――目次――
論文
1,
原罪と歴史:キェルケゴールの場合, 阿部正雄, Original Sin and History, Masao ABE, pp.1-24.
2, Meister Eckhart
における「神と人間との一」, 上田閑照, Die Einigung der Seele mit Gott bei Meister
Eckhart, Shizuteru UEDA, pp.25-60.
3,
阿弥陀仏の起源問題(2), 藤田宏達, Das Problem der Entstehung des Amida Buddha (Fortsetzung),
K
ōtatsu FUJITA, pp.61-90.
展望
4,
パレスチナにおける発掘調査の趨勢:宗教史に重点を置いて、先史時代から鉄器時代まで, 後藤光一
郎, Kōichirō GOTŌ, pp.91-105.
書評
5,
唐木順三著『無常』, 戸田義雄, Yoshio TODA, pp.106-108.
Posted in 1965
(昭和40)年
結果としての不安という両面に、一応分けて 考 察せられている。そこでは 罪 という問題が 、 単に 罪 として捉えられて 史 いるのではなく、不安という問題と本質的 に 不可分なものとして捉えられている。 歴 現代人の意識をもちつつ真のキリスト者 たらんとし、しかもそのことにおいて実存的思惟 に 徹しようとした キエ ル
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ゴールの深 い 洞察が、そこにみられる。 キ エ ル ケ ゴールにとって不安は罪の間頭に関聯 し ていえ ぼ 、二重の性格を 罪 もっていた。不安は 、 罪の前提であると 共 にその結果であった。﹁罪は不安と共に出現して きた。ところがその罪が 涼 またもや不安を携えてきたのである﹂︵㏄ 鰹 ︶と彼がいう所以である。 1 ( 耶 1)しのⅡ㏄
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において夢みつつ ある精神も、自己自身に対して不安をもって い る 。不安は単なる必然性でほなく一種の自由では あるが、全き自由で ほ なく自己自身のうちに束縛せられた自由のの hn のの㏄ ト ︵の ロト ㏄ ヰず の ト ︵︵の・ 拝 8 であ 二リ 。 まモ Ⅰ、それ卜は自 己の可能性の深淵を のぞきこみ、心惹れつつ怖れをいだき、怖れを い た きつつ心惹れている状態として、自由の眩 量の。 ダゼで か コ 宙の卍 宙の Ⅱ・・七 % 甘メ ,が,
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よ り多くのものが存在しているとすれ ば 、その 結 果 、精神が自己を措定する 場 ムロには、分裂はそ れだけ深刻になるの であり、そうして自由の可能性における不安は 、 それだけ広い活動場面をもつことになる﹂︵㏄ 紹 ︶からである。 かくて エ バ は アダムよりもより感性的であり、 し たがってより多くの不安をもっている。 エ バが より感性的でありな がら深い不安をもっのは、 エ バがアダムと同様・ 本質的には精神として規定されているからであ る 。しかし エ バの 感 性 について・また不安について語られるこの﹁ より多く﹂という量的規定 は、 何に由来するので あるか。外でもな い 。それは エ バがアダムより派生したものであり 力つ 派生したものとしてアダムと最初の世代 関係をつくるもので あるからである。 派生レ目色日記。レア 鼠 日日 岸品 ということに ついてキェルケゴールは次のようにいう。﹁エバ が 創り出された。 彼女はアダムの肋骨の一つから 形 づくられたの である。彼女ほ彼に対して出来うる限り内面的な 関係に立っていたの では あるが、しかしそれはなお外面的な関係でし かなかった。アダム とエ バとは単なる数的な反 復い 与田わ ヨ のこ而の 老い 0 片Ⅱ オ 0
