人の恭敬を現せすして、正法を久住せしめん虜

めに時宜にー㌻りて制せられしもの稔るが承に、少々戎の如きは時宜によりて改めらるペき性質

のものであつた。即ち五卦撃二十︵撃一竺五首集法の中には、戒律結集に際して阿難迦来に督て

日く、

我親促彿閉、曹般泥檀後若欲除小小戒賠除。

四卦律五十四︵列六吾︶にも、難砕或は除く拳を捜された事を述べてゐるのは、正に律の性質上

然るべき事と息はれるが阿難が其少々戒とは如何なる性質のものなるかを確かめぎりしは非常

な失策にして、是に封する迦実の態度は、一皮俳の命せられ柁るものほ一切是を麿する事なく

貯をして宙法によちて身を律せしむべしと云ふにあつた。其理由としては、若し今体制する律

二==丁 5 −

(7)

耽九妨 年三界 究軒数宋

中或ものは尭を軽少律として廠するならば、世人は沙門龍曇は弟子の演に数学ぎ説き是を弘致

せしむる事僅かに入滅の時に終ると云ふべし。叉今若し小分なりとも鬼を改むれば、漸次塵宣

する事と行7りて伶閣の統一ほ不可能の事となるであろうと。質に迦尭の考は致l朝の分裂を防ぐ

事とせ人の告崇を失はない串とであつた。然し質際迦菜の読が蕾時散骨の分裂を防ぎ、政人の

隼崇を共はない虜の最上のものであつたにしても、此戒律の形式ないつまでも永遠に有せしめ

んとするが如きは、俳制戎の本家の主意ではないのである。されば此帖五百の比丘が悉く此提

議に心服したかは疑問であつて、現に此結集の直後、冨捜邪は進化地より据ゎ凍らて、食物に

関する八事の異構を生じて基異見融和せられす、尤より以凍戎相克容派と戒律厳守派とが政界

の内部にム∵りて撤み合ってゐた事な想像し得るも■言・にて、悌減後百年に起れる伐地何と耶合と

の偶の十串の非律問題の如き、亦此両派の節と見る串が出凍るゥ北ハ粘北枕合離骨清に於て、十

串は非待と決議せられ、表而解決せられたる如きも、この保守思想のー自由思想に封する駆迫は

却て自由寛容派の反抗的精紳を刺戟して、大衆部の分裂と丹rり、次第に革新的思想を興起して

南停や眞席三減の部執輿論疏に現はれたる如く、大衆部の鉱姓となり凍ったのである。

兼備は前件の律の卦異に禿きむ置けるに反し、法の介異に警妄揖ける鵠、触本所部の分派

∵ (】 −γ

(8)

厭 市一 の 起輿数悌発火 は大天の五串に蹄せるが、先に十事の非彿に於て敗北に辞した大衆部が、法に於て勝利を特化の ほ興味ある串にて、十事の許は五分律︵諦凹㌔︶北ハ他に、彿減後百歳の轟となし、大天五番は興 部浣輪諭︵顕凹机六︶には彿減後百除年とあり、又部執輿論︵就農。︶には彿滅百年を過ぐる事十六 年と偽る遡より見れば、茄事の事は十黎の非祥に湿るゝ串吏に数年後の現象にして、革質上よ り考ふれば、十郭の諦に於て巳に部執を有してゐたものが、更に大天の五事の勝利によらて、 形式上の分裂をなすに至ったものと想像し得る。 兎に角此奴本両部の分裂の節∵歩は、戒砕巌守派と戒律寛容涯との小威儀の諭諸に在ったの で、督時戒律の改革は.驚に茨大なる開祖にて、いかに戒律掠茄主義が行はれてゐたかを知る べきである。されば此十串の非律五郎の非法に於ける大衆部の主張、特に北ハ大衆部の結基に放 ては、賓に大脇なる部菜をなしたもので、此上座大衆二部分裂、特に大衆部の結集が、後世の 大小乗の区別を生するに至った節一の散骨史的意義を乱す島部である。 三 かくの如く教団の分裂せる精巣は、戒律の形式を辛正せる保守主我の代表者たる上座部が、 ー 7 −

(9)

幼九第 年三弟 究軒数余

一方に勢力を占むると同時に、他方薪に分裂したる戒律寛容汲自由思想派なる大衆部が、次第

に勢力を占め、後世の大桑彿敦を彷彿せしむる数理上の発展をなし、特に戒律の方面賓践の方

面に於ては、部執異論琉に現はれたる鶏胤部の如く﹁三衣あらて身を覆ふも、三衣身を荏ふ捏ござ

も、伽藍虞に任するも、伽藍庭に任せぎるも、是時食するも非時食するも彿是な許す、律は眞

貨の数に非す、正理によりて精進造を臆し、煩悩を断せしむる串﹂を主眼とし、些細なる聾理岳

討究や区々たる戒律の形式は、此部のとらぎる虞、依託の要は人をして蓮に解脱せしむるにあ

る串を主張し、修行を重んするとは錐も、上座部の従の如′、、一社の因縁によら規定せられたる

戒律に拘泥する串なく、大衆部仝腔に通ずる心性本浮、客塵煩惰之所雛染、読点不評と云ふ訟を

根底とせる、合理的なる大乗的賓践説ならし串を想像し得るのである。又読暇部の如きは、興

部采輪諭︵蔵四机七︶によれば、諸行粕待因縁和合によゎ出で凍ったものにて、遣は⋮叫に持戒絆定

等の修行によゎて得られす、善行福徳を存する軒によりて縛らるると説き、道を修すと云ふ黙

にて鵜胤部と稀其詮を異にする如きも、笹々・花る理論戒律の消極的保持に満足せす、進んで積

極的大乗的賓践道徳を説く彪、基揆を︼にせるものにて、かゝる思想が大衆部に生じ凍わ、又

阿育玉出でゝ係数を叔底とせる道徳の上に立ちて、国家を統御せられ光る常時は、伺確かに構

ー β _−

(10)

穀 雨− の起輿政俳衆大 陀大患四衆普化の抱擁的柿紳は活躍してゐたが.仰減後二三百年頃よら次第に大衆部が勢力を 失ひ、是に反して上座部が次節に勢力を得るに及びては、又此粍紳は次節に衰へて行った楼で ぁる。即ち大衆部が常に自由思想を以て竃を捨て∼新につかむとする傾向を持ってゐたから、 葡凍の停承的説明に硝足せす、新なる解繹をとらて次第に数理の辟展をなし、戒律の異論を生 ずるに及びては、勢ひ小派の卦裂を生じて和邸ふに至り、従って却て其勢力を失墜していつ た。此間上座部にあゎては、異型よゎも敷設や戒律を重んじ、ひたすら停承によゎて威儀を正 しくし、世人の非難の生せぎらん串を努め、固定せる数理と戒律とによゎて、俳滅後三万年頃 迄統一を保持し勢力を養ってゐた。 彿滅後三百年頃よゎ、次節に小沢の分裂するに至ったが、英一況たる布部派が政界の牛耳を 取る様に打アサ、俳滅後三百年代に出でたと云はれてゐる迦防延子の忍智諭を初め、迦肌色迦王 保護の下に陀婆沙諭の編纂されるに至るまで、其間世友・妙音・汝救・党天・脇令者等の大穂輩出 して、大いに有部派の隆盛を極め、恰も彿敦の正統仮の如き観を呈した様である。然れ共此間 布部汲にては、他の米沢と数理上の談論をなし、是を披して自家の基礎を定めんとせる粘果、 数理は愈々頗墳に流れ、叉上座部本務の主張たる戒律厳守の思想は益々固定し、動きのとれな −・・・・・・・・・・・・・・・・ク ・・■−・

(11)

