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親鸞が開いた仏教とは何か

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Academic year: 2021

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親鸞が開いた仏教とは何か   み な さ ん、 こ ん に ち は。 深 川 で す。 「 親 鸞 が 開 い た 仏 教 と は 何 か 」 と い う タ イ ト ル を 付 け ま し た。 私 自 身 は、 親 鸞聖人の流れを汲む者ですから「親鸞」と呼び捨てするべきでないと思っていますので、本来は「親鸞聖人」とタ イトルにも示すべきなのですが、最初から「聖人」と言われるとうさんくさく感じる人もおられますので、そうい う表現にしておきました。しかし私の心のうちは「親鸞聖人」という立場です。   さて本日は、親鸞が開いた仏教はいったいどういうものなのかというお話をします。レジュメに沿ってお話をし ます。研究発表や講義ではないので、 「なるほど」と思っていただけるようなお話しにしたいと思います。   まず、そもそも宗教の中で仏教はどういう特色を持っているのかということから始めて、その仏教の中でも親鸞 の仏教はいったいどういう特色があるのかというところに焦点を当ててお話します。

仏教文化公開講座講演録

親鸞が開いた仏教とは何か

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Ⅰ.宗教の起源と仏教の考え方

一、文明の発達と心の発達   さて世界の中で考えると、まず仏教そのものがそもそも特別なものです。日本にいますと、当たり前のように仏 教の知識や知恵が入ってくるのでそうは思いませんが、実は、世界的に見ると、仏教徒はほんの七%足らずしかい ません。しかも、全てが、私どもが身を置いている大乗仏教の徒だけではなく、東南アジアに広がる上座部仏教の 人たちを含めても、世界的に見るとほんの少しなのです。   最初に「宗教の起源と仏教の考え方」をお話します。私たちの地球ができた時を一月一日の午前〇時として今日 までを一年とすれば、人類が地球上に現れたのは、除夜の鐘が鳴り始めた頃だといわれます。それほどの人類の歴 史なのですが、その間に、人類は文明を発達させてきました。その一つの考え方として、大きな時代区分をする場 合に「道具」の発達によって見ることができます。   私たちは、最初はどうやら四つんばいで歩いていたようですが、そのうちに立ち上がったので、前足がヒマにな りました。そして前足が手になると、その手でいろいろなものを作ったり、仕事をすることができるようになりま した。そうして、道具ができていきました。最初は石のカケラなどを使うものなどでしょう。その内に自分の力を 使わなくてもで仕事ができるようにと道具が考えられ、また家畜などを使うようになり、発動機が発明されると、 自分があまり汗をかかなくても機械が仕事をしてくれるようになりました。今の私どもの世界では、道具の発達の 大きなエポックとなったのはやはりコンピューターですね。コンピューターができて、私たちは、決まった仕事な どはいちいち自分が確認しなくてもできるようになったし、短時間でできるようになりました。

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親鸞が開いた仏教とは何か   そ の う ち に、 今 度 は コ ン ピ ュ ー タ ー が す ぐ れ た 知 能 を 持 っ て 働 く こ と が で き る よ う に な り、 「 A I 」 と い わ れ る ようになりました。これはさらに進んでゆくでしょう。いずれにしても、文明の発達を、道具の発達というところ から見ることができることが一つです。   ところが、この文明の発達、道具の発達と同時に、精神(こころ)もやはり発達していったと考えることができ ます。それは、基本的には愛する心の広がりとして発達してきました。異性、男と女、雄と雌が最初に愛し合いま す。そこに親子ができますと、兄弟・姉妹ができます。親族が生まれます。そうして愛すべき人々が広がり、愛す るこころは広がりました。最初は血のつながった近しい者だけの間に広がりましたが、それだけではなく、例えば 他人であっても同じムラに住む者、同じ所に住む者同士なら仲よくしていこうとなります。あるいは、隣の村の人 たちも同じ部族だから助け合っていこう、いや隣の村だけではなく、他の部族も住んでいるが、同じ民族ではない かと民族愛として広がり、民族だけにこだわっていては駄目だということで人類愛と、愛する心が広がるかたちで 「こころ」も発達していきました。   それはまた、家畜にも広がることから始まって、あらゆる生き物、あるいは生き物を食べさせてくれている植物 から、自然界に広がっていき、自然愛と広がりました。このように「愛するこころ」も広がり発達してきたと考え ら れ ま す。 私 ど も の「 こ こ ろ 」、 精 神 は、 ま だ 発 達 し て い く の だ と 思 い ま す。 で す か ら、 今 後 何 万 年 か、 何 百 万 年 か後に生まれた赤ちゃんは、ひょっとしたら菩薩さまのような心を持って生まれることになるのかもしれません。 そのように「こころ」 、精神も発達していったという歴史があるわけです。

