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東南アジアの仏教調査報告 : タイ・ラオス・マレーシア [Observations on the Buddhism of Thailand, Laos and Malaysia]

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東南 ア ジア の仏 教 調 査 報 告

- タ イ・ラ オ ス ・マ L

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-シ

アー

藤 吉 慈 海 1 は し が き 昭和

4

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日か ら昭和

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23

日までの

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2

日 間, タイ ・ラオ ス ・マ レー シア ・台湾 の各地 を巡 り, その仏教事情 を調査す ることがで きた。 タイでは主 と して院想法 の調査 を したが, トンブ リにあ るワ ッ ト ・ バ クナム

(

WatPaknam)

の特 殊 な塀 想法が注 目さ れた。 ラオ スとマ レー シアは今回が最初 の調査 で,十 分 に調査す ることはで きなか ったが, いろいろ問題 の 多い と ころで, さらに調査 を推 進す る必要が あ る。 と くにマ レー シアは回教国 と見 られて い るが,華 僑 は も ちろん仏教 を主 として い るし, タイや セ イロン等か ら 来 てい る伝道僧の中 には,本国 の僧 侶たちに見 られ な い 自由 さが あ って,上座部仏教 の変貌 の実態 を見 るこ とがで きた。 その点か らもセ イロン ・ビ ルマ ・タイを 中心 とす る上座部仏教 とその周辺 にある ラオ ス ・カン ボ ジア と くに 回 教 国 た る マ レー シアの仏教 との間 に は,か な りの開 きがで きつつ あるよ うに思 われ る。速 断す ることはで きないが,そのよ うな相違 のよ って来 た るところを追及 してみ ることによ って,東南 アジア におけ る仏教 と社会 との相互関係が次第 に明 らか にな ると思 われ る。

2

ワ ッ ト ・バ クナムの隈憩法 この寺 に伝 わ る隈想法 は,必ず しも タイ国 に一般 的 な釈想法 とは言 えないが,以下述べ るよ うな意味で注 目に値す るもので あ る。 この特殊 な限想法 は,今 もな おその遺骸 が枢 に入 ったまま, こ の 寺 の 一 室 に安置 されてい る チ ャオ ・ク ン ・モ ン コ ン ・テ ープムニー

ChaoKhun Phr

aMongkoIThepmuni(

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によ っては じめ られた もので あ る。彼 は メナム ・デ ル タ地帯 の農村 に生 まれ家事 の手 つだ いを していたが, 9才 の時,比丘 にな って い る伯父 につれ られて寺 々を

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7

6

め ぐりタイ語 とク メール語 の勉強を した

。1

4

才 の とき 父 の死 にあい,家事 の責任 を背 負わ され米作 に従事 し たが

,

2

2

才 の とき出家 して比丘 とな り,本格的 に修行 を は じめた。彼 は と くに隈想 の実践 に関心 を もち,パ - I) 語 の勉強 によ って学位 を得 るよ りも,限想 によ って宗 教 的体験 を得 たい と思 った。 い くつかの

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を巡 って

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を実 習 した が,第

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番 目に訪 れた

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で瞬想 中 に卵

2

個大 の輝 か し く透 明な円形 を身体 の中心 に見 る ことがで きた。 この ことは彼 の師匠 の隈想法 が成果 を あげた ことを示 していた。 その師匠は彼 の得 た ものを ため し,彼 を選 んで指導者 と しよ うとしたが,彼 はた だ これを知 っただ けで教 え る資格 はない と思 い,パ ー リ語 の課業 も放棄 して遊行僧 と して旅 に出た。托鉢 の 苦 しさを体験 し, またパ ー リ語 の勉強 もして, その余 暇 に

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の修行 を した。比丘 にな って既 に

1

2

年 たち,経典 の翻訳 に も上達 したので,パ ー リ語 の勉 強 を中止 して, もっぱ ら隈想 に耽 るよ うにな った。 そ して比丘 や信者 の人 たちの阪想 の指導 をす るよ うにな り,幾人 か の人 々を智慧 の段 階 にまで到達 せ しめた。 その後,彼 は招 かれて ワ ッ ト ・バ クナムの後継者 とな ったが, この寺 はアユ タヤ時代 に建て られた古 いお寺 で,止住 の僧 もす くな く,酔 ば らいが寺 の境 内で酒 を 飲 み,ふ しだ らな ことを し,比丘 た ちは秘密会議 をす る程 まで に堕落 していた。彼 は それ らをたて なおす た めに努力 した

。1

9

39

年 まで に長 さ

6

0m

,幅

1

1m

3

階建 のパ ー リ研 究所 を境 内に建て,

1

,

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0

人以上 の比 丘 や沙弥 た ちが ここに出入 りした。彼 は信者 たちに病 気 の治療 をたのまれ ると,ただ手紙 で月 日と名前 と生 年月 日と病名を書 いて よ こさせ, それを見 て心 によ る 遠 隔 治 療 をや った。彼 は

1

9

5

5

年 に

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aMongkoI

Raj

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とい う宗教上 の階 級 を与 え られ, その後,

さらに

Chao Khun MongkoIThepmuni

と続 いて お くられた。 その教 えが ひろま るにつれ,比丘や尼 た ちは又 その教 えを諸 州 にひろめた。 そ して, この方法 を実践 した数十万人 の中,数千人 が智慧 のダ ンマ カ-ヤの段 階 にまで遷 した。 彼 の阪想法 の特色 は,他 に一般 的 なサテ ィパ ック-ナ

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と異 な り,先 ず 第 一 に 身体 のほぼ中 心 に円形 の透 明な領域 を 限 想 中 に 見 させ ることにあ - 17

(2)