披九●歩 年三弊 発駅′改宗

い二秤の致権を形成していつた。

世親の彿性諭︵要㌫四︶には、薩誓夕部の俳性諭をときて、批曇薩婆多諸部説によれば、一切

衆生性得彿性ある事なく、但修得俳性あゎ、一朗提重禁を犯すものは無体性にして、修行の如何

に、ふ人ソて待らるゝは不定性と云ひ、定有俳性とは、即ち三乗の人にして、壁間は北ハ忽より以上

狗党は仕法よゎ以上、書房は十回向より以上彿性一箪得﹂と云ふてゐるが、是を以て見れば、有部

派に於ては戒律なきものは彿性なきものである。一関捉は勿論、乳禁を犯せるものは所謂断頭

の劣輩で彿因なき罪塊である。先づ戒律を保持し三乗の特別の修行をなす串にITり、初めて仰 性収得らる∼のであると説く。然るに次に大衆部よら出でたる詑椴郡の彿性静々奉げて

若銃身刑部琴︼切凡聖教出動以投謹川本、所以凡聖衆批皆従豊川、故空走俳性、俳性即大捏窄

即ち是にあらては、一切衆生は容を以て本鰹となし、比重は銅価性にして大捏蝶であると云ひ

容は一切に遍在する先天的のものであるから、衆生によゎて有無の別を銑する理はない。彿性は

遍在し磯類は平等なる革を主張し、戒律の如きほ節二蕎的のものとなしたのである。此雨着を

批判して世親は定有定無と云ふが如きは邪軌であつて、有と云へば滅すペからす、無と云はゞ

生すペからざる田定的のものと誓0。彿詭に衆生性に任せすして永く況紫なしと云へるは、若 ー Jけ −−

(12)

取′市 − の趣輿敦彿東大 し大喪に背くものは︼開港にして、長陣中観梅して滅せぎれば此設を総されたるものにて、著 し道理によらば、一切衆生悉皆本より清渾の俳性ぁりて、般捏翼し得ぎるものある筈が㌍い。 是政に体位は決定本有、有を耽れ無を掛るゝ故にと云ふ夙に云ふてぉる。射ち性の上より云へ ば1 いかなる衆生も決定本有俳性であるが、修行上より云はゞ、勿論一問 提梯法不信者の如き は戊彿出歩るものではない。即ち一関提が一問捉である問は、修行上よ山一見れば無性と見るも 何等怪しむに足らぬ。叉犯戎者は犯戎の放で成休出塞るものでないから、修行上より云へば、 禁戒を重んすべきは常飲⋮である。然しながら、是が本布悌性の椒底の上に立たなかったならば 共成律は精神を失ひて形式に流れ、心に恥ぢて既に満浮となれる犯戒者を、更に津の形式に拘 泥して厳罰する如きは、彿陀の綺紳を失し、優婆離の如く練磨居士に叱責せらる\に至るべき である。 此薩婆多部が政界東南の大勢力を占めてゐたのは、大いに注意すべき串で、薩婆多部の頂上 に連せる鬼婆沙諭︵堅一†八︶にて、大衆部中最も大乗的繋践詭をとなへたる詭暇部の籠をあげて 難破せるは、興味ある事にて 若し心性本辞なりと云はゞ審塵析慨上州臆すろ婚、何が政lこ容鮎煩悩わも結渾ならしむろ常 ∼_.‖ −

(13)

銃丸弟 年三 界 究軒数来 なくして、却て輯〓偶のこ描にこ其相が不浄となるに到るか。 若し存廃悩煩の本性浄心と粕應Lて、基調措辞なる串ね持すんば、亦本性浄心なるむのほ辞睦 憎がみ枠上すして、其胡不浄静なりと云ふべきであろ。 叉本性浄心なるもの粍客座敷惜エリ先に生じたものか、若し先に生すと云はゞ、心生じ巳りて 煩悩を住持†る串となり、こ刹那位となりて、分別都筑の二王狼と和迩†る.若L供血なりと去 け︰ゞ、何ぞ設いて心性本澤と云ふ事在符ん。汝が嘉lこ於てほ、未来に心ありて本澤なるべしと 云はぎるが故に。 と論じてゐるが、然らば薩婆多部にて煩悩を遠離して生するものほ本性の野心、性得の彿性に 非ざれば果して何であろう。若し三轟を遠離して何物も顕現せす、滅に蹄する串が目的なれば 友身滅智と難せらるゝも亦瞥然である。果して何物かゞ顕現するとせば自己本家布せざれば何 . 虞よら凍れるかの疑問が生するのである。此訣の皆否は暫時諭せす、兎に角産婆多部にては、 ︼切衆生性得彿性なく、道は善行両怨等によゎて待らるゝにあらす、ひセすら戒律の條項を遵守 し抄門の修行をなすによゎて、初めて彿性は縛らるゝとなし、固定せる数理と戒律とによりて 修身修戒修慧を主張し食眼疾を遠離し、安穏静寂なる輩を主眼とし、積極的の民衆致化よら、 次筋に遠ざかつていつた楼である。 大衆上座両派よむ次第に小汲を卦裂せる結果、其未派に於ては其数理次第に接近していつた ー ∫ク ーー

(14)

取回 − の 起典故併発大 横であるが、大隠に於て、かくの如き二つの主要なる思潮の流れがあつた。とはいへ戒律厳守 準二性各別派が勢力を占め、一性平等自由思想の大衆部系は勢力なくして一隅に閉息せざるを 得ざる状態にあつたらしい。此時代に於ては、彿が時代に礁じて作られたる律義を偏重し、沙 門特別の生活にたてこ丸じ人りて、彿陀の大理想たる四衆普化の福音を疎略にしたのではなかった か。其結果たるや、所謂小乗的孤調解脱の自利隠遁的傾向を生じ、他の一面には表面的戒律を厳 守せるを誇となし、四姓の階級を打破せる偶数中に於て、新に出家と在家と其階級を異にせる 如き偏狭の傾向を生じ凍ったのである。此偏狭の傾向、敦横の固定化せる聾閉租性を、根底−㌻り 打破して、金有情非をして基櫨桃陀大患の大海に浴せしめんとして生じ凍りしものが、大乗彿 致であつた。質際大乗の興起は、法身観念や哲畢的思想の発表に於て重大なる意義を有するも のなるが、更に大森の債伍ある虞は、此彿陀の眞の精紳を失脚せる固晒の徒に輿へられたる打 蟄の創であゎ、所謂小乗的視性を根底より打破せんとする改革の叫でぁつた所にある。

上述の予の推断は、や∼早計に過ぎ光る観がないでもない。然し彿就脛を讃むに及びては、 ■−Jβ.・・−

(15)

夢丸節 年三界 舞研数寮 此予の推論に勤し七有力柱る裏書を輿へられたる如き戚がするのである、︶体液粒は雁什の辞せ ■

る三先十品よら樗る凝典にて、現今大乗律部に威して居㌔大隠の思想としては般若の重恩想

を唱道してゐる。大鰹大桑係数初期に現はれたらとせられてゐる般若皆客の思想は、二面たし

かに此奴界の事情のもとに出でたる固定観念凶習打破の演であつた。彿減軽は此般若皆客の思

想を共棲うけてゐるのであるが、律部に福入された位で、戒律思想や敬㍍の鴛際問題に視せゎ

と思はる∼叙述が多く、特に散骨史上より見て、興味ある問題を含んでゐると思ふ。渾戒品第

車に於て、

悌が′舎利弗に向ひ云ほる∼。餅証取=そ弟子達村数化し恭敬し、同心共行しー\俳語に陸椒ぜ るが成城故となれば、悪魔数回申−ニ入り、比丘次節に軽快と克り、各自諭んニトて1舶竺見入こ争み強 ばす、汲んや欽をうける串をや。如来在竺二乗−醸でぁるが、滅後分れて五珊となり、悪魔敦囲

