193 聞きがき
村 山
一県立高松高女時代の岡内窯子一山 崎
怜 村山静子は大正5年(1916)3月,高松尋常高等小学校尋常科の教科を了えて,同年4月,香川県立高松高等女学校に入学し,4年の正規課程を
経て,大正9年(1920)3月,同校を卒業し,翌大正10年(1921)5月,
創立されたばかりの自由学園高等科に入学した。県立高松高女の4年間は,国語,作文,英語と水泳に集中した4年間で
あり,とりわけ水泳は水任流をマスク一して「小先生」(コゼンセイ)とな り,かの女の湛泳ぶりは評判であって,章子といえば水泳,水泳といえば 岡内のイトさんといわれるはど有名であった。これに対して,国語,作文 のはうは知るひとぞ知るというもので,かの女もあえてそれを誇示すると いう態度はとらず,ひとりしづかに.本をよみ,「和歌」を『新少女』に投稿 したり,『晩翠』に短文を寄稿したり,また俳句や「和歌」を掲載したのだ が,これらのことははとんど,友だちの記憶の外にあった。 章子は県女の校風である良妻賢母型の女子情操教育に.なじめないだけで なく,当時の日高佐七校長の厳格な貞淑方針に抵抗したために,4年次の 第2学期から校内の寄宿舎に入寮するはめにおちいり,毎日の日課として日誌を校長に提出して検閲をうけることになった。こういう母校に,かの
女ほ,いい想い出をもたなかったようにおもわれる。私は何人かの親友や
同級生および旧師を訪ねて,章子の県女時代のことを語っていただいた。 すでに80歳前後に達した友人,90歳に及ぶクラス担任の教師の想い出話を ここに記録しようとおもう。いずれも1970年代,1980年代はじめ頃に伺ったもので,これまでは未公開であったものである。話し手の方々はすぺて
今は故人である。回想についての無断引用はご遠慮ねがいたい。なお,筆 者は「若き日の岡内篭子」(『あゆみ』第57号,1978年1月)と『村山窯子集』(『日本児童文学大系』第26巻,ほるぷ出版,1978年11月)の「解説」
のなかで県女時代の章子の生活と文筆括動についてふれたが,一都の例外
をのぞいて,そこで使用された資料はほとんど,これらの聞きがき以前の
ものである。第1回 話し手 川井キヌ(旧姓,松本) (丸亀市の御宅にて)
(川井さんの紹介) 川井さん,旧姓松本さんは県立高松高女時代の同
級生で同じ西組(当時は組み変えはなく,在校期間通しで同…クラスで
あった)に属しただけでなく,ほとんど(章子の)唯一・の友人と考えられ
る人である。詩子は孤独癖はなかったが,社交家でなく,人見知り型で
あった。川井さんはそんな章子と親友関係にあった。児女時代の響子ほ水
泳選手として活躍したけれども,川井さんほ水泳部に属したわけでもな
く,水任流の会得にこころがけたこともない。章子とほそういう点では共
通点はひとつもないが,そういうことはどうでもよいとするのが語子の性
格である。 自分たちが仲好くなったのは,両方が商売人の子女だったからで す。松本の家は,紙の製造をやっていて,自分の幼なかった頃は,紙の卸 でした。しかし,のちに製造をしてこいました。藤塚では松本,紙の松本と いえば,みんな知っていました。 自分と芳子さんとはね,いちばんの仲好しで,写真も2人でたくさん, うつしたんですが,藤塚町の運の家に疎開して,全部,焼けてしまいまし た。 仲よくなったきっかけは覚えていませんね。小学校はちがっていましたから,女学校に.はいってからなんですが,お互いの自宅に行ったり
きたり,およばれしたり,御飯をいっしょに食べたりしましたね。家族と
村 山 窯 子 195
いっしょに食べました。篭子さんのお父さんはピアノが上手で,芳子さん
の,ピアノの弾き方を注意したことがありました。篭子さんほヴァイオリ
ンのけいこをしていて,アンナン王とか何とかいう曲目を練習していたの を覚えていますね。自分はお琴をならってこいたのです。思い出にお弁当がありますね。当時,男の子はオカズだけ別の入
れ物に入れ,街み上げましたが,女の子は御飯の隅に.オカズを入れました。 かの女の家には男の子供が大勢いたので,しばしば取りちがえて男の御飯 だけの弁当をもってきて,そういうときは,私の弁当をかの女が食べまし た。また,教室で自分と豊子さんが弁当のアケアイをしていて,梅棒先生 に叱られたことがあります。そういうときは芳子さんが自分(川井)の席 のところにやってきて見せあいをするわけなんです。 自分たちは,あの慧干さんの家のムラクモ御殿でいっしょに遊んだんです。この御殿は岡内の屋敷内にあり,庭には青銅製のカニがよこた
わっていたし,縁側が高く,キザハシもありましたね。じつに立派な御殿 だったと思います。 自分たちのグループは5人でした。名を申しますと,斉藤さん, 旧姓も斉藤さんです。つぎは松村さん(旧姓,村井),藤井さん(旧姓,山地)の3人と,自分,芳子さんの都合5人です。自分はね,斉藤徳子さん
と,とくに仲好かったのですが,岡内さんとゆききしたわけです。斉藤さ んの主人は明善の校長であられて,この方とも自分は長いつきあいがありましたが,亡くなられました。
自分たちほ,児女の卒業旅行で,奈良,東京,日光に行きました。 その時の写真もあったのですが,全部,焼けました。東京では神田の高橋 五郎さん(香川県出身)の娘さん,ノ\ルさんの経営していた重陽館に泊ったんです。このハルさんも県女の卒発生だったと思います。この修学旅行
では,慧子さんと,藤井さん,自分とは,かわりはんこに.,寝たのです。 奈良でほト旅館に藤川栄子さんがたずねてくれました。女高師時代の藤川 さんです。 前にも申しましたように.組み変えのない西親ですが,受持の先生は,1年次は国語のオクラ先生,2年次ほ同じく国語の荒井マツヱ先生,
3年次および4年次が国語と歴史の梅津先生で,梅坪先生は歴史の方に主
軸があったと思います。このように受持はかわります。生徒は変わらない
ので自然,仲好しは同じクラスになりますね。
一章子さんは音楽が好きで仁楽器だけでなく,自分の声でうたうこ ともできました。山陽女学校から転任してきたワタナべ先生(女の先生で したが)が特訓をして芳子さんがクラス全員の前で「浜辺の歌」を独唱したことがあります。じつに.うまい歌でした。
豊子さんはクラスの仲では朗らかなほうではありません。友達は すくないです。カズちゃん,カズちゃんとみんなが呼んでいましたね。目 立つほうです。ひっこみ思案ではありませんね。しかし,ハデなけれども 無茶苦茶というのではないし,みんなから,きらわれるほうではない。淡淡としているんです。かの女は文学少女のおもむき。自分はお裁縫のほう
でした。このあたりは両名は逆でしたね。そのようにタイプは同じでな かったのですが,浄願寺のすぐそばの中村という写真屋でふたりで写真を うつしたんです。しかし,その写真は焼けてしまって,いまはありません。 卒業後に東京から帰ってきたかの女が断髪してこおり,びっくりし たことがあります。そのモダーンぶりに。それは薬学専門学校(東京の) に一寸,在学したときかも知れない,あるいはそこを退学して帰郷したときかも知れません。しかし,いずれにしても自由学園時代でほありません。
そうした場合,かの女は,人に誤解されても,いいわけをする人ではあり ません。自分は,自由学園時代の章子さんに.逢ったことはありませんね。 薬専のことは岡内家の誰かにおたしかめ下さい。Sの関係ですか? それは藤川さんでした。これほ,はっきりし
ています。その頃は坪井さんですね。名前は。
療に.入寮させられた「事件」では,造酒(みき)さんが,同級生 として監督を仰せつかったようです。そこは大部屋で,−・室に.大勢のものが泊っていました。しかし,自分はその部屋を訪れたことはありません。