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二、安全への関心の高まり   さて、そうして精神が発達し、愛する人々や愛すべき関係が広がってくると、今度は何が起こったかというと、 安全への関心が高まってまいります。そして、愛する者の安全を脅かすものへの対処をしなければならなくなりま す。愛する者を守るために武器が工夫され、兵法が工夫されました。城を築いて、何万という敵が来ても、守るこ とができる城なども工夫されました。また集団の団結が求められてゆきます。団結の精神を育てるために、愛する 心だけでなく、そこに、みんな日頃から助け合うという心構えをしておかないと、いざというときに困るという精 神も発達していきました。   ところが、もう一つ、愛する者の安全を脅かすものとして、自然現象などの不可解な現象が起こります。基本的 には、天変地異などの自然現象が分かりやすいですね。そして、さまざまな現象の背後に正(+)と負(-)に働 く「力」を見てゆくのです。特にマイナスに働く力は、愛する者の安全を脅かします。それぞれの現象の背後に、 われわれの思いの及ばない力が働いているのだと解釈したのです。すなわち不可解な現象の奥に力が働いていると 解釈して、それを「カミ」とか「天」と名づけて対処するようになったのです。そこに宗教が起こった源があると 考えられるのです。例えば、空が突然に「ゴロゴロ、ピカピカ」と鳴り出して、時々「ドーン」と落ちてくること が あ る と、 「 あ れ は 一 体 何 だ。 こ の 前 は わ が 子 が あ れ に 当 た っ て や ら れ た が、 何 か 分 か ら な い 」 空 の 上 で 何 が 鳴 っ て い る の か 分 か ら な い が、 そ れ を「 カ ミ 」 と 解 釈 し て、 「 あ れ は カ ミ が 鳴 っ て い る の だ 」 と し て「 カ ミ ナ リ 」 と い うことになったのです。   このように、不思議な力が働くそのもとを、カミとか天という解釈をしていきました。それが宗教の起源の一つ と 考 え ら れ ま す。 そ し て、 そ の 不 思 議 な 力 に 対 し て 儀 式 が 生 ま れ て き ま す。 「 今 年 も た く さ ん の お 米 が で き た。 い

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親鸞が開いた仏教とは何か い稲が育ってたくさん収穫できた。感謝のお祭りをしましょう」と、収穫の祭りをします。逆に、神様が暴れては 困るので、例えば最新の機能を備えたビルを建てる前にも、やはり地の神様が暴れないようにと地鎮祭をします。   そのように、愛するこころは広がり、その安全への関心が高まるとともに、宗教が起こってきたと考えられ、また 宗教儀礼も展開をしていきます。 三、 「こころ」の不可解への注目…宗教の根本的転回   ところがもう一つ、本当に不可解で不思議なものは何かと考えたときに、広い意味での「こころ」が不可解では ないかということ、ここに気が付いたのが、実は仏教だと言えます。ここに根本的な宗教的転回として仏教の展開 が考えられます。   すなわち外にあるように見えているものは、実は向こうに見えているのではなく、私がそう見ているだけではな いか。道を歩いていたら、そこに毒ヘビがいると逃げたが、よく見たら縄が転がっていただけだった。私が逃げた のは縄の方の問題ではなく、見た私の側の問題である。そこで「私」が問題になっていった、というのが仏教の考 え方、見方です。   私たちが不思議だと思っているのは、実は、それを見たり聞いたり感じたりしている自分の「こころ」であった。 その「こころ」とは一体どこにあって、何でこんなふうに動くのか。この「こころ」というのは一体何だろうと問 題にしました。そして、それはどうやら私の中にあるらしいと、そこに気付いていったのが仏教です。   そうして、自己を問題にしてゆきます。この「私」とは何か、ということになっていきます。この「私」を問題 にし始めたのは、宗教の根本的転回としての仏教と見方であると考えることができます。ですから「こころ」が不

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思議なので、今でも「こころ」を「精神」と書くように、 「神」という字が付いています。つまり不思議なのです。

Ⅱ.世界の宗教と仏教

一、宗教の分類   さて、以上のような仏教が、大きな意味での宗教的転回だとすれば、世界の国々にはどのような宗教があるのか、 それに対して仏教はどういう特色を持っているのかということを少しお話しします。   ま ず 最 初 の 分 類「 A 」 で は、 「 世 界 宗 教 」 と「 民 族 宗 教 」 と い う 分 類 の 仕 方 が あ り ま す。 世 界 宗 教 と は、 一 つ の 民族に限らず、さまざまな民族に受け入れられ、かつ、明確な創唱者(開祖)が存在する宗教です。そこに世界宗 教として、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒がそれぞれどれほどの人口があるかという数字を「ブリタニカ国 際年鑑二〇一一」のカウントで示しています。そこに示されるように、キリスト教、イスラム教という一神教が、 三 三 % と 二 二・ 五 % あ っ て 世 界 人 口 の 半 分 以 上 で す。 そ れ に 対 し て 仏 教 は、 「 世 界 三 大 宗 教 」 と は 言 わ れ て き ま し たが、数からすれば六・七%と少し増えてきたくらいです。この三大宗教を世界宗教とします。   これに対して「民族宗教」と言われているものがあります。その中でもヒンドゥー教はインドなので人口が多い です。仏教徒の倍あって十億人近くありますね。ユダヤ教徒も民族宗教と位置付けられています。ユダヤ人の間に 古代から広まっていましたが、今ではユダヤ教徒の多くはアメリカに住んでいます。   中国の民間宗教の人口は、中国の人口が多いのでそれだけカウントされます。日本の神道も民族宗教の中に入り ま す。 も ち ろ ん 部 分 的 に 見 れ ば、 ヒ ン ド ゥ ー 教 徒 も、 ユ ダ ヤ 教 徒 も、 「 ほ か の 民 族 の 人 々 も い ま す よ 」 と い え ば そ