ゆ・に入りて邪詮ね来し、寄食々減、苧一切宥、輩祈我都、セ所得串と説きて、先非を評ふ。批時船群

牧内、野上鱒¢比丘多く、自ら小手一せなして泣在得たりと云ひ、か1るものが蟄人の受くべき供 養を琴けてゐる¢では、貿に訪末世問の大患放で、か1ろ疲人は節一義を開きてほ、驚きて深坑 中に蕗つるのである。か1る比丘偏執多く・在家出家をして非法九二桝ぜLめ、正はな記く者は・ 援助少セく,散渡して役立つ串が出来克い。常時年少比丘多く利故にして俳法.の節−撃せ抑

来し、村上痘に閃・ふ。野上憶の考比丘汝姦二鱒に心を放中にかけ、専ら捏琴を念・じ、三種の畳む滅

ーー .、ム ーー

(16)

軌 面 一 の 起典故傍藻大 L、即ちエく五陰十二人十八界を厭倣†べし.骨山に宙虚にちりて、比陰人界の法悉皆鹿骨と散 じ、自ら其身の不浄ね放じ、頚陀恒典わ柑、叉エく五除算の法lこ於て、深く無骨甘怨無我か粒じ、桝 陀含乃至阿蘇匪ね柑る事、是節一哉セリとな守∴ト反し、年少比丘反間して、阿羅踵〓り精一競なろ 串を知ると錐も、陰入界ほ憶念にエリて生ずるものにて、憶念なければ陰人界亦光かるべしと て!−五陰の祁十二入十入界の相ちりと詑くを聞きて、喜ばすして去る。訪天大いに菩び、辞 迦卑見俳伺好弟子ちりと。此利収のもの無生法弘ね柑て、二腿に弛まり従侶となりたれ共、人 衆既に少なく、勢力亦弱く況んや供墓み柑て寺に化すろ事ほ出航セい。 と云ひ、又往古品第七では 悌陀が過去大証戯如衆の団粒左記き、比俳城放校、我滅庇茨と累なろ串なしと云ひ、此の彿漬後 沙門法の安穏セる串み如り、出家草道†れ共、悌の甚澤空義わ知られす。設不清浄にして我人 衆生幕命ちりと設きて、一切話法空寂を設かず、此悌践比後甘践の後、諦弟子衆分れて五部とな り、普串.菅樺感和多、肺患、炊耽陀の五比丘が、大衆の輔と互スこ堺んこ舐烏、普事比丘け、悌併設の員空 ¢萄、無断得¢法み解し、エく記法するな訝し、而も他の凹瑞の先めに腔んぜられ、勢力ちスこ馴な く、人多く軽成する事を放き、他の四比丘ほ多く我人ちりと云ひて利器敬せヂ、胡拾址泣して伽沈 も滅すと去∵ひ、此四比丘の死後の罪報をときて、菅岸比丘ほ訊達痴人、二切わ比丘ほ拘池擢比丘 粁去比丘は即迦尿比丘、故雛陀比丘ほ松形沙門波別館陀となり、共時結締如蟹静俳書拉み設さ 無丑の衆生も利Lたる普等比丘ほ即ち富軽部盈でちるとして房こ礎凱二り骨修梵行措澤記法l‡ ー Jム ー

(17)

披九妨 年三筋 究併敦森 焚に如来み除き、誇世間申最新一でぁると詐欺してゐる。 是等の記載を以て、勿論歴史的事箕と見る事は出家ぬ。五部に分れたと雄も律の五分とも適 合してゐないし、百年後に分れ陀りと錐も薩婆多部は三百年後に分派せるものなれば、‖疋亦歴 史的事貸と符合せぬ。けれ共かゝる記述をなすに至ったのは、亦以て何等か依る慮があつたの では往いか。勿論普時致牌中の小派に於て、種々の論評があつた事は想像し狩るが、特に薩和 多比丘−一切有比丘と云ひ、明に一切有部汲の名を表はしてゐるのは注意すべき事で、此一切布 地丘は、殉迦離比丘となると云ふてゐる。拘迦離とは、舎利弗日連竺一望が何に退ひ陶家に宿 れるに、家に女人あ云エー人造を知らず。女人夢に持を失し農朝水搭す、拘迦離走を見て二人不 評を行ひたらと云ひ、三度備に呵せられて改めず、遂に瘡を生じて地獄に蛇ちたらと︵雑河合四十人 知政論十三︶ 云ふ戒印形式に著し、他人を管しるものをあげたるは、布部に反射せるものとして 興味あら。普事比丘は浮戒品に於ける年小比丘に相應し、第一結集の後入事の異議をとなへた る律の寛容派なる嵩松加を〓㍊に配常し、如凍を除き世間第一となせるは、何等か此系統をひけ るものに非ぎるか。此年少比丘が、一切布部況の長老比丘に反射し、捏撃二和の苫を滅すとか 無常不浄観によゎ陰入界を遠離し阿羅漢を得ると云ふが如き、消極的説法を固執し、小善によ ー Jβ −−

(18)

取 耐 一 の 起輿致併発大 って遣を得たりと云ひ、形式的儀適を守りて内心邪見、ひたすら自己の見解字王張して他を容 れす、而も他の供養をうけて致非の未而にいばつてゐるに封し、年小比丘が唯心論的思想を以 て是等比丘に反封し、和英ょりて一問となつたが、供養を得て寸に化する難が出凍ない。か︿ の如き状態は、必ずや布部一派の、故⋮介・霊水而に磁然たる勢力ぉ古め、眞埋よりも敢説を、精 御よりも戒條を仲義せる時に申⋮りて、致非内部に空位せし自由思想の葦進派−?り、大塊締律のー 出なければならぬ形勢とならつゝあつた黎を、暗示してゐるのではないか。 語法貨粕品第一に於て 、、、、、、1、1、11、1、、11、、∼ヽ1ヽヽヽ 舎利弗、我此㍑は、皆鵜降伏一切食貰乃至設有法者、不信崇諸法黒朋輩逼棚遠完 − 金利弗、乃 至於法小計柑老骨輿伽諮、典俳詣老骨入邪道非斌弟子、即輿捏毀北ハ諭、輿郁共巧揖ほ北ハ巧興僧 ヽヽヽヽヽヽヽヽ 共甜、合判抑、如先見人、我川不取∴⋮豪受戒。 走れ別に布部派に封せヤりものと見らるゝので、法ありと説くもの、話法異相を伝染せぎるも のは、彿法三野に逆ひ我弟子に非す、出家する事を許さすと迄云へるは、小乗市部に封する反 抗が、勢散骨の人門にまで及び、極力彼が勢力を打破せんとせし将を詰むべきである。 押見品新入に於て − J7 −

(19)

旗九第 年三終 究軒数歳 一■\一、−′\J【ヽ′ヽノ、、−へ 有所持者、於我法中郡是邪見、是名大舷二切付関大人中舷、是名一切横間怨家諸燐火鱒舎利卯、 是邪見人、我則不総出家受戒 念膵品質四に於て 若布比丘、不併給盈有所得見我見人見、不解如来陀宜餅準虚言決定布教人法、如克之人、我則不 絶交一飲水或時見入得開垂法、信心清浄丙不語琴郎償遼庭番引衆人入栗抑、使搬出家受具足 戎 等と云ってゐるのは、同様の事貸を示してゐるのである。 五 此匪金牌よむ見て、破斥の対象となれるものを奉げて見るに、大腔下の主動⋮に蹄する様であ る〇 一、l向に淫楽を求むるもの 二、形式にながれ中心邪見なる比丘 三、大乗非彿詭を説くもの 是亦常時の数界に起bつ∼あつた質隙間題の一面をかたつてゐるものではないかと思ふ。念 − Jβ −

(20)