芳子さんのお顔は′美人というのではないが,すっきりした顔だ村 山 舞 子 197 ちだった。かの女は,お父さん(徳次郎のこと)が好きだったようですね。 お母さん(寛のこと)よりも。また,女学校時代にコレラで女中さんが亡 くなって「ハルが死んだ」といって,芳子さんが嘆いていたのを自分ほ覚 えています。かの女の兄弟では,昌三さんには記憶がありません。かの女 は赤ん坊の弘三さんを乳母車にのせて町を歩きました。自分もいっしょに ついて一歩き,そのようにして藤塚の自分の家にやってきたりしたものです。 順三さんが東京でピアノをもっているためにふつうの家に下宿できず,一
軒の家を借りていたようです。女中さんも雇っていたのです。そのとき,
立教大学の学生だった自分の従弟もそこに住んでいたんです。敏三さんにはつよい記憶があります。かれはいっしょに話相手に.なっていました。こ
の敏三さんには,亡くなる前にでも是非ともお逢いしたかった。終戦後に,桂ちゃんに逢いました。かれがよくふとっていてびっくりしました。
そのとき,桂ちゃんは芳子さんが東京にいる,といってい■ました。 県女の1年次から4年次まで章子さんと仲好しだったのは私だけ です。しかし,東京へゆかれてからのつきあいほなく,自由学園時代には逢ったことほありません。ですから,その後については何も知らないので
す。ただ,亜土ちゃんが生まれたときに,長い手紙をくれました。亜土と いう名前をつけた,とかいてきました。この手紙は,かの女のくれた最後 の手紙だったと思います。 松本惇−・さんをご存知ですか? 私の親類ですが,章子さんは惇 ー・さんの家に下宿したんですよ。芳子さんのことをよく知っているはずです。ご存命です。現在も。
自由学園時代以降のことは,全く知らないので,すみませんね。 なにしろ,自分ほ結婚してから高松や香川県にいなかったので,たまに章 子さんが帰高されても逢うことはできませんね。 章子さんのスポーツですが,水泳以外に,テニスをしていたとお もいます。 (あとがき)女学校時代の親友にお逢いできるとは考えてもいなかったので,川井キ
ヌさんに.親しくお話を伺えたのはさいわいであった。それも…度や二度で
なく,何度もお逢いでき,川井さんの知っていることは全てお伺いしえた
のである。亡き村山知義民が是非,高松時代の章子のことを調べてほしい。
自分にほできないので,お願いしたい,といわれたことがある。川井さん
を知ったのは知義民が亡ぐなられたあとであって,この知識をトムさんに
報告できなかったのは残念である。川井さんと芳子とのつきあいは女学校
時代に限られていたし,水泳を共にしていないという憾みは残るが,記憶
ほ鮮明で,川井さんの諸によって,十代の章子の生活が具体的に浮かび
上った。川井さんは,てきばきとしたウェットでない女性で,章子の友人
にふさわしい方であった。私に協力すべく,同窓会に私を呼んでくれた
り,アメリカから,珍らしい写真(芳子といっしょに写したもの)をとり
よせてコピ・−したり,あれこれと声援をおくっていただいた。昭和61年7
月1日にほ柴田さんという同窓の力の私宅に呼んでいただいて,その日,
今雪さん,鴨田さん,松村さんと慧子の墓に詣でた。80歳をこえた同級生
が42歳で死去した友人の墓におもむいたのだ。これも川井さんのお蔭であ
る。その川井さんはいまはもう亡い。こころからご冥福をいのる。(川井キ
ヌ,明治37年2月21日生れ,昭和62年12月14日逝去。豊子に・もっとも入れ
込んで話をなされた親友であった。)
第2回 話し手 浜田ソノ(旧姓,渡辺)(中央町の御宅にて)
(浜田さんの紹介) 浜田さんは莞子とクラスを異にし,かの女と個人
的に.も親しかったわけではない。しかし,同級の逸見トキ(旧姓,山地)
と共に長く高松,あるいほ高松近辺に住み,長年に亘り,県女伺級生(大
正9年卒業)の世話,ひろくは前後する晩翠会の雑務をひきうけた力であ
り,のちに触れるように,豊子を卒業論文にした女子大生,大沼恵美子と
村 山 篭 J 199 少しかかわることになったり,篭子への同級生としての評価もできる1ン‘場
にある。そして何よりも当時の県女のありさま,雰囲気を伝えうる人物の
おひとりであられた。お話の全体ほ貴重なものと考えられる。(Hほ浜田 さんのことば,Yはやまさきである。)なお,やまさきは逸見トキにお逢い したく,へソミ文具店を訪れたとき,高齢のかの女はすでに.重病の床にあ り,ついにまみ㌧える機会を失ったのである。Y それではお願いします。ここはじつにいい所ですね。
H もとは三百坪以上で,山田家のものです。山田は一・橋大学,フランス 語の江」田九朗で,主人はその弟なんです。もともと九番丁に.あったお 屋敷を交換に,ここが山田のものになりました。中央町でも,最も古 い地所のひとつです。Y あの山田先生とは知りませんでした。
H 山田は東京におりますが,ここの本来の所有者なんです。 Y ご主人ほ何をなさっておられたのでしょうか?H もとはグリコにつとめておりましたが,家庭の事情で高松へ帰り,高
松商業の校長になりました。Y これはおみそれしました。あの先生を私もよく存知上げております。
おどろきました。あの浜田先生ですか1・。そういえば,失礼ではあ りますが,おつむのハゲ加減も山田先生に似ていらっしゃいます。 H はい。志度商の校長もいたしました。戦争のあとでしたが‥‥。その 頃の住み家は志度寺の奥の院の借家でした。 Y ところで,県女卒業時の写真等はおもちでしょうか? H 全部,戦災で焼きました。何にもありません。Y 県女時代の校長先生のお名前を教えで下さい。
H l年のときは,麟 岩次(ェクボ・イワジ)先生です。ロヒゲをはや
した力で,丸亀の中府から通っていたのです。この先生の奥さんが投
身自殺をなさったということがあり,生徒たち,みんなが,びっくりひだか したことがありましたね。そのあと,日高校長先生(名は佐七)がこ
られました。この方は眼鏡(メガネ)をかけた人ですが,厳格な人
で,生徒が髪の毛をうしろで結んで下げているのがフシダラというこ とで反対し,やかましく,いわれる方です。鹿児島出身でしたが,私はこの校長先生に感謝しているんです。というのも,この方の努力で
女学校の4年生の上に,技芸と文科との2コースを作り,5年目の課
程をつくられたんですよ。私は文科に行って教員免許をもらったので ひだか す。のちに私が先生をするとき,大変役に立ちました。この,日高校長先生は,師範から来られました。一腰に師範の校長さんから女学校
にはこられませんから,そこの教頭か何かであったのでしょうか−。 Y 卒業のときはどうでしたか? 校長先生のお名前です。H はい。嶺 錬次郎(みね・れんじろう)先生でした。じつはね,県女
をつくったのは山田の祖父なんですよ。山田尚偶(やまだ・ひさす
け)といってね,進徳女学校という私学をこの近くの大きな寺の一・角 につくったんですよ。私のシウトメの祖父でした。岡内治太さんといっしょに。そうして,やがて県がこの学校を収用して県立の女学校
にしたのです。Y 立派な方だったんですね。
ところで卒業のときに劇をしたときいているんですが,どんな劇
だったのですか? H はい。西郷隆盛の銅像があって,その前でいろいろの役の人を生徒がやるといったもので,私は目が見えないアンマの役でした。杖をつい
てやりました。そしてアンマの歌をうたいました。「アンマ カミシ
モ18モン」というのです。梅津先生が教えてくれました。この歌を。こういう劇は,寄宿舎の生徒が企画したんです。寄宿舎の人はいつ
もやっていで慣れていて,とっても上手でしたね。案はいつも寄宿舎
の人が練ったんですね。 西郷さんの銅像は桑原さんがやりました。オナカに着物か衣煩かを入れて大きくして,いかにも西郷さんらしい姿をしたのです。大変お
かしかったのです。だれかが子守の役,はかの何かの役と,いろいろ村 山 慧 f 201 変装したものです。磯野さんも造酒(みき)さんもしました。クジを ひいて役をきめたのです。 Y 修学旅行にはゆかれましたか?
