第
九
篇
第
一
章
第 一 一節 郡 役 所 の 廃 止 普 選前後の政党政治昭
和
普
選前後
の
政党政治
七
戸
町
勢
の
後
退
大 正 一 五 年 ( 一 九 二六﹀七月一日 、 上 北 郡々役所の廃庁式が挙行され 、 のである。この郡役所の廃止が七戸町に と っ て 、 そ の 悲しみを報じ た 。 血 を以て購ふた 第一章 郡役所廃庁式 四八年間にわたった郡制の幕がとじた い か に 打 撃であった か 、 当時 の 新聞 ( 上 北 新聞﹀は次のように 七戸町の誇りが奪はれた 677和 町民よ自己の力に目覚めよ (﹃上北新聞﹄大正一五年七月五日号) 昭 ここで 、 明治地方自治制の中における郡制の持つ意味を簡単に振り返ってみると 、 明治六年に区制とともに幕 第九篇 落体制下の郡制は廃止されたが 、 その後明治一一年の﹁郡区町村編成法﹂によって 、 郡は正式に行政区画となっ たのである。上北郡は 、 もともと北郡と称していたが明治一一年一
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月一日にこれを二つに分け 、 横浜以南を上 北郡とし 、 郡役所を七戸町におき 、 三 町 二 ニ カ 村 ( 三本木町 、 野辺地町 、 七戸町 、 三沢村 、 藤坂村 、 天間林村 、 六戸村 、 横浜村 、 大深内村 、 六ケ所村 、 甲地村 、 百石村 、 法奥沢村 、 下田村 、 四和村 、 浦野館村﹀を組織したの で あ る 。 郡長の役割は 、 ﹁郡区町村編成法﹂において ﹁ 郡 長 ノ職任ヲ重クシ 以テ施設に使ス﹂とあり 、 これにより郡 長の権限は大きく 、 行政事務委任の範囲内で町村戸長に命令する権限を有するものとされた。したがって 、 そ の 職務内容は戸長役場の監督 、 兵役事務 、 徴税事務 、 学事といった国家委任事務といったものだけでなく 、 町村間 の紛争の調停にもあたるといったものであった。 また 、 郡制の明治地方自治における本質は 、 基本的に次のように把えることができる。 ①中央の地方支配が大地主特権を主軸にしておこなわれた││郡制は大地主特権︿郡会議員定数の三分の一を 大地主により独占﹀と複選制によって 、 郡の自治が数町村にまたがる大地主を保護 ・ 育成し 、 農村の秩序の 安定と農村聞の利害を調整するという役割を演じた。②郡役所は中央官僚の最末端の国家官僚機構として機能した││政党による自治体支配を阻止するために 、 さ まざまな補助奨励金をてことして農村を監督する役割をもった。 このようにして郡制は町村の第一次監督機関として機能し 、 さらに明治二
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年代後半以降は郡単位の農会設置 に尽力し 、 地主を主体とする農 事奨励 、 小作人への慈善政策を奨励し 、 町村や外郭団体への補助奨励金を流すこ とによって農村秩序の維持につとめたのである。 しかし 、 この郡制は絶体主義的官僚政治が後退し 、 政党政治が拡大してゆくなかで変化をとげてゆき 、 大 正 一O
年 、 本格的な政党内閣である原敬内閣によって郡制廃止案が衆議院と貴族院に提案され 、 通過 ・ 可決すること になったのである。 郡役所が七戸にとって 、 いかに大きな存在であったかは 、 明治=二年(一八九八﹀ 一一月二八日から二九日に おきた郡役所野辺地移転問題における暴行事件をみてもわかるのである。 この事件の発端は明治三O
年一二月 普選前後の政党政治 日におこなわれた県会議員選挙にからんで野辺地と三本木が同盟し 、 野辺地に七戸の郡役所を、三本木に県立農 学校を移転するという密約をしたことに始まる。 このことは七戸の人々にとって許すべから.さることであった。 何故なら 、 藩政時代より七戸は七戸代官所所在地であり 、 郡の中心部は七戸であることは当然であり 、 上北郡役 所が七戸に所在することを何も疑わなかったからにほかならない。 一一月二八日に開催された郡会におい て 七 戸 第一章 の 人 々の不満が一挙に暴発し 、 野辺地 ・ 三本木の同盟側議員を襲撃するという流血事件をひきおこしたのである。 しかし 、 このように七 戸 の 人々の心のよりどころであ った郡役所は 、 大正一五年六月三O
日をもって廃止され6
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和 ることになったのである。 七戸の人々の郡役所に対する主観的感情とは別に、郡役所存立の客観的条件は大きく 変化してきたのであった。 それは 、 郡制のなかで維持 ・ 拡大されてきた大地主の地位が 、 相対的に後退してきた 昭 つまり郡制とは大地主を主軸とした農村の支配機構だったからにほかならない 。 ま た 、 地主の地位 ことである 。 第九篇 の後退に伴う動揺は 、 政党間の激しい対立というかたちで表面化したのである。 軍馬補充部七戸支部の改称 軍馬補充部七戸支部は軍備縮少政策により 、 大正一五年(一九二六) 一 二 月 一 日から同 三 本木 支 部七戸派出部 と改称することになり 、 事業の一部が廃止されることになったのである。 七戸支部が創設されたのは 、 明治 三 七 、
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八年の日露戦後軍備の拡張を図るため 、 明治四O
年(一九O
七 ) 月一人口より開設されたのである。以来ニ0
年間にわたり軍馬の生産に大きな役割を果たし 、 ま た 、 七戸馬産の 一つの重要な柱でもあった。使用土地は約一万町歩 、 部員高等官八人 、 判 任 官 一 二 人 、 収容馬匹 一 五OO
頭 、 カ年の経費二O
万円であったが 、 七戸派出部への改称によって 、 その事業は半減されることにな っ たのである 。 これにより七戸馬産を支えてきた一つの柱が後退することになり 、 同時に七戸の町勢をも後退させてゆくことに なるのである。第二
節
普
通
選挙
前
に
おける
政党政
治
政党政治の時代 昭和の初年は大正の末年から続く政党政治の時代であった。すなわち 、 大正一三年三九二四﹀の護憲三派内 閣の成立から昭和七年(一九三二) の 五 ・ 一五事件による犬養政友会内閣の瓦解までの約八年間がそれである。 しかも 、 この時代はともかく 、 政党の代表者が数代にわたってひきつ e ついて政権を担当した戦前におけるただ一 つの時代である。この時代を象徴する事件は男子普通選挙の実現である。 そもそも男子普通選挙が選挙法に定め られたのは 、 右に述べた護憲三派加藤高明内閣のもとにおける大正一四年の第五
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回帝国議会においてであっ た。この 、 いわゆる普選法が成立することによって 、 内地在籍人口に対する有権者の比率は一九パ ー セントを超 え て 、 その実数は従来に比べて四倍に近く 、 一 二OO
