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南部縦貫鉄道と地域開発

ドキュメント内 七戸町 町史 3巻 昭和 (ページ 156-165)

第一節

戦前における鉄道敷設問題

東北本線の敷設問題 現在

東北本線とよばれているものは明治三九年三九

O

六﹀一二月に成立した﹁鉄道固有法﹂に基づき︑明治

O

月一二日に﹁東北木線﹂と名称をかえたものであるが

それ以前は私設の日本鉄道株式会社が経営し

ていたので﹁日本線﹂とよばれていた︒

東北地方に︑

鉄道を敷設しようという構想は

すでに明治五年より出ていたのであるが

︑それが明治九年に至

り ︑

華士族へ金禄公債を下付し

︑それを有利に運転する事業として ︑一方では銀行設立や他方では鉄道敷設へ

の投資を行わせた︒

明治一四年に華族団体が中心となり

東京

・青森間に鉄道建設の実施計画が立てられること になった︒元老院議官兼工部大輔吉井友義を社長とする資本金二

0 0

万円の日本鉄道株式会社が誕生したので

0

南部縦貫鉄道と地域開発

線路敷設工事は五区に分割施行される︒青森県内分は盛岡

│青森閑が五区にあたり︑明治二一年に起工され

明治二四年に開通し ︑こうして東京│

│ 青 森 問

︑およそ七三二キロメートルが全通したのである︒

しかし全通するまでいくつかの問題があった︒特に鉄道路線ルlトである︒一つは軍部からの注文で ︑国防上

の理由から

海岸線をさけ

︑内陸部を通るというものであった︒つまり青森││盛岡聞は ︑

盛岡││一戸││浄

法寺││新町│

│大館

i

l弘前││青森のルlトが主張された︒

もう一つは一般民衆からの反対であった︒これ 第六章

ω

経済状態の悪化

ω

交通業者の反

らの反対は ︑大別すると ︑

ω

市民の迷信ないし後進性

ω

土地買収の困難

この点について小原第

833 

対というものであった︒にもかかわらず現在のような海岸線を通ったのは何故だろうか︒

士ロ

は﹁

七戸

政界

五十

年﹂

(﹃七戸評論﹄所収﹀という評論に次のような注目すべき事実を指摘している︒

明治拾入︑九年に亘り日本鉄道株式会社の事業として ︑鉄道布設工事を開始するに当り︑之れが事務所を東

郡大湊に設置し︑その監督として鉄道局より技監小川之玄︑事務官畠山某を派遣するあり︑所謂地方の大帳場

第九鰐

所在地なるを以って同地に向って鉄道線路を野辺地より七戸経由国道筋に引上げの運動として工藤︑上崎︑

高橋氏等︑時の唯一の交通機関たる二人挽の人力車を飛ばして陳情︑請願する事数回に及びたるも︑遂に其

の効果なかりしは遺憾の極みなるが ︑此の間己むを得ざる事情伏在せるものありき︑日く該工事は日鉄会社

の経営なるが故に︑当地方の株式応募僅少なると一面白鉄の重役にして肥料の大問屋東京深川に家号奥三と

称せる奥三郎兵エ氏が︑八戸の大嘉商庖を手先として ︑北浜の漁粕を一手に取扱ある関係上 ︑我田引水的に

現在の如き海岸に近き迂回線を造成せら

れたる次第なり︒

つまり ︑小原第吉によれば ︑現在の東北本線が海岸よりになったのは一人の重役の私的利益のためになったと

いう

こと

であ

る︒

このような事実は現在の国鉄路線ルlトを決める上でもよく見られることであり ︑これが真で

あるとすれば ︑あたかも公共の利益のごとく粉飾されながら ︑その実態は個人的利益のためであったということ

であ

る︒

かし

︑このような個人的利害による路線決定が ︑のちの七一戸町の発展に大いなる阻害要因となったの

である︒南部地方の内陸部は冬になると陸の孤島と化し︑さらに産業の発展にも大いなる支障をきたしていたの

であ

る︒

したがって七戸の町民は︑戦前から鉄道敷設のため多大な費用と多くの時間をかけてきた︒にもかかわ

らず ︑こ

の願

いが実現

したのは戦後も三

0

年代の後半に入ってからのことであった︒

﹁南部鉄道﹂建設問題

大正初期の頃 ︑本県にあっては私設鉄道ブlムがあった︒特に水力電気の開発から電気鉄道の計画に関心が集

まった時期であった ︒つまり水力電気株式会社が売電のために計画したものが多かったのである︒

これに対して﹁南部鉄道﹂については ︑鉄道院において︑

尻内

│五戸││藤坂

│三本木│

│七戸││千曳

にいたる予定線を決定し ︑鉄道網に編入していたのであった︒しかしこの計画は実現しなかった︒さらに大正七