8-藤吉 :東 南 ア ジアの仏 教 調香 報や,- -写真 1 ワ ッ ト ・バ クナムの限想法 を確 l:(_し た チ ャオ ・ク ン ・モ ンコン ・テ---プ ム二_ -うなrl]形を 見 させ るとい うのは極 めて稀 で あ る。 そ し て その円形 の中心 に坐禅 して い る男 子の姿 を見 るよ う にな り, それが次第 に リファイ ンされて天 郡の姿にな り, さらに限想が 深 ま ると

順次J

L,-パ ・ブ ラフマ ・カ ーヤ ・ヒ- チ, JL,- パ ・ブ ラ フ て ・カ - 17・パ ニー タ, ア ル-パ ・ブ ラフて ・力-ヤ ・ヒ- ナ, アルーバ ・ブ ラフ17・カ-ヤ ・パ ニー ク, ダ ンて カーヤ ・ゴー トラブ 7- ・ヒ-ナ, ダ ンて 力-ヤ ・ゴー トラブ フ一 ・パ ニー タ, ダ ン マ カ ー ヤ ・ソ - ターバ ンナ ・ヒ-ナ, ダ ン一二7カー ヤ ・ソー ターバ ンナ ・パ ニー ク, ダ ン て 力- ヤ ・サ カグーガ- ミン ・ヒ- ナ, ダ ンて カ- ヤ ・サ カグーガ- ミン ・パ ニー タ, ダ ンて カーヤ ・アナ ーガー ミン ・ヒー ナ, ダ ンて 力-ヤ ・ア ナ-ガー ミン ・パ ニ- タ, ダ ン17カー ヤ ・ア ラ- ッタ ・ヒ- ナ, ダ ンマ カー ヤ ・ア ラハ ッタ ・パ ニー タが見 え るよ うにな るO か くて 「法 を見 る ものは如来 を見 るJ とい う仏 陀 の言 葉 の意味 を よ く理解 す るよ うにな る。 もちろん この境地 に到達 す るのは容 易では ないが , とにか く際想 によ る内的体験 を このよ うな段 階 に区別 とはユ ニー クと言 うべ きで あ る。実 際 に実 習 して い る 僧尼 に き くと,皆 そ の よ う な 佃 険を も -,て い るよ う

- 1

7

9

で,必ず しも暗示 にかか って, その よ うに思 い こんで い る者 ばか りで もないO その よ うな択想 中の体験 の も つ価値 ば,特 に高 く評価すべ きもので はな く,む しろ その 人の R常 生活 の あ り方 が よ り重 要で あ る〔 しか し 限想 法 として この よ うな段 階が規定 されて い る こと, また常 に 外 側 に 向 く心 を 内な る一点 に保 つため に, 「サ ンマ一 ・ア ラ- ン」 と持続 的 に音 をたてず , くり か えす ことをすす めて い る こと等 は限想法 と してiF_冒 すべ きことで あ る。 3 戒 律 の 問 題 古 くか ら伝 再'(されて来 た仏教教 団 の戒律が,現 在 ど の程 度 に保持 されてい るか は興 味 あ る問,paで あ るが, 全般 的 にい って マ- - ・ニ カー イの方 が ダ ンマユ ッr ・ニ カー イに比 して ルーズで あ る0 時代 の進歩 と共 に 占 い戒律 が次第 に崩 れ て くることは 自然 であ るが, 敬 団 の権威 は これを黙 認 しては いない。 つねに粛 TEがRlし ばれて い るが実際問題 と して,或 る程 度 ル-ズにな り つつ あ る ことは否定 で きないO しか し近年一寺院 の新築 や修築 が 目だ ち,人 口の

9

3

.

5

4%

を 占 め る仏 教徒 によ って支持 され て い る僧侶た ちは そ うたやす く戒律をみ だす ことはで きない 。 したが って想像 以上 に僧 侶 の戒 律 はよ く保持 されてい るといえ るで あろ う。樽に タ イ の よ うに,教 団- の出入 が比較 的容易 な と ころで は, 戒 律が保持 で きない者 は 自由 に還 俗 して しま うので, 教団 の戒律 は比較 的 よ く保持 されてい ると言 え るで あ ろ う。 4 寺 院 の 増 加 仏歴

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(

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)

11月 よ り仏歴

2

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0

8

(

1

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6

5

) 3

月 まで タ イ国 において私 が実施 した仏教研 究 の中間報 告 に対 し, タ イ国政府 宗教 局長 陸軍大佐 ピ ン ・ム トゥ カ ン氏 よ り宗教局 の見解 を示 されたので,重要 と思 わ れ る点 を摘記 して お きたい と思 うOす なわ ち宗教局が 仏歴

2

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1

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)

のは じめに調査 した と ころ によ る と,調査 表 を送 った

9

,

6

0

5

の寺院 につ いての新築 , 倭 築 関係 の支 出内訳 は表 1の とお りで あ る。 これ は第

2

次大戦 後,仏教 関係建造物 の新築,修築 が ひ じょうに多 い ことを示 す。 宗教局 の意 見 として は これ は タイの人 口増加 と照 応す る もので あ って,人「1 の

9

3

.

5

4

0/Oを 占め る 仏教徒 の信 仰 に こた え るため

L

i 建 設 の必 要が隼 じたか らで あ ると してい る0 577

(3)

東 南 ア ジ ア 研 究 建 物 の 種 類

㌔ ah

l

悔 ah

合 計

l3

8

9,471,716 114,266,985

5

ラオスの仏教事情 1965年12月12日バ ンコ ックか らタイ航 空 の双発機 で 飛行 時間

1

時間20分 , ラオ スの首都 ヴ ィエ ンチ ャンに 到着 し,S

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に泊 る。 ラオ スの総人 口200 第4巻 第3号 万, その うちヴ ィエ ンチ ャンの人 口

1

1万 と言 われてい るが,填 ぼ くて夜 は薄 暗 い町で あ る。翌朝,和 田大使 を訪 ね宗教局長 クルオ ン ・パ ト- ンマー トを紹介 して 頂 き, さっそ く宗教局 を訪 ねた。宗教局長 は1965年1 月10日, 日本大使館 の要請 によ って作製 した 「1964年 度寺院僧 侶修行僧 および町村 団 リス ト」 を示 して くれ た。 それは表

