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『天則』における道徳論議の研究(一)教育勅語発布直後の反応と道徳論議 利用統計を見る

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『天則』における道徳論議の研究(一)教育勅語発布

直後の反応と道徳論議

著者名(日)

高瀬 幸恵

雑誌名

井上円了センター年報

12

ページ

199-212

発行年

2003-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002746/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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﹁天則﹂にお

教育勅語発布直後の反応と道徳論議

研究二︶

高瀬幸恵§ミ栖へ・

はじめに  周知のように﹃天則﹄は、哲学館の第一回卒業生となる学生を中心として一八九〇年六月に発足した哲学研究 会の機関誌である。哲学研究会会員には哲学館の学生のほか、会長の加藤弘之を筆頭に、副会長には井上円了、 そのほか石川千代松、岡田良平、内藤駈翌、村上専精、沢柳政太郎、三宅雄二郎、清野勉、棚橋一郎など、帝国 大学出身者や帝国大学及び哲学館で講師を勤めていた学者が名を連ねていた。この研究会の機関誌である﹃天 則﹄二八九〇年七月創刊︶では哲学、倫理学、宗教学等を中心に取り扱った右のような当時一流の学者たちの論 説が数多く掲載されている。東京大学文学部哲学科の学生であった井上円了、井上哲次郎、三宅雄二郎らによっ て一八八四年に組織された哲学会の機関誌である﹃哲学会雑誌﹄二八八七年二月創刊︶と並んで、﹃天則﹄は明 治中期における哲学を中心とした人文・社会科学研究の状況を知ることのできる貴重な学術雑誌の一つである。  そもそも﹃天則﹄は、一八八九年三月に発行された加藤弘之の個人誌であった。加藤は井上円了が東京大学文 学部哲学科在籍当時、東京大学総理を務めており、先述の哲学会発足の援助者であり、また会員でもあった。加 藤と円了との出会いはさらに湖り、円了が一九才の一八七八年、東本願寺の東京留学生として上京した折り、加 199 f大則」における道徳論議の研究(

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藤を訪問する機会を幾度か得たという︵−︶。加藤は哲学館設立の際も寄付等の援助を行い、また哲学館の講師を 務めるなど、哲学館開校のコニ恩人﹂の一人として円了が感謝していた人物である。その加藤が一八九〇年五月 に帝国大学総長に就任し公務多忙となったため﹃天則﹄の発行を維持することが困難となり、右のような円了と の縁もあって、哲学研究会を加藤を会長として立ち上げ、その機関誌として引き継ぐこととなった。  ↓八九〇年七月に哲学研究会より発行された新しい﹃天則﹄が注目に値するのは、先述のような学術雑誌とし ての質の高さだけではなく、明治中期という思想史、教育史にとって重要な転換点とされる時期に発行されてい たことによる。周知のように一八九〇年一〇月末に教育勅語が換発され、その後の思想、教育、道徳、宗教に関 する様々な局面に重要な影響をもたらした。これまでの古典的・代表的な日本教育史研究においても、教育勅語 は戦前日本の教育の聖典として絶対的な効力を持っていたとする見解がとられてきた。しかし近年ではこうした 既存の教育勅語研究に対する批判的見地に立った研究が行われつつある。教育勅語の成立事情や、教育勅語の改 訂.追加論等の諸言説に着目して、教育勅語の権威の実態を再検証する佐藤秀夫の研究や︵2︶、また特に教育勅語 発布直後においては﹁知識層・一般民衆を問わず、教育勅語が重要な文書だという認識は余りなかった﹂とし、 ﹁それが国民の間で一定の権威をもつようになるのは、九二∼九三︵一八九二∼一八九三︰高瀬︶年の第一次教育 と宗教衝突論争を通してであった﹂という久木幸男の指摘︹3︶もある。  実はジャーナリズムにおいても、発布直後の教育勅語の扱いは決して丁重とは言い難いものであった。多くの 雑誌が教育勅語の全文を紹介し、それを讃える記事を掲載しているものの、掲載された勅語には誤字・脱字が多 く見られる上、その解釈も雑誌によって様々であった。またとりわけ学術雑誌では、教育勅語発布後も多くの道 徳論が掲載されていたが、そのほとんどの論説は教育勅語を道徳や倫理の基本としてとらえることもなく、ほぼ 200

