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法にみる「家」と個の相克 -国家政策と法-

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(1)

主 主 に み る 「霧之」 と イ 回 の キ 日

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国 雲 京 証 女 霊 長 と ま 去 一 井戸田博史(帝塚山短期大学) 4ま じ ぷ う 6こ ( 1 )人聞にとって最も基本的な社会は家族である。家族は社会の基礎的な単位であり、 家族のあり様が社会のあり方を決定するともいえる。それだけに、それぞれの社会は、そ の社会が望ましいとする家族像を描き、何らかの形で一定の枠づけをしてきた。国家は、 理想、とする家族像を設定し、それに適合する法を制定し具体的な施策を展開する。この法 的家族像が現実の家族生活を規定している。勿論、現実の家族生活や家族意識がこの法的 家族像に反映していることはいうまでもない。 ( 2 )明治民法の法的家族像は、犬家族を前提とし、戸主により統轄される祖孫連綿の「 家」であった。これが天皇制国家の基礎単位とされた。明治 3 1年 戸 籍 法 ・ 大 正 3年戸籍 法は、明治民法の定める「家

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を登録するものであった(明治民法の法的家族像が大家族 の「家」であったが、現実の家族実態は国勢調査が示すように小家族の傾向にあった)。 ( 3 )戦後の法改正に基づく現行家族法の法的家族像は、夫婦とその間の未成熟子から成 る婚姻家族である。この近代的小家族を公示・公証するものが、昭和22年戸籍法である。 明治民法と現行家族法の法的家族像が、犬家族による「家」から近代的小家族に変わった。 戸籍法の編製原理も、 「大家族一戸籍

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の明治 3 1年・大正 3年戸籍法から、 「一夫婦一 戸籍」の昭和 2 2年戸籍法へと変更された。それにもかかわらず、同じ「戸籍法」の名称、 が使われ(1、) 現実の移行措置として、 10年間、旧戸籍が昭和 22年 戸 籍 法 に よ る も の とみなされたこともあり、戸籍制度が廃止されたにもかかわらず、 「家

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意識・慣行を根 強く残す一因となった12JO 法的家族像を、個人の尊厳と男女の本質的平等に基づく近代的小家族に置いた以上は、 個人別の身分証書制度を採用すべきであり(:3j、 「民法改正の際、従来の戸籍制度を全廃し、 その代わりにカード式の個人登録の制度

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(4)にすべきであるとの主張がなされている (5。) 今日、夫婦別氏問題と関連して、個人単位の身分登録制度(個人籍、個籍)が論じられて ].,¥る (6JO ( 4 )本稿は、明治以降の国家権力がいかなる家族像を求め、それに対する家族法制一特 に戸籍法ーをどのように整備したかを明らかにし、それを通じて「家」と個の相克を分析 する。特に、明治3 1年戸籍法が戸籍簿と身分登記簿の併用となった経緯と、それが何故 に大正3年戸籍法では身分登記簿が廃止され、戸籍簿に統一されたかを明確にする。これ によって、今日の個人登録制をめぐる論争に禅益できれば望外の幸いである。 明 言 台

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ミ 主 去 へ の 五 差

(2)

(一) 明 治4年戸籍法とその改廃 ( 1 )わが国は、明治維新によって近代国家への道を歩みはじめた。わが国最初の体系的 な 民 法 典 は 、 明 治31年 (1898)から施行されたが、ここに至る道程は決して平たん なものではなかった。明治 2年 (1869)に太政官に制度局がおかれ、翌3年には江藤 新平を中心に民法などの編纂にかかった。フランス法などの西洋近代法を手本として継受 が図られた。 ( 2 )ところで、明治初年から明治民法が施行された明治31年 (1898)まで、家族 生活を直接、一般的に規律する法(民法典)は存在しなかった。家族を広く規定したのは、 むしろ習俗や慣習法であった。個別的に必要に応じて、太政官や各省の発した布告・布達 ・指令などが

(7¥

家族を規制したのである。明治 3 1年 に 明 治 民 法 が 施 行 さ れ る ま で 、 特 に、当時の家族のあり方に大きな影響を及ぼした法律は戸籍法であった。 戸籍制度は、地租改正と並んで、明治政府がいち早く着手した重要政策の一つであった。 近代的な中央集権の天皇制国家を早期に実現するため、国民を平準化した「四民同一

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臣民一般」の国家を創設し、 「全国総体ノ戸籍法」の制定が急務とされた。戸籍政策は政 治の根元をなすものであった。明治4年 (1871) 7月14日の廃藩置県直前の同年4 月 4 日に、全国共通の法律である「戸籍法

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(引が「政務ノ最先シ重スル所」として公布さ れ、翌5年 2月 1日から実施された(同年は壬申の年にあたるので、この戸籍を「壬申戸 籍」ともいう)。 ( 3 )従前の宗門人別帳や明治初年の「京都府戸籍仕法

J I

東京府戸籍仕法」等は、脱籍 浮浪の取締りすなわち治安維持のため編製され、これらは農工商等の身分別(族属別)戸 籍であったぽ}。ところが壬申戸籍(第一則「其住居ノ地ニ就テ之ヲ収メ

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)はこの族属別 を廃止し、住所別を基準に現実の家族・親族集団を「戸」として戸籍を編製した。皇親を 除く全国民を「戸」を通じて管理するものであった。地域別・国民統一戸籍法といえた。 戸 籍 上 の 「 家

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は身分・家格と無関係となり、 「家」は均質化・規格化したけか(氏の 許容・強制の法制は「家」の均質化の前提条件であった) (1 1 i 0 戸 主 を 筆 頭 に そ の 他 家 族員を儒教思想、に基づく「向戸列次ノ

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すなわち尊卑・男女・長幼の

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債で記載された。 出生死去婚姻等の身分変動は明文の規定はなかったが、戸主より戸籍取扱いの官吏であ る戸長に届出ることになっていた。これは、家族の身分行為についての統制権を戸主に与 えるものであり、戸主届出義務による家族統制を意味していた。 戸籍事務の末端機関と して区に戸長を設け、府県に戸籍更を置いた。戸籍は、戸主一戸長一府県ー中央政府の順 に統合集中され、政府が戸籍を直轄した。壬申戸籍は生死婚姻等の身分事項を登録してい たものの(明治 4年戸籍法第五回])、主として徴兵、徴税、治安警察等の用に供され、行 政的戸籍の性格を持っていた。戸籍は全国民を把握統制する国家の基本帳簿であった。 ( 4 )時とともに、明治 4年戸籍法の不備は顕著になってきた。

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戸籍ノ精密ナラサルヲ 奇貨」とし徴兵忌避の温床となるなど政府施策に支障が生じ、同法は「今此法ノ実際ニ行 ハル、モノハ三十三則中僅三四則ニ過キス

