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平安期の食文化を見る -平安貴族の饗応食の食材と調理について- (「『源氏物語』という文化」講演記録)

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平安時代の前の時代である奈良時代は中国からの文化を取り入れることに躍起になっておりました。中国模倣時代 といいまして、かなり中国の文化が高くその模倣からはじまっていますので日本の文化に影響をあたえています。剛 年に都は平安京に遷都します。環境が変わります貴族はまだまだ中国の模倣をすることで貴族の地位を高める手段と しています。その一例として食事の様式について見ていきます。まず、食事というのはかなり本能的なことですの で、食べ物があれば食らいついていてよろしいのですが、人間は美意識が働き、汚れる不快感をできるだけ取り除く 工夫に加えて美しく見える行動様式や環境設定をプラスしていきます。従って文化が進めば進むほど様式化が進み、 こだわりが大きくなってまいります。様式にこだわるようになると、そこには食べ物のみでなくそれを盛り付ける 器、いわゆるしつらえがかかわってきます。

Iはじめに

平安期の食文化を見る

l平安貴族の饗応食の食材と調理についてI

大久保洋子

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奈良時代から、中国の影響を受けつつ平安時代は伽年くらい続きますがその間に変化をおこして日本文化として独 自の形を創出し、鎌倉時代の武士の質実剛健という余分なものはそぎ落とす形に整理され、室町時代の安定期にまた 少し贄沢なかたちになり、この時代に日本料理の基礎が確立されたといわれております。 江戸時代に入りますと、その基礎をもとに完成期を迎え、やがて燗熟期になったところへ明治時代の西洋化旋風に 巻き込まれ、西洋化をあまりにも重視したために、せっかく江戸時代までに確立してきた日本の文化を否定的にとら える風潮がきます。そして現在まで影響を及ぼして西洋と日本の文化が混在し、融合している事になります。しか し、食の世界は保守的な傾向があり、生活に根ざした日本の料理というものは継続し、伝承されて日本的なものは残 っています。一方で日本料理や食事様式がいつごろどうやって出来上がったかなどを研究する分野が食文化研究であ り、例えば配膳の際に飯茶碗は左、汁椀が右で箸は横に置くということは現在でも常識ですが、このような決まりの ルーツは奈良時代から平安時代にかけておこなわれているのです。勿論貴族の上層文化であったものが長い時間をか けて庶民層にまで伝播していくのですが千年以上もの伝承がなされた文化はなかなか捨てがたいということができま す。すべてが伝承されていったわけではなく取捨選択がなされていくのは当然です。江戸時代までの膳形式は明治以 降徐々に使用されなくなり、現在では特殊な機会に使用され、日常の庶民の生活では用いられなくなりました。テー ブルやチャブダィは明治以降ですからまだ川年に満たないということができます。着物は洋服にシフトして、現在着 物を着るほうが特別になってしまいました。食の分野では﹁飯﹂中心でパンやスパゲッティーなどと多様化している 食材として加わっていますが、概して食べ物は保守的だということがわかります。

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-214-平安期の食文化を見る−平安貴族の饗応食の食材と調理について一 饗応の食膳としては第一に神様へ供物をささげることがあげられます。収穫物を神にささげることは次の年にまた 収穫物が無事にとれることを神に祈願をするための儀式です。従ってその供物は適当なものではなく、最高のものを ささげようとするため、それにみあったしつらえが必要になり、様式が誕生します。その様式も古来日本人が創案し た様式に、中国からの様式が伝来すると優勢の様式が採用され、変化していきます。日本の饗応の様式というのは異 文化を移入しながら出来上がっていきます。そして、最初は神に、次に国賓の接待が行われます。中国の交流により 国賓を接待しなければならなくなり、当時の貴族層は接待をするために中国式で接待することにします。日本では初 期の段階では、中国の人を饗応する場合日本式ではなく中国式で応対したといわれています。これは中国の人が日本 を訪れたときに中国で接待を受けているように設定して安心してもらう、そういう接待をしたわけです。そして貴族 間での諸々の儀式饗応は中国様式がランクの高い様式になります。その後中国との国交を断絶する時期が来ます。す ると中国様式の変容が行われて、日本様式を作り出していきます。儀式には様式の確立が必要で目的に応じてさまざ まな儀式が考え出され、洗練されいくつかのものに集約されていくことになります。鎌倉時代に入ると武士の世界で 戦うということが中心になり、平安時代の華美な、贄沢な、ゆとりのある時間をかけた饗応を否定して余分なものは そぎ落としていくことになります。当然なことですが、社会環境に対応して変わっていきます。一方、忘れてならな いのが寺院の饗応です。日本の食文化に影響を及ぼしているものに奈良時代の仏教導入があります。寺院の料理は宗 教という特殊な世界で考えられ、現在の日本料理の食材の利用や料理技術、料理の思想などに継続されているものが