2

の とお りで ある。 宗教局長 の談話 によ ると,国民 の95%は仏教徒 で, 憲法 に も仏教 を国教 と して定 めて い るが,僧 侶の政治 介入 は禁止 して い る。 しか し1960年

8

月 の クーデ ター の際,政治的 に動 いた僧侶が4,5名はいた。 この国 では タイ国 と同様 テ- ラバ ーダ仏教が主流 をな して い るので,南 ベ トナムで見 られ るよ うな僧侶の指拝 す る 反 政府 デモのよ うな ものはない。 しか し僧侶の間で政 談が ひそか に ささやかれてい ることは事実で ある。仏 蓑 2 1964年度寺院僧侶見 習僧 および町村 団 リス ト (1965.1.10.現在) 州 名 匝 画 村

田壬

寺 ヴ ィエ ンチ ャン ポ リ カ ン ルア ンプ ラバ ン サ ヤ ブ リ ー ル ア ン ナ ム タ カ ム ア ン サ グ ァナケ ッ ト セ ド ン チ ャムパサ ック ア ト プ

-サ ラ ノヾ ン ワピー カム トン シ タ ン ド ン 院 い曽 侶 L見 習僧 1 計 l 備 考 リス ト中12村 田の通牒 な し 1町団 よ り送付 な し 2町団 よ り送付 な し 3村 団および1町団よ り送付 な し 12村 団 よ り通牒 な し

7

村 団 よ り通牒 な し 1村 団 よ り通牒 な し 1964年度 の僧 侶見 習僧 リス ト送付 せず 計

l

57 1 220 i(l

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5

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2

t 5・4871 7・358 日 2・845 *寺院数中 ( ) 内はベ トナム寺院数 を示す。 これ は筆者が ヴ ィエ ンチ ャンのベ トナム寺で聴取 した もの を付記 した もので あ る。 578 - 180

(4)

-藤 吉 :東南 アジアの仏教 調査報 告

教徒 の最 高指導 者 は S

omdetPhr

aSanghar

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と尊 称 され るボ ン ・タン大 長老 で,現 在 ルア ン ・プ ラバ ン にい る。 そ して その下 に宗教会議 が あ り, その メンバ ーは

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5

人 の 高 僧 た ちで あ る。各 州 には

CbaoKhanaKhoueng

と 称 す る州知 事相 当の高僧が いて, そ の 州 の 仏 教 徒 を統率 して い る。その うち宗教会議 の メンバ ーは皆,主 要 州の

Chao

Khal

naKhoueng

を兼 ねて い る。宗教局長 は

1

0

年来 現職 にあ る人 で 日本 - も来 た ことが あ るが, その談話 によ ると,北 部国境 には テー ラバ ー ダの比 丘で 阿片 や 酒 をのむ者 もい るが, それ らの比 丘は尊敬 されて いな い。 よい家 庭 の子弟 は1- 3カ月間 僧院 に入 る習慣 が あ るが, これを いやが る子供 もい る。 もちろん本人 の 自由意志 にまかせ て い るが,父母 は一般 に僧院 に入 っ て修養 す る ことを望 んで い るそ うで あ る。 教 団 は マ- 一 ・二 カー イと タ ンマユ ッ ト ・ニ カー イ に分 かれて い るが, ヴ ィェ ンチ ャンで は その 寺院数 の 比 は50対 2位 で,大 部分 は マ- - ・二 カー イに属 して い る。南 部 では タイとの交 渉 が多 いか ら,タ ンマユ ッ ト ニ カー イの 寺 もい くらか あ るよ うで あ る。 しか し政府 は これを 2つの教 団 に分 けず , な るべ く平 等 に取 扱 っ て い る。 ラオ スで もタ ンマユ ッ ト ・ニ カー イの方 が 寺 院 もよ り清浄 で よ く調 って い る。 サ ンガ ラー ジヤは マ ハ 一 ・二 カー イに属 して い るが, タ ンマユ ッ ト ・二 カ ー イも同様 に支 配 して い る。 これ に対 し宗教局 は塔 や 寺院 の建造物 の管理 や その位 置決定権 を もって い る。 宗 教局 長 のすす め もあ って, ヴ ィェ ンチ ャンにあ る ベ トナム寺 を訪ね る。 ベ トナ ム語 で

CHUA

BANG-LONG

と言 って い るが,漢 字 で は臆 龍寺 と書 く。 な か なか りっぱ なお寺で,比丘 4人 ,沙弥 8人 , この外 に 1人 の比丘 が い ま フ ランスに留学 し, 1人 はサ イゴ ンに旅行 して い るそ うで あ る。信 者 の優姿憲 と優姿夷 は各 々数 千人 もいて,五 戒 ・八 戒 を 保 っ て い るとい う。布 薩 の 日には と くによ く戒 を保 ち,寺 に詣 る者 も多 い。沙弥 た ちはつね に十 戒 を保 って い るが, ここは中 国系大 乗仏教 の寺だか ら,素食 す なわ ち精進 料理 をた べ るのが特 色 で あ る。仏殿 には釈迦 牟尼仏,観音 ,地 蔵 菩 薩等 の像 を まつ り,朝 に は 梼 厳 呪 や大悲呪等 を話 し, 夕べ には阿弥陀経 等 を読 み称 名念仏す るそ うで あ るo F]曜 日には信者 が集 ま るが念仏 のみで,坐禅 は し ないそ うで あ る。南 ベ トナムの大 乗仏教 の僧 は政治 に 関与 して い るが ど う恩 うか とたず ね ると,やむを得 ぬ 面 もあ るが,原 則的 に言 って よ くない ことだ と言 う。 昨年私 が 調査 したサ イゴ ンの 覚 明 寺 や 釈 清検 ,釈 智 光,釈心 覚等 の消息 もよ く知 って い る。常 にサ イゴ ン とは連 絡 が とれて い るよ うで あ る。大 部分 の信者 は念 仏 を称 え るとい うので,極 楽世界 の信 仰 は現代 におい て もなお強 く支 持 さ れ て い るか と問 うと, 「虚 空無 量,世界無 窮,必有-世界 名馬極楽」 と書 いた。 そ し て 「此是 理 智理 論之信 仰,非迷之信 仰也」 と書 いて 見 せ た。 いろいろ現代 におけ る浄土教 の問題 は あ るが , それ以上 論議 す る ことは さしひか えた。 ワ ッ ト ・オ ン ・ツ

