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デカルトにおける自己認識と反省意識の構造-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

デカルトにおける自己認識と

反省意識の構造

佐 藤 公 一

序 最近別のところで r方法的懐疑とコギト」と題する小論をまとめたぷ,その 論文で書ききれなかった内容を,本論文で発展させて考えてみようと思う。そ のような事情で,本論文では上記論文と内容が重複する部分もあるが,以下の 論述において必要なので簡単にその内容を紹介して,そのうえで発展させるつ もりであったが,実際に書きだしてみると,その後気づいたり,考え直したり するところもあって,思ったより長くなった。後半部分はもちろん,前半にお いても別の内容になったかもしれない。以下の小論のし

2

においてデカルト におけるコギトの成立の現場』こふれたあと,その構造と可能性について3,4 で問題にする。まず,デカルトの問題にした範囲内でその点を検討する。その 際,非反省的意識の可能性に言及される個所が多いので 3においてそれにつ いてデカルトのテキストから集めてみた。そして4においては,デカルトのテ キストの全体を整合的に理解するために,現象学やゲシュタノレト心理学の基本 概念(志向性,反省的意識,非反省的意識や図と地)を取り入れて,デカルト における反省的認識の構造と可能性について,私の解釈を示してみた。周知の ように,反省的認識,あるいは自覚,自知においては,反省する意識と反省さ れる意識(知る自己と知られる自己)との厄介な問題が存するが,ここにへー ゲルなどの弁証法的思考のとる,区別と同一,否定と媒介というような考えは とらなかった。また,現象学の術語を使うにしても,基本的な概念の入口で留 まって、それ以上深入りすることは避けた。この問題の解決のために時間性を

(2)

2ー 香川大学経済論議 1040 導入したのは,デカルトのテキストにもあるところであるが,現象学の解決策 を援用したといわれるかもしれないが,それ以上ではない。現象学も弁証法も 魅力的なものにみえるが,入り込んでしまうことに,私は抵抗を感じるもので ある。そこで,私の提出した解決策は,甚だ不充分なものではあるが,デカル ト解釈としては多すぎたかもしれない。大方の批判を仰ぐ次第である。 1.. 普遍的懐疑 デカノレトにおいて,自己認識はコギトの成立において認められるが,それに 先立つて懐疑が行われる。そこで,われわれもデカノレトの懐疑の性格をみてみ る必要がある。 デカlレトは,懐疑の効用は,われわれを先入観から解放し,精神を感覚から 引き離すことにある,とい与)。デカルトの懐疑は,あらゆる学問の基礎となる 確実な認識に到達するための方法的手段であるとともに,精神を身体から引き 離すことを目指すものである。このために,デカルトはわれわれのうちに入り こんで来た信念の検討から始める。感覚的なものから数学的真理まで,少しで も疑う理由のあるものは,偽として斥ける。これらのデカルトの懐疑を通じて まずいえることは,きわめて意志的である,ということである。『省察JI

1

の初 めにおいて rまったく確実で疑う余地がないわけではないものに対しては,明 らかに偽であるものに対すると同じくらい用心して,同意をさし控えるべきで あ

Z

」(AT VIi,pm)といわれ,またその終わりの方で r意志をまったく反 対の方向に曲げて,私自身を欺き,それらの意見をしばらくの閉まったく偽り で幻のものと仮想してみようJ(A T. V,lI P 22)といわれる。また哲学原理』 においても rわれわれは,疑わしいものに同意することを抑制し,こうするこ とによって誤謬を避けるところの,自由意志をもっているJ(A. T. VIlト1,P. 6) といわれる。これらは,デカルトの懐疑が意志の働きによることを示している。 デカルトの懐疑は,その意志的な性格により,きわめて非日常的な性格を帯 びる。夢や欺く神の想定によって,世界や身体の存在,数学的真理までも疑う のである。デカノレト自身,単純な数学的真理の疑いについては r形而上学的な

(3)

ものJ (A

T

.

VII, P 36)と呼んでいる。すべてを疑うみずからの懐疑を,デカ ノレトは普遍的懐疑と位置づけて,大げさな……,笑うべきものJ

(

A

.

T. VII,

P

89)とか「誇張的懐疑J (A

T

.

VII,

P

叶226)と呼んでいる。これは,私の起源 の作者J(A

T

.

VII,

P

21)がまだ知られていないゆえであって,無思慮とか軽 率とかによって疑うのではなく,有力な,熟慮された理由のゆえに,疑うので あるJ(A

T

.

VII, P 21)。さてこの誇大な,形而上学的な懐疑の理由となるのは, 覚醒の現実と睡眠中の夢との区別のしるしを疑う想定と欺く神の想定である。 『方法序説』では,この夢の想定による懐疑が最終的なもので,すべてを疑う 理由となっている。『省察』においても,夢による懐疑はわれわれの覚醒時の想 念の全体に及ぶ、もので,いうならばここで懐疑の一次の普遍化が行われている。 しかし省察』においては『方法序説』と違って,その真理性が存在に関わら ない数学的真理,その中でも '2+3=5J のような,きわめて単純な事がら は夢の虚構の想定でも疑いえないとする。すなわち『省察A

1

では,夢の想定は 世界や自己の身体,その他いっさいの外的事物の実在性を疑う理由とはなって いるが,観念聞の必然的結合の明証的直観には,その疑いは及ばないのである。 後者を疑うには,欺く神の想定を必要とする。全能の神が,われわれを創造す る際,われわれが明証的に直観する事がらにおいても,われわれが誤るように, われわれを作ったかもしれない,と想定するのである。この「全能の神が欺く」 という想定は,神の善性に反する,と考えられるので,きわめて慎重に想定さ れ る が 省 察.A

1

においてデカlレトは,この上なく蹟踏を示しながらも,欺く 神の想定によって数学的真理を疑いに付した,と思われる。『哲学原理』でも, 欺く神の想定はされ,数学的真理が疑いに付される。「もしかすると神はわれわ れを,われわれにはこのうえもなく明白にみえる事がらにおいでさえ,つねに 誤るようなものとして,創造することを欲したかもしれないからである。..,,".. そのようなことも起こりうるはずだと思われるからであるJ (A

1

'

.

.

VIII-1, P 6 ) 。 こ の こ と は 省 察A3の初めにおいても,同様にいわれている (A

T

.

