政治の中の哲学者
政治は哲学者にとって鬼門なのか?
的場哲朗
一 二 三 四 はじめに1政治にとっての哲学 密かに、目立たぬように生きてヤスパース 積極的に介入して挫折マルティン・ハイデガー 結びナチズムの中の哲学者たちはじめに
政治にとっての哲学
1哲人政治というプラトンの理想 “哲学者が統治者になるか、そうでなければ、統治者が哲学者となるべきである。そうすれば、かならずよい政治が 行われるはずである。”ご存じのように、これは︿哲人政治﹀を説いたプラトン︵島下。 。ミじ oO︶の有名な言葉です。法 律を学んでおられる皆さんなら、きっとどこかで耳にしたことがあるはずです。プラトン自身の言葉をそのまま引いて みることにしましょう。﹁︿哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり﹀と僕は言った、︿あるいは、現在王と呼ばれ、権 力者と呼ばれている人たちが、真実にかつ十分に哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一 体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるので ないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。 さらに、われわれが議論のうえで述べてきたような国制のあり方にしても、このことが果たされないうちは、可能なか ぎり実現されて日の光を見るということは、けっしてないだろう。⋮﹀﹂ プラトンは著名な政治家の家庭に生まれており、みずからも若いころ政治家を志していたわけですから、この︿哲人 政治﹀を力強く説いた対話篇﹃国家﹄︵8辟Φ邑はプラトン畢生の仕事であり、﹁プラトンの主著中の主著﹂︵詰。 。︶で あると言って過言ではないでしょう。 2プラトンの哲人政治は失敗した どうでしょうか。皆さんも、そうした理想を思い描いたことはあるのではないでしょうか。ところがなんとも皮肉な 話ですが、プラトンは理想国家の実現には失敗しております。それも、一度ならず三度までも失敗したのです。 かれは、シケリア︵現在のシシリー島︶にあるシュラクサイの貴族ディオンに請われ、専制君主ディオニュシオスニ 世を哲学者として教育して、彼に理想政治を行わせようと試みたのです。プラトンがディオンに宛てた書簡︵第七書簡︶ が現存しますが、そこでもプラトンは、﹁正しい意味において、真実に哲学している部類のひとたちが、政治上の元首
の地位につくか、それとも、現に国々において権力を持っている部類の人たちが、天与の配分ともいうべき条件に恵ま れて、真実に哲学するようになるかの、どちらかが実現されないかぎり、人類が、禍いから免れることはあるまい﹂と 熱く語ってます。プラトンはそのときすでに老境にありましたし、当時の交通事情などを考え合わせますと、この訪問 は、とりわけ老年のプラトン︵七〇歳前後と推定︶にとって大変な旅行であったと推察されますが、そうした苦労も、 かれの畢生の仕事−理想国家の実現という仕事からすれば、たいした事業ではなかったのかも知れません。しか し、プラトンは大失敗します。三度目などは、専制君主によって奴隷として売り飛ばされてしまい、この︿理想国家﹀ からほうほうの体で脱出したと言われています。 3ナチス政権下に生きたふたりの哲学者 ちょっと考えますと、︿哲人政治﹀は理に適っているようにも思えます。知に長けた哲学者が政治家になるか、ある いは、政治家が立派な哲学者にならないかぎり、正しい政治は執り行われない、と。何しろ哲学者は高潔で、物事の本 質を見抜いているわけですから、善悪・美醜等の判断に狂いがあるはずはないからです。ところが、わたしの見るとこ ろ、そして歴史が教えるところでも、ごうした︿哲人政治﹀を実現した哲学者はいませんでしたし、それどころか反対 に、政治に翻弄された例のほうが多かったのです。つまり、哲学者にとって政治は︿鬼門﹀以外のなにものでもなかっ たようなのです。 そのことを、二〇世紀前半のナチス支配下に生き抜いたふたりのドイツの哲学者が生々しく、リアルに教えてくれる と思います。そのふたり哲学者の名前はカール・ヤスパース︵一。 。。 。。。山。8︶とマルティン・ハイデガー︵一。 。。 。。−おま︶で
