巻 16
号 1
ページ 39‑58
発行年 1975‑01
出版者 アジア経済研究所
URL http://doi.org/10.20561/00052645
1975010041.TIF
研 究 ノ ー ト
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10(出所) じ 日0., Statistical Ahstract 1970より作 成。
1) fJ Ministry of Information and Broadcasting, India 1973, 2)は NationalHerald, March 23, 1972よリ 1〕数字。
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え が 弐I 経済開発と貧困 II ビハーノレ州|の経済発展
地理酌条約と人[I分イ1, 農村人口と都市人n
農業開発ピ仁業化 す 、む
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1951年4月から実施された第1次5カ年計間以来, 5 カ{μ:計画を主性として経済開発の道を進んできたインド て守はあるが,その努力も1‑;;背と貧者との格差を明大させ,
失業者特にインテリ失業者を増加させるという皮肉な結 県をもたらしている。失業す数は正確;と把握できないが,
招l表は職業紹介所(employmentexchange川こ登録し た求職者数を示したもので,失業者の増加を物語る一例 とL、える。 1970年には求職者総数は1961年の2.2併,1971
・ f .
/こは3{氏近くになって1,、る。月間半均増加数は1961年 の1万8872人に対し, 1971年は約4.5倍になっている。特に1968年以降求職者数は急増し 1967年には66年の3 高卒以上の教育を受けた者の求職者数
人数(10似 ) | 指 数 l似)
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39 Eu川omicTimes, July 17, 1974. 童書2表
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(出所)
]!\!点以来, 5カ年計画をi,,心とした;蛍欲的な経済開発 にもかかわらず,インドは「貧しい国」の代表国の汚名 から依然として)J5l仰できたし、でいる。
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ぢーの数は開力ill,貧富のj目立拡大{ヒL.均衡のとれた経済開発の諸政策も空転しているようであ る。この原因を (>ドにおける貧困チ・Hのj\表と呼ばれて いるビハ−!レ州に焦点を合わ吋て考案L守 インドのllH発 問題再検討の素材を提供できればと思ってし、る。
1972年8月の議会で,計画担当国務大医モハン・ダリ ア 比 インド国民のうち40ちらの2億2000'−'人あまりが依 然として貧困ライン(注1)以下の状態にあると報告した
(注2)。これは全人口の半数近くの者が1日わずか50円あ まりの生活を余儀なくされとら、ることを意味していヨ 1971年3月の下院中間選挙以来「ガリーヒー・ハターオ ーJ(貧乏追放〕と,事あるごとに叫ばれ,この言葉の 前ではL、かなる美
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麗句も色あせてし士,, ''すベこの道 は「ガリービ」)、ターオー」に通ずと〉ι
のでなけれlま ならないと主張されている。しかしながら, 「ガリ…ピ ーーハヲーオー!なる言葉は耳新しし、ものではあるが.独'\'!):ス来の経済開発の最大目標は[策剖からの税関JJ
「富の平等な分配」 「雇用機会の増大」であり, 「貧之 追 放jは25年を経て新しく発生した間J,廷でiまない4
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経 済 開 発 と 貧 困
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(出所〉 Deccan Her,Ild, Oct. 1丙, 1972.