H 私は,ゆきません。私ほさらに1年を加えましたし,そのときから,
し お金も要ったしで∴旅行はやめました。断念したのです。だから,写 真も何もありません。 Y 県女時代は放課後ほ何をなされましたか? H テニスとピンポンです。テニスほ県女に3面のコートがありました。 授業がおわってから,やりましたね。対抗試合はございません。たのしみでやるのです。雨が降ればテニスはできません。雨天体操場でピ
ンポンをやるのです。これもたのしみでやるのです。
Y 帰宅したら,すくヾに勉強ですか?H 私はお琴をしました。
Y 梅津先生はどんな先生でしたか?
H ハイカラな先生でした。1週間ごとに服装を変え.る先生でした。裏表 のない先生でした。何ごとも,パ・−ン,パ・−ンとはね返ってくる先生 でした。マークされていた松村さん(旧姓,村井)ほ何かあると,あ んたが元凶ということでうたがいをかけられ,梅津先生をキラってい ましたが,最近,梅津先生に逢って,昔のことを忘れて仲好くしているのです…‖・。私はそんなことはなかったのです。まあ,舎監の先生
は嫌われていたんですね。舎監の先生ほ損ですね……1・。梅津先生から は国語を習いました。Y 松村さんや岡内さんはマークされる生徒でしたので,梅津先生をキ
ラっていたのでしょうね。発展家はマークされますね。
H そうです。マークされていましたね。目立っていましたから‥い。しかし,いわゆる不良少女でほないのです。実際のわるい生徒ではあり
ませんね。 私たちからみれば,岡内さん宅にはピアノがあり,お父さんはシル クハットをかぶり,西洋的で,ふつうの商売人には全くみえなかったんです。あんな家庭に育っているので,われわれとほ随分ちがう。お
母さんにしても,随分・モダ−ンでしたし,『婦人之友』をよんだり, 「自由学園」にゆくなんてことも,当時の高松では,あたらしい,超 モダ・−ソなお家になると思うんです。 Y 岡内さんの友人ほ.なんとなく少ないようですが‥‥。 H そうです。岡内さんほ,ああしたお金持の商家で,雰囲気がモダ1−ン であるし,本人が発展家で先生方がマ・−クしておるし,本人はいわゆ る社交家でほありませんから,−−・部の少数の友人しかいないようです ね。 Y 私,まえに林千代さんに手紙をかいて,なんのお返事もなかったのです。同じ水泳部にいて活躍されておられるので,よく知っているはず
なんですね。やはり,林さんは岡内さんがキライなのでしょうか? 何か,こう,あんまり話したくないという夙に感じられるんですね。水泳の競争相手だからか,ともおもうんですね。
H そうかも知れません。私はお千代さんと親しいので,きいてみます。そのようなことは十分考えられます。窯子さんについてほ,わるい人
ではないけれども,よりつきにくいというか,敬遠するというか,何かこう,不思議に遠ざけられることがあったと思います。田舎の女学
校のことだから。友だちほ多くはなかったと思いますね。
Y 浜田さんがとくに親しかった県女の友人はどなたですか? H それはやはり林千代さん。お千代さんです。小学校が同じ附属小学校 だからでもあります。本当に親しかった。それから,赤松さんも親しかったし,土井原さんも親しかったですね。
Y 例の藤川柴子さんはご存知のことと思いますが…。
H あの方は上級生です。あの坪井柴子さんもススンでいましたね。奈良 を中退したのもススンでいたからですね。あの方は弟さんが私と同級 なんです。岡内さん,松村さん,坪井さん,みんなススンでいましたが,モ
ダーソなんですね。けっして,いわゆるわるいのではないんですが,村 山 浩 子 203
誤解されますね,あの頃の雰囲気では。さいきんのなんかは無茶苦茶
なんですから,比較にもなりませんね。
Y この間のような同窓同級の会は,いつも柴田さんのお家でなさるので すか?H 以前鱒ね。私のうちでもやっていました。ですから,みんな,うちを
知ってるんです。 柴田さんが足元がわるいし,場所がいい所なので,あそこへ行けば 柴田さんが楽だし,手伝ってくれるお嫁さんがいるのでね。でも,早 く行くとじゃまなので,あの日も県庁のロビーに午前10時に・あつまっ てから,柴田さんの家にみんなで行ったのです。孫や子供に・単にのせ てきて貰い,県庁にあつまったら,県庁はみんなが知っているので便 利なんですよ。 Y 中射でとくに成桁のよかったのはどなたですか? H そう。六串富枝さんです。大変よぐできましたが,植松家に嫁し,呉 服屋のオカミサンに/なりました。そんな成騎だから,もっとほかの人のお嫁さんになるかとも思いましたが…。
Y お子様ほ何人おありですか? H 男の子はふたりでしたが,みんな若いときに亡くなりました。女の子供が4人です。1人は東京,1人ほ京都,あとふたりほこちらで,う
ち1人は牟礼,もう1人ほ三条のはうです。 Y それなら,近くに.おられて,まことによいことですね。 H よく訪ねてくれますよ。買物の手伝いもしてくれるんです。いま男の 子がいないので,親類の子供があとを継いでくれるというので釆てく れています。結婚のためにも,いまは1人で生活しています。明善短 大の先生なんです。Y 20歳台ですか?