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親鸞が開いた仏教とは何か のとおりでしょうけれども、大多数が民族的に存在しているのでこういうことになっています。   二 つ 目 の 分 類「 B 」 は、 「 自 然 宗 教 」 と「 創 唱 宗 教 」 と い う 分 類 の 仕 方 で す。 自 然 宗 教 と は、 自 然 発 生 的 で、 無 意識に先祖たちに受け継がれた宗教です。前の「A」の分類では多くが民族宗教に分類されます。創唱宗教とは、 創唱者(開祖)と、生まれた時期や中心的な思想・教義が明確な宗教という定義です。世界三大宗教をはじめとし て、 面白いのはゾロアスター教、 ジャイナ教、 シーク教です。ゾロアスターは英語で、 ドイツ語で言えば、 ニーチェ の「ツァラトストラはかく語りき」の「ツァラトストラ」です。これも創唱宗教で、開祖が明瞭なのですね。   三 つ 目「 C 」 の 分 類 は、 「 多 神 教 」 と「 一 神 教 」 と い う 分 類 で す。 多 神 教 と は、 複 数 の 神 々 を 同 時 に 崇 拝 す る 宗 教です。古代ギリシャの宗教、ゾロアスター教などもそうで、神道でも「八百万の神」と言いますね。道教、ヒン ドゥー教、アニミズム、トーテミズム等を含めて、多神教と分類されまして、あらゆるレベルにおいて、神様がい ろいろなかたちで存在すると考えます。   それに対して、キリスト教、イスラム教などを代表とする一神教は、唯一絶対の神を崇拝する宗教です。さて、 それらに対して仏教は、 多神教なのか一神教なのかと問われた時に困るのは、 そもそもその分類でいう意味での 「神」 の概念がないからです。しかも、もし仏陀を神と言うなら、仏教は私たちが神になっていく教えです。仏教は、仏 の教えであると同時に、仏陀、仏になっていく教えなので、それを神と言っていいのかどうかと問わなければなり ません。だから、一神教でも多神教でもなく、仏教は仏教として見てほしいと言うしかないのですね。もちろん、 仏教が伝播していく間に、さまざまな神々を採り入れていったということはありますが、基本的に、仏教は一神教 か多神教かというと、 「どちらでもない」と言わざるを得ません。   た だ、 一 神 教 の 人 た ち か ら 見 た ら、 「 仏 教 徒 は、 阿 弥 陀 さ ん も 拝 む し、 大 日 如 来、 廬 舎 那 仏 も 拝 む し、 観 音 さ ん

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も拝むし、これはもう多神教でしょうよ」と言います。世界に出ていくと、レベルの低い、偶像を崇拝する宗教が 仏教だと思っている人も少なくないと思います。しかし、それは別に考えてくださいと言いたいですね。 二、仏教の特色   そこで、特に一神教に対して、仏教の特色を話しておかなければなりません。まずその一つは、仏教は、唯一絶 対、全知全能の神を前提としていないということです。三大一神教と言われるユダヤ教、キリスト教、イスラム教 は、唯一絶対、全知全能の神を前提とします。   ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、いわば兄弟の関係、親族関係にある宗教だと言うことができるようです。 神は唯一絶対なので人間とは直接は関わりません。だから、預言者を遣わします。預言者が言葉にします。言葉が 文字になり、そして人々の中に聖典として流布していきます。そうして広がっていきました。ユダヤ教ではアブラ ハムやモーゼなどが預言者、時がたって、もともとユダヤ人であったイエス・キリストが、新たに神の啓示を受け、 神の子として現れました。さらに時がたちますと、新しい預言者としてムハンマドが現れ、神の言葉を預かった者 として、その言葉が『コーラン』という聖典になり、イスラム教が広まっていきます。   いずれにしても、唯一絶対、全知全能の神が前提として行われているのがこれらの一神教です。この一神教徒が 世界人口の半数以上を占めていますので、世界に出て行きますとその発想で仏教を見られます。ですからまず仏教 は仏教として考えて下さいと言わなければなりません。   仏教の特色の二つ目は、世界(宇宙)創造の神話を持たないということです。仏教もさまざまな文化や思想を抱 き込みながら展開したというところはありますが、基本的には、仏教には世界や宇宙がこのように始まったという