万人を超えたのである。 そのこととともに 、 注目すべき現 象はいわゆる無産党の出現である。すなわち 、 大正一四年から一五年にかけて労働農民党、 日本労農党 、 社会民 普選前後の政党政治 衆党が相ついで成立した。 ともかくも社会主義を標移するこれらの政党の出現は 、 日本政治史上画期的な事実で あったといわなければならない。 政党政治による政界の混乱 第一章 大正期の青森県の政情は 、 政友会の全盛期であり 、 黄金時代を現出した。 であった。しかし原敬の死後 、 青森県の政界は混乱をきわめることになったのである。 これは政友会原敬の影響によるもの 依然政友会中心の県政界和 であったものの 、 中央とのつながりは川村竹治︿貴族院議員﹀││床次竹二郎(政友会の実力者﹀となり 、 特 に 床次竹二郎の去就につれて大きく混乱した。 床次氏は首相の座を狙う﹁政権亡者﹂と - 評され 、 政友会を出たり入 昭 ったりを繰り返えし 、 それにつれて青森県の政界も右往左往したのである。 第九篇 大正一三年 、 山本権兵衛内閣から清浦釜吾内閣に政権が移った時 、 政友会は新内閣擁護派と否認派に対立し た。この時 、 床次氏は政友会を脱党し 、 政友本党と称して清浦内閣を擁立したのである。しかし 、 政友会と憲政 会と革新倶楽部は提携し﹁護憲三派﹂を結成し 、 選挙で大勝した。 これにより政友本党は野党に転落し 、 清浦内 閣は総辞職することとなり 、 政権は憲政会の加藤高明に移った。 大正一五年一月 、 加藤首相が死去したあと、政権は憲政会の若槻礼次郎に移った。 そこで床次氏は政友会の田 中義一総裁と手を結び 、 若槻内閣を打倒したものの 、 昭和二年四月政権は田中義一に渡されたのである。そこで 床次氏は憲政会と合同し 、 民政党を樹立することとなった。 このような床次氏の激しい動きのなかで本県の政界 も影響を受け 、 本県の政友本党支部は 、 あいついで脱党する者が多く 、 ついに解散することになったのである。 大正一五年から昭和二年にかけての本県政界の混乱は 、 このような床次竹二郎によってもたらされたものと言っ ても過言ではないだろう。 七 戸 町 長 改 選 現町長野辺地俊夫は昭和二年二月二五日をもって任期満了となり 、 町長改選がおこなわれることになった。野
辺地氏は﹁三期も勤めましたから今頃は自分の退く時期でしょうから﹂と述べ 、 次期町長選に不出馬を表明 し た 。 したがって新たな人材から選ばれることとなったのである。擁立されたのは浜中末吉と藤島講で 、 両者の聞で激 しい選挙戦がたたかわされたのである。 浜中末吉は浜幾家に生まれ 、 三八歳で県会に乗り出し 、 以来三期県議をつとめ 、 七戸地方のために大いに貢献 した人物である。これに対して藤島諮は甲地村 、 大深内村村長ならびに上北郡会議長などを歴任し 、 いわゆる行 政畑を歩んできた人物である。 昭和二年二月 、 町長選挙会が開催され 、 一 八 人 の議員によって町長選挙がおこなわれた。当初 、 多数を容し楽 観していた浜中派であったが 、 投票結果は八点対 九 点 、 わずか一点差で藤島氏が新町長に選出されたのである。 この町長選は 、 かつてなかったほど激烈な選挙戦となり 、 議員の買収などもあったのではないかと噂されたほど で あ っ た 。 普 選前後の政党政治 四 上北県議補欠選挙と政争 つまり大正一五年から昭和二年にかけて青森県の政界は混 乱 を き わ め た 。 普選前 、 これは 、 前述したごとく床 次竹二郎の激しい動きに影響された結果である。 昭和二年三月東郡の政友本党系一一人がまず脱党し 、 その後も 第一章 脱党者が続出した。 その頃 、 政友木党上北分所はどの よ うに対応したか。当時 、 上 北 分所長であった浜中末吉は﹁どのような政変
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和 がおきょうとも上北政本は床次総裁と一身を共にする﹂と語り 、 上北分所は政友本党支持の立場をとった。七戸 町における政党の勢力分野は 、 図式的に言えば 、 政友会││浜幾家 、 政友本党││浜中末吉 ・ 盛菩家となってお 昭 り、この二大勢力を軸にして政争をくりかえしていた。 第九篇 しかし 、 昭和二年五月二四日 、 政友本党青森県支部は 、 ついに解散にふみきったのである。これは川村竹治が 政友本党を脱して政友会に入り 、 五月二四日に来県し 、 中央政界の事情を説明 、 床次派と縁を切る方が得策なこ とを説いたことによるのである。 これにより上北分所も政友会に入ることになり 、 盛田徳太郎、姥名英一 、 浜中末吉は新聞に 、 次のような﹁復 党広告﹂を掲載した。 復党広告 小生等三ヶ年間政友本党員として微力ながら県政に悲して来ましたが 今回中央に於て窓本合同民政党樹立と共に小生等再び政友会に復党致 しましたから郡民各位の御指導と御援助を御願ひ致します。 昭和二年六月五日 盛 田 徳太郎 草 ︿ 浜 姥 名 末 士 ロ 中
これにより 、 七戸町における政党勢力分野は政友会一色にぬりつぶされるかに見えたが 、 上北県議補欠選挙を めぐり 、 再び政友会系と旧政友本党系の対立が激化したのである。補欠選挙において 、 政友会は三本木町の小笠 原八十美を擁立することになった。 が擁立された。 これに対して民政党では野辺地町の野村治 三 郎代議士などによって大坂七郎 七戸 町 では浜幾家など政友会系は小笠原八十美を応援したのに対し 、 盛 喜 家などの旧政友本党系は民政党の大 坂七郎を支持したのである。このため選挙戦は泥試合化したのである。 この激烈な一騎打ちは六月二八日の投票 によって決着がついた。結果は三四二五票対三一二七票で小笠原氏が当選したのである。 七戸町において 、 同じ政友会系でありながら激しく対立したのは何故であろうか。 いくつかの要因が複合して いると言える。第一は上北郡の中心としての七戸が郡制 ・ 郡役所の廃止 、 軍 馬補充部 支 部の廃止(七戸派出部と 改称)などにより 、 町勢を支えていた柱がつぎつぎに消えていってしまったことによる動揺。第二に 、 より客観 普選前後の政党政治 的には 、 地主経済そのものが後退してゆくなかで 、 従来の ﹁ ダンナ衆政治﹂の支配力が弱体化し 、 時の政党政治 の動きに大きく影響を受けるようになったこと。第 三 に 、 狭い地域社会のなかで閤閥 、 利害 、 感情などに根ざし た対立が政治的対立に発展してゆくことによるものである。 このような要因がかさなりあい 、 対立抗争を繰り返 えしたものと思われる。 第一章 685
和
第三節
普
通
選
挙
の
実
施
昭 第九篇 普通選挙の背景 昭和の政治は大正一四年︿一九二五﹀四月に成立した悪名高い﹁治安維持法﹂と 、 議会において成立した﹁普通選挙法﹂の二法によって基本的に規定されたのである。 主化は﹁治安維持法﹂の枠内で成立したのである。 大正一四年の第五O
