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『宗教研究』183号(38巻4輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

原罪と歴史:キェルケゴールの場合, 阿部正雄, Original Sin and History, Masao ABE, pp.1-24.

2, Meister Eckhart

における「神と人間との一」, 上田閑照, Die Einigung der Seele mit Gott bei Meister

Eckhart, Shizuteru UEDA, pp.25-60.

3,

阿弥陀仏の起源問題(2), 藤田宏達, Das Problem der Entstehung des Amida Buddha (Fortsetzung),

K

ōtatsu FUJITA, pp.61-90.

展望

4,

パレスチナにおける発掘調査の趨勢:宗教史に重点を置いて、先史時代から鉄器時代まで, 後藤光一

郎, Kōichirō GOTŌ, pp.91-105.

書評

5,

唐木順三著『無常』, 戸田義雄, Yoshio TODA, pp.106-108.

Posted in 1965

(昭和40)年

(2)

結果としての不安という両面に、一応分けて 考 察せられている。そこでは 罪 という問題が 、 単に 罪 として捉えられて 史 いるのではなく、不安という問題と本質的 に 不可分なものとして捉えられている。 歴 現代人の意識をもちつつ真のキリスト者 たらんとし、しかもそのことにおいて実存的思惟 に 徹しようとした キエ ル

とケ

ゴールの深 い 洞察が、そこにみられる。 キ エ ル ケ ゴールにとって不安は罪の間頭に関聯 し ていえ ぼ 、二重の性格を 罪 もっていた。不安は 、 罪の前提であると 共 にその結果であった。﹁罪は不安と共に出現して きた。ところがその罪が 涼 またもや不安を携えてきたのである﹂︵㏄ 鰹 ︶と彼がいう所以である。 1 ( 耶 1)

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(3)

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から罪が出現し、罪がまた不安を結果するという 如き不断の円環をなしているのである。 罪 と不安が一種の円環をなしっ っ 同時に不可分 な 一体であるという、このことが、 キエ ル ケゴ| の によれ ば 、精神 の 尖端において自覚きれなければならないことで あった。なんとなればキ ェ ルケゴールにとり、 精神は人間における 霊的なるものと肉的なるものとの綜合であり、 , ﹂の 霊と 肉との 綜 ムロの頂点または尖端において・ 精神は 、 罪と不安と が 円環にして点であり、点にして円環であるとい ぅ 、動的に緊張せる主体性の根源に、ふれるから である。 キ ェル ケゴ |ルが、 罪は如何なる学問によっても取扱われ ぬ ︵の・ き ︶というのも、この故であると解する ことも出来よう。 し に 全く不可分な一体をなすものに体ならないが、 同時に、それは単なる未分の一点に止まるもの ではなく、常に不安

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(4)

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(5)

い 。なんとなればアダムの最初の罪を通して罪が この世に来たということは、単に異性 が アダム の 罪を通してアダム 以後の人類の中に入ったということにつきるの ではなく、アダムの罪を通してアダム自身の中に も 異性が入りこんだ の 主体的自覚において、決して転倒されてはなら ないのである。しかしながら、もしこのことを もって、アダムの 最 初の罪により 異 性 が アダム以後の人類の中に入 っ たと解するなら ぼ 、それもまた、なお真に実存 的な立場とはいえな ではなく質的規定であり、アダムは彼自身である とともに人類なのである。したが ,つ 異性の目色 あ汀 ぎが罪の目汁に先行し 、か くて異性を通して罪がこの世に入っ 罪を通してこの世に入ってきたのである。﹁ 罪 はひとつの罪を通してこの世に来 っ もし何かを前提しているとするならば、他の何 ものでもなく 罪 自身を前提している 突発的であり、瞬間における質的飛躍を通して ナ ﹂の世に出現したといわれる所以が が 罪を通してほいりこんでくるその限りにおい ての ㍉ ヶ 、この世に士のる﹂︵の・㏄ e の 0 世に入った異性 は 、かくて量的規定を伴い、 各 世代を貫いて量的に進展し 、 罪が 続 的である。 このように罪のむ コ 宙のと異性の寸口ロ何 % 乱 ︵ とは 、相互に不可分でありながら、 ない。また異性がま づ 先行しそれを通して罪が ナ ﹂の世に入ってきたと解するのは、 って 、 逆に罪を通して初めて 異 性がこの世に入っ て 来たと解されるべきであり、 こ って悟性がとかく考える如く、ま てきたのではなく、むしろ 異 性は た﹂といわれる所以である。罪が というべきであろう。そこに罪は ある。これに対し﹁異性 は 、それ である。このように罪を通してこ 飛躍的であるのに対し、むしろ 連 その性格は区別されなければなら 既に思弁的非実存的な捉え方であ の 罪から異性︵という順序は 、罪 を

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(464) コールは言う。﹁ひとがどのように問題を提出し ようとも、アダムに空想的な特殊地位が与え も れるや否や、一切 は

(6)

