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ドキュメント内 『宗教研究』183号(38巻4輯) (ページ 59-66)

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サ Ⅱ・ 

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云われ︑この神の自己認識をも 載 らず︑神の自己認識 によっても 載 られない﹁ 闇 ﹂に神の根底が置かれてい る ︒単に人間から  の 不可 誠 ではなく︑ 神 自身の﹁不識﹂が説かれている    

︵Ⅱ︶﹁魂の不満﹂の例をあげておこう︒ 

せ的︶・ ヌ Ⅱ︵ 目 0  ︵ヰ岸目オ の目ち 隼典のか ‑ ⑨ ウノめ ︵︶ 由 り㏄ 串 レコ づ が︵ e Ⅱ コ ︒ 0 プ芭コ ㏄ 岸コ :Ⅱ︒ ナの ㌧ 臣 ︒ ず ︒ま小Ⅰ 岸 ︒ ゴ 0 ・ 倖ゅ 内申おの︵ 弓の 0 ヲヴ の臣ト @0 目 ヰ 0  円目 ‑ プ田サの| 

のコ臣 0 的の︵ りコロ のⅠ e ︶ コず 0 り オ のユネ㏄Ⅱ ギ 岸 Ⅰ 甘井 サの Ⅰ もりゴ e Ⅱ 笘 Ⅱ ヰ礎 白 の c ゴの ⅠⅠ在日 臣 ︵ e :・Ⅱいお 目 ‑ ︶ コロ の コ鍍コづ の︶ t‑ge づ 健二 レ目 ︵:・ ン 守ド ・ ト のの ‑ のトト朋 ・︶ " し戟仁ヨサ のの 口 ‑ ゆ ︵ ふ ︵の @ ョのガ ︵ 曲オぎ缶浅 の 魑 ⑨ ギコ山ゴ ︵ 鱒 の戸田 0 幅の コ ・ ど ㏄ 緯 ぃダ痒づ屈 Ⅱサ ルダヨめ Ⅰ由 りい のグ ロいい ㏄ ︵ ‑ 臣 のり コ のⅠ㏄ 0 トプの あ ‑ の Ⅰ 

Ⅰ︵ し ノン トト 〜︶︶ 

この﹁魂の不満﹂と関連して︑ 又 ﹁魂の怒﹂︵ 目・ プ轄 c ぎ田 ︶ @ の ︶が語られる 窮極を窮めずにはおかない魂の 大 憤志 であるっ 窩 ㎡ へいひり ‑ 〜 ‑ ㏄ コ づ 目 @ の ㏄ ぃ ︶︵Ⅰ︶︶の︶︶ コの崔づヒ のⅡ 臣 0."" ︵ 

ぎ 

︵︶・㏄の ︶  第二の引用に於ける︐ せ 片手心︐︵Ⅱ ヨま q. 口笘臣ぺ ヨ ︵ 曲 抜 ︵ ︶は︑この魂の動性をよくあらわしている 神を 超えてあ く迄そ  のその根底を窮めずに置かない動性の故に︑ 力 ・ 刃口 はこ u@ 卜 ‑ 卜 ⁝︵︶Ⅰ 億 n ︶ ‑r ︶ o お田サ c 〜︶一ロ の ︵︵︶︶︶ ト 0% 毛 め @ ︶︵ と由 一 @@ の吋 ぺイ円叶 ⁝ を見・ ヱツ クハル    トそ よ鯛のⅡの︵の コ幅 ︒ 葵臼のコ 旨の口の c プ g" と 名づけ︵ 史 ︵ [email protected] Ⅰの ︐ぃ 白 のⅡ さ 天田 ダ ィ田 卸ぎ ヰ は︑ヱッ クハル ト の神秘主義を   の ︐ ︵ n@ コの コの &‑@ ゎ 寸寸の @ ︵の ヨせ の︵ @ オ と 規定する︵ⅠⅡ ぃ乱 R@n 宙 

とは全くちがった考え方に立っていると云う事である ︒神と被造物との対置に於て全知全能とされる如き 神  甲 Ⅰ り臣 @ 一 @@@w@@H レ @@n@ Ⅱ心の ミ 〜 縮 w@OH ︶ ロ 0 つ きロ @m@ ︵︶ mn ゃ ︶ +@@ の @@@ 一一・㏄︵︵ @@ ︵︵㏄ 一め @k.@@ ︶ め w0 あ 

と 魂が同一視きれ  の ・のゆっ︶ 

  

