和
浦 野 館
七八六・四八五二・四
大 深 内
七七三・六七七三・六
昭
十 和 田
一 O
四・O
三一二・O
七二八・O
第九篇
藤 坂
四六
0
・0
一三
八
・
O
三二二・O
四 和三八二・四四四四・七二
0
・0
ー...L.
/ .....
一︑
O
二0
・ 三
四三
0
・0
P
め農家の困窮ぶりは言語にぜっするものがあった︒
第
一
表O
畑作物の被害状況 昭和恐慌と凶作
ツ キ 生 馬 籍 大
ヤ
ケ 大 鈴 稗 莱
"
'
"
ナ ツ 根 薯 麦 旦
一 一 昭
一
、 、 、 、一 一 一一
二 六 四 五 和
0 ‑ 0五 二 六 四 八 九 九、 、 、 、 、 、 、 、O 九 四 二 一 一 、‑L.. ノ
o
0 0 0 九 五 七 一 一 一 七 四 O 九 五 六 年 二 七 八 八 O 二 五 六 貫 貫 貫 貫 石 石 石 石一 一 昭 四 ー コ コ、 、 、 、一 一
。 占 ー コノ¥ ー一・ 一 和 二 二 六 二 四 九 七 二 二 九 一 一 六 五 一、 、 、 、 、 、 、 、0 五 九 九 二 六 O 四 六 四 四 二 六 O 八 七 二 O 年 一 二 五 二 一 五 六 四 貫 貫 貫 貫 石 石 石 石
一、
七 七 七
二 一 六 七 一 二 二 四 減 二 六 一 二 一 二 九 九、 、 、 、 、 、 、 、 九 九 一 五 一 八 八 二 二 一 八 五 八 八 七 三
0 六 七 四 一 二 二 八 貫 貫 貫 貫 石 石 石 石
︿
﹃東 奥年 鑑﹄
﹀ 過去五カ年同の実収獲を平均して得た平年作収獲高は
一三万七九八七石であるが︑
昭和六年の収獲高はわず 一石一七円と見積れば損害額は八
O
五万一一六六円にものぼるのである︒これに畑作等か六六万三五九八石で︑ 第二章このような被害の多くは上北郡において の被害を加えると︑損害総額は︑実に一二
OO
万円にもなるのである︒
713
みられ ︑
農家戸数一万
O
八一九戸のうち七割以上の大巾減収農家は
︑実に九六・
二パ
ーセントの一万
O
四O
四戸和
にのぼったのである︒
昭和六年凶作の惨状を下村千秋の﹁飢餓地帯を歩く﹂(﹃中央公論﹄昭和七年二月﹀でみると ︑七戸地方の決
昭
家の惨状がえがきだされている︒
第九篇
リ
h A +也︑
44an1
匂
‑
首・札M案内の育年の後についてこの附近の最凶作地の浦野舘村ヘ向って歩き出七戸町のめし屋を出ると︑
した︒まだ午後二時頃であったが︑空一面に墨色の雲が蔽いひろがって︑夕暮のように暗い︒しかも田園の
中の道路は︑馬車と乗合自動車とにこね上げられて ︑雪と泥との河である︒七割の納税不能者を持つという
この村では ︑道路の修繕貨など ︑一文も出ないので ︑この通りの泥道であるというのだ︒
私はここの泥道で︑七戸町に買いものに行って来たという一人の百姓の母親と道づれになった︒母親は二
かくまきで包み︑背負い︑つぐらいの子供を︑手には︑買いものの風呂敷包みを持っていた︒そしてその足
には
︑大きな藁靴をはいていた︒それはまるで︑竹串へ八ツ頭芋を差したようであった
︒ 泥 に ま み れ た ま
ま︑わら屑が︑雀の巣のようにほうけ出し︑藁靴というよりはただのわら屑を足のまわりにまつわりつけた
という風であった︒長野県でも︑新潟県でも︑雪靴というものを見たが ︑それはもっと手際よく作ってあっ
