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オントロジーとしてのテクノロジー(1)

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(1)

オ ン トロ ジ ー と して の テ ク ノ ロ ジ ー

(

1

)

Technologie als Ontologie (1)

Haruyuki Enzo

1章

哲学的意志 とテ クノ ロジー 山

(

Ⅰ) 現代 はテクノ ロジーの時代であ る。現代ではテ クノロジーを,科学の純粋理論的な知識を人間の生 活のために応用す ること, として把え る伝統的解 釈 のテーゼは もはや通用 しな くな っている。今 日 では,テクノロジーは人間の生活 のためのテクノ ロジーで はな く,かえ って逆 にテクノ ロジーのた めに人間がそれに仕えて生 きることにな りかねな いとい う危険に曝 されている。 こ

10数年来のテ クノロジーの進歩 によって,テクノ ロジーは人間 のコン トロールの手 に余 るまでにそのポテ ンツを 高め,かえ って人間の生活の方が テクノロジーの 掌中に帰 し,テクノロジーによって コントロール されんがばか りなのであ る。 それで は,だか らといって,我々はテクノロジ ーを忌避 して,生活 してい くことができるであろ うか。否。なぜな ら,現在,テクノロジーは我々 の生活を外か ら支配 しているので はない。今 日の 我々の生活 はテクノ ロジーな しには一 日た りとも 維 持で きない。いわばテクノロジーは我々の生活 のア ・プ リオ リな諸条件を定立 し,その下で始め て我々の生活が可能 となっているか らである。従 って,テクノロジーは我々の生活 を,その内か ら, すなわち我々の生活のア ・プ リオ リな条件の次元 か ら, いわば 「超越論的」に支配 しているのであ る。テ クノロジーは,か くして今 日の我々の生活 の様式(life style, Lebensstil)を,アプ リオ 7)に,宿命的に,規岳 している。従 って,チ クノロジーによって規定 されたる生活様式 は,戟 々がいかにそれを変えん とした ところで,我々個 々人のベルゼーンリヒな意志 によっては左右 され えないのである。 このような仕方で今 日テクノロジーは人間の生 を,そのあ らゆる領域 に於 いて,支配 している。 - イデ ッガー も斯 く語 っている。すなわ ち, 「●●●● 今 日存在す るところの ものは,現代技術の本質の支 配 によって刻印づけ られている。.この支配は,機 J■-フエタi′7ソ 能主義化,完 全 化,オー トメーション化,官僚 化 , インフ ォーメイションと多様 に命名 され うる 動 向によって,生のすべての領域ですで に表われ て いる。我々は生 けるものについての表象を生物 学 (Biologie)と名ずけるように,技 術の本質 によ って徹底支配 された存在す るものの呈示 と形 成 はテクノロジーと呼ぶ ことができる。 (テクノ ロジーとい う) この表現は,原子時代の形而上学 を表示す る語 として用いることができる」ot2) ここで言 う 「形而上学」 とは学問の-分科 とし ての形而上学を意味す るのではない。- イデ ッガ -の言 う 「形而上学」 とは

,

「現有 に於 ける根本 生起」であ り

,

「現有それ自身である」 とさえ言 われているo(3らまり,形而上学 は人間存在の根源 に属 してお り,人間存在の根源か ら歴史 的出来事 と して生起 して くるのである。その限 り,形而上 学 は歴史的存在 としての我々の現 に有 るこの存在 を根源か ら規定 し.支配す るのであ る。 テクノロ ジーは,人間の現有の歴史の根底か らそのエポッ ク的出来事 として生起 したところの 「現代」 とい う時代の 「形而上学」 といえ るのである。現代の 形而上学 としてのテクノロジー (Technologie) は,有 りとし有 りたるもの,生 きとし生 けるもの をその根底か ら総て統べ るところの現代 の ロゴス (logos)その ものであるとさえいえ るb 現代 とい う時代の動向を方向づU,決 定す るの

(2)

は, もはや我々人間の思惟のロゴスではな く,チ クノロジーのロゴスであ る。本稿冒頭で. 「現代 はテクノロジーの時代で ある」と述べたが,これ は今述べた如 き意味で言 ったのであり,単にテク ノロジー流行の時代 とい った意味で言 ったのでは ないのである。今 日テ クノロジーは累乗的に加速 して発達 し,その奔流のなかで生 きている我々は 息つ く暇 もな く等区り立て られ,疲れていまにも息 が語 らんばかりである。 しか し, さりとて,テク ノロジーの奔流の外に立 ってシニカルにテクノロ ジーを批判するだけでは済まない。なんとなれば, テクノロジーは 「現代 の形而上学」 として 「現有 における根本生起

」,

「現有その もの」であるの だか ら。 かかるテクノロジーの動向は,恰 もニーチェが ●●● 「終末へ と意志 し, もは や 自分 自身 を振 り返 る (sichbesinnen)こ-_とな く.自分 自身を振 り返 る ことを恐れ る,ところの奔流」(4)と言い表わ した「 ニ ヒリズム」の奔流に似ている。それ もそのはず, 恐 らくテクノロジーこそニヒリズム中のニヒリズ ムなのだか ら。まさに現代のテクノロジーこそ後 を振 り返 ることな く, また 「目標」 も無いまま, とにか く自己を与区り立てて突き進むニ ヒリズムの 一形態,というよりはニ ヒリズムの最終形態なの である。テクノロジーは何処に向 って突き進むの か ? 世界のカタス トローフに向 ってなのか ? それともユー トピアに向 ってなのか ? いずれに せよ,テクノロジーは 「前」へ 「前」- と自らを 駆 り立てていることだけは確かなのである。 この 「前」- という方向がオ リエンティー レンしてい る先 を見定めるだけで も,すでに我々は 「後」へ 振 り返える必要がある