VII, PP 35

36)

『省察』でも『哲学原理』でも,われわれの起源の作者を,全能の神より他に

(4)

-4- 香川大学経済論議ー 1042 求めても,それは全能ではありえないのであるから,われわれがつねに誤る可 能性は増大こそすれ,減じることはないという。 かくして,われわれの起源の作者がはっきり知られないかぎり,われわれは つねに誤るという普遍的懐疑から解放されないのである。『省察~

1

の末尾で悪 い霊が想定される。悪い霊は r有能で校滑な霊J (A

T

.

VII, P 22)であり, しかもいま「あらゆる策をこらして,私を誤らせようとしているJ (A

T

.

VII,

P

22)と想定される。ここで疑われているのは,天や地やその他いっさいの外 的事物の実在性,さらに感覚器官を含めて自己自身の身体に関わるものすべて の実在性であって,数学的真理そのものへの言及はない。そして,これらを信 じるのは,悪い霊が仕掛けた「夢の計略J (A

T

.

VII, P 22)である,という。 これは,欺く神の想定以前の,覚醒と睡眠の区別のしるしの消失の水準の疑い に戻っているようにもみえる。しかし詳しくみると,夢の幻想の中でも疑いえ ないとされた「いっそう単純で普遍的なものJ (A

T

.

VII,

P

20)のうち r形」 についてはこの「夢の計略」のうちに挙げられている。「形Jr大きさJr場所」 が,欺く神の想定の際の疑わしいものの例示の中に見出される (A

T

.

VII, p" 21) 。そして省察,~ 2の官頭で「延長J r運動」が加えられる (A

T

.

VII, 24)。 夢の中でも不可疑なもののうち, r2+3=5J r四角形が四つの辺をもっ」の ような,きわめて単純な事がらについての疑いは,欺く神の想定を待たねばな らないが,その他のものは悪い霊の「夢の計略」においても疑われていると解 される。そして,欺く神は『省察~ 2の初めに (A

T

.

VII, P 22)すこし顔を出 すが,欺く神の想定による数学的真理への疑いは省察~ 3の初めに (A

T

.

VII, P 36)慎重に言及されるだけである。それでは,コギトの確実性に到達する前 に,数学的真理は保存されていたのか。そうではあるまい。前述したように, 『省察,~ 1において (A

T

.

VII, P 21),欺く神の想定によって数学的真理は確か に疑われたのであ

2

0

「私の起源の作者」が明白に知られないかぎり,数学的真 理の明証性も疑いうるのである。疑いの可能性が残っている以上,デカノレトの 懐疑の方針に従って斥けられねばならない。かくして省察J

1

末尾から『省 察~2にかけて,数学的真理への直接の言及はないが,その前の欺く神の想定に

(5)

よる数学的真理への疑いは存続していると解される。『省察~

2

冒頭でデカルト が, (a) rそれならば真であるものはなんであろうか。おそらくこの一つのこと, すなわち,なんら確実なものはないということ,だけであろうJ (A T.VII, p, 24)というとき,数学的真理の確実性も疑いに付されているのである。こうし て懐疑の二次の普遍化が完了する。 さて,悪い霊について,デカルトがはっきり言及しているのは省察~

1

の 末尾の一箇所だけである (AT.VII, P

2

2

)

0

r欺き手 (deceptor)Jが何回かで てくるが,その悪意という点からは r悪い霊」の言い換えと見られる。レヴィ スは省察~ 2 では悪い霊は欺く神と一つになる,という。実際『省察~ 2の初 めで r何か神のごとき全能者がいて,これを神といって悪ければどのような名 でよんでもよいがJ(A T.VII, P 24)といわれ,またその少し後で rだれかし らぬが,きわめて有能なきわめて校滑な欺き手がいて,策をこらし,いつも私 を欺いているJ (A T.VII,

P

25)といわれている。ここでは,欺く神と悪い霊 の区別を意識せず,全体的で,最強の欺きを想定しようとしている。能力と悪 意において最大のものを想定して,欺きの拡がりと強度において極点、に達して いる。かくして,上述のレヴィスの主張を首肯しうるのである。 以上,デカルトの懐疑の意志的性格,および誇大な,形而上学的な性格を見 てきたが,デカノレトの疑いについてさらに二つの点を指摘しておこう。 第一に,この章の最初にも触れたが,疑いによる心身分離の実践である。疑 いは,われわれのうちに入りこんできたあらゆる信念の検討から始まるが,ま ず最初に感覚的なものが疑われた。感覚は全面的に疑われたのである。ついで 想像も疑われる。このように疑いを敢行することによって,デカルトは,みず からを感覚,想像から引き離し,身体から引き離し,ひいては物体から引き離 す。この精神の身体からの分離は,伝統的には,魂の浄化や不死の宗教的な動 機に連なるが,デカルト以降を見据えたとき,近代科学の成立と深く関わって いるとみられる。知覚的世界像に基づく伝統的自然観を克服し,機械論的数学 的自然観の確立を目指すためには,認識主体の側でも感覚的なものを排し,物 体を客観的に認識する新たなる主体の確立が必要とされたのである。このよう

(6)

6- 香川大学経済論叢 1044 な懐疑を経て確立される「考える私」は,近代科学の世界認識の主体として有 効であろう。デカルトが二元論にこだわるのも,この認識主体の確立のゆえで あろう。 第二に,デカルトの懐疑は結果として,意識の反省化を引き起こした。疑い は,自己の内の信念の吟味ということから,自己の内に向けられ,感覚作用自 身から,疑う作用自身に及ぶ。ここに意識の反省化を認めうるのである。この 側面も,以降の近代哲学に大きな影響を残した。この点については後でもう少 し詳しく論ずるつもりである。 2.. コギトの成立 以下で,普遍的懐疑を経たあとコギトの成立の過程を,まず、『省察n2に従っ て詳しく見てみる。つぎに,これを『方法序説h ~.哲学原理 h 真理の探求』 などの他のテキストの結論部分と比較してみる。最後に,このコギトの確実性 の根拠に関わる議論を r論駁と答弁j,ビュノレマンとの対話』などから検討す る。 1) デ カ ル ト は 省 察

12

の冒頭で『省察n.1の懐疑を足早に振り返る。見る ものすべてを偽とし,記憶の示すものの存在と感覚器官の所有を否定し,物体 および物体の本性をすべて斥ける。そしてさらに一歩を進めて, (a)を想定する に到る。しかし,デカルトはこの飛躍に留意している。ついで,先に列挙した ものとは別のものについて,疑いえないものは何もないということを,どこか ら知るのかと自問する。そして,欺く神を想定するが,それを神と呼ぶ、のをす ぐやめて r……どのような名でよんでもよいがj (A

T

.