たのと思い比べて見て ︑私は ︑この地方の百姓達の不器用さ︑というよりは︑こんな藁靴にも非常に幼稚な
原始性を発見して略的いたのである︒背中の子供の手には︑赤い風船が一つ︑竹棒の先にふわ
ふわ
して
いた
︒
で︑
私は
︑言葉をかけたのである︒私はこれを見てまた思わず︑ほろりとした気持ちになった︒
﹁ず
いぶ
ん寒
いで
すね
﹂︒
昭和恐慌と凶作 第二章
事実
︑私の単靴の中の足も雪水に濡れて ︑
﹁ヘ
え
::
:﹂
と
︑母親は答えて ︑どこまちぎれそうだつたのだ︒
で行くのか︑
と方言で訊いた︒
﹁浦野舘までゆくつもりです﹂と私が答えると ︑浦野舘に ︑親類でもあるの
かという︒無い︑と答えると︑それじゃ︑宿屋はなし︑どこへ泊るつもりかと訊き返すので︑
私は
︑
﹁百
姓
家ヘ泊らしてもらうつもりです﹂と答えて見た︒する主︑その母親は︑かぼちゃめしで︑囲炉裏端ヘごろ寝
しでもいいのなら︑わたしの家へ泊るがいい ︑と言ってくれた︒私は︑
喜んで答えた︒
﹁そ
れで
結構
です
︒
是非泊めていただきます﹂︒
そこで私は ︑
そこまで私のカバンを持ちながら道案内してくれた三本木の青年に帰ってもらうことにし
た︒そのお礼として五十銭銀貨二つを出すと ︑その一つだけを取り︑あとはどうしても取らない︒ここにも
この地方人の純朴さが現われていた︒
私は
︑二つの銀貨を渡すために︑長い間︑泥道の中にたたずまなけれ
ばならなかった︒
さて
︑その青年と別れると︑
私は
︑子供をおぶった母親の後について ︑その日の暮れ方 ︑どろどろの足を ︑
その後の土問へ踏み入れたのであった︒この家の周囲には︑雪に蔽われた田聞と畑とが ︑荒纂としてひろが
っていた︒その庭には藁塚が四つ五つ ︑円い塔を作っており︑家の周囲には︑雪除けの藁の垣が張りめぐら
されていた︒軒の下には︑またその下には︑めしの中に入一尺あまりの氷柱がずらりと寒い色にぶら下り︑
れて食べるための大根の葉 ︑もろこしの穂などが縄にしばられ︑幾重にも釣り下げられてあった︒
家の中には料金不払いで電燈も消されたとかで︑炉の焚火でわずかに照らしている︒炉端の一方には真黒
715
和 昭
第九篇
な扉風が立てられ ︑それに子供の着物やおしめがじっとりと掛けられていた︒そうしてその扉風のうしろに
は一枚の障子もなくて︑ふだんの居間であり ︑めしを食う所であり ︑また寝る場所でもあった︒そうしてま
た︑これと向かい合った板仕切りの向こう側は厩であった︒それは︑中に六尺幅の土聞を挟むだけで︑彼ら
が寝たりめしを食ったりする所と ︑九尺とは離れていないのであった︒しかもその板仕切りは︑隙間だらけ
なので︑黒い馬の姿の輪郭がはっきりと見えていた︒
この地方の百姓達には ︑馬もまた家族の一員である︒だからこそ︑南部馬の名によって知られている良馬
が出るのであろうが︑これほどまで人と馬とが近々と寝起きしているとは ︑私はそれまで知らなかったので
ある
︒
i ¥
¥̲j
さて
︑その炉端には︑当家の主人が︑ぼんやりと焚火を見詰めていた︒いつ剃りを当てたか解らないひげ
づらの中に︑目だけを白く光らしている︒しかし主人は︑私を連れて来たわけを主婦から訊くと︑その白い
目を細めてこころよく迎えてくれたのである︒
i ¥
¥̲j
めし時になると︑主人はまたこう言った︒
﹁まだこれでも
