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ドキュメント内 『宗教研究』183号(38巻4輯) (ページ 34-38)

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一 ﹂に  墓く  神との合一を更に超えて行こ  う  とする  かの如くてある︒ 

㈲テキストは然し︑三一神論の言葉で語られ  得る限りが尽された所での︵の花の目  提  はおさま  り  ︑﹁  父  1千  |聖  霊  ﹂の公式を以って﹁神と私﹂との間を総括し  つつ︑到達された︵  父と︑  子なる私との︶﹁一つの  生命︑一つの  有  ︑  一  つの働き﹂︑  盆  ぎす寄ロ  ロ臣  ︒ 田  蓋おコロ註文  3%  の ︵  オ ︶を確証し︑最後に  又  ﹁神の働きは一な  る  故に・私を如何な  る  区別もなく第二神格と一つの神の子として生む  ﹂ことを殆ど同じ言葉で二度繰返して一節を終  るのである︒  以上︑説教のテキスト  舌  @  こ  即してエックハレ  ︵ 3  l  ︶  ノ  ト  の  説く﹁魂の内への神の子の誕生﹂の大要を見てみ  た  ︒要項は  ︑  ㈹  二一  一 神論による神の自己  内  ㏄の口の  ra  ︵ざをそのまま︑  全面的に神と  魂  との間に見たこと︒︵このことは  又  逆に三一神論には 

ね  返って︑エックハルトの三一神論に特に動的な  性格を与えている︒︶㈲而もその際︑  ェック  ハルトの一二一神論  べ胆 

Ⅱ﹁  一 ﹂への偏向をもっていたことによって  ︑  魂の内に神が子即ち子なる神を生みそれによっ  工  %  が  神の子とせられる  ゆ  合一は︑所謂﹁基督﹂神秘主義の枠を超  え  基督がム口一の対象ではなく・魂は父と一  つで  あることによって基督と 

  

    

︑  更に  又  請所神の本  性への口銭目︒  廿  申ヱ  0   ︵円の  ヱ 1  戸のず日の目しによる﹁  神  ﹂神秘主義の枠をも超え  と  榊  ている曲の  コ の  ぺ斗  すによって﹁  一 ﹂なる  神  から魂に与えられるものほ神の部分ではなくて  神ののおの  コ ︵あと臣の  一 

邦め目  ra  における全体なる  故  ︒㈲このように  ム口  一 があく  迄  神の方から神の自己内の三一的  動性  と﹁  一 ﹂  性  とによって基礎     胡  づけられているのは︑神と  魂  との関係にお  いては︑神のみが能動であるからである︒従って  魂は神の能動に対して  純     ㎞  枠  な受動でなければならぬ︒神と  魂  との  ん口  一は︑一体を  ︑神は  ︒︒ ぬのヴ  wH  の コ  ︐として能動し  ︑魂  は  ︒ ぬ  の サ  0 Ⅱの  コ  毛のⅡ倖の  コ︐と  ck              

       

  

こ  し  に  と しての魂の内へ神が神の目 9 の ロと 3% ︵ 臣 Ⅱのとを 注ぎ入れることによって魂を神の ぃ日 P 的 o とし て 成就する 単 

写すのではなく神の有をリアルに移し入れると いわれる︵ 

目 

きの @ 度・ 目 ︒ 簿 ・ @ 里ゆ ︶の︒ 簿 h.@ ずア n. ︶Ⅰの︶︒ そ 

てこれは︑ ヱッ クバルトにとっては︑神が自己を写 す場ムロ︑ 神の自己の内に写す11神の外に鏡の 如きものを考える 

とは出来ないことの当然の帰結である︒ 神 の Z き 目による 

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鮭の成就については前に触 れた︒の 口注 のほ 魂  神学的且つ実存的問題であって︑その区別や制 限の克服11 お く 迄 神の方からのみ 催 起せしめら れて ー1が本来の関 心事てあったこの論文ては立入ること ︑ @  ︵ 6 l ︒ ︶ @ @ カ ヱ 出来 ないが簡単に触れておくならば︑ 先づぃ日轟 0 に 関しては︑神の似 像  合一・によって神の子とされた 魂 との間の区別を 神学的に規制するスコラの概念は多い︒例えばよ 目的︒伍のⅠ と曲サ ︶目い 4 