互 原 罪 と 歴 史 ということを意味するのであるから。したがって 罪と 異性とはその性質上区別され、かっ罪が 罪 性 に先行するのであ ってその逆ではないとの主体的自覚における順序 は 転倒されてはならないのであるが、しかも 同時に 、 罪と 異 性 と は 、堕罪せるアダム自体においては一体不可分 な @n りである。 キェ @@ Ⅱ ケ十 @ リ ー @@ ノも二 コロ ,ハ @ ノ 。﹁もしも ひ とが本当に鋭くかつ 厳密に言い現わそうとするならば、最初の罪を 通じて異性 が アダムのなかには い りこんだと言わ ねばならない﹂︵の ㏄⑧と。むしろこのことが、罪が質的規定であ り 、量的連続的にで は なく飛躍を通してのみこの 世に入ってきたとい うことの、真の意味でなければならない。とこ ろで アダムが空想的に人類の外に抜け出ているの ではなく、人類の最 初の個体であると解すべきであるなら ぼ 、アダ ムほ 彼自身であるとともに人類であり、彼の解明 は 同時に人類の解明 となるのである。したがってさきにアダムについ て 言われたこと、即ち 罪と 異性は区別され 罪か ら 異性への順序 は転 倒されてほならぬと同時に両者は一体不可分で あるということは、単にアダムについてのみなら ず 、それ以後のす。 へ ての個体についても等しく言われなければならな いことである。罪が質的規定であり、異性は罪 を 通してはいりこん でくる限りにおいてのみこの世にあるとされる 以 上 、このことほ当然であろう。アダム以後の任 意の個体もまた、 ア ダムと同様、彼自身であるとともに人類であり、 か つ その各々が罪に堕ちるのも常にその個体の 質的飛躍によるので あるから。 このようにアダムとその後の個体は、質的飛躍に より罪に 堕 るという点に関しては何ら異るとこ ろはない。それは 堕罪ということがあくまで個体にかかわる問題 である以上当然のことと舌口えよう。ただ両者の異 るところは、その後 0 個体はアダムから派生が匹の @ ︵の コ されたもの であり、その限りその後の個体ほ人類の歴史にお ける連続性を表現し ており、かつ、その異性 は 一種の量的規定にお いて動いていくという点である。すな む ちアダム の 最初の罪により ア ダム自体においてこの世に入った 異 性 は 、人類 の異 性としてその後の個体へと連続し、かくて 人 類 の異性は歴史をも

(7)

つ 。この異性の歴史は各世代を貫き連続的に量的 規定において進展する。ただこの場合でも各個 体 がこの 罪 性の歴史 6 に 参与するのは、あくまでその個体自身の質的 飛 躍 によるのであることは忘れられてほならない ところでアダムにおいてもその後の個体におい ても、本質的な意味で全く等しく問題になること は 、何故このよう な 最初の罪が無垢の状態の中から突発するかと いう問題である 0 これに対しキェルケゴール ほ、 無垢 C 口の c プロ匡は善 悪を識別する知識をもたぬ無知ロロ名寄 のコず の ぎ であるとする。かつかかる無知としての無垢から 罪 にいたる中間 状 態 、ないしは中間規定 い毛ず 臼田すのの︵ 目日 目口的 として﹁不安﹂の概念を提起する。﹁無垢は同時 に 不安であるという このことが、無垢の深い秘密である﹂︵㏄・のの︶ という如く、本来倫理的にのみ取扱 は れるべき 無 垢 という状態を 、罪 への質的飛躍という弁証法的なダイナミズムの 内 面から可能な限り心理学的に分析したのが不安 という概念に体なら ない。そしてここにおいても、人間を霊的なる ものと肉的なるものとの綜合としての精神として 捉 えるという、 キヱ ルケ ゴールの根本的立場が前提されている。即ち 如何に無垢なる状態であれ、それが外ならぬ 人 間の無垢である限り それほ決して動物的な野蛮性ではなく精神であ る 。ただ無垢においては、人間は精神でありっ っ 未だ自覚的に精神と して規定されていない夢みる精神︵∼曲 E 日省印 の ︵ 0% 海 である。しかしそれがたとえ夢みつっ あ るとはいえ・もとも と 精神である限り、夢みる精神は、一面ではた 、 えず 霊と 肉との間の関係をかき乱そうとする敵対 的な力︵の ぃ口臼い り プ の 絃毬 ぎであると同時に、他面霊肉の関係を基礎 つけようとする友好的な力︵Ⅱの 仁 コ目 臼 の 口 ac ず ︵ であ 之リ ︵目下ぃ︶ し こい ぅ 、精神の二義的な力をひそめている。ここに は 不安が無垢の中に出現してくる所以がある。 虹

において夢みつつ ある精神も、自己自身に対して不安をもって い る 。不安は単なる必然性でほなく一種の自由では あるが、全き自由で ほ なく自己自身のうちに束縛せられた自由のの hn のの㏄ ト ︵の ロト ㏄ ヰず の ト ︵︵の・ 拝 8 であ 二リ 。 まモ Ⅰ、それ卜は自 己の可能性の深淵を のぞきこみ、心惹れつつ怖れをいだき、怖れを い た きつつ心惹れている状態として、自由の眩 量の。 ダゼで か コ 宙の卍 宙の Ⅱ