︑もみ穀を取ったくだけ米ですから︑どうやら咽喉が通るが︑そのうちに︑くだけ米も無
かぼちゃやじゃが芋に混ぜて喰べるのです︒これは平年にくなるので︑こんどは︑もみ穀の着いたままを ︑
は︑馬が喰うものだが︑今年は︑わし達が馬になるのです﹂︒
ところで︑このような食物で ︑幾月となく生きついで行くうちに ︑栄養不良から ︑まず子供の健康が害さ
昭和恐慌と凶作 第二章
れることは明らかであった︒
これは
︑この数日後に︑青森県庁の農務課長の口から聞いたことであるが ︑現
に凶作地の小学校生徒の健康は著しく害されつつあることが︑県の巡回医師によって発見されたということ
であ
った
︒
で︑食糧の最も欠乏する三月四日に入って︑なおも現状のまま放置しとくならば︑栄養不良によ
る子供の死亡率が激増するのではないか︑ということであった︒
タめしが済むと︑灯はなし︑もう寝るより外はなかった︒主人と主婦と子供とは︑炉端の扉風のかげに︑
一枚のかけ布団をかけ ︑それへかしわにくるまっぼろ布を重ね縫ったような布団にくるまって寝た︒私は ︑
て寝た︒私は ︑寝ながら訊いて見た︒
﹁こ
ちら
では
︑お子さまは一人ですか?﹂
すると主婦が
﹁な
あに
︑もう一人︑今年十七になるのがあるのですが﹂と答えた︒
ここではもうそれを訊くのが余りに残酷に
思われて来た︒で ︑黙っていると主人が︑
溜息
をつ
くよ
うに
して
一言
った
︒
その娘は ︑今︑どこにいるか︑私はそれを訊いて見たかったが ︑
﹁そ
の娘
は
︑今 ︑東京の方へ行ってます︒この村からは︑
紡績ヘ出る娘がずいぶん多いですが
︑
わ し の 娘
は︑五年の年期で︑売り飛ばしてしまったのです﹂︒
これには私は合槌も打てなかった︒
わずか二 ︑三円の手附金で︑東京の新聞にはあったが ︑それは新聞のよたであっ
717 一人娘が売られて行くと︑
和 第九篇 昭
た︒いかに純朴な百姓といえども ︑それほど愚かではない︒しかし︑百円から三百円ぐらいの金で ︑
一人
の 娘が
︑あるいは私娼に︑あるいは公娼に売られて行く例はザラにあったのである︒
r‑¥
¥̲J
︿林茂編﹃ドキュメント昭和史﹄﹀
また
︑当時の新聞記事は農村の悲惨な状態を次のように報道している︒
凶作地を出て稼ぐ青年に生地獄
:娘が身体まで売ろうという凶作地で現金がつかめればどんな職業でもと青年が労働条件の契約などほ
とんど頓着せず出稼ぎにとびだし ︑これがために虐使されている︒関東地方の某地に建設中の某作業場に昨
年の秋東北六県から︑三五七名の青年が土方として雇われてきたが︑この青年達はいずれも七
O
円乃至三O
円を前借していた︒しかし︑この工事場は朝の五時から夕方の五時まで一二時間の過激な労働を強要され ︑
しかも危険な作業が多いので︑労働の過重から病気になるものが少なくない︒その上日給の一円三
O
銭もその大部分は飯場等に取られるので︑実家へ送金どころか︑借金ができる有様︒飯場で脱走したものがあれ ば︑脱走者の前借金は同じ飯場の土方が分担させられ
るの で一
OO
円以上の借金はたちま
ちで
きる
︒
青森県上北郡浦野舘から一四名の青年がここにいたが︑村に救いを求めてきたので同村の青年団長米内山義
一郎が救援に赴いたところ工事監督等から袋叩きにされ︑東京地方職業紹介事務局に救いを求めてきた0
・
・
(昭和九年一月﹃東京朝日﹄﹀