回帝国 つ ま り 、 我国の政治上の民 しかし 、 このような骨抜き民主化でありながら普通選挙は実 施され 、 これは政治活動の分野を大きく広げるものとなったのである。 新選挙法は 、 ①選挙権の納税条件(直接国税を三円以上納めるもの﹀を撤廃し て 、 満二五歳以上の公民権をも つ男子には選挙権を与える。②従来の小選挙区制をやめて 、 議員定数を三人ないし五人とする中選挙区制を採用 することになった。これにより有権者はほぼ四倍に増え 、 青森県においても大正二二年の三万八七三五人から昭 和三年の総選挙では約四倍の一六万二四二五人に増えたのである。 普通選挙による初の県議選 普通選挙法による本県初の選挙戦は昭和二年(一九二七﹀九月二五日 、 県会議員選挙として実施された。前述 したごとく 、 有権者が四倍にも増えたために 、 これに当惑し 、 無投票に持ち込んだところもあったようである。普選前後の政党政治 第一章 この時の上北郡の政治情勢はどのようであったか。まず民政党は県議選にそなえて 、 昭和二年八月一五日に民 政党青森県支部上北分所発会式をおこない気勢をあげた。発会式において分所長には野辺地の野村治三郎が選出 され 、 次のような宣言文及び決議文が採択された。 ~ 主主 文 大権の下国民の総意に立脚して公明政治を行ひ国利民福を図り憲政の済美を期するは政党本来の使命なり彼 の明党比周好んで権謀を事として党略に耽けるの徒は憲政の敵として極力之を排斥せざるべからず近時国民 の政治思想頗る旺盛にして一見美なるが如しと雄も純真にして健全なる国民的行動を認むる能はず挙世浴々 と し て功利に奔り政治経済共に其要諦をあやまり興国の気運漸く鎖沈せんとす是量国家の深憂にあらずや此 秋に営り現内閣は如何なる対策を以て此難局に処せんとする乎思ふに国家財政の現状と国民経済の実情は到 底彼の積極政策の実現を許さず随って唯一の主張たる産業立国に伴ふ各般の政策は毒も徹底せず而かも予算 の編成目捷に迫る内閣の苦悶知るべきなり吾党は夙に内外の形勢を察し斬新にしてがい切なる政綱を確立公 表し今や国民歓呼の裡に大運動を開始し進んで国民と共に政府の為すところを監視せんとす さきに吾党支部なり葱に上北分所を設立するに嘗り吾人は時代の変移を察知し地方政治の向上を期せんが 為め自治の発達を目標とし鋭意教育産業の新たなる振興に努力するの覚悟を有す思ふに時代は遂に一転機を 蓄し普選に伴ふ新興勢力は勃然として吾人と其方向を共にし正に国家の要求に向って躍進せんとす上北の地
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由来実質に富む若し夫れ地利人知を基調とし勢威ある政治を行はんか富源の開発産業の興新期して待つべき和 のみ吾人は斯くの如くして同志と共に昭和新政の第 一 線に立たんと欲するものなり大方の有志希はくは夫 れ 之を諒せよ 昭 昭和二年八月十五日 第九篇 決 議 ( 甲 号 ﹀ 今や金融内に梗塞し産業外に振はず不景気益々深刻を極む現内閣の夙に 産業立国 を高唱するも之れが対策を 講ずる能力なく専ら党勢に腐心し政権の維持に汲々、たり吾人は国民と共に極力之れを札弾し 決 議 ( 乙 号 ﹀ o 酒造税の数量課税を従債税に改め以て其の改善を期す 。十和田湖利用国営開墾速成を期す 。十和田湖国立公園の実現を期す 。陸軍飛行場設置速成を期す 。農科大学設置速成を期す 。小川原沼の開発を期す こ れ に よ り 、 上北郡も以後政友会 ・ 民政党二大政党時代に入ることになったのである。 めている政友会派においては 、 さきの県議補欠選挙で当選した小笠原八十美が再出馬し 、 他方上北郡の大勢を占 さらに杉 山久之 盛 、 今
泉秀雄などが立候補したのである。 七戸ではなかなか立候補者が決まらなかったが 、 小原第吉が 浜 中幾治郎と中原秀太郎の紹介により政友 会 に 入 山 究 し 、 立候補することとなったのである。 小原氏は盛 喜 家手代出身であり 、 七 戸 水 電 株式会社 支 配人 、 町議 会 議 員等をつとめた人物である。 七戸町では鷹山生是仁が柏築城南社 、 南部立憲 青 年党などから推薦され 、 政 ま た 、 治の刷新を図るため立候補したのである。 九月二五日県下一勢に投票が 実 施され 、 普選初の県議選の結果はつぎの通りになった 。 第 一
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三表 昭和二年第一回普選県議選各派郡別得 票 数 普選前後の政党政治 東 青 二 下 上 計 郡 森 戸 北 北 人 Cコ 一 区ヨ ーー - 員 プて、 三三、 一ニニ、 ーー、 プて、 当 一一 ノ寸プ、コて 〈ノ三三、〉 区プE2BU フ42匂コ玉 選 政 一一 三五 人 員 区ヨ Cコ ー一 一ー ニ二 lZliI ー・・・・司- - 帽 田 園 圃 - ・.・-・:: 落 選 、 、 、 、 I 才 ¥1a - zE5
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Cコ 昭 第九篇 ハ﹃青森県政治史 第 三 巻 ﹄ ﹀ 定数三二 人 に対し 、 届け出は四一人となり 、 少数激戦であった。 政党別で当選者をみると 、 政友会二二人 、 民 政 党 一O
人となり 、 いわゆる保守二大政党による対立図式が成立したのである。 しかし 、 この選挙によって多く の新人が登場し 、 さらに議席数には結びつかなかったものの無産派の進出が著しかったことは特記すべきことで ある。なお 、 上北郡での当選者は政友派三人(小笠原八十美 、 小原第吉 、 杉山久之盃) に対して 、 民政派は一人 (伊藤吉五郎﹀となった。 政友会の分裂と七戸 前 述 し たごとく 、 青森県の政友本党は昭和二年五月に解散 し 、 野村治三郎などは民政党に入党し 、 他の大多数 の者は政友会に復帰したのである。 これにより再び政友会の黄金時代になったものの 、 昭和二年一二月には内輪もめを始め二つに分裂したのである。 もともと政 友会は原敬 、 竹内清明につながる政友木党系と政友会系の野合であった。 このため一二月一一日に 開催された政友会支部の総会において 、 この二派の対立が表面化し 、 組織し分裂した。政友会系の鳴海文四郎(県支部長﹀は倶楽部派の竹内清明 、 翌三年一月に旧政友本党系は政友倶楽部を 石 郷 岡 文 士 ロ ( 弘 前 ﹀ 、 中川原貞機 (一三戸﹀ら六人を除名したものの 、 中央の政友会本部はこれを認めなかった。 上北郡では杉山久之一盛は倶楽部派 に 、 小笠原八十 美は鳴海系統に属した。 このような県支部の分裂は必然的に七戸町の政界分野にも影響を与えた。 もともと七戸においては政友会系と 政友本党系との聞で政争が繰り返えされてきたものの 、 今回の県議選においては 、 たまたま両派が野合したにす ぎなかったのである。したがって県支部の分裂はすぐに七戸政界の分裂をもたらした。 旧政友 本党系の人々によ って政友 倶楽部上 北 分所が七戸 町に設 置されることになり 、 盛田徳太郎 、 盛田庄兵衛 、 小 原 第 吉 、 小 原 平 右 衛 普選前後の政党政治 門 、 浜中末吉 、 米沢与助の諸氏が発起人となり 、 発会式をおこなった。 そこで 、 次のような声明文が採択された の で あ る 。 芦 明 文 吾等ハ説近-一於ケル立憲政友会青森燃支部ノ統制-一 機ラサルモノアリ就中奮脳十一日青森公会堂-一於ケル開 第一章 会ノ通常線会ニ現ハレタル事資ハ本勝政党史上一大汚賠ヲ 印 シ憲政ヲ破壊セントスルモノニシテ深憂-一堪へ サル者アリ即チ我 等同志ハ 691