穀雨 − の 起 興 数 併発大 法品第二に於て 比丘、汝常椒身取是身刑、所謂不浄、常取一切綿布氏法山‖悉如⋮甘.粒一切法空無有我、比丘、汝常取 折線祁異心級申、都会空想、常取不普法利己、篤令蹄故放念修習、謂路断食欲取不押新、紙粉肌恋 敵悪心舶、篤師恩痴鶴田扱法、骨念持戒溌板壁抑、勤行鮪勅揖篤得四締、専心求道取不昔法丑鼓構、 軌於書法長足安穏、一心修造分別諦戦車不手法詐取利己、唯取捏栗安穏寂滅、唯受注穀畢克猫 洋、如是政春希篤邪教。 是れ賓に小森布部振の税法を示せるものにて、特に最後に苦不審法諦に相をとり巳りて、唯泣 00 磐安穏寂滅を観じ、唯捜紫華蒐清浄を愛すべしと説く致は、足れ邪教捏7りと断じた如きは、常 時の彿敦界の代表者の如き観ある布部派に射して、誠に大腱なる叫びであつた。是れたゞ捏架 に封する数理の問題のみに非すして、事賓普時の偶数の一面に於て、あまりに煩斑なる法相の 、分析をなし、活動的気風に乏しくして、たゞ安穏室寂を目的とし、所謂自利隠遁的弧調解脱の 消極的生活に陥らんとせる者に封する破斥であつ佗のである。 次に形式に流れて中心邪見なる比丘をあげては、了戎品第九に於て、 舎利弗、於未来せ希有比丘、書誌二官五十戎、是人我慢心生面作是念、我長持戒偉人不爾、軽於他 人心無恭敬、我見多聞彼弗多聞、常時多有比丘、但貴持戒多聞阿齢苦行、龍巻護戒品随所記行、勤 −−一・ ブタ・−・

(21)

披九茹 年三夢 先軒数泉

心籠雛求通悌法、如是人等坐多聞慢阿錬若饅、丙好広義心骨垢濁董是人聞達狂心五胡出退

社古品第七に於て、

我法巾に出家し浄戎を護持すとも、笹−義塾法に於て信解ぜす倍姦し、たヾ持戒多聞絡定な 染Lむも、比人我を恭敬供巷尊意→ると名けない。苗木世の人、我法中に於て稚々食著し、稚

拙邪見な出じて我法を致捜す。若し人位持戒多聞繹定右丑ぶとも、此人は沙門り紡法ね印

行する串位ほす、我即ち此人を沙門放尿門となさす。一切法如我来る箪定如無に知り、一切

法本氷地所有壁なる串な加賀に知らば、持戒を叔←とも、多田を最上とも・路∴九九二浪上とも名

くべからす。阿締多聖二衣三菩提とほ、第一詣空にして・欲︵無讐真髄念︶な離る1にすぎす。

と云ふ風に述べてゐるのは、二百五十戎即ち小乗比丘戎を護持する事を誇となし、出家主義に

と亨jもわて、他人を軽んじ自己の多く知れるを楯として非難し、持戒多聞阿蘭若行を修せる

事が、解脱して内心の自由を得、偉大なる活動をなす事とはならすして、却て内心邪見にして

自己に逆ふものにほ、瞑志の心を生じて、相互に過失を論評しあふ様な箪と行rり、所謂多聞慢

阿練若憬と打了り巳らて、造を失するのである。抑も彿致の目的ほ苦電解脱竺羞塞にあり、持

戒多聞阿紘苦行は此方位として見る時、初めて椴値を鑓じ釆るものにて、持戒多雨阿練若行基

物に債値あゎとなして、是に執し雲仏らば、却て解脱の歓喜を味はふ串は出撃仏いのである。

ー ク0 −

(22)

叡両− の 起興敦彿乗大 此黙に関する新興の大乗偶数の攻撃は、箕に堂々たるものであり、激烈なるものであつたらし い。然しながら、元凍票数なるものは一般に保守的傾向の張きものにて、一皮致椿を築き上げ 勢力を養へる彼等保守派の城壁は、中々一朝一夕に覆へされるものでほなかった。彼等の新興 の大桑家に封する武器ほ、固定せる数理と戒律とでもあつたが、餌此外に有力なる創があつた。 それは大乗非併読諭であつ化。大毘婆沙論編纂頃よら、最も致界に勢力あゎ最も相承の明なる 有部況が、係数の正系の如く見られたる昔時に於て、たとへ第一義の眞理に於て、新興の大衆 家に一歩々ゆづれりとするも、大乗は併読に非ずとの詭を以て、新興宗汲の勢力を破らんとす るは、有力なる攻堅であつたらしい。 浮戎品第五に於て 舎利卯、如是上妙無比法、破戒比丘乃鑓院恨、於記法者心多不信、相関如是悌併設投法逆不受、両 件轟音、此非併記数語偉人。 と云ひ、浮法品第六に於ては不浄説法者と云ふをあげて 二自首蓮如併法 二、設併鮭時出諒恕中州遠退失 − gユ ー

(23)

披九節 年三弟 究軒数宗 三、於繚夢中心旋不信 四、自以伊知非他鯉法 五、瓜利生故蕗人論法 又丁戎品第九に於ては 不南信解諸法賓祁、起不普琴或誘八起聖道、或於持戒比丘両生悪心、妾出其過、或官破戒破見破 命破威儀、或不見地過妄盈非或以濁志嫉心設他意名、或不能知俳廻義理謂非悌法、れ是悪人成 就破法悪業、於彿第一義申、心不通連不入不着。 是Ⅰてり見れば、此匪には自ら大桑とは云ってゐないが、粂く般若皆客思想亨フけたる大乗初期 のものにて、件の無上撫此の法をきゝて、違逆して彿詭に非すL云ひ、悌経をとく時、諮経中 の粕蓮を出すとか、自ら知れる朗を以て他の経法を非難するとか、悌法の義理を知る串能はす して併設に非すと云ひ、彿法の第一義中に入る串を喜ばすと云ふが如きは、普時たしかに薪わ に裏面よら興起し凍れる大乗彿故に封して、表面に勢力ある小乗家が紀男の眼をあけて、異端 捏7ゥ邪許なら彿寵に非すと雑じ、一方又是に勤して彿の随宜の寵を離せす、第一義塞を信せぎ るものは彿の弟子に非すと諭せる様が窺はれる。 一 望ク ー

(24)

堺市 一 の起典故併発大 兜にものべた﹁破戒の比丘幌恨を生じ﹂云々と云へる如く、此樫に於て到る虞に破戒の比丘 と云へるは、二百五十の形式の戎法を破ると云ふに非すして、精銅上の戎、特に滑侶の邪見を 指してゐる楼である。渾戒品に於てほ 合判弗、見入則是我見衆生見有鬼無見骨見蹄見、曹長虎民非彿弟子、何以故、我細∵甲設、一切世間 皆翠無純蘭我析、触人無衆生、無骨無定無不捜法、如是悪人亦復菅共讃帥足軽銘仙人軍内心余 著我見、是人名猛犬悪逆舷、名瓜悪知訊、名瓜破戎、名残邪見。 と云ひ、更に伶侶の邪見の最も罪重き事を述べて 十慈の申殺生倫盗力王瞑意専l‡人の常串でほ∵兄い、やはり殺生ぜざろ睦多くカ王駄志せざ る時多し。然るに邪見l‡垢常に心に著†るが故に、心不蹄浄なる故に其罪最も重い。舎利非 エ、若L人一日官千高位の衆生を殺し有年蕎金を盗み、カ重瞑恋心に満つると、邪見鶉艶みて 非道を存すると、どちらが其罪竃きや。世母上要し入官放か1る不巻近み行ずとも、破戒の 比丘︼ ロー夜他の供養な受くろ罪彼エリも蕊L。 と云ふてゐるのは、明に邪見者即ち破戒、邪見着発しみて非道を行ふとは、即ち破戒比丘一日 一夜他の供養字フくる事なのである。何邪見が殺生乃至隕志よりも恐るべき所以を説きて 穀人者の如さほ、英語皿二腹ちに人に知られ悪鳩され、自ら叉是亮らざろな知り、自ら慨恍し自 ら菅役Lて妻子を餐ひ、或時化沙門に供養し、其朝にこエリて璧異に選びて法をきゝ乃至山家 ーー 2β −