Ⅱ饗応食について

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次に年中行事です。 宴会というのはお酒を媒体にして集うことです。目的に応じて宴会が行われます。一番は神を向かえもてなすこと です。お酒の効用は酩酊する点にあります。酩酊することで普段の状態から離れ、神に近づくことになり、集った 人々と交流するということになろうかと思われます。そして国家間の儀式にもお酒が登用され、権力者が権力を誇示 するためにも宴会をすることになります。宴会には料理が工夫され、その技術を発達させる要因の一つになります。 年中行事は奈良平安期に唐の文化である中国の年中行事を貴族が移入し、それらが庶民にまで浸透した時点で、古 来からの農耕儀礼としての土着の行事が融合して、現在に続いております。主な年中行事といいますと五節供があげ られます。一月七日の人日の節供、三月三日の上巳の節供、五月五日は端午の節句、七月七日の七夕の節供、九月九 日本料理様式には神饅料理、本膳料理、会席料理、懐石料理、精進料理、卓維料理、普茶料理などが確立され、伝承 あります。たとえば、高野豆腐や胡麻豆腐などは寺院で工夫された食物であることは多くの人がご存知です。そして です。 日の重陽の節仕吟で︷,。 されています。次に宴会です。 この節供には由来とそれにまつわる食物や花がかかわり現在にまで伝承されているものが多いといえます。 このように歴史の流れの中で確立している料理様式をどのように調理していたのかを考えてみたいと思います。 料理様式や料理技術、食材など具体的に記録された文献で知るには、奈良時代からといえます。﹃正倉院文聿呈や ﹃延喜式﹂などから伺うことができます。また﹃古事記﹂﹁日本書紀﹄や﹃万葉集﹄なども資料として価値が高いもの

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-216-F安期の食文化を見る−平安貴族の饗応食の食材と調理について

2平安時代の食

剛年に平安京に都を移し、平安時代にはいります。奈良時代からの大陸文化に対する畏敬の念は貴族社会には定着 し模倣時代は続きます。しかしそれらを日本の風土にあわせる変化が徐々にみえ、仏教も山岳仏教が盛んになり、芸 術の世界では密教芸術がさかえます。9世紀終わりになると中国とは国交を断絶し、摂関政治が隆盛をきわめ、貴族 階層の形式主義が食事の面にも反映し、見せる食卓を演出することになります。また中国からの移入した行事も日本 奈良時代の食についてすこし触れると、陥年大化の改新がおこり、仏教を国の宗教として移入します。そして中国 文化を貴族層は積極的に模倣していくことになり、饗応も行事も従来のものとあわせていきます。8世紀の平城京に 都が出来、都を中心に人も物資も一極集中し、貴族階層の著侈的な生活様式が成立します。 貴族層は米を常食とし、漆器・青銅器・ガラス器などを使用しているのに対し、農民は貢租・労役・兵役と課さ れ、貧窮化し、食事も雑穀食を強いられ、食器類も土師器・須恵器・木製品を使用しています。この時代の特徴は仏 教伝来により徐々にではあったようですが肉食禁忌への政策がとられたということです。特に僧侶階層は余儀なくさ れていきます。農民にまで浸透するのにはかなり長い期間かかりますので奈良時代にはその浸透度は微々たる物で、 そういう面では上層階級よりおおらかな食生活であったろうといえます。当時の調味料は塩・醤・未醤・酒・糖・甘 葛煎・胡麻油・蘇・酪などが考えられます。塩以下はぜいたく品ですので貴族層が使用したものであり、農民層は主 として塩で加工に携わった産地により使用された調味料はことなったと思われます。特筆すべきは﹁正倉院文書﹄に まめもちあかあずきもちいりもちまがりもちおこしごめむぎかたおこしこめむぎなわ ﹁大豆餅・小豆餅・煎餅・環餅・實糧・棯餅・浮鰡餅・索餅﹂とあり、これらは中国の輸入加工菓子とされていま _」 ヲ

