米七六六円
一
、防 風 林 粟
七四一円
その後︑昭和一
O
年四月に ︑伊佐早氏は上北郡甲地村字乙供の台地に三O
ヘクタールの土地を得て︑純血アラプ種を繋養する﹁羽陽牧場﹂を開設したのである︒その最初の種馬﹁禄盃﹂号の確保については七戸町浜中幾治
郎の
資金提供があって実現したとのことである︒その後牧場経営は生産が順調に行われ﹁禄盃ノ三号﹂という仔
馬を伊佐早氏から浜中氏に返上することによって ︑資金提供に対する代償としたとのことである︒これにより羽
陽牧場の経営は名実ともに伊佐早氏の独壇上となり ︑産馬界から﹁超一流の産馬家﹂と称揚されるようになった
ので
ある
︒
戦前︑戦中を通じて羽陽牧場は経営が順調におこなわれたものの︑終戦直後に病に倒れ︑牧場を手離し ︑山形
ヘ帰郷し
︑郷里にて他界されたとのことである︒その後羽陽牧場はドイツ人のフォルスタ1氏が買い取り︑
サ フ
プレット種馬を繋養する牧場となったが ︑
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から敵性資産と見られ ︑牧場主もドイツ本国へ招還されること
になり︑政府接収資産として当時甲地村が管理の委託を受けていたとのことである︒
諸産業の盛衰
........ /'¥
民
牧 場 間
農地改革後も南部地方には四
O
町歩を前後する大規模な民間牧場が一凶カ所も残されており︑この地方特有の第三章
ことである︒これらの牧場は比較的経営規模が大きく︑自家労働力ではなく主として雇傭労力に依存していると
771
いう点で企業的馬産経営と
言え
よう
︒
和
これらの生成の経緯をみると︑三つに類型化
でき
る︒
︑︑ ︐︐︐
噌EA︐︐
︐ ︑ 土族の手によるもので創設は最も古く明治初年
昭
その典型的なものは広沢牧場
第九篇
(2) 寄生的大(中﹀地主の手によるもので明治中期以降大正初期にかけて創設
代表的なものは盛田牧場︑浜中牧場など
(3)
外来者の手によるもので最も新しく大正中期より昭和初年にかけて創設
代表的なものは東北牧場 ︑羽陽牧場など
七戸地方に多くみられる寄生地主文は商業資本による牧場経営は明治中期に創設された︒しかし明治末より大
正初期にかけて牧場経営は極めて不振となったものの ︑大正末期から昭和にかけて ︑特にサラプ
レ ッ
トの需要増
にともなって漸次回復していった︒
戦後の農地改革によって︑これら牧場の存立も一時危ぶまれたが ︑四
O
町歩以下のものは知事指定買収除外民 有牧場となり︑四O
町歩以上のものは農林大臣指定買収除外民有牧場として︑若干その規模を縮小しながらも︑継続することになった︒
︒盛田牧場
明治中期以降開設された寄生地主による牧場経営の典型で︑上北郡七戸町盛田喜平治の開設による︒盛田家は いわゆる商業資本(酒屋︑呉服商﹀の巨大地主化した典型的なもので︑当地方第一の大土地所有者として農地改
革前には田畑一
O O
代目喜平治は明治一七年頃米国よりアングロアラ
O
町歩山林数百町歩を擁していた︒一O
︑ プ繁殖牝馬を輸入し︑七戸町内約三O O
O
坪の敷地に厩舎を建設し馬産を試みた︒当時においては生産中心と︑いうよりもむしろ貸付馬のセンターの役割を果たしたと言われている︒明治一七年(一八八四﹀創設といわれて
いる
が
︑小規模ながら本格的に開設したのは明治四
O
年頃であった︒
昭和前期の状況をみると︑当時実際に牧場を経営していたのは一
O
代目喜平治の実弟にあたる元県議盛岡徳太 郎の次男文造が牧場長を務めていた︒氏は徳太郎とともに盛田家本家を補佐し ︑昭和四年から牧場経営にたずさわった︒文造は昭和一四年(一九三九)からは七戸産馬畜産組合長︑昭和二二年からは七戸町長を歴任している︒
盛田牧場では数々の優駿が生産されているが︑
昭和
一
O
年には帝室御賞典競争に優勝したミスアキラが ︑昭和 一三年には天皇賞に勝ったハセパlクが盛田牧場生まれである︒戦後も︑三二年にヒカルメイジで ︑三四年にはコマツヒカリでダービーを制している︒
盛田牧場の概要は次の通りである︒
諸産業の盛衰
明治四
O
年当時牧場面積約六町歩
繁殖牝馬三︿主としてアングロアラブ﹀
第三章
林間放牧を主として︑貸付馬は相当数あった︒
昭和一二年当時
773
和 昭
第九篇
牧 場 面 積
調教場合一﹀
厩
&
牝 馬 昭和二七年
牧 場 面 積 普 通 畑 放 牧 地 附 採草地
属 林 地
厩 調教場
4と
倉 庫 そ の 他
約一五
O
町歩 約三
O
町歩 約六
O
町歩
0
三棟 頭 ア サン ラ グ プ ロ レ ア ッ ラ ト フ
約四
O
町歩 四
j¥、 棟 九 棟
七・
九町歩
六
・ 二
町歩