倍, 68年には7倍,そして1971年には実に66年の28倍と ウナギのぼりを示している。職業幻介所の,・!正淀で就職で きた者の数は, 1966年から伸び悩み,求職者に対する就 職者の比率は急速に下降線を描いている。 1961年には5 人に1人の割合であ−,J三ポ, 197lffには10人に1入とた
っており,就職の厳しミ;土倍増しれ る。
求職者のうち高卒以上の教育を受けた者の数を示した のが第2表である。この友から理解できるよろに, 196G 年以降の高卒以上の教育を受けた宇?の失業者の数は急時 を示している。全求職者は1966年に対し1971年には約1.9 倍となっているが,日当卒以上の者はが)・2.5伝となって
ν
る。 1972年には前年iこ対し約1007Y人の増力!Iを示してし、
る。このように,高等教育を受けた者の失業増加が,大 学生たちにとって,卒業後の就殺についての不安感をお め,ささいなことで彼らの不安が爆発している。最近ニ 旦ーデリ}の政府関係機関で50人の職員を募集したとこ ろ,実に2万2000人が応募し,その競争率が440倍にも 達したこどが報じられ,大都市では約4万人が血を売ぺ て生活しているといわれている(注3)。また,ある調査に よれば,現在インドには550万人以上の乞食がいて,そ のうち, 11万5000人が14歳以下の子供たち,120万人が50 歳以上の者で,残り約420万近くが15歳から50歳の貴重 な労働力人口によって占められている(註4。)
このような失業者の増大は,必然的に国民・1:活の貧困 につながり,大きな社会鴻題となっている。第3表は,
40
1969年米当時の各州の貧困ライン以下の生活をしている 者の比率を示したものである。 40%を越えているナト|は,
オリッサ州の65%をトップに12州を数える。インドで最 大の人口を有するウツタノレ・プラデーシ品川|では448%
の約'.39[X)万人が貧困ライン以下の生活をしている。 1,,j111 にピハーノレチHの49.4%の約2700万人を加えた6600万人 は,金インドの貧困ライン以下の人口の33%を占めてい る。ここで問題になるのは,この40%とL、う貧困者の比 率が経済開発の成果によって減少したとはいいがたいこ とである。少なくとも1960年当初からほとんど変化して いないといえる。これは, 1961年ーから1971年の10年聞の 人口惜J/日半は約三品九で1億1000万人が増加していること を考慮ナれば,貧困ライン以下の者が約4400万人増加し たことを意味すー貧困者の比率は今後日午聞は変化せ ず,段低生活者の状態はさらに悪化するとさえいわれて いる(注5).
「貧困」という言葉が相対的な意味川U吊されるだけ に,それを規定する絶対的な基準はない。インドでlよ品 近1人当Pの必要カロリー摂取に要する費用を恭に,貧 困度を示すようになった。とのための資料として, 19.,:, 年から実施されている全国際本調査(NationalSam; l,•
Survey==N. S. S.)の報告書が利用されている。この調 査は,最初は対象を農村の栄台十支出に限定してu、たが,
やがて都市も対象にするようになった。このN.S.S.の 報告書に基づいてインドの貧困実態を明らかにした研究
第4主主 1 人九りの月間消費支出 ~lj 人口構成比庁、
(19GO〜61年)
(出所〉
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比 |りの消氏支| 人口比
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n
28〜34 I 375. 1 I 7. 66 34
〜
43 I 460.8 I 5.93 43〜55 I 58:c¥. 4 I 3. 12 55以|ー jl,OOci.l j 3 28 平 均 I251.2 ! 100.00Poverty in India
,
Economic and Political Weekly, Jan. 2, 1971, p. 26.研 究 ノ 同 ト ・
5カ年計簡を主柱とした経済開発は, 「貧困の追放」
も「麓用機会の増大」も果たしているとはいえない。む しろ事態は悪化さえしている。このため「維のための経 済開発か?」という強い批判の声が尚まっている。
さと,周知Iのようにインドは広い。そのうえ民族主文 化,,Xffli,宗教,その他いずれを取り上げても共通の要 表をft',、だすことは容易ではない。この多係併のために
{ > JC全体に共通した現象を述べることは困難である。
ある什しある地域で見い出すことのできた事実が,他に おいても同じであるとはいいがたい。独立以後インドは 変わったし,また多くの分野で変化の過程を経ている。
しかし,どのように変わったか,またどのように変わっ ているかについて明確に答えることはできない。もし答 えムれたとすれd,そこでU、われている「インド」はあ る特定の什|,ある特定の地域を代衣するft名詞にすぎな
L、。したが
陪'JHこな〆つてL、るか,また何が促進要閃となっているか に/川、て,;料相に検討するためには,少なくとも各州のも つ経済的,社会的特殊性はもちろんのこと,特にその地 理的な特殊性を把握した後に,その州の経済開発の実体 を明らかにしなければならない。この意味から,本稿の 目的は,ピハーJレ州の実体を明らかにし,その中からイ
> Fの経済開発を考える際に見のがしてはならない要因 主見出すことである。
のうち代表的なのが, V.M. DandekarとNilakantha Rath両氏の共同研究論文" Poverty in India i注6)で ある。両氏は, 1人当りの消費支出より 1日の必要カロ
リー2250を摂取できていると推計される額を検討し,そ れを貧困ラインとしている。