VII, P 24)と付、げ加え る。ここでは,数学的真理のことが念頭にあったのであろうか。いずれにして も,懐疑を普遍化するためには,欺く力を極大に想定しなければならなかった のである。欺き手の能力もできるだけ全能に近づける必要がある。このような 欺く神の想定は r私自身がそういう考えの作者でありうるj (A

T

.

VII, P..24) として,一旦斥けられる。そして, (b)rそれならば,少なくともこの私は何も のかであるはずではないかj (A

T

.

VII, P..24)。ここで弱い形ではあるが r私

(7)

自身の存在」への初めての言及が見られる。このあと r私はある,私は存在す るJ (A

T

.

VII, P 25)の命題を必然的に真であると帰結するまで r私はある」 を否定し,また肯定する, というようにジグザグに議論を進めて行く。 (b)につ づいて,感覚器官や身体をもつことをすでに否定したあとでは r私」が何もの かでありうるのかと,デカルトはためらいを示す。「私」が身体や身体器官にしっ かり結びついてでなければ,存在しないとすれば(これは懐疑のまえのきわめ て日常的な確信である),身体や身体器官の存在を否定したのであってみれば, 「私」は何ものかではありえない,という理屈になるからである。 (c) rけれど も私は,世にはまったく何ものもない,天もなく,地もなく,精神もなく,物 体もないと,みずからを説得したのである。それならば,私もまたない,と説 得したのではなかったかJ (A

T

.

VII,

P

25)0r私が何ものかである」ことに対 するためらいのあと,デカルトは一旦それを否定する。そして, (d)rいな,そ うではない。むしろ,私がみずからに何かを説得したのであれば,私は確かに 存在したのであるJ (A

T

.

VII,

P

25)とつづける。先に「私は何ものかである」 とすることに,ためらいを覚えたのであるが,ここでは,ためらいの理由となっ た,身体および身体器官の否定,さらに,外的世界,精神の否定を,みずから がみず、からに説得し足ということで把え直す。この自己による自己の説得とい うことで,一人称としての「私」が,懐疑を遂行する主体として,特に注視さ れ,把握されようとしている。それまでの『省察.~

1

においても r私」が懐疑 を遂行しているのはまぎれもない事実であって r私」という表記も数多くみら れた。しかしここにきて r私」が懐疑の主体として気づかれ,反省的に把握さ れようとしている。ここでは,身体や感覚器官および外的,物体的世界の否定 を何回か経ることによって,把握しつつある「私」から,物体的,身体的なも のを排除しようとしていると考えられる。精神も一度ないものと自己説得され ているのである。ここまでは『省察.~

2

の初めから,ほとんど過去形で述べられ ている。したがって,ここまでの内容は W.省察~

1

の懐疑のうちに含まれてい た,と解される。すなわち r私」の自己説得も『省察.~ 1に含まれていたもの を,回顧してここにとりだしている,と解される。いずれにしても r私は確か

(8)

8 香川大学経済論叢 1046 に存在したのである」と, (b)においてよりは,明白に「私」の存在把握へと進 んでいる。(巴),-しかしながら,いま,だれか知らぬが,きわめて有能で,きわ めて校滑な欺き手がいて,策をこらし,いつも私を欺いている。それでも,彼 が私を欺くのなら,疑いもなく,やはり私は存在するのである。欺くならば, 力の限り欺くがよい。しかし,私がみずからを何ものかであると考えている聞 は,けっして彼は私を何ものかでないようにすることはできないであろうJ

(A

T. VII, P 25)。ここで最終的な欺き手(それが悪い霊であるか全能の欺く神で あるかは,もはや問題とはなっていなし::.)を想定し,あらゆる種類の,最も強 力な欺きを一括して想定することによって,一度確立した「私」の欺きに全力 をあげる。しかし,この投滑な欺き手が,全力をあげて「私」を欺くとするな ら,欺かれる「私」が存在するのである。この引用箇所の前半は現在形,後半 は未来形になっている。感覚的身体的自己を否定し,自己説得によって確立し た「私」を否定する欺き手(もはやその名は問わぬ)の欺きを想定することに よって,ふたたび「私」の存在を確立する。「私」の存在の確信はますます強め られ,-私」の身体性,物体性はそれだけ否定を強められる。(f),-このようにし て,私は,すべてのことを存分に,あますところなく考えつくしたあげしつ いに結論せざるをえない。『私はある,私は存在する』というこの命題は,私が これをいいあらわすたびごとに,あるいは精神によってとらえるたび、ごとに, 必然的に真である,とJ(A T. VII, p" 25)

2

)

つぎに,この結論部分をデカルトの他のテキストのそれと比較してみよ う。『方法序説,h 11哲学原理』とも,-私は考える,ゆえに私はある」という命 題を,最初の,最も堅固な真理ないしは最も確実な認識であるとする。『方法序 説』ではこの真理を「哲学の第一原理J (A T. VI, P 32)とよび W'哲学原理』 で、は,-順序正しく哲学するものが出会うところの,最初の確実な認識J(A T., VIIト1,P 7)といわれる。『真理の探究』においては,-私は疑う,ゆえに私は あるJ(A T. X, P 523) ,これをいい換えて「私は考える,ゆえに私はある」 (同)といっている。 n疑う』とは『或る仕方で考える』ことにほかならない」 (A T.X, Pド521)からである。

(9)

さて,これらの他のテキストと比べると省察』においては r私はある, 私は存在する」という命題を真として帰結す町る。しかし, この命題の帰結には 条件文が付いている。すなわち r私がこれをいいあらわすたびごとに,あるい は精神によってとらえるたび、ごとに」という限定であ

Z

。確かにこのような限 定条件は付いているが r私はある,私は存在する」という命題を真なりと帰結 する根拠になっているのは,それ以前のデカルトの懐疑のすべてであって,こ のことは Iこのようにして,私は,すべてのことを存分に,あますところなく 考えつくしたあげしついに結論せざるをえない」というその前の章句が,そ のことを示している。しかしまた,この「私がいいあらわすたびごとに,ある いは精神によってとらえるたびごとに」は,少し前の「私がみずからを何もの かであると考えている聞は」に対応している。これはまた,他のテキストでい う「私は考える,ゆえに私はある」における I私は考える (cogito)Jに相当す る。そのようにみるならば w 省察.~も,随分詳細に,内容豊かに詳述している が,大筋においては r私は考える,私はある」の定式と大きく異なるものでは ないといえよう。 つ ぎ に 省 察 』 に お い て も 哲 学 原 理 』 や 『 真 理 の 探 求 』 に お け る と 同 様 に r私は考える,ゆえに私はある」の原初的形態 r私は疑う,ゆえに私はあ る」の形態が見られないであろうか。その最も素朴な表現は,初めて「私」の 存在に言及する(b)において見られる。 (g)r何か神のごとき全能者がいて,これ を神といって悪ければどのような名でよんでもよいが,これが私にそういう考 えを注ぎこむのではあるまいかJ

(A

T

.