ウ (

WatOng Tu)

は 中 央 寺院 と も呼 ばれ るマ-一 ・二 カー イに属す る美 しい寺 で,

4

9

0

年以前 の開基 とい う。現 在比丘

3

2

,沙弥

1

8

,寺 男 35,尼15もい る大寺 で あ る。境 内にパ ー リ語学校 もあ り,比丘 や沙弥が250人 も学 んで い る

。 4

ク ラスに分 かれ3月 に1回 試験 をや って い る。 日曜学校 もひ らい て在俗者 のた めに仏 教 を教 えて い る。 また夕方学校 を ひ らいて,沙弥 や青少 年た ちの学 習を奨励 して い る。 布 薩 は月2回行 ない,托 鉢 は毎 朝6時 に出て い る。坐 禅 も起床 後

4

時か ら

5

時 まで と就 床前 に

1

0

時か ら

1

2

時 まで の問 にや るとい う。坐法 は半助口で, 1時間や って

5

分 休 む そ うで あ る。 水想観 や光 を憶念 す る光想観 と で もい うものをや るとの ことで あ る。 これ はプ ラ ・マ - ・サ ム ・ラネ

(

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aMahaSam Ra°e)

とい う沙 弥9年 ,比丘25年 にな る44才 の長老 の話 で あ る。34

間 も僧院生活を続 けて い るので,終 生僧院 に止 ま るか とたず ね ると, それ はわか らない とい う。終生 僧院 に 止 ま る人 は

1

00

0

人 の うち

1

人位 か も知れ ない とい う。 私 自身は終生 僧院 に止 ま って修行 したいが, どん な こ とが お こるかわか らないか ら断言 はで きない とい う。 境 内に井戸 が あ り,男達 が これを汲 み権 に入 れて市 内 へ配達 して い る。 これ は 寺の収入 にな るそ うで あ る。 市 の中心 か ら東南 へ3粁 の地点 にチ ャワ ・ワ ッ ト ・ ソーバ ロ ン

(

Chawa Wat

S

opal

ong)

とか ワ ッ ト ・ パ ル ワ ン

(

WatPal

uang)

と 呼 ば れ る大 寺が あ る。 そ こにアチ ャン ・パ ン

(

Ac

hangPan)

とい う阪恩 を 指導 す る長老 が住 んで い る。 イン ド- も

2

回行 った こ との あ る 比 丘 で, バ ンコ ックの ワ ッ ト ・ラク ・カ ン

(

WatRagGhang)

で勉強 しサ テ ィバ ッター ナ

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をや った人で あ る。 さ い わ いに英語 の よ く 1-- 181 579

(5)

東 南 ア ジ ア 研 究 で きる通訳 が いたので,

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の 方 法 や その内 容 について 話 し合 っ た。 相 当 の 人 と は 思 え るが,

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によ って得 られ る叡 智 的 な ものは感ぜ ら れ なか った。 ともあれ, ここは比丘

4

0

人,沙 弥

3

6

人, 寺男

1

3

人,尼

20

人,女性信者71人 もい る大寺 で ある。 そのはか境 内に

Or

phans

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hool

が あ り

7

0

人 の孤児が 政府 の支持 の もとに養育 されて い る。仏教新 聞の出版 等 もや り,供想者 のための小舎 もた くさんあ るか ら, 将来 ここはひ とつの仏教 セ ンターになるであろ う。 ワ ッ ト ・チ ャンタブ リ

(

WatChanTabur

y)

は比 丘

1

7

人 ,沙弥

1

3

人,寺 男

4

人 が住 む中位 の寺 で,毎 日修 養 のため托鉢 にlTtiて い る。 しか し食物 はたいて い信者 が朝

7

時 と

1

1時 にお寺へ もって きて くれ る。 ラオ スは 大体みなそ うで あ るとい う。毎 日,8

-1

5

家族が きま って食事 を もって くる寺 には カンマ カー ン ・- クサ ン ガ ン ・ワ ッ ト

(

Kammakan Haks

anghan Wat

)

と い う寺院保護委員会が あ って,経済的な方面 の管理を して い る。 この寺 のプ ラジ ッ ト・プ ララカ ン

(

Pr

adi

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Pr

ar

akhan)

4

6

才で

,1

3

才 のとき沙弥 にな り僧院生 活 を続 けて い る感 じのいい人 であ る。ラオ スでは

,1

0才 か ら

1

7

才 までの少年 は両親 の意志 で 出家 さす ことがで きるが

,1

8

才以上 にな ると村長 の証 明を必要 とす る。 つ ま り軍 隊 に入 るべ き人 として マー クされていれば, 村長 は沙弥 にな る証 明書 を与 えないそ うで あ る。 もし 少 年 が出家 したい と欲す るな ら,お寺 の住職 に相談す れば,一 銭 も持 た な くて も出家 で きる筈 で あるとい うO しか し一般 の習慣 と してはか な りの費用をつか っ て い るそ うで ある。軍隊 と僧侶の関係 をたず ね ると, タイ国で もパ ー リ語の試験 の うち第三 階級 の試験 に合 格 した人 は軍 隊に入 る必要はないが, その試験 に合格 しない と軍務 に服す る義務が あるそ うであ る。 この寺 では沙弥 た ちのために夜学をや って い る。在俗 の青年 た ち も集 ま って議 論に参加 して いたが, この比丘 のよ うな指導者 を もつ青 年 た ち は さ いわいで あると思 っ た 。 バ ンコック発行 の 「京華 晩報」が ここで も読 まれて い る。仏暦