「後」-振 り返 るとは,翠 に 「過去」-測 るとい うだけではない。テクノロ●■●●● ジーを或 る一つの 「現有 に於ける根本生起」 とし て,現有の根源的次元,すなわち,形而上学が生 起す る次元へ測 って振 り返 って見なければならな いのである。従 って, テ クノロジーについての省 察は,ニーチェが 「巨大 なる自己省察」(Selbst -besinnung):個人 としてでな く人類として 自覚す ること」(5というが如き自己省察でなければならない. テクノロジーは我々の現有の根本か ら運命的に 現代 というこのエポックに生起 してきたのである。 それ故,我々がいかにテ クノロジーの支配か ら外 に立 ったつ もりでいて も,それは,テクノクラー トがテクノロジーの将来に対 して抱 く幻想以上に 幻想で しかない。つまり,テクノロジーの支配か ら逃れんとして も,今 日ではそれは幻想への逃亡 で しかないのである。テクノロジーの支配か らの 解放は,テクノロジーを無闇に忌避 し,それか ら 逃走す ることで もって,成功は しない。テクノロ ジーは今 日の我々にとってそれを避けては生 きられ ない運命的生起なのである。テクノ ロジーが人間 の現有の根本生起である以上,テクノロジーか ら の我々の解放は,我々の現有の根底 か らの 「自己 超克」 として試み られなければな らない。 このため,以下に於 いて,テクノ ロジーを,覗 有に於ける形而上学生起の次元に於 いて,形而上 学の一形態 〔恐 らくは,形而上学の末期的形態〕 として,哲学的に考察 していきたい。テクノロジ ー生起の現有の次元を開示 したのが現有の根本生 起 としての哲学 ・形而上学であるのな ら,そのテ クノロジーを超克 しうるのは,これ また我々の現 有の哲学的 ・形而上学的自己省察によるのである。 (Ⅱ) 「哲学」philosophyという語は,周知のよう に, 甲E'入o

(愛す る)という形容詞 と J

O

釣 (知慧)という名詞の合成語の ¢L入o

q

o

¢Zα とい うギ リシャ語に由来する。このエテ ィモ ロジーが 示すように 「哲学」とは 「知への愛」を意味する。 しか し 「哲学」

-

「知への愛」が,単に雑多な知 識の量的な集積を求めることを意味す るのではな く,特別 な意味を もつようになったのは,ソクラ テスには じまる。(6) ソクラテスに於 いて 「哲学」は,連続的に知識 量の拡大を求める活動ではな く.断続的飛躍を含 む自己超越的な活動であった。すなわち,彼 にと って哲学 とは,いわゆる 「無知の知」を契機 とし て,自己超越的に 「知」を求める活動であった。 通常,人々はナイーブに 「無知」である。すなわ ち 「無知」であるということについても 「無知」 であり

,

「無知」なる自己に没頭的 にはまり込ん でいる。 これに対 し

,

「無知」を 「知」 ることに. おいて,すでに 「無知」なる自己か ら超えており, しか も単に 「無知」なるを知 るだけにとどまらな - 76

(3)

-い。 さらに知を求 めて, 自分 自身を超 え出てゆ く のである。 ソクラテスにとって,哲学す る ( ¢L入oqoか?i,)とい うことは, 自分を超えたる者 たる 「神」か らの命令 に呼応 して, 自分自身を超 克 してい く活動 なのである。プ ラ トンの rソクラ テスの弁 明jによるとこうであ る。 「- ・・・いま神の命令 によ って - そ う私は信 じ 解す るのであるが - 私 自身 と他のすべての者を 吟味 し哲学 しなが ら生 きていかなければな らない のに く ¢L入oqoQo^UソTαPE8e?i,P7?レXαJ

とEeTbEovTα とFLaUTb〃xα∼TOt・

b

久入ouE・ ), その場で,死かあるいは他 のなにかを恐れて,拷 場を放棄す るようなことを した ら,私は恐 ろ しい

ことを した ことになろう」。(7)

哲学す る

(

¢E入oqoQE?〟 ) とは, ソクラテス

にとって,まさに 「哲学 しなが ら生 きる」 (¢L ^0-604ouLITb的 y )ことと して,生 き方 (Eu'7?) の一つ, しか も,.神か ら命 じられて,そ う生 きね ばな らない ( Se?i,P77L,,),そ うい う卓越せ る生 き方 なのである。哲学 とは,死の危険を敢えて冒 して ( xル5:weuE?レム7TOCαye?〟 )(8)で も,坐 きなければな らない生なのであ る。 ところで,そ もそ も 「生 きる」 とは,もともと常に 「死の危険」 に自分 自身を曝 し出 しなが ら生 きているのである, ただ 日常的にはその生の根本事実を隠蔽 しなが ら 生 きているのであるが。 してみれば,あえて 自分 自身を外 に,すなわち死の危険に曝 して生 きる哲 学 とい う生 こそ,す ぐれて生 きるとい うことでは ないのか。そのために,哲学 とはまず 自他 ともに 吟味の場 に曝 し出す (_とE-e