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(9)

よ り多くのものが存在しているとすれ ば 、その 結 果 、精神が自己を措定する 場 ムロには、分裂はそ れだけ深刻になるの であり、そうして自由の可能性における不安は 、 それだけ広い活動場面をもつことになる﹂︵㏄ 紹 ︶からである。 かくて エ バ は アダムよりもより感性的であり、 し たがってより多くの不安をもっている。 エ バが より感性的でありな がら深い不安をもっのは、 エ バがアダムと同様・ 本質的には精神として規定されているからであ る 。しかし エ バの 感 性 について・また不安について語られるこの﹁ より多く﹂という量的規定 は、 何に由来するので あるか。外でもな い 。それは エ バがアダムより派生したものであり 力つ 派生したものとしてアダムと最初の世代 関係をつくるもので あるからである。 派生レ目色日記。レア 鼠 日日 岸品 ということに ついてキェルケゴールは次のようにいう。﹁エバ が 創り出された。 彼女はアダムの肋骨の一つから 形 づくられたの である。彼女ほ彼に対して出来うる限り内面的な 関係に立っていたの では あるが、しかしそれはなお外面的な関係でし かなかった。アダム とエ バとは単なる数的な反 復い 与田わ ヨ のこ而の 老い 0 片Ⅱ オ 0

を形成していたにすぎない﹂︵ の 下さと。またい う 。﹁ エ バは派生せられたも 0 %P の レヴ ㏄の 訂臣の ︵ の である。たしかに彼女ほアダムと同様に 剃 られた ものなのでほあるが、しかし彼女は或るさきに 別 られたものからし て剃 られたのである 0 思うに彼女はアダムと同じ ように無垢である。しかしそこには或る素質の 予感のぎの トアロ仁品 づ 0 口のぎ 球下 三の頓のの如きものがあり、伝播によ って性相 定 された異性の暗示のぎの戸ロ ロ の 緯 ︵け臣 幅巨 のぺ の山口ロ あ寸乱片 の 如 する。換言すれば、精神が精神として措定せら れたその同じ瞬間に性は性として措定せられる。 即ち性慾が措定せら れる。ここに エ バの問題が介入してくる。﹁女性 は 男性よりもより感性的である﹂︵の・ 求 ︶ と キェルケゴールがいの うように、エバ は アダムに対し女性として感性 を代表している。感性 は 直ちに異性ではない。 し か,レ 感性と不安は直 接 的な関係に立っている。より多く感性的であ る 時、より多く不安である。なんとなれば﹁もし も綜ムロ の一方の側に

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(10)

が 措定されたということを同時にふくんでいる。 エ バの生成はすでに世代関係の結果を象徴的に 予推 していたのであ る 。即ち エ バの生成による感性 D 対自化 は、ア 。 タ ふめ 堕罪に不可欠な契機をなすが、そのアダムの 堕罪において、一方 史 では、 異 性がこの世に入ると共に性は性と して・即ち性慾として措定せられ、他方同時に ナ ﹂の性の措定により夢みる 歴 精神における霊肉の綜合は対立と化し、 そ の 対自化において世代関係が措定され、歴史の始 源 が開かれるのである。 と キェルケゴールはいう、﹁性的なるものに おいて始めて綜合が対立として、だが同時に 、す へての対立がそ ,ヮ である 罪 よ う に、課題として、措定せられるのであ り 、その同じ瞬間においてかかる課題の歴史が始 まるのである﹂︵の 原ミ︶と。この歴史は、なし ぅ るという自由 の 可能性の現実化したものにほかならず・この 自 由の可能性とその現実性

きものがある。この異性は派生されたところの ものである﹂ ホ ㏄・ 品 ︶と。派生とは人類の歴史 における連続性 現にほかならない。この連続性はいっも量的な規 定 において動いてゆくのである。 エ バもアダム と 同様、精神によ 担われるべき一つの 綜 ムロである。ただしその繰ム 口は 派生された綜合である。派生された 綻ん只精 神 りも、かかるも して本質的には最初のものと同様に根源的ではあ るが、正に派生されたものとして、それには 量 的な区別が加わ その不安には増減が伴 う 。 エ バはかく派生され たものとしてアダムよりもより感性的であり、 よ り 不安である。 の 生成とそれに伴う世代関係の措定ということの 中にふくまれる不安の可能性は・精神の綜合を より深刻に分裂 め ・その極点において精神は精神として措定せら ね 、感性 は 異性となる。罪がこの世に来った と いうことと性的 のが措定されたということとが相互に不可分であ るということ、即ち﹁男性とともに性慾が措定 せられた﹂とい るのは・正にここにおいてである。 ㈲異性とどもに性慾が措定せられたその同じ 瞬 間に 、人類の歴史が始まるのである。罪の故に感 佳が男性にな いうことは、どこまでも個体の質的飛躍による ナ ﹂とであった。しかし感性が異性になったという ことは、世代の 0 表 って のと り、 エ十八 ノ せし なも われ ると 歴史

(11)