H 20歳台のおわりです。Y その方のご両親ほ? またその方のご専門ほ何でしょうか?
H 東京なので,こういう夏休みはすくヾノ東京に帰るんですよ。英語を教えたり,いろいろやらなくちゃならないのが短大ですね。しかし専門は
経済です。 Y そうすると,私と同じですね。ところで,いつもここでひとりでご生活なんですか?お元気のご
様子で何よりですが…。
H 昨年の暮から,4カ月ばかり入院したんです。庭の草をとっていて,
立ち上がれなくなったんです。すぐ入院しました。背骨が弱っている
のです。やはりカルシウム不足なので牛乳をのむこと,カルシウムの
食事などに注意することです。
Y 牛乳はそんなによいのですか?H 牛乳にはカルシウムがふくまれているんですね。しかし,本物の,よ
い牛乳でないといけません。Y 詔はかわりますが,昨年の夏に東京の女子大生(大沼恵美子さんのこ
と)から章子研究で連絡があったと思いますが,ご記憶でしょうか?
Ⅱ はい。変,れは湯浅(美恵子)先生からの連絡だと思います。
Y 湯浅先生はどういうことでそんな立場になるのですか?H 学校にお客様がみえて,同窓会のことや古い卒業生のことを尋ねられ
ると,湯浅先生に照会することになるんです。それほ学校と同窓会の
つなぎの役を湯浅先生がなされているからなんですね。
私は岡内さんとは覿がちがうし,こまかいことを知っているわけで
はありませんが,大正9年卒の同級の会は逸見さんと2人でやって釆
ました。しかし,いまはひとりで何かと連絡しているので,大正9年
卒となると,私に連絡されることになるんですね。
あの女子大生は岡内さんのお墓にもゆかれたそうですね。
Y はい。私が案内しました。その朝でした。そしてそのあとで高松高校
へゆくのも私がつよく促したのです。あの日の午後も,自転車に乗っ
て,大的場近くの章子さんの両親の墓にも私はかの女を案内してさし
あげました。その折の蝉時雨が私は忘れられません。
ところで先程の林千代さん。お千代さんにきいておいていただきた
村 山 舞 子 205
いのは,岡内さんについての率直な意見なんです。繁子さんのイメー
ジがこわれてもー何にかまいません。H 私には本当のことをいうはずです。しかし,それをそのまま,お伝え
してよいかは,内容によりますが…・…。この間の会のときが好い機会 でしたね。Y 私としては,林さんから,直接お伺いしたいことなんです。この間の
ときも,ニコニコお笑いになるだけで,私がお話しても,だまってお られました。かまってもらえないという感じです。H お千代さんはり入退院をくりかえされているので……。大きな病気と
は思われませんが。Y お話はできるのでしょう?私には入院するのでお逢いできないとい
うことをくりかえされるんです。それと,岡内さんについては何も知
らないという風な,そぶりばかりをなさるんです。 H 入院といっても,詔はいくらでもできるはずです。まえに入院したと き,松村さんが帰高されてお見舞に行こうと串でさがし廻って結局,わからずじまいだったんですよ。息子さんがゲンといううどん展を
やっているので,ゲンを訪ねてみたら,なんと,その日は休業だったんですね。逢えないときとは,そんなものです。
(この日の印象から)浜田さんは,全体としては大変慎重であった。これはご性格か,お年の
せいか,西観でないせいか,章子タイプへのこだわりか,あるいは世話役
で「公人」的配慮をなされておられるのか,高松という地方都市での話題
への配慮でもあろうか。川井さんや松村さんのように初対面から,カラッ
として明けっぴろ捌こ,打ちとけて話に興ずるというのとはややちがって
いた。しかし,県女・同窓全体について他者に迷惑のかからぬことは何でも
話をする,後代にも伝えるという姿勢を感得した。そうして翌日に,やま
さきは浜田さんに電話をいれ,御礼と共に千代さんのことを尋ねたのであ
る。浜田さんほ,お千代さんのいったことを早速こう伝えて下さった。千
代さん日く「やはり,英語の小川先生から,篭子さんについて注意され,
つきあわぬようにいわれて,あまりつきあうことをしなかった」というの
である。お千代さんは,「それ以上,芳子さんについては知らない」ともい
われたと伺言された。お千代さんが同じ水泳部にいて,水泳の同格なのは
詩子さんとお千代さんのみというふたりがつきあうことをしなかったというのである。また,林千代に直接に逢いたいという,やまさきの願いを浜
田さんは伝言し,とりもって下さったのだが,結論は,お千代さんは膿が
痛くて,車で病院通いをしているのでいまは逢いにくいらしい,というこ
とになった。浜田さんは,さらに話をついで,昨日の劇の歌で想いだしたことがあり
ますといわれ,劇の最後で,出演者の12,3人で歌ったウタの一節を披露
されたのである。その一節とは,「九月二十三日 アサマヤマヤプレ カ
ワチシンガトンガ ワラジ 片一・方……セミトノヤスカラ キリノ トンア キ ススミ ラッパデュサユケドンドン……」というもの。「なんの意
味だか,今はさっぱりわからぬ」と大笑いをされた。また,この件につい
て,磯部さんに電話をすると,子守役をしたことは本人が覚えていたが,
みんなで歌ったこのうたは全く覚えていないし,そんな歌があったことも
知らぬといわれたが,浜田さんはこのことをまざまざと想い浮かべること
ができるというのである。そして,この劇は,中組だけでやったように思
うし,また,この劇を「活劇」と呼んだようにも思うと付言されるので
あった。電話の向うで,笑いながら,もう70年もまえのことです,ともいわ
れた。この電詔のあと,さらに約1カ月余が経って,やまさきは浜田さんに電
話して,主として水泳について伺ったが,それを以下に記したい。浜田さ
んも,いまはもう亡い方であり,ありがたい想い出をのこしていただいた
と感謝の念で一杯である。心からご冥福をいのりたい。
(1カ月後の電話でのお話) H:‘みんな元気でやっています。しかし林千代さんはあいかわらず病院と207 村 山 篭 J
自宅をゆききしています。川井さんもリハビリしているようです。水
泳は私もやりました。しかし,遠泳まではやりませんでした。女学校
にプー・ルなどはありません。みんな人的場でした。先珪が背の立つ所
まで歩いて行って,そこから岸に向かって泳ぐように,つよく,いわ
れました。これはよくおぼえていますね。お千代さんや岡内さんは上
段,自分は中段でした。先生の前でほ上段のように振舞っていました
が…。岡内さんなどは上段を超えて−小先生でしたね。先生は絹漉先
生でした。泳ぎは片輿斗泳ぎ。うまぐなると両毅斗でした。私は片輿
斗です。(やまさきが「女学生」の傘泳ぎのことをのべてみたが,浜田
さんは傘泳ぎをご存知でない様子であった。)(やまさきは,山田ヒサ
スケの漢字表現をたしかめると共に,林千代さんにお逢いしたい旨を
伝えてはしいことを伝えた。)
みきえみ第3回 話し手 造酒恵美(旧姓,高橋)(市川苗の御宅にて)