2

50

8

(

1

9

6

5〕 2

1

3

日,農暦 己巳年

1

1月

21

日の新聞に西貢の院高基 とか羅馬教皇保羅六世等 の 記事が出て い る。 ビエ ンチ ャン発行 の華僑新 聞 には仏 学講座 として 「現代 青年的道徳修養」 と題 し釈珠文 と い う人 の講義が掲載 されて い る。 「我不入地獄 ,誰入 地獄的正義感,像仏菩薩-一様,但願衆/生得離苦 ,不馬 580 第4巻 第3号 写真 2 タ- ト ・ルア ン 代表的 な ラオス仏教建築 一 己求 安楽」等 の文字が 目につ く。通訳 の南 ベ トナム 青年短文作君の話 によ ると, 当地 の華僑 の間 には数年 前 日本 の辻 政 信 元 参 謀 が僧服 で あ らわれ,奥地 に入 り,現在 はパ テ トラオの軍 隊を指揮 して いるとい う噂 が あ る と い う。 この青年 も南 ベ トナムへ帰 れば軍 隊 に入れ られ るか ら, サ イゴ ン- は帰れ ない と語 って い た。 仏教 寺院 として最 も代 表的 な タ- ト・ルア ン

(

That

Luang)

は広大 な敷地 に,金色 の尖塔 が黒色 の塔 の上 にそびえ, ラオス仏教建築 の特色 を示 して いる

。1

1月 の祭典 には全国か ら比丘 た ちが集 ま り, この寺 の周 囲 の僧院 に宿 泊 し, いろいろの行事 を行 な う由。塔 に向 か って左手 に大 きなサー ラが ある。仏像 を一体安 置す るのみで あ るが, ここではお祭 の ときは説法をす るそ うで ある

01

1月 の お 祭 と い うのは カチナ会だ けでな く, いろいろの要素が含 まれて いるよ うで ある。王様 もや って来 て比丘 たちに供養 をす るそ うで あるか ら, 大変 なにぎわ い と な る 由。 この塔 は 「金 の塔」 と も 「王国 の塔」 ともいい

,1

5

6

6

年 セ ッタ ・テ ラス王 の建 立 した もの。塔 の尖端 は周囲の村 を照 らす 巨大 な ロー ソクに擬せ られ, 内部 には シ ャカの毛髪 や宝物 が蔵せ られて いた と伝 え られて いる。度 々盗 賊 に見舞 われ た が奇蹟 的に被害 をまぬがれた。 しか し

1

8

87

年 中国の長 髪賊 の叛徒が本国を追 われ ラオ スで跳梁す ることにな り, この暴徒 によ って破壊略奪 され, そのまま50年近 く放任 されて いた

。1

9

3

0

年極東 フ ランス学院 の力 によ って2カ年後,昔 の姿を再現す ることがで きた。工事 監督 は

Fomber

t

aux

で ある。 ここは ラオ ス国民の第 一一の巡礼地で,毎 年

1

1月に行 なわれ る祭典 には全 国 の - 182

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--藤害 :鋸南 アジアの仏教 調査報 告- -比丘 た ちの外 ,一般人 も15,6万人 も集 ま るそ うであ る。 この塔 の前庭 には中興 の英主 セ ッタ ・テ ラス王 の 青銅像 が建 って い る。 なお メコン河畔 にあ る7-/卜 ・シ-サ ケ- ト

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人 いる寺で, 托鉢 や坐禅 は随意や って いる由。 200年以前か らある 寺で,千仏洞 のよ うに古 い仏像 をは じめ,壁轟 にた く さん の 仏 像 が 安 置 されてい る。 シーマには壁 画があ り,仏伝 や ジ ャー タカのよ うで ある。 シーマの内部 も 千

洞のよ うにな って いて, ここで説教 もすれば食事 もす るそ うで,数個の軍人 の骨箱が保管 されて いた。 門 の偶 に十 二又 と思 われ る図を掘 った右が あ るが,負 や牛やガ ルダや龍が画かれて い るか ら,普通 の十二支 とは異 な るよ うで ある。 その右 の下部 に くぼみが ある ので,小 僧に き くと,薬 を ここで擦 って こんなに くぼ んだ と笑 っていた。薬 にす る右 や樹木 を ここです りつ ぶす ので ある。 そ して それを水 に溶か して飲 ませ るわ けだが,歯 の痛 みや腹痛 の薬 になるそ うで あ る。小作(.I が そのよ うな薬 をつ くって信者 に 与えて い る光 景は他 の寺で も見かけた。 このほ か 有 名 な 寺 院 と して は ワ ッ ト・プ ラケオ

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があ るが, ここは現 在 拝 観 を許 して いない。 ここは国王 の守本 尊 とで もい うべ きエ メラル ド仏像 を奉安す るためセ ッタ ・テ ラス王 の勧進 によ っ て1560年か ら3年かか って 創 建 され た が兵火 にかか り, エ メラル ド仏像 は1779年 カンボ ジア ・シ ャム聯 合 軍 の進攻 にあい, シ ャム軍 が タイに持 ち去 って しまっ た。 これが現在バ ンコックの ワ ッ ト・プ ラケオに 足ら れて い るエ メラル ド仏像 であ る。特 に

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牛の戦 で こ とごと く略奪 され, ヴ ィエ ンチ ャン王朝 の滅亡 と共 に 廃虻 とな った