T

αEe?i, )ことで も あったのである。 このようなソクラテスの生 き方 がまた,現実 にもまさに死の危険 に自分 自身を曝 す ことになった。すなわち,人々の怨みを買 い, 裁判 にか け られ,死を死刑 の判決 と してその身の 上 に招 いたのであった。 「哲学 しなが ら生 きる」 とはソク ラテスの生 にとってそのアル ファに して オメガ,それ以外の生 き方 はなか ったのである。 つまり, 「哲学 しなが ら生 きる」 ことこそ 「生 き る」 とい うことその ものであ った。 このことを ソ クラテスの運命がその生 き方を もって示 している のである。 以上のように,人間の生活 とは,外 に自分を曝 し出す生活である。 「吟味 されない生活 ( とZ/EEとTαJTOCβZos-)は人間の生 き る生活ではな い」191ともいわれてい る。もともと人間の生 には, 自己の外 に自分を曝 し出す こと, 自分 自身を超え 出 ること,が属 している。す なわち.人間 と して 生 きる上で, 「ただ生 きることではな く,よ く生 きる (

e

b伽 )とい うことが大切」80なのであ る。 「よ く生 きる」 ことを志向 して生 きる人間の 生 は.は じめか ら自己超克的なのである。哲学以 前 の人間の生 に してすでに自己超越的な動向が属 している。哲学 はそのような自己超越 の動性を殊 更 に,す なわち意志的に遂行す ることである。 ソ クラテスの哲学 は, 自分に対 し,あるいはまた他 の人々に対 し, 自己を超克 してい くことを,ソク ラテスの言葉 によれば, 「魂をで きるだけす ぐれ た ものにす る」 ことを,さ らに,その ことに 「気 を くぼ る

」(

と7uPE入eZJeαE)(皿)ことを, 意志的 に求 めるのである。 してみれば, ソク ラテスに於 いて哲学 とは,生の諸々の他の活動 とな らぶ生の 活動の一つで はな く,生本来の動性す なわち自己 超越の遂行その ものなのである。 ※ Fソクラテスの弁明.

Lr

ク リトンJなどプ ラ ト ンの初期の対話旨では,以上の如 く,哲学 は単 に 人間の生 に暗々裡に根源的に含 まれて いる自己超 越 の取 り立てての遂行 として,その 自己超越的動 性が示 されたにとどまるが,プ ラ トンの中期の対 話岩では,その自己超越的志向の行 き先 が 「イデ ア」の世界 と して先取 りされて,呈示 されてきた。 プ ラ トンによれば, 「感覚 によって とらえ られ る もの」,あれこれ個 々の事物 は,例 えば個々の 「美 しい」事物 は, 「芙それ 自体」,つ ま り 「美の ィデア」がそ こに 「臨在」(R)し て いる こ とによっ て,その限 りで,美 しいのである。従 って,個 々 の事物 は,真なる存在 (b'J/T叫 bi, )たるイデ アの似像 (e'lSw入ou)であ り,端的 な無で はな いが,影 (qx(a)(B)の如 き存在,つまり非有(Fr7 b'y)なのである. ところで,我々人 間は,いわ ゆる 「ロゴスを もった生 き物

」(

rpoL,^bγoL/ i,xov)(叫と して, 個々の事物を指 して,それが 美 しいとか,あるいはそうでないとか言いなが ら 生 きてい る。 しかるに,そ う言 うことが可能 なた めには,予め何 らかの仕方でイデア (この例の場 合, 「美のイデア」)を看て取 っていなければな

(4)

らない。なぜな ら, もしそ うでないと,そ もそ も 個々の ものを 「美のイデア」 とい う範型 に照 して 美 しいと認知 さえできなか ったであろうか ら。つ まり,プ ラトンの言 うところによれば こうであさ。 「すべての人間石窟 ま存在す るもの (引用者註 : イデアのこと)をすでに本性的に看て取 って しま っている ( 7r^aqaJ

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Z,むでα.)。 さもなけね ぎ, プー/1-ケ -その魂はこの生 きもの く

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tOrPOy,)とい ぅ姿 には決 して至 りえなか ったであろうに」tB)と. つまり,人間の生には本来, 「イデア」の世界へ の超越が含 まれているのである。 しか し,普通我々は肉体 (ソーマ)とい う牢獄 のなかで縛 られて生きてお り, 「感覚 された」 も のを 「真に存在するもの」 (ら'yT(Jぐらり)と思い 込んで しまって,外の物体 (ソーマ)に囚われ, それに動かされて生きている。然 るに 「生きる

とは,本来. 「自分で自分を動かす」 自発的活動 であり,かか る 「プシューケー」の活動 こそ真に 生々 とした生なのである。かか る本来の生か らい えば,肉体 (ソーマ)はまさに生その ものたるプ シューケーの墓 (セーマ)だとも言われるのであ る。(iJ 従 って,真なる存在 ・イデアについての知を求 める哲学 は,我々の生きている世界か ら,それを 超えた ところにある別の世界へ と,超え出ること ではない。そのような外へ向っての超越ではなく, 哲学 は,ソーマ (肉体 ・物体)に囚われた生か ら 「自分で自分を動か しうる動」 その ものた るブシ ュ-ケーへ と,自己超克することである。つまり, 哲学 は自分か ら自分へ という自己超克的な意志で あった。 その意味で,知への愛 としての哲学 はエロース の最たJるものである.エロースは,一般に諸々の 美 しく書き ものを求めるのであるが,かかる本性 上,エロースそのもの も自らも美 しく善きものと なるべ く,自己超克的に上昇 してい く。つまり, 肉体的美に対する愛か ら,精神的な美 に対する愛 へ と,そ して最後に F美jその もの,つまり美の イデアに対する愛

,

「哲学」- と上昇す るのである。 エロースは漸進的に何かを求めて進むのではなく, 自己超克的,すなわち飛躍的である。 しか もさら にエロース的意志 としての哲学 は,その窮極に於 いて