和 昭 第九篇 一 、 支部構成 ノ 根源タル役員組織一 一 於テ根本的ニ意見ヲ異ニスルコト 一 、 会議ニ於テ直接行動ヲ以テ言論ヲ妨害シ同志ニ危害ヲ加フル徒輩ト奥シ能ハサルコト 一、彼等一味ノ言動中公私共 ニ 指弾スベキ モ ノ多ク共ニ園政ヲ論シ勝政ヲ談ジ能ハサルコト 以上ノ理由ニ依り立憲政友倶楽部ヲ組織シ正義ヲ基調トシ輿論ヲ尊重シ図運ノ進展勝政ノ振興ヲ期スルト共 ニ 来ルベキ普選第一歩 ノ 衆議院議員選挙に営リ同志糾合協定ハ勿論選挙全般ヲ統一シ必要-一応シ適切ナル解 決ヲ奥へ戦機ヲ逸セザラシメ更に進ンデ永遠同志の基礎ヲ確立センガタメ蛍分所ヲ設立セントス幸ニ我党ハ 鯨会議員ニ於テ其半数ヲ占メ全党員の四分ノ三ヲ包容シ即チ燃下最モ強大ナル政治団体タリ顧フニ郡民諸君 ハ必ズヤ吾人ト共鳴シ提携シ以テ我党の政策経総-一憲摩セラル L モノト 信ス 滋 ニ 政友倶楽部上北分所ヲ設立スルニ蛍り大方ノ後援ヲ詩フ所以ナリ 昭和三年二月 立憲政友会青森県政友倶楽部上北郡分所設立発起人 杉山久之豆 、 盛田徳太郎 、 小 原 第 士 ロ 、 姥 名 英 一 、 野辺地俊夫 、 演中末 吉 、 盛田庄兵衛 、 小原平右衛門 、 米禅奥助 、 盛田喜平治 、 石田善兵衛 山 本 勇 吉 、 三上定吉 、 西野慶治 、 中野吉太郎 、 須 藤 重 右 衛 門 、 盛 '田 盛 、 駒ケ嶺虎太 、 石田伊三郎 、 市野渡久五郎 、 駒ケ嶺倉太 、 盛 田 士 口 輔 下回茂太 、 石田幸次郎 、 松嶋大景 、 高坂徳太郎 、 山本儀助、 高 田 重
三 、 太田一二 、 小野惣之助 、山 本七五郎 、 米禅英造 、 石田平十郎 、 津 国政吉 、 太 田 資 士 口 、 工藤吉次郎 、 藤谷徳太郎 、 石田奥太郎 、 盛田七百 一 一 、 垣内重雄 この政友倶楽部の設立により七戸町の政界は再び二分されることとなり 、 次のような勢力分野となったのであ る 政 友 会 系
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浜中幾治郎 、 中原秀太郎 、 高 田 耕 一 、 工藤千之助 、 小原次郎等の諸氏 政友倶楽部系││盛田 喜平治 、 小原平右衛門 、 盛田徳太郎 、 盛田庄兵衛 、 山 本 勇 士 口 、 米 機 輿 助 、 石 田 善 兵 街 、 中野吉太郎 、 小原第育 、 野辺地俊夫等の諸氏 中 立ーー盛田達三 、 演中和三郎等の諸氏 この二大勢力は再び昭和三年二月一O
日に実施された普選第一回総選挙において激しい選挙戦をくりひろげる 普選前後の政党政治 の で あ る 。 四 普選初の総選挙 従来の選挙制度では小選挙区制がとられていたため 、 青森県は七区にわかれており 、 上北郡は第六区に属して 第一章 いた。しかし 、 新選挙制度では中選挙区制が採用され全県二区にわかれることになり 、 上北郡は第一区に属し 、6
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定員は三人であった。和 第一区において 、 民政党では北山一郎と工藤鉄男が立候補し 、 政友会は藤井達也 、 政友倶楽部は中 川 原貞機を それぞれ擁立した 。三派みだれての選挙 戦を当時の新聞(上北新聞﹀は次のように報道している 。 昭 上北の政戦も戦機熟し白雪を蹴散らし白喧々の平原に鹿を射止むべく実戦の火 '蓋が切ら れ 言論に文書に 上北 第九篇 の 天 地 に戦雲いよいよ濃くなって来た。 ︿民政派﹀ 民政党第一区候補者北山一郎 、 工藤日東の両氏であるが其の陳容をみると北山氏は到る処青山ありで 、 地方 有力者の応援者多く上北郡では野村治三郎の御撃がかりで戦は有利に展開し て い る 。 工藤氏には有力者の援 助者なく従って野武士的に切り取り強盗は武人のならいと言論戦一点張りの切り込み主義である。 工藤氏に は無産階級即ち青年連中のかくれたる同情者と共鳴者ありこれ又底力がある。 ︿政友派﹀ 藤井達也戦場に馬を進め言論戦の最中であるが 、 第一区を通じ倶楽部派が実勢力を握っているので残留組に 擁立された藤井氏は不利の立場にあるが 、 前田野村氏に挑み一敗泥にまみれた雪辱戦で今回こそはと意気込 んでゐる。上北郡に於ける藤井氏の援助者は三本木小笠原八十美 、 野辺地中村久治 、 七戸浜中幾次郎の諸氏 である。七戸町の藤井氏の選挙事務所は旧郵便局舎で成田券治 、 中原秀太郎 、 福田善入 、 牧 田 害 時 、 高 田 耕 一 の諸氏が来配を振っている。 ︿ 倶楽部派 ﹀
倶楽部派では第一区から中川原貞機を擁立し三戸郡では戦端を開いたが上北郡では未だ嵐の前の静けさ続け ている。政友会上北郡分所は三本木に民政党上北郡分所は野辺地にと設置され政治的に亡び行く七戸の実情 に有力者は悩み出し倶楽部派の上北郡分所は是非七戸町へ設置して政治は力なりの実力を示さんと分所設置 に力を注ぎ 、 七日午前一
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時発会式の運びになり八日より中川原氏の選挙事務所を張り水ももらさぬ戦陣を 敷くことになった。 昭和三年二月二O
自に投票がおこなわれ 、 開票結果は次のとおりである。 ︿ 開 票 ︿ 解 散 直 前 ﹀ 結 果 ﹀ 政友会 一二七議席 一 九O
議 席 民政党 二 一 九 一 一 一 六 // // 無産諸党 ( 社 民 党 四 、 日 労 一 、 労農二 、 地方無産一﹀ j¥ // 普選前後の政党政治 実業同志会 入 四 // // 革新党 一 一 六 // // 一 六 無所属 ]¥ // // 計 四六六 // 第一章 与党の政友会は第一党に な っ たも の の 、 絶対多数どころか第二党の民政党との差はわずか一人となったのであ る。これに対 し 、 青森県における選挙結果はどのようになったか。各候補者の得票数は次のとおりである。6
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和 当 選 昭 第九篇 次 占 当 選 次点 第一区︿定員三人﹀ 一 一 二 、 六二八 11 一 七 、 四 六 中川原貞機(政友倶楽部﹀ 藤 井 工 藤 北
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達也(政友会﹀ 鉄男(民政党﹀ 一郎(民政党) 鳴海文四郎(政友会﹀ 工藤十三雄︿政友会) 長 内 菊 池 兼 田 石 渡 青森県における選挙結果をみると 、 11 一 四 、 三一七 則昭(民政党) 良 秀雄(政友会﹀ 春雄(労農党﹀ 中 川 原貞機 ・ 鳴海文四郎などの 、 いわゆる﹁地主政治家﹂が大きな勢力 を 、 依然もっていることがわかる。 しかし、同時に 労働農民党の石渡春雄が二七O
五票も獲得したこ と は 、 普通 一 四 、 三O
入 第二区︿定員三人﹀ 一 八 、 六二六 11一
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、 五 七O
選挙による無産階級の進出の影響が明確に表われてきたことを示しているとも 言 え る 。 1/一