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無視していたと言えるだろう。  本稿では、明治中期の人文・社会科学系の学術雑誌である﹃天則﹄から、ジャーナリズムとそこにおける道 徳・倫理研究に対する教育勅語の影響の一側面を明らかにしたい。教育勅語発布直後において﹃天則﹄は教育勅 語をどのように受け止めたのか、またその後の道徳に関する論説がどのような影響を受けたのだろうか。 二、教育勅語に対する﹃天則﹂の反応  教育勅語が換発された直後、一八九〇年一一月一七日発行の﹃天則﹄︵第三編第五号︶では、教育勅語の全文を 誌上で紹介するとともに、勅語について天皇が風俗や道徳の乱れを﹁かくまでに叡慮を悩まし奉り﹂て﹁下し﹂ たものであり、﹁我が輩勅語を拝して感激已むこと能はず﹂とのコメントが付されている。しかしこの記事をよ く見てみると、このようなコメントとは裏腹に、教育勅語の取り扱い方が慎重でなかったことが以下の三点から 理解できる。  第一に、この教育勅語の紹介の記事が雑報欄に掲載されていることが挙げられる。この時の雑報欄にはこの記 事の他に、沖縄県民が中国に漂着した記事などが掲載されており、こうした一般的な時事と教育勅語が並列に扱 われている点は留意しておく必要がある。ちなみに﹃哲学会雑誌﹄では、教育勅語が発布されたことにさえ触れ られてはいない。勅語発布後一ヶ月を経た一二月五日発行の﹃哲学雑誌﹄の雑報欄には、﹁道徳教育ノ一法﹂と いう論説が見られる。この論説では、道徳教育の指針として公布された教育勅語については言及されず、﹁今日 の如き道徳思想の薄弱なる時代に於いては道徳教育の方法を考究すること実に必要なる業務なりといふべし﹂と し、効果的な方法として伝記を用いて徳性を開発する方法を提案している。 201 r天則」における道徳論議の研究(一)

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 第二に、教育勅語全文の紹介において、表記の仕方の相違や誤りがある。 ﹃天則﹄編集者がどのメディアから 教育勅語を参照したかは不明だが、勅語謄本や官報で見られる漢字と片仮名による表記とは異なり、漢字と平仮 名を用いている。その全文を以下に紹介しておこう。   朕惟ふに我が皇祖皇宗國を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一   にして世々蕨の美を濟せるは此れ我が國髄の精華にして教育の淵源亦實に此に存す爾臣民父母に孝に兄弟に   友に夫婦相和し朋友相信し恭倹己れを持し博愛衆に及ぼし學を修め業を習ひ以て智能を啓登し徳器を成就し   進みて公益を廣め世務を開き常に國憲を重じ國法に遵ひ一旦緩急あらば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を   扶翼すべし是の如きは猫り朕が忠良の臣民たるのみならず又以て爾祖先の遺風を顯彰するに足らん   斯の道は實に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所之を古今に通じて謬らず之を中外に施   して惇らず朕爾臣民と倶に拳々服膚して威其の徳を一にせんことを庶幾ふ︵傍線二局瀬︶  傍線部を見れば明らかなように、原文では﹁進テ公益ヲ廣メ﹂となっているところを﹁進みて公益を廣め﹂と し、また﹁一旦緩急アレハ﹂をコ旦緩急あらば﹂と誤って表記している。では他のメディアでの教育勅語の紹 介はどのようなものであったのか。例えば﹃教育時論﹄では、原文には見られない句読点を多用し、さらに﹁顯 彰﹂を﹁顯影﹂と誤るばかりか、末尾の﹁威其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ﹂を﹁威其徳ヲ一ニセンコトヲ。﹂と して﹁庶幾フ﹂を省いてしまっている。こうした誤字・脱字もしくは誤植は﹃教育報知﹄でも確認でき、おそら くその他多くのジャーナリズムでも見られるものと推測される。発布直後のジャーナリズムでは、教育勅語を神 聖な文書として扱う認識がほとんどなかったようであり、﹃天則﹄もこの例に漏れなかったと見てよいだろう。  第三点は、教育勅語の解釈に関する問題である。﹃天則﹄では上記のような勅語の紹介に続き、﹁勅諭下り儒生 202