,

「意志」であることを意志的に超克 し,rl デアの観想」の場へと飛躍するのである。F饗宴』に 於いて,エロースの道の窮極に於いて,そこに至●● った者は, 「突然,なにか驚歎すべ き本性的美を 観得す るであろう (とEaZQJ/77g,XαTb

e

TaL' TL

CαuJJaJTtOVTわソ Q,uqEL"a入,ov・ )」.塵 という。この 「突然 (とEαE'Qz/7丁 )」という語が 表わ しているように,我々がイデアを見 るという よりも,む しろイデアの方が,我々の意志を超え た向 うか ら,いわば 「不意」に虚を突 いて襲 うが 如 く,人間の前に現前す る。その場合,イデアの 突然の現前 に人間は驚き,我を忘れ,イデアに魅 入 られ見入 るであろうと考え られたのである。先 に引用 した rパ イ ドン』(249E)で は,人間は本 性的にイデアを 「看て取 って しま っている」 (∴

T

e

e

'EαTαE )と《完了形 》で もって語 っているが, そのイデアを

,r

饗宴』では,哲学 は,その意志 の究極に於いて 「観得す るであろう

」(

T

'

O-¢eTαE)と≪未来形 》で もって語 っているoプ ラ トンに於いて,哲学 は,人間が本来既 にそこで脱 臼的に生 きていたイデア現前の場へ, こと改めて 自己超克的に帰入 し観入せんとの意志,すなわち 人間的生の本来性への自己帰還的意志であ り,且 つその意志の遂行であった。 ※ ア リス トテ レスに於いて も 「哲学」は,人間的 生の本性に属する意志の意志的遂行であった。す なわも

,r

形而上学』で言 うところによれば

,

lす べての人間は本性的に知 ることを欲す (

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」(B)のである。 しか も人間的生 にはすで に知が属 している

「人間 という頬は技術 と思考 とで もって生 きているP )というO人 間 は単 に個 エンJ<イ1丁 々の事物についての知識,すなわち 「経 験」だ けでな く,それ らの事物の原因についての知識, チタネー エtfスチー1 すなわち 「技 術」 ・ 「学 問」を もって生 きてい るとされる。ア リス トテレスの場合,プラトンと は異なり

,

「感覚的なもの」を 「非有」とはせず㌧ 知への欲求は,感覚的な ものか ら始 まりその原因 系列を潮及する方向へ向 うのであった。 しか し,かかる方向での知への欲求 も 「自然」 の うちで原因を追求するだけに止 らない。 究極の TイT イ丁-IT A・ケ -処で

,

「自然」を超えた 「第一の原 因 と原 理」 - 78

(5)

-を定立 し,それを求め るのであ った。 自然物 (Ta

q

ruJeL,)はすべて 「動 かされて動 くもの」(TtO xE",uFLeyOレ)(3')であるのに対 し,第-原理 ( 方 7'P'u

bp承 )は,・動か され動かす という連鎖 を超 えた 「不動 の第-勤者 ( 710 7TP^wT0y xル0-uybxL,叩TO〃 )」(a)であるO知 へ の欲 求 とし ての哲学の求める所 は,究極的 には, この 「不動 の第-動者」,つま り 「神」 についての知 とい う テオー レ-テイケ・ -ことになる。 この第-原理 についての 「観 想的 学」が,ア リス トテ レスの言 う 「第-哲学」であ り,また, 自然 (ピュシス)を超えた ものについ ての学 と して,一般 には

,

「形而上学 (メタ ・ピ ュシカ

)

」 とも言われ るのである。 テタ * -ところで,建築 において,各々の技術は建築物 の各部分 についての知 にすぎないが, これに対 し て

,

「建築術 ( とpxL-TEXTOyE埼 TeXL,'q

)

I

は,建築物全体の原理 (

a

P

X'7?)について知 って 丁ノレキテク トエケ -いなければな らない。建 築 術はかか るアルケ一 に従 って建築物を全体 として設計 し,各 々の技術 を指図 して,建築物全体を組み立てるのであ る。 この意味で建築術は,諸々の技術や学問を超えて, これ らに命令す る技術,あるいは諸々の技術や学 問よ り 「一層支配的

」(

b

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LX

u

TtPα )な学問で ぁるo(盟)してみれば,すべての存在の第一原理 に ついて考察す る 「形而上学」 は,いわば 「自然全 体」の建築術 とで もいえる。従 って 「形而上学

は,すべての存在 の第1のアルケーを考察す る学 であると共 に,それ 自身すべての知のアルケtと して他のすべての技術 ・学問に対 し指図をす る。 まさに 「形而上学」 は

,

「最 も支配的」 ( bpxL-NwTbTT7)な学 に して,唯一 「自由」 (主人et・Cpa) な学 なので ある.(21) ところが,かかる性格を もった 「形而上学」は 人間の所有す るところではない, とア リス トテ レ スは言 う。 なん となれば

,

「人間の ピュシスは奴 隷的」であるか ら, というのである

「メタエビ ュシカ ・形而上学」は,ピュシスを超 えた神的な 「第一 のアル ケ-」に関す る考 察であ ると共に, 人間の ピュシスを超えた神が所有す る学であった。 「第-のアルケー」 としての神は,ア リス トテ ヒユレーー・ レスによると, もはや一切の質料を もたない完全 エ ネ N ゲ イT な現実活動,思惟 とい う活動 その ものである。神 は,他 のなにかを思惟す るのではな く,自分を思 惟す るという有 り方で,すなわち 「思惟 の思惟 ( vo'qqLr L

J

O'qqeW

T)