1960/61年の1人当りの月間消費支出鋲1jljfこ,農村と都 rlIの人口構成比を示したのが第
41
えである。農村の年間 半均支出額は261.21レピーで,人[!の66%カ:平均以下であ った。 1961年のインド人口は4億3900万人で,そのうち 農村人口は82.6%の3億6300万人を占めていたので,こ のうち66%の2億4000万人が年間261.2 lレピー以下,す なわち1日わずか70パイサ(53円)以下の生活を余儀な くされていたことになる。都市では70%近くが平均359.2/レピー以下で,全都市人口7600万人のうち5300万人がI
n
1ルビー(76円〉以下の生活をしてヤ/こ。このうち,2250の必要カロリーは,農村では月間l:l〜151レピー,都 市では物価高と住宅費を考慮して21〜24,1.,.L0ーで摂取が 可能であったと試算された。これにより,決村では11〜 13}レーピ以下の28.21%と13‑151レピーの半数4.91%を 加えた33.12%,すなわち1億2000万人がカ口リー不足者 であった。都市では18
〜
21/レピー以下の43.80%と21〜
24 1レピーの半数4.84%を加えた48.64%の3700万人がカロリー不足者であった。したが.,て1960/61·it•三当時で 1 億 5700万人と約36%がいわゆる飢餓状態にあjたことにな る。彼らは労働に耐える体力に欠;−;−,このため貧国に甘 んじるという悪循環の中におかれてL、る《
DandekarとRath両氏は'
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(!;村での貧困ラインを月 間13〜
151レピー(980〜
1130円〉,都市では21〜
24ルピー (1690‑1810円)としている。これによれば, 1960/61年 で農村人口の38.03%のl億3700万人,都市の53.48%の 4100万人,計1億7800万人と全人口の40%が貧困ライン 以Fの生活をしていたことにたら。彼らの消費支出の約 80%以上が食生活に当てられ、註n
,かろうじて肉体維持 の最低線を保っている状態であepたοまた注意すべきは,都市の貧国者比率が量討すよりも,Pi<.都市化の促進が,
都市の貧医化増大につながる傾向を示LてL、ることであ る。さらに, 1日の必要カロリーを2250でなく,滋養審 議会(NutritionalAdvisory Committee)が勧告した男 2780カロリー,女2080カロリ}とし,保健・衛生など他 の袈索を加えると,貧困ラインは当然引き上げられ貧困 者の数は大幅に増大する。この1960/61年の状態が現在 もほとんど変わっていないことが,先に述−<た大臣の議 会報告で明らかにされた。
第5ヨ長 川刈1人当りの国民所得(1969〜7(}if') 1 4 1969〜70年!日11格 (R§̲) 945 788 731 635 ノ : ン ジ ャ ブ
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(出所) Deccan Herald, April 3, 1972.
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II L. ハ ー ル 州 の 経 済 発 展
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地理的条件と人口分布
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196] 't 1971年 439,235,082 i 547,367 , 926 226,293,620 283,252,214 212,941,462 264司115,712 156 182 941 932 1<4;i 859 963 952 17.95% 19.87°ら
, , 『ト
, .
川11哲加ヰ{ 196H 1971;1 増 加 率 24.66% 46,455,610 56,332,246 21.26%
25.22 23,301,449 28,797,238 23.61 23.94 23,154,161 27,535,008 18.5:‑l 16.67 267 :,24 21.35
‑0. 9fi 994 956 ‑3.82 1.行6 811 806 ‑0.日2 l 14 ] ,012 974 ‑3.75 :17.月3 8.4:=1% 10.04')0 44.45
Jな 字 率 24.0:l 29.34% ' 22.10 ]内.40% 19.799ら 7.5.'i
ffl 7 J
i正
34.4
12.9 39 . .51% 18. 449ふ
29.8 % 30.60%
6.9 % 8.49%
(1951〜1960) (1961〜1965): (1951〜1960) (1961〜1965)
出 ft 率
死 亡 本 f延 長 上 丹 加 率
41. 7 41.0 I 43.4 42.8 22.8 17.2 26.1 20.0 18.9 23.8 17. 3 22.8 j
(出所〉 Census of India 1961; final population totals 1 :Census of India 1971, Paper I of 1971‑supplement: provisional population totalsよりfFrN。;
出産率,死亡率,どだ賢治1)日*'工 Covt.of Bihar, B
,