1奈良時代

奈良時代の食について

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﹃延喜式﹂にある、正月元旦の節会には あっもの てんせいひらかっこけいしんこんとんさくくい 三献の儀や食べ物のなかに﹁葵・飯・鮎膳・鐸饒・謁醐・桂心・鰻鈍・索餅﹂がみえます。この三献の形式は現 ごうけしだい 在の神前結婚式に固めの盃として三々九度という形にみることができます。また、﹁江家次第﹂に歯固の儀を﹁歯は よわい 人の年齢をいうなり、歯固は年をのばし齢をかためる義なり﹂とあり、大根一杯、菰の串刺し二杯、押鮎一杯、煮塩 鮎一杯、猪宍一杯、鹿宍一杯と食品があがっています。これは、後世に鏡餅になります。そして屠蘇もすでに飲まれ ています。その他の行事と食べ物を平安期のものの一例をみると次のようになります。 正月子の日の宴←七草粥︵鎌倉時代初期から︶

正月十五日七草粥献上米・麦・黍・稗・篁・胡麻︲小豆

この七草粥は現在も行われていますが、この時代から続いている食べ方です、はじめは中国の雑穀を入れて食べる 方法のものが、日本の若菜摘みと重なって日本では七草︵なずな・ゴギョウ,はこべら・ほとけのざ・すすな・すず しろ︶粥にして食べられているものです。 風に変化をみせます。 しろ︶ ① のが,あ、ります。 貴族の饗応食を大響料理といい、宮中もしくは大臣家で行われた饗宴をいいます。この大饗料理には次のようなも 二宮大饗︵親王や公卿などが正月二日に中宮・東宮を拝賀して饗応に預かる︶ 大臣大饗︵大臣になったときの任大臣大響と正月に左大臣・右大臣が行う正月大饗がある︶ 図1に示したものは﹃類聚雑要抄﹄に記録されている、平安時代の貴族の永久4年︵二一六︶の藤原忠通の任大 貴族の饗応食

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-218-平安期の食文化を見る−平安貴族の饗応食の食材と調理について−

図1大臣大饗

内火蕊灘灘瀧懇鞠鋳大義大蕎鈴織蹴︽鶏灘繍渡騨欝殉鴬翰磁鈴愈魁 臣大饗という儀式の食卓の図です。赤木の台盤を用い食器はすべて銀製であるとされています。 大臣が昇格したとき任大臣昇格祝いという形で皇族を招く饗応です。このように献立が書かれ、食品が明記されて 墨 卒 争 牽 → 砦 玲 齢 一 一 一 一 字 … 零 幸 弓 葡裁心鍵溺感 罰争マ蛤 稲痢∼し 琴 一 壼 轄 や − や 4 − … 率 一 一 鈴 鍔 (章 一一一‐一一= 一で……、 《厳 垂 』 … 弾 ⑬ T 枠 − 9 蝋 藏 群 論 沖 … “ … 客 一 筆 … … ー 』 等》 宙 醒 “ 鼎 靜 捧 一 や 蕊 ' = 齢 ' … 鍔 … … ー ー … 灘 t 埠 塘 秤 幸 や … 患謹簿 t無.球.i§I 愚で鞠 〈 や 識 〉 ; 弾 与 酔 鵠 一 琴 季 γ 舜 藷 ・ 蕊 … 蒋 諦 帯