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を形成していたにすぎない﹂︵ の 下さと。またい う 。﹁ エ バは派生せられたも 0 %P の レヴ ㏄の 訂臣の ︵ の である。たしかに彼女ほアダムと同様に 剃 られた ものなのでほあるが、しかし彼女は或るさきに 別 られたものからし て剃 られたのである 0 思うに彼女はアダムと同じ ように無垢である。しかしそこには或る素質の 予感のぎの トアロ仁品 づ 0 口のぎ 球下 三の頓のの如きものがあり、伝播によ って性相 定 された異性の暗示のぎの戸ロ ロ の 緯 ︵け臣 幅巨 のぺ の山口ロ あ寸乱片 の 如 する。換言すれば、精神が精神として措定せら れたその同じ瞬間に性は性として措定せられる。 即ち性慾が措定せら れる。ここに エ バの問題が介入してくる。﹁女性 は 男性よりもより感性的である﹂︵の・ 求 ︶ と キェルケゴールがいの うように、エバ は アダムに対し女性として感性 を代表している。感性 は 直ちに異性ではない。 し か,レ 感性と不安は直 接 的な関係に立っている。より多く感性的であ る 時、より多く不安である。なんとなれば﹁もし も綜ムロ の一方の側に出ボ @
朋 -@@ .. Ⅴ 在
が 措定されたということを同時にふくんでいる。 エ バの生成はすでに世代関係の結果を象徴的に 予推 していたのであ る 。即ち エ バの生成による感性 D 対自化 は、ア 。 タ ふめ 堕罪に不可欠な契機をなすが、そのアダムの 堕罪において、一方 史 では、 異 性がこの世に入ると共に性は性と して・即ち性慾として措定せられ、他方同時に ナ ﹂の性の措定により夢みる 歴 精神における霊肉の綜合は対立と化し、 そ の 対自化において世代関係が措定され、歴史の始 源 が開かれるのである。 と キェルケゴールはいう、﹁性的なるものに おいて始めて綜合が対立として、だが同時に 、す へての対立がそ ,ヮ である 罪 よ う に、課題として、措定せられるのであ り 、その同じ瞬間においてかかる課題の歴史が始 まるのである﹂︵の 原ミ︶と。この歴史は、なし ぅ るという自由 の 可能性の現実化したものにほかならず・この 自 由の可能性とその現実性
きものがある。この異性は派生されたところの ものである﹂ ホ ㏄・ 品 ︶と。派生とは人類の歴史 における連続性 現にほかならない。この連続性はいっも量的な規 定 において動いてゆくのである。 エ バもアダム と 同様、精神によ 担われるべき一つの 綜 ムロである。ただしその繰ム 口は 派生された綜合である。派生された 綻ん只精 神 りも、かかるも して本質的には最初のものと同様に根源的ではあ るが、正に派生されたものとして、それには 量 的な区別が加わ その不安には増減が伴 う 。 エ バはかく派生され たものとしてアダムよりもより感性的であり、 よ り 不安である。 の 生成とそれに伴う世代関係の措定ということの 中にふくまれる不安の可能性は・精神の綜合を より深刻に分裂 め ・その極点において精神は精神として措定せら ね 、感性 は 異性となる。罪がこの世に来った と いうことと性的 のが措定されたということとが相互に不可分であ るということ、即ち﹁男性とともに性慾が措定 せられた﹂とい るのは・正にここにおいてである。 ㈲異性とどもに性慾が措定せられたその同じ 瞬 間に 、人類の歴史が始まるのである。罪の故に感 佳が男性にな いうことは、どこまでも個体の質的飛躍による ナ ﹂とであった。しかし感性が異性になったという ことは、世代の 0 表 って のと り、 エ十八 ノ せし なも われ ると 歴史
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ろ 罪の連続性の間 題 、人類の歴史成立の問題があ る 。あたかも人類における異性 が 量的規定で動 いてゆくように罪の 。 ・」 "" ‥・ -',' 。 む芋 こ で と の中間規定であるものが不安、即ち、歴史の問題に 関して 出現してきた、ところが罪がまたもや不安を携 、 えてきた そ 。人類の歴史を﹁歴史﹂として始めしめる 発 条 をな す も の か の で え で あ ば あ る 、 る 」 罪
ご釜経
こ ㌧ 果 に ち と は と し 単 い て に わ の不安で
罪の起 れる・ 源 そ あ の の る 問 罪、 。 題 の、 「 で 携 、 罪 は え 、 は ほ て 、 不む 木 、 な し 安、 か C470) 10 洩 ボ田 ゆ。 一八 @. Ⅰ・ 田 Ⅰ・ レ ・ パ ・・ 甲 ・・,:・ -,. 。・, " 。 ニ ,,・・﹂⋮ イ Ⅱ,
ヰ @
遜 ""