みき(造酒さんの紹介) 造酒さんは大正9年3月,県立高松高女の卒業
で篭子の同級生である。しかし,西観ではなく,章子と個人的に親しかっ たわけではない。それにもかかわらず,豊子が4年次に寄宿舎に入れられ たために,同じ余生となり,お話にもあるように,いっしょに週番をつと めたり,篭子のうわさを耳にする立場にあった。しかも,性格も立場も異 なってはいたのだが,かの女の作品に.接する機会もあり,遠くからではあ るが親しみを感じておられたし,やまさきの質問にていねいに答えで下さ り,寄宿舎の卒業生アルバムを探して貸与して下さったり,数々の教示を いただいた。それは造酒さんならではの大事な想い出である。造酒さん は,高等小学校からの進学であるため,やや年長であったとおもわれる。 大正9年に県女を了えられ,共立女子高等師範科に入学,裁縫を学はれた。 現在の共立女子大学の由である。そのあと,高松の明善女学校に勤務(昭和3年まで),ついで母校の県女に昭和14年まで務められた。昭和16年に
造酒姓の夫と結ばれ,高橋から造酒に姓を変えられた。母校教師という立
場に立ったため,芳子の妹を教えるということもあり,また母校卒業生の 動向にも関心をもつこととなり,同級生の章子の活躍や動静にも思いをいたすこととなったようである。(以下,Mは造酒さん,Yはやまさきであ
る。) Y ご記憶にある芳子のことをお話し下さいませんか?M 戸澤民十郎は高松中学出の東大卒。田舎のお菓子屋の息子だったので
すが,百聞町で弁護士をやったあと,代議士となり,東京の巣鴨に住んでおりました。その民十郎さんの兄の子供に,戸渾サワ子さんがい
て,私より3つ年上で兄の友達だったんです。束京で結女昏なさって姓 が変わられていましたが,大正9年,私は女学校を卒業して,そのサ ワ子さんを尋ねて上京,民十郎さんの巣鴨の家へ行きますと,そこに 舞子さんがおり,かの女の部屋にスズリ箱がありまして,歌が沢山か いてございまして,おどろきました。章子さんに,こんな文才があったのか,とおもったのです。そのような才能がかの女にあることを知
らなかったのです。民十郎,サワ子さんはともに小豆島,内海の安田の出身。私の場合も父は内海町安田の出身で高橋と申しました。私の
母も高橋と申しまして高松市内の内町で,米問屋でございました。
Y 女学校時代のことをお詔下さい。
M 私のうちは小豆島なので自宅通学はできません。4年間通して寄宿舎
にほいって教室に通いました。舞子さんとの思い出は,寄宿舎で週番
をいっしょにしたことです。週番というのは,寄宿舎で舎監の先生に
命じられるものですが,4人がいっしょに舎監室に.詰めて,机を4つ おき,先生に命じられる用事をするんです。岡内さんとそれをいっ しょにしたのです。週番ほ3年,4年次に.あたるのでした。期間は1 週間です。村 山 舞 子 209
dヨdヨ
正ヨ可∃
(4人の週番生徒)[コp
(舎監) Y 章子とは同室ではありませんでしたか? えんとうまつよ M はい。同室ではなかったのです。章子さんは西組の遠藤松代という, 真面目で模範的な方が室長をやっておられる部屋にほいりました。遠藤さんほ結婚後は,間島姓になりました。
Y 遠藤さんはお元気でしょうか?M いいえ,亡くなられました。部屋はいずれも24畳もあり,8∼9人が
そこで生活をするのです。勉強するときは部屋に2つある電球の下に 机をあつめて勉強し,午後9時までやりますが,おわると机を部屋のおくに 隅に・おきます。小国さんという名の小使いさんが拍子木をたたいて,
それは午後9時なんですが,これを合図に消灯になるわけなんです。 また,そのときにほ,生徒は部屋を出て,舎監の部屋へ行って,「お体碁
占
師手前
行7行予
行弓師
何千戸
みなさい」と部屋ごとにあいさつに行くんです。朝ほ,夏は午前5時 に小国さんの拍子木が鳴って起床するんです。 章子さんは,家にムラクモニコウの家があって∴「お成りの間」なる 部屋もあるのですが,そこへは自由に出はいりもできないなどといっ てこいたことをおもいだします。それは階段のある神社であるときいて もいたんです。 卒業後はすでに申しましたように,戸澤さんの家で一寸あったのち は,ウワサ詔を耳にしました。それは何でも,どこに入口があり,ど こに出口があるのか,わからないような三角の家に住み,また,夫婦 も,どっちが女か男かわからぬような,主人は髪が長く,要は髪が短
く,旦那さまはMAVO式とかいう芸術をやっているなどという話を
ききました。そのことは,二官さん(旧姓,前谷)が教えてくれたん です。 Y 県女のあと,どんな道を辿られたのでしょうか?M 大正9年女学校を出て,共立女子高等師範科に入学しました。ここは
裁縫の学校でした。自分は裁縫が好きではないのに,とうなったので
しょうね。(ここで造酒さんは苦笑された。)そのあと明善女学校に昭 和3年までつとめまして,この年から昭和14年まで県女につとめるこ ととなりました。造酒と結婚したのほ,昭和16年でした。 じつは,私の子供が4,5歳のとき,絵本を買い与えたんですが, その中に村山窯子さんの童話があって,アラッとおどろいたことがあります。それは何でも翻訳物だったように思いますね。その後,終戦
後に,栃木にいたとき,『ありし日の妻の手紙』を買ってよんだことが あります。その本もある管で,今回も探してみたのですが,みつかり ませんでした。 Y ご主人は何をなさっておられたのですか?M 鉄クズを電気でとかす会社の工場長でした。昭和17,8年頃から,主
人の会社の関係で栃木に住みました。私は主人の月給袋を1度もみた
ことがありませんし,ボ・−ナスなんぞほ全く知りませんでした。主人211 村 山 章 子
はカタブツで,自分は主人を信用していたのです。この子菓の市川に
きましたのは,ノ息子の関係で終戦後にまいりました。
Y 女学校時代の租は何ぐみですか?M 自分ほ中級でした。さきはどの遠藤さんは西組で昭和51年に亡くなら
れたように思います。私は西観ではないため,章子さんをよく知って
いるとはいえませんが,寄宿舎でいっしょに週番をして−,急に知りあ
いになりました。かの女は4年の2学期に.寄宿舎にはいってきたので
す。大正9年の寄宿舎の卒業記念の「写真帖」にのっていますから,
9年の卒業まぎわまで舎生だったと思いますね。それほ部屋の人たち
8人位の人と写したものなんです。自分が持っているのですが,い
ま,みつからないので残念です。
かの女には問題があって寄宿舎にはいってきたのでした。間島さん
(遠藤さんの新姓をここでいわれる)から亡くなる前にきいたのです。
また間島さんから,篭子さんが日誌を校長先生に提出していたことも
ききました。しかし,私ほ,当時,そんなことを全く知りませんでし
たし,かの女がそんな人のようにも見えませんでしたね。
Y 竃子はどういう人でしたか?M おとなしい人。おしゃべりをしない人。余計なことをいわない人と思
いました。いい方だと思いました。Y なぜ戸澤さんの所に,かの女はいたのでしょうか?