考え方の内に ︑ 特に㌧ dO 仁 のの 弱響 が指摘されてゐ る ︒目色・ ナ内 on ナ 田 ‑ 斗 ︒ コ| 

ず巳 @ ︶︵︶ m‑@,. ︶ ダミ @ ︵︵ @% い甲 @‑@% 巴叶 ‑0 ︵︑ 一 ・ の l 一い @ 一 一 ・ イ円 ・ 田 r‑@% ︵︶一皿 一 @p.u : ・の ︐ド Ⅱのは・ 已 Ⅰ コの ︵ セ ︒ コい Ⅰ いす の コ グ ミ叶の︵のⅡ 已 ︒ ゲ ダロ ベ の 屈コ 宙 Ⅱず きタ ミく 岸 サ一 と 神 蛋 おおお P3 ト 耳 ・ 下 こ PP.PPNP り尚 ここで 特 に 注意しておきたいのは︑神と 魂 とが﹁ 一 ﹂を根底 と して一つにしてい   る 事は ︑ 従ってエックハルトが︑﹁神の根底は私の根底 私の根底﹂は神の根底 と 云 う時 それは︑魂が神で あると云 う 如き 事 キ ・ ノ   於 (@ るのではない︒第三章を参照 

     

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曲プ円 

Ⅱひ由 のヰ田 寸 がロ㏄の ぃ オ フ のⅡ 缶コの おヴラ 0 Ⅱト白目口コ㏄ Ⅱの 曲ガ ︒ 

    EC ヒの 乱臣 盤卸 房江 巨 ︒ ガ Ⅱ 由コ 浅の で の 村 仁田文 コセ 蒋の雷 コ 口目  仁  註ぎ片救す缶宇 

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撰    

  

  

  

  

     

     

  

    

  

︵ M ︶ ヱツ クハルトの﹁突破﹂の思想のもつ意義を充 全 て 把握し︑それを軸にしてエックハルトを解釈した ものとして︑西谷 啓治 博士﹁神と絶対 無 ﹂昭和二十三年弘文室東京︒マイモ ‑ ニアスの影響を全面的に受入れて開かれた ヱッ クハル   

幅 のままで解釈し得る視野はその後ヨーロッパでは 閉 じられたと見てもいい︒恐らく禅の立場の視野が ︑東     ほらず︑エックハルトの立場の全幅を測定する場合の 一 照明となり得るであらう︒ 

  

     

  

  

    

  

    

Ⅰ・︑︐ 廿 ︑︒⁝⁝ ホ ・ 田 

    

  

  

  

  

   ︒・  ︐  ︐ 4.‑.  内ぶ 

三原語からみた阿弥陀仏の起源  考  Ⅰ阿弥陀仏の原語の用例  前節において考察したところから︑われわれは︑  阿弥陀仏の起源に関する近代学者の見解には︑  未だそれぞれ難点  が 認められ︑何人を首肯せしめるほどの説が現  われていないことをほ  ほ 知り得た︒そこで︑われ  われは︑以上の諸説 

      

視点というのは︑阿弥陀仏の原語からみてその  起源を探ることを指すが︑結論的には︑仏教内部  起源  説 に立つので︑  の  前節で分類したところからかえ  ぼ ︑内部  起 源説  に含められるものであり︑更にその中でも  仏 教  神話起源  説 に類同する     白げ  無数神話においてではないから︑同じ仏教趣  源説  とは言いながら︑視点は異なっているのであ  る ︒もっとも︑阿弥陀仏          亜  "       囲  ・鈴木崇志  等 の諸先学によって試みられ︑  現 在  では結城令聞博士や池本重臣民がそのような  見解を表明されてい    

  

    

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阿弥陀仏 

の 

起  源  問題  目 

安達  藤田 

  

           

り ・また以下において私見を開陳する所以でもあ るのである︒ 

さて︑阿弥陀仏の起源を︑その原語からみて 追 究 するに当たってまず必要なことは︑阿弥陀仏の 原語は何であるか  を 確定することである︒阿弥陀仏の原語として は ︑周知の如く ︑と臣 ︵ ゆせロ の︵ 0 ぺ やま︵ ゆせ屈 ︶ と臣 ヨざゅすア p  という 二 

つの梵語が知られているのに︑何故そのような 

ナ  ﹂とが必要かというと・すでにこの二つの梵語と 

は 異なった別の原語 

を 想定する説が提示されているからである︒ 前 節 において言及したよ う に︑わが国の荻原博士が 創唱された下ヨ サ tp  説 がそれであり︑また矢吹博士や望月博士によ  って提唱された ト日ゃ ta  その中に含められ る ︒しかし︑これら  ︵ 2 ︶  の 説に対しては︑別に詳述した如く︑︵ 4 ︶これを支持 することが極めて困難である︒下日ごが八戸ヨハ や 説の言語学的 根  拠を検討しても・また﹁阿弥陀﹂﹁無量﹂﹁無量 寿 ﹂﹁無量清浄﹂などの音訳︐ 義 訳語を文献学的 に 検討しても︑これ  らの説を支持しうる理由を見出すことが出来ない ︒阿弥陀仏の原語は ︑ 要するにを田国 ぜ 目のと 悼 ま卸 すぎとの二 つ 