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年バ ンコ ック条約で フランスの保 護国 とな ってか ら再建 され,現在 の ものはブ-ナ 首相 によ り修復 され たが, いまは博物館 にな ってい る。 このほか注 目すべ き寺院は 目下再建 中の ビヤ ・ワ ッ ト

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で あ る。 メナム河 畔 にあ る古い寺 で あ るが, いまの ところ 僧

の 嬰 も見 か け られ なか った。 その外,黒 い 塔 と い わ れて い るクー ト ・ダム

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(別 名 タ- ト ・7- ム)が ある。実際 に 黒 い石塔 で1570年 の建立 とい うが た しか な ことはわか らないo メナム河 の氾濫を防 ぐため,堤 防強化 の人柱 とな った5人 の娘 の霊 に感謝す るために建てた もの と もい う。 あ るいは また, ワッ ト ・パ ーーカム ド一一ングの 跡 で あ るとか, さる名僧 の墓 と もい うが,何 の銘記 も 見 あた らない。 もちろん現在 ある ものは再建修復 した もので あ る。 ラオ71の仏教 は,大体 タイの仏教 と大 同小異 で, そ の民衆- の浸透ぶ りも極 めて よ く似てい る。人 の面前 では動物 の迫害殺生 は しない し,一般 に寛大 で人 なつ っこ く, もて な し好 き で 礼 儀 も正 しい といわれて い るO相互 の挨拶 も合掌 で,国の行事 も王室 の儀式 も民 され,社 会的地位 も王族 に次 ぐもの として,人 々に信 頼 されて い る〔 6 マ レーシアの仏教事情 マ レー シアの仏教 とい って も,実際 に見 たのはペ ナ ン (積城 )とクア ラル ンプールだけであ るが, この2 つの都市 の仏 教的活動 には興 味を覚 えた。先ず ペナ ン の仏教であ るが, ここは離 島であるか らマ レー シアと い うよ りも風土的にはセ イロンを思 わせ る。 ただ異 な るのは, セ イロンにない中国的色彩 である。 したが っ て ここの仏教 は早 くか らこの島に住 みついた華 僑 の信 奉す る中国仏教 と, タイ風 のテー ラバ ーダ仏教 とが雑 居 して い る。華僑 の仏教で あ るか らそのなか には道教 的 要素 も含 まれてい る。最 も注 目す べ き は

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で ある。横城仏学院 と も称 し て い るが, なか なか広大 な敷地 と建物 を もって い る。 その活動 を示す 1例 は この寺 の応接室 にかかげ られ た 掲示 によ って知 られ る。す なわち次 のよ うで あ る。 横 城 悌 学 院 本院毎逢星 期二 四六 日晩八時起,念悌詞経 ,以矧 匡 課,又 星期六 晩八時牛起,演講悌撃---/J\時,歓迎各界 士女参観 聴講是荷。 毎年逢 正月初一 日,禰勤菩薩聖誕 ,早慶十二鮎賓 集 沸教殿早課,以 籍慶 祝,井賀新福。 毎 年逢 二

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時 九月十九 日観 世音菩薩聖誕十八 E]晩八時起 至十時 -

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克 南 ア ジ ア 研 兜 十二月初八 日樺迦如来成悌初七 日晩八時起至 十時 以上例 日,本院早九時牛起至十二時止,斉 集凡我社 友 ,以伸慶祝,井設放生法曹,極救生霊,以本慈悲之 旨,務祈善男信女届時蔽 臨, これをみて も全 く中国仏教的であるが,テー ラバー ダの人 もやは り参詣す るそうである

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もなかなか活発で,少年少女 たちがたの しそ うにいろ いろの企画で活動 していた。 なお この寺が葬送儀礼 の 簡素化 につ とめていることは, ここに掲示せ られた も のによ ってよ く推測 され る。 その一部を摘記す る。 按悌撃主義及其教導,開於喪葬事,特馬各合員指導 如下 ,深望各合員照此採用之 (-) 現今習慣,凡一人死去,其死者家属,及戚友 毎多故実,此 類 腹 嘗 停 止,及 任何曙妙之音 楽,在未殉葬前,不准在於屋宇内挙行 (二) 元賓金銀表紙及屋等類,不准在任何時燃焼, 及不能放置金銀紙及渓銭等類在於棺 内 (三) 殺生乃厳重之禁止,如殺鶴鴨及其畜類,以供 条死者 ,或作食品用 (四) 習慣之朝晩巽叫死者起身輿安睦,食早飯及晩 餐等,嘗棄免之,代 此 叫 法 因 之 介紹於其家 属,雷雨悌祖 之名 阿蒲陀備 (五) 凡碩葬以最簡単式馬合,由此観之,摺葬富用 如下 (甲) 白燈龍一封及横祭文童幅 (乙) 姓氏燈龍一封,及横条文童幅 (丙) 音楽二副,如死者 之家属不願意有此音巣 , 可完全省却不用,焼猪,六畜,三牡,金銀 表紙,及蜜鋳甜 肉,概不能容納 (六) 如有延請備憎唱歌祈頑,不可使其随迭殉 隊, 首載之直往墳場,而 在 該 墳 場 守 候棺枢之臨 止,以倣作安葬或火葬事務,此段之原理,実 因併敬三賛訓令僧衆之-令 これを見 ると, この積城仏学院が仏教精神 にの っと って,華僑 の葬送儀礼 の形式主義をただ そ うとしてい るのが よ くわか る。 この横城仏学院の隣にプ ロテスタン トの教会が ある ので訪 ね ると

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牧師夫妻が歓迎 して く れ る。 スエーデ ン人 で沼津 にいた こともある由o仏教 か らキ リス ト教 に改宗 した楊牧師の講演会 のポスター が あるので, その内容を きくと,楊牧師は罪の問題が 仏教ではよ く解決で きなか ったのでキ リス ト教徒 にな 582 第4巻 第3替 った由