㏄日の 目 Ⅰ ミ @  ︵ p‑ 三のせのⅡ コ のこ 痒 Ⅱが コ ︶︵ せ ︒ コ コ ルヰ由 Ⅱの︶ と 円安括せ 浅ぬ 〜 曲 ︵ @P 日 ︵ 40 コ幅ふ汁 

きの如き 

区 別 ︑あるい 

は旧 

r ︵ ぃ ︒ 

c ︵ づ麓ヱ 0  ︵分有︶ や卸コが ︶ 丼注お ︵類比的に︶という 概念による制限等︒エックハルトもこれ等の概 金的区別や神学的 規 

制 ははっきり知っていた︒ラテン語著作におい ては勿論︑ドイツ語説教においても 厘 々このよう な区別や制限の概念 

  

この区別や制限はむしろ出発点︑而も出発点で 与えられた問題  ︵ M ︶ に 通用したのは︑神学的に概念の濫用であり 混 乱 ではないか・という問題である︒神の自己内の 子なる神と︑神との  ﹁神が私の内に神の子を生み・それによって私を 子なる神として神の内にあげる﹂といわれた︒ 単なるレトリック 

としてではなくエックハルトの言葉を言葉通り 受 取る場 ムロ ︒ここでエックハルト解釈は大きな 問 題 にぶっかる︒ 第 

一に・エックハルトのい う 所がそうであっても︑ そのように神の自己六三一的 動 性をそのまま 神 と魂 との間に全面的  るのではない︒我を滅却し私の㌧の ぺ の 口を放却 した私の内に ︑ 神が・神の子︑即ち子なる神とし ナ くの神の巾のⅡの 0 コを 

   34 

送り︵贈りし込み︑神のり 

拐 

︒臣が私の新なる ロの 〜の 0 目 となるのである︒これは私という人間に おける主体の交替との     いっていい︒﹁旧時の人を改める﹂事である︒ 

        

  

     

  

  

を神に  迄  ︒ 注串  ぎのの  ロ︐し︑  神との  一は  神の  Zp  ︵ ら  Ⅱが与える︒神は自己の  Z  麓宮  ︵を与えんが  為  に先づのコ  簿ものを  与  えたのである︒むしろ  Q  口 P  監はもともと神の之  緊  目の流出でありそこに  は  必然的に神の  z  注目  〜への還流の動性が 

含められている︒このように︑神が  恩  籠を与え  るのは﹁与える﹂といわれたが︑その実は・  魂から︵賊の如き  仕  方でぎのぎ  轄  日の宮ド  0 すめコ安  po  の︶一切を奪う  宋  い  ま @0  宙 0   毎のⅡ㏄  ゆ Ⅱのり  =‑  け  仁田口︒  サのコ  の日の  コ @   で h.   つ @  

ト ヱ  ・︶ことによって  魂の  ﹁離脱﹂をたすけ  つ  っそれによって  準備きれた魂に神の自己の全体を与えたが為であ  ブつ  ︵ ハり  ・下っ  0 ︑  ㏄トト  @  トつ  の︒㏄  ひ  l%  つづ︐分力住戸Ⅰ  いゴ  の︒お  巳  Ho  ア ・ ロ  ・︶㏄  お  ののⅠ  日  ・ コ  ・ か  のの︶︒この考え方と共に既にやり︵︵ 

pn も 

% ヱ  Q  とい︐  っ 関係が  超えられている︒神は﹁  一 ﹂なる故に︑﹁部分  ﹂を与えることに停まることは出来ない︒串田  簿噌曲  の問題  は  ついて  は  ︑エックハルトの  簿田こぬ  〜のの理解そのものが  質的に区別された二つの存在の間の比論を見  る  所の即ち二つ 