であって︑それ以外には考えられないのである︒ 

ところで︑このように阿弥陀仏の原語が確認さ れるにしても・なおこの原語については問題が残 っている︒それ  は︑レま tp Ⅱけのと 臣宵寄 すすめとい〜 ワ 二つの原語 は ︑いうまでもなく別の言葉であり︑意味も異 にしているにも 杓 わ  らず︑何故に同じ仏を表わす 名 とされるのであ るか︑それは始めからのことであるのか︑あるい はいずれか一 つ がま  ず 用いられて︑他の一 つが 後から加えられたの であるか︑一体︑この二つの原語はどこに由来す るものであるか︑ と  いう問題である︒この問題は︑当然阿弥陀仏の起 源 に関わりを持つことになり︑したがってこれ を 追究してゆけば︑ 

起源問題を解明するキー・ポイントを得ること になるかも知れぬ︑ということが予想せられる ︒そこで︑この問題  の 追究に入るために︑まず ト 日出 舐百 のと下日 宙 蓮洋 との二つの原語が︑浄土経典やその他の大 来経典において︑ ど 

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提示されるまでには至らなかったと思われる︒ 

︐  ﹂れが︑前節において一項を立てて紹介批評を試 

みなかった所以であ 

62 

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阿弥陀仏の起源問題 

        

  

  

           

のように取扱われているかという点を検討する 

ナ ﹂とから始めることにしたい︒ 

︵ ︶浄土経典における用例 

いわゆる浄土三部経の申で 梵木 が現存するのは︑ 無量寿経と阿弥陀経であるが︑まず無量寿経を 荻原博士改訂の 

のニ年鼠つい ︵ ロづ 目白 オ 麓によって 調 ︒へてみると︑阿弥 陀仏の名をあげる時は冴 

ま 

手簿をもってする のが建前であり︑ し  たがって阿弥陀仏の本名がと 田 ︵卸すぎであるよ うになっている︒もつとも︑ レ日 卸セ仁 ㏄︵ ガ| タ ーでは下日中︵卸せ 目 ︶ ハ 5 ︶ は ︑六章︵第三︒ めデ鷲 ︒ 葵 ︒ ぎ ︒㌫︶にわたって ︑ 総計十三回用いられているから︑数においては 必ずしも少なくない 

けれども︑五種の漢訳やチベット訳に対照して みると︑これら諸本のもとになった原型本に ︑ト目 目 せ仁のの出る箇所 ︵ 6 ︶ が ︑これほど多くあったかどうかは疑われる︒ た とえば︑ 

ま 

︵ ぽけ のの名がはじめて現われる 第 十四章をみると︑ そ  こでは ト ヨ印 曲ミ 捧の寿量が無量であるから︑ ト日 ‑ ︵リ セ us と 名づけられると説き︑さらにこの 巨 ぃ︵ 曲 ︶ け のが成仏以来 ︵ 7 ︶ 十 劫を経ているとして︑この名が二回用いられ ているが︑これを河口慧海底校訂のチベット訳に 照合してみると・ 前 

の場 ムロは捷 寄口ロ ag  日経︵Ⅱ 臣日 @ 武田 統 ︶となっ ているけれども︑後の場合はす 倖宙 せが㏄ ヨ経 ︵Ⅱ下日 @ 曲すア が︶ とな ︵ 8 ︶ っていて︑梵文とは一致しない︒また漢訳諸本を みると︑阿弥陀仏が成仏以来十劫を経ていると いうことについて 

は ︑五調ともに相当 文 が見出されるし︑またそ の 寿命の無量であることも︑ 殆 んどすべてに説か れているけれど︵ 大  乗 無量寿荘厳 経 のみが説かない︶︑しかしそれな るが故にレヨ︶︵ ぜ 宗と名づけられるということ ほ ・いずれにも述べ  られていない︒したがって︑これらによって み れば ︑この章に ト 日ナ 団セ 

括が二回 

表 われるのは ︑梵文のみの所伝で  あり︑もとの経典にもそのようであったとは 直 ちに首肯 し 難いのである︒同様なことは︑他の五 章の場 ムロ についても  認められる︒まず︑漢訳諸本との対照からいう と ︑この五つの章においてト目 円 ︵ ゅピ 岸のの出る 箇 所は ︑いずれかの 訳 

本に欠けてい フハで ことが多く︑︵ ︶ 五 訳すべてに通じ てほぼ一致して伝えられているのは︑第三十九章 の場合だけである︒ 

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