す。両哲学者とも、二十世紀を代表する偉大な哲学者で、同じ実存思想を標榜しながら互いに親しく親交を深め合った りしていました。年齢はヤスパースのほうが少し上ですが、興味深いのは、ともにナチスが勃興・支配・終焉した時代 に哲学者として、大学人として、ドイツで活躍し、しかもナチスに対してまったく逆の姿勢を貫いていたという点です。 以下、ヤスパースとハイデガーの生き方を通して、政治の中での哲学者の生き方について考えてみたいと思います。 まず、ヤスパースから話をはじめましょう。
二密かに、目立たぬように生きて
ヤスパース
1非政治的生活ー哲学の信条
﹁大学に課せられた課題は、研究者と学生との共同体の中で真理を追究することである。大学は、たとえ国家によっ てその存立の手段を得ようとも⋮自治による組合である。﹂カール・ヤスパースは一九二三年に刊行した﹃大学の理念﹄ の冒頭でそのように述べています。 これはいかにも理想主義的な大学論だといえましょう。ヤスパースは、この言葉通り、政治に対しては無関心、悪い 言葉を使えば、鈍感でありました。この非政治的な姿勢は当時︵一九三三年頃までのドイツ︶それほど珍しいことでは ありませんでした。そうした理想主義的な大学論の代表として、たとえば、ヤスパースが、﹁時代の生命の内なる心臓ハロ
である﹂として尊敬してやまなかったマックス・ヴェーバーの講演﹃職業としての学問﹄を挙げることができるでしょう。ヴェーバーはミュンヘン大学の学生に向かって、﹁敬愛する諸君!学問の領域で︿人物﹀だと言えるのは、ひたす ら自分の専門に打ち込んでいる人だけ︵ロ霞99おBq段ω8冨9①筥︶である﹂と熱く語っています。 一九二七年、ヤスパースはある学生に、﹁わたしは非政治的な人間であり、どの党との結びつきをも拒否する。わた しは絶対的自由のうちに哲学的作業を行わなければならないからだ﹂と語ったといわれています。一九三二年、つまり、 ナチスが政権をとる前の年ですから、相当に不穏な動きがあった年ですが、その年にも弟子のハンナ・アレントに向かっ て、ナチスなどは無害なもので滑稽なものでしかないと語ったと言われます。翌三三年、ヒットラーが政権を獲得する とともに事態は深刻なものとなり、弟子のアレントはアメリカに亡命しますが、そのときにも、ヤスパースは、﹁全体 は喜劇だ。僕は喜劇の主役になりたくない﹂と述べて、アレントの﹁亡命は、彼女の生涯における愚考だ。現在あるも のは⋮過ぎ去っていくだろう、悪の幻影のように﹂と考えていたのです。 ナチスが政権をとった当初、ヤスパースはナチスを深刻なものと受け止めず、これは一過性のもので、むしろ一笑に 付してもよいとさえ思い、マックス・ヴェーバーの大学観通りに、ひたすら自分の学問研究に没頭していたのです。 2事態の重大さに気が付く ところが、事態はヤスパースの期待を裏切ります。三三年、ナチスが政権をとると、ユダヤ人教員は全員大学を解雇 されます。そして、あるものは亡命し、ドイツ国内に残ったものは身の危険を感じながら身を隠してひっそりと生きて いかざるをえなくなります。ヤスパースは、自分の妻ゲルトルートがユダヤ人であるという理由で、この三三年に大学 運営から締め出され、三五年にはゼミナールの担当からもはずされます。彼の講義は妨害され、彼は大学で孤立するだ