・harthrough Figures 7969, Patna, Directorate of Statistics and Evaluation, 1971, p. 31地帯に分けることができる(第1同参照)。この南北平原 地帯は州面積の約549らを占めているが,人 IJは約75%が 集中している。したがって平源地帯の平均人 IJ密度はji'/j 原地帯の 2倍以上になっている。特iこ州面積の31~;,を ,1, めるガンジス河北部の平原地帯にはチII人口の'fc数にiii、\ 47%が住み,王子均人口箔度i土高原地帯の2.7{去と非常に 高い。第 2国はピハール州、!の17地i乏の人口密度を示し た ものである。人口密度の一番高いのは州都のあるノ;ト斗 地区の635人で,とのノ:トナ地区を要に北に人口密度が 600 入を越える 3 地区が広がっている。 ~H 同と対比す ると理解できる上うに,おj京地帯を境iこ人[]密度は君、献 に低くなっている。ビ、ノ、ール州、!の鉱工業地帯の中心であ るランチ,シングブームの両地!支はそれぞれ142人、 181 人と{J1;;い。ただ,シンドリの肥料工場, 1965年以来建設
Ji'; 8 :j長 ピノ)ん州,'l人11分
4
雨if員(+\比
4
、11人 !II
比 率 人II )jキロ〉|(号。) み ! (%) !街I立 53,831! 30.96126,:¥0,1,419'. 46.Gti 489 40,4071幻 自 川 川 町2宵07392 南 部 高 原Jilim i
,9,03s 4s.so比 227, B:‑l 25 . 25 l 79 ピ ハ − − /l 子IL173,876 H財l.0056;、‑353,369 1 ()()ョ00九二i(出所) Changing 1勺ceof Bihar's Economy,'
Comm円・ce,Vol. 127可'.\o.'.'l2G:‑l, Nov. 17 l'.‑!7:l. p. 45.
が進められてし、るポカロの製鉄所ーなど中央政府企業が集 中しているダンバード地区は508人と高くなっている。
高原地帯の鉱工業部門と平原地帯の農業部門とはっき り区分I,さらに平原地帯をガ、ンジス河によって南北に 2分して L、る地理的条件は,ピハールナ!!の経済発展を検 討するさャに見のがしてはならない要素である。この地 Z型的条件が同小IIの鉄道網の発達に大きな影響を与えてい る。これはインド全体にとってもいえることであるが,
東西に;滑れるガンジス
i
凡そしてデウン高原のために,鉄道網は東阿に走り南北を結ぶ幹線網の発達がはられな L
〜
1:・ハール州はこの芯l法E,インドの鉄道網の問題点 土代交してL、るといえろc この地理的条件のほかに,植 民地統治の名ごりとして,第3図に見,(れるよろに,ガJジスM北部の平原地帯の線路rli14;土南部の幅と異な〉て おり『 i村;|じを結ぶ鉄道開発に大きな障害となぺてL、る。
2. 蕊村人口と都市人口
全人r1s600万人のうち
: !
‑k村人口は90%を占め 朝日・,ti人 口はわ h'Pl0%にすぎない。全国平均は農村人口が80%, 都市人ll は;,0 '\~である。 1961年と 1971 年を比較すると,10年間の人11の伸びは全国平均の24.66%に対し,ビハ−
I¥, J刊は21.26%で, ゥ、ノヲノレ・プラ子、ーシュJト|の19.82%, アンドラ・フヲヂーシュ州の20.60%,パンジャブ州の 21 ';:,; 二d山、で4'/Jj:日に低1d\刊
n
ネとなrJ亡し、る。このま な埋山として,死亡率のi白Jいことと他州への出稼ぎが多4ラ
−
〜
F 』 Fや 研 究 ノ ー ト3;1; 3 関 ビ
骨 四 時 間 =・Broa占Gauge
(出納) ;J¥11到に1,,j仁。
46
川i / ) 止l ,11 11"1
明 雨 明 市 一 古 河 ~le!re (地ugc ーー四ー−− N旧rowC,au区e
第9表 ビハー 舛iの会地区の件j伝施設(1961年)
(病院・診|医 者|ベプド(一一一
地ぱ!問」~!(さ;~ : g l I ( 会 f 1 ° . 1 γ I , f 1 J ,
つラ) ! ¥ ¥ /\き / I
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4)foiR姐 .chi 12.94(10) 22.63Wil 112.04(1), 117(16l ia;[Palamau ;3.64( 1) lK 52(17) 14同(引)十 93げの 尚1Hazaribagh!3.49 ( 3) 27. 88 (13) 30. 67 ( 3) I 132(15) 原IDhanbad :3.02(9) 53.43(3) 11.74(14)1 402(5) Jlll[Santal I '
: 日
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,Ip乱rιanaslz.5:J (14) 26.回(14¥,1‑1.77/詞l 189(1:{
.~lshaha凶]3.63(
2) !42.63( 5) 117.必(5)[282(11)八,,:r(Gaya 日40(4) 149.59( 4) 114.15( l、)(I296(10)
;j]Patna
i~ :
09 ( 7) !sg. 57 ( 2) !59. 66 ( 2) I 526 ( 2)'‑''l'"Bha田lpur(:l.09(7)272.16(1) 16.831討)I 303(引 11Monghyr 12.58(13¥42.13(6), 9.65(15) 329(fi) 平IPurnea 12 .19 (17) 135. 71 (10) I 8. 22 (16) 280 (12) 附Sal‑四 sa :~.~2(5)128.14(12)/15.61(7) 318(8)
]
削Darhhanga,2. (治(11):41.22( 7 )121.23( 4) 田9(・1) 惜[Muza ・
i ;
五 l e
ffarpur 2. 28 (15)1~3 刑判 1.