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喜ぶ﹂というタイトルの記事が掲載されている。この記事は、教育勅語の発布によって道徳の基盤が儒教に定ま       かお ったと﹁速了﹂︵早合点︶した儒学生たちが﹁喜ぶ﹂ことに対して、﹁喜ぶは善し、われは貌ならんはわうし﹂ ︵喜んでもいいが、得意顔になるのは感心しない︶とする皮肉を込めた内容になっている。この記者は、こうした儒 学生に向けて新聞﹃日本﹄に掲載された﹁倫理と生理学との関係﹂という論説を﹁頗る観るべきものあれば、写 して世の速了家に示す﹂として紹介している。﹃日本﹄二八九〇年一一月七日︶に掲載されたこの論説は無記名 のものであり、おそらく﹃天則﹄編集者も﹁ある学者の説﹂とのみ記していることから、どの学者かを知らぬま ま転載したものと推察される。筆者の調査によれば、この論説は井上毅のものと断定してよい。一八九一年二月 発行﹃国家学会雑誌﹄︵第四八号︶に、全く同一の論説が井上毅の名で掲載されており、また井上毅の論考集で ある﹃梧陰存稿﹄︵巻一︶に﹁五倫と生理との関係﹂というほぼ同 内容の論考が見られるのである。  この井上毅の論説は、﹁呼んで倫理と謂へば儒教主義の占有物の如く世の人の心得るぞ口惜しき﹂という文章 から始まり、﹁誰が倫理を以て儒教一家の主義と云ふや﹂として、倫理は儒教に基づくものではないと主張する。 そして﹁総て倫理の関係は、生理学に於ける人身の組織構造に基かざるものなし﹂とする。つまり、夫婦間にお ける倫理は、男女の身体的特徴の相違を生かした相互扶助を基本とし、また朋友の関係も群生して栄える社会的 動物の原理に従うものである。君臣の関係についても、人類は空を飛んだり水中を潜行したりできず、また鋭い 牙や爪をもたないため、団結し君主を立てることで万物の霊長の地位を獲得したとし、やはり自己保存の本能と いう人間の生理に基づくものとしてとらえられている。このようにこの論説では、夫婦、親子、君臣、兄弟、朋 友の関係という教育勅語に登場した徳目が、生理学に基づいて解釈されている。このような内容の論説を教育勅 語の発布から間もない一一月七日に教育勅語作成者の一人である井上毅が公表していること自体、大変興味深い 203 r大則」における道徳論議の研究(

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事実である。と同時に﹃天則﹄編集者がこの論説を、教育勅語を﹁速了﹂ではなく了知する上で有効であると捉 えている点は注目に値する。  ここで、教育勅語の解説書として代表的な井上哲次郎の﹃勅語街義﹄︵一八九一年九月公刊・初版︶における上記 の徳目の解釈を見てみよう。哲次郎は円了と同じく東京大学文学部哲学科の出身で、円了とともに先述の哲学会 を起こした人物である。﹃勅語術義﹄は、教育勅語発布直前の一八九〇年一〇月一三日にドイツ留学から帰国し た哲次郎が、文部省の命により編纂した勅語の解説書である。この中では、家族の関係を国の大本ととらえ、家 族の和睦は国力の増進に必要であると説かれた。朋友に関しては相互協力が重んじられているが、﹁国安二対シ 隠謀ヲ企ツルガ如キハ、朋友ト錐モ決シテ従フベキニアラズ﹂とし、国家の安寧に最も重要な価値が置かれてい る。君臣の関係については、君主の臣民への愛撫と、この愛撫に対する臣民の君主への恩義によって両者は結ば れているものとして解釈された。このように倫理が国家の利益・安寧や君主への恩義に基づいて説かれた﹃勅語 術義﹄と、倫理を生理学から解釈するという井上毅の論説は全く相容れないものである。  井上哲次郎編纂の﹃勅語術義﹄は先述のように文部省の命で編纂されたものであったが、しかし結果的には文 部省の公的解説書としてではなく、師範学校・中学校教科用書として刊行された。佐藤秀夫の指摘によれば、﹃勅 語祈義﹄は﹁個人著述の﹃検定教科書﹄にとどめられ﹂たのであり、それ以後も﹁﹃教育勅語﹄に関する公式の 解釈決定版はついに成立し得なかった﹂︹4︶。事実、一八九九年に同じく井上哲次郎が執筆した﹃増訂版勅語街 義﹄においてでさえ、教育勅語の解釈は大きく変化したのであり、その解釈は一定化され得なかった。  とりわけ、先にみたように教育勅語が重要かつ神聖な文書であるという認識が確立されていない発布直後の時 点においては、ジャーナリズムにおけるその解釈は編集人の独断・偏見によるところが大きかったと思われる。 204