年︿一九一八﹀になると﹁南部鉄道﹂建設計画が県議会でとりあげられ︑満場一致により政府へ建議書提出とな

った

ので

ある

このような県議の動きと連動

し ︑

工藤轍郎は大正九年に︑請願書(二九七ペー

ジ参照)を両院議長に提出し

﹁南部鉄道﹂の実現を要望している︒この請願書によると︑南部鉄道は三戸より五戸︑三本木︑七戸の三町をへ

南部縦貫鉄道と地域開発

て千曳駅に至る事実上南部地方を縦断する計画であった︒また︑鉄道開通が︑当地方の産業発展にとって ︑

に重要な意義があるかが強調されている︒

さらに大正一一年には ︑当時上北郡会議長藤島議は内務大臣水野錬太郎に﹁三戸ヨリ七戸ヲ経テ千曳ニ至ル鉄

道速成ニ関スル意見書﹂を提出し︑

佐 一 ZU4

由一

円鉄

道速

成‑

一関

スル

意見

県上北郡会議長藤島議謹テ 鉄道建設の急務なることを要望している︒意見書は次の通りである︒

第六章

内務大臣水野錬太郎閣下ニ左記意見ヲ呈ス

835 

第九篇

一︑

東北本線三戸ヨリ七戸ヲ経テ千曳ニ至ル

ノ国道沿線‑一鉄道敷設ノ急務ナルハ夙‑一政府ノ認ムル所ニシテ 本年三月第四十五議会ニ於テ両院ヲ通過セル鉄道敷設法改正法律‑一拠ル予定鉄道線路中

ニ明示セラル而 シテ是ガ速成ヲ期スルノ切ナルガ故‑一第四十四議会一一於テ該速成請願ハ貴衆両院ノ採択トナリ次テ建議

案モ衆議院‑一於テ満場一致ノ通過ヲ見更‑一本年第四十五議会‑一於テハ前記鉄道敷設法改正法律案ト共ニ

該速成建議案ハ貴衆両院ノ通過ヲ見ルニ至レリ

二︑

三戸ヨリ七戸ヲ経テ千曳ニ至ルノ道路ハ古来ヨリノ国道‑一シテ沿道七戸町

五戸町等十五ケ 三本木町

町村ヨリ成リ人口拾数万其広表百五十方里ニ及プ而シテ十和田湖ヲ水源トスル奥入瀬川ヲ始メ多数ノ河 川其間ヲ流ル

Lガ故‑一物質水量共‑一豊富‑一シテ既設事業及将来勃興シ得へキ事業多ク追年発達底止スル

所ヲ知ラズ

三 ︑

三戸ヨリ七戸ヲ経テ千曳‑一至ルノ国道沿線ハ盛岡以北青森以南‑一於ケル第一位ノ米穀産地ニシテ他ニ移 出スル穀類年額数十万俵ニ達シ是カ搬出ハ人肩馬背‑一依ルノ一大不便‑一遭遇シツL

アリ 四︑此地方ハ所謂我国ノ駿北ニシテ畜産事業極メテ股盛‑一シテ七戸

三本木

五戸 ノ三町‑一各産牛馬組合ア リ年々産出スル所ノ牛馬壱万頭ヲ下ラス秋季二ヶ月間に渉リ牛馬市場ヲ開始シ南ハ九州四国中国北陸関 東地方ヨリ北

ハ北

海道‑一至ル全国ノ頁客婿集シ鉄道ノ

設ケナキガ故ニ牛馬運搬等ニ深甚ナル不便ヲ感シ Lアリ

五 ︑

原野 ニ於テ水田壱万数千町歩ヲ開拓スルニ足ルモノアリ又山林ノ如キ面積極メテ広大ニシテ国有林野ニ

南部縦貫鉄道と地域開発 第六章

於テハ無尽蔵ノ樹木欝蒼タルモノアリ殊‑一十和田ノ大深林ノ如キ千古斧銭ヲ加へサル良材巨木十数万町 歩ニ一旦リ其立木総材積九千万石ニ及プ而シテ此地方ハ造林盛ニシテ至ル所ノ広原ハ青々タル美林ト化シ

L

アルヲ以テ将来ノ生産ハ計リ知ル可カラザルモノアラン 猶近年価格上騰の結果松杉栗等ノ優良ナル用材盛ニ移出セラレ又木炭ノ生産逐年盛一一シテ沿道産額数百 万俵‑一及ビ居ルモ交通不便ノ為メ多大ノ不利ヲ受ケツ

L

アリ

養蚕業養鶏業及養豚業ハ近年ノ発達著シキモノアリ殊ニ養蚕業ハ最モ此地方‑一適シ収繭年額数万貫‑一及 ピ逐年倍加シ来レリ沿道製糸会社ノ設立アリ将来一大養蚕地タルニ至ルベシ

政府事業トシテ現‑二二本木

七戸ニ於ケル各軍馬補充部支部七戸ニ於ケル奥羽種馬牧場ノ如キ其規模ノ 大ナル其経営ノ盛ナル実‑一割目ニ値スルモノアリ

郡内烏帽子岳

八幡

岳︑

八甲田山

赤 倉 岳

十和田山ヲ経テ戸来岳ニ至ルノ大山岳ハ満山鉱脈ニシテ金 銀銅鉄及石炭等ノ鉱物ニ富ミ現ニ之カ試掘ノ許可ヲ得タルモノ数百ノ多キ‑一達シ其鉱物ノ豊富ナル他‑一 多ク其比ヲ見ズ 九︑十和田湖ハ海抜二千尺ノ山上ニアリテ周囲拾六里其風光ノ明娼水態ノ絶佳

ナル奥入瀬

渓谷ノ幽遼ト相 侠ッテ脅ニ我国ノ稀ナル所タルノミナラズ之ヲ世界有名ノ観賞地ニ比較スルモ敢テ遜色ナキヲ信ズ現‑一 政府モ亦之ヲ認メ国立公園ノ候補地ニ選定セラレタリ

昨年長クモ

837  秩父宮高松宮両皇子殿下十和田御観賞以来内外朝野ノ貴顕紳士ヲ始メ一般遊覧客ノ観光ス

ドキュメント内 七戸町 町史 3巻 昭和 (ページ 156-165)

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