nc1~)I
四(1 ) 引!Saran 2.27(16)/:!8.58(9)/12.33(L¥) 519(3)
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Charnparan2.6:l(12) 118.93(16:1 !]2. 77 ( l:!1 3幻I7)i
) I I
平 均 .2.85 147.73 121.87| ぉ
7 (tl.l!iJi) Censusο/' India 1961, ¥' ol. 4: Bihar, pt9: Census Atlas of Bihar, p. 37, pp. 351‑355.
(柱。 ( )内J、敬二子はII出{{立作
いことが挙げられてU、る。出稼ぎについてはその正確な 数字を示すヂータはなU、が,ビハール州かん{也fliへ移住 する人数は,他州、|からヒツ、ールチl、|に来る人数の4倍に達 し亡いるといわれているCi1l ¥ 1961年セン十トスでは{也川 からの移住者は88万2581人と報告されている引2)。出産 本は全国平均41.0%1こ対して42.8%と高いが,死亡率は 17.2%に対して20.0%と高く,実延期加率は全国平均よ り1%低くなっている(第7表参照〕。死亡率の高い理由 として,主主同による栄養不足iこ起同十るもののほかに、
医療施設の貧弱が挙げられる。
1961年・tンサスによれば(第9表参照〉ピ〆パーJレトIIで は,人口1万人につき病院・診療所の数は2.85,医n,1iの 数は人口10万人につき47.73人,ベッドはわずか21.87台 となってu、る。さらに各地1£711]にばらと,病院・診療所,
医師,ベッドの数が不均衡であることが目だっている。
たとえば,病院・診療所が人口1万人につき::l.64と♂i佐 多いパラマウ地区では医師は10万人につき18白52人と最 低であり,ペッ fも14.56ftで州平均以下となってU、る。 主た,ベァドが112.04台と小H平均の5倍以]二のランT地 区は,医師がわずか22.63人で州平均の半数以下であるc
ハガルブール地区は,医l旨lil土272.16入と他地区に比較し,
研 究 ノ ー ト
ご断然志主れてL、るが,ベァド
t
引II平均以下の168:‑l台, 病院・診療所は3.09で州平均をやや上回ってu、るにすぎ ない。医師はU、てt
病院・診療所,ベッロはなく、反対 に施設はあっても医師怯いないとし、う不均衡な状態を示 してしる。医療面でみられたこのような不均衡は,後述 する農業開発,工業開発をiまじめあらゆる分野で児い出 される。この「不均衡」こそピハール州だけではなく,位度の主'こそあれインド企
i
本に共通した羽象であり 開 発計画の諸問題を一層複雑なものにしている。州人I1 d〕約半数が住むがンジスiiiJ.lt部の¥原地帯は,
医療施誌のいずれの面でも川平均lソ下となっている。
1971年センサスによるデータはまだ利用できないが,他 日)資料:i'.3)によれば, 1968/回年にほ同リ
I I
のベッド数は人口10万人につき24台で全国平均的台の40%となってい る。 19fil"Fが21.87台であ.,たことを考えれば,あまり改 善されたとはいえない。
都市人[!の全人口に対する比率の増減で都市化の進展 を規定するなら,インド;4おける都市化の特色は,工業 化のペースと必ずしも密接な関係をもっていない(注4。) 急速な工業化が造的られた1951〜山年の都市人口の附加 比率は, 1941〜51年の約5分の1であり, 1931〜41年の 半分以下であつだ。このiな理由として,人口の自然増 加率が高いために都市の労働人口が大きく増加したこ と,都市における失業者の大群が農村かじ郡市への移住 の流れを阻害してL、ることポ挙ドられてし、る。ま
L
都 市化の影響の主なもののーっとして,周辺の農村では自 f¥農かん設業労働者ーへの移行が目だち, 19日年には全労 働人口の16.7%を占めていた農業労働者は, 1971年には
お.8%をl片めるようになvI fこ(注51。さらに、インドにお ける都市人口の増加は,都市の貧閤化を増大させてU、る ).'i.にもiJ.LIしなければfi.「?なU。、
センサスでは都市を人11lこよづて次の(i7ラスi己分け ているc
ク弓 ζI: 1り1),000)人上 クラスE
・
50,00〜99,999クラス
m:
20 .000‑49 ,999 クラスIV:10,000〜19,999 ク弓スV:.~ ,llOO〜