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七 、 七六八 六 、 二九四 二 、 七O
五第二章
昭和恐慌と凶作
第一節
金
融
恐
慌
の
波
及
恐 慌 の 勃 発 昭和四年(一九二九﹀一
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月 、 ニューヨーク株式市場の崩壊を契機として勃発したアメリカの恐慌は 、 やがて ヨーロッパその他ヘ波及し 、 昭和五年には世界恐慌に発展していった。 これによって世界経済の相対的安定期は くずれ 、 やがてブロック化経済へとすすんでゆくことになるのである 。 我国は第一次大戦後慢性不況がつづき 、 昭和恐慌と凶作 ことに昭和にはいってからはこの不況は深化しつつあったのであるが 、 民政党内閣による金輸出解禁政策の断行 は 、 じつはこの不況を克服する手段として採られたものであった 。 ところが金解禁に伴うデフレ的傾向が世界恐 慌と重りあ い 、 二重の打撃 とな ったため 、 日本の恐慌はますます激化することになったのである。 このような恐慌の発展につれて失業者の増加 、 農家の窮乏 、 中小企業の困窮破綻などが激化した。 したがっ 第二章 て、浜口内閣の﹁借金なき財政﹂という方針は事実上 、 実施しがた いものと な っ た 。 何故なら 、 一方では恐慌に ともなって財政収入が減少したのに対し 、 他方では救済政策のために巨額の低利資金を放出しなければならなか6
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和 ったからである。たとえば政府が都市 、 中小企業 、 農村の失業者のために支出した救済資金は 、 次のようなもの で あ っ た 。 昭 一 世 帯 五
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円を一口五O
円 、 一 世 帯 三OO
円に拡 ① 公 益 質 屋 の 限 度 拡 張 H H H 従来の貸出限度一口一O
円 、 第九街 張し 、 このための資金貸出の要求があれば 、 預金部が地方債引受の形式でこれ に応ずることにした。 ②農村漁村の失業救済貸付 HHH 原始産業対策と帰農失業者救済をかねて 、 耕地の拡張改良 、 山林開発 、 蚕桑整 理 、 水畜産副業および共同施設資金にかぎり 、 預金部より七OO
万円を融資し た ③ 糸 価 安 定 融 資 補 償 H HH 糸価維持策として生糸一五万梱の共同保管に対する銀行融資の損失補償のため 政府負担額を前後二回にわたって三OO
万円に決定した。 これらの他に養蚕業者に対する応急救済資金の貸付け 、 内地および朝鮮における米穀貯蔵資金の貸付 、 失業救 済のための国債の発行等があった。 しかし全体としてみれば 、 政府は金本位制を守ろうとしていたため 、 大規模 な救済政策はやりえなかったのである。 金 恐 』 慌 融 周知のごとく 、 昭和二年四月にはいまだかつてみないほどの激しい金融恐慌が勃発し 、 台銀 ・ 十五銀行など大規模な銀行をふくめて多くの銀行が休業し破綻した。 金融恐慌の原因をみると 、 第一次大戦後反動恐慌がおこ り 、 それ以後慢性不況がつづくのであるが 、 反動恐慌の際とられたインフレ l ション政策が資本の破壊をある程 度阻止し 、 それと結びついていた銀行の存続を可能にした。 しかし好況がおとずれない以上 、 企業の業績は好転 せず 、 したが って銀行 もその経 営 内容を堅 実 化できなかったのである。 こうした事態は 、 独占の制覇が進行する 途上において 、 おそかれ早かれ 、 その矛盾を露呈せざるをえないものであった。 昭和二年の金融恐慌が 、 世界恐 慌をまたないで発生せざるをえなかった基本的原因がここにあった。 反動恐慌以降 、 銀行経営は悪化の一途をたどったため、 政府は恐慌対策の一環として銀行合同の促進をはかつ た。この時期の合同促進策の特徴は 、 慢性不況のもとでその業務をしだいに悪化せしめつつあった地方銀行の合 同の促進といったところにあった。 青森県にあっては多くの銀行が乱立 しており 、 その多くは弱体であった。 このような恐慌が吹きあれるなか 昭和恐慌と凶作 で 、 高谷銀行は破産し 、 木造 ・ 立五一の両銀行は解散し 、 ついに立ち直る さらに弘前銀行は減 資を したものの 、 ことはできなかったのである。 大正九年(一九二
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﹀から昭和七年(一九三二)までの本県における県内銀行の 推移は次の通りである。 第二 章6
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和 第 一
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四 表 県 下 における銀行の推移 昭 ~。
略
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~ ~ ~ ~ 大 年 和 正 一 一 一 一 一 四 二 五 四 二 - 0 九 年 年 年 年 年 年 年 年 年 代 普 一 一 .ー圃ー圃開曙- -園・h ・圃・ ・・- ・・・ー圃ー・困. -画・ー・・・・4・ 一 一一 一 一一 五 七 ご 七 九 O 0 八 -J-'、、- 銀 貯 一 一 -ー・回.・- -・ ー・ーー 一 一 四 銀 一 一 副圃圃圃.酔圃.園圃圃固・町4・-・ー ーーーー-・ 一 一 特。
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0 0 0 一 一 一 銀 ー ー ーー‘・ーーー晶 ・・・・-田-・咽網島 一 一 一 一 一 ・・司・胴・・d・同・司-町・-一 一・圃圃圃圃圃圃・ー 一 一一 一 一 七 九 五 九 一 ニ 一 一 一 計 下 木 造 立 階 合 よ 弘 関 青 青 東 奥 下 弘 特 貯 千弘 普 北は 散解 誠 上 併・・ 、北 前 は 森 県 貯 森は 両 弘 ハ 北貯蓄前貯銀森背県日 青森商十銀五第11 第 五 八 高 第 益 前 農 番 普 蓄 々 五 所 戸 商 破 谷 十 五 は に 工 新 銀 〉 は ・ 貯前 木 十 川 板 合 は 設 普 集 九 原 業 産九 に 柳 に 併 勧銀 新 銀 盛 農 蓄 高業九 Uこ、 設 に 貯 蛍日ヨ 工 谷 、、 海 鳴 泉山 、 、 改 湾育 、鳴軽津 摘 弘 藤 集 吸 組 は 木造海、 前 は - 崎 盛 収 宮 合 五 tま tま ロ併メ斗 て そ 貯蓄 両 階 弘 )11 同 戸 弘 木 ヌ「泊旦エ 下 れ 盛上前 は しtま 前 商業 にそ さ 北 ぞ 集 、、両 軽津 て 合 る と れ 盛板柳八益 奥 陸 同し な 普 貯苦B盈. 戸 、 に れ る 銀 、商弘 そ を て 、 ぞ 下板柳業、前商 れ ・ 新 八 東奥 れ合 改 ぞ 設 戸 組 北 安 泉 業 れ を は 併 し 貯室田長ヨ 田山 、 メ併口斗 新 第 て 、、関 設 九 弘 金尾 、 十 日リ 木上立 岩.