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略 し 方 で て で あ 、 は る 取 ア 四 異性はただ量的な近似的接近 あるのに対し、人類という 概 高まっても、そのこと自体に アダムとともに始まるのである﹂︵の・ である。ただし罪は個体自身 ま 二︶ と 念はかかる具体的な 範 晴を措定するには余りに 抽 が 個体としてそれを措定する時にのみ、罪として よって罪の質的飛躍を明らかにすることはでき 曲目曲コ エ団 ︵ 写 es 四 %@ トコ 臣びオ の 目 となるにすぎ いわれる如く、人類における 異 性の歴史は 、如 ない。 ない。そしてかかる量的な近似的接近が 措定されうるところの具体的な 範時で 豪的である。それ故に﹁人類における 何にその量的規定が 様 、全く質的飛躍を通して出現してくるのでほ あるが、罪の結果としての不安は、その後の個体 においては、アダム におけるよりも一層反省的なものとなり、量的 規 定 で動いてゆくのである。なんとなれば罪が携 え来 った不安は 、新 たな個体が罪への質的飛躍をなす 度び 毎に・ 人 類が 附加するところの量的増加を伴ってこの世に 入りこんでくるから

結果としての不安もまた量的に進展してゆく。 即 ち アダム以後の個体においても、 罪 そのものは 、アダムの場合と同

ろ 罪の連続性の間 題 、人類の歴史成立の問題があ る 。あたかも人類における異性 が 量的規定で動 いてゆくように罪の 。 ・」 "" ‥・ -',' 。 む芋 こ で と の中間規定であるものが不安、即ち、歴史の問題に 関して 出現してきた、ところが罪がまたもや不安を携 、 えてきた そ 。人類の歴史を﹁歴史﹂として始めしめる 発 条 をな す も の か の で え で あ ば あ る 、 る 」 罪

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(12)

遜 ""

バの位置づけと、それのもっ意味がキルケゴールを越えて、キリスト教そのものに内在、・、、、

必ずしも

が 、今はキェルケゴールに即して考究すること

とする︶。しかしこの

エ バの意味ということは、

キ エ ル ケ ゴールにおい

いう 問題、を解明する上に極めて重要な点をなす

ものではないか。

エ バ は 明らかに二重の意味を

もっている。時に

タふ 。 と一体に扱い、時にその後の個体と同等に

扱わざるをえないというその二重性のもつ秘密が

、究明せられなけれ

ばなならい。それにはま

づ 、アダム

とエ バ とそ

の後の個体という三つのカテゴリーを一応明瞭に

区別しっ

っ 、考察す

る 必要があるのではなかろ

,ヮか 。

11 (471)

(13)

る 所以のより高い意義が存している﹂ハの・ り ∼︶ アダムの罪には、それが同時に原罪であるとされ るような独自性、人 類 における 異 性の量的な近似的接近をもって し ては 如何にするも到達しえない質的独自性をもっ ている。もしアダム いう 意味で、アダムの原罪というアダム自身の質 的 飛躍に不可欠な形で参与している。この、 ア ダムからも、その後 の 個体からも区別されるべき ェパ 自体のもっ二重 性は、 単に エ バという象徴的な存在のもっ い毛 のぃ &0% ︵ ざず オ色 円 として のみではなく、キェルケゴールにおける原罪と不 安 という問題、更にほ原罪と歴史という問題の 把握におけるい毛色 | 監 Ⅰ︵山斗 F0 ぃ ︵として、より深き考察を要求する ものと思われる。 この場ムロ 、まづ 最初に注意されなければならぬこ とは、キェルケゴールの解釈に沿う限り、 エ バ目 身も アダム及びそ の後の個体の場合と同様、一個の個体として、 そ の 罪は エ バなる個体の質的飛躍によるというこ とである。 エ バも ま た 本質的にはアダムと同様 綜 ムロを担える精神であ り 、その主体的不安の頂点において罪に堕する のである。しかしその ような エ バはアダムより派生されたものであり、 その限りその後の個体と全く同様に・アダムの 罪 によってこの世に 来 った男性の量的規定をうけ、その不安は アダ ム におけるよりもより反省的であるといわぬ ぼな らぬ。﹁エバにおけ る 不安がアダムにおけるよりも一層反省的なもの になっているということが、かかる区別︵派 生 的と非派生的の区 則 しに対する表現である﹂︵の・ひさ エ バは ア ダムより派生されたものとして既に人類の歴史の 連続面に立って お り 、したがってその不安はアダムの原罪の結果 としての不安としてアダム自身の不安と本質 的にほ同質でありつ っ 既に量的に附加された不安である。 これに対してアダムは 、エ バの如く既に割られた ものから第二次的に派生されたものではなく、 最 初に割られたもの として独自な位置に立っている。﹁人類における 異 性 は ただ量的な近似的接近となるにすぎない 。そしてかかる量的 な 近似的接近がアダムとともに始まるのである。 この点に・アダムが人類におけるその他の一切 0 個体に優先してい (472) 12

(14)