」という有 り方で有 る。 し チ*- レーテイケー たが って,神 についての 「観 想 学」 た る 「形而 上学」は,神が神 自 らを思惟 し観照する 「テオー リア」なのであ る。つま り 「形而上学」は, 「思 惟の思惟」たる神の思惟 に して,かつ, 「最善に して永遠なる生」たる神の有なのである。甲) 以上みたよ うに,ア リス トテ レスに於 ける知へ の欲求 ・意志 は,その志向の究極 に於 いて,すべ ての存在 と知 とを統一す る第-原理を求 めるが, しか し,結局 それを 「神の所有」に帰 して,それ 以上 もはや第-原理を追求 しな くなる。つま り, 自己超越的な哲学的意志 は

,

「第一原理」を,超 越的な もの (秤)に帰す るかのように,超越的な ものの うちへ投 げ入れて,意志を屈 し曲 げそれに 服従す る。か くして哲学的意志 は,本来 は自己を 超越 して 自分が 自分に対 し命令す るのであるが, その 自己超越性を喪失 し,超越的な ものの命令に 服 さん とす るのである。人間はか く自己超越的に 自分 に命令す ることを忘 れて しまい,ま さにア リ ス トテ レスの言 うのとは別 の意味で, 「人間の本 性 は奴隷的」捗)となって しまうのである. か くして,ア リス トテ レス以降,近世 に至 るま で

,

「第-原理」は超越的なものの うちへナイー ブに定立 され,超越的な ものに委ね られて しまい, 請-原理が問題 となることはなか った。 (Ⅱ) 近世の形而上学 は,デカル トの 「哲学 の第-原 哩 (

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c)J の人間的意識 に於 ける探究 と共に始 ま る。(2') デカル トは,学問全体を 「最初の土台」か ら新 しく建て直すために, 「確固 とした持続 的」土台 (すなわち,不 動の第一 原 理) と, そ こか ら一切 の知識を導 びきだす 「方法」 とを,自分 自身で求 めていった。つまりた とえ るな らば, 「みずか ら 建築術

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を習得」Ca)せ ん と試 み たのであ った。 ところで,すでに意識 という有 り 方で有 る者が,確実な もの,すなわち確実な意識 を探 し求める限 り,意識す る者 自身の 自己意識の 確実性 に若 く確実性は無 い。そ こで, 「我思 う, 故に我有 り」 とい う命題が

,

「哲学 の第-原理 と

(6)

して,捧持な く, うけいれることができる」 とデ カル トは判断 したのであるO(Z)) もともと意識 という有 り方で自分の前に他のす べての ものを表象的に立てて見ていた人間は,.デ カル トの 「我思 う,故に我有 り」の表明と共 に, 自己意識的に意識の基体的主体の位置に立 ったの である。基体的主体 として自己意識することによ って,人間は,単 に他の ものを表象的に自分の前●●● に立てるのみな らず,確実に立てんとす るように なる。かかる意志 に従い,人間的主体は,自分か ら自分に対 し予め表象の仕方の 「規則」を定立し, 自分の表象作用を自己規制せんとす る。言い換え れば,意識の主休 としての人間は,個々の ものを 表象するに先立 って予め,自己規制的に確実な観 点を定立 し,厳密に規定可能な連関の地平を開い ておかん とす るのである。このように して開かれ た地平に於いて初めて,認識の対象が対象 として 我々に現象す るのである。デカル トの場合,彼は 「延長」とその様態 としての 「形 や運動 」 とい う 観点を定立 し,その下にすべての ものを確実に表 象せんとした。 もっとも,デカル ト自身は「延長」 を ものの本性に帰属 させて しまい,(3)意 識 の主 体 的全体 としての人間存在の 「超越論的」 ・意志的 性格は隠 されて しまうのである'Dだが。 ・i卜 人間的意識の根底に或 る一つの 「意志」的な働 きが存す ることは

,

「可能性のアプ リオ リな諸条 件」を 「批判的」 に問 うカン トの 「超越論的」な 問題設定の もとでの探究の過程を通 して明 らかに なっていった。(al 人間は意識 という有 り方に立 って他の ものを対 象 として見る場合,カントによると,すでに我々 は感性的直観の形式 と悟性の形式たるカテゴ リー を通 して見ているのであるという。すなわち,戟 々が予め表象形式 (感性的直観形式 とカテゴ リー) を定立 し,対象性の地平を形成 しておいて始めて, その地平の上で対象が対象 として現象 し,我々が 対象と出会 うこと (対象の 「経験

)

が可能となる のである

(% 々の通常の意識に於 いて も,や は り何 らかの地平を先行的に企投 しているのである が,この企投は暗黙裏に行なわれ,意識の上 にの ぼってこない。 しか し,カントの表象形式 (表象 の可能性の条件)の究明によって,カテゴリーは - 80-表立 って (すなわち 「意志的」に),定立されるの である。か くして人間主体は,単に (いわゆる 「 経験的意識」 として)個々の対象を表象するだけ でな く, (いわゆる 「超越 論 的意識」に於いて) 対象を表象 しうる可能性の条件を も表象するので ある。表象の主体 としての人間はその根底に於い て表象するという自分の有 り方の可能性の条件を 自分か ら意志的に自分 に対 して予め定立 している のである。 このようにカントの r純粋理性批判』を通過 し て人間的主体は,自分 自身の有の可能性 (この場 合 自然の理論的認識 という我々の一つの可能性) とその諸条件を自ら予め自分に対 して定立す る超●●● 越論的主体 となったが,この超越論的な人間的主 体はカント以降増々以 ってその可能性の条件定立 する力のポテンツを高めてきた。 この延長上に今 日のテクノロジーは成立 したのである。今日のテ クノロジーは,諸々の可能性を自然のうちへ企投 的に投げ入れて,予め立てた計画に従 って自然を 強要 し,自然あ ぅちか ら諸々の新たなる自然の可 能性 (例えば,原子力ェネルギーのような新たな るエネルギー)を強引に引き出す。今 日では もは やテクノロジーは,人間の自然本性を振 り返 りな がめることな しに,それ故に気軽 に,前に向って. 様々の可能性を企投す るのである。従 ってテクノ ロジーは,生の内奥の深みか ら可能性を企投する のではな く,ただ単に機械的に可能性を 「前へ」 と企投するだ桝 こしかすぎない。む しろ,テクノ ロジーに駆 り立て られ,人間の生 は奥行 きを失い, 重心を失 って,いよいよ浅薄に「前-」と転がって い くだけになりかねない。 もっともカントに於 いては,超越論的主体 たる 理性の意志 は,単 に外なる自然に向 って直観形式 と思惟形式を投げ入れ,客観的認諾はi可能 となる 図式-地平を開示するだけでは決 して満足 しない。 ヵントによると理性 とは 「原理の能力」倒 で ある とい う。理性は,単に認識が成立す ることだけで はな く,すべての認識を一つの全体へ と統一す る ことを求め,原理,すなわち理念を定立する。理 念は,我々の慈意的な意志によって定立 されるの ではな く