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います。この時代にどんな食べ物が食べられていたかを知る手がかりに なります。貴族層は自分の配下にある豪族から広い範囲にわたって、貢 物をいわば税金として集めています。従って都にはあらゆるものが集ま

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従って都にはあらゆるものが集ま ってきます。この献立には二八 種類並べられています。招いた 人の主客すなわち尊者に対する 最初の膳です。この膳は四角で ちょっとわかりずらいかもしれ ませんが、この四角が一つの縁 のついた机状の膳です。これを 四つ組み合わせてひとつにして います。この膳を台盤といいま す︵図2︶。中国の形式ですが、 中国のものは椅子とセットにな ったテーブル式のものとして入 ってきますが、このころになる

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7世紀以降、中国との交流で塩蔵食品の高度な技術が入ってきます。料理に調味するということは当たり前で、煮 たり焼いたりして調味をして作り手が食べておいしい料理を食卓にもっていくことは常識になっていますが、この時 代は味をつける調味料がまだまだ発達していません。調味料の基本は塩でした。その塩をつくるのに日本では中国の 岩塩のように掘ればよいという簡単な入手ではなく、海水を煮詰めて塩をつくっているわけです。それ以前、獣肉食 で狩をしている時代では、動物の持つミネラルで事足りるので食塩は実はあまり欲求しないのです。野菜類が多くな ってくると生理的に人は塩を求めるわけです。海辺の人たちは海藻類を天日に干して析出してくる白いものが塩であ る事から塩を取り出すことを考えつきます。焼けばもっと早く効率的に収穫できるという藻塩焼を行い、直接海水を 煮詰めて塩を作るようになります。塩は物を保存するために使われると、高温多湿の国では発酵食品の開発につなが り、調味料や加工食品が出来てきます。収穫食物を保存する工夫はまず腐らないようにすることです。一番よいのは 乾燥です。水分が非常に少ないと細菌が繁殖しないので乾すのがいちばんいいわけです、が干物は堅くなりもどすの ひしお が大変なところもあります。次に塩の出現で塩漬けが出来るわけです。いわゆる醤類です。魚の塩漬けは魚醤、穀 類は穀醤、豆類は豆醤、野菜類は草醤、肉の事を宍といい肉類は宍醤といいます。南アジアの魚醤にナンプラーやヌ クマムなど、日本ではいしる、しょっつるなどがあります。味噌は豆醤です。大豆を蒸して塩漬けにしておきます。 味噌の原型です。空気中の発酵菌が付着して大豆は発酵しペースト状になります。大豆中のたんぱくが分解し、アミ プーンと箸を横に添えています。そして飯は左に置き高盛りです。その脇に四つの小さい皿がありそれぞれ塩、酢、 と日本での台盤は脚が短くなって椅子はなくなり、座る形式になっています。そこに二八種の料理を並べ、手前にス ひしお 酒、醤と調味料が置かれます。この四つの皿を四種器といいます。