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有名無実ノ徒法」と批判されるに至った(1 2 )。そのため明治 15年 (1882)に「戸籍規則案

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(13)が元老院で審議され「戸籍法」 として可決された。登記事項を定めて戸主の届出義務を明記したが、公布されないまま結 局は廃案となった。 ( 5 )しかし、戸籍の不備は放置しえず「明治 1 9年戸籍法令」といわれる三法令が明治

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4年戸籍法の部分的修正として(1 4 i公布施行され、戸籍制度は整備された。これらは、生 死および各種の身分行為の登記事項を定め、その届出を戸主に義務づけた。江藤新平の民 法編纂以来、フランス法系の身分証書制度の導入が検討されていたが、これにならった身 分登録制の採用が部分的とはいえ実現した。 (二〉 法 典 論 争 と 明 治2 3年 民 法 ・ 戸 籍 法 ( 1 ) 司 法 省 や 左 院 ( 明 治 4年に立法機関として設けられ、同 8年元老院開設により廃止 された)などから民法の草案が発表されたが、いずれも実施とはならなかった。明治 13 年 (1880)から、パリ大学より招聴された法学者ボアソナードを中心に民法典の編纂 が行われた。好余曲折はあったが、明治 23年 (1890)に、わが国最初の近代的な民 法 が 公 布 さ れ 、 同26年 (1893) 1月1日から施行されることになった。しかし、こ の民法施行をめぐって、延期派と断行派の聞に有名な「法典論争」がおこり、結局実施さ れないままに終わった(この民法を今日「旧民法」と呼んでいる)。 延期派は、民法のとる自由主義・個人主義が、わが国の人倫を壊乱し、すでに施行され ている大日本帝国憲法の天皇主権の思想と対立するとした。民法は「一男一女情愛ニヨ y テソノ居ヲ同ジウスルj一夫一婦制を基礎としていて、日本古来の「家」制度に合わない こと、旧慣を顧慮していないこと、日本人自身の起草でないことなどを理由に反対した。 断行派は、 「内ニハ法官及ビ人民ヲシテ適従スル所ヲ知ラシメ外ニハ多年スベテ国民ノ 件望セル条約改正ヲ成就セシムベキ」であると反論した。延期派の穂積八束帝国大学教授 は、 「民法出テ、忠孝亡フ

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という論題をかかげで民法をするどく攻撃した。この激しい 論 争 の 結 果 、 明 治25年 (1892)に、民法は延期の名のもとに永遠に葬り去られた。 ところで、明治23年民法の付属法として戸籍法案が審議されたが、民法実施をめぐる 法典論争のあおりをうけて、これは廃案となった(届出人が法律で定められ、戸主の届出 権は大幅に縮小されていた〉。 同月す台

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ミ主主三 d

「雲支」 (一〉 明治民法の法的家族像一「家

J-( 1 ) 政 府 は 、 明 治26年 (1893)に「法典調査会

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(総裁伊藤博文)を設置し、延 期派の穂積陳重(八束の兄)・富井政章と、断行派の梅謙次郎の 3人の帝国大学教授に起 草委員を委嘱した。 旧慣を顧慮するとともに、財産法と家族法をわけたドイツ民法第一草案などを参照し(1 5 )、財産法の前三編が明治29年 (1896)に、家族法の後二編が同3 1年6月に公布 され、同年7月 16日からともに施行された。 ドイツ民法に先立つこと 2年、スイス民法 より 9年も早く施行されたものである。西欧以外での最初の近代的民法であり、 1 1 4 6 条に及ぶ大法典であった(後二編の家族法は、昭和 2 2年に抜本的に改正された。改正前 のものを「民法旧法」というが、本稿では便宜上「明治民法」という)。 明治民法は、 「家

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制度に立脚して制定されたといわれる。明治民法における法的家族 像 で あ る 「 家j は、個々の現実の家族問題を解決するために、明治以来、太政官や各省か ら出されてきた太政官布告・布達・指令や、戸籍制度の施行過程のなかで具体的に形成さ

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れてきたものが、法典編纂過程での論争というスクリーニングを経て、集約されたものと いえよう。 ( 2 )当時の国家が理念とした家族像である「家」について少しふれておこう。 ① 「 家

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の永遠性が尊重された。過去(祖先)から現在そして未来(子孫)へと、一定の 血縁者(特に父の血統)によって、祖孫連綿と「家」は超世代的に承継されるべきもので あった。婚姻はそれ自体が目的ではなく子を得る手段であって、夫婦関係よりも親子関係 が重視された。 ②「家」の長である戸主には、この「家」を統轄するために、家長権(戸主権)が与えら れた。穂積八束は、家長権の尊厳性を「家長ハ顕世ニ於キテ祖先ノ霊ヲ代表ス家長権ノ神 聖ニシテ犯スへカラサルハ祖先ノ霊ノ神聖ニシテ犯スヘカラサルヲ以テナリ家族ハ長幼男 女ヲ問ハスーニ其威力ニ服従(16)

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するものと根拠づけた。 ③「家」の内は上下の身分関係とそれに基づく支配と服従、思と報恩(孝)の原理が支配 した。男尊女卑・長幼の序はその現われであった。 ④これが一つの「家」にとどまらず、本家分家関係、地域共同体にまで拡大された。 ⑤究極的には、天皇家・天皇を総本家・親とし、臣民のそれは分家・赤子と観念された。 万世一系の天皇家を宗家とする「家族国家観」が形成された。穂積八束は「我千古ノ国体 ハ家制ニ則ル家ヲ大ニスレハ国ヲ成シ国ヲ小ニスレハ家ヲ成ス(1 7)

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といったが、 「家」 制度は家の中にとどまらず、わが国の支配構造と深くかかわる根幹の存在とされた。 ( 3 )国家が理念、とする家族像に基づき編纂された明治民法における『法的家族像-

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家」 』は、祖先より子孫に至る「家」の永続性が尊重された。祖先祭杷相続は「家」の永続性 の象徴であり、戸主の地位・財産とともに、家督相続として、長男が単独で承継するのを 原則とした。戸主及び家族は、その者の属する「家」の名すなわち氏を称した。戸主には 戸主権が与えられた。男尊女卑・長幼の序に基づく規定が多く存在した。戸主は家族に、 親は子に、男は女に、父は母に、夫は妻に、兄は弟になど、それぞれが優越した。

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家」 にあること(同氏であり、同一戸籍である)が、親権・扶養・相続などの要件となってお り、 「家」のための親子関係、 「家」のための婚姻関係、 「家」のための家族関係と、 「 家」が重圧となっていた。

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家」のなかに個人が埋没し、 「家

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が優先していたのである。 〈二)