,

「理性その ものの自然本性 (di

eNa-turderVernunftselbst)によって課せ られaJ(31) という。言い換えれば.人間的理性 は超越論的理

(7)

忠,すなわち原理 -アルケ-を前以 って定立せ ざ るをえない。人間的理性はその内なる自然か らそ うせざるをえないのである。すなわち

,

「人間的 理性 は,その自然本性上建築術的 (architekto -nisch)である」(S)といわれ るo このよ うにア リス トテ レスの場合 と異な りカ ン トでは超越論的主体 とな った人間理性が 「アルケ ー」を自分か ら自分 に対 して意志的に定立す る。 か くしてア リス トテ レスでは神の所有 に帰 された 「形而上学」 はカ ン トでは人 間的理性 にその 「自 然的素質 (Naturanlage)」 として帰 されたので ぁる.(S)この場合のアルケ一 ・原矧 ま

,

「もの自 体」 に属す るところの,い うなれば 「ヒポスター テ ィシュ (実体的)な」原理 ・アルケーではなく, 理性が自分か ら自分 に対 して課する 「続整的原理

であ る。人間理性には自然本性的に 「建築術的関

心 (dasarchitektonische lnteresse)」enb嘱 してお り,理性の関心は

,

「認識の体系,すなわ ち認識を一 つの原酌 ゝら連関づけること」(33)を め ざ してい る. ところで理念による統- は,個々の 断片的認識を集積 し,後か ら 「技術的 (techni -sch

)

」に総括 し統一す るのではない.(郵 「この理 性統一 (引用者註 :認識の体系)は常 に或 る理念, すなわち認識全体の形式 という理念を前提 (Ⅶr -aussetzen)している。 この認 識 全体 は, 部分 の一定の認識 に先行 し,各部分の他の部分に対す る位置 と関係 とをアプ リオ リに規定す る」帥)と,い われ るoつまり,理性が個々の認識 に先立 ち,ア ルケー ・原理 ・理念を予め定立 (voraussetzen) し,可能 な限 り包括的な図式的地平 を開 いて,そ の地平 の うちに最初か ら出立 っていては じめて, 人間は個 々の認識を体系的になす ことが可能なの である。人間理性が偶然 な認識ではな く,統一的, 体系的な認識を求める限 り.人間は 「形而上学に 無関心で はあ りえない

(4,)絶えず体系的地平へ と 「超越論 的」に超 え出つつ,体 系 的地平を形成 し なければな らないのである。 カ ントによれば,人間的理性は,存在全体の創 造者 たる神 の理性のような原型的理性 (intel -1ectusarche-typus)ではな く,模像的理性(in -tellectus actypus)である。(a)しか し, 模 像

的理性は原型的理性の模像である。 その限 り,人 間的理性 は存在す るものを創造的に無か ら産出す

る実在的な原理 (arche)ではないが,その原型 的理性の模像 としての内的 自然本性か ら,形像的 なアルケ- (arche)を建築術的 (archi_tek tonisch)に自分の前 に投 影 し,諸々の地平を包括 す る体系的地平を形成 してい くのであ る。 今 日のテクノロジーは,様 々な可能性 とその条 件 を絶 えず新 たに 「前へ」向 ってプ ロジェク トし て

,

「後」を,すなわちアルケ-を振 り返 ること が ない。 そ して,アル ケーを振 り返 らず,アル ケ 一に固執 しないが故に,テクノロジーは増々気軽 に,増 々テ ンポを速め,増々様々な方 向に向 って 多様 な可能性をプロジェク トしてい くのである。 かか るテクノロジーの動向は,諸可能性 のarChi -tektonischな企投を めざす カ ン トの 「超越論 的哲学」か らみれば,archeを喪失 したアナーキ ー (an-arChy)的な動 向であるといえ よう。 (Ⅳ ) 人間的生 に本来的に属す る哲学的 ・自己超越的 な意志 が,今 日のテクノロジーを産み出 したが, そのテクノロジーの支配の下で今 日人間的生 はと もすれば,自己超越性を失 いがちであ る。 カ ン ト 以来人間は 「超越論的主体」 と して,そ こに於 い て一切 の ものが精確に測定可能 ・計算可能 ・予測 可能な もの として現象す るところの地平 を先行的 に企投 してきた。その地平の上で 自然 は始めか ら すでに,人間が操作 ・処理 ・統御 しうるもの と し て現象 し.テクノロジーが可能 とな ったのである。 そのテクノロジーは,一切の ものを目的合理的な 連関の もとに立てる。人間 といえ ども,例外 とし てその 日的合理性のネッ ト・ワークか ら漏れ落 ち ることはない。-イデ ッガ-的な言 い回 しをすれ ば,今 日のテクノロジーに於いて人間 は,自然を, そ こか ら自然 エネルギーを 「挑発的 に取り立てる」 べ く,用象 (Bestand)と して立て るのであるが, 「その人間の側では彼がすでに自然 エ ネ ル ギーを 葛区り出す (heausflo'rdern)よ うに挑 発 されて (

herausfordern)いる限 りでのみ,この用立てな が ら発 くことが起 こる」(B)のである.