②調味料について

−”0−

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F安期の食文化を見る−平安貴族の饗応食の食材と調理について− 図1には木菓子として右側からやぶなし・こうじ・なつめ・なしの四種類が並べられています。﹃延喜式﹂による と果実として二○種類以上があげられています。唐菓子としてひちら・てんせい・けいしん・かっこの四種が出てい ます。次の位の人の膳にはひちらとさるなしが消え、次の位の人の膳にはてんせいと柑子が消え、食べ物を身分に応 じて差をつけています。そして唐菓子と果実は嗜好品としての位置付けであり、木の実も果実も菓子も分類されずに 扱われています。果物はわかりますが唐菓子はからくだものとよんでいます。これは中国の菓子のことで当時日本で は揚物という調理技術はなかったところへ輸入されたもので、小麦粉製品です。これらは神饅や寺院の供物に、室町 時代の僧侶の点心などと影響しあって、素麺やだんごなど日本の加工食品を培っていきます。そしてこれらがどんな ノ酸になり、旨味が熟成して塩とマッチして調味料としての製品になります。 これらはまたうまみのもとになり、日本人の舌に強烈なインパクトを与えます。納豆の出現は時代がもっと後にな りますが、浜松の浜納豆とか大徳寺納豆のような納豆が古く、後に粘る納豆ができます。中国では豆鼓という調味料 がありますが発酵大豆で浜納豆などと同様なものです。醤油は味噌をさらに発酵させていきますと茶色い汁がたまっ てきます。それを取り出したものです。現在味噌と醤油の製法はことなりますが、味噌から醤油が発展したと考えて よいと思います。とくに鎌倉時代に中国から径山寺味噌という嘗め味噌を檀家に教えて広めていたところ、樽の底に 残った汁を料理に使ったところおいしかったために、その汁をつくる方法で醤油が開発されたといういわれがありま す。ですから平安時代にはいわゆる醤油は存在していなかったわけになります。四種器の酢、酒、醤いづれも発酵品 です。醤というのは醤油の醤ですが、醤油の前に味噌が作られており、ここでの醤は味噌のようにペースト状であっ たと思われます。酒も現在のように透明ではなくにごり酒です。 ③ われます。酒も現在の 果実・唐菓子について

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図3唐菓子﹃春日大社﹂|より 鏑匂” ︾ ︾ ︾一誇 郵神 果物の下には鯛・鱒・鯉・錐と海の魚と川の魚と鳥と並び、これらは一口大に切り、高く盛られています。鯉はな ますになっています。ほかのものには味がついていない状態です。蟹、うにや貝類などが一二種類、モムキコミとい うのは雄の内臓の塩辛です。そのほかもしおからになっていると思われます。石華というものにはところてん説、カ メノテ説があります。私はカメノテ説です。まわりの食品にくらべてところてんというのは調和がとれないことと、 わけです。麺状にする方法にはもう一つ押し出し麺がありますが日本では切り麺が主流でそばも切り麺です。 よって細くつくることができるわけです。小麦粉の練り粉をねじって揚げたものが約千年を経て素麺になったという ④干物・生物について 図4大饗陪席の公卿の膳﹁類聚雑要抄﹂ 絵巻より 録 … … 蕪 胃 f 』 熱 . . … 穂 , 、 瀞

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一粂埴子 琴 一︲則地 もので、どう造られたの かは神撰を作り続けてい る寺社の供物にみること ができます。図3は春日 大社の神饒の一部です。 素麺は手述べ麺ですが、 唐菓子の索餅が麦形や素 麺に変化し、最終的に素 麺になったという説があ ります。うどんは切り麺 ですが素麺は延ばす事に Oのd ) 一 ご ‘ / ‘ / , −

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平安期の食文化を見る−平安貴族の饗応食の食材と調理について− 酔騨識鐸錨錘︾︾津癖蝿辨癖密以上の食品の食べ方はまず、味がついていないので四種器の調味料を適当に好み に合わせてつけながら食べたのです。その調味料も四種つくのは尊者のみ、次席は 三種であとは塩と酢のみになる。そして汁や焼き物が運ばれたようです。それにしても野菜類のないたんぱく質性の 食品ばかりです。また単品で食材を複数組み合わせる事をしていません。箸とスプーンは食事の途中では飯に刺して おくのがマナーだったということです。現在の食事の料理とはかなり異なった情景が想像されます。 大饗料理の一例をみてきましたが、次に平安時代の貴族社会の食生活をまとめてみます。

図5カメノテ

加工品としても塩辛の類とところてんでは違和感があります。天草を石花菜という ところから類推しているわけです。カメノテというのは海岸の岩場に藤壺のように 生息している生物で、図5のように亀の手のような形をしているものです。爪状の ところは硬くその続きの部分のなかに茄でると、かにと海老をあわせたような味の する身がはいっています。現在でも広範囲に渡る地方で食べられています。ところ がこのカメノテは尊者の食卓だけに用いられており、その後の献立にも出てこない 食品です。干物には蛸、鮒、烏がもちいられています。割楚というのはすわやりと 読み、細く裂いたものです。