(25)

戟九多 年三夢 先軒敦、歳

邸遭†る事を得て、現世罪法ねうくろ事軽く、製造を陣ぜず三塗み免る。是に反して訝の比

丘¢部首=仕る圧、自ら発行に非すして充芹∵亡云ひ、改む⋮ニ凶放免く、蓉楓を破して捏柴に入る

な障へ泣み失す。

是によゎて見れば、戒律の有無を以て彿性の有無を論じた布部一派の如きものと、非常なる

相違にて、盛は郎偶性、彿性遍在の思想の上に立ちて、戒律の観念は汲も精紳的のものとたつ

て凍た。足れ数理戒律の形式化固定化せるものを、打破せん鹿に必要な串であつた。けれ典故

埋の方に於て、般若皆基の思想の後に、華厳の菩薩行願の思想や、捏磐の菅栄我渾の如き横松

的思想のあらはれたる如く、戒律に於ても⋮坤に小乗の戒律の形式の打破に止まらす、積極的の

菩薩戒特有の戒律を要求した。宗致に於ては、一国鰭が同一の行事をなす串によりて、益々信

仰を強めんとする要求あるにより、此形式打破の結果此要求を沸さんとして、硯はれて凍たも

のが、梵網経理絡経等の、特別の戎和をそなへたる、より絹綱的の大乗特有の戒律であつた。

而して其十重戎に於て、鮫他過失戎、自記毀他戒や、毀訝三賛成の如きものが加へられたのは

体液匪に於ける敢圏内部に於ける論評、大桑非彿説諭の現はれと、串質的閑聯のある事を想像

するものにて、其他稀々の経典に於て大衆興起の事情につき、奥味ある問題の存する串と恩ふ

が、今は彿蕨経をよみて得たる一端を述ぶるに止める。

一 郎 −

(26)

儒教の石緯 〓、偶数石経線設 lモ 経略と靡圧 四、碑版 五、舟山石扱の由来 六、彦山石紅の内容と其石歌 道教の石経 七、迫敦石経 ー叙

支 那 の 石 鐙

日 ー・・・−・−・藍了 −−−

(27)

披九弟 年三夢 先折敦余 儒教石経 ∧、儒教石経 九、藻鉄石鮭に開† る凝談 十、開成石袈に駒†る凝議 二 石刻文字は支部の南北東西を諭せず、至る所として存せぎるなく、而して英数畳の多き其種 凝の移しき、恐らくは世界如何なる地方といへども之に比すべきはなからう。例へば曲阜の孔 子廟の如き、北京の文廟の如き、賂た長安の碑林の如き、意思寺の一如きは、其尤も著しきもの であるが、其他至る所の彿寺造観亦皆多少之を有せざるはない。支那では碑林なる語があるが、 是は拘に善く其質状を形容したもの−で、碑が文字通ら林の如くに立って居る。今始らく其種類 に就いて之をいへば、碑版あゎ、墓誌あゎ、摩圧あり、掟憧あり。同じ′、碑版と科しても、其 内容亦雑多であつて、或は人物の停記あら、頒徳あり一、題字あり、詩歌あり、題名あり、基外 系譜地固から四萱に至る迄悉く備はらぎるはh仏い。其年代からいへば、用は始らく之を旧くと しても、上は秦漠よも下は唐宋元明乃至現代にまで及び、英字腔は蒙隷あり、飛白あり、眞啓 − ?仁 一−・−

(28)

支 最も多いが、行革赤少くない。若しそれ英文字の大さを諭すれば、福建省鼓山に於ける朱晦庵 の濁せる薄字、彼方二女にして其拓本は寅中巻節すペからすと稗せられる。是れ其最も大持てろ ものである。其小柱るに至っては臥龍寺の耗憶の如き、方寸千言、精巧美砂を睦むるのである。 叉其普法の如きも、左上てり右に至るもの最も普通であるが、時には右より左に及ぶものもあら 甚しきは回文と科し、一行は上よら下に、次には下よら逆上し、次第交互に或は上より或は下 よゎするものもある。斯の如く其稲類の多き、拘に世界に冠たるものであらう。 が中に就き規模の最も大にして叉畢締上貢献することの最も諾しいものは軽石である。粒石 とはいふ屈もなく経典の正文を千載に遺さんが病め、之を石に刻したものである。で経石も其 内容によつて大韓之を三種に分つことが出家る。帥ち一は儒教に関するもの、二は造致に関す るもの、而して三は係数に銅するものである。勿論此等三秤の何れにも属せぎる固菩もないで ほない。例へば宇宙の如き、薬方の如きであるが、此等は比較的少く、規模も亦前言稀の如く 大なるものでないから、今は始らく之を略することゝする。 儒教の石経とは所謂五経とか七経とか乃至十三経を石に刻し克ものであつて、流石に支那は 儒教の国だけあつて、此類の石脛は漠代から始まら最近清朝の乾隆時代まで前後七八回殆んど ー g7 −

(29)

戟九雛 隼三野;究耶数窟

同︼の企をなして居る。これに次ぎ古いものは係数の石経であつて、是れは経費の時代から始

まり、剋宋に至って終って放る。恐らく是れば儒致の石粒に倣ひ作ったものであらう。沸教の

石経の中敷も多いものは金剛経、般若心経、常勝陀維尼の租であるが、猿山の一切紆石の如き

は其最も大h仏るものであり、作歌の石経といへども到底及ぶべからざるのである。且つ儒教の

石経は多く蕾時の帝王の命によつて造られたものであるが、備致のは韮十中八九、皆民間僧侶

によつて計蓋貸行せられたのである。足れに由つて見ても宗教信仰の力の貸に位大なることが

判る。六朝以雑暗店の閃、支郷国王の俳故に韓促するものも決して少くはない、而して基寺塔

の建立や法像に至っては、其力を堰くすこと果して幾何なりやを知らぎるのであるが、石紆は殆

んど彼等の薯手せぎる所である。恩ふに足れは儒致に於けるが如く賢際上の必婁を戚じなかっ

たのみならす、経典の石刻よぅも寄ろ造像や寺塔建立の功徳の大なるを信じたからであらう。

併しながら石粒は北ハ費用を婁すること大なるものであるから、彿教信仰の民間に盛なる時にあ

らざれば能く成し得る所ではない。是れが仰致軽石の六嚇から朱代に至って基路を骨げた所以

であらう。乃ち軽石の有無は亦以て支那に於ける彿敦盛衷の一面を示すもの七ある。

退散の石経とは.元と沸教に倣ひ造ったもので、唐代以前には殆んど之を見ない。蓋し店は ∵ 「)い ._(J

(30)

都 の 石 挺 支 李姓であら、老子を以て基剋とし、之を追奪して或は玄元皇帝といひ︵高宗乾解元年︶或は更 に大聖弧の字を冠し︵芦賢二年︶或は聖剋大道を追加し︵同七載︶遂には大聖弧高上大迫金l調 玄元天皇大帝とも捕するに至った︵同十三栽︶。斯く玄宗法砕は最も老子を好み、閃元骨一年に

は、士庶人の家必らす光子の一本を減することを命じ、賞揚人の封第にも亦老子を加えられ、

同年には御託遺徳経を作り、同二十九年には諾郡に闘元親を叩き、叉詰郡に詔して玄元良砕庸を

立てしめた位である。老子平皿とする道政は、従殊も時々闊王の信仰によつて一時擁であつ︷“

こともあるが、未だ店の如く甚しきはなかった。走れが道教石経の偶に至って始て行はれた所

以である。且つ目元せこ年には布くも官餌を修すべき所には道親を建て、石古道徳麗を刊せし

めたのであるから、昏時道徳脛の石刻は各州盛に揖られたもの∼やうである。北ハ後には道政の 石粒も棉ほ多少作られぬこともh仏かったが、㍍代に於けるが如く媒ではなかった。研が金の