バの位置づけと、それのもっ意味がキルケゴールを越えて、キリスト教そのものに内在、・、、、
必ずしも
エ
が 、今はキェルケゴールに即して考究すること
とする︶。しかしこの
エ バの意味ということは、
キ エ ル ケ ゴールにおい
いう 問題、を解明する上に極めて重要な点をなす
ものではないか。
エ バ は 明らかに二重の意味を
もっている。時に
ア
タふ 。 と一体に扱い、時にその後の個体と同等に
扱わざるをえないというその二重性のもつ秘密が
、究明せられなけれ
ばなならい。それにはま
づ 、アダム
とエ バ とそ
の後の個体という三つのカテゴリーを一応明瞭に
区別しっ
っ 、考察す
る 必要があるのではなかろ
,ヮか 。
11 (471)
る 所以のより高い意義が存している﹂ハの・ り ∼︶ アダムの罪には、それが同時に原罪であるとされ るような独自性、人 類 における 異 性の量的な近似的接近をもって し ては 如何にするも到達しえない質的独自性をもっ ている。もしアダム いう 意味で、アダムの原罪というアダム自身の質 的 飛躍に不可欠な形で参与している。この、 ア ダムからも、その後 の 個体からも区別されるべき ェパ 自体のもっ二重 性は、 単に エ バという象徴的な存在のもっ い毛 のぃ &0% ︵ ざず オ色 円 として のみではなく、キェルケゴールにおける原罪と不 安 という問題、更にほ原罪と歴史という問題の 把握におけるい毛色 | 監 Ⅰ︵山斗 F0 ぃ ︵として、より深き考察を要求する ものと思われる。 この場ムロ 、まづ 最初に注意されなければならぬこ とは、キェルケゴールの解釈に沿う限り、 エ バ目 身も アダム及びそ の後の個体の場合と同様、一個の個体として、 そ の 罪は エ バなる個体の質的飛躍によるというこ とである。 エ バも ま た 本質的にはアダムと同様 綜 ムロを担える精神であ り 、その主体的不安の頂点において罪に堕する のである。しかしその ような エ バはアダムより派生されたものであり、 その限りその後の個体と全く同様に・アダムの 罪 によってこの世に 来 った男性の量的規定をうけ、その不安は アダ ム におけるよりもより反省的であるといわぬ ぼな らぬ。﹁エバにおけ る 不安がアダムにおけるよりも一層反省的なもの になっているということが、かかる区別︵派 生 的と非派生的の区 則 しに対する表現である﹂︵の・ひさ エ バは ア ダムより派生されたものとして既に人類の歴史の 連続面に立って お り 、したがってその不安はアダムの原罪の結果 としての不安としてアダム自身の不安と本質 的にほ同質でありつ っ 既に量的に附加された不安である。 これに対してアダムは 、エ バの如く既に割られた ものから第二次的に派生されたものではなく、 最 初に割られたもの として独自な位置に立っている。﹁人類における 異 性 は ただ量的な近似的接近となるにすぎない 。そしてかかる量的 な 近似的接近がアダムとともに始まるのである。 この点に・アダムが人類におけるその他の一切 0 個体に優先してい (472) 12
… " ‥ " " " """ @ 一 " " 一 原 罪 と 歴 史
充全
な意味において理解されうるのである。
し
かしながらもしそうであるならば、アダムもまた
罪
と共に異性をも
ち、
従って
エ バ及びその後の個体と同様に
、罪
性の量的規定をづけると解されなけれ
ば
ならぬの
ではないか。つまり
定
よりは自由であった。男性の量的規定をうけ
るのは、もっぱら派生せられたものとしてのエバ
及びその後の個体な
のであると。キェルケゴールのとった立場は
このようであったと思われる。
ハ そしてそれは
キ
リスト
教
自身の立場
にもとづいている︶。そこに一方においては
アダ
ムに
対し、他方においてはその後の個体に対し、
特に
エ バの占める
特
殊
な位置がある。しかし﹁最初の罪を通じて
罪
性が
アダムのなかにはいりこんだといわねばなら
斗仏い
﹂︵の・㏄
っ ︶
レ Ⅰ