M おそらく,おうち(岡内家)の紹介かなんかでそこにおられたのだと
思います。くに 私は,簑子さんの妹さんの,京さんを教えました。笥子さん姉妹は
洋服で育ったのですが,私は着物で育ちました。なぜ,かの女‥たちは
洋服というモダーソな育ちかたをしたんでしょうか?Y それはお母さんの影響と思います。お母さんも県女出で,男の子のよ
うに育てられ,モダーンな教育をうけました。洋風の趣味があり,馬
に乗り,水泳をやりました。英語を習ったりもしているんです。お父
さんもじつにノ、イカラな西洋紳士風の人でした。M それは知りませんでした。そうでしたか‥。
香川大学の大西銃作先生をご存知ですか? Y はい,知って、おりますが,あの方はご定年で大学のほうは去られてお られます。 M 凌〉の方の奥さまも私はお教えしました。さいきん,ご主人の叙勲のこ とで電話をいただきました。Y 林千代さんをご存知ですか?水泳をなさるので芳子さんをよく知っ
ておられる筈の方です。いつもご返事がありません…。
M はい,林さんは中観です。筆まめではございませんが,以前この近くにお住みのときは,ここへも釆て下さいました。いまほ年賀状をいた
だいています。Y いちど,あの方のおうちへ,不意うちででも行ってみようと思うんで
すが…。M そうされるとよいですね。
Y 東京近辺で西観の人はございませんか? M 藤澤さん,藤澤カズヱさんがいます。旧姓のままの方です。 Y 卒業のときの章子の写真,友だちといっしょに写したようなものはございませんか?私は女学校時代のかの女の写真を知らないのです。
M かの女のものは知りませんね。自分のクラスのものしかありませんか
ら。卒業時の寄宿舎の「写真帖」が唯一のものです。それがいま,− 寸,見当らないのが残念です。それから,この近くでほ,西覿の高木 ヤスさん(旧姓,北村)がおられます。梅津先生のお近ぐでもありま す。 Y 寄宿舎の状況をお教え.下さい。地図にして下さるとありがたいのです。M ここに7番町の知事官舎とその西隣に岡内情太さまのお家があり,知
事官舎の北側に寮がございました。(地図をおかきになり,「おぼろげ ですから,正確ではありません」といわれながら)この左にある,お おく・Lに 風呂がヌルイときは手をたたくと小国という小使いさんがわかしてくれました。この方は,寄宿舎の水をポンプで全部汲みだす仕事をして
村 山 舞 子 213 おり,生徒たちは,あの人はポンプ大学を出た人だとカゲでひやかし ていたんです。(と造酒さんはいわれ,「ポンプ大学,ポンプ大学」と ことはでくりかえ.しながら当時のことを追想され,涙をうかべられた のである。)その手をたたく音がヤカマシイと知事官舎から苦情をい われたことがありましたね。小国さんは1日中,ポンプを押していた ような気がします。 寄宿舎は,もとは2棟ありましたが,交通便利になって東讃や西讃 の人が汽車で通うようになり,人数が減りましたので,1棟は商業学 校に移転しましたね。それは,私などの入学より前のことなのです が…
私は,小豆島出身なので,4年間,ずっと寄宿舎にいましたから,
小国さんの拍子木の音を4年間きいたのです。小国さんはお目がわる
く,多分,斜視の方だったとも思いますね。世帯をもっておられない 人にもみえましたね。 Y はかにもお世話の方はおられませんか?M ときに寝ずの番をする人がいたこともあります。それは泥棒がはいっ
たかどうかで雇われた方でね。夜警の人のようでした。
Y 舎生は何人位,おられたのですか?M l階,2階に12,3室位ありましたから,全部で百人位以上ほいたと
思います。1年から4年までコミにはいらされ,希望通りにはゆきま
せんでした。先生が部屋割をきめます。そして学期ごとにかわるんで
す。 また,はじっこの部屋濫「豪傑」(ゴーサツ)がいました。都合4人の「豪傑」一各階の両脇に1人ずつ−が配属されました。「豪傑」
は成績優秀でしっかり者です。その人がはじっこで全体をひきしめている,あるいは監督しているという感じでした。
Y そうすると,遠藤松代さんはその「豪傑」のひとりなんですね? M そうです。「豪傑」です。(と造酒さんは微笑された。) Y 寄宿舎の生活で印象的な行事はございませんか?M 毎年,3学期に送別会をします。3年以下の下級生が大食堂に柳を
飾って劇をしたり,歌をうたいました。宝塚がはやりだしたときでし
たから,私たちはその真似がしたくて,やりました。じつに・たのし かったです。Y そういうとき,先生がやかましく禁止したりはしなかったのですか?
M そういうことはありませんでした。
Y そんな劇のときの詰子の想い出はありませんか?M ありません。
Y そういえば,かの女は4年のとき,しかも2学期からだとすれば,下
級生としてやるときはいなかったですね。村1L一 語 イ 215
M そうです。それですから,かの女の姿は,この送別会にからめてはお
もいだせません。Y 「五大国婦人会議」という劇のことほご存知でありませんか? 卒業
のときの‥…‖。私もよく知らないので,寄宿舎のことではないかも知れませんい。
M 知りません。そういう劇のことはきいたことがありませんね。
Y 今日はありがとうございました。
(この日の印象から) 造酒さんは少し腰がまがっておられ,お背も高い方ではなかったが,お 元気で当時のことを明晰におぼえておられ,てきばきと質問をさばいて下 さった。凌)いまいな所ほ全くない方であった。しかも,律義で,ていねい で礼儀正しく,頭の下る思いである。お話の途中でほ,そのむかしの友だ ちや先生の姿がはうふつとされるのか,なつかしさ−・杯となり,何度も目 に涙をうかべ,それをぬぐわれず,そのお顔のまま,つとめて楽しく回想 されるべく努力され,やまさきも貰い泣きをくりかえしてお話を伺ったの である。県女大正9年卒の方の友だちを想い,過してきた人生のふかさを 自らかたられたように思われた。 お話から,はっきりしたことのひとつは寄宿舎で章子の友人としてアド バイザ1−となったのほ,造酒さんでなく,遠藤松代であったこ と,その遠 藤ほ芳子が日誌を毎日,校長に提出していたことも知っていたこと,そう いう点で遠藤が学校側の指示に.より,詩子の御用掛であったが,そのことを友人の誰にも知らさず,その任務を遂行したことが判明した。遠藤が同
室であり,同じ西観であることもわかって,私が是非とも,この室長に逢 いたいと思ったとき,すでに逝去されていて,このことはかなえられな かった。しかし,遠藤は亡くなられる前に.造酒さんに等子のことをいくら か打ち明けておられたのである。これほ造酒さんを信用しておこなったことのように思われる。私はこの点で遠藤松代に,ある魅力と限りない重た
さをおぼえ,生前にお会いできなかったくやしさが残るのである。また,造酒さんが寄宿舎で知る章子ついて「おとなしい人。おしゃべり
をしない人。余計なことをいわない人と思いました。いい方だと思いまし
た」といわれたことも,簿子と個人的につきあいのなかった造酒さんの率 直な印象として貴重である。これほ寄宿舎で起居していた章子の立居振舞 が友人にどうみえていたかの証言である。 市川市の造酒さん宅を私が辞去するとき,玄関を出て,露路を経て,表 通りまで送って下さり,数百メ・−トルを駅まで歩く私を立ったまま身じろぎもせず,みつめて下さったのには恐縮至極であった。造酒さんの真面目
なスタイルは東京近郊のたたずまいからほ私には違和感があり,いつも讃 岐人で小豆島出身という造酒さん,県女の先生であられたので造酒先生と よばせていただき,この造酒先生の友情,母枚への愛,そして郷運への想 いを私ほ胸に.たたんだのである。造酒さんもいまは亡い方であり,ここに 心からご冥福をおいのりしたい。 ところで,以上の「聞きがき」から,丁度,1年を経て再び造酒さんを 市川市のご自宅に訪ねて,寄宿舎の「写真帖」をかたわらにお話を伺い, しかも,無期限といわれて,このアルバムをお借りできることになった。 この再会の「聞きがき」をつぎにしるすことにしたい。 Y どうもおくれてすみません。−・駅先におりまして江戸川区をウロウロしてまちがえたように思います。駅の様子がよく似ていて,早くしな
ければl……と考えたことが裏目にでてしまいました。 M いやいや,このあたりはよく似ているんですよ。Y ところで川井キヌさんがアメリカの友人から手に入れた写真はごらん
になりましたか?M はい。川井さんがもってきてくれまして,みました。あれは梅津先生
なんかもごらんになったと思います。Y 寿子が自由学園にはいったのは大正10年ですが,県女卒業の写真帖は
大正9年でしょうね? M そうすると,私が東京の戸澤さん宅で短歌をかいている章子さんをみ村 山 怒 子 217 たのは大正10年でしょうかね。私は大正9年と思っていましたがl…。 Y そうです。自由学園高等科のできたのは,大正10年なのです。凌)れは 羽仁説子さんのために,もと子さんが創った学校ですが,病気のため に1年おくれたので11年にはいられたことになります。
M そうすると,岡内さんは説子さんとは同級ではないのですか?