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親鸞が開いた仏教とは何か 「 創 世 記 」 の よ う な 物 語 は あ り ま せ ん。 世 界 は あ る よ う に あ っ て き た。 世 界 の 有 り よ う は「 真 如 」 だ と。 あ る が ま まにあるのだとします。ですから、例えば、人間はサルから進化したという進化論が出てきても、あわてることは ありません。 「ああ、そうなんですね」というのが仏教です。   創 造 の 神 話 を 持 つ 宗 教 か ら い い ま す と、 「 何 を 言 い ま す か。 神 が 自 ら に 似 せ て 人 間 を 創 造 さ れ た の で あ っ て、 サ ルのようなものから進化したなどと言うてもらっては困る」ということになります。人間のもとがサルだったら、 サルと同じようなことをしても、誰も制することができないではないか。神が自らに似せておつくりになったとす る な ら、 「 神 の お ぼ し め し に か な う よ う な 生 き 方 を し な け れ ば な ら ぬ 」 と 言 う こ と が で き る が、 サ ル か ら 進 化 し た なんて言うてもらったら困るとなるわけです。   仏 教 で は ど う か と い う と、 「 そ う だ っ た ん で す ね。 人 間 も そ の よ う に あ っ た ん で す ね 」 で 終 わ り で す。 あ る い は、 宇宙がビッグバンから生成されて、今、現に膨張しつつある。宇宙望遠鏡ができて、それで観測したら、遠くの天 体がどんどん遠ざかっていることが分かってきて、宇宙は今、現に膨張しつつある。その最初がビッグバンであっ て、 そのもとがブラックホールだと言います。そうすると、 非常に敬虔なクリスチャンの中には、 あのブラックホー ルの中に神がいらっしゃるということを証明しようと考える人も現れます。宇宙は神がお造りになったのですから ね。   と こ ろ が 仏 教 徒 と し て は、 「 あ あ、 そ う。 ビ ッ グ バ ン で 始 ま っ た ん で す ね。 宇 宙 は そ の よ う に あ っ て き た の か 」 で 終 わ り で す。 も し 仏 教 の 立 場 を 一 神 教 に 対 し て 言 う な ら ば、 「 あ な た 方 の 発 想 で 言 う な ら ば、 仏 教 で は、 神 が 世 界や宇宙をお造りになったのではなくて、世界や宇宙のありさまそのものが神なんです。世界のありさまが真如な んです。つまり世界や宇宙のありさまそのものが仏なんです」と言えるかと思います。

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  すなわち仏教には、仏が世界や宇宙を創造したという物語はありませんが、宇宙や世界のありさまそのもの、あ るがままにあるその相そのものが真如であり、仏であり、いわば神であるのです。しかもその真如そのものは姿に は表れませんが、真如から来生されたという「如来」があるのだということを言っていくのが、大乗仏教の言い方 になってゆくわけです。   仏 教 の 三 つ 目 の 特 色 は ど う か と い う と、 「 悟 り( 正 覚 ) に よ っ て 仏 陀 に な る( 覚 者 に 成 長 す る ) 宗 教 」 で あ る と いう言い方をする方が分かりやすいので、英語で講義をするような場合には、そういう言い方で通訳をしてもらい ま す。 「 あ な た 方 の 言 う 宗 教 で は な い か も し れ ま せ ん が、 例 え ば、 い っ た ん 実 践 哲 学 の よ う に 考 え て み て く だ さ い。 そして仏教を見てみてください。その上で、さまざまな仏陀や菩薩が説かれていると考えてみたら、少し分かりや すくなるかもしれませんね」とお話します。私どもは、特に世界に出かけて行くときには、そういう仏教の特色を 知っておかなければなりませんね。

Ⅲ、仏教の歴史的展開

  ではその仏教は、どのように展開し、そして、歴史的にはどのように伝わっていったのかということを、大ざっ ぱにお話しします。   釈尊は、この世にお出ましになって八十年でお隠れになります。すると間もなく、お弟子方を中心に集会がもた れます。そうしてその後にさまざまなグループができていきます。釈尊は、対機説法あるいは随機説法と言って、 弟子には弟子に、王様には王様に、あるいは農夫には農夫に対して、それぞれの状況に沿って教えを説かれました。

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親鸞が開いた仏教とは何か 釈 尊 の も と に い た 出 家 者 の 中 に も さ ま ざ ま な グ ル ー プ が あ り、 そ の 人 々 に 応 じ て 教 え を 説 か れ ま し た か ら、 「 私 は 釈 尊 か ら こ う 聞 い た 」「 私 は こ う 聞 い た 」 と い う こ と に な り ま し た。 グ ル ー プ ご と に 聞 き 方 が 違 い ま す し、 お 釈 迦 様の説き方も違いましたから、それがグループを形成して「部派仏教」となってゆきます。   そ れ か ら さ ら に 五 百 年 ほ ど の 時 を 経 ま す と、 大 乗 仏 教 と 上 座 部 仏 教( 小 乗 仏 教 ) に 分 か れ ま し た。 「 小 乗 仏 教 」 と は、 大 乗 仏 教 か ら 見 て 少 し 貶 し た 言 い 方 で す。 大 乗 の 人 は、 「 あ な た 方 の 言 う 仏 教 は、 迷 い の 岸 か ら 悟 り の 岸 へ 渡るための小さな乗り物じゃありませんか。われわれのは、大きな乗り物です。この悟りの功徳は、すべての人に 行き渡らなければならないはずじゃないですか。 それが釈尊が菩提樹の下から歩みを運ばれた精神じゃないですか」 というところで、大乗仏教が起こってきました。大乗仏教(マハーヤーナ)は、大きな乗り物の仏教だということ です。   大乗仏教が起こり、これは、あらゆる人々、広い地域に伝わります。ところが、その内容は自力の教えと他力の 教えに分類できます。親鸞聖人はこの自力の仏教を「竪」の教え、他力の仏教を「横」の教えと言われてゆきます。   この自力の教えは「衆生(私)が悟りの方向へ動く仏教」です。これは私の言い方ですが、英語にしたときに分か りやすいだろうと思ってこういう表現をしました。それに対し他力の教えは「仏陀、如来が衆生(私)の方へ動く 仏教」です。衆生が悟りの方向へ動く仏教は、悟りの方向へ行くために邪魔になるものを捨てたほうがいいわけで すから、出家したほうが効率がいいわけで、出家者が主になります。それに対して在家のまま、悟りの功徳を頂け る、 つまり、 如来が私のほうへ動いてくださる仏教があるということで広がっていくのが他力の仏教、 すなわち「横」 の仏教です。そんな理屈に合わないことがあるかと考えられますので、これを「横」と言います。理屈に合わない のが「横」 、理屈が通るのが「竪」です。 「こうすれば、 こうなる」という方が理屈に合っていますので、 これを「竪」