大足以後からは、団王の道士を普麗するに及び、退散斐然として勃興し、元の初、長☆眞人の

起って世覿の膵梶に蓼するに至り、愈盛大となゎ、有終も諮彪に造られたのである。で大池太

宗から定憲四勧に至る迄彿敬の碑は十の三にして、道家の稗は十の七ともいはるゝ。北詣禦羞以

て想見すべきである。斯くして道教の石経ほ唐元二代に最も感であつたが、基地は数ふるに足

ー叫− 2Ⅵ −

(31)

戟九鮮 卑三節 究併改宗 ら”甘い。 之を要するに支部の有線なるものは佗故に始ヰチリ、仰数之に倣ひ、道家亦彿致に倣ったので ある。而して儒教の石経ほ清朝に至る迄、近くは五十年、遠きは数百年毎に計割貸行せられた が、係数は六朝高密から漸く行はれ、宋に至って基経を告げヽ比較的無暗期に限られて居る。 が其規模の大なるものに至っては、儒道南致の典に温かに及ばぎる朗である。逆数の石粒は主 として唐より元に至る間に成れるもので、時期は係数と殆んど伯仲の間にあるが、其経典は何 らいへば三敵中最も小な れも比較的短篇であつて、之を個々に刻したのであるから、其規模か るものである。 此には便宜彿敢の石経から諭することゝする。 〓 俳敢闘係の石鰹は、其数に於て他のl一瓶の到底匹倍すべからぎるものであるの二みならす、基 耗斬に於ても温かに多い。隋唐の間韓宗の盛亮るに思っては.■炎心要となした金剛経の如き、 叉密教の新たに輸入せられてからほ、告勝陀維尼の如き、基上石せられたもの果して幾何打アり や殆んど計り知るべからぎるのである。古家支那全国に五って如何なる担が上石せられ花かは − β0 −

(32)

級 石 固より詳細に之を知るを得ぬが、試みに今﹁語石﹂︵巷四︶に列摩する所のみを見ても約四十種 の経典の存することが判る。 不埠不滅経撒糾那、抑鮎、叩抽鮎鵡親醐舶撒 於筋 一。 維摩脛触鵬栃帥。 維摩詩 経摩詰紋別有一枝本両石、 一五十傲行一十六行、暗刻。 、 勝馨師子吼ロ︵一︶東大ロロ︵方便︶方辰野 学経 偶設廊勒成伴野 無量義経 無量蕃経静 十二部経名鮎む、如瑚、脂由洲轍削。黎 行啓巴盛観世音普門品脛誼軸、鞘、胡鮎針。

埋葬鮭沈上亦隋刻戎石。

能門香山桐有腐刻。

悌詭出家功徳経紬糾鵠隋。

併読賢染経沙門品触蛸墾薪油剛施

無量冨樫m距紅海、柵藁。

無量寄軌鰹帽摘虻鯛、寺。

、欝畢越経鏡石朋

呵色欲経純綿蛎附い

理紫綬戎刻鮒山

勝窒経

大集経月蕨分法減益品初言 大集匪月辣分中言

父母思量経欄、出

四種、在安鯵顆 嵩悌沸、皆隋刻。

廿五年石瞳。乾鮪三 知逆進、有側。悟陵。

ー βJ−

(33)

戟九終 年三節 兜桝政宗 此によつて見ても、仰敦有終の如何に共和類の多いかは粗之を知ら得るのであるが、走れは 勿論其全部を註すものではない。彼の数千石を有する房山石松の如き、叉最も数多い金剛軽や 告膠陀維尼の如きは︺皆此には略して傘げない。のみならす蓉隋閏には屡彫刻せられた俳名︵成

清静智慧親身経聖篭年。

彿望遠心地彗こ靂十

孔雀洞彿大行集脛翫蜘。十舶蛸︰劉

一観音経貞別五年、拉延呼藩恒。東平。 叉具有淳鈷十年一刻。

回向呪朗臓に帥、洞。

摩利支天置場㈹。六甲鴛

十善来遊経要略餅卸壌澗脛簿、遭婁

造塔功徳粒偶聖毒

金剛毒命修塔陀羅尼経成年四年、 定州。

観世音署内品経班鮒箕鮒齢蟻脚。

温室洗搭衆滑綬建隆二 洛陽

東塔寺八大入党捏

稔伽金剛性海星殊笠利千幣千鉢大数王結節

六口軽樽不特品闘誠十六

俳母準提呪蜘篭飢糾。

赦阿含経嚇、描舶酎

六和塔四十二章経莞還篭蕪篭

俳詭生天匿裾警竃、甜抑。

貴明寺贋胡千怖名経輌

妙垂新註般若心脛 拍、相枇網。此、恥班蛸齢蝿 見放 附此。 沌重 光元 一1ナ=ニ ヽl■−一 †1ナ 0十 主音 ̄ 興隼 六、息字。企奉読 立法、下二石同。 空 事 0_ 旬クモ 容胡 ー・・・・・・・・・・・・− ββ _

(34)

都 支 は十六、或は升五、或は六十三、乃至千俳名故︶鮭の類や、乃至大般若や華厳、法華等の如き

も、皆之を敵いて居る。其他陀羅尼の如きに至っては、殆んど枚蓉に違ない位である。又開封

繁塔寺にある遁安仁の、太平興国二年に雷した石経も、此には箪に十善業造経要略のみを奉げ

てをるが、其他何は金剛経、般若心経、天語間経、父母恩重経等も存在する。若し此等を総べ

て列聾するならば、今現に存する所のみを以てしても、恐らく前表摘ぐる所に倍粧するものが

あらう。偶数石髭の製作は、比較的短時期に限らるとはいへ、亦甚だ盛捏7りといはなければな

らぬ。伺憶序にいふが、父母思重経のやうな係数者の措いて諭せず、一見備妄明かなる経典が、

屡々上石せられて居るのは一の奇怪なる事であるが、併し是れは偶数に於て孝軽が幾度も石刻

せられたるによぅ、彿政審も亦之に封抗を虜したものと息はれる。

次に係数の石経は、其材料の形によつて、之里二様に分つことが出家る。一は摩崖であむ、

二は碑版であり、三は経蜂である。靡歴とは地上に岩石の自然に届出したる部分を、幾分人工

を加え之を摩して、其上に経典の文を刻したもの・ぞいふ。=疋れは団よら両者関係なく出来たも

のに相違ないが、印度に於ける阿育王の石刻政文と其性質に於て全然同一なものである。碑版

とは平面の切石の上に刻したので、之を立つれば碑と捏7り、之を境に威し、若くは壁面に牧人 ・・−−■ ββ −

(35)

奴九節 咋三筋 光跡故;;三 すれば、放と稲すべきである。経略とは四面、大南、乃至八前の石杜に鰹を刻したらのをいひ、 ‖起れは阿育王の石柱政文と殆んど其性質を同じくする。但此は固柾であるが、彼は参列形を成 して屠るだけである。爾ほ此外龍門香山に於ける埋葬経の如き、仇愈の石壁に刻したものもあ る。足れは摩庄と碑版との中間に存するものであり、舷密にいへば何れにも威せぎるものでぁ るから、別に之を一抑と介つのが正常であるかも知れぬ。が英数は極めて少いの.であるから、 便宜之を摩圧か碑版の何れか一に嵐せしめても差支はなからう。で此三前の中、摩歴と碑版と は倍数関係の軽石にも存し、碑版と経瞳とは道教にも見る所である。唯経略は儒致には行了∼、 歴圧は迫致に布せぎる研でぁる。又碑版と経憧とは其形の比較的小㍍るが承め、支郵の南北何 れにも存在するが、健棒は石山の存する朗にあらぎれば彫妓t縛ないのであるから、江柄には 殆んど之を見ない。而して江北にJ″Jつて・、ヤ椚魚の間が最も芳いやうである。=疋れは地理的嗣係 の白から然らしめたものであらう。