V

,lI

P 2

4

)

。そしてそれにつづいてこれ を否定し, (h)rしかし,どうして神などを持ち出すのか。おそらく私自身がそ ういう考えの作者でありうるのにJ (同)という。 (g)は普遍的懐疑が「私」の存 在 r私」の疑い以外のすべてのものに及んでいる状況である。したがって, (g) は「私は疑う」に相当する文である。そして, (h)は,その疑いが「私」の疑い である,ということへの気づきを示している。すなわち,これは「私が疑って いることを私が知る」に相当する表現である。そしして(b)r……この私は何も のかであるはず、ではないか」へとつづく。この(b)は弱い表現ながら r私は存在

(10)

-10ー 香川大学経済論叢 1048 する」という命題に相当する箇所であろう。したがって,この(g),(h), (b)の過 程は,まだ判然とはしていないが,-私は疑う, (そして,私は疑うことを知っ ている)ゆえに,私は存在する」という思考の動きを取り出したものといえる。 『真理の探求』では,ここのところはつぎのように導かれる。感覚によって知 られる事物は,すべて正当な理由によって疑いうることを確認したあと,(i),-君 は,みずからの疑いそのものを疑い,自分が疑っているのかどうかを疑問のま まにしておくことができるでしょうかJ

(A

T

.

X

p 5

1

4

)

とユードクスがポリ アンド/レに問いかける。すなわち,-私が疑うことそのことを,自分自身が疑う」 ことができるのかを問題にしている。そして,-私が疑う」ことを疑うことはで きず,そこから,-疑っている私の存在」を導きだす。すなわち, (j),-君は自分 が疑っていることを否定できず,反対に,君が疑っているということは確実で あり,それも,そのことを君自身が疑いえないほどに確実なのであるから,疑っ ているところの君が存在するということもまた真実であります。しかもそのこ とは,君がそのことをもはや疑うことができないほどに真実なのですJ(AT

X

p 5

1

5

)

そして, (k),-それゆえ,君は存在し,自分が存在することを知って おり,しかもそのことを知っているのは,君が疑っているからなのですJ(AT

X

, p

5

1

5

)

。そして, (1) ,-君は存在し,自分が存在することを知っており,し かもそのことを知っているのは,自分が疑っていることを知っているからなの ですJ

(A

T

.

X

, p

5

1

5

)

という。(i)において,疑いが対象的事物から,疑う作 用そのものに向けられて行く。そして, (1)において,疑う作用そのものの知に 到達し,しかもその知は不可疑なものとして強化され,最後に,疑う主体とし ての「私の存在」の確実知に到るのである。『真理の探究』においてみられる疑 う作用に対する知の強化が省察』においては,悪い霊(仮にそう呼ぶ)によ るあらゆる欺きを通して達せられているといえよう。 3) 推論か直観か 『省察』第

2

答弁において,-私は考える,ゆえに私はある」は,三段論法に よる推論によって知られるのではなく,-精神の直観」によって,おのずからに 知られる,とい

r

。むしろ,三段論法の大前提「考えるところのものは,すべ

(11)

である」のほうが r彼が存在しないのであれば,彼が考えるということはあり えない,と彼自身のうちで経験することからJ(A T. VII, P 140)知られるとい 側 う。ここで、は個別的経験への言及がみられるのである。 さて,ビュノレマンは,この答弁が哲学原理』第1部の 10項における r思 惟するものが存在しないということはありえない」などが r私は考える,ゆえ に私はある」という命題よりも先に知られる,といっていることに反するので 。 ~3) はないかと,問う。これに対してデカルトは,つぎのように答える。すなわち, 論理的秩序においては r私は考える,ゆえに私はある」という結論より先に, 「すべて考えるものはある」という大前提を知ることができることを,デカル トも認める。それは r暗黙のうちにいつでも,それ(大前提)が前提されてお り,先立つているJ (A T V, P..147)からなのである。『哲L学原理』では,こ の見地から書かれたという。「しかし,いつでも明白にあからさまにそれが先 立っていることを私が認識しているわけではなし私は自分の結論を先に知る」 (AT V, P 147)のである。この大前提は暗黙のうちには r私は考える,ゆ えに私はある」に先行しているが,そのことをあからさまに,誰でも認識して いるわけではなく,実際に認識するのは,結論のほうが先であるという。そし て,その認識の仕方は rW.私は考える,ゆえに私はある』というような,私自 身のうちに経験するものにだけ,私は注意を向けるのであって,このような, 『考えるものはすべてある』という一般概念に同じほどには注意をむけるので はないJ(A T V, P 147)というものである。そして,このような一般的な命 題も,個別的なものにおいて考察する,という。ここでも第ごi答弁』におけ ると同様に r私は考える,ゆえに私はある」の把握において,自己自身の経験 への言及がみられ,それが個別的命題であることが繰り返される。ここではさ らに,自己自身の内的経験への注意の指向がいわれている。 『第二答弁』, rビュルマンとの対話』における上述の箇所において,いずれの 場合にもデカルトは,論理的には「私は考える,ゆえに私はある」が三段論法 の結論であることを認めるのであるが,実際の認識においては,けっして三段 論法の結論として認識するのではなく,自己自身の内的経験を通して,個別的

(12)

12ー 香川大学経済論叢 1050 なものとして,一般的な大前提の命題より先に知る,と答える。このことは, クレ/レスリエ宛手紙におけるこつの原理の違いについてのデカルトの考えから も,容易に窺われることである。それによると,矛盾律が第一の意味で原理と いえるが,これは,何ものかの存在を知らせてくれるものではなく,すでにそ の存在を知っているとき,推論によってその存在の真理について証明するもの であり,重要性は小さい。それに対して,第二の意味の原理は rわれわれの精 神が存在する」であり,自己自身の存在の考察によって,神の存在や他の被造 物の存在を確信することができるのであり,こちらはきわめて有益である,と い

r

。このように,デカルトにおいては,共通概念に基づく論理的推論は,あ くまで概念聞の必然的関係に関わるもので,何ものかの存在の確証に導くもの cゅ ではなしそのためには別の原理が r確固不動の一点として」必要となる。哲 学の第一原理は,このようなものとして,何ものかの存在を確証するものでな ければならない。「私は考える,ゆえに私はある」は,そのような原理であり, 論理的推論によって知られるものではなし別の認識の仕方,すなわち「精神 の直観」によるのである。 3 非反省的意識の可能性 1) 直接的思惟 『第六論駁』において rあなたが考えていることを確信するためには,あな たは,まえもって,考えるとは何か,存在とはなにかについて知っていなけれ ばならないJ(A T.VII, P 413)と反駁される。これに対してデカルトは,その ことを認めたうえで,しかしこのためには r反省された,あるいは論証によっ て獲得された知識J (A T.VII, P 422)は必要ではなしこの「反省された知識 に先立つ,ある種の内的知J(A T.VII, P 422)によって知れば十分である,と いう。この思考や存在についての「内的知」は,それまでに知ろうとしたこと もなかったとしても rだれかが,自分が考えていることに気づき,そこからき わめて明白に,自分が存在することが帰結することに気づく場合J(A T VII, p 422), r考えるとは何かJ,r存在とは何か」について,必要なだけの知を獲得