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の仏教と言うわけです。これは私たちの日常の発想からしても分かりやすいですね。ところがその「竪」の仏教か らしたら、 「それは理屈に合わない」と言われても仕方がないのが「横」の仏教です。 「横」という字が使われてい る熟語を考えると、横着とか、横柄、横暴、横車を押すなど、あまりいい言葉はありません。理屈に合わないこと を「横」という言葉で表します。   ですから、 「こうしたら、こうなる」という理屈からいえば合わないかもしれません。 「あなたがやらなきゃ、あ なたに結果は出ない。自業自得というのが基本的な因果の道理だろう」と言われるけれども、 そうではなくて、 「如 来が私に動いてくださって、私が仏になるという仏教も、ちゃんと説かれているんです」ということが伝えられて くるわけです。 「衆生が動く仏教」と「如来が動く仏教」とがあるというのは、そういうことです。   そしてまた、如来が動く仏教の中に「漸悟(出)の仏教」と「頓悟(超)の仏教」があるわけです。少し難しい 言葉ですが、漸悟(出)とは次第次第に、だんだんと悟っていくという仏教、頓悟(超)とは段階を経ずに一足飛 び に 悟 る と い う 仏 教 を い い ま す。 漸 悟( 出 ) の 仏 教 は、 理 屈 か ら し て 自 力 の 仏 教 と つ な が り ま す。 「 如 来 が 動 い て くださるのは動いてくださるけど、ここまでは自分で上がってこい。そうしたら、如来の方から手を差し伸べて引 き上げてくださる」という理屈になります。他力とはいっても、いろんなレベルの他力のありさまがありますから、 次第に階段を上っていくように仏と出会うことができるというのが「出」の仏教です。   頓 悟( 超 ) の 仏 教 と は、 「 あ な た は、 そ の ま ま 悟 り に 至 る こ と が で き ま す。 な ぜ な ら、 あ な た は 煩 悩 の 塊 か も し れないけれど、如来はその煩悩の中にこそ動いてきてくださるからです」という「超」の仏教です。横さまに飛び 超 え て 悟 り に 至 る 仏 教 だ か ら、 「 横 」 と い う 字 と「 超 」 と い う 合 わ せ て、 親 鸞 聖 人 は 浄 土 真 宗 の こ と を「 横 超 」 の 仏教であると言いました。

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親鸞が開いた仏教とは何か   「 如 来 が 動 く 仏 教 な ん て、 そ ん な も の は 正 当 な 仏 教 じ ゃ な い 」 と 言 わ れ る か も し れ ま せ ん。 し か し 大 乗 仏 教 に お いて、 「如来」がいろいろ定義されますが、 『大智度論』 (龍樹著)では、 「如実の道より来たる故に如来と為す」と 言われたり、親鸞聖人の『教行信証』 「証巻」には、 「弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現 じたまふなり」とあります。最初の方で「宇宙や世界のありさまが真如だ」と言いました。この真如は、目に見え るものではありません。色も形もなく、あるがままにあってきたという、いわば論理です。それでは、私たちには 分からないのです。そこで、真如から私たちの所に来生した存在が、如より来生した「如来」として、私たちに働 い て く だ さ る の で す。 「 如 来 」 と い う 言 葉 か ら し て も、 「 他 力 」 と 言 わ な く て も、 「 如 来 が 動 く 仏 教 」 と い う 意 味 が 表れているわけです。

Ⅳ.親鸞聖人が開いた「浄土真宗」という仏教

一、 「浄土真宗」とは   では親鸞聖人が開いた「浄土真宗」とはいったい何か、どういう仏教なのかということについてお話しを進めま す。   ま ず、 「 浄 土 真 宗 」 と い う 言 葉 で す が、 親 鸞 聖 人 は、 基 本 的 に は、 「『 無 量 寿 経 』 に 説 か れ た 真 実 の 教 え 」 と い う 意 味 で 使 い ま す。 『 教 行 信 証 』「 教 巻 」 の 最 初 に は、 看 板 を 上 げ る よ う に、 「 大 無 量 寿 経、 真 実 の 教、 浄 土 真 宗 」 と 示されます。浄土真宗とは西本願寺などを本山とする仏教の一宗派であるというのは第二義です。   『 無 量 寿 経 』 に 説 か れ た 内 容 が 浄 土 真 宗 で す か ら、 ま ず『 無 量 寿 経 』 の 教 説 を 見 な け れ ば い け ま せ ん。 そ の 教 説