9,999 クラスVI:5,000以下第10表i土ビハール外|の都市を各クラス別にその人口の 刑減を示したものでありー第11去はクラスIに属する11 都市について同じく人口の増減を示したものである。外
l
ti;のハ卜十が人!149万人で同州最大の都市であるが,イ 47
ザJ女 比
(ワ}1000) 775 822 814 873 838 762
同州の人口5万人以上の20都市のうち6都市,全都市 人口の24%を高原地帯が占めている。工業化により都市 化を促進L,新しい雇用機会を増大させ,農村の過剰人 口を吸収するという目的は十分に果たされているとはい えない。同州の都市人口は1961年に対し44.45%の174 万人の増加を示し,全人口に対する比率は8.43%から 10. 04%となった。都市の数は1961年の153由通ら1971年に は161に増加した。しかし,都市人口の増加率は1951
〜
61 年の49.03%に対し, 1961〜71年には44.45%と鈍化して しも。クラス Iの都市では, 1951〜61年の73.02%が, 5212%に低ドしている。高原地帯のジャムシェFプーyレとダンバードの鉱工業都市は,それぞれ
. s o .
37Sゆ注ら 41.80~;6, 172.57%から115.88%と低下している。ただ ランヰは32.26%から82.54%と大幅な伸びを示してい る。クラスn
の都市人口の増加は, 1951〜61年の2.04%から24.06%と著しいが,すでに述べたように,高原地帯 806
十44.45
790 801 664 804 844 ヲ ス 日jl都 市 人 口 (1971)
ビ ハ ー ル 州 の 人 口 10万 以 上 の 都 市 +49.03
52.47 54.83 41.85 59.85 47.93 47.93 43.15 51.10 37.38 45.34 39.16 識 1併に00
Census of India 1971, Paper I of 1971, pp. 14‑21, pp. 51‑54. +34.47 十41.81
‑'‑115.88
− ト82.54
−
ト19.
。
1十20.06
十28.26 I而50 +14.14
十27.32 ピ ハ ー ノ レ 州 の 各
43.11 12.86 21.62 14.88 7.02 0.51 100.00 ハ ー ノ レ :Iii
(出所) Census of India 1971, Paper I of 1971, p. 55.
十28.61
+印.37 +172.57 +31.26 +13.02 +25.60 十21.46 +48.18 +20.74 I
+24.49 I
+73.02 i
ンド全体では19番医である。2番目がタタ製鉄所をはじめ タタ財閥の工業集団が存在するジャムシェドプール,そ してランチ,ダンパードの3鉱工業都市がつづいている。
この3都市と新しい鉄工都市ボカロが南部高原地帯に,
バトナを含む7都市が北部平原地帯に位置している。南 部の四つの鉱工業都市の総人口は,同州のクラスIの都 市人口の約50%を,全都市人口の約22%を占めている。
南部高原地帯,すなわちチョータナク。プールはビハール 州の工業部門の心臓部である。組織工業部門の事業所の 約40%,工場労働者の54%がこの地域に集中している。
1969年には大・中規模工場の86%が,小規1築工場の29%
が位置した(注6)。しかしながら,この南部高原地帯には,
クラスIに属する11都市のうち4都市が位置している が,クラスロでは 9都市のうちわずかベルモ(人口約 7 万)とハザリパーグ(人口約5万5000〕の2都市が存在 するにすぎない。
48
口(1971) 490,265 465,200 433,085 256,0ll 179,826 172,700 132,129 127,045 108
。 ,
12 102,462 100,052 ';,
m
11表噌in
wu nr
噌idU1wO 44nuA 白
向 ︒
161 数
吋一『司吋市→研究ノート 第 103JJ長
人 Patna
Jamshedpur Dh血.bad Ranめi Gaya Bhagalpur Darbhanga Muza丘arpur Bok邑roSteel City Monghyr Bihar
IEEWV羽市
スススススス 一 フ 一
7
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(出所〉
都 タ グ グ グ グ グ
1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11.