13 (473) のこの面、即ち最初に 剃 られたものであって派生 されたものではないという面を忠実に徹底させ てゆくならば、 ア 。 タ ムは、エ バ及びその後の個体と異 り 、異性におけ る 量的規定を絶しており、したがってアダム と いう個体の全く純粋 な 意味での質的飛躍により罪に堕ちたのであって 、異性 は、彼 より派生されたエバ以外の個体に のみ、派生というこ とを通して帰属するのである、という帰結に至 らざるをえないと思われる。しかしアダムの異性 をこのように解する ことは・アダムの堕罪によりこの世に来った異性 は 、アダムにで は なく、アダム以後の人類の中 にのみ入ったと解す ることであり、かくてアダムを人類と歴史の外に 空想的に抜け出さしめることになる。それはさ きに二においての。 へ た 如く、アダムの原罪の真に実存的な把握とはい えないであろう。アダムの堕罪は、それにより 異性が単にアダム 以 後の人類の中に入ったというのみではなく、アダ ム 自身の中にも入ったと解する時、初めて罪の質 的 飛躍ということもt イ
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え で あ は 場 い っも 個体の質的な飛躍を通じて出現し来るという ことである﹂ ハの ・ 拐 ︶と語られていることは 、アダムの異性 の ムロ でも例外ではないのではないか。したがって 罪と 異性を区別する限りこれは罪の主体的実 存的 把握のために 必要なことであったアダムは 罪 と共に 罪性 をもっが、最初に 剃 られたものとして異性の量的 規定よりは自由で る 、そして 罪 性の量的規定をづけるのは派生され たものとしての エ バ以下である、とすることは 、 許されないの ほ ないか。したがって最初に割られたものと派 生されたものという区別は、主体的実存的立場を 貫く限りは維持し ず ・やはりその意味を失なほざるをえないので はないか。 註 ﹁ 罪 性は量的な規定において動いていく﹂とい つ 旬は宙 @ ︵の臼の独 訳 では﹁異性の歴史は::・・﹂となっ てイつ ぷ炉、 目トト麓ト宙 Ⅰ Ⅰ ぃ毛 ︵ @ のの英訳では﹁異性 は : ::﹂となっている。 岳 ギの 臼が 口 @ のののののの c 日色 宙と 訳している語は、大谷 長 教授の御教示 によれば、デンマーク語の原文では年の ココ のという 代名 詞 であって、文法上それはⅠ aWr 鰍の解した如く 、 それに先行す 8 の せ下 らぬすの 笘り目 ︵ 罪性 ︶の語をづけることも出来れば 、ヰ T の臼の解した如く 、の 三宮す 8H@ の ︵﹁その歴史﹂ 即ち﹁異性 の 歴史﹂。但し出 @n の臼ではこの語を単に 0 ぎ のの 盤 。 ア - い ずあと訳しているが︶をづけることも出来ると。ここ ではⅠ ぃ韻 二の の 解釈に従 フ ことにした。 五 これに対し他方、 エ バはアダムと最初の世代・ し たがって世代関係そのものを形成し、かくて ア ダム自身の質的 飛
自身により﹁ただハ本書において
り
主張されて
いることほ、異性は量的な規定において動い
れと区別せられた男性
は、
既に
罪
性であること
において常に量的規定を免れえないのではない
か
。キェルケゴール
キエ ルゴールがいう時、アダムのなかにはいり ナ ﹂んだ異性 は 、異性でありつつ量的規定より全く 自由であるといいう るであろうか。量的規定より全く自由な異性田
コ % ぃ ㏄ 客 ぎとは、結局 罪 のむ コ 伍のではないのか。 キェルケゴールは 罪 のむ目汁 と 異性 残ぎ臼 ㏄ アめ ぎとを区別し、前者は あくまで個体における瞬間の質的飛躍にもとづく とした。しからば そ (474) 14 ,し ・ p. Ⅰ@ 「 "" 77
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ね め ェ れ 神 童 欠 よ の れ は な の し機 性 化 は
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、 ダ く い は ダ 成 感 こ 造 っ 罪 躍 に に ち 15 (475)分割され、感性の対自化による無垢の喪失、罪 への飛躍に、エバが不可欠な契機として参与して いる限り、 ま に 性慾の措定、世代の措定を通して人類の歴史 そのものの発端が開かれる限り、 エ バは単に アダ ム より派生せ ものという性格を越えて、アダム と 一つの対立 をなしつつ本質的に同等の立場に立つものと解さ れなければな であろう。