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の要点をあげてお話ししましょう。   (一)その一つは、 『無量寿経』は「法蔵菩薩が阿弥陀仏に成る因と果」が説かれるところが基本ということです。 『無量寿経』は、 序文と結びを除けば、 三つのことが説かれています。一つは「弥陀成仏の因果」と言われる部分で、 阿 弥 陀 仏 と い う 如 来 は ど の よ う に し て 仏 に な っ て い っ た の か と い う こ と。 二 つ 目 は、 「 衆 生 往 生 の 因 果 」 と 言 わ れ るところで、その如来は衆生をどのようにお救いになるのか、衆生はどのようにして救われていくのかということ。 そ し て 三 つ 目 は、 「 釈 尊 の 勧 戒 」 と 言 わ れ る と こ ろ で、 釈 尊 が「 あ な た た ち よ、 迷 っ て い る こ と に 気 が 付 い て く れ。 そして、この仏法を聞いてくれ」という釈尊の勧めが説かれる部分です。   このお経の根本は、菩薩が仏になっていく物語ですが、その仏を知ろうとするなら、仏になる前に何をどう考え られたかが分かると、この仏がどういう仏かが分かります。人間でもそうですね。その人がどういう願いを持って、 どういう理想を持って生きているかを聞くことによって、その人の内容が分かります。仏を見るにも、その仏がど ういう願いを持った仏なのか、その願いを実現するために何をしたのかを聞くことが基本です。つまり仏に成るも と(因)の中でも、法蔵菩薩にどういう願いがあるのかが根本になります。そうすると、結局『無量寿経』の教説 の中心は、四十八の願いの中にあるということになります。   ( 二 ) 次 に そ の 四 十 八 の 願 い の 根 本 は 第 十 八 願 で あ る と い う こ と が 要 点 に な り ま す。 な ぜ な ら、 私 た ち を 仏 に す るためにどのような願いを立てられたのかは、私たちにとって根本の問題だからです。すぐれた浄土を造り、すぐ れた仏になるという願いもありますが、私たちにとっては、私たちはどのように救われるのか、私たちはどのよう にして仏になるのか、どのようにして浄土へ生まれるのかが根本的な問題です。ですから、第十八願が最も根本に なるわけです。

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親鸞が開いた仏教とは何か   (三)次に見るべき要点は、 『無量寿経』の教説が、衆生に修行することを求めてはいないということです。すな わ ち『 無 量 寿 経 』 は、 「 法 蔵 菩 薩 は、 世 に す ぐ れ た 願 い を 建 て て、 永 い 修 行 を さ れ て 仏 に な ら れ た の だ か ら、 説 法 を聞いている皆さん、法蔵菩薩と同じように修行を始めなさい」とは説いていません。例えば、大乗菩薩の必須の 行として「六波羅蜜」の行があります。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という六波羅蜜の行を必ず実践しな ければいけません。大乗仏教徒にとって、これは必須の行なのですが、それを行ぜよとは説いていないのが『無量 寿経』なのです。   どう説いているかというと、この大乗菩薩の必須の行である六波羅蜜も、法蔵菩薩が衆生にかわって行じてくだ さったと説かれているのです。私たちが仏になる行の功徳を法蔵菩薩が成就してくれたというのです。そして、法 蔵菩薩の行とその功徳は名号(南無阿弥陀仏)となって活動しているのだから、その名号を聞信して救われてゆく のだと説くのです。   第十八願の成就文も、 また『 「無量寿経』の結びにあたる部分である「流通分」にも、 「名号を聞きて」とか、 「名 号を聞くことを得て」無上の功徳を得ることができると説かれるのです。すなわちその名号の中に菩薩が修行され た全ての功徳が完成されていると説いているわけで、これが『無量寿経』の教説なのです。 二、浄土真宗は二種の回向の仏教である   さ て 親 鸞 聖 人 の 主 著 で あ る『 教 行 信 証 』 の 本 文 の 最 初 に、 「 浄 土 真 宗 」 は 二 種 の 回 向 の 仏 教 で あ る と 言 い ま す。 二種の回向とは、往相回向と還相回向です。そして、往相の回向について真実の教・行・信・証があると述べてゆ くのが『教行信証』です。