(13)

することができる,という。 また『哲学原理』第 I部 10項では,思考や存在についてのほかに,-確実性 とはなんであるかj (A

T

.

VIIト1,p"8), ,-思惟するものが存在しないというこ とはありえないj (同)などが「私は考える,ゆえに私はある」よりまえに知ら れているという。『真理の探求』においても,-懐疑とは何かj,,-思考とは何かj, 「存在とは何か」は,それ自身によってきわめて明白に認識される事がらであ り,-それ自身によってしか知られえず,われわれ自身の経験や……意識すなわ ち内的証言によってでなければ,納得することができないのですj (A

T

.

X, p 524)と付け加える。そして,-懐疑とは何であれ思考とは何であるかを学 ぶためには,自分で疑い,自分で考えさえすればよいわけですJ (A

T

.

X, P 525)。存在についても事情は同じである。 また w省察』第二答弁付録においても,-思考という名称で私は,われわれ が直接に意識しているという仕方で,われわれのうちにあるものすべてを理解 するj (A T VII, P 160) と定義している。 これらのデカルトのテキストからの引用によって明らかなように,デカルト は思考(懐疑を含めて)や存在についての直接知を,反省に先立つて認めてい る。そしてそのことが,懐疑の遂行や思考作用を可能にしているのであり,さ らに,-私は疑う」や「私は考える」についての反省的把握を可能にしている, と解される。「コギト」においては,これらについての反省的認識が成立してい る,といえよう。この点についてはあとでもう一度触れる。またデカルトは, 存在についても,この語がどういう意味に解されているかを知るだけでよい, という。それで存在について知りうるかぎりのことを,十分知っていることに なる,というのである (W真理の探求~

A

T

.

X

, p 525)。存在についてはこれ 以上の詳しい説明は見当たらない。 最後に W第四答弁』における嬰児の意識の可能性についてみてみよう。反論 者のアルノーは,-精神のうちには,精神自身が意識していない多くのものがあ りうるJ (A T, VII, P 214)と,いわば「無意識」を示唆する主張をしているが, その例として,-嬰児の精神は考える力をもっているが,それを意識していない」

(14)

-14- 香川大学経済論叢 1052 (A T.V,lI P 214),という。これに対してデカノレトは i私は,精神は嬰児の 身体に入りこむやすぐに,考えはじめ,そのときに自分が考えていることを意 識するということを疑いませんJ(A T.V,lI

P

246),と答える。そして,一般 に「われわれの精神の働き,すなわち作用を,われわれは常に現実的に意識し ているJ(A T.V,lI P 246)という。そして,アルノーの指摘する i考えるも のであるかぎりの精神のうちには,精神がそれについて意識していないような ものは何もありえないJ (A T.VII, P 246,

c

f

.

.

P 214,

P

49)を,デカルトは 肯定し,さらに iわれわれのうちには,思考がわれわれのうちにあるのと同じ 瞬間に,われわれがそれについて現実的に意識していないような,どのような 思考もありえないのですJ(A T.VII, P 246)と付け加える。このようなわれわ れのすべての思考作用の意識は,通常は反省的なものではなく,直接的意識と いえるであろう。嬰児の意識,またわれわれのあらゆる思考についての思考と いうことから,このように解されるのである。「コギト」においては,この思考 の意識はきわめて明白なものとして,反省化されている。アルノーはいわば意 識されない無意識を認めたが,デカノレトは精神のうちには,意識されない思考 は認めなかった。デカルトが,精神を考えるものとしてのみ解したからである。 しかし,デカルトにおいても,かかる意識作用のすべてにおいて,また嬰児の 意識においてさえも,これについての反省された意識を認めていたとは解しに くいので,これらの言及からしても,デカルトが思考についての反省的でない, 直接的意識を認めていたと考えられるのである。 2) 反省的思考 以上,デカルトのテキストから,直接的思考についてのさまざまな言及をみ てきたが,つぎに,反省的思考についてのデカルトの言及をみてみよう。ピュ ルマンは,この『第四答弁』におけるデカルトの答え i考えるものであるかぎ りの精神のうちには,精神がそれについて意識していないようなものは何もあ りえないということは,それ自体で知られることのように思われるJ(A T.VII, P..246)を取り上げ i意識するとは考えることである以上,どのようにしてあ ω) なたは意識することができるのですかJ(A T.

V

, P 149)と問う。すなわち,

(15)

「意識していると考える」ためには,すでに別の思考に移ってしまっているの であり,-自分が考えている」ということを意識しているのではなく,-自分が 考えた」ということを意識しているにすぎないのではないか,という反論であ !p) る。これに対して,デカルトはつぎのように答える。「意識するとは,たしかに 考えることであり,自分の思考について反省することですJ(A

T

.

V,

p

149) とピュルマンの注意に同意するが,-先の思、考が残っていては,そのようなこと が起こりえない,というのは間違いですJ (同)という。「魂は,同時にもっと 多くのことを考え,その思考において継続し,自分がそうしようと思うときに, 自分の思考について反省し,このようにして自分の思考について意識している のですJ(A

T

.

.

V, P,.149)という。デカノレトは,精神は同時にはただ一つのこ としか考えることができない,とは認めず,同時に一つ以上のことを考えるこ

ω

とができるとする。たとえば,-いま,私が話したり,食べたりしていることを 同時に認知し,また考えていますJ(A

T

.