したが って,その意味で,今 日我 々人間は自然 以上 にテクノ ロジーの挑発的に取 り立 て る威力に 晒 され,テクノロジーの発達 によって テ クノロジ

(8)

ーの発達のために動員 され,駆 り立て られ,その 日その 日を生 きている。 テ クノロジーのパ ースペ クテ ィブの もとでは,或 るものは何か他の ものの 用に役立つ限 りでのみ存在す るとみ られ,さらに その外の もの もまた別 の他の ものの用 に役立つ限 りでのみ存在す るとみ とめ られる。(% くしてこの 用立連関性の もとで,それぞれの ものはすべてそ の独 自性を喪失 し,同 じ用 に役立つ ものは相互 に 交換可能 な もの とみなされ るのである。 しか もそ うみな している人間 自身 もまた用立連関の うちに 呑み込まれ,我々の生 も,何かの用 に役立つ とい う観点でみ られ,その観点の もとで計算可能 な も のとして画一化 される。 か くして今 日我々は何か のために 「用立て」 られて,用の多忙 さに忙殺 さ れて生 きている。いや, 「生 きている」 というよ りは,む しろ機械的に動 き回 っているとで も言 う べきか。 とにか く,用 の多忙 に忙殺 された人間は, 生の内なる自然か らarchitektonischにarche

を企投す ることを忘却 して しまい,テクノロジー の発達の奔流 に流 されて い くのであ る。 それでは,我々の生を呑み込み流れるテクノロ ジー自身 は何処 に向 って い くのであろうか。テク ノロジーはテクノロジー自体 に対 しテクノロジカ ルに方向づけることがで きるであろうか。否,そ れは不可能であ る。ニーチェは

,

「科学 自身 は決 して価値創造的ではない」(4gt言 うが,テクノロジ ーも同様である。テクノ ロジー も,科学同様

,「

或 る一つの方向 ,意味 ,限界,方法,生存権」を 与え られ ることを必要 と している。テ クノロジー は外か ら与え られた諸 々の目的の もとに目的合理 的に諸々の可能性 (諸 々の可能的手段)を如何に 強い力で もってプ ロジェ ク トす ることができよう とも,テクノロジー自身 の全体 としての目的をテ クノロジーは自分の うちか らarchitektonisch

にプ ロジェク トす ることはできない。archit ek-tonischなアルケーを失 なったテクノロジーはあ らゆ る方 向に向ってアナ ーキーに可能性を投げか け,限界を もっ ことな く外に向って空 しく膨張 し てい くだけで しかないのである。 テクノロジーは,我 々人間的生 の根源 に属す る 自己超越的意志が展開 して,現われたその一つの 形態である。人間的生 は,テクノロジーによって 自然の脅戒 を克服 し,肉体的労苦か ら解放 された 生活をみずか ら可能 に した。それ は確かに自然に 対す る人間的生の一つの 「勝利」で あ るにはちが いはない。 しか し

,

「怖 るべ き格闘ののちに,勝 利ののちにす ら

,r

何のために

j

」(44と問わなけれ ばな らない。 もしそうでないと.人間的生は

,

「自 分の諸々の勝利に対 してす ら老 いぼれて しま

j

J㈹ ことになる。テクノロジーの もた らした安楽な生 活 に我々が安逸す るな ら,その時人間的生は他の 許多の可能性 (可能的生 き方)を逸 して しまい, 生 は一 つの可能的生 に固着 し,別 の (新たな)可 能性へ と自己超克的に飛躍す る生々 と した躍動性 を失 って,硬直 して しまう。 したが って,我々は テクノ ロジーに駆 り立て られて生 きるのではなく, む しろ逆 に無限に多様な自己の可能性 に対 して開 かれている躍動的な生 に於 いて,テ クノロジーを その生 の可能的有 り方の一つ として問題 に しなけ ればな らない。 今 日の我々の生の条件 にす らな っているテクノ ロジーを真に生の問題 にす るためには,我々はま さに生を賭 してテクノロジーを問題 とせざるをえ ないのではないか ? そ うい う仕方 でテクノロジ ーを問題 とす るのが,ニーチェの言 う 「大 いなる 情熱 (diegroBeLeidenschaft)」脚ではないだ ろうか ? そ してまた, 自分の生を賭 してテクノ ロジーを問題 とす るこの 「大 いな る情熱」に して は じめてテクノロジー に対 して arChitektonisch なアル ケーを 「超人」的に企投す ることができる のではないであろうか ? 註 (1) 春稿は,第21回長野大学学内研究会 (1984.5.31)に 於ける報告と,その際の質疑とに基づ く。ここに研究 会参加の諸氏に感謝の意を表 しておく。なお,本稿の 続宗として 「テクノロジーと自然」という題で群馬大 学学際研究会 (1985.8.5)での発表がある。発表要旨 は群馬大学求真会 「哲学文集」(第 176号 1985.7.20) に掲載。本稿と併せてご覧いただければ幸いである。 さしあた ってのFオントロジーとしてのテクノロジー 』 のプランは,この 「哲学的意志とテクノロジー」を第 一章,上に掲げた 「テクノロジーと自然」を第二章, さらに 「イデオロギーとしてのテクノロジー?」(仮題) を第三章として予定 し,以下の各章については題は未 定であるが・考察を続けてLJ'く予定である。ご鞭達の 程よろしく。

(2)HeideggerttDieonto-theo-10gischeVerfassung

(9)

82-derJMetadwsik''in:"Identit'a'tundDifferenz" S.48.