… " ‥ " " " """ @ 一 " " 一 原 罪 と 歴 史

充全

な意味において理解されうるのである。

かしながらもしそうであるならば、アダムもまた

と共に異性をも

ち、

従って

エ バ及びその後の個体と同様に

、罪

性の量的規定をづけると解されなけれ

ならぬの

ではないか。つまり

よりは自由であった。男性の量的規定をうけ

るのは、もっぱら派生せられたものとしてのエバ

及びその後の個体な

のであると。キェルケゴールのとった立場は

このようであったと思われる。

ハ そしてそれは

リスト

自身の立場

にもとづいている︶。そこに一方においては

アダ

ムに

対し、他方においてはその後の個体に対し、

特に

エ バの占める

な位置がある。しかし﹁最初の罪を通じて

性が

アダムのなかにはいりこんだといわねばなら

斗仏い

﹂︵の・㏄

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レ Ⅰ

13 (473) のこの面、即ち最初に 剃 られたものであって派生 されたものではないという面を忠実に徹底させ てゆくならば、 ア 。 タ ムは、エ バ及びその後の個体と異 り 、異性におけ る 量的規定を絶しており、したがってアダム と いう個体の全く純粋 な 意味での質的飛躍により罪に堕ちたのであって 、異性 は、彼 より派生されたエバ以外の個体に のみ、派生というこ とを通して帰属するのである、という帰結に至 らざるをえないと思われる。しかしアダムの異性 をこのように解する ことは・アダムの堕罪によりこの世に来った異性 は 、アダムにで は なく、アダム以後の人類の中 にのみ入ったと解す ることであり、かくてアダムを人類と歴史の外に 空想的に抜け出さしめることになる。それはさ きに二においての。 へ た 如く、アダムの原罪の真に実存的な把握とはい えないであろう。アダムの堕罪は、それにより 異性が単にアダム 以 後の人類の中に入ったというのみではなく、アダ ム 自身の中にも入ったと解する時、初めて罪の質 的 飛躍ということも

(15)

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え で あ は 場 い っも 個体の質的な飛躍を通じて出現し来るという ことである﹂ ハの ・ 拐 ︶と語られていることは 、アダムの異性 の ムロ でも例外ではないのではないか。したがって 罪と 異性を区別する限りこれは罪の主体的実 存的 把握のために 必要なことであったアダムは 罪 と共に 罪性 をもっが、最初に 剃 られたものとして異性の量的 規定よりは自由で る 、そして 罪 性の量的規定をづけるのは派生され たものとしての エ バ以下である、とすることは 、 許されないの ほ ないか。したがって最初に割られたものと派 生されたものという区別は、主体的実存的立場を 貫く限りは維持し ず ・やはりその意味を失なほざるをえないので はないか。 註 ﹁ 罪 性は量的な規定において動いていく﹂とい つ 旬は宙 @ ︵の臼の独 訳 では﹁異性の歴史は::・・﹂となっ てイつ ぷ炉、 目トト麓ト宙 Ⅰ Ⅰ ぃ毛 ︵ @ のの英訳では﹁異性 は : ::﹂となっている。 岳 ギの 臼が 口 @ のののののの c 日色 宙と 訳している語は、大谷 長 教授の御教示 によれば、デンマーク語の原文では年の ココ のという 代名 詞 であって、文法上それはⅠ aWr 鰍の解した如く 、 それに先行す 8 の せ下 らぬすの 笘り目 ︵ 罪性 ︶の語をづけることも出来れば 、ヰ T の臼の解した如く 、の 三宮す 8H@ の ︵﹁その歴史﹂ 即ち﹁異性 の 歴史﹂。但し出 @n の臼ではこの語を単に 0 ぎ のの 盤 。 ア - い ずあと訳しているが︶をづけることも出来ると。ここ ではⅠ ぃ韻 二の の 解釈に従 フ ことにした。 五 これに対し他方、 エ バはアダムと最初の世代・ し たがって世代関係そのものを形成し、かくて ア ダム自身の質的 飛

自身により﹁ただハ本書において

主張されて

いることほ、異性は量的な規定において動い

れと区別せられた男性

は、

既に

性であること

において常に量的規定を免れえないのではない

。キェルケゴール

キエ ルゴールがいう時、アダムのなかにはいり ナ ﹂んだ異性 は 、異性でありつつ量的規定より全く 自由であるといいう るであろうか。量的規定より全く自由な異性

コ % ぃ ㏄ 客 ぎとは、結局 罪 のむ コ 伍のではないのか。 キェルケゴールは 罪 のむ目汁 と 異性 残ぎ臼 ㏄ アめ ぎとを区別し、前者は あくまで個体における瞬間の質的飛躍にもとづく とした。しからば そ (474) 14 ,し ・ p. Ⅰ

(16)

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(17)