V, P 148),という。つぎにデカル トは,思考が時間的に幅を持つことを主張する。「思考が瞬間になされるという のは誤りです。……すべてのわれわれの行為は時間のうちでなされ,そして私 は,ある時間同じ思考のうちに持続し,継続するといわれうるからでbすJ(AT V,

p

148),という。このようにデカルトは,思考に時間的幅を持たせ,精神 が同時に複数のことを考えることができると主張する。それゆえに,自分が考 えていることを,同時に意識することができるのである。ここでは,あること を考えている思考の働きとそのことを意識している思考の働きが,同ーである とまでは,デカノレトは主張していないようである。精神は同時に複数のことを 把握できるのであるから,この両者は別々の思考の働きであってよいわけであ る。しかし,両者とも「私の思、考」であることには変わりない。デカルトにお いては,-私の思考」として「私」において統一されている,といえよう。この ことを可能にするのは,思考に時間的幅を認めることである。これによって, 「私が考えた」ということの意識ではなく,-私が考えている」ということの意 識が可能になるのである。デカルトにおいて,このような反省的思考を可能に するのは,-私」による複数の思考の同時把握と思考の時間的幅を認めることに

(16)

-16ー 香川大学経済論叢 1054 よってであったといえよう。

4

反省的意識の構造とその可能性 1) 以上,デカルトのテキストに即して,デカルトの「私は考える,ゆえに 私はある」の問題点についていろいろ考えてきたが,-コギト」において反省的 認識の成立をみる方向で,考察を進めてきたといえよう。「コギト」においては, 当初指摘したように,いくつかの重要な側面あり,それぞれ重要な意味を担っ ているのであるが,しかしここでは,その一側面を照射してみたのである。そ のうえでさらに,デカルトが『ビュルマンとの対話』等で指摘する,反省的意 。 叫 識の可能的条件について,図と地(背景)の心理学的用語や志向性,非反省的 自 由 意識などの現象学の用語を使って,説明を試みてみることにする。これはあく まで素描にとどまり,デカルト哲学全般を解釈し尽くそそうというのではない が,デカルトのテキストを全体として,また一貫して見通すのに役立てば,と 考えているのである。

L

イ) デカルトによると,通常ひとは,-自分が疑う」あるいは「自分が見る」 について直接知を持ってい

Z

。さらに,-考えるものであるかぎりの精神のうち には,精神がそれについて意識していないようなものは何もないJ(A

T

.

VII,

p"246F

,ということを認め,また,嬰児の精神にも思考を認め,その思考につ 邸) いての意識を認めるのであるから,いわば背景意識にあたるものをここで指摘 することができるであろう。実際のデカルトのテキストではそこまではいって いない。『ビュルマンとの対話』において,-精神が……同時に一つ以上のこと を把握することはできるJ (A

T

.

V,

p

148)ことは認めるが,-同時に多くの ことを把握することはできないJ (同)と制限を加えている。デカ1レトのテキス トからはそれ以上は進めないが,実際の意識の経験の叙述や嬰児の意識への言 及について,ここに背景意識を考えてみることはできないか。デカルトには, 精神のうちで無意識を読み取ることはできない。かくして,-私が疑う」という 意識作用は,視野を形成する背景的意識と志向作用によって生じる対象意識と (34) からなっている,と解するのである。志向作用によって生じる意識は,-私が疑

(17)

う」の意識と対象の意識を含む(後者は対象を図として浮かび、上がらせる働き をする。通常はこの対象は意識作用以外のものである)。すなわち, (1)意識作 用自身への自己志向(,私」の意識を伴う)と (2)対象志向,の両方を含んでい る。(1)は非反省的であり,背景意識のうちに沈んでいる。 (2)は対象を図として ( 扮 浮かび、上がらせ,対象についての明白な意識を可能にしている。 (ロ) ,私が疑っている」ことを知る(反省的知)の場合。「私が疑う」の対象 志向の部分が,私が疑う」作用自身へと向かい,私が疑う」を図として浮か び上がらせ,私が疑う」を反省的に知ることになる。同時に,先の志向対象の 臼 日 部分は残帯するが弱まり,背景に退こうとする(現在というより過ぎさった意 識の面もある。しかし,デカノレトは同じ意識の持続の可能性を認めているので, 同じ意識についての反省知というべきであろう)。すなわち,私が疑う」にお ける非反省的意識を含む作用全体を対象として,志向する。それにより,私が 疑う」の反省知が生じ,同時に「私」の意識が拡大明瞭化する。その結果,私 はある」の知を導き出すことになる。 かくして,私は疑う,ゆえに私はある」の知は,私が疑う」という意識作 用に疑う作用が向けられることにより,成立する。実際には,私が疑う」こと は疑うことができず,私は疑う」の知が成立するのである。同時に,私が疑っ ている」ときに,私が疑う」という意識作用に非反省的に含まれていた,私」 の意識が明るみに出されることになり,ここに「私はある」の知が成立する。 ゆえに,私は疑う,ゆえに私はある」の知は,論理的推論によって知られるの ではなく,原初的には,私」の疑いの遂行における,きわめて反省的な実践知 ω である。この意味で,この知はおのずから知られる直観知であるといえよう。

2

)

しかしデカルトにおいては,私がある」が真なる命題であるといわれる とき,この「私」は実体として存在するということであり,私」が他の被造的 実体から独立に存在する,ということを意味している。デカルトの心身分離の 二元論の主張である。この「私」が実体であるとは,どのように解すべきであ ろうか。「私は考える(私は疑う),ゆえに私はある」において,私は考える」 といわれるとき,すでに「私は考える」についての反省的認識が成立している。

(18)

18 香川大学経済論叢 1056 すなわち I私」についての反省的認識もそこで成立している,といえる。そこ から I私はある」を導き出してくるとき Iゆえに」とか I考えるためにはあ らねばならない」とかの内的洞察を介して,導出するのである。このことは, 「私は考える」の認知と「私はある」の認知の聞に,なんらかの間隙が介在し ていることを意味している。この間隙は,一つには,(1)心理的,経験的,時間 的なものである。すなわち I私は疑う」あるいは「私は考える」の認知から, 「私はある」の認知へ到る思考の運動,精神の注意の運動を表している。他方 は, (2),私は考える」と「私はある」の命題聞の必然的,論理的関係である。 すでに指摘したよう色デカルトは I考える」や「存在する」については,直 接知をまえもって持っている,といっている。しかし I私」についての直接知 があるとは,言及していないようである。しかし I私はある」の反省的認識以 前の懐疑においても u 省察~ 1等において), I私」を主語にした文が頻出する ことからしでも,私」についてのなんらかの直接知,非反省的意識が,当然前 提されていたといえよう。しかし I私」についての反省的認識は I私は考え る」の反省的把握において見いだされ,私」はこの「私は考える」から引き離 せないということであろう。「コギト」において I私」の反省的把握が初めて 可能、であれそれを離れて I私」があるというわけではない。また上述のこと から Iコギト」以前において,すなわち「私は考える」の反省的把握以前にお いて I私は考える」の直接的把握が可能であったろう。デカルトは,思考につ いての直接知についてはいっているが I私は考える」についての直接知も I私」 についての直接知もいっていないようである。しかし実際には I私は考える」 についての直接知,すなわち非反省的意識も可能でトはなかったろうか。「思考」 には,たとえ非反省的にしろ I私の思考」がつきまとっており,それなしには 「思考」とはいえないし I私」を伴う陳述は不可能であろうから。「思考」に は「私」がつきものだ。「私は散歩する」や「私は約束する」においても I私」 の意識が伴っているはずである。それは I私が散歩する」ことを「私」が意識 しているかぎり I私が散歩する」に「私」の意識が伴うのである。これは,デ カノレトのいうとおりである。(,私が呼吸する」には,通常「私」の意識を伴っ