(3)Heidegger-1WasistMeta如 sik?"-in・'一`We

g-marken"S.18.

(4)NietzschettDerWille_zurMadlt" Vorrede

Nr.2. (5I ibid Nr.585. (6) ソクラテス以前にはtt¢E入bqop oT ''という語は, 「旺盛な好奇心 ・知識欲を もつ者」 くらいの意味で使 われていた らしい。た とえば,ヘラクレイトスのFr.35 として伝え られる言糞 にもその ことが うかがえる。

川 Platon"ApologiaSokratons''28El29A.. (8) ibid

(9) ibid.38A.

川 PlatonttKriton"4BB.

叫 Platon-tApologiaSocratous"29E,30B.

(吻 PlatondPhidon''loo°.

(E3) PlatonttPoliteia"Ⅶ 515A.

04)ギ リシャ時代

,

「人間」は哲学的解釈に於いて も前 哲学的解釈に於いて も,一般 に斯 くの如 く解釈 された

とい う。cfHeideggertlSein tnd Zeit" S.165.

(B) PlatonttPbidros" 249A o6) ibid.250C,etc

(rTl PlatonttSym posion" 210E.

(B) Aristoteles-tMetaphysica "Al.980a.

(xI) ibid.980b.

印) Aristoteles"Physica " A2.185a13.

ca)ttMetaphysiGl" A8.174a.

陸) ibid.A2。982a. czl) ibid.A2.982b 鍵) この段落の叙述 については,上掲書A巻第7-9章 を参照 されたい。 防) Cf.ibid A2.982b. ア リス トテ レスのこの箇所 では

,

「形而上学」が人間の所有できない学であると 述べたコ ンテキス トのなかで このように語 られている。 @) - イデ ッガ-のいう 「有-秤-請 (Chto-ttだ01 0-gie,Onto-Theo-Logik)」とい う形 而 上 学 の体制 のうちでは

,

「第-原理」は問題な しに 「神」 と して 定立 されていた。 cf.Heidegger"Identit'dt und DiffererH"S.56ff. Cg) デカル トにおいて

,

「哲学」(la philosophie, philosophia)とはいわゆる 「自然学」(physica)の ことである。これに対 し,この 「哲学」の「第一恵理」 を探究する学 を 「第一哲学」(primaphilosophia)と よぶ。いわゆる 「形而上学」(metaphysica)であるO しか もデカル トでは,この 「第-哲学」は自体的に成 立 しているのではな く,自らの第一原理を人間的意識 に於いて対 日的に求めるのである。つまり,デカル ト の代表的著 F第-哲学の省察』,(Meditationesde prima philo∝phia)」=ま, 形而上学の自己企投 と もいえよう。

伊) lkscartesttD

i

scoursde lame'thode" troisi昌meparte, (BibliothとquedelaPlgi a-de)p、140

四) ibid.quatri占meTnrtiep.148.

節) たとえば,ttPrirx:ipia philosophiae"Ⅰ,53.杏 参照されたい。

糾 カン トの F純粋理性批判

,

F実践理性批判』

,

F判 断力批判

,のいわゆる 「三批判」を貫ぬいているの は

,

「可能性のアプ リオ リな諸条件」を解明せんの課 題 であ った。CfHeidegger"DerSatzvom Grund"S.125ff. 担) カン トは,"KritikderreinenVernunft"A. 158,B197で

,

「あ らゆる総合判断の最高原則」 と して,斯 く言 う。すなわち

,

「いかなる対象 も,可能 的経験 に於 ける直観の多様の総合的統一 の必然的統一 の諸条件 の下に立つ」 と。つま り,超越論的統覚の総 合統一 の仕方 に則 っては じめて対象は対象た りうると, この原則は言 っているのである。 p) ibid。A299,B356. 帥 ibid.A327.B384. cz・) ibid.A474,B502. (ai) ibid.B21. (ST) ibid.A475,B503. 節) ibid.A645,B673. (33) ibid.A834,B862. 帥) ibid.A645,B673.

叫) ibid.VorredezurerstenAuflageAX. 昨)"KritikderUrteilkraft"S.350f.

節) Heidegger"DieFragemachderTechnik"

in:Vortr'a'geundAufs'dtzeS.17

(41) テクノロジーに於いて一切の存在は,それ 自身で立 つ 「自立的」な ものではな く,そこではすべては 「用 に立ちうる」ように 「仕立て」(bestellen)られて,

「立つ」(Stand)とい う有 り方 にもた らされる。か か る仕方で立つということを- イデ ッカーは 「用象 (

Bestand)」と名づけている。cf.Heidegger"Die FragemachderTechnik" in:Vortrageund Aufs孟tzes.16ff.

節) NietzschedZurGenealogiederMoral"Ⅱ

Nr.25.

(45)Nietzsche"DerWillezurMacht"Nr.26.

抑 Nietzsche■Also sprachZarathustra"Vcm

freienTode(Kr訂nerVerl.)S.77.

紳) 例えば,dDerWillezur旭 cht" の上 抱 のアフ ォ リズム (Nr.26),およびNr.1024を参照 してほ しい。Nr.1024では

,

「大 いなる情 熱の結 果 と して, 大 いなる様式 (dergroBestil)が再び登場する」 という。いつの日か

,

「大いなる情熱」が テクノロジ ーを大いなる様式に,我々の大いなるLebensstilに もた らさんことを !?

参照

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