分割され、感性の対自化による無垢の喪失、罪 への飛躍に、エバが不可欠な契機として参与して いる限り、 ま に 性慾の措定、世代の措定を通して人類の歴史 そのものの発端が開かれる限り、 エ バは単に アダ ム より派生せ ものという性格を越えて、アダム と 一つの対立 をなしつつ本質的に同等の立場に立つものと解さ れなければな であろう。すな む ちアダム とエ バ は 派生・ 被 派生 という関係を越えて、したがって エ バは ア ダムの﹁ 数的 であるということを越えて世代関係という 一 種の対等の立場における一つの対立を形成する のでほないか の綻んロ としての精神が真に 綻んロ として措定される ためにほ 、 単にアダムから エ バが派生されたと いう一方向的 に 立つ世代関係ではなく、少くともかかる派生 , 被 派生の関係を越えた限りでの対等な対立と相 即の関係に立 関係が・成り立たなければならぬのではないか。 しかしかく舌口 うナ L とは、 r- におい v てか りべた キヱ ル ㍉ ケ ゴールの立場、即ち 罪と 異性は相互に不可分 ではあるが 異性へという方向は転倒されてはならないとい, ヮ キェルケゴール的実存の立場に反するであろ ,ヮ 。しかしなが 異性は相互に不可分ではあるが罪から異性への方 向は動かせないということは・次のこと、即ち アダム とエ バ 0 世代ではあるが、アダムから エ バが派生された のであって、その間の派生・ 被 派生の関係 は 動か せぬ というこ と ほ ら 罪 つ な 。 反 ら ら た

い た こ ムの 質的飛躍としての堕罪が語られる時、エバ は あたかも ア 。タム自身の内に対立する感性の対自 化 ・他在化という 意 味 をもっているとも言えよう。そこでの世代関係 というのもアダムに内在的な対立の他在化とい, フ 意味をもっている。 エ バはもとよりアダムに内在する感性の単なる 投 影 ではなく、アダムに対立する一つの個体であ り ・派生されたもの とはいえ、一個の精神である。そこに世代関係 も 実在性をもってくるのである。しかし エ バなし には アダムの堕罪は 成立しなかったと解される限りでのエバの側面 を 徹底させる時、他の個体と同様にアダムより派 生せられたという 他 0 個体との共通性、即ち派生されたものという性 格は消失せざるをえないのではないか。夢みる 精神における 綜ムロ が (476) 16

(18)

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キエ ルゴールの場合、如何なる意味をもちうるの 卜 カ O 別の仕方で論じた如く、アダムにおける﹁最初﹂ と ﹁罪は質的規定である﹂という立場に徹底する 限 り、 既に先きに いうことほ消失せざるをえない。しかし キエ ル ケ ゴールの場ムロ・ いう如く、アダムと人類との間には交互循環的な 相即関係がある。これがキ ェ ルケゴールにより 明らかにせられた ﹁罪は質的規定である﹂ということの意味であろ いノ @ 。 しかし、もしアダムと人類︵その後の個体︶ とが ﹁ 罪 ﹂に関しては全く相違がなく、しかも、両者 の間に交互循環的 な 相即性が成り立っというならば、アダムが 最 初に割られたものであり、アダムの 罪は 最初の罪 であるということは、 せられたその後のすべての個体も、ひとしく 個 体の質的飛躍を通して罪に堕ちることを明らかに した。﹁無垢は各に よってのみ失われるのである。いかなる人間も本 質的にはアダムと同様の仕方でそれを失 う ので あ スリ﹂︵の・ ゅ跨しヱ Ⅰ してキェルケゴールの場合、これらのことは、﹁ アダムは彼自身であるとともに人類なのである 。それ故にアダムの 解明は同時に人類の解明であり、またその逆で もある﹂︵の・ ま ︶ということの上でいわれて いるのである。彼は い う 。﹁このこと ハ アダムの罪の説明は同時に原 罪の説明であるということ U の最深の根拠は 、 人間は個体であり、 そしてそのようなものとして人間は同時に彼自 身 であるとともに全人類であり、従って全人類が 個体に参与している とともに個体も全人類に参与しているということ の 申にひそんでいる﹂︵⑦・ ぎ ︶と。 ァダ ムは 最初に割られた ものでほあるが、一部の伝統的教義学が解した 如く、人類の外に空想的に抜け出ているのではな く 、またアダムの 罪 は 最初の罪ではあるが、その後の個体は、悟性の 神話が考えた如く、アダムの罪の結果としての 異性によってではな く アダムと全く同様にその個体の質的飛躍に よって罪に堕ちるのである。罪は突発的であり、 飛躍を通じてこの世 に 登場してくる。その点に関しては、アダム と その後の個体、即ち人類との間には、何らの質的 キニルケ ゴールが﹁アダムの解明は同時に人類の 解明であり、またその逆でもある。目口 年 耳目 笘 オ 0 才Ⅱ 田し ︵の・㏄ ひり L し (478) 18

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き 19@ (479) アダムにおけるこの﹁最初しということは、﹁ 罪 ﹂と区別せられた﹁ 罪性 ﹂という問題・したが って異性の連続性と " "-" """" その量的規定、世代関係と人類の歴史という 問 題 にむすびあっているのであった。アダムの罪に より異性がこの世に 入った。アダム以後の個体はこの異性の故に 罪 に 堕ちるのではなくもしその ょう に解するな らば一部の伝統的 教 義学や 、 又は悟性の神話と同様の誤りを犯すこ とになるアダムと全く同様に、その個体の質 的 飛躍によって罪に 堕ちるのでほあるが、アダムと異なり、自らの 堕罪を通して、異性の連続性に参与し、かくて 罪 性の量的規定をうけ るのである。その後の個体の罪は、アダム と質 的には同一ではあるが量的には異なるのである。 そこに人類の﹁ 歴