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牧師 に仏 教 の欠点 と思 うところを き くと, (1)仏教 は神をよ く説明で きぬ。無神論的 である。 (2)無神論か ら有神論 にな ったのが仏教で ある。 (3)人間観 もは っきりしない。 (4) 自力 と 他力の相克である。仏 教 は ひ と つ だ ったはずである が,今 日は 自力教 と他力教 とあ って,それがたたか っ ているのはよ くわか らぬ とい う。 観光寺院 としては極楽寺が有名で,すでに学界 に も い 紹介 されてい る。有名 な

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を訪 ねてみ ると, これは仏教寺院ではない。通観風の もので,た くさんの蛇 が 飼 育 さ れ ていて,珍 らしい ところであ る。 仏教寺院 としてはセ イロン僧の住むテ- ラバーダの 寺があ る

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年の創立で

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として開寺 したそ うである。 この寺 の住持 に大乗 と小 乗の問題 をたず ね ると, このよ うに華僑 の多い ところ では自分 はテ- ラバーダの 比 丘 で 戒 律 を保 っている が, どうして も大小乗を 自分 の心 の内で調和せざ るを 得 ないとい う。この人 によると小乗は

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で あ り,大乗は

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だ とい う。中心 はひとつだ か らこの2つは矛盾 しない とうまい ことをい う。 この 島のキ リス ト教 について きくと,キ リス ト教 は実益を かねて信仰 にひ き入れているか ら,貧乏人や名誉のた めに入信す る人 もあ るとい う。 この寺 の活動 としては 月 に 1回20人位 の信者が集 ま って八戒を保 つそ うで あ る。200人か ら300人 あま りの信者がい るが,平常 は五 戒を保 っている。托鉢 には行かないそ うである。 ムス リムを改宗 させ ることはで きない。 もし改宗 した ら政 府 のみな らず ムス リム社会か ら認 め られな くなるか ら とい う。 この比丘 によるとペナ ンの人 口の70%は仏教 徒 と見 て いる。 この比丘 は

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といい,かな りの インテ リ僧 で あ る

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を も附設 して活動 している。

現代 の中 華 憎 の な か で 書 画 で 有 名 な竺摩法師が

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にい ることを 聞 き訪 問 す る。竺摩法師 は先年 日本 に も来 た ことが あるが,英語がで きぬので 筆談をす る。台湾 に逃 げて台湾で活躍 してい る印順法 師の著,浄土新論 についての批評を き くと,印順法師

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-藤吉 :凍 南 アジ アの仏教 調査 報 デ.-・ は書 中で上帝 を否定 しなが ら実際 は肯定 してい る。 こ れはおか しい。 また西方浄土 の実在 を否定 して い るの は大過火,大過 で あ るとい う。 夕食 の御馳走 にな り, 英文仏教書 や念珠 や メダル等 を販売 してい るので, そ れ らを買 って帰 る。 マ レ- シアの首府 クア ラル ンプー ルではマ ラヤ大学 の王 磨武教授 をアジア経済研究所 の萩原氏 と共 に訪 ね 会談す る。 中国で禅 と浄土が同時 に行 なわれて きたの は, 日本 のよ うに禅が武士 階級 に受容 された とい うよ うな特殊 な階級 が な く,すべ ての人 々に受容 されたか らではないか。何 もか も

緒 に して しま うのが中国人 の特殊 な習性 ではないか。禅 と浄土 どころか,朱子学 も老荘 も仏教 と同 じもの と して しま うか らだ と思 う。 円融思想が中国人 の根底 にあ ることを忘れてはな らぬ とい う。 日本 のよ うに禅 と浄土 とが厳 しく別 れてい る 仏教 か ら見 ると, た しか に中国仏教 にはそのよ うな根 拠が あ り,禅浄埜修 の中国仏教 を堕落仏教 とのみは見 られぬ よ うに思 われ る。 西明寺 とい うタイの寺を訪ね ると,

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人 の タイ比丘 が住 んで い る. マ-一 ・二 カー イに 属 し, WatWa-shuthatと呼んで い る。 8年 以 前 に 行 なわれた仏滅 2500年 記 念 に 建 て ら れ たの で Buddha Jayanti Templeと も呼ばれてい る。寺 男 はいないが,優姿塞 は15人 い る。 これは主 として中国人 との こと。 ワン ・ プ ラの 日には4,50人 の人が 集 ま り, その 日は5人 か ら8人位 の人 が八戒を保つそ うで あ る。 タイ人 もす こ しは来 るが主 と して華僑 らしい。 クア ラル ンプール市 内に タイ寺が4, マ レー シア全体 に70位 あ るそ うで あ る。 しか し托 鉢 は全然や って いない。回教 国だか らや って も供養 して くれ る人 が いないか らで ある。 それで もウポ-サ タはお寺 でや ってい るとい うが実際 には ど うか わか らない。戒律 の変化が次第 に見 られ るよ うに 思 う。 Petaling Jayaにあ る湖 浜 精 舎 に 伯 Fj法師を訪 ね る。この法師は福建省 出身の中華 僧で,19才 の とき出家 し現 在53才。1941年 にペ ナ ンの極楽寺 に住 し,1961年 以来 ここに止住 してい るとの こと。筆 談で禅 と浄土 の 問題 を質問す ると,中国では以前 は禅 と浄土 との問 に は厳格 な区分 が あ ったが, その後 , その区別が な くな り坐禅 と念仏 は壁修 されてい る。 「有禅有浄土,猶 如 戴角虎 ,這 是 説 得 中 加 浄土 ,光覚心境易澄」 ともい う。 この人 の体験 の語 と うけとれぬ こと もないが, こ のよ うな ことは中国仏教 の禅浄隻修 派の人 々の語録 中 に見 出 され る語で あ る。念傍 は歩 いてい る時 の澄心 の 助 けにな るとも言 う。 また 「念憐得到燐光的益照」 と もい って浄土 の信仰 も堅 いよ うで あ る。か な りの学僧 で あ ると思 ったが,やは り太虚 門下 で印順法 師 とは親 しいよ うで あ る。