(19)

ていないが,-私が呼吸する」を「私」が意識するかぎり,-私の呼吸」に「私」 の意識が伴うことになろう)。このように,-私」というのは思考との関係概念 であり,けっして単独に現れることはできない。デカルトも,-私がある,私は 存在する。これは確かである。だが,どれだけの聞か。私が考える間である。」 (A

T

.

VII, P 27) という。デカルトにとって,-考えない私」というのは考え られないのである。 「私はある」という命題は,存在命題であり,個別的,ある意味与は偶然的命 題である。それを,デカノレトは必然的に真なる命題として認識する。これはど ういうことか。もし,-私」が存在するなら,-私」は考えるものであるから, 「私」は,-私が存在する」ということを必然的真理として把握する。すなわち, 「私が考えるものである」かぎり,-私」は「私が存在する」を把握する。その 際,-私」は考えるかぎりの主体,意識作用の主体であり,-私」とはそのよう なものでしかない。その意識作用は,自己意識的な,自己志向的な作用である。 その点を反省的に取り出したのが, 私は考える,ゆえに私はある」である。し たがって,考える存在がみずからの構造をみずから取り出したのであるから, 必然的真理としてしか現れえないのである。これが『省察D

2

において IW私は ある,私は存在する』というこの命題は,-私がこれをいいあらわすたびごとに, あるいは,精神によってとらえるたびごとに,必然的に真であるJ (A

T

.

.

VII,

P

,,

2

5

)

,といわれるゆえんである。 この「私」の構造の把握は,-私の思、考」によってしか取り出すことはできな しけっして他者の対象的認識によっては取り出すことは不可能でトある。かく して「私」の構造,-私」と思考との関係の「私の思考」による把握が,-コギ ト」ということであり,反省的認識の成立と解されるのである。 3) 先に述べたように,-私は考える」についての反省的認識から,-私はあ る」を導き出してくる場合,-私は考える」の認知と「私はある」の認知の聞に 一種の間隙があり,それが推論の形をとって現われている,ともみられる。こ の推論の形は,個別的立言から,普遍的立言へという動きとともに,-私」の実 体化への避けえない,通過点であると考える。「私はある,ゆえに私はある」を

(20)

20 香川大学経済論叢 1058 強化するために,-考えるためには,存在しなければならない」をとくに強調し てくるのも,-私」の実体化と関わりのないことではなかろう。「私は考える」 についての反省的認識において,すでに「私の思考」として「私」に出会われ ているが,-私は存在する」として「私」をとくに抽出し,さらにそれに存在を 付与することは,実体と属性という,アリストテレス哲学,スコラ哲学の伝統 的な思考の枠組みのなかでのこととも考えられる。「私が考える」ことが確実で、 ある以上,-私が(実体として)存在する」ことは,必然的に確実でなければな らない。これは,実体,属性の思考の枠組みのなかで考えるのであるかぎり, 論理的必然と把握されることであろう。デカノレトにとって,-存在する」とは「実 体として存在する」ことであり,そのことの意味は自明なことであったのであ る。「存在する」ことの直知が語られる一方,-存在する」についての定義が与 えられていないことも,そのことを示しているとみられる。 このように,-私は考える」と「私はある」との聞の間隙を表す,-ゆえに」 とか「考えるためにはあらねばならない」とかの表現は,認識主体の主題化, 確立と機をーにしており,-私」を定立し,さらに「私」を実体化する根拠となっ ている。これは,心理的な時間的移行と論理的推論による説得強化の両面を有 するが,いず、れも「私」の実体化を促進するのに有効な役割を果たしている。 この精神の実体化そのものを,デカルトとともに認めてしまうには鴎踏する が,このように精神を実体としてとらえること自体は,有意味であり,産出的 であることを認めるものである。 }主 (1) 湯 川 佳 一 郎 , 小 林 道 夫 編 デ カ ル ト 読 本J,法政大学出版局から刊行予定, 1996年3 月末現在未刊。 (2) rコギトJの成立の現場は,向時に自己認識の成立の現場であり,反省的認識もそこに おいて成立している。 (3) I省察Jr読者へのまえがき (A1.. Vll, P 9) Jおよび「六省察のあらまし (AT.Vll, P 12)Jほか参照。なお,デカルトのテキストの印照はつぎのアダム タヌリ版全集によ り,略記して示す。

(21)

包uvresde Descartes Pub1iees Par Ch. Adam et P Tannery, l Vrin, (1964-1974) (略号A.Tで示す) (4 ) 引 用 箇 所 の 邦 訳 は , 野 田 又 夫 編 世 界 の 名 著 27 デカJレトJ,中央公論社 (1978) 中 公 パ ッ ク ス 版 ) に よ る 。 以 下 省 察1(井上圧七,森啓訳), I哲学原理1(井上庄七, 水野和久訳), ,方法序説1(野田又夫訳), I情念論J(野間又夫訳)からの引用箇所の邦訳 は,同書による。また,その他のデカルトのテキストの邦訳はデカノレト著作集』全四 巻,白水社 (1973)を参考にした。 (5) ,省察のあらまし1(A T VII, P 12)および『第七答弁1(A T VII, P 460)参照。 (6) I省察11, ,覚混と睡眠とを区別しうる確かなしるしがまったくないことがはっきり知 られるので,“…もう少しで,自分は夢を見ているのだ,と信じかねないほどなのである。 それでは,われわれはいま夢を見ているのだとしようj (A T.. VII, P 19)。 ま た 省 察 』 1の末尾で,.その他いっさいの外的事物は,惑い霊が私の信じやすい心をわなにか けるために用いている,夢の計略にほかならない,と考えようj(A T VII, P 22)という。 (7) この点では,レヴィス,小林の主張に同意する。 cf G. Rodis-Lewis: L'臼uvresde Descartes 1, J Vrin, (1971) pp..231司232et pp.. 236 (邦訳,小林道夫,川添信介訳デカ1レトの著作と体系1,紀伊闇屋書庖(1990) pp 246-247, p. 252)。 小 林 道 夫 著 デ カ ル ト の 著 作 と 体 系J,劾草書房(1994)p.96参照。 (8 ) 前注参照。 (9) G..Rodis-Lewis, op. cit p 234(邦訳, p.250)および,小林前掲書, p 108参照。 (10) cf A. T. VII, P 24.ここでは,数学的真理は挙げられていなし〉。この意味では省 察11末尾における悪い鑑の想定による,夢の計略」としての懐疑 (ATVII, P 22)に 直接続くものとみることができる。 (11) 前出, p.5参照。 (12) フランクファ←トは,ここから「私はある,私は存在する」を必然的真理として帰結す るまでを, 4段階に分けて論じる。cf H..G. Frankfurt: 'Descartes' Discussion of His Existence in the Second Meditationj