Y そうです。説子さんは1年下なんです。M それは知りませんでした。同級だと思っていました。
Y もちろん,ふたりほよく知りあっておりました。学年はちがうのです が,小さな学校ですし,寿子は羽仁家に出入りする関係にありました から。 ところでそのアルバムを探しだして下さり,みせていただくことが できるようで楽しみです。 M これがそれですよ。「記念写真帖」となっていて,寄宿舎の生徒の写真 なんです。大正9年3月,私たちが卒業するときのものです。(ここで 造酒さんは章子のうつっている写真をひとつひとつ説明されたが,す でにパラフィンの透明保護紙上に○印を付して待っていて下さったこ とが認められた。) Y これでみると,みんな和服ですね。 M はい。岡内さんは,家では洋服を着ているハイカラな友だちとして有名でした。岡内さんげノドの所に2,3本,毛が生えていまして,し
じゅう洋服を着ていると,ああなると,私たちは笑ってうわさをした ことがあるんです。 Y 写真の中にある山本というのは? M この人は小使いさんと思います。あまり記憶にありません。本校兼用 の人でしょうね。 Y 小国さんは? この人は昨年に伺ったような気もします。M この人は受付をしたり,小使いさんでございまして,寄宿舎いちばん
の小使いさんでした。1日中,水汲みをしていて,生徒たちはポンプ 大学卒業生といっていたんです。お風呂をわかしてくれました。Y この植田という人は?
M 門衛です。通学門の。
Y 末包という人は? M 寄宿舎の小使いさんで,毎日,寝ずの番をしてくれました。 Y この岩国となっている人は?M 炊事のおばさんの子供ですね。
Y 寄宿舎に門限はございましたでしょうか? 外出するときほどうする
のでしょうか?M 門限はもちろん,ございました。昼間でも,外出するときは届出を
一・々して,何時何十分から何時何分までどこそこへゆくとかき,舎監 に.提出するんです。夜などは外出できませんでした。ただ,八幡さん の祭の夜は寄宿舎の帯をつけ,ハカマをはかないで,寄宿舎のチヨー チンをもって二行きました。お菓子頼はいっさい買ってはならないので した。ただ祭の中を歩いて帰るだけなんです。 Y そうすると,寄宿舎ではお菓子顆は全く食べられないんでしょうか?M 日曜日,水曜日にのみ,お3時にお菓子がつきます。おせんべい,お
まめのようなもの(3銭のものです。かならず3銭ときまっていまし
た)がつくのでした。 Y 親元から果物類を送ることはできたのですか? M そういうことは禁じられておりました。たしか,そのようになってい ました。 ただね。外出のとき,丸亀町などのお店で,シラスボシを買ってきて,食堂においておくのはよかったんです。部屋で食べることはご法
度だったんです。しかし,私はじつは,兵庫町か片原町かで,タナカ ・マンジ.ユウ(ひとつ5厘のウスカワ・マンジュウ)を買って来て,ひそかに食べたことがあります。自分ひとりで食べました。部屋にひ
とりのこされたときです。20コも食べたように思います。たしか,部 屋のひとりが赤痢にかかって隔離され,同室の私も寄宿舎で隔離され たんです。お琴の部屋に隔離されたのでした。219 村 山 舞 子 Y 藤澤カズェ・さんはお元気ですか? 寄宿舎にいた方ですが‥。 M はい,元気です。
Y 川井さんほ最近の上京の折に梅津先生に逢われたのでしょうか。ま
た,先程いわれたことなんです−が,念のために,例の写真を梅棒先生 はごらんになられたのでしょうか?M はい。ことしの4月のはじめ,上京の折に逢われましたね。写真もみ
られました。友人が上京してきますと,時間のゆるす限り,先生と友 だちはみんな逢うのですよ。 お金の話ですが,当時の県女でほ授業料と寄宿舎の食費を全部あわ せて10円で十分に足りたように思います。また校友会費は15銭だった んです。Y 成績のあらわし方なんですが,県女では甲乙丙丁評価なんでしょう
か,それとも点数だったのでしょうか? 生徒や父兄に手渡す分なん ですが…・。M 成拾は点数だったと思うんです。例えば,私は裁縫のはうでも,86点
もくれたように思います。自分には4年の時の成績だけがのこってい たように思うんです。 Y お差し支えなければそれをみせていただけないでしょうか? M さがしてみます。〔といって心当りの文箱や,あちこちの部屋を探さ れ,20分間探索につとめられたが,発見できなかった。〕Y 造酒さんの成績はいいでしょうね。学校にのこられる位なんだか
ら…。
M 〔それに直接こたえられず。肯定の笑顔をもっていわれる。〕
あのね,寄宿舎にいましたら,勉強させられるんです。はかにするこ とはないし,自習の時間が強制的にありますから。 Y いろいろ,ありがとうございました。 (この日の印象から) 「記念写真帖」を中心に.,寮生活のこと,章子の舎生としての生活の証拠がいっそう正確に示され,かの女の評伝の上でじつに重要な「聞きが
き」の1日であった。この「写真帖」は貴重な逸品であり,これを貸与されて大切にもちかえることができた。上記の成績についても,またの機会
に探してみることとなり,「是非そうしていただきたい」とたのんで,造酒 さんとわかれた。例に.よって玄関に出て,四つ辻をまがるまで造酒さんほ見送ってくれた。その丁重さと律義さには頭が下るのである。そうして,
このときが造酒さんとの,この世でのわかれとなった。 この話の中での,戸澤民十郎の家での造酒さんと寿子の出合いが大正9 年であるか,10年であるかについては,舞子が県女卒業後∴薬学専門学校 に進学したという説があり,上京が自由学園進学時に限らないことから, 大正10年にこだわることはできないことである。造酒さんの記憶にある大 正9年(それは造酒さんの共立女高師進学に.よる上京年である)はまちが いでほ.ないということも十分ありうる。このことを生前の造酒さんに改め て−お伝えする機会をもちえなかった。 なお,「記念写真帖」によって,寄宿舎にいくつ部屋があり,簿子の部屋に同室であった者,舎生として大正9年3月に卒業した者の氏名,全体