すな む ちアダム とエ バ は 派生・ 被 派生 という関係を越えて、したがって エ バは ア ダムの﹁ 数的 であるということを越えて世代関係という 一 種の対等の立場における一つの対立を形成する のでほないか の綻んロ としての精神が真に 綻んロ として措定される ためにほ 、 単にアダムから エ バが派生されたと いう一方向的 に 立つ世代関係ではなく、少くともかかる派生 , 被 派生の関係を越えた限りでの対等な対立と相 即の関係に立 関係が・成り立たなければならぬのではないか。 しかしかく舌口 うナ L とは、 r- におい v てか りべた キヱ ル ㍉ ケ ゴールの立場、即ち 罪と 異性は相互に不可分 ではあるが 異性へという方向は転倒されてはならないとい, ヮ キェルケゴール的実存の立場に反するであろ ,ヮ 。しかしなが 異性は相互に不可分ではあるが罪から異性への方 向は動かせないということは・次のこと、即ち アダム とエ バ 0 世代ではあるが、アダムから エ バが派生された のであって、その間の派生・ 被 派生の関係 は 動か せぬ というこ と ほ ら 罪 つ な 。 反 ら ら た
い た こ ムの 質的飛躍としての堕罪が語られる時、エバ は あたかも ア 。タム自身の内に対立する感性の対自 化 ・他在化という 意 味 をもっているとも言えよう。そこでの世代関係 というのもアダムに内在的な対立の他在化とい, フ 意味をもっている。 エ バはもとよりアダムに内在する感性の単なる 投 影 ではなく、アダムに対立する一つの個体であ り ・派生されたもの とはいえ、一個の精神である。そこに世代関係 も 実在性をもってくるのである。しかし エ バなし には アダムの堕罪は 成立しなかったと解される限りでのエバの側面 を 徹底させる時、他の個体と同様にアダムより派 生せられたという 他 0 個体との共通性、即ち派生されたものという性 格は消失せざるをえないのではないか。夢みる 精神における 綜ムロ が (476) 16
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キエ ルゴールの場合、如何なる意味をもちうるの 卜 カ O 別の仕方で論じた如く、アダムにおける﹁最初﹂ と ﹁罪は質的規定である﹂という立場に徹底する 限 り、 既に先きに いうことほ消失せざるをえない。しかし キエ ル ケ ゴールの場ムロ・ いう如く、アダムと人類との間には交互循環的な 相即関係がある。これがキ ェ ルケゴールにより 明らかにせられた ﹁罪は質的規定である﹂ということの意味であろ いノ @ 。 しかし、もしアダムと人類︵その後の個体︶ とが ﹁ 罪 ﹂に関しては全く相違がなく、しかも、両者 の間に交互循環的 な 相即性が成り立っというならば、アダムが 最 初に割られたものであり、アダムの 罪は 最初の罪 であるということは、 せられたその後のすべての個体も、ひとしく 個 体の質的飛躍を通して罪に堕ちることを明らかに した。﹁無垢は各に よってのみ失われるのである。いかなる人間も本 質的にはアダムと同様の仕方でそれを失 う ので あ スリ﹂︵の・ ゅ跨しヱ Ⅰ してキェルケゴールの場合、これらのことは、﹁ アダムは彼自身であるとともに人類なのである 。それ故にアダムの 解明は同時に人類の解明であり、またその逆で もある﹂︵の・ ま ︶ということの上でいわれて いるのである。彼は い う 。﹁このこと ハ アダムの罪の説明は同時に原 罪の説明であるということ U の最深の根拠は 、 人間は個体であり、 そしてそのようなものとして人間は同時に彼自 身 であるとともに全人類であり、従って全人類が 個体に参与している とともに個体も全人類に参与しているということ の 申にひそんでいる﹂︵⑦・ ぎ ︶と。 ァダ ムは 最初に割られた ものでほあるが、一部の伝統的教義学が解した 如く、人類の外に空想的に抜け出ているのではな く 、またアダムの 罪 は 最初の罪ではあるが、その後の個体は、悟性の 神話が考えた如く、アダムの罪の結果としての 異性によってではな く アダムと全く同様にその個体の質的飛躍に よって罪に堕ちるのである。罪は突発的であり、 飛躍を通じてこの世 に 登場してくる。その点に関しては、アダム と その後の個体、即ち人類との間には、何らの質的 キニルケ ゴールが﹁アダムの解明は同時に人類の 解明であり、またその逆でもある。目口 年 耳目 笘 オ 0 才Ⅱ 田し ︵の・㏄ ひり L し (478) 18
原 罪 と 歴 史 る り
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で き ・ あ で で 罪 そ 。 な る か 罪連 る も 的 に