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家jと戸籍制度一明治3 1年戸籍法一 ( 1 )明治3 1年 (1898) の民法制定にともなって、 「戸籍法」・「戸籍法取扱手続」 が新しく公布施行された(これにより「明治 4年戸籍法」と「明治 19年戸籍法令」は廃 止となった〉。戸籍は、明治民法の法的家族像である「家」を枠組みとして公示する国家 の登録簿である。明治民法は国民がいずれかの「家」に属するとしたことをうけて、戸籍 は「家」を単位に編製し、戸主と家族について、出生から死亡までの婚姻、離婚、養子縁 組等の身分事項を記載した。

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家」は戸籍法に基づく公の登録簿に記録され、戸籍に記さ れた「家」が法律上の「家」とされた。 ( 2 )この戸籍法は、西欧の制度にならった個人本位の身分登記簿と、 「家」本位の戸籍 簿の二つを設けた。戸籍から行政目的の項目はなくなり (18¥純然たる身分関係の事項の みとなった。江藤新平の民法典編纂以来、西欧の身分証書制度の導入が論議されてきたが、 日本の戸籍法史上、はじめて、個人を単位とし身分行為毎に個別登録する「身分登記簿」 制が採用された(1 9 j (戸籍法七条、八条、一九条、二三条、戸籍法取扱手続一条)。

(5)

身分登記簿制の新設といっても、これは明治 19年 戸 籍 法 の 「 登 記 目 録

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(明治 2 3年 戸 籍 法 案 の 「 登 記 目 録

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)を発展的に解消したものであると立法過程で説明されていた。 すなわち、政府委員倉富勇三郎は「其実際ヲ申上ゲマスレパ既ニ今日モ殆ド此法案ニ定メ マシタヤウナ手数ヲ致シテ居リマシテ唯其身分登記簿ト云フ名称ガナイダケノコト jであ って「此際俄ニ非常ナ手数ヲ増ス様ナ懸念ハナイ」と説明している (20i。 しかし、身分登記簿制が明治 19年戸籍法令の登記目録制の拡大吸収としても、個人別 登録、身分行為毎個別登録制は、わが国の戸籍法史上画期をなす最初にして唯一のもので あり、従前の身分事項記載の戸籍簿とは質的転換をなすものである。明治 19年戸籍法の 「登記目録ハ専ラ戸籍ニ従属シテ其加除異動ノ記入ノ為メニ設ケタルモノ jに過ぎないが、 明治3 1年戸籍法の「身分登記カ民法国籍法等ノ規定ト照応シテ専ラ身分ノ公証ヲ眼目ト スルモノ」であって異質のものであるは1)。したがって、 「身分登記ノ事ハ新戸籍法ノ特 創トモ称スヘキモノニシテ其重要ナル部分ヲ占ムルモノ

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(2 <:'jであり「身分登記簿は本に して、戸籍簿は末なり

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l2 j iといえる。身分登記簿制と戸籍簿制のユニークな併存制は、 明治

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年代の「家」制度と個人制度の混合の時代を反映している。

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戸籍法ノ規定ノ如 キモ其前半タル身分登記ノ制度ハ西洋諸国ニモ存スル所ナリト雌モ其後半タル戸籍ノ制度 ハ全ク我邦ニ特有ナルモノ」と理解されていた(24)。 ( 3 )明治民法施行前にあっては、家族の身分行為の届出は、戸主の職務とされた。した がって、戸主が身分行為の成否を握っていたのである。しかし、明治民法・戸籍法では、 この戸主の届出権(許可権)は同意権・離籍権となった。届出が事件本人の責任となった のである。これは、日本資本主義経済の要求する近代私法の原則(財産法の個人主義原理) に対応した法的表現と云える (25)。明治民法(家族法)が、前述の「家」に立脚して制定 されたとしても、婚姻などの身分行為は各当事者の行為として法的に構成せざるをえなか ったところに、近代法典として特色があるのである。 ( 4 )民事の実体法は民法であり、戸籍法はその付属法・手続法になったといわれる。し かし、付属法といわれた戸籍法の方が、近代法典としての構成をとらざるをえなかった明 治民法よりも、より習俗的な身分秩序を守る役割を担わされていたのである(26 i。また、 戸籍によって民法上の「家」の枠組みがつくられ、 「家」による家族支配が有効となった (27 i

( 5 )新戸籍法が、専ら人の身分に関する権利の確定に関するものとなったことをうけて、 戸籍事務の管轄が内務省から司法省に変更となった。

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「雪之」

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〉重力

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蓄 と

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号、と去丘主主 dコ干写右肩イヒ (一)

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家jの動揺 ( 1 )明治民法(家族法)は、法典論争の後、旧武士的規範や慣行を重んじて、家父長的 「家」制度に基づき制定されたといわれている。しかし、明治民法の「家」制度も、わが 国が近代国家として確立するために欠くことができない資本主義の発展に一定の役割を果 すことが期待されていた(28i。 例えば、家族の婚姻、養子縁組等について、戸主の許可権(届出権)としてではなく、

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同意権(婚姻・縁組当事者の意思表示の合致)と構成されていること、また、家督相続も 家 産 と し て で は な く 、 戸 主 の 個 人 財 産 の 承 継 と さ れ て い る こ と で あ る 。 こ れ ら は 、 民 法 財 産編における個人主義原理に照応し、前近代的家父長制的「家」制度が変質したことを示 している。 したがって、明治民法の「家」制度は、断行派からも延期派からも妥協の産物と批判さ れていた。梅謙次郎は早晩必ず改正の必要に迫られると主張した(29)。 他 方 、 延 期 派 で あ った「家」制度擁護論者からも、明治民法の「家」は、国家を支える基礎として弱体であ るとの危機感が絶えず持たれていた。崩れた「家」と評されたゆえんであるは臼)。 ( 2 )日露戦争後から大正にかけては、時代の転換期であり、大正初年は法体制再編期の 初期にあたるは1)。旧来の価値観、社会秩序は動揺し、解体する時期にあった。日清、日 露の両戦争をへて、わが国の資本主義は高度に発展し帝国主義の段階に入った。急激な工 業 化 、 都 市 化 の 波 は 、 わ が 国 の 「 家

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を根底からゆりうこ、、かした。弱体とされた「家jの 一層の危機が生じ、 「家」制度の批判や実態としての「家」の動揺に対抗して、忠孝一如 の家族国家観が強化され(32i、 「家」制度の再編強化がはかられたのである (33)0 明治 43年 (1910) 9月に、河田嗣郎京都帝国大学教授の『婦人問題』が「家」制 度を破壊するものとして、文部省から絶版を求められた。翌4 4年 に は 、 岡 村 司 京 都 帝 国 大学教授の岐車県教育委員会での講演「親族と家族