(21)

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最初の世代の措定ということを抜きにしては、 理 解することは出来な こでは個体と人類が・質的規定と量的規定が 、罪 と 異性とが、交互循環的 なお、個体から人類へ、質から 量 へ、罪から 罪 性 へという、歴史成立のた 礎 づける仲介 点 に立っものである。ここに エ バ の 秘密がある。 キエ ル ケゴ 上述の﹁人間的実存の本質的規定﹂に立脚しつ つ 、なお残る個体と人類、 エバこそが、前述の﹁最深の根拠﹂そ に相即せしめられているに立ちつつ、 めには逆転せしめることの出来ぬ方向を基 |ル の場合、罪の主体的把握の根拠をなす 罪と 異性、質と量 、の 二元性を脱却せしめ いわれる﹁ す 。へての個体﹂の中にあって、アダム なる一個体があくまで最初の個体であるとされ る 所以も、エバとの 基礎づけるのか。これらの問いが改めて問われ なければならない。もとよりキェルケゴールの場 今 、罪と異性 が 、 質 0 的 規定と量的規定が、個体と人類が 、 単に二元 的に分けられていたのではない。かく二元的に分 けることによる誤り︶ を 犯したものが、伝統的な一部の教義学であり、 悟性の立場であった。この誤りをきびしくしり ぞけたキエ ル ケゴ| か は﹁すべての個体は彼自身であるとともに全人 類 である﹂という﹁人間的実存の本質的規定﹂ ︵の・ ぎ ︶を最深の 根拠として、罪と異性、質と量・永遠と歴史、 の 問題を捉えようとしたのである。この前提はあ くまで見失われては ならない。直前においてアダムについて問われ たいく っ かの問いも、もとよりこの前提をふまえ ての問いである。 そ れるの問いは次のようにいいかえてもよ すべての個体は彼自身であるとともに全人類であ る 。従って全人類が 個体に参与しているとともに個体も全人類に参 与しているのである﹂という﹁人間的実存の本質 ぬ 規定﹂を最深の根 拠 とする時・如何にして最初の個体・ 全人類に優先し、量的規定を伴って進展する人 類 の異性の歴史を展 聞 せしめうるのであるか。キ ェ ルケゴールの 、そ してその 根抵 にあるキリスト教の、この問いに 対する答えは、﹁ ェ 。 ハ ﹂であり、アダム とエ バによる﹁最初の世代﹂ ということにあるであろう。正に﹁ エ バ﹂こそ が 、さきの﹁最深の 根拠﹂の上にありつつ 罪 性の量的進展を基礎 づ け 、人類の歴史の展開を可能にするのである。 同 時に全人類であると

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世代﹂が 、 更に であろうか。 そ てのみならず・ ついても・いわ い、ということ は 一切の意味での﹁最初﹂が 、 越えられなけれ ば ならないであろう。このことは果して何を意味 する れは﹁個体は彼自身であるとともに全人類である ﹂ということが、個体の質的飛躍としての罪に つ、 Ⅴ キェルケゴールにより量的規定を伴うといわれる 異性についても・したがって個体の歴史への 参 与に れなけれ ば ならない、単に質の面についての みなず ・量の面についてもいわれなけれ ばな らな である。もし個体の個体たる所以が、したがって 個体の主体的自覚が、あくまで質的規定であり 、突

」 あくまで質的に把握するためのかの﹁人間的実 存の本質的規定﹂を貫徹するためには、アダム と エ 。 ハの 構成 代 関係﹂は完全な交互性に貫かれなければなら ない。そのためにはアダムから エ バへという一方 向 的な派生・ 関係そのものが止揚されなけれ ば ならない。 す な む ちアダムから エ バへという方向と同時に 、ェ ハ から アダ う 方向が成り立たなければならない。それは 世 代 関係においてアダム とエ バにより象徴される 男 性 と女性を に 把握することである。しかし男性と女性を全く 同等に把握する立場とは、両性の区別そのもの を 越えた 立 、したがって﹁世代関係﹂そのものを越えた 立 場 ではないのか。アダム とエ バの間の派生・ 被派 生の関係を とは、 正にこのことを意味する。まことに﹁ す 。 へ ての個体は彼自身であるとともに全人類である。 したがって 個体に参与しているとともに個体も全人類に参 与しているのである﹂という個体と全人類の徹底 した交互 循環的な相即性に立脚しょうとする限り、如何 に 世代関係を構成する男性と女性の間に対等性 と 交互性が成 ようとも、二つの個体による﹁世代関係﹂その ものが越えられなければならない。したがって 当 然 ﹁最初の 内にあるとはいえない。これがアダム とエ バの 構 成する﹁最初の世代﹂のもご一義性の構造であ る 。 しかしこの 二義性は 不徹底たるを免れないのでほ ないか。真にダイナミックな二義 性 とはいえな いのではないか。︵ 。 タム の外にあると同時に内にある。しかし、 こ 0 対立と 綜 ムロの両極をなしつつ、アダムが 、エ バ の外にあると同時に 22