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罪 ら か 勤 へ と 性 で で 柏 木 ら か で づ量 す は
き 19@ (479) アダムにおけるこの﹁最初しということは、﹁ 罪 ﹂と区別せられた﹁ 罪性 ﹂という問題・したが って異性の連続性と " "-" """" その量的規定、世代関係と人類の歴史という 問 題 にむすびあっているのであった。アダムの罪に より異性がこの世に 入った。アダム以後の個体はこの異性の故に 罪 に 堕ちるのではなくもしその ょう に解するな らば一部の伝統的 教 義学や 、 又は悟性の神話と同様の誤りを犯すこ とになるアダムと全く同様に、その個体の質 的 飛躍によって罪に 堕ちるのでほあるが、アダムと異なり、自らの 堕罪を通して、異性の連続性に参与し、かくて 罪 性の量的規定をうけ るのである。その後の個体の罪は、アダム と質 的には同一ではあるが量的には異なるのである。 そこに人類の﹁ 歴"
て
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最初の世代の措定ということを抜きにしては、 理 解することは出来な こでは個体と人類が・質的規定と量的規定が 、罪 と 異性とが、交互循環的 なお、個体から人類へ、質から 量 へ、罪から 罪 性 へという、歴史成立のた 礎 づける仲介 点 に立っものである。ここに エ バ の 秘密がある。 キエ ル ケゴ 上述の﹁人間的実存の本質的規定﹂に立脚しつ つ 、なお残る個体と人類、 エバこそが、前述の﹁最深の根拠﹂そ に相即せしめられているに立ちつつ、 めには逆転せしめることの出来ぬ方向を基 |ル の場合、罪の主体的把握の根拠をなす 罪と 異性、質と量 、の 二元性を脱却せしめ いわれる﹁ す 。へての個体﹂の中にあって、アダム なる一個体があくまで最初の個体であるとされ る 所以も、エバとの 基礎づけるのか。これらの問いが改めて問われ なければならない。もとよりキェルケゴールの場 今 、罪と異性 が 、 質 0 的 規定と量的規定が、個体と人類が 、 単に二元 的に分けられていたのではない。かく二元的に分 けることによる誤り︶ を 犯したものが、伝統的な一部の教義学であり、 悟性の立場であった。この誤りをきびしくしり ぞけたキエ ル ケゴ| か は﹁すべての個体は彼自身であるとともに全人 類 である﹂という﹁人間的実存の本質的規定﹂ ︵の・ ぎ ︶を最深の 根拠として、罪と異性、質と量・永遠と歴史、 の 問題を捉えようとしたのである。この前提はあ くまで見失われては ならない。直前においてアダムについて問われ たいく っ かの問いも、もとよりこの前提をふまえ ての問いである。 そ れるの問いは次のようにいいかえてもよ すべての個体は彼自身であるとともに全人類であ る 。従って全人類が 個体に参与しているとともに個体も全人類に参 与しているのである﹂という﹁人間的実存の本質 ぬ 規定﹂を最深の根 拠 とする時・如何にして最初の個体・ 全人類に優先し、量的規定を伴って進展する人 類 の異性の歴史を展 聞 せしめうるのであるか。キ ェ ルケゴールの 、そ してその 根抵 にあるキリスト教の、この問いに 対する答えは、﹁ ェ 。 ハ ﹂であり、アダム とエ バによる﹁最初の世代﹂ ということにあるであろう。正に﹁ エ バ﹂こそ が 、さきの﹁最深の 根拠﹂の上にありつつ 罪 性の量的進展を基礎 づ け 、人類の歴史の展開を可能にするのである。 同 時に全人類であると
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世代﹂が 、 更に であろうか。 そ てのみならず・ ついても・いわ い、ということ は 一切の意味での﹁最初﹂が 、 越えられなけれ ば ならないであろう。このことは果して何を意味 する れは﹁個体は彼自身であるとともに全人類である ﹂ということが、個体の質的飛躍としての罪に つ、 Ⅴ キェルケゴールにより量的規定を伴うといわれる 異性についても・したがって個体の歴史への 参 与に れなけれ ば ならない、単に質の面についての みなず ・量の面についてもいわれなけれ ばな らな である。もし個体の個体たる所以が、したがって 個体の主体的自覚が、あくまで質的規定であり 、突