     

醜いる︶︒エックハルトが  " 鎧巴  on  目  ︒︒とい 

  

現相 Ⅱの存在の間に等不等の両面関係を見る所  れ  一つの存在の態による区別︵の  ﹁先後﹂︵  せ用下ぎ  ㏄とでのⅡⅠ︒降のⅠ戸口  0 すヨロ  迄  のけ 

  

  

9  場ムロ  ︑  神と  魂  ︑神と被造物との不等性を同時に 

  

は  のお  注ざ綾コぃア  〜すの当然の帰結である︒  被 

     

造物を虚無から創造した 

いおうとしているのでは 

  

                M   なく︑﹁それ自身の無において︑神の有を  与えられて﹂という意味であった︒そしてそれは  エックハルトにとって  ︑ 

     

     

で  る  ん 

あ  。  だ 

     

」とが 

すことること 

一 

いて 

自  目 由     

卸の 

      )魂は 

他 「  値を  は出来 

  

  

  

してほ 未曽 有の尊大であり誇大でほないか︒ エツク ク 

︵ 9 ︶ 神にあった 0 神の子の誕生の教 説 において エッ クハ 

次の個所がこの問題の解明の手がかりとなるで あろ 

監本 

Hp ヰ ︶において語っていう︵ 毘 ・︶Ⅱ め ︒︶ hh ︶ 

  することが魂の固有である︒若し魂が傍目をす るな  ハルトに対する異端判決の主因は﹁被造物を神の 地位に高めた 濱 

ルト は果して︑﹁私 は 神になった﹂と語っている のであろうか︒ 

う ︒即ち︑エックハルトは魂における向上の カ 木ロ ブ目 由比定Ⅰ げ幅 0 コ︐ 

﹁この向上の力をもってやむことなく停まること なく不断に向上 

  らば︑それは高慢に 墜 す︑そしてそれは罪であ るハヒコ隼 e  のぎ 叶  即ち︑概念的には徹底的に斉ムロ的であるとして も ︑そういう概念によってつかまれたことが︑ 事 美人間の実存で 

あり得るかどうかという問題である︒問題を丑 ロ い 換えれば︑﹁われ即ち子なる 神 ﹂というのは ︑人間の実存自覚 と 

  

  

  

  

  

趨  ・ 

︐       C,.. せ @@‑. ヰ 

  

      ︵ ぬ ︶   ﹁存在するものは神のみである﹂ということの 当 然の帰結であった︒以上見た如くエックハルト において概念の混乱   キ "       はない︒却って常規にはただ区別が前提されてい る 所に︑その区別の根拠を問いつつ︑その区別 の 帰結を追究し︑﹁神の       から﹂ということを唯一の原理にして徹底的に ︑ 常規にほ半途で停まって区別の所に置かれてた ままになっている 諸 

概念を斉 合 的に仕上げて行ったと見なければな らない︒もしそうだとすると然し第二の問題︑ こ の 論文の関心からほ 

より重要な問題にぶつかることになる︒ 

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Ⅰ 

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Meister@ EC 

  

  

37  (497) 

  

  

     

   め  と 

金 

  

ん  は  き 

  

と  許  一 

す 

さ 

が 

  

る  れ 

与 

の  な  え 

   で  い  ら 

あ  。  れ 

   る 

停 

て 

か  ま  い 

。  る  る 

。即ち 

又 魂 「  そ 

と、 

の  こ  ・ 

内  で  三 

に  百  一 

神 

おけ 

論 

意識 

   る  を  の 

神  と  言 

  

の 

り 

葉 

子  房  で 

  

挺  し 

・  青苔 ら 

圭  一  れ 

」  切  得  に  が  る 

ドキュメント内 『宗教研究』183号(38巻4輯) (ページ 34-38)

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