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が問題となった。

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戸主制にありて は妻に子なきときは他の妻若くは妾に子を挙げしむるの必要あり

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長 子 相 続 は 毎 家1人 の愚物を出だすに止まるの利益あり」などと、男尊女卑、夫婦不平等を非難した。これが、 戸主制度、 「家」制度を批判したとして、文部大臣から謹責処分をうけた { 3 4 ) O 翌 4 5年には、松井須磨子主演のズーデルマン作「故郷」が上演禁止となった。主人公 が親の決めた結婚を嫌って家をとびだす場面が、家庭の良風に好ましくないとされたため である(公演者側の島村抱月がこの箇所の改作を約して上演が許可された〉。 これらの事例は、為政当局が「家」の維持強化にいかに神経をとがらせ躍起となってい たかを示している。鹿野政直「大正デモクラシー

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( めjは、河田嗣郎、岡村司の 2つの事 件について、 「国家が家族制度の維持にどんなに神経過敏だったかをしめすとともに、夫 婦の新しいありょうへの主張が、法の領域にあらわれてきていたことをものがたる。ここ にも転換の予兆があった」と指摘している。 ( 3 )日露戦争後の時代転換に際して、 「家」擁護派から弱体と懸念されていた「家」の 一層の解体危機が生じ、 「家」制度の安定強化が求められた。したがって、明治 4 1年 ( 1 9 0 8)に戊申詔書が出され、同 4 3年に修身教科書が国定化となり、家族国家観が明 確化された。

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我が国は家族制度を基礎とし、国を挙げてー犬家族をなすものにして、皇 室はわれらの宗家なり。我等国民はこの父母に対する敬愛の情を以て万世一系の皇位を崇 敬す。是を以て忠孝はーにして相分れず

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(36 i と、忠孝一如や祖先祭紀が強調された。 これらの動きについて、津田左右吉は明治 44年 (1911) 5月 8 日の日記に、 「文 部大臣は、どうしたら祖先崇拝の風を維持することができるかといふ問題を教育屋仲間へ 提出したそうである」、最高の解決策は「個人の人格を立派にすること」であり、 「此の 最良の方法は忠孝屋にはお門ちがひの建策であろう」と批判しているく37)。芥川龍之介も 『河童~ (昭和 2年 2月 1 1日作)の中で、 「殊に家族制度と云ふものは莫迦げてゐる以 上にも莫迦げてゐる」と、 「家」制度をE朝笑している( 3 S ) O

(7)

(二〉 民 法 典 の 再 編 化 ( 1 )このような「家」制度批判に対して、 「家」の再編強化が急務とされるようになっ た。

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家」制度が国民道徳の根幹として教育しようとするのに、肝心の民法に「家」制度 にそぐわない規定もあって、十分な効果をあげえないと非難された。 江木千之(山口県元岩国藩士、文部大臣)は、 「教科書デハ忠孝ノコトヲ説牛、父母ノ 命令ニ能ク従ハヌ(ママJナラヌト云フコトヲ頻ニ説イテ居ルンデアリマスガ、サテ民法ノ方 ヲ開イテ見ルト、妻ヲ迎へルニモ何歳ヲ過ギタラ父母ガ不承諾ナ者デモ自分ガ妻ッテ家内 ニ入レテ宜シイト云フヤウナコトガ規定シテアル」と例をあげている。また、 「我国ノ今 日ノ道徳上ノコトト法律上ノコトノ喰合ハヌト云フコトハ多々アリマスガ、甚シイノハ家 族制度ノコトデアラウト思フ、是ハ社会ノ風教ト法律ガ背馳シテ居ッテ」、重大な問題で あると主張したは幻。 ( 2 )大正2年 (1913) 3月の貴族院で、 「此教育ノ方針ト他ノ立法ノ主義トノ統一 ヲ図ラナケレパナラヌ」として、 「教育調査機関ノ設置ニ関スル建議案」が可決された。 これをうけて、同6年 (1917)に『臨時教育会議』が設置された。教育勅語の精神が、 法律のなかに十分に生かされていない。忠孝一体の道徳が民法の「家」制度のなかに規定 されていないと批判された。

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我国固有ノ淳風美俗ヲ維持シ法律制度ノ之ニ副ハザルモノ ヲ改正スルコト」が建議され、 「家」制度と相矛盾することの著しい法令の改正が求めら れた。 ( 3 )この建議をうけて、政府は大正8年 (1919) 7月に『臨時法制審議会』を設け、 「現行民法中我国古来ノ淳風美俗ニ副ハザルモノアリト認ム其改正ノ要領如何」と諮問し た。臨時法制審議会は大正8年 の 設 置 か ら 同 14年 (1 9.2 5) 5月まで、 27回にわた って開催された。 6年にわたる審議をへて、大正 14年 に 「 民 法 親 族 編 中 改 正 ノ 要 綱

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3 4項 目 ) 、 昭 和2年 (1927)に「民法相続編中改正ノ要綱

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(1 7項目)を議決し、 政府に答申した。民法典は実施約20有余年にして、再び批判の的となった。臨時法制審 議 会 は 権 威 主 義 的 な 家 父 長 制 の 強 化 を 任 務 と し て い た が 、 委 員 の な か の い わ ゆ る 進 歩 派 ( 特にリベラルであった穂積重遠東京帝国大学教授など)の力によって、夫婦の平等など市 民的家族観にたつ改正要綱となった(4O)。これらのいくつかは、戦後の民法改正のなかで 生かされたのである。この民法改正要綱について、末弘厳太郎は、ともかく「伝統」を重 んじ、 「我国固有の淳風美俗」を維持しようとして企てられた民法の改正が、結局におい て大体「現実の要求

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を容れて、社会の現実と法制との恭離を減少せしめるだけの仕事に なり終わった」と評している t41JO 〈三〉 大 正3年 戸 籍 法 一 身 分 登 記 簿 の 廃 止 -( 1 )明治 3 1年戸籍法は、各人毎に生死、婚姻等の身分事項を「身分登記簿

J

(個人別 編製・身分行為毎個別登録)に記載し、その後、戸主を筆頭とする「戸籍簿」に転記する 制度であり、世界的にみても珍しいものであった (42)。明治3 1年 戸 籍 法 は 、 わ が 国 の 戸 籍制度史において、はじめてにして唯一の身分証書制を加味した身分登録制の採用であっ

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こ。 ( 2 )この明治3 1年戸籍法が施行されるにつれ、種々の問題点が指摘されるようになっ てきた。世界的にみてもユニークとされた、身分登記簿と戸籍簿の併用制度は、逆に「徒 ラニ労多クシテ、其効少ナシ

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(43)