⑤食べ方について

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食材はかなり豊富であったとしても、その調理法は非常に単純なもので切る、茄でる、漬けるなどが中心であるこ とがわかります。保存するために考案された加工食品と味付けをしないで調理をした食材に調味をしながら食べる食 事は食べることが喜びにまで至らなかったかもしれません。従って見た目にたくさん並べることで威厳を保っ事が出 来たと考えられます。紫式部が読んだ歌に次のようなものがあります。

日の本にはやらせ給ふいわしみず

まいらぬ人はあらじと思ふ︵紫式部︶ これはいわしの焼き魚を食べていいわけをしている歌で、鰯が貴族のあいだでいやしい食品になっていたにもかか わらず食べてしまった歌です。次に になⅢソます。 ﹁延喜式﹄による食品材料の種類をあげてみますと 大麦・小麦・大豆・小豆・大角豆・蔓菩・蒜・韮・葱・薑・蕗・薊・早瓜・晩瓜 幕箙・萬苣・葵・胡要・油菜・菫荷・芋・水葱・芹などがあげられます。また、 ﹁和名類聚抄﹂は承平5年︵九三五︶に現された辞書です。それには 平安時代は文学作品も多く書かれましたが、仏教思想の影響下に﹁欲﹂というものに対してあからさまに表現する ことをよしとしない風潮だったようです。その結果、平安期の文学作品に食の情景をもとめてもなかなか難しいこと Ⅲ平安期の貴族社会の食生活 茄子 −”4−

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平安期の食文化を見る一平安貴族の饗応食の食材と調理について− 海 守嘉 1 本 蔬菜類 穀類・豆類 禽獣 果実 色小貝 杭米・糯・大麦・小麦・篁子・擴麦・蕎麦・粟・軸粟・黍・丹黍・秬黍・穆米・大豆 烏豆・大角豆・小豆・野豆・胡麻・祷豆 石榴・梨子・檎子・彌猴桃・柑子・栗・椎子・榧子・胡頽子・杏子・捺子・林檎子 楊梅・桃子・冬桃・李子・麦李・李桃・棗・橘・梅・柿・鹿心柿・枇杷・杼など 葡子︲菱子・蓮子・覆盆子・薯預・零余子・烏芋・砿・人参 大蒜・小蒜・沢蒜・韮・冬葱・茄子・青瓜・斑瓜・白瓜・熟瓜 蔓菩・辛芥・富・襄荷・薑・蒟蒻・高苣・薊・蕗・首禧・蜀椒 鯰・鯉魚・鮒・鮎・鱸 鰹魚・鮫・鯛・鮪・鮭 鹿角菜・鹿尾菜・水雲など 昆布・和布・滑海藻・海松・捗厘・神立菜・紫苔・海薙・於期菜・大凝菜・莫鳴菜 錐 鳩・鶉・鴨 雁 鴎・猪・鹿・兎・豚など 鯉 彪 魚 魚 鰐 睨 蟹 王 . 全 ノJ, 海 魚 鼠 . ・ 蝉 海 魚 月 ・ ・ 鰕 烏 ・ 賊 鯖 蛸 鰯 魚 ・ ・ 鰡 蝮 . ・ 鮭 蠣 ・ ・ 鱒 栄 ・ 螺 鱈 子 ・ 鯨 薇蕨・菌・蕊・菫菜 寒瓜・胡瓜・更

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畔蛤・蜆・貼貝などがあげられています。 ところで主食の米について貴族層はこの時代から白いご飯を食べていたことがわかっています。飯の種類はいろい 二わいい ひめいい ろあり、高盛りにする強飯、それに対して、姫飯というやわらかい飯もあります。また日常の食卓にはおかゆも多か ったようです。夏には水をかけて、冬にはお湯をかけて食べることもされています。副菜としてしおからなど塩分の 多いものが多用されているため、酒の肴にも飯のおかずとしてもよかったようです。その飯粒をほして糒︵ほしい い︶をつくり、それを兵食や携帯食にしています。糒を袖や袋にいれて持ち歩き、途中でおなかがすぐと口のなかに いれて、唾液でふくらませて小腹を少し満たすという使い方をします。兵食では雑兵が鉄のかぶとを反対にして、水 とんじき を入れて火にかけ、湯が沸いたところに糒をいれて飯にもどして食べます。次に屯食というものがあります。これは 身分の高い貴族の家ではいろいろな階層の使用人がいますが、使用人の中で位の低い人たちは主人のお供についてい っても、訪問先の屋敷で飲食なしで、主人の饗応が終るまで待っているわけです。気の毒に思う招待側の家では手の ひらや身近にある葉などに飯をちょっとまるめてのせたものを振舞い