」 あくまで質的に把握するためのかの﹁人間的実 存の本質的規定﹂を貫徹するためには、アダム と エ 。 ハの 構成 代 関係﹂は完全な交互性に貫かれなければなら ない。そのためにはアダムから エ バへという一方 向 的な派生・ 関係そのものが止揚されなけれ ば ならない。 す な む ちアダムから エ バへという方向と同時に 、ェ ハ から アダ う 方向が成り立たなければならない。それは 世 代 関係においてアダム とエ バにより象徴される 男 性 と女性を に 把握することである。しかし男性と女性を全く 同等に把握する立場とは、両性の区別そのもの を 越えた 立 、したがって﹁世代関係﹂そのものを越えた 立 場 ではないのか。アダム とエ バの間の派生・ 被派 生の関係を とは、 正にこのことを意味する。まことに﹁ す 。 へ ての個体は彼自身であるとともに全人類である。 したがって 個体に参与しているとともに個体も全人類に参 与しているのである﹂という個体と全人類の徹底 した交互 循環的な相即性に立脚しょうとする限り、如何 に 世代関係を構成する男性と女性の間に対等性 と 交互性が成 ようとも、二つの個体による﹁世代関係﹂その ものが越えられなければならない。したがって 当 然 ﹁最初の 内にあるとはいえない。これがアダム とエ バの 構 成する﹁最初の世代﹂のもご一義性の構造であ る 。 しかしこの 二義性は 不徹底たるを免れないのでほ ないか。真にダイナミックな二義 性 とはいえな いのではないか。︵ 。 タム の外にあると同時に内にある。しかし、 こ 0 対立と 綜 ムロの両極をなしつつ、アダムが 、エ バ の外にあると同時に 22
円ギ
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"""発 的であり、飛躍を通してのみ成立するもので あるならば、このことほ当然要求されなければな らないことであろ う 。しかし個体の歴史への参与についても、 即 ち 歴史の連続性の面についても、したがって およ そ 星空 面は ついて も 、﹁個体 は 彼自身であるとともに全人類であ るしということがいわれなければならないとする と 、そこで は 、歴史 0 発端・﹁最初﹂ということも、歴史の終り・﹁ 終末﹂ということも、共に止揚されなければなら ぬ であろう。 又 同時 に 質と量との区別そのものが・したがって質から 量 へという方向自体が、止揚されなければなら ないであろう。した がってその場 ムロ 、歴史に如何なる始めも終りも なく、無始無終であり、個体 は 彼自身であるとと もに、空間的意味に おいてのみならず時間的な意味においても、 即 ち 絶対的な意味において、全人類であるのである 。ここに至って初め てキエ ル ケ ゴールのいう﹁すべての個体は彼自 鼻 であるとともに全人類である。したがって全人 類 が個体に参与して いるとともに個体も全人類に参与しているのであ る ﹂という﹁ 罪 ﹂の質的規定のための最深の根 拠 たる﹁人間的実存 0 本質的規定﹂ ほ 、元金に貫徹せられるであろ , ヮ 。しかしこれは徹底した一郎一切、一切節 一を 主張する仏教的な立 場 であるといえないであろうか。 キエ ル ケゴ| ルの求める個体と全人類が真に相互に参与しうる ような﹁人間的実存 0 本質的規定﹂は 、 キェルケゴールの如き立場に ではなく、むしろ仏教の立場に見出されるので はあるまいか。 しかしここに新たな問題が必然的に生起する。 キ エ ル ケ ゴールの場ムロ、前記の如き﹁人間的実存 の 本質的規定﹂が 史 ﹁最深の根拠﹂であるとされたのは、﹁ 罪 ﹂ という問題について、 2% 詳しくは﹁アダムの 罪の説明は同時に原罪の 歴 説明である﹂ということについて、であっ た 。しかし既に述の如くこの﹁人間的実存の本質 的 規定﹂を 、 罪の間頭 に とついてのみならず異性の面にも、従って 歴 史の発端の問題についてのみならず歴史の連続性 0 面にも、適用すること 罪 により貫徹せしめる時、そこに見出される 最 も 徹底した立場ほ 、 キェルケゴールを越えて仏教 的な立場に至ると思惟 さ 掠 れるのであるが、同時にその時 、キエ ル ケ ゴールの問題の出発点であった﹁ 罪 ﹂そのものが 止 楊 されてしまうのではな 23 C4 ㏄ )
曲轄