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世界無用ノ長物(44)

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と批判されるようになった。

(8)

① 戸 籍 簿 ・ 身 分 登 記 簿 制 に 伴 い 戸 籍 事 務 ・ 保 管 が 過 重 煩 雑 で あ る に も か か わ ら ず 、 ② 身 分 登記簿が余り利用されないことに批判が集中した。以下に少し詳しくみてみよう。 ① に つ い て 、 明 治3 1年戸籍法は「身分登記ヲ主トシ戸籍簿ノ外ニ別ニ身分登記簿ヲ設ケ 身 分 ニ 関 ス ル 事 項 ハ 之 ニ 記 載 ス ヘ キ モ ノ ト シ 之 ヲ 本 籍 人 及 ヒ 非 本 籍 人 ノ 二 種 ニ 大 別 シ 更 ニ 事 件 ノ 種 類 ニ 依 リ 各 別 冊 ト シ 而 シ テ 各 正 副 二 本 ヲ 作 ル ヘ キ モ ノ ト セ ル カ 故 ニ ー ノ 町 村 ニ 於 テ戸籍簿ノ外ニ身分登記簿ノミヲ以テスルモ一年実ニ八十冊ヲ作ラサル可カラスシテ其ノ 手 数 、 経 費 ノ 多 キ ヲ 要 ス ル ハ 勿 論 、 之 ヲ 保 存 ス ル 裁 判 所 ノ 如 キ ハ 其 ノ 場 所 ナ キ ニ 困 ム ノ ミ ナ ラ ス 戸 籍 役 場 ニ 於 ケ ル 其 ノ 記 載 ノ 如 キ モ 戸 籍 簿 ノ 記 載 ト 合 ス ル ト キ ハ 同 一 事 項 ニ シ テ 実 ニ八回ノ記載ヲ為ササル可カラサノレモノアり、其ノ煩雑ナルコト真ニ驚クニ堪ヘタリ (45)

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という有様であった。 しかも、身分登記簿は、一年毎に編製のうえ永久保存されることになっていた(八条、 十一条)。保管の困難について、その一例を紹介してみると、 「東京区裁判所管内ノ一箇 年 間 ノ 身 分 登 記 簿 ノ 厚 サ ガ 五 十 間 ノ 高 キ ニ 上 ボ ル ト 斯 ウ 致 シ マ ス ル ト 、 之 ヲ 永 久 保 存 ト シ テ 見 マ ス ル ト 、 実 ニ 幾 ツ モ ノ 蔵 ヲ 造 ラ ナ ケ レ パ ナ ラ ヌ 、 所 ガ 現 ニ 今 日 ニ 於 キ マ シ テ 東 京 地 方 裁 判 所 ノ 彼 ノ 御 覧 ノ 通 リ 堂 々 タ ル 建 物 ノ 四 階 ハ 是 ガ 為 ニ 充 満 シ テ 居 ル 、 今 ヤ 置 ク 所 ガ ナ イ ト 云 フ 工 合 デ 、 地 方 裁 判 所 ノ 三 階 ヲ モ 借 り テ 保 存 シ ナ ケ レ パ ナ ラ ヌ ト 云 フ 状 態 」 と な っ ている {46JO ② このように戸籍事務と保管が重複煩雑であるにかかわらず、身分登記簿の利用が余り なく、 「身分登記ハ殆ド其実用ガナイパ7)

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状 況 に あ っ た 。 東 京 区 裁 判 所 に お け る 明 治 4 3年 (1910) 4月から 1年 間 の 戸 籍 の 利 用 状 況 は 、 謄 本 11 323 7件 、 抄 本 38 3 3 0件 、 閲 覧 8 9 8 3件(合計 16 0 5 5 0件 ) の 請 求 が あ っ た 。 こ れ に 対 し て 、 身 分 登 記 簿 で は 謄 本10 9 8件、抄本 64件、閲覧 32件 ( 合 計 11 9 4件 ) に す ぎ な か っ た 叫 ,、‘ o I

徴 兵 事 務 に か か わ る 陸 軍 省 の 戸 籍 関 係 担 当 官 に あ っ て も 「 未 だ 身 分 登 記 な る も の 、 存 在 を知らしとの事」であって、 「以て一般人に及ぼす身分登記簿の必要の程度しるべきなり ( 49)

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といわれる利用状態にあった。 ( 3 ) 種 々 議 論 の 末 、 大 正3年 (1914) 3月 3 1日に法律 2 6号 と し て 『 戸 籍 法 』 が 公 布 さ れ 、 翌4年 4月 1日から施行されることになった。これが「大正 3年戸籍法」とい わ れ る も の で あ り 、 戦 後 の 法 改 正 ま で 用 い ら れ た 。 大 正3年 戸 籍 法 は 、 身 分 登 記 簿 を 廃 止 して、戸籍簿のみとした。身分登記簿を廃止するかわりに、戸籍の記載事項をより精細に し た の で あ っ て 、 身 分 登 記 簿 と 戸 籍 簿 を 一 体 化 し た と い え る 。 す な わ ち 「 戸 籍 簿 ニ 一 切 今 マ デ ノ 身 分 登 記 簿 ニ 記 載 致 シ マ シ タ コ ト ハ 、 記 載 ス ル コ ト ニ 致 シ マ ス ル カ ラ 、 戸 籍 簿 ガ 身 分 登 記 簿 ヲ 兼 ネ タ モ ノ ニ ナ リ マ シ テ 、 簿 冊 ハ ー ツ デ ゴ ザ イ マ ス ガ 、 今 マ デ ノ 身 分 登 記 簿 ト 戸籍簿ト合セタモノ (50)

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になった。 しかし、新戸籍制度は身分登記簿と戸籍簿の単なる合体ではなく、この戸籍制度は「家」 が 単 位 で あ っ て 個 人 が 単 位 で は な く 、 各 個 人 は 其 の 「 家 」 の 構 成 者 と し て 登 録 さ れ て い る という側面を忘れてはならない(51)0 (戸籍法九条が「戸主ヲ本トシテ一戸毎ニ之ヲ編製 ス」と規定している)

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死んでしまったのは、身分登記制度ではなく、その西欧的側面(5 <:J

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であった。 ( 4 ) 身 分 登 記 簿 が 廃 止 さ れ 、 戸 籍 簿 に 一 体 化 さ れ た 理 由 で あ る が 、 前 述 の よ う に 、 戸 籍

(9)