雛略字心ものは、元凍印比の■字・与∴帳︶から屋形したも∽でかつて、折畳−刑には未だぢか つ柁やうである。能代にあつても、開元天彗の間が澱も撼で、郁雄多少づ∼行はれて居た。愚 ー J才 一

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ふに是は仰陀披利が彼の曾膵陀羅尼を推挙し、基経の中高棉土に安じ、基影身に映じ、或は凪

陀牒尼腫上む吠菖、良品王て身にあれば、請の教化の桝有罪業悉く消滅するを説けるによゎ、

此に経略たニQものが始まつたのであ〃章。而して彿陀が此陀羅尼を楢妹し■たの一は永淳二年と樽ふ るが、眈に之に先つこと四年、枇行政粍ニ㌣bの、眈に同一枕凡本に依って之を浮出したといふを以

て見れば、彼の胎凍は遅くも儀鳳年聞にあつた∴て﹂は疑ない。が併し彼の柳澤が果して永撃一

年でJのつたとすれげ、︵八代の紅醸に、∴大抵彿陀滞Jで罰する竺じあるから︶、所謂鮮峠の製作も亦

同年以後に始まつたといはなければなら揖。

支那に於ける粧畔は殆んど無数でかるが、圭守申七人は悉く覚猷陀擢尼である。併しじがら

後世匿瞳の功徳の大元ることを信じた結基、或は心粒や金剛紆を以て之に代ゆるもの右∵り、仰

ほ其外には粥勒土亜紀、父母恩葦繹、首彫巌捏等の捏を似てしたものもないではない。が基数

は此校的甚だ稀であ㌣叉均しく陀羅尼でぁる研から、或は自傘蓑陀群足っ或は大恋心陀錐尼

或は大陸求陀羅尼、或は大吉群陀膵尼等を記したものもある。又同じく令勝陀鮮足でも、始め

は必らす其序文迄も併せ刻して居るが、後には或は其序文を略し、或は其本文を節略し、甚し

きに至っては其呪のみを刻するもの・も生じた。又呪のみを刻するものにあつては、梵挟勤評を

■■ ̄ √つ  ̄ り●l ■ ̄

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銃丸妨 年三夢 先軒敬慕 以てするもある。是れは唐代既に行はれセやうである。元殊憧は其形の小なる所から他の碑版 や摩崖に此しては長文を刻する繹には行かぬ。又其文字も比較的小なるは勢の巳むを得ない所 であらう。 之を要するに、係数の経櫨は其数の最も多いものであるに閲はらす、其内容は頗る箪調であ ゎ、且つ雀致の陀雁尼の薙が最も多数を占むるのであるから、畢術上には鎗わ多くの貢献をな すものとはいはれない。又其規模に於ても比較的小なるものであつて、除♭人の耳目を聾動する に足るものもない。﹁棚翫的鯛

﹂−L

併しながら、経睦も必らすしも常に一挺一幅にのみ限る謬ではなく、時としては碑版と同じ く多数の石怯連持して、其上に長短を書いたものもあるやうである。歩弊宮の石刻彿鰹記や ﹁語石﹂︵巷四︶によると、大原煤の西三里に風俗と栴する所あ㌔此にほ麗梵一穴方五史なるも のあゎ、中に華厳経を刻す、北衝の時に成れるものといふ。嘗て朱竹咤薪を放し入って之を減る に、石柱一首廿有六、惜むらくは皆些二而を托ふ。他には稀れに其拓本もあるそうであるが、 何れも其露出したる一両を打するのみであるから、経文接摸しない。が其拓本の中骨兼行に客 筋櫻目のあるもの三十八紙といふから、恐らく其仝髭を刻したものであらう。斯の如きは経畦 −−− ββ _

(38)

沸 ¢ 石 鮭 支 中の一異例である。而して是れは単に石柱であるが、果して贅剥があるとすれば、恐らく又後 世所謂経櫨の先駆をなしたものであらう。 摩庄の有終は、経怯に此し規模の甚だ鉱なるものである。且つ其性質上近くに立って之を熟 成するといふよゎも、遠くにあつて之を望むペきのが多いのであるから、随って其文字も比較 的大である。彿敦の摩圧は多く北勢字文周の間に成れるものゝやうである。唐代になつてもな いことはないが、極めて稀である。陪や唐初ほ碑版の最も盛に行はれた時で、此時は摩庄の流 行の碑版に担じたものであらう。而して閉元天資の際に至って、変らに一挺して脛畦時代とな ったのである。﹁語石﹂の著者菓昌織は、元の居庸閲の刻文を以て摩圧刻経の最後となして居る が、摩崖の風習は唐に至って既に衰へ、宋以後殆んど見る朗ないやうである。居庸閑の刻文の 如きは、元凍は経典ではなく、又碑版に屈すべきもので、決して摩歴とはいはれない。 然しながら、摩圧の石山は本務都市の内にあるべきものではなく、多くは深山幽谷り問に存 し、足跡の稀れに至る所であるから、復位偶数の衰うるに及んでは、姦しく草奔の間に隠れ風 雨の侵蝕する所と捏7り、荒唐に蹄したものゝ果して幾何であつたかは、何人も知り得ぎる所で ある。だから精密に之をいへば、支那全土に捗り、古家幾何の摩庄が存し、又其刻する所の紆 − β7 −

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就九節 年三筋 究軒数宗

の、果して如何なるものであつたかは、今よりして到底推測し得ないのでぁる。現に街輝山谷

中には、温かに暦唐盛噂の間、摩圧の大字蓼差高下すろを望む、何れも皆僻経

であるーこいふが

世に之を拓するものもなければ、果して何経で何婚代に出来たも・のかも判らぬ。又遼州な距る

こと四十五里にして屋疎曖と稀する研がある。郡摘志に撲れげ、此には高磨の初、山腹を耽り一

切呼野を需したとあろ。叉基新出する摩毘の玉捕は滝華甘美、英字方雀寸許、極めて陰勤とも

いひ、而して其拓本によつて之な見れば、捌かに足れは華麗経の成就晶でふょといふ。一切繹

繹を腰痛に刻するといふ=とは非常な大事業であるから為して何人の計蓬に係るものか判ら

ぬが、足れは容易に侶すべからざることである。但一切符粧といふ以ヒは、恐らく雄巌一筋の

みに止まつたものとも老へられぬ。或は少くとも華巌錠を始め、他の大部の紅典二三紆も存し

柁ものではなからうか。仮令ひ又賓際は輩磁の一組に止まつ克としても、=疋れは決して容易の

業ではない。

併しながら、従家俳数の腰建として世間に俸明せらるゝ最も有名誓Qものが四所ある。而し

てそれは何れも肯の解魯の地に存するのである。北二持即ち東山の乍庖にわる粒石絹の金剛粍

であゎ、英二は租松山映彿巌の大般若経である。=通れは寮の武ホ痺ヰ手招の刻する桝といふ。 ー ββ −鵬

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葺﹂十iJ11†︸一・1ノlJ∵:†一⊥

雛嘩の尖山は茎二であり、同じく式年中刻する朗、葛山岡山小銭山の諮紆は其四であつて、皆

周の大象申の刻と節せら阜。世之を凹山摩ほといひ、共学は何れも雑尺、共生拓本を積めば八

よりも高いといふ。勿論是等は今村れも荒厳し、基金部を見ることは揖凍ない。而して此等同

種S小金輩の現に見る研は、叫阜に嘉由の金剛軽のみに止ま軒、他は不幸にして之を知らないの であろ。又石紅熔は人の最も至り易いのと、此校的完入∴与ので=はも有名である。比校的完発と