図6高盛り飯﹁春日大社﹂よります。そのまるめた飯のことを屯食といい、兵食にも用いられ、おに

ぎりのルーツといわれています。そしてこのおにぎりも竹の皮につつ んで携帯食になります。 3貴族と高盛り飯そして日本料理 奈良時代から平安時代の貴族文化が築いたこれらの食事様式は、ご く一部の特権階級のものではありますが、室町時代の日本料理成立の 基となります。朝鮮経由で移入したものも多くあったと思われ、現在 一”6−

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F安期の食文化を見る−平安貴族の饗応食の食材と調理について一 は神撰や饗応に通じる盛り方です。副菜がいくつか並んでいます。そ して食事の途中で箸を飯に刺しています。飯は高盛りですから盛りきりでおかわりの習慣はなかったと思われます。 汁が添えられていますがスプーンはすでに見えません。 ところで貴族の饗応に庖丁捌きを見せるということがあります。人前で魚や獣をまな箸と庖丁で見事に捌いてみせ ることに価値をおくという方法は日本料理の切ることを重要視する料理文化を予見させます︵図8︶・ そして料理の調味を料理人がつけるようになり、グレードの高い料理が供されるようになっていきます。公家は四 脅脅鶯蕊驚驚脅脅§誉蒼驚欝§蕊§§§⋮驚溌§蕊こま坂寵︷蛆こぎ可ノ、淀1つ︲孔てA主す。彗司旋皿り坂ら畠 笈灘塾譜簿脅溌鷲薮懲謹電甚.簿零譲懲驚搾

図7﹃病草紙﹂よりの朝鮮と日本の類似性が個々かしこにみられま寸

の朝鮮と日本の類似性が個々かしこにみられます。この時代の饗応食 には飯が椀に高く盛られています。高盛り飯あるいは鼻つき飯といわ れる盛り方をしています︵図5,6︶。すでに飯が食事の中心であり、 接待するにあたってたくさんの飯を提供することは歓待をあらわすこ とにつながったにちがいないと思います。そして副食も高く盛上げて 供し、神仏への供物も同様に行っています。この現象は朝鮮半島や日 本の寺院の供物に現在でも見ることができます。図7は平安時代に言 かれた﹃病草紙﹂からのものです。歯槽膿漏の男性が食事の途中で歯 が痛くなるという図です。食事の様子を見るとまず膳は脚のない折敷 がもちいられています。そして飯は右側に汁は左側になっています。 こういう配膳はすでにこの時代には定着していたことがわかります。 小さな皿は調味料でしょう。おかずが高く盛られています。この形式

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図8﹃聖徳太子絵伝﹂より 4紫式部の食卓について 図9はある本に掲載されていた紫式部の食事です。高杯の上にごはんがあり、四種器がそえられています。、おい しそうに作られていますがメインの魚はいわしです。先ほど鰯が歌によまれているのでつけたのでしょうか。奥の膳 に茶色のおだんご状のものは、﹁蘇﹂というチーズにあたるものです。牛乳は智聡が中国から乳牛を連れてきて牛乳 条流、武家は進士流や大草流などという料理人が活躍します。中国の影 響は影をひそめ、わが国独自の膳形式、汁と飯と香の物に副菜という献 立の基本形が定着し、箸のみで食する形態が確立します。高盛り飯は図 のように饗応には踏襲されますが、その飯の量は少なくなる傾向になり ます。本膳料理の基礎が成立し、江戸時代には庶民の間にも浸透し、冠 婚葬祭のハレの饗応食に用いられ、近年まで続いていました。茶の湯の 懐石料理や宴席料理の会席料理は本膳形式を基として、時系列に改良し て成立していきます。 余談ですが、お箸は現在の日本の配膳では横におきますが、唐の文化 が入ってきたときには横置きでした。ところが中国との交流を貴族層が 行わなかった鎌倉時代に中国は縦置きに変ってしまいます。すでに日本 では独自の膳というスタイルを作り出して箸は横置きで汁も椀を持ち上 げて飲めるように、椀の形ができあがっており、日本式の食べる様式が 確立します。 −228−