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井上毅の生理学に基づく倫理の解釈をそのまま教育勅語の解釈に援用した れよう。 ﹃天則﹄のケースはその一例と考えら 三.教育勅語発布後の﹃天則﹂誌上の論説  教育勅語発布後、 ﹃天則﹄に掲載された道徳に関する論説はどのようなものであったのか。果たして教育勅語 の影響はあったのだろうか。  当時の道徳に関する論説を見ると、特に﹁私﹂と﹁公﹂との関係性という教育勅語の根幹となるテーマが共有 されて論じられていたことが理解できる。その論説の内の幾つかを紹介したい。  哲学研究会の会長であり、哲学館の講師︵社会哲学︶も務めていた加藤弘之︵当時帝国大学総長︶は、一八九一 年五月一七日﹁公私利益﹂︵第三編第一一号︶という論説を掲載している。加藤は公利・公益と私利・私益につい て、﹁公利公益とは自己の身体も生命も悉く放棄して国家の利益を計り私利私益とは社会の禍福は更に顧慮せず して自己の利益のみに汲々たるものの如く考ふるは大なる誤謬なり﹂というように従来の通説を批判している。 ﹁公利公益を奨励して自己一身の利益は社会の為に他人の為に之を拗棄せさるへからすとするは古今宗教上道徳 上の教ゆるところ﹂であるが、加藤の考えによれば、﹁自然の天則宇宙の真理は決して斯の如きものにあらす﹂ という。  ではここで言う﹁天則宇宙の真理﹂とは何か。それは﹁都て生物は自体を保存するてふ即ち自護の性質を具 有﹂することであり、従って、自己を棄てて他の為に何かをするということは、人間を含めて生物一般にはあり 得ず、﹁予は人間固有の性情としては公利公益のみを謀りて私利私益を思はさるか如きは決して有り得べからさ 205 r天則」における道徳論議の研究〔一)

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る﹂と加藤は考える。しかし他方では、﹁人間は社会的の動物﹂でもある。﹁一の社会は一人の身体の如く一人は 小なる我にして社会は大なる我なり﹂とし、﹁必ず一団体全部の利益を求めさるへからす﹂という。  ここでは、自然科学の﹁天則﹂である自己保存の本能と、社会学の﹁天則﹂である国家有機体説という二つの ﹁天則﹂が折衷されている。ここには、﹁私益﹂と﹁公益﹂とを切り離さず連関するものとしてとらえる加藤の 発想が見られる。  同年六月には、井上円了と同時代に東京大学文学部で学び、当時は哲学館で講師︵史学︶を勤めていた棚橋一 郎が﹁自愛と他愛の関係﹂︵第三編第一二号︶という論考を公表している。棚橋は、他愛の実現性を問い、個人に とっての幸福はそれぞれ異なるのだから、他愛の範囲が広範な博愛論や最大多数の最大幸福を論じる功利説は、 実際には実現しないと考える。これに対して自愛については、人間には自己保存の本能があるのだから自愛は自 然の感情であり、これを親族、朋友、郷、国へと広げていくことは難しいことではないと棚橋は考える。しか し、道徳において最も重視するのは人間の本能である自愛であり、﹁人間の徳義なるものは自愛を措きて他に決 して求むべからず﹂、﹁余は自愛心を広めて他に推及するを以て人間徳義の大本なりと思惟する者なり﹂と論じ た。  また同号には哲学研究会会員であり、哲学館の学生であった笹原貫軒の﹁風俗的教育一斑﹂と題した論説も掲 載されている。笹原は、自己とは他者との差異があって初めて自己を発見し、これを愛することができるとした 上で、自愛があって初めて愛国が可能であると考える。   自を愛し自の独立と云ふ思想あるへき筈なく随て我国を愛し我国家に尽くすなどの精神は到底望へきにあら   さるなり去れは一国の独立を輩固ならしめんと欲せは其国家を構成する人民各個人に在りて既に独立不擁の 206