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  こ の 往 相 と は、 「 往 生 浄 土 の 相 」 と 言 い ま し て、 私 た ち が 浄 土 に 生 ま れ て 悟 り に 至 っ て い く 相 と い う こ と で す。 また還相とは、いったん仏になった者が、今度は人々を教化するために穢土に還ってくる相、迷いの世界に還って く る 相 の こ と で、 「 還 来 穢 国 の 相 状 」 な ど と 言 い ま す。 そ し て「 往 相 す る こ と も 還 相 す る こ と も、 ど ち ら も 願 力 で あり、如来の他力による」ということを言うわけです。   そ し て『 証 巻 』 に は、 「 そ れ 真 宗 の 教 行 信 証 を 案 ず れ ば、 如 来 の 大 悲 回 向 の 利 益 な り。 ゆ ゑ に、 も し は 因、 も し は果、 一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし」結びます。 「有 らざること有ること無し」と、もってまわったような言い方をしていますが、要するに「何一つとして阿弥陀仏の 回 向 に よ ら な い も の は な い。 全 て が 阿 弥 陀 仏 の 回 向 で あ る 」 と い う こ と を 言 う わ け で す。 そ し て、 「 人 々 を 自 在 に 救うという還相ができる身になっていくのも他力の回向である」ということも述べられて行くわけです。 三、浄土真宗という仏教の要   で は、 浄 土 真 宗 と い う 仏 教 の 要 は ど う な る の か。 「 衆 生 が 動 く 仏 教 」 で は、 そ れ ぞ れ の 経 典 で 説 か れ て い る 教 え の中から、自らに合った教えを自ら信じ、よく理解し、それに従って修行を実践し、証という悟りを得ます。これ が 普 通 の 仏 教 で す。 と こ ろ が『 無 量 寿 経 』 の 教 え が 説 く「 如 来 が 動 く 仏 教 」 で は ど う か と い う と、 「 教 え 」 は『 無 量寿経 (大経) 』、「行」 は、 私たちの行ではなく法蔵菩薩が実践した行です。そして法蔵菩薩が行じた結果である 「南 無阿弥陀仏」の名号の中に、功徳の全てがあるのだから、その功徳を私たちが「信受」する、あるいは「聞信」す る、 そ れ を 聞 其 名 号 と 領 納 す る、 自 分 が そ の ま ま い た だ い て ゆ く と こ ろ に「 証 」( 悟 り ) が 成 就 し て ゆ く こ と に な るわけです。ですから、信のところ、聞信するところ、信受するところ、聞其名号するところが要になり、そこが

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親鸞が開いた仏教とは何か 因となって、私たちは仏になることができると説かれます。 「信心正因」とは、そこから言うわけです。   すなわち一般の仏教が「教─信─行─証」なのに対し、親鸞聖人の開いた仏教は「教─行─信─証」という並び になるということです。 四、浄土真宗における救済の成立   そこで浄土真宗ではどのように救いが成立するのかということを、少し踏み込んでお話ししましょう。先に「第 十八願が根本である」と言いました。すなわち「私が仏になるとき、全ての者が心より信じて、私の国に生まれた いと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれなかったなら、私も仏にはならない」という誓いが根本です。   し か し こ の 第 十 八 願 だ け で は、 私 た ち は、 い っ た い 何 を ど う し た ら い い の か が、 実 は は っ き り し ま せ ん。 「 至 心 信楽、欲生」とありますから、信じたら助かるのか、しかし「乃至十念せん」ともありますから、十回ほど念仏し たら助かるのか、第十八願だけではどうもはっきりしません。またここで「信じる」とは、いったいどういうこと なのかがはっきりしません。   そこで、 「第十八願成就文」が説かれます。これは釈尊の説教です。 「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓 喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せ ん。 」と説かれます。ここで少しはっきりします。私たちが何をどうしたらいいかというと、 「その名号を聞いて信 じ、 喜 ぶ 者 は 救 わ れ る 」 と あ る わ け で す か ら、 「 名 号 を 聞 く 」 こ と、 聞 信 す る こ と で 私 た ち の 救 い が 成 り 立 つ と い うことになります。   では、その「聞く」とは、何をどう聞くのか。名号を「聞く」とは、どういうことなのか。これについては今度

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は親鸞聖人の出番です。 『信巻』に、 第十八願成就文の「聞其名号」とあるのについて、 「しかるに『経』 (大経 ・ 下) に『聞』といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と言われます。聞い た と こ ろ で 救 い が 成 立 す る と 言 わ れ る が、 そ の、 「 聞 く 」 と い う 中 身 は 何 か と い う と、 仏 願 の 生 起 と 本 末、 仏 の 願 い の 生 ま れ 起 こ っ た 理 由 を 聞 く こ と と と、 そ の「 本 末 」、 こ れ を「 始 終 」 と 言 い 換 え て も い い で す が、 願 い の 始 め から終わりまで、すなわち本と末を聞くこととが「聞」の中身だということです。   仏願の「生起」を聞くとは、なぜ願いが生まれ起こったのかを聞くこと、すなわち「私」が煩悩を抱えて迷いの 中にいたから、 如来の願いは起こされたたということを聞くことです。私の側から言うと、 「私」とは何ぞや、 「私」 とはどれほどの者なのかと、 「私」について聞かせてもらうということです。   また「本末」を聞くとは、 願いの始めから終わりまで、 「本末」とは言いかえれば根本と枝葉末節を言いますから、 仏の願いは、本はどのように始まり、末は私にどのように届いているのか、仏の救いについて聞くことになるとい うのが、その中身です。 五、浄土真宗(仏願の生起本末)を聞く意味   浄土真宗は、仏願の生起本末を聞く仏教ですが、その意味はどこにあるのかということをもう少しお話しします。 仏願の生起を聞くとは、 「私」とは何かを聞くことです。ここに「十方衆生よ」と言われますが、 「十方衆生」とい う衆生は一人もいない。みんな名前が違い、育った環境が違い、考えていることが違い、感じていることが違うな ど、それぞれが「私」として生きているのです。私たちは「私」として生きています。抽象的な人間としては生き て は い ま せ ん。 「 人 間 」 と い う 人 間 は 一 人 も 居 ま せ ん。 私 た ち は「 私 」 と し て、 誰 も 入 っ て こ ら れ な い「 私 」 と い