の人数,下級生の人数など,こうしたデータがすべて確認できるのであっ て,これらは別の機会に集約の上,発表する予定である。造酒さんのお話 について,この「写真帖」に照らして,かきあらためたり,修正したりす ることも可能であり,必要でもあるだろうが,「聞きがき」はそれ自体が, 躍動して生気があり,それはそのまま,ここに記録したのである。造酒恵 美さんの大切な想い出話,そしてかの女との出合いに,やまさきは感謝し,改めてご冥福をいのりたい。章子のノドに2,3本の毛が生えてい
て,それが洋服のせいだとする大正時代の,いかにも女学生らしい批評ほ 貴重な想い出のひとつである。村 山 章 子 221
第4回 話し手 藤川柴子(旧姓,坪井)
(高田馬場のご自宅にて)(解介) 藤川さんは県立高松高女において,寿子より2年先輩にあた
り,県女時代,ふたりはSの関係にあって,終生の友であった。しかし, つきあいは浩子の県女時代から知義との結婚初期までと,後年,知義が朝 鮮に「亡命」したあとの数年間の晩年においでであった。県女時代の友で あって,かつ,章子の晩年の友というのほ藤川栄子以外にはひとりもいな い。したがって十代の友であって,大人となり,40歳前後の女性としても 親しくしたのは藤川のみである。そういう点で,藤川の寿子評,蕃子観は 貴重である。そして藤川もまた章子の親友らしく,すこぶる気さくで,さ わやかで,無欲てんたんの人であった。その上,私に対しても,じつに胸 襟を開いて接して下さり,いいにくいこと,普通の人ならばいいはばかる ことなども,研究上の必要ということから,私には多くの証言をしていた だいた。これはひとつには,章子という女性への藤川の愛情によること, ふたつには,やまさきの研究の意図を理解して下さったこと,そうして, みっつめには何よりも藤川が芸術家であって,一種の「魂」への信義に篤 いということに.よると思われる。それだけに,以下の開きがきでは一部ほ省略して記録せざるをえない。いずれ時を得て,全でを公開できる日を待
ちたいと思う。とこ.ろで県女時代の章子を知る友人の聞きがきの話し手として,藤川は唯一の「有名人」であるといえよう。かの女は芸術院会員の
藤川勇造の妻であり,二科会に属する画家であり,実姉は戯曲家,作家,三好十郎の妻となった。勇造はロダンの直弟子であり,じつに雄渾な作風
のある彫刻家であり,芸術家としてはこれからというときに急逝し,あと に.残された35歳の藤川さんはその後の生睦をひとりで頑張られた。勇造作 品の多くが高松の県文化会館の館蔵品として年中,永久展示されている。 なお,藤川柴子は附属小学校出であるため,寿子とは小学校をことにして おり,ふたりの出逢いは県女に.おいてであり,舞子が入学したとき,すで に.3年生であった藤川は出逢いのあと,すぐ意気投合して,両名はかくしだてをしない友情を育てた。ふたりは本省でつきあったので表面で美化し
あうたくヾいの関係ではなかった。(以下,Fは藤川,Yはやまさきであ
る。) F ほじめに少し画のはなしをしましょう。最近はね,うまい画かきはいますが,魂をゆさぶる画がありませんね。そんな中で純粋な画は山口
薫のものなんです。さいきん,ガンで亡くなったんです。惜しいこと です。また,さいきんの私はね,北斎に感心しているんです。日本の画かきといえるね,北斎は。感銘しています。
ところで本題にはいりまして豊子さんほニセモノでなくて,本物な んですよ。ここにり 花があるでしょう(といって藤川はアトリエ・内の花を指さされた。そこには油彩画やデッサンの対象にするべく,室内
にもちこまれた生きた花がしおれて所狭しと置いてある。また,く さった果物やくさりかけの野菜が捨てられないで,あちこちに散らば り,−・種異様な匂いがただよっていたが,藤川はそれらについて,「すばらしいでしょう。自然の花や果物や野菜ほこんなに素晴らしいの
よ,造花とは全くちがうのよ」と,やまさきに,たてつづけに,のべ ながら・…・),これが本物の花なんですよ。豊子さんほそのホンモノなんです。かの女には借りものはひとつもないのです。大きな仕事を
野心的にするといった人でほありませんが,それがかえって立派なん です。あの人はね∴顔は美人ではないけれども,すはらしい人で,い い服装だったね。それもね,自分の力で,自分の感覚で着る人だった。Y どんな女学生だったのでしょうか。先生には好かれなかったようなこ
とを耳にしています。F 先生にはきらわれました。男の人には好かれましたね。
Y 何か,それに関連して艶聞を知りたいのですが・。
F そう。高中の野球の選手,ピッチャーのことで私はかの女にさそわれ て栗林公園に行きました。野球はあの公園の北門の向う側の広場であ りました。かの女は高松中学の,たしかHさんというピッチャー・にあり ‥l誉; 」■ 223 こがれていたんです。かの女の方から手紙でも出したかも知れません。 私が東京にでて釆てから,あまり時間が経っていないとき,そのピッ チャ・−が芳子さんを探して,私のところにやって釆てね,笥子さんの ことをさかんに.聞くのです。かの女はもうそんな人に興味がなくなっ て−いて−,章子さんはかれに逢うことほしなかった。その人は,法政の 学生だったと思います。かの女の力はすでに忘れていたんです。ま た,水泳では,六高のKさんという人を章子さんが好きであった。そ の人をみるために,しょっ中,大的場に.行っていました。そこで,か どうかはわかりませんが,品行がわるいというウワサがたって,監督 のために,寄宿舎に入れられたと思うんです。私の場合はね,奈良女 高師の時代に,時間外に出て門限におくれ,裏門の低いところ,みん なが通る所なので,それ(土塀)を越えてはいったんですが,ある集 会におくれただけで退校処分をうけたんです。女大学(おんなだいが く)の時代です。私はね,翌朝,母親が高松からやって来て,つれて 帰られてしまったんですよ。そんな時代です。 私は,奈良女高師退学後,目白の日本女子大に行き,ついで共学の 早稲即こゆきましたが,語子さんが水道橋の私の下宿にやって釆て,