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  精神を要するなり  さらに愛国心の育成と国家の独立のためには自国と他国の差異を知る必要があり、﹁将来我日本の独立を維持 し我国民の福祉を希図せんには宜しく他邦に殊別なる日本固有の性質を発達せしめるへからす﹂とする。そのた めに自国の社会の風俗や習慣を教育していく必要性を説いている。  このように教育勅語発布後の﹃天則﹄では、﹁私﹂・﹁公﹂あるいは﹁自愛﹂・﹁他愛﹂︵﹁愛国﹂︶の関係性をテーマ にした道徳論が多くみられる。この関係性は教育勅語を解釈する上で軸となるものであるが、﹃天則﹄上での論 説では﹁私﹂や﹁自愛﹂を重要視した道徳論が展開されていた。  この他、一八九一年八月には哲学館講師︵印度学︶であった村上専精の﹁道徳の咄し﹂︵第四編第二号︶という 論説で、仏教の教義から﹁漸塊差恥の情﹂が徳義の履行に有効であることが  教育勅語に触れられぬまま 論じられている。また同じく講師︵論理学︶であった清野勉は、一八九二年一月の﹁儒教・王義﹂︵第四編第七号︶ と題した論説の中で、教育勅語は立憲制国家と四民平等を前提としたものであり、従って専制政体を前提とし、 階級政治を主眼とする儒教・王義に基づかないものであることを論じている。清野は教育勅語に賛意を示している が、そこには独自の勅語解釈が見られるのである。  このように教育勅語をほとんど無視した形での道徳論や、教育勅語を独自に解釈する論説が展開される中で、 これに対する反発も見られる。哲学館講師であった岡本監輔は一八九二年三月︵第四編九号︶に、﹁今日の学は内 外古今に亘りて博く智識を求め、実益を講ずべきに論なしといへど、必ず勅諭の旨を忘ることなく、勅諭は即ち 我が自知の明にして天地の大道たるを信じ之を尊守して万学を基を立つべき﹂とする論説を公表している。  しかし、こうした反発は﹃天則﹄上に寄稿した多くの学者や編集者に共有されてはいなかった。教育勅語発布 207 f天則』にssける道徳論議の研究〔

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から一年を過ぎた 八九二年一月︵第四編七号︶の雑報では、編集者の徳育に対する現状認識が以下のように示 されている。﹁教育上徳育のことは今や社会の一大問題となれり、甲乙論議互いに相決せず、或いは遂に未定の 有様に安心せんとしたる、一種の新説すら世に現出することとなれり﹂。教育勅語が徳育や道徳の基礎を定め、 徳育問題に解決を与えたというような認識は、ここには全く見られないのである。 208 四、教育勅語とキリスト教批判  このように﹃天則﹄における道徳論に対する教育勅語の影響はあまり大きなものではなかったが、教育勅語の 国家道徳としての権威を強調する論調が時折見受けられる。それはキリスト教を批判する論説においてであっ た。教育勅語公布にあたって、先述のように﹁喜ぶ﹂儒学生を椰楡した﹃天則﹄編集人たちであったが、﹁道徳 の抵触﹂として徹底的に批判したのはキリスト教に対してであった。  教育勅語公布から四ヶ月ほど過ぎた一八九一年二月、﹁道徳の抵触﹂︵第三編八号︶と題した論説では、同年] 月九日、第一高等中学校での始業式に端を発する内村鑑三の不敬事件を取り上げ、﹁之︵この事件︰高瀬︶を実行 する者、之を弁護する者、之を賛成する者、何れも熱心なる耶蘇教信者にして、今回の事件に頑然として抗弁す る所以のものも、主として其宗教上に於ける信仰に基くもの﹂であるならば、キリスト教と我が国の道徳とは ﹁両者並存共立し得ざるものの如し﹂としている。その上で、以下の引用文に見られるように、キリスト教徒を 日本の道徳を破壊する﹁非国家的﹂な存在としてとらえ、加えて暗にキリスト教系学校における教育を批判して いる。   荷も彼等が日本国民として、陛下の臣民として、自国の道徳を破壊し、汚辱する者とせば吾人は之を国家の