事 務 ・ 保 管 の 過 重 煩 雑 さ 、 利 用 さ れ な い 現 実 の ほ か に 、 根 本 的 に は 、 身 分 登 記 に 対 す る 国 民の支持がなかったことにあったといえる(ら3i。 個 人 の 確 立 に と も な う 個 人 の 身 分 関 係 そ れ自体よりも、 「家」の出目、 「家」への帰属、 「家」における地位が重視される社会構 造が影響したと考えられる(54 i。そしてまた、 「家」を基底とする家族国家観には、身分 登 記 簿 制 は ふ さ わ し く な い と す る 思 潮 の 影 響 も あ っ た と い え よ う 。 明 治 3 1年戸籍法は、 「洋行帰リノホヤホヤガ・・・此制度(身分登記簿のこと、井戸田)ヲ持帰ッテ、サウシ テ 之 ヲ 政 府 ニ 提 供 シ テ 政 府 ノ 当 局 者 ハ 軽 率 ニ モ 之 ヲ 信 ジ テ 採 用 シ タ 結 果(55)

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であって(5 6 i 、 「一夜作リノ法律(57)

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として改廃されることになった。 ( 5 )なお、当時すでに以下の見解が述べられていることに興味がもたれるところである。 大正3年 (1914) 2月26日の衆議院委員会(戸籍法改正法律案他三件)において、 島 田 俊 雄 委 員 は い ず れ 「 家 」 制 度 が 崩 壊 す る と い う 立 場 か ら 、 身 分 登 記 制 度 の 必 要 性 を 主 張 し て い る 。 為 政 当 局 者 側 は 「 家 ノ 制 度 ニ モ ッ ト 重 キ ヲ 置 キ タ イ ト 云 フ コ ト ハ 御 希 望 デ ア ラウ」と思われるが、 「社会ノ経済状態、実際ノ発達ノ上カラ、 ドウシテモ民法ノ予想シ テ居ル家ノ制度ハ崩レテ、個人的ノ方ニ重ヲ置クヤウニ自然ニ経済関係カラナルデアラウ」 とする。

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民 法 制 定 当 時 ニ 於 テ 身 分 登 記 ヲ 必 要 ト シ テ 居 ル ノ ニ 、 今 日 サ ウ 云 フ 御 希 望 ガ ア ッ テ モ 、 其 御 希 望 ノ タ メ ニ 之 ヲ 収 縮 シ テ 、 身 分 登 記 ノ 制 度 ヲ 戸 籍 簿 ノ 中 ニ 込 メ ル ト 、 ヤ ハ リ 是 カ ラ 十 年 カ 十 四 五 年 経 タ ナ イ 中 ニ 又 身 分 登 記 ノ 制 度 ヲ 置 カ ネ パ ナ ラ ヌ 」 と い う 事 態 に な る 。 し た が っ て 「 現 行 法 ノ 身 分 登 記 ノ 制 度 ヲ 全 廃 セ ズ シ テ 、 愛 ニ 身 分 登 記 制 度 ノ 弊 害 ダ ケヲ矯メル方法

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をとるべきと主張している (58i。 至王

「若之」

カ 〉 ら dコ角平方文 〈一〉 現 行 家 族 法 の 法 的 家 族 像 ( 1 )資本主義の進展と矛盾、あるいは大正デモクラシーといわれた時代背景のもとに、 法体制は動揺し再編の動きが盛んとなった。政府は、親族法・相続法の改正要綱をうけて、 法 改 正 の 作 業 に 入 っ た が 、 満 州 事 変 以 来 15年 戦 争 と 戦 争 色 が 強 く な り 、 昭 和 16年 (1 9 4 1 ) に 一 部 法 律 案 が 作 成 さ れ た が 、 つ い に 立 法 化 さ れ な い ま ま で 終 戦 を む か え た 。 同 2 0年 (1945)の敗戦により、明治憲法下の法体制は崩壊した。 ( 2 ) 昭 和20年 に 、 わ が 国 は ポ ツ ダ ム 宣 言 を 受 諾 し 終 戦 と な っ た 。 同 宣 言 は 、 外 に 向 け ての平和主義と、内に向けての民主主義を要請していた。新しく制定された日本国憲法は、 同22年 (1947) 5月3日から施行され、婚姻や家族について、個人の尊厳と両性の 平等を基本原理とした。このことから、明治民法の「家」制度が非難されることとなった。 明 治 民 法 は 、 祖 先 よ り 子 孫 に 至 る 「 家 」 の 永 遠 を 重 ん じ 、 男 尊 女 卑 に 基 づ く 「 家 」 制 度 に 依拠し、個人よりも「家」を重視していたからである。 「家」制度を維持しようとする保守派の激しい抵抗はあったが、近代家族法の原理に立 脚して、民法の家族法が根本的に改正された。

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家 」 制 度 を 否 定 し た 現 行 家 族 法 ( 新 法 ) は、昭和22年 (1947) 12月22日に公布され、翌23年 1月1日から施行された。 ( 3 ) 近 代 家 族 は 、 個 人 の 自 由 を 基 礎 と し 、 個 人 の 尊 厳 と 男 女 の 本 質 的 平 等 を 指 導 理 念 と している。婚姻は家族の出発点であり、夫婦が家族の中心で、ある。近代家族は夫婦とその

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聞の未成熟の子で形成される。この近代家族像が、戦後の民法改正で理念とされた法的家 族像である。超世代的で、家父長的な「家」制度に基づいた明治民法の法的家族像は、こ の近代家族の原理とはあいいれず、抜本的な改正がなされたことは当然の結果であった。 この近代家族の原則が、敗戦の結果、この時期に唐突に現われたのではなかった。前述 の法典論争における断行派、大正末期から昭和初期にかけての親族法相続法改正要綱にみ られた家族法の実質的な近代化がそれである。敗戦によって、外から押し付けられただけ ではなく、日本人の手による長い近代化の歴史があったのであり、戦前との断絶とともに この継続性を忘れではならないのである。 (二〉 昭 和2 2年 戸 籍 法 ( 1 )昭和 22年 (1947) の民法改正にともなって、戸籍法も全面的に改められ、同 年 12月 2 2日に法律二二四号として公布され、翌 23年 1月 1日から施行された。 民法は「家」を廃止したから、戸籍法も「家」が編製単位ではなくなった。現行戸籍法 は、 「ーの夫婦及びこれと氏を同じくする子ごと

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(六条)に戸籍を編製することとした。 戸籍は、前述の法的家族像である、夫婦と未成熟子からなる婚姻家族を表示する。婚姻に よって同氏となった夫婦は新戸籍を編製し、同氏の子は、親の戸籍に入ることとした。し たがって、①夫婦は一組ごとに一戸籍とする(一夫婦一戸籍の原則)、②一夫婦と同氏の 子からなる親子二代で編製するので、親子孫の三代は同籍できない(三代戸籍禁止の原則) 、③同じ氏の夫婦親子で戸籍は編製されることになっている(同氏同籍の原則)。 ( 2 )明治民法のもとでは、 「子ハ其家ニ在ル父ノ親権ニ服ス