野村藤、誠、 集 要 手 盛 、崎弘 県 と 上 前 ¥ノ な 北五宮 る 玉 五=ぺJ
川所原、川森菅、 そ れ ぞ れ 戸佐 、 第九篇ク ク 七 六 年 年
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霊普主
森青々年第一
〈 木 五 旧 貯 十 称野 蓄、奥陸九、 村 育 、軽津 〉F4Z
板柳安業前商 田 、弘 金 前 木 、青森 P 、 青 森 商 業 ノ¥ 戸 尾 上、 佐 昭和三年の新銀行法の施行によって合同が促進され 、 本県においても二五行が二ハ行まで減少した。しかし 、 県当局は当初一県一行を建前としたものの 、 各銀行の反対にあい結局部分的合同に終わったのである。 もともと 、 木県における銀行は小作制度を前提にした金貸資本であり 、 いわゆる地主銀行が 多数を占め ていた の で あ る 。 つまり地主の金貸し商売が 、 銀行法が登場することによって法的粉飾をえたにすぎないのであり 、 農 民に田畑を担保にして金を貸すことを主たる業務にしていたのである 。 このような性格が昭和恐慌時に露呈する ことになる。この間の事情を ﹃ 青 森 県農地改革史﹄ は次のように指摘する。 昭和恐慌と凶作 中央における金融恐慌の波及はモラトリアムによって木県に波及しなかったが 、 各銀行の合同強化、が完全に 済んでいなかったところへ : ::金再禁止を見込んで中央資 金が木県からも回収される に至ったので資金酒渇 に苦しむようになったが 、 一方相次物価下落は米価安を現出し 、 ひいては地価も低落して不動産貸出の中に は担保価格の切れるものが続出する状態に立至った。 従って銀行とはいえ業務の大半が土地担保の農業寄生 第 二 章 的な金融であった 当時の本県銀行 としては預金払出しにも楽でない有様になって行 っ た 。 昭和六年一一月には五十九銀行が 、 さらに弘前銀行があいついで7
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その結果 、 昭和五年一一月には八戸銀行が 、和 休業においこまれていった。特に五十九銀行は県下の親銀行であるため 、 その影響は大きく 、 系列銀行であった 三戸銀行 、 尾上銀行なども連鎖的に休業したのである。 昭 第九篇 農産物価格の下落 この恐慌はとりわけ農業 ・ 農村に深刻な打撃をあたえた。 昭和二年の金融恐慌にさ いしてはあまり 直接的な影 響はうけず 、 昭和五年からの農産物価格の急激な値下りによ ただ慢性的不況に悩んでいただけであった農村も 、 っ て 、 折からの冷害も手伝ってきびしい窮状においこまれた。 しかもこのときの農村の不況は他の部門のそれよ りずっと長期にわたり 、 この場合 、 農産物価格の低落は農家購入品価格 ほぼ一一年頃までつづいたのであった。 や一般物価にくらべてはるかに大きく 、 とくに米価は半値以下 、 まゆ価は四分の一という大幅なものであった。 そのうえ 、 失業の激増によって 、 失業人口が農村に還流したばかりでなく 、 ほんらい流出すべき人口が流出しえ な く な っ た 。 それだけでも人口の圧力が強められていたところへ 、 また兼業機会が縮小したために兼業所得も滅 少せざるをえなかった。 こうした 事情は農 村不況に拍車をかけるものであった。 農産物価格の急激な下落を第一
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五表においてみると 、 米価は昭和五年には昭和一年の半値以下に下落してい る。また 、 まゆ価においても同様の現象があらわれている。 このような急激な農産物価格の下落は 、 必然的に農 家 ・ 農村経済に大きな打撃を与える結果となるのである。 ま た 、 農産物価格と農家購入品価格ならびに一般物価 と比較 し てみると 、 農産物価格の方がはるかに低位にある。 例えば昭和六年の場合をみると 、 農産物価格が四九農産物価格と一般物価との関係 〈円、昭1年=100) 第105表 米 ま ゆ 価 農 村 物 価 般 春 夏 設 農 購 物 秋 蚕 産 入 価 蚕 物 家品 価 昭和 4.77 88.0 92.6 95.0 2年 94.0I 77.4 65.1 6.02 89.4 93.5 95.5 3 83.0I 74.1 82.0 29.12 7.57 6.53 69.5 89.0 93.0 4 77.1 81.6 89.0 25.564.00 2.04 64.4 72.6 69.9 5 67.6 43.0 27.8 2.96 49.361.159.1 6 49.2I 33.2 40.4 7 4.70 54.866.665.5 56.3I 27.4
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69.1I
『本邦農業要覧』、『日本の経済と農業』より 作成。 註 ( Ii'日本資本主義の没落n
.!l) -三であるのに対して農家購入品価格は 六 一 ・ 一であり 、 一 一 ・ 八 のひらきが生 じ 、 完全なシェ l レ現象が生じているの で あ る 。 ところで、 このような価格のひらきは 農 業 と 工 業 、 とくに小農と資本家的工業 の不況に対する対応力の差から生ずるの で あ る 。 小農の場合、不況によ って価格 が低落したからといって供給や生産量を 減 少 さ せ る こ と が で き ず 、 むしろ価格の 下落分を供給 量をふやすこ とによってカバーしようとする 。 したが って増々農産物価格は下落することになるの 昭和恐慌と凶作 である。これに対して工業の場合は生産調整が比較的やりやすいことと 、 主要な生産部門において独占化が成立 して いたため価格の下落を阻止する こ とが可能であった。 以上のことがシェ l レ現象を大巾に し た理由と言えよ う 第 二章 このような全国的傾向に対して 青 森 県 の 場 合 は どうであったろうか。 深刻であった。何故なら不況による農産物価格の下落に六年 、 九 年 、 青森県の場合は全国の趨勢よりはるかに 703 一O
年の連続した冷害凶作の被害が加わっ価 格 の 推 移 蕎 旦
│
馬
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│
石 石 貫. 75,023 143,130 14,900,908 1 ,377, 294 3,827,064 2,05,1639 (100.0) (100.0) (100.0) 65,799 155,460 13,609,864 557,236 1,962,597,1565, 650 7,1402 159,964 13,512,387 66,1504 2,317,173,1696, 210 6,1674 162,838 11.934,361 501.023,1926,232,1277, 705 63,552 19,1945 13,840,560 620,806 2,39,1380,161,1873 30,033 125,191 10,352,095 546,145 2,602,790,1600,222 57,751 152,8051,1138,048 625,851 2,842,412,1509, 021 35,980 130,808 9,572.007 559.805 2,076.170,1134,216 60,534 140,783 10,170,938 51,1321 2,002,930 1. 40,1871 49,453 129.544 10.959,978 539.293 1. 93,1919,1526. 585 35,413 122.586 10.824.574 329.7451.864,492,1302. 721 46,081 144.105 13,331. 602 267.8101. 269. 889 893.078 34,900 90.061 12,559.048 192,064 741. 043,1038, 927 (13.9)C
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9.4) (50.6) 42,353 126,677 16,62,1096 360,531,1643, 113,1432,583 41.204 140,808 16,146,643 291. 6671. 690,020 1.310,171 22,633 99,302 9,291. 708 173,857 1. 280, 696 719,496 27,803 106,411 9,003,699 246,521,1415,118 916,721 30,327 141.850 17,203,866 298,644 2,25,1274,1465,235 36,002 140,829 16,534,532 335, 768 2,373,351,1685,443 40,178 150,378 17,177,436 427,009 2,669,332 L 823, 988 としたもの。 麻 貫 2,516 26,1619 100.0) 3,1198 98,847 34,105 68,481 43,645 69,043 2,1559 44,424 20,975 48,703 27,930 47,114 17.369 36.555 18,730 41.650 19,883 34,471 17.012 30,316 17,465 25,337 11. 516 15(,320 5.9) 15,748 20,446 22,814 32,957 34,140 34,927 38,006 42,133 46,498 52,382 46,383 75,642 64,413 193,562 第 九 篇 昭 和果
│
繭其
│
他 貫 貫 円 18,840,326 9,359 5,759,797 7,617,021 9〈89,523C