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  罪人なり道徳の罪人なりと断定するに躊躇せざるなり、況や彼等の如き非国家的の徒をして我国将来の継続   者たる青年子弟を鋳冶すべき重任を負はしむるをや、其結果誠に杷憂に堪へざるものあり  さらに、翌月三月発行の﹃天則﹄にも﹁日本の基督教徒﹂︵第三編第九号︶と題する論説が掲載されており、よ り厳しい論調でキリスト教批判が行われている。この論説では、﹁基督教は実に日本に於ける猛劇なる破壊党な り、彼等は我国の風俗習慣に対して全然之を消滅に帰せしめんとするものなり、基督教徒の道徳は決して我国の 道徳と調和することを能はす﹂と断定されている。この断定を裏付けるため、記者は﹃郵便報知新聞﹄上のキリ スト教徒からの投稿を取り上げている。この投稿では、小学校において御真影への拝礼と勅語への﹁稽首﹂を児 童に強いることについて、﹁教育上に於いて其何の益あるかを知るに苦しむ、寧ろ一種迷妄の観念を養ひ、卑屈 の精神を馴致するの弊あるなきか疑ふ﹂との疑問が投げかけられている。さらにこの投稿者は、天皇は神である からこれに向かって宗教的礼拝をしなければならないと言われれば、死をもってこれに抗するとまで断言する。 こうした投稿文に対して、﹃天則﹄の記者は﹁神聖なる陛下の聖徳を汚辱せんとするものなり、連綿たる国体を 破壊せんとするものなり、固有なる我国の風俗習慣を滅亡せんとするものなり﹂と徹底的に非難する。さらに は、以下に引用したように、キリスト教系学校への検束についても言及しており、宗教教育を禁止する一八九九 年の文部省訓令第一二号を彷彿とさせる内容である。   吾人は更に進んて国家的教育上より、彼等が有する基督主義の学校を検束すべき法令を要求せんと欲するも   のなり、何となれば、彼等は這般の主義を固持して我青年を函育す、是れ眞に非国家的破壊党の勢力を増大   にするものなればなり、然るに却て彼等をして文部省所轄外に遣遙せしむるは何ぞや  このように教育勅語との関連でキリスト教批判を行う際、先述の﹃天則﹄における教育勅語の紹介では見られ 209 r天則」における道徳論議の研究(一一)

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なかった﹁神聖なる陛下の聖徳﹂や、﹁連綿国体﹂といった言葉が登場する。道徳や倫理の原理として教育勅語 はほとんど重視されなかったにもかかわらず、キリスト教と教育勅語との相剋に対して編集者は鋭敏に反応し、 権威ある国家道徳として勅語を賛美した。こうした﹃天則﹄における反応は、キリスト教批判の世論が高まって いく中で、教育勅語の神格化が行われていく過程を端的に表しているのではないだろうか。 210 おわりに  これまで見てきたように、教育勅語発布を受けて﹃天則﹄では、おそらく他の多くのジャーナリズムと同様に 教育勅語の取り扱いや解釈をさほど慎重に行っていなかった。また、その後の論説においても教育勅語の根幹に 係わるテーマを扱いながらも、﹁私﹂や﹁自己﹂を重視した道徳論が多く見られ、それらは教育勅語に示された 道徳を考慮したものとは言い難い内容であった。発布直後における﹃天則﹄における教育勅語の影響は大きいも のではなかったと言えよう。しかし他方で、キリスト教が道徳を躁躍するものとして批判される際には、国家道 徳としての勅語の権威が強調されるのである。  このような﹃天則﹄におけるキリスト教に対する反応は、井上円了が一八八九年に外遊から戻った後、自国の 言語、文章、歴史、宗教の保護の必要を強く認識し͡5︶、キリスト教の普及に対して露わにした危惧感︹6︶と重ね 合わせて見ることができよう。また右のような認識から円了が、哲学館の﹁従来ノ学科中、西洋哲学ヲ主トシ、 東洋哲学ヲ属トシタルモ今後ハ漸々二東洋哲学ヲ正科トシ西洋哲学ヲ副科トスルノ方向﹂を目指した姿勢は、先 に紹介した哲学館の学生であった笹原貫軒の﹁将来我日本の独立を維持し我国民の福祉を希図せんには宜しく他 邦に殊別なる日本固有の性質を発達せしめるへからす﹂とする議論に大きな影響を与えていると考えられる。

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 はじめに触れたように、教