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平安期の食文化を見る−平安貴族の饗応食の食材と調理について− 食ふ﹂︵常夏︶ 忘田].訪食のち8年より 図9紫式部の食卓再現﹁アサヒグラフ﹂ 夏の氷に関しては﹃枕草子﹄のほうが有名で、それによりますと貴族たちが削氷に甘葛煎︵アマズラ︶をかけて真 夏に食べていた事が述べられています。源氏物語にも氷水が出てまいります。この夏の氷は氷室に貯蔵しておいたも

①夏の氷

﹁いとあつき、東の釣殿の出て給て涼み給ふ⋮。:おほみきまいり、氷水召して水飯など、とりどりにさうどきつつ を天皇に献上し、天皇が気に入って飲むようになったといいます。。皇 子たちに1日3合飲ませていたという記録が残っています。やがて智聡 の子孫である善那の代に牛乳を皇室に毎朝献上する習慣になります。牛 乳の保存加工品として酪・蘇・醍醐があります。Ⅲ升の牛乳をn分の1 までに煮詰めて濃縮したものが蘇であると記されています。この牛乳も 武士の時代になると姿を消します。そして明治時代になるまで牛乳は飲 まれなくなります。先述したように貴族の食事はたんぱく質が多い傾向 にあることから糖尿病や脚気、結核などになったようです。 5源氏物語と食について 源氏物語には食について語られる部分が非常に少ないのです。このこ とは、当時は食の事を話題にする事があまり好ましくなかったのではな いかと考えられます。それでも食事をとる場面はありませんが食材とし ては幾つか登場するので二つだけご紹介します。

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のを担当地域から運ばせております。なんとも贄沢なものです。そして夏は飯に水をかけた水飯、冬はお湯をかけて 湯漬けが食されていました。 栄華を極めた貴族社会の儀式料理は権力誇示のため、全国の特産物を中央に集め贄沢な食文化を培っています。そ して形骸化した﹁見せる﹂ための料理形態は、様々な環境の場で改良を加えられて洗練され、独自の日本料理を完熟 させていきます。その変化には長い年数がかかり、先人たちの叡智が凝縮されています。この日本の食文化を大切に しつつ、さらに発展させていく必要があると思います。明治以降、日本はそれまでのことを否定する事で発展して、 現在切り捨てた事の大きさを反省する時期にきたといえます。このチャンスをいかして、日本的な文化の基礎はこの 時代まで遡って考える必要があると思われます。歴史の深さに思いを馳せて後世に伝えていくことをしっかりと見極 ﹁御粥などまゐる方に目もやらず、﹂若菜下 ﹁御粥、強飯などまゐりてぞ、.:・・・﹂東屋 ﹁御粥、強飯召して、客人にもまゐりたまひて・⋮..﹂末摘花 こわいい 当時の飯についてみますと、お粥、強飯がしきりに出てまいります。高盛りにするには現在のオコワ︵もち米︶ま ひめいい たはうるち米を固めに炊いたものと思われます。またお粥と強飯の間に姫飯があります。これは後世になってから姫 飯が現在の飯になったといわれています。

②飯の種類

Ⅲ終わりに

−23()一

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平安期の食文化を見る−平安貴族の饗応食の食材と調理について

める力が必要なのではないかと思っております。そしてまた、女子大で学ぶ意義をこのあたりからひも解いてみるの

参照

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