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(八七七条)と規定され ていたように、同じ「家」すなわち同じ戸籍に属しているか否かで、親権、扶養、相続な どの家族法上の権利義務に影響があったが、現行法では、同じ戸籍である(同氏である) かどうかは、これら家族法上の効果とはなんら結び付いていない (59)。 注 ( 1 ) 我妻栄「戸籍制度創設百周年にあたって

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(W日本戸籍の特質』昭和 4 7年 帝 国判例法規) 2 1頁。津田省三『夫婦別氏論と戸籍問題jJ (平成2年 ぎょうせい 1 9 0頁以下)は「家族登録」とすべきとする。 ( 2 ) 利谷信義『家族と国家j] (1987年 筑摩書房) 1 5 6頁。 ( 3 ) 前注書 157頁。 ( 4 ) 西村信雄『戦後日本家族法の民主化上巻j] (1978年 法律文化社) 8 4頁。 ( 5 ) 山田車生「結婚による改姓強制

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(W法律時報jJ 6 1巻 5号) 8 8頁。 ( 6 ) 拙稿「夫婦別氏論

J

(W

帝塚山短期大学紀要j]2 7号) 2 2頁 以 下 、 拙 稿

WI

家」 に探る苗字となまえjJ (1986年 雄山閣出版) 1 8 5頁。 ( 7 ) 山主政幸『日本社会と家族法一戸籍法をとおして-j] (昭和 3 3年 日本評論新 社) 111----115頁参照。 ( 8 ) 明治 4年 4月 4日『戸籍法』太政官布告(第 17 0 )、外岡茂十郎編『明治前期 家族法資料Jl (昭和42年 早稲田大学) 1巻 1冊、 83頁。 ( 9 ) 福島正夫編『日本近代法体制の形成』上巻 (1 9 8 1年 日本評論社) 2 1 0頁。 ( 1 0 ) 福島正夫「明治前半期における『家』制度の形成

J

(日本法社会学会編『家族 制度の研究(上) j] 1 9 5 6年 有斐閣) 1 2 8頁。同『日本資本主義と「家」制度j] (

(11)

1 9 6 7年 東 京 大 学 出 版 会 ) 2 1 1頁以下。 (1 1 ) 利 谷 信 義 「 明 治 前 期 に お け る 戸 籍 制 度 の 発 展

J

(福島正夫編

rr

家 」 制 度 の 研 究 資 料 1~ 1 9 5 9年 東京大学出版会) 3 9頁 。 山 中 永 之 佑 『 日 本 近 代 国 家 の 形 成 と 「家」制度~ 1 9 8 8年 日本評論社) 2 6 0頁。 ( 1 2 ) 山県有朋編『陸軍省沿革誌~ 2 3 5頁以下。 ( 1 3 ) 明 治 15年 元 老 院 「 戸 籍 規 則 案 」 政 府 委 員 説 明 (

r

元 老 院 会 議 筆 記 』 前 期 11 巻 昭 和 4 2年 元 老 院 会 議 筆 記 刊 行 会 2 9 0頁)。 ( 1 4 ) 第 1 4 6号 議 案 「 徴 兵 令 及 ヒ 近 衛 兵 編 制 改 正 ノ 儀 布 告 按 」 の 審 議 で 内 閣 委 員 渡 正元は、 1 0 0人中 3 ・9 3 6人しか徴員できないとしている。(前掲『元老院会議筆記』 前期7巻 3 5 2頁)。 ( 1

5

)

利 谷 信 義 「 日 本 資 本 主 義 経 済 と 法

J

(岩波講座『現代法~

7

1 9 6

7

年 1 3 2頁)は、 「 財 産 法 と 家 族 法 を 分 け た い と い う 希 望 が 起 草 者 に あ っ た こ と 、 そ し て そ れ は 、 法 典 論 争 の 過 程 〈 厳 密 に は 、 旧 民 法 の 起 草 過 程 ) に お い て 、 財 産 法 と 家 族 法 の 起 草 原 理の相違が要求されたこと」と関係するとする。 ( 1 6 ) 穂 積 八 束 「 耶 蘇 教 以 前 ノ 欧 州 家 族

J

( r穂 積 八 束 博 士 論 文 集 』 昭 和 18年 有 斐閣 218--219頁)。 ( 1 7 ) 穂積八束[fr 家」の法理的観念~ (前掲『穂積八束博士論文集~ ) 4 0 5頁。 ( 1 8 ) 福 島 正 夫 編 前 掲

rr

家 」 制 度 の 研 究 資料編 1~ 5 4頁。 ( 1 9 ) 福 島 正 夫 編 前 掲 『 日 本 近 代 法 体 制 の 形 成 上巻~ 2 4 0頁。 ( 2 0 ) 明治 3 1年 6月 4日『帝国議会貴族院議事速記録 13 ~ (昭和 55年 東京大 学出版会) 1 7 5頁。 (21) (22) 板垣不二男・岡村司『戸籍法釈義~ (明治 3 1年 講 法 会 ) 1 4頁。 ( 2 3 ) 山 主 政 幸 前 掲 書 13頁。 ( 2 4 ) 前 注 書 5--6頁 。 な お 、 本 庄 栄 次 郎 「 我 戸 主 制 度 ノ 得 失 ヲ 論 ス (l)J

(W

京 都法学会雑誌~ 8巻 7号 大 正2年 7月 1 8 1頁)は、 「我現行制度ハ戸主制度ト個人 制 度 ト ノ 中 間 ニ 進 メ ル 」 も の で あ り 、 身 分 登 記 と 戸 籍 登 記 が 存 す る 所 以 で あ る と す る 。 ( 2 5 ) 前 注 書 23 9頁 、 山 中 永 之 佑 「 近 代 の 家 族 と 共 同 体

J

(W 歴史評論~ 4 4 1号 1 9 8 7年) 7 0頁 、 利 谷 信 義 「 法 社 会 学 に お け る 家 族 と 地 域 社 会

J

(同) 7 5頁。 ( 2 6 ) 利谷信義前掲『家族と国家~ 1 4 8頁。 ( 2 7 ) 福 島 正 夫 編 前 掲 『 日 本 近 代 法 体 制 の 形 成 上巻~ 2 3 9頁。 ( 2 8 ) 山 中 永 之 佑 前 掲 「 近 代 の 家 族 と 共 同 体

J

6 8頁 以 下 、 同 前 掲 『 日 本 近 代 国 家 の 形成と「家 J 制度~ 1 4頁他。 ( 2 9 ) 梅 謙 次 郎 「 家 族 制 ノ 将 来 ヲ 論 ス