(24)

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発 的であり、飛躍を通してのみ成立するもので あるならば、このことほ当然要求されなければな らないことであろ う 。しかし個体の歴史への参与についても、 即 ち 歴史の連続性の面についても、したがって およ そ 星空 面は ついて も 、﹁個体 は 彼自身であるとともに全人類であ るしということがいわれなければならないとする と 、そこで は 、歴史 0 発端・﹁最初﹂ということも、歴史の終り・﹁ 終末﹂ということも、共に止揚されなければなら ぬ であろう。 又 同時 に 質と量との区別そのものが・したがって質から 量 へという方向自体が、止揚されなければなら ないであろう。した がってその場 ムロ 、歴史に如何なる始めも終りも なく、無始無終であり、個体 は 彼自身であるとと もに、空間的意味に おいてのみならず時間的な意味においても、 即 ち 絶対的な意味において、全人類であるのである 。ここに至って初め てキエ ル ケ ゴールのいう﹁すべての個体は彼自 鼻 であるとともに全人類である。したがって全人 類 が個体に参与して いるとともに個体も全人類に参与しているのであ る ﹂という﹁ 罪 ﹂の質的規定のための最深の根 拠 たる﹁人間的実存 0 本質的規定﹂ ほ 、元金に貫徹せられるであろ , ヮ 。しかしこれは徹底した一郎一切、一切節 一を 主張する仏教的な立 場 であるといえないであろうか。 キエ ル ケゴ| ルの求める個体と全人類が真に相互に参与しうる ような﹁人間的実存 0 本質的規定﹂は 、 キェルケゴールの如き立場に ではなく、むしろ仏教の立場に見出されるので はあるまいか。 しかしここに新たな問題が必然的に生起する。 キ エ ル ケ ゴールの場ムロ、前記の如き﹁人間的実存 の 本質的規定﹂が 史 ﹁最深の根拠﹂であるとされたのは、﹁ 罪 ﹂ という問題について、 2% 詳しくは﹁アダムの 罪の説明は同時に原罪の 歴 説明である﹂ということについて、であっ た 。しかし既に述の如くこの﹁人間的実存の本質 的 規定﹂を 、 罪の間頭 に とついてのみならず異性の面にも、従って 歴 史の発端の問題についてのみならず歴史の連続性 0 面にも、適用すること 罪 により貫徹せしめる時、そこに見出される 最 も 徹底した立場ほ 、 キェルケゴールを越えて仏教 的な立場に至ると思惟 さ 掠 れるのであるが、同時にその時 、キエ ル ケ ゴールの問題の出発点であった﹁ 罪 ﹂そのものが 止 楊 されてしまうのではな 23 C4 ㏄ )

(25)

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いか。なんとなれ ば 前述の如く﹁人間的実存の本 質的規定﹂が罪の間 題は ついてのみならず・ 罪 性の面にも等しく 適 用 せられる時、罪と異性の区別、従って罪から 異性へという主体的自覚における方向が止揚せら れるが、そのことは 結局するところ﹁ 罪 ﹂の問題そのものを雲散 霧 消せしめると解されるからである。ほぼ同様のこ とは﹁歴史﹂に つ い ても、但しキェルケゴール的な意味での、したが ってその 根抵 にあるキリスト教的な意味での 歴 更 についても、いい う るであろう。しかしキェルケゴールのいう﹁ 異 なくして性慾はなくい性慾なくして歴史はな い ﹂とい, ヮ 如き問題 は 、さきの一郎一切、一切 即一 という仏教的立 場 においては如何に解決されるのであるか。 キヱ ルケ ゴールの場ムロ・ 罪 の問題の 根低 には 霊と 肉の綜 ムロ としての精神 が 前提されていた。したがってそこには 霊と 肉の 二元が前提されて ぃ たといってもよい。そこから罪の間頭 も 、性慾の 問題も、歴史の問題も、生起してきたのである 。これらの問題の線 に そ う 限り、 エ バのもご一義 性 にも一つの必然性 があったのである。これに対し、個体と全人類 の 相即関係を質と量 の 両面にわたりひとしく徹底せしめることにより 一切の二元性をこえた前記の仏教的立場ほ 、 このような、精神に おける霊肉の二元を前提とするところより生ずる 問題をばどのようにつつみ、どのように越えう るのであるか。それ は 最早この小論の課題を越え、新たな考察を要求 する問題といわなけれ ば ならない。 附記この小論は、本誌編輯部より求められるまま 、昨年の日本宗教学会の席上で一部発表した草稿に加 筆したものであ る 。但し理解の未熟と身辺の多忙の為 め 、すべての点 において 甚 々意にみたないものではあるが、締切期日 もはるかに 超 過したので、不備のまま発表することにした。後日の 改稿を期し、編輯部並びに読者諸賢の御寛恕を乞 う次 弟 である。 (464) 24 @.. 甲

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第一章﹁吉二

第二章﹁ 一 ﹂なる 神 ダミ の ず 叶のⅡ

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参照

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