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00.0) 100.0) 4,323,360 9,166 4,338,755 2,26,1845 463,199 4,473,277 8,220 10,437,349 3,027,834 442,392 12,137,608 102,825 14,330,966 4,147,594 898,124 5,068,025 128,540 10,922,288 3,34,1946,1074, 973 6,322,922 106,870 1,125,1906 3,623,655 819,390 10,287,782 144,810 10,311. 241 4,585,5771.385,238 18.594,665 123.115 9,72,1850 3.964,110 910,824 15,236,552 127,067 9,926,648 4.194.518 629,152 16.787.136 13,1309 9.825,872 5.506,360 655,654 18.020.233 137,650 9,708,266 4,966.883 521. 230 16.793.056 116,974 7.492.604 4.044.516 306,610 14.744.073 89.610 6.742.900 3,192,477 257.801 (41.9) 26.1) 19,087,968 89,964 7,347,178 4,148,546 242,241 15,287,965 94,808 9,437,934 5,132,566 47,1782 29,263,472 78,87810,177,274 6,616,832 170,847 3,1306,457 72,22510,700,078 7,600,985 249,178 26,773,237 7,1964 12,129,405 8,860,247 317,938 32,061. 538 69,120 15,624,501 1,1043,426 324,436 40,483,875 49,51514,28,1083 17,563,992 209,949 ( Ii'青森県農業協同組合史JI)第二章 昭和恐慌と凶作 た 第106表 農 産 物 か ら で あ る │総 価 額 │ 米 麦 莱 稗 円 石 石 石 石! 大正
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価数立額 65,093,103 44,919389, ,275466,127639,,448289 2,0104,455 178,5291 〈63,537 1, 8(53,924 (100.0) (100.0) (100.0) 100.0) 100.0) 58,469,902 L 44,406942,,257337 1. 25651. 0,24212 91881. 7,36410 598,478 56,713,938 135. 0,82736, ,265154 71509,,948008 83831. 1, 17580 614173,,843293 ク 54、573.9491. 066,103 59,305 86,547 110,255 29,278,933 657,664 998,134 488,5311 -'/ 51. 754,688,1035, 591 46, 100 83, 158 111,986│ 29,54,1890 510,821,1102,411 591. 876 -'/ 6,1134,223,1063, 022 55,141 64,873 69,847 38,184,603 675, 7551. 137,541 643,513 -'/ 62,315,056 1. 137, 127 66, 737 73, 751 10,1872 37,959,531,1116,390,1157,854 774,827 昭和1(2
5,1584, 7673,01,066058,, 718154 95702,,833365 97704,,384302 59825,,934888 -'/ 48,558,532,108,1192 6,1353 82,251 113,959 27,636,964 822,640 796,196 594,642 -'/ 50,81,1690,1127,677 69,236 77,433 90,310 28, 754, 763 776,613 64,14176~~, ~~~I
ペP 47,964,216,1156,732 62,616 53, 777 75,7321 27,428,961 792,466 514,442 504,6941 -'/ dシ 37,704,478,1305, 433 67,225 7,1628 95,475 -'/ 2,1977, 004 68,1046 392,841 353, 743 -'/ 22,692,299 664,389 64,544 4,1755 62,692 9,624,127 397, 122 269, 103 221.415 (34.9) (21. 8) (31. 2) (13.0) (14,0)1 -'/ 35,07,1308,1035, 857 79,467 58,029 94,304 18,210,659 764,971 493,984 407,0561 ク 46,75,1528,1419,370 79,450 69,085 ~Q, I~~I 26,584,825 939,902 489,900 369,8041 -'/ 35,270,021 598,413 73,112 36,213 6,1867 14,69,1665 813,462 32,1460 269,505 今 36,844,153 538,593 97, 148 47,846 70,5881 13,688,333,1183,314 406,277 395,4951 ウ -'/ 62,762,306,1404, 801 73,687 48,534 90,513 ウ 35,104,060,1236, 721 509,378 537,022 -'/ 78,577,193,1536, 622 97,719 45,938 94,678 43,289,168 L 755, 192 464,950 605,316 ウ 85,975,741,1483, 202 84,968 47,562 100,041 46,094,389,1576, 461 526,922 609,054 註 昭 和13年青森県統計書による。 昭和6年の指 数は大正8年を100和 昭 第九篇 自・小作別米の反当収支計算〈昭和5'"'-' 15年) 自 作 者 作 者
2 産者 I~ 産道
|
差
ヲ│2 産道
I
~ 産義
|
差
ヲ│ 円 円 円 円 円 円 昭和5年 46.86 78.69 ム 31.83一
判〉 6年 35.23 58.54 ム 23.31 28.91 45.18 6 16.27 ~ 7年 51.58 58.24 ム 6.66 46.99 47.31 ム 0.32 ~ 8年 51.58 65.69 ム 14.11 49.46 53.49 ム 4.03 ~ 9年 57.41 65.00 ム 7.59 47.69 51.05 ム 3.36 ~ 10年 64.94 71.57 ム 6.63 51.66 50.66 1.10 ~ 11年 76.19 72.40 3.79一
一
~ 12年 88.02 74.08 13.94 79.07 69.06 10.01 ~ 13年 95.01 87.67 7.33 80.04 73.84 6.20 ~ 14年 130.35 104.08 26.27 111.97 100.43 11.54 ~ 15年 114.74 110.04 4.70 106.21 114.65 ム 8.44 第1
0
7
表 ム=損失 ( Ii青森県農地改革史.!I) 青森県農会調査による。 註 農産物価栴の推移を第一O
六表にみると 、 大正八年以降 民産物総価格は下落の一途をたどり 、 大正二ニ年 、 一 四 年 に一時上昇するものの 、 昭和に入り再び下降してゆく。特 に昭和五年 、 六年 、 七年 、 九年 、 一O
年は完全に底をつく ことになるのである 。大正八年を一OO
とした場合の昭和 六年の農産物価格指数をみると 、 総価格で三四 ・ 九パlセ ントで最低を示している。品目別では米一二 ・ 八パlセン ト 、 麦 一 一 二 ・ ニパーセン ト 、 豆一九 ・ 四パーセントとなっ ており 、 それぞれ急激な下落傾向を示している。 このような急激な低落は当然農家経営に大きな影響を与 えることになるのである。農家経営の状況を第 一O
七表と 第 一O
八表で見てみよう。第一O
七表において自作ならび に小作の米の反当たり収支をみると 、 反当たりの生産額と 生産費の差がマイナスになっているのは昭和五年から一O
年までである。農家経営の赤字を自作と小作で比較する と 、 自作の赤字の方が小作のそれより大きいことがわか昭和恐慌と凶作 米生産費構成要素の割合〈昭和5"-'11年〉 第108表 作 者 第二 章 イ. 自
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│%│ % 21.Z│% %│% %l zl zlm % 昭和5年2・06116・522・8012・50j1.55113.34i6.6819.66121・58!23. 31iO. 00:
1
00. 00 ク 6年1.86115.943.02:
2
.8012.80111.1617.31111.58120.00123.5310.001100.00 -'/ 7年2.09 16.78 2.83 2.78 2.30 9.317.23 10.8924.00 21.79:0.00 100.00。
8年1.95 15.862.573.15 2.85 12.29 6.10 9.85 21.63 23.64 0.11~~~. ~~
i
。
9年2.03 17.38 2.76 2.56 2.31 10.266.8910.84 19.39 25.55 0.03~~~'~~
I
。
10年2.2414.44 3.27 2.29 2.32 9.71 7.51 11.09 20.08 27.00 0.05 100.00。
11年2.1415.36 3.41 2.40 2.8911.41 6.8410.04 18.71 26.80 0.00 100.00 者│
種
費
苗
I
費
肥
料
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料
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費
t│大
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費!