けでなく、ついに三七年には、専任官吏身分更新法に基づいて、休職を通達され、さらに出版も講演も禁止され、学者 としての生活は一切封じられることになります。それまで親しかった音楽家フルトヴェングラー、尊敬してやまなかっ たマックス・ヴェーバーの妻マリアンネ・ヴェーバーも彼との関係を断ったのです。 さしものヤスパースも事態の深刻さを自覚しますが、しかしそれでもまだそれほどは深刻に受けとめず、﹁わたしは まだ極限的な結果をぜんぜん考えなかったし、現在の不都合をすぐにも改め、政府が倒れうるものと思った。わたしは 恐ろしい物事をすぐには認めたくなかった﹂と述懐しています。 3密かな生活と亡命の失敗 しかし、事態はさらに深刻になっていきます。 三八年一一月九日から一〇日にかけてユダヤ人大量虐殺などの事件︵いわゆる﹁結晶の夜﹂︶が起き、ドイツは血な まぐさくなる頃、ヤスパースはゲシュタポから尋問を受け、彼の妻がユダヤ人だという理由で、妻ゲルトルートとの離 婚を迫られます。 身に危険を感じたヤスパースは亡命を何度か試みます。三六年、スイスのチューリッヒ大学、三八年にイスタンブー ル大学、イギリスの大学、プリンストン研究所への招聰も画策しますが、実現しませんでした。三九年には、パリの ﹁科学研究国立基金﹂の研究主任への招聰の話がおきますが、これもうまくいきませんでした。彼には持病があり、ま た妻をドイツに置いて亡命するわけにもいかなかったのです。そして四一年、バーゼルから招聰依頼がきますが、妻ゲ ルトルートの同行は禁止という但し書きを付けられたために、これも結局実現しませんでした。
このころのヤスパースの日記を紹介します。 ﹁⋮絶対的な無力の側にいると、自分の手による死を覚悟する以外何も残っていない⋮すべての人間が多かれ少なか れ無力の側に立つ時代がある。その時、魂はまどろみ、すべての創造的精神は麻痺し、神は絶対的に隠れ、超越者は言 葉を発しない。ひとつの恐怖が露菌︵べと︶病のようにあらゆる人の魂に蔓延しているかのようである。死ぬことがで きるという力は、消極的な態度ではあるがーそこからふたたび新たな魂が成長しうる極限である。﹂︵四〇年三月一一 日︶ ﹁わたしがゲルトルートを暴力から守れぬなら、わたしも死なねばならない⋮。﹂ ︵四二年五月二日︶ こうしてヤスパースは、ナチス支配が始まる三三年から四五年の終戦までの一二年問、ひたすら目立たぬように、密 やかに、そして無力な傍観者として生き抜いていきます。これが自分と自分の妻ゲルトルートを守り抜く唯一の生き方 でありました。それは自殺を覚悟しての生活でもありました。友人の医師ヴルツから青酸カリをもらい、昼は戸棚に、 そして就寝中はこれを枕元に置き、遺言書もすでに作成していたといわれています。 そしてついに四五年三月、ヤスパース夫妻は四月一四日に強制収容所に送られるという情報が彼に入ります。ところ が、何という幸運でしょう。その二週間前の三月三〇日、アメリカ軍がハイデルベルクを占領、危機一髪でヤスパース 夫妻は命を救われることになるのです。
4目立たぬように、ひっそりと ヤスパースは非政治的人間として政治に対して無関心・鈍感でした。事態が深刻になっても、これをなかなか認めま せんでしたが、しかし気がついたときは、すでにただならぬ状況に置かれてしまっており、彼は自分と妻の身の安全を 考えて、ひたすら目立たぬように、密かに、そして無力な傍観者として生き抜こうと試みたのです。
三積極的に介入して挫折
マルティン・ハイデガー
マルティン・ハイデガーはヤスパースと正反対の生き方を選びます。かれはナチスに積極的に関与し、フライブルク 大学学長職まで引き受けます。ヒットラーと同じ年︵一八八九年︶に生まれたハイデガーにとって、これは彼の哲学を 実現する最良の機会であると思えたのでしょう。ードイツ民族への奉仕大学の使命