ここの博物館 にあ るKelantanRoyalCircumcision Ceremonyはお もしろ い も の で あ る。 ケ ランタンの RoyalFamilyで1932年 に行 なわれた割礼 の儀式 を,こ こに模型化 して展観 して い る。百年以前 まではマ ラヤ で は割礼 の方が結婚式 よ り重要視 されて いた。 それで その儀式 も結婚式 よ りよ り鄭重 な もので あ ったそ うで ある。今 日では生後3日目か1カ月以 内に,極 めて簡 単 に行 なわれてい るそ うで あ る。 そ して その時行 なわ ない と,

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才 にな った頃 に行 な うそ うで あ る。 そのや り方 は男根 にち ょっと傷 をつけるだ けだ そ うだが, こ の RoyalFamilyの場合 は,7才位 の王子が大 きな鳥 の背中 に乗せ られ盛大 な行列 を したが えて,割礼 の行 なわれ る家 に入 るので あ る。 そ して2人 の侍女 と検 視 の武士 のい る前 で,王子 を寝台 の上 にねかせ,上 か らつ った カーテ ンの中でや るよ うで あ る。寝台 の横 には ピ ンセ ッ トと竹製 の小刀が おいて あ り, もし執行官がや りそ こな って王子 の機嫌 を損 じた ら,直 ちに死刑 に処 せ られ ること もあ ったそ うで あ る。萩原氏 と共 に中国 人 の回教徒 の指導者 馬天英先生 のお宅 に招かれ,回教 事情をたず ねた とき,割礼 の意義 を き くと,先生 は美 し い夫人 の方 を気 に しなが ら, それで も卒直 に割礼 は活・ 浄 ・成長 ・白酒 ・性交 に関係が あ ると答 え られた。 断 食 の意義 については,断食 中は仕事 の能率 もあが らな いが,断食す ることによ って いろいろの ことが教 え ら れ る。 た とえば(∋貧乏人 の心 情 を知 ることがで きる。 檀)野心 あ る者 を平 和を愛す る者 にす る。⑦豆別嵩のみ な らず骨 まで 浄 め る こ とがで きる。④ 肥 え るのをふせ ぐ。(可忍耐強 くな る。(可愛他 の心 を もつよ うにな る。 (牟断食 の後,食物 の本 当の味 を知 る。㊥ 理性 による動 物 との相違 を 自覚す る。(9克 己心がつよ くな り,戦 争 に も強 くな ると説 明 して下 さ った。 しか し子 供た ちは 可哀相だか ら断食 させていないそ うで あ る。 ここの博物館 に もうひ とつ注 目すべ きものが ある。そ 2) れは,背丈 1mた らず の観音菩 薩の青銅 の立像 で あ る。

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,Vol.VI,New Series,1961;KualaLumpur:Museums

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東 南 ア ジ ア 研 究 その腰帯 の向 って左前 に 「虎 の顔」が見 える。 ち ょっ と見 ると見 落 し て し ま うが,写頁 にとったのを見 る と,た しかに 虎 か 猫 の 顔 である。 この観音 の立像 は

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世紀頃の もので,マ レーシアで発見 され た と説明 されている。頭上 に化仏が あ り,左右 3本ず つの手 には宝珠や経巻や水瓶を持 ってい る。 まざれ も ない観世音菩薩で, この虎か猫 と観音 さまとの間にど のよ うな関係が あるかが問題である。 写真 3 タンマナ ンダ長老 と八戒を保 って い る 少年少女 たち 次 にセ イロンか らきてい るダ ンマナンダ長老の寺を 訪ね ると

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と称 し,境 内に女子中学校 もあ り,なかなか活発 な活動を してい る。比丘 3人,寺男2人 いるだけだが, クオー タ リーの機 関誌をは じめ多 くの英文仏教書 を刊行 して い る。 この人 は イン ドのベナレス ・ヒンズー大学で勉 584 第 4巻 第 3号 強 した人だけに, セ イロン憎 としては最 も進歩的な比 丘 である。 「われわれは もはや大乗 とも小乗 とも呼ん でいない

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で 何 で もや って いる」 とい っ て,小 さな小乗の戒律 は捨 てて しま っている。律で き め られていることで も,現代 にあわなければ捨 て ると い う自由な態度で あるか ら,夕食 もとれば,音楽 もき く。葬式 に行 きお経 をよみ赤い紙 に包 んだお金 ももら う。比丘が お金を もらうことは本 当は律 に反す るが, 実際問題 としては,そ れ が 便 利 だ か ら行 なわれてい る。貨 幣はいかぬが紙 幣や トラベ ラース ・チェ ックな らよいとい う考 え もある。比丘 は金銀財宝を身につけ てはな らぬ とい う律が あるか らだが, このよ うな回教 国で伝道す るにはやむを得 ない ことであるとい うよ り も,それが必要 にな って くる。伝道の さまたげになる 戒律 な らいさざよ く捨てよとい うのが, ここにい る比 丘 たちの考 えのよ うである。 これはまことに注 目すべ きことで あ って, セ イロンや タイや ビルマでは見 られ ない傾 向である。 マ レーシアはいま ラーマ ン首相 によ って率 い られて い る新興回教国であるが,その

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の 完成式 の時 の式辞を見て も,マ レー シアは他 の宗教 に 対 して寛容である。 この

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の建設 の 際 も,他 の宗教 の信者か ら多額 の寄付 を うけてお り,政 府 もまた他 の宗教 に援助 してい るとのべてい る。回教 国 としては珍 らしく寛 容 な 宗 教 政 策を とっているの も, この国 に多い中国系マ レー人を顧慮 しての ことで あろうと思 われ る。

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参照

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