J

(W 法学志林~ 3 3巻・『法学大家論文集』 民 法 之 部 下 巻 明 治 4 3年 7 5 8頁)。 ( 3 0 ) 有 地 享 「 明 治 民 法 と 『 家 』 の 再 編 成

J

(W

講 座 家 族8~昭和 4 9年 弘文堂) 4 5頁。 (3 1 ) 鵜飼信成・福島正夫・川島武宜・辻清明編『講座日本近代法発達史~ (1 9 5 8年 勤 草 書 房 ) 。 ( 3 2 ) 磯 野 誠 一 「 明 治 民 法 の 変 遷

J

(W

家族 家 族 問 題 と 家 族 法 1~昭和 4 8年 弘 文堂) 3 5 4 頁、吉田静致・橋本文寿『家族制度の将来~ (大正 4年 宝 文 館 ) 2 4 4頁

(12)

他。 ( 3 3 ) 拙 稿 『 日 本 近 代 「 家 」 制 度 の 研 究 - 乃 木 伯 爵 家 問 題 を 通 じ て j] (1992年 雄山閣出版)参照。 ( 3 4 ) 熊 谷 開 作 「 岡 村 司

J

(~日本の法学』昭和 4 9年 日本評論社) 1 1 5頁以下、 磯 野 誠 一 「 法 学 に お け る 自 由 の 圧 迫

J

(向坂逸郎編『嵐のなかの百年j) 宮 川 寅 雄 「 国 民 文 化 の 形 成 (2)J (~岩波講座日本歴史 1 8 現 代 1]j3 2 1頁以下)。 ( 3 5 ) 鹿 野 政 直 「 大 正 デ モ ク ラ シ ーJ (~日本の歴史 27 j] 1976年 小 学 館 5 3頁)。 ( 3 6 ) ~高等小学校修身教科書』第 3 学年。 ( 3 7 ) ~j津田左右吉集 2 6巻 日記2]j (昭和4 0年 岩 波 書 庖 ) 4 7 2頁。 ( 3 8 ) ~芥川龍之介集j] (現代日本文学全集 3 0 昭 和 3年 改 造 社 ) 3 7 7頁。 ( 3 9 ) ~帝国議会貴族院委員会議事速記録 1 j]大正2年3月 22日貴族院予算委員会。 ( 4 0 ) 川 島 武 宜 「 穂 積 重 遠 博 士 の 家 族 制 度 観

J

(~家族法の諸問題』昭和 2 7年 有 斐 閣 4 0 1頁以下)。 (4 1 ) 末 弘 厳 太 郎 「 淳 風 美 俗 と 親 族 法 の 改 正

J

(~法窓閑話j] 3 6 5頁)。 ( 4 2 ) 福 島 正 夫 編 前 掲 『 日 本 近 代 法 体 制 の 形 成 上巻j] 2 3 9頁。 ( 4 3 ) 大 正 3年 2月2 6日 、 小 山 温 法 学 博 士 ( 政 府 委 員 ) 答 弁 (

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帝 国 議 会 衆 議 院 委 員会議事速記録j] 6 1 4頁。 ( 4 4 ) 自 治 館 編 『 戸 籍 法 詳 解 全j] (大正6年 自治館) 1 2 6頁。 ( 4 5 ) 前 注 書3頁。なお 12 7頁参照。 ( 4 6 ) 大 正 3年 2月2 6日 、 鈴 木 喜 三 郎 法 学 博 士 ( 政 府 委 員 ) 答 弁 ( 前 掲 『 帝 国 議 会 衆議院委員会議事速記録j] 6 1 6頁 。 な お 、 市 町 村 役 場 に お い て は 、 裁 判 所 以 上 に 保 管 が 大変であると説明されている。 ( 4 7 ) 大 正3年3月16日 、 奥 田 義 人 法 学 博 士 ( 司 法 大 臣 ) 説 明 (~帝国議会貴族院 議 事 速 記 録15号j]2 5 6頁。 ( 4 8 ) 前 注 書 (32) 6 1 5頁。 ( 4 9 ) 司 法 省 参 事 官 山 内 確 三 郎 「 戸 籍 法 の 改 正 に 付 て

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(~法律新聞j] 9 2 3号 大 正3年 2月2 8日)。 ( 5 0 ) 大 正3年2月25日 、 小 山 温 法 学 博 士 ( 政 府 委 員 ) 答 弁 『 帝 国 議 会 衆 議 院 議 事 速 記 録 28 ]j (昭和56年 東 京 大 学 出 版 会 ) 3 0 2頁。 (5 1 ) 関宏二郎『戸籍制度j] (昭和8年 自治行政叢書) 3頁 、 根 本 松 男 「 戸 籍

J (

『 家 族 制 度 全 集 法 律 篇 町 家 』 昭 和 13年 河 出 書 房 ) 2 7 4頁。 ( 5 2 ) 山 主 政 幸 前 掲 書 8 9頁。 ( 5 3 ) 福 島 正 夫 編 前 掲 『 日 本 近 代 法 体 制 の 形 成 上巻j]2 4 1頁。 ( 5 4 ) 福島正夫・利谷信義前掲『家族問題と家族法四j]3 4 5頁D ( 5 5 ) 大 正 3年3月 13日 、 斉 藤 隆 夫 『 帝 国 議 会 衆 議 院 議 事 速 記 録 2 9号j] (昭和5 6年 東 京 大 学 出 版 会 )4 8 6頁。 ( 5 6 ) 沢野民治『改正戸籍法詳解j] (大正 3年 7月 有 斐 閣 ) 2頁。 ( 5 7 ) 大 正 3年 2月2 6日 、 鈴 木 喜 三 郎 答 弁 ( 前 掲 『 帝 国 議 会 衆 議 院 委 員 会 議 事 速 記 録j]6 1 6頁 。 な お 、 奥 田 義 人 司 法 大 臣 ( 法 学 博 士 ) は 、 同 年3月 4日 の 衆 議 院 委 員 会 で

(13)

「現行ノ戸籍法ハ決シテ一夜作リノ法律デハナイ」と答弁している(同速記録66 5頁)。 ( 5 8 ). 前 注 書621頁。 ( 5 9 ) ただし、七六九条、七七一条、七五一条二項、七四九条、八一七条、八 0八条 二項において、復氏と祖先祭最

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財産承継とが関係づけられている。拙稿「法からみた祖先 祭杷

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(赤田光男編『祖霊信仰』平成3年 雄山閣出版 315頁以下)、拙稿「戦後の 祭 杷 条 項 改 正

J

(W

帝塚山短期大学紀要 2 9号』平成 4年 2 6頁以下)参照。 (本稿は、平成 4年 4月24日の本研究所講演会と同年 9月26日の日本生活文化史学会 において発表したものに加筆したものである)

参照

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