一九三三年五月一日に学長に就任し、この同じ日にナチス党員になったハイデガーは、五月二七日に、学長就任講演 ﹁ドイツ大学の自己主張﹂を行い、ナチス的な大学改革論を展開します。ちょうどヒットラーが全権を掌握した年のこ とでした。﹁学問はわたしたちの精神的民族的現存在の根底における出来事とならねばならない。﹂。学生の﹁第一の務めは民族 共同体への献身である。⋮第二の務めは、他の諸民族のただ中における、国家の名誉と定めにかかわるものである。 ⋮第三の務めは、ドイツ民族の精神的負託にかかわることである。﹂﹁ドイツ大学がその形と威力をうるとすれば、それ はただ、三つの奉仕勤労・国防・知的奉仕が根元的に合一した決定力をうるときだけである。﹂そして講演の 最後を、﹁すべて偉大なものは嵐の中に立つ﹂というプラトンの一句で締めくくります。 2﹁介入しなくてはならない﹂ー学長職就任 その頃のハイデガーについてヤスパースは次のように書き残しています。 三三年五月末にハイデガーがヤスパースを訪れました。三月選挙でナチスが勝利を収めた直後でした。ハイデガーは 帰り際ヤスパースに向かって、﹁われわれは介入しなければならない︵ζきB仁ωωω一9Φ日o o魯巴房p︶﹂と告げたと言 うのです。 同年六月にハイデガーはもう一度ヤスパースを訪れますが、そのときはフライブルク大学長として、ハイデルベルク 大学で講演するために意気揚々と彼を訪れたのです。ヤスパースはその講演を聴きますが、﹁その内容はナチス的な大
ハぼロ
学改革案﹂だったと言います。 ﹁どうしてヒットラーのような教養のない男がドイツを支配することになるのでしょう﹂と食事の時にヤスパースは ハイデガーに質問しましたが、﹁教養などはまったくどうでもよいのです。ヒットラーの素晴らしい手だけに注目すれレロ
ばよいのです﹂とハイデガーは答えた、と言います。しかし、ハイデガーの学長就任はヤスパースが証言するほどに意気揚々としたものではなかったようです。 受託せざるを得なくなったようです。 むしろ嫌々 3致し方のない受諾 時間をすこし巻き戻し、その間の事情を話すと、次のようだったのです。三三年四月一五日、解剖学者のメレンドル フがフライブルク大学学長に就任しますが、わずか二週間で罷免されます。事態は相当に深刻だったようです。この罷 免の日に、メレンドルフと副学長ザウアーがハイデガーに学長職を引き受けるように迫りました。そうしないと、他の ドイツの大学のように、﹁党の役員が学長に任命される危険がある﹂というのです。ハイデガーは当時、他の一般の人々 と同様に、統率力ある政府を期待し、また大学改革への意欲もありましたが、同時に、自分がそうした方面へ不適格だ ということも自覚していました。ですから、四月二一日の学長選挙の日の早朝に、メレンドルフと副学長ザウアーのと ころに行き、候補から降りられないかと打ち明けたりしたようです。しかしこれは受け入れられず、選挙の結果、保留 二票を除き一致してハイデガーは次期学長に選出されます。選出後、ナチス党の地区群指導者ケルバー博士が学長室を 訪れ、文教省長官ヴァッカーの意向として、学長就任の日︵五月一日︶にナチス党員になることを促されます。ハイデ ガーは、かなり熟慮して、党のいかなる職にも就かず、党のためにも活動しないという明確な条件付きで、大学の利害 のために入党を言明し、学長就任当日に入党したといわれています。 こうして、先ほどの学長就任講演﹃ドイツ大学の自己主張﹄が行われたのです。実情は、哲学者ハイデガーの大学改 革とは大きくかけ離れ、ほとんど︿詰め腹を切らされた﹀と表現したほうがよかったほどでした。