The Philosophical Review

75 (1966) pp. 326 356.拙論デカ/レトの{COGITO,ERGO SUM} (2)ーヒンティッカの解釈をめぐって 一,香川│大学教育学部研究報告第1部第55号 (1982) p.. 9参照。 (13) cf 小林前掲書, pp. 127-131およびpp..140-1420 (14) 悶 様 の 表 現 に つ い て 哲 学 原 理 』 第l部第7項 (AT VIIl-1, PP6-7)および仏訳序 文 (A.T..IX-I,PP9-10)参照。 (15) 引用箇所の邦訳は,前記『デカノレト著作集』第四巻の井上庄七訳による。 r真理の探求』 からの引用は以下同訳による。 (16) この条件文は行為遂行説」を主張するヒンティッカの着目する表現である。cf..J Hinttikka: 'Cogito, Ergo Sum: Inference or Performance? j The Philosophical Review 71, (1962) pp. 3-32 Reprinted in Descartes; A Collection of Critical Essays

(22)

-22- 香川大学経済論議. 1065 Editesd by Doney, Willis(1967, London, Maccmillan) (17) 1真理の探求』の執筆時期については,諸説あって,まだ定まっているとはいえないが, 1641年以降とする説が多い(cf G..Rodis-Lewis: op. ci..t 1, p. 7 et 2, p 420)0 r私は疑 う,ゆえに私はある」の定式化が『方法序説』にはあらわれず哲学原理』においてあ らわれるということであれば真理の探究』の執筆時期について省察』執筆時期に近 く論駁と答弁』の執筆時期と重なる, 1641年というアダムの指摘(A.T. X, PP 531-532)は,好都合である。 (18) cf.. A.

T X

, P 514.(1真理の探求』では,欺く神は想定されず,数学的真理の疑い はみられない。) (19) cf A T VII, P 140.w論駁と答弁』の邦訳については,前記『デカルト著作集』第二 巻(訳者,所他6名)を参考にさせてもらった。以下同様。 (20) cf.. A. T VII, P 140.なおこの箇所の邦訳は小林に負う。上掲書, p..130参照。 (21) cf. A T VIII-1

P 8. (22) cf Iピュノレマンとの対話J(A T. V, P 147) (23) 前注参照。 (24) 以上クレルスリエ宛手紙による(Lettrea Clerselier, juin ou juillet, 1646 A T IV, PP 444-445) (25) 1省察J2 (A T. VII, P 24)参照。『真理の探求』では,普遍的懐疑を確因不動の点とす るといっている (AT 10, P 514)。 (26) ビュルマンとの対話.1.引用は前記『デカルト著作集』第四巻(三宅徳嘉訳)を参考 にさせてもらった。以下同様。 (27) cf.Iビュルマンとの対話1(A T V, P 149) (28) cfIビュルマンとの女T話J(A T V, P 148) (29) たとえば,メッツガー著,盛永四郎訳視覚の法則J,岩波書庖(1968)PP 11-40参 照。また, M. Mer!eau-Ponty: rphenomenologie de la PerceptionJ, Gallimard (1945) p..38(邦訳,竹内芳郎・小木貞孝訳知覚の現象学1 1,みすず書房 (1967) P 70)参 照。

(30) cf E.. Husser!: rldeen zu Einer Reinen Phanomenologie und Phanomenologischen Philosophie, Erstes Buch, Martinus Nijhoff (1950)

9

34,

9

36,

9

84(邦訳,渡辺二郎 訳 イ デ ー ンJ,みすず書房ト1(1979) P 151, PP 159-160,および1-2(1984) P 86 参照)。また, M. Mer!eau-Ponty: op.. cit p. 12(邦訳,上掲書P 18)参照。 (31), (32), (33)上述の3-1), PP 13-14参照。 (34) 注(30)参照。 (35) rこの洞見が,それの内容となるものに向けられる私の注意の程度に応じて,以前のよ うに不完全で混乱したものであったり,あるいは,現在のように明断で,判明なもので あったりするJ(A T VII, P 31)

(23)

(36) デカルトが精神の注意を向ける」というとき,意識の志向を向けたものは,対象と して明断判明に浮かび上がり,そうでないものは背景に沈んで混雑したままにとどまる, と解される。このような場合の例として省察!3, r私がきわめて明断判明に直視する もの」に注意を向ける場合と私の起源の作者J (この段階では不分明なもの)に精神を 向ける場合とでは,異なる態度が生まれる(AT. VII, PP 31et36)。 ま た ビ ユJレマン との対話』においても,精神の注意の方向によって,明断判明な直観となるかそうでない かの違いがでてくることにふれている (AT. V, P 147)。 (37) 理論的検討の最終局面で,このような実践知が,もっとも確実なものとして出てくるの は奇妙であるが,そこにデカルト哲学の特色をみることができるかもしれない。一つに は,存在に関わる第一原理が求められていることも,その理由となろう。また,カントの 批判の立場からすると,神の存在や霊魂の不死を論じるのは,理論的には決っしえなく て,実践理性による解決をまたねばならない,ということのデカルト的表示である,とい えるかもしれない。 (38) 前出, P 12参照。 (39) ここで「偶然的」といったのは,人間の立場で,その理由のすべてを知ることができな い,という意味で使っている。ライプニッツなら十分な理由」がある,というであろ うが,そうだとしても人間には知ることができないであろう。

参照

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