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親鸞が開いた仏教とは何か うカプセルの中で、たった一人で生きているのです。   しかし同時に「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心に満ちたまへるなり」と言わ れ ま す の で、 如 来 は こ の「 私 」 に 満 ち 入 り、 如 来 は 私 た ち に 来 て い て く だ さ る と い う こ と で す。 「 私 」 は そ の よ う に如来に見られているわけです。   と こ ろ が、 「 自 分 の こ と は 自 分 が 一 番 よ く 知 っ て い る 」 と 考 え る 人 が あ る か も 知 れ ま せ ん。 け れ ど も そ れ は 間 違 いです。私たちは、自分のことが分かっていませんし、見えていません。例えば、自分の姿を見るだけでも背中半 分は見えません。そもそも自分の顔でさえ、生まれてから死ぬまで、この目で実像を見ることはありません。自分 の顔なのに、鏡という物理的には虚像でしか見えない道具を使わなければ見えません。他人の顔は実像でよく見え るのに、自分の顔は、鏡などというような外なる道具を用いなければ見ることができないのです。   あるいは私たちは「反省する」と言います。反省というのは、自分が自分を反省しているわけですから、そこに 見ている「私」と、見られている「私」がなければ、反省はできません。しかし見られている「私」の方は、反省 されたと言えるのかもしれませんが、見ている「私」は誰が反省するのでしょうか。見ている自分は、誰からも反 省されることなく、それを放って許しています。   おわかりのように、実は外から見てもらわなければ「私」の全体は見えません。他なる存在から見てもらわなけ れ ば「 私 」 の 全 体 は 見 え な い の で す。 「 私 」 の 今 の こ の 姿 が 見 え な け れ ば、 ど ち ら を 向 い て 往 け ば い い の か 分 か ら なくなるのです。   少し大きなデパートなどへ行くと、エスカレーターで上がった所あたりに売り場の地図が示してあります。例え ば文房具を買いたいと思って、それを見ますが、たまに現在位置の印が示していない地図があって困ることがあり

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ます。私が今どこにいるのかが分からないから、どちらを向いてどう行ったらいいのか分からなくなりますね。   そのように、 「私」とは何ぞやとか、 「私」は今どこにいて、どちらに行けばいいのかを聞かなければなりません。 これが仏法を聞く大きな意味の一つです。そうして 「私とは何ぞや」 ということを聞くことが、 「仏願の生起を聞く」 ということの中身に含まれていると考えるといいと思います。 「私」を知らせてもらえば、 「私」がどちらへ行くべ きかが分かるのです。   そして、仏願の本末を聞くとは、 「仏」とは何か、 「私」の救いとは何かを聞くことです。仏は、この「私」をど の よ う に お 救 い に な る の か を 聞 く の で す。 「 こ こ ま で こ い。 そ う し た ら 助 け て や る。 こ こ か ら 救 い の 手 を さ し の べ るから、これにつかまれ」という救い方ではありませんでした。私たちを見るや否や降りてきて、私たちを抱えて 救い上げるという救い方です。   仏は、私たちが、 「助けてくれ」と言えば助けるというのではありません。 「助けてくれ」と言う力も無いと見た 仏が私に降りてきて、抱いてかかえて救い上げてくださるのです。それが私たちの仏の有りさまだと聞かせていた だくのです。 六、 「浄土真宗」という仏教とは   浄土真宗という仏教は、この「私」に名号として動き働いている如来を信受したこの「私」が、仏陀に成長して いく仏教であると言えるのです。   仏法を聞かせてもらいましたら、 この私は一人であると示されます。私も時々考えるようになりました。 「自分は、 何も持たずに真っ裸で、一人で生まれてきた。そして、いろんなものを着せてもらい、脱がせてもらって来た。そ

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親鸞が開いた仏教とは何か して終わる時も、たった一人で何も持たずに行くのであろう。生きている間、立派なことをしてもしなくても、人 が褒めても褒めなくても、そんなことは全く無関係、たった一人で往かねばならん。誰も一緒に死んではくれない のだ」と、時々シミュレーションをします。   し か し、 如 来 は、 「 あ な た が 生 ま れ る 前 も、 生 き て い る 今 も、 死 ん だ 後 も、 あ な た の 所 に い る の で す よ。 あ な た は一人ではありませんよ」と、私たちに届いています。   ど う ぞ、 こ の 如 来 を 受 け と っ て お い て く だ さ い。 い ち い ち 他 人 に 話 さ な く て も 結 構 で す か ら、 「 私 の 如 来 さ ま は、 こうやって私に届いていてくださるのだ」といただいて、今日も明日も洋々と生きていらっしゃれば、それでいい のです。それが親鸞聖人が開かれた仏教です。今日のお話はここまでにします。     〈キーワード〉       親鸞   仏教の特色   浄土真宗

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