はいふものゝ、金剛経全部二千除草の中、今現に弄する朗は九百事に足らない。其除は岩石の

練間よら流出づる水流により、叉人の其上な歩むと、常雄商粥の之を打すること多きとにより

次第に餞靡し去ったのである。古雄其雷者に放いては三説あり。俗に之を以て葺着之の番する

所といふが、閻よト妄詭侶するに足らぬ。別の孫克宏は其石刻砕帖日に於て、此金剛粍の筆法

郷棟に於ける北勢の薄手探の刻経と彷彿たるにより、同人の箪に成れるものならんといひ、餞

竹汀は租裸山中の般若経と相似たるによら、同北覇‡子持の寄する所と㌍寸。元来摩ほには何

等脊者の名を著はさぬのであるから、何れとも断定し難いが、北ハ北脅頃の人の手に成れるもの

陀るは、殆んど疑を容れないもの∼やうである、随って連れは親株山琴﹂一北ハに俳敦摩ほの最古

のものに属するのである。

−・一 ごク ー

(41)

蚊九第 年三節 究軒数宋

件数の碑版は、現存する所にユつて之を見れば、共和赫に於て必らゃしも多いものではない

が、軽暖や摩歴と異捏アリ、一粒時には数十乃至教官石に亙るものであるから、基金数からいへ

ば其規模の最も大なるものである。俳敢の繹碑は、果して何時頃から始まつたかは明かならぬ

が、北勢年間既に南嶽の慧恩鰐師が石経の製作を発願したとも俸ふるを以て見れば、恐らく摩圧

と相前後して蔚はれたものであらう。勿論世には北魂に金剛艶の一石があつ化といふも、是は

魂の菩提流支の謬とある朗から推定したのであるから、少しも信するに足らぬ。いふ迄もな︿

彼は評者の題名であつて、鉾刻の時代を示すものではない。又龍門の心経を東醜の割となし、

塵城の大漁紫綬をも同時代に牧むるものもあるが、此等は何れも年代を刻してなく、唯事饅に

ょって推測するのみであるから、或者は前者を以て唐刻とh仏し、後者を以て勢割となす。で経

として琵を此に取ることは出凍ない。何れにしても高密の時、経碑の製作せられたことは疑な

い。而して隋唐時代最も盛にして、末代には遺文敏の蕃せる繁塔寺の諸経があゎ、叉遼に廃山

の有終を績刻するあゎ、此に一時の盛況を呈したっ是れが俳致に於ける経碑製作の最後をな

したものであらう。

一 封〉 −−−

(42)

那 ¢ 石 経 支 件数の碑版も摩歴と同じく、古家果して幾種製作せられたかは今容易に知るを得ぬ。語石︵巻 四︶ のいふ所によれば、安陽の貿山には菩薩明難品の一石があゎ、婁叡造る所、又初衝心菩薩 功徳品の︼石は葵景延の造る所である。華厳も恐らく菅に此二品に止まる詳ではなかったらう。 又砧州鼓山の饗堂寺には法華華厳の二脛、各三石あゎ、唐山噺の能登寺には楊山賢造る朗の法 華経、今は戒七石ありといふ。中山法具寺には鰹碑の陰に匪名数十部を列記してあるが、其毎 部石若干條、今は唯金剛兜率の雨艶のみ全部存して居るが、法華、輩膵、無量藷、観経は皆舐 一石あ♭、欝畢越挺は僅かに残字一角を存するのみだといふ。思ふに此等は何れも皆其杢脛を 刻したに相連ない。而して其中の或者は埋没して未だ出です、成者は枝壊して世に失はれたも のと息はれる。飼ほ種豚の膏翻山には新たに出土した唐代の併置大小共に六十九石あり、年月 題誠はないが、内に般若心鰹の三石は最も完く、除石には浬紫綬もあら、又屡々葵王菩薩の■名 を記すものあゎといふ。或は是れ絵筆軽の断片かも知れぬ。而して英字鰹からいへば心経は虞永 輿に似て最も工であゎ、一繚は除勤、張孟龍、李仲鞋に似、吏らに一稚は琉宕にして歌側を背 び、頗る姐法師の碑の筆勢があるといふ。伺ほ停ふる所によれば、大原の山中には一洞穴あつ て、其中石担が林立して居るといはれ、其他此類のものゝ、果して幾何捏7りやは計知るべから − ノリ ー

(43)

銃丸茹 年三筋 究軒数乗

ざるのである。

前にも一言した宋初速安仁の書い1石髭と擁するものは、金剛経、十善業追経要略、父母思

重経等敏郎の短置、数石に止皇るので、基塊摸からいへば鱒空し小なるもあであり、且つ其吾

膿も安仁は週末の嘉子で、吉に巧守じものといはる、ゝが、到底隋捷の石経に比すべきではないe が其完全に保存せらる∼異に嬰しは、他に此郡の稀なる描であa。此有紀は本来の故都であつ た今の開封の繁塔なるもの∼下室内の左右石畔而に抑入せられてかる。粧しながら斯かる小松 模のものは、他に類例の少からざろことでぁるから、多く諭すaに足らぬ。之に対しては、房由 の有終は賛に規模の最も大なるものでJのら一、常に沸教力み誓リサ、支弗にポ鐸なるものゝ製作 せられて以来、絶えて基類を見ぎる所であり、殆んど古今に冠絶するものといつて宜からうC

抑も原山とは鼻山牒の酉五十里にあ仁一、山は本と白帯山と挿し、又悪追出といヰU白帯山と

ほ白雲の基準龍に陸ふによつて考つけ、偲恐山とは此山猫り軸心題む丑じ、他山無き所たるに上

り英名を得たといふ。峯轡秀蚊帳として天竺の如き所よ、り、又之を小四天とも粥し、共石粧む

滅するによつて石経由ともいふ。山の小壷に一石※あり、義訃應とい、ふe㍍の舵符年中肘滅賞 一− Jゴ ーー

(44)

の建つる併。遊ぶもの此に至る、必らすしも⋮筈滑らさすともいヰ。が併し=琵は常に一周の

塞詣者に協食したのではなからう。雲底寺の岬によれば、毎年四月八日俳托を慶する時、肯里む

達しとせす諸方よりして集まわ凍るものに封し、緑を供ふ、之を義食と放する。即ち義郎應は

蛮人に満たす、山を絨ぐりて或

之ぉ供した併であらう。義郎應から束、石を塔つて遣を浩言、

は北し、或は南すること約一雪此間再は石階を造り往痍に征し化といふが、八1は憑く荒鷹

て途の尋ねべきものもない。山頂に近くして一石宝ふ云、束向して出さ方五丈、之を有終堂L﹂

解し、叉軍曹洞と節する。堂には几粂鐘排の威あり、皆石を以て造り、下は同じく石を以て他に

発し卒ならしめ、四壁には伏するに石刻俳経を以てする。法塞、経歴、金剛等め諸経であつて

宇喜端好、或は之を以て週給誓に頻すともいはれて罵るが、遇氏の造かに及ぶ朗ではない。基

経石は大小あつて、左壁には術層、右壁は三暦、皆三十大枚、後璧は凹暦、共に一喝十一枚、前

門の左右壁及び門塀、北ハに三十三枚、総じて北ハに一・百四十六放である。今坊間稀に見る房山石

経拓本なるものは、即ち之に外ならぬのであ■る。洞の左には心経の碑二金剛脛碑二あろ。何

れも管見れ隋居間に成れるものである。其脊髄亦洞内語脛と殆んど盈ハならぬ。洞内には四石柱

あゎ、柱は八稜形をなし、其各面数多の俳名並びに偶像を刻する。昔は飾るに金碧を以てした

一 い7 ‥−−一−

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