帰村を考えて
十
1−
• I ‑ i 1 • s 2 I I 5 I 1 ‑ ‑i i I ‑ 116(2) 工場仏)の熟練労働者
年
齢 !
20‑29歳130‑3蛾 40〜 峨150歳以上I t
調 査 数 | 2 I 39 I 21 I ‑ I 62
独 身 ( 既 婚 | 独 身 | 既 婚 | 独 身 | 既 婚 | 独 身 | 既 婚 |
家 主 → 瓦 一 一 一 T 一日一|ム日
181 ‑ ‑ 1 「 − J 。
単 身 で 生 活1 1 ! ‑1 ‑ j 1s 1 ‑
i
3 一 lす 伊i
22 毎月村に送金|一 I‑• ‑ I 23 i ‑ I 6 i 【 ‑i
29 帰村を考えて| 1 Iー I‑ i 21 ; ‑I
12 !ー I 34 , いる |ム| I I Iの鉱工業都市の周辺にはクラスEの都市の発展は見られ ない。 1961年センサスでは,ランチ地区ではランチ市以 外の都市はクラスW以下(人口2万以下〉が8市,ダン ノミード地区ではクラス Eが 1市,クラスEが 2市,クラ スIVが16市,シングブーム地区ではクラスEが3市,ク ラスIV以下が8市,位置していた(注7)。ビハーlレ州では 大規模企業の建設がその周辺に関連の中小企業の発生・
発展をもたらしていないことが指摘されているが,クラ スHの都市の発展状態からも知ることができる。また,
第3図の鉄道網でもはっきり理解できるように,ジャム シェドプール,ランチ,ダンパードの鉱工業都市は大海 の中の離れ小島のような存在となっている。
都市人口について,いま一つ注目すべきは男女比率で ある。インド全都市での平均比率は1971年のセンサスで は,男1000人に対し女859人であるが,ピハール州は806 人で,同州よりも男女差が大きい州は,ナガランドの468 人,ヒマチャル・プラデーシュの750人,アッサムの754 人,商ベンガノレの798人である。これに対し南インドの 各州ではその主主は大きくない。すなわち男1000人 に 対 し,タミJレ・ナードとアンドラ・プラデーシュカ1951人,
(4) 工場但)の労働者
今
齢 !
20〜2蹴|却〜3悶
40‑49歳|合計
調 査 全 −
r 32 ドw「~.···~
一 |独身医科料品開問再点「
家 紋 と 生 活I4, 1s j ‑ j s j← I 2 i 29 単 身 で 生 活I8 I
s
iー I2 Iー | ー I 15 毎 月 村 に 送 金1‑1 51‑Iー 1‑1ー| 5 帰村を考えている| 11 61‑i 31‑1‑1 10 マイソールが914人,ケララカ;993人となっている。他の 州ではいずれも100人以上の差となっている。この相違 は南インドの各外!と他州との都市化の特色の一面を物語 っているといえよう。都市での男女比率は当然のことながら,農村での男女 比率に影響をおよぼしている。ジャムシェドプールが位 寵するシングブーム地区の農村では1000:1001人,ラン チ地区では1000:1005人,ランパードでは地区平均の 1000: 786人に対し農村では1000:886人,そしてランチ とダンパード両地区に隣接するハザリバード地区では 1000: 1009人となっている。この妻子を農村に残して都 市に移住した男性労働者が故郷の農村との結びつきの強 弱が大きな問題である。この強弱が労働者の定着に大き な比重を占める。
第12表はランチ近郊の工場
ω
とジャムシェドプール近 郊の工場但)の労働者について,彼らの農村との結びつき について筆者が1972年に実施した標本調査の結果を示し たものである。工場ω
は労働者総数が約1000人,創業の 歴史は古く, 1957年から現在の経営者の下で操業を続け てヤる。工場(B)は労働者総数約400人で, 196ゆ年に設立49