結局、ハイデガーは三四年三月に学長職を辞任します。事情を説明すると、ハイデガーが新学部長四人を選出したと ころ、三四年二月に彼はカールスルーエに召喚され、医学部長メレンドルフと法学部長ヴォルフの罷免を要求されます。 これにハイデガーが辞任と言明したところ、即座にこれが受理された、というわけです。後任はナチス党員の法学者だっ た、と言います。 こうしてハイデガーは教職に戻りますが、ゼミや講義にナチスの厳しい監視がついたと言われています。 4﹁まったく不用﹂の教員 ハイデガーは、ヤスパースとは違い一時期とはいえーナチスに関与しました。しかし、その関与の結果、ハイ デガーはナチスの厳しい監視下に置かれることになります。 大戦末期の四四年、軍務を免除すべき最も重要な学者や芸術家として五百人が選出されましたが、その中にハイデガー の名前ははいっておりません。それどころか、学長が教員を﹁まったく不用な教員﹂、﹁半分不用な教員﹂、﹁不可欠な教 員﹂の三つのグループに分けたところ、ハイデガーは﹁まったく不用な教員﹂の筆頭に名前があげられたのです。四四 年二月八日、ハイデガーは招集されます。その年、フライブルクから故郷メスキルヒに待避しますが、敗戦と同時に 教職を追放され、復職したのは五一年。それも、同時に退官という︿悲惨な﹀ものでした。
四結び
ナチズムの中の哲学者たち
哲学は何が出来るのか︿哲人政治﹀の理想ー古代ギリシアの哲学者プラトンは﹃国家﹄の中でそのような理想を語 りました。しかし現実はそのプラトンにおいてすでに過酷なものでした。二〇世紀の哲学者、ヤスパースとハイデガー においてもこの事情はすこしもかわっていないようです。彼らにとっても現実は十分過酷なものでした。ナチスが支配 したドイツにおいて彼らはそれぞれ学者として、哲学者として、自分の理想を追求しましたが、現実の苛酷な政治の中 では翻弄され、むしろ苦境に追いこめられていったのです。 では、哲学者はまったくの無力なのでしょうか。そのように問われると、﹁残念ながら、無力なのです﹂と答えたく なってきます。それなら、哲学者はそうした問題を避けて、自分の専門分野に没頭すべきなのでしょうか。そのように 問い詰められると、ナチスの支配に対してヤスパースがとった消極的な態度を思い出してしまい、﹁まったくの専門分 野に没頭するのもどうかな⋮﹂と答えに窮してしまいます。とすれば、やはり介入すべきなのでしょうか。自分の哲学 で、自分の努力で、政治をよい方向に導いていくべきなのでしょうか。これに対しては、﹁介入すべきだ﹂と答えたく なりますが、果たしてーこれは皆さんに質問したいのですが−哲学者だからといって万人を良導できるほど優れて いるのでしょうか。哲学に、つまり知識に優れているからといって、哲学者の判断︵理論的な判断だけでなく、政治. 実践的判断や美的判断に対しても︶が優れているといえるのでしょうか。とりわけ現代は複雑な多様な社会です。そう した現代世界においても、全体を洞察して優れた判断をするなどということができるのでしょうか。そのように考えて きますと、ハイデガーがナチスの支配に対して取ろうとした態度の甘さ、世間知らずも見えてくると思います。哲学者であれ、個人の力で現実世界を変えていこうなどというのは困難なのです。とすると、現実に対して哲学者は何をなす ことができるのでしょうか。この問いの前で、わたしははたと止まってしまいます。正直、窮してしまうのです。 最後に、わたしが思い出すことができる限りで、そのほかのドイツの哲学者達の運命について述べておきましょう。 ヤスパースの弟子ハンナ・アレント、ハイデガーの弟子ハンス・ヨナスはアメリカに亡命します。ゲォルク・ミッシュ はゲッティンゲン大学を解雇された後、イギリスに亡命、ハイデガーの弟子力ール・レーヴィットは日本に、フランク フルト学派のホルクハイマー、アドルノなどはそれぞれアメリカに亡命します。ヴァルター・ベンヤミンは逃亡の末に 自殺。フランクフルト大学のハンス・リップスはロシア戦線で戦死し、そしてフッサールの弟子エディット・シュタイ ンはアウシュヴィッツに消えていきました。 ︹本論文は、二〇〇二年九月二六日に、白鴎大学法学部大学院の講演﹁政治の中の哲学者ーナチス時代を生きた二人 の哲学者﹂に加筆してなったものです。︺