農
建
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費
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そ他の ムロ斗ロ 昭和6年年i│2% 6819.竹矧%
1512.721
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64 9.3%91 17.4% 1 2.2% 8 31.2% 5~~. ~~
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% タ 7~;2.64 17. 27i2. 2611.23i1.18 8.0117.00 1.46 30.08 28・87│0.00loo-00│。
8年2.3617.5912.0012.2012.267.5217.10 3.20 27.48 28.29:0.001100.0。
-'/ 9年2.31 16.481.351.98 1.96 7.26 6.50 2.82 32.13 27.21 0.00 100.00 10年2.57 16.181.80 2.221.60 7.696.88 3.20 28.11 29.75 0.00 100.00 11年一
一 一
一
一
一 一
100.00 作 ロ.小 青森県農会の調査に基っ・いて青森作物報告事務所が作成したもの。 ( Ii'青森県農 地 改革史J ) J 註 る 。 しかしこ の こと は 同時に自作農の方 が 被 害 が大き か っ たことをあ ら わしてい るわ け では な い 。 自作農の場合は 経営の 赤 字 を資本や 労 働の食い つ ぶ しをするこ とができ る のに対して 、小 作農は赤字の 穴埋めは自 ら その 労 働による以 外 はす べ て負債となるいがいにな い のである。さ らに生 産 費中の各費目を第一O
八表に お いてみると 、 自作農の 場 合の最大費目は 資本利子と 家 族 労賃 となっている 。 し か しこれらの 費目 は凶作に際しては 資 本を 食 い つ ぶ したり 、 家 族 労 賃をただにした りし て 経営を維持することができる。こ れに対して小作農の場合の最大費目は 家 族 労 賃と小作料である。自作農のよ う に 食いつぶす資本がない上 、 さらに小作料和 という収 奪がその経営を大きく圧迫したのである。 このような結果 、 自作農は農地を手離さなければならなくなり 、 手離すべき農地をもたない小作農は子女を身 昭 売りさせざるをえなくなるのである。 第九篇
第二節
農村不況の深
化と
あいつぐ凶作
昭和六年の冷害 当地方は偏東風(ヤマセ﹀による冷害常習地帯である。 天間林村中島信が青森県史他の資料によって作成した ものによると 、 西暦二ハ四O
年から現在までの約三00
年間における冷害の数はおおよそ次の通りになる。 皆 無 作 一 一 回 三分作 七 回 四分作 一 九 回 二分作 五 回 五分作 一 九 回 六分作 七分作 計 七一回 四 回 六 回 平均して四年に一回の割となる 、 来襲の度合は 、 一度来れば数年に亘る傾向をもっていた。特に昭和六年( 九三一﹀の冷 害は大正二年(一 九 二ニ﹀のそれに勝ると も劣らない規模の被 害を農 村に与 え た 。 ま た 、 この冷害 は経済恐慌によって打ちのめされた農家にさらに決定的打撃を与 えたも のとなり 、 それ以後我国がファッショ化 を強めてゆく契機ともなったのである。 し かも凶作は昭和六年の冷害にとどまらず昭和七年の部分的水害 、 昭和 九 年の冷害 、 翌 一O
年の冷水害とたてつづけに当地方におそいかかったのである。昭和六年の天候は早春から不順がつづき 、 平年にくらべて著しく低温であった。 気温を 比較してみると 、 四 五 月 七 八
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・ 入 二 二 ・ 九 七 ・O
一 六 ・ 年 一 一 ・ 八 昭和六年 五 ・ 八一
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・ 九ニ ニ
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一 四 ・O
一 七 ・ 四 差 付 付0
・
付0
・九 ( → ハ 円 三 ・四 平年と昭和六年との月別平均 九 月 一O
月︿一五日まで﹀ 一 八 ・ 六 一 三 ・ 六 右のごとく期間をつうじて平年より低温で 、 特に稲の分襲期及び穂字期の初期︿六月一一日 J 七月=二日﹀にお いて著しい低 温がつづいたのである。 一 八 ・ 三 二 ニ ・ 五 また日照時間も平年に比べ著しく少なく 、 特に苗代期から出穂期にいたる 期間では平年に比べて二ニ二時間も少なくなったのである。 四 五 月 七 九 _._ ノ ¥ /¥ 月 月 月 月 月 昭和恐慌と凶作 平 年 二O
七 ・ 三 一 二 一 ・O
一 六 二 ・ 六 一 九 七 ・ 二 一 八 一 ・ 八 一 九 六 ・ 一 五 七 ・O
一 九 一 ・ 七 一 九 一 ・ 七 一 九 五 ・ 九 一 三 八 ・ 四 六年 一 七 八 ・ 八 付 一 七 ・ 五 ハ 円 二 四 ・ 八 付一九 ・ 三 例 二 九 ・ 一 付 一了四 ハ 円 五 八 ・八 差 付0
・ 三 付0
・
メ::... 口 計一
O
月 七六 ・ 八 五 ・ 八 例 九 ・ 五一
、
二 三 二 ・ 五一
、
一 一 ニ ム 九 ・ 三 付九三 ・ 二 このような 気象条 件とさらに前述の農 産物価格の低落が加わり 、 昭和六年は大凶 作とな ったのである。特に偏 第二章 東風の強い上北郡下の農家は 、 最も激しい被害を受けたのである。第一O
九表によると 、 上北郡下総農家戸数一7
0
9
万O
八一九戸のうち一万O
四O
四戸が七割以上の減収となり 、 その他の農家においても五割以上の減収で 、 五 割和 昭 第九篇 6年 冷 害 の 被 害 及 び 要 救 助 農 家 戸 数 皆無作及び七割以上の被害農家 五割以上の被害農家 五割未 擢 災 救 催 災 救 助 全く救 権基災救助 全く救 金法以 満の被 以上の 総 数 助を要 基金法以 助を要す る も 外 の 救 助 しない 総 数 外の救す助る助を要 を要 しない 害農家 農 家 の を要する もの もの もの もの 戸 戸 戸 P 戸 戸 戸 戸 戸 3,665 2,546 622 497 2,682 2,008 674 1,252 2,133 1,449 471 268 2,381 1,990 391 3,680 425 291 90 47 1,436 1,296 140 6,208
一
947 481 320 146 ,1518 ,1402 116 1,1489 66 1,575 ,1378 141 56 ,1814 1,664 150 4,785 118 10,404 6,054 4,028 322 415 228 187一
2,930 2,330 439 161 98 77 21 17 7,108 2,509 3,944 677 3,568 2,741 827 1,440 20 20一
197 106 71 300一
一
一
一
一
160一
273 107 132 34 429 364 65 358 29,560 17,165 10,187 2,208 14,508 1,1876 2,442 29,689 184 十こよる。 ( Ii'青森県農地改革史.!I) 以下の減収となった農家は一戸もない という有様であ っ た 。 また 、 救助を要 する農家は 、 上北郡において六O
五 四 戸 にのぼり 、 さらに権災救助基金法に よるもの以外で救助を要する農家が四O
二 八 戸 におよんだ。このことからみ ても 、 青森県のなかでとくに上北郡に おいていかに大きな被害を受けたかが 理解できよう。昭和恐慌と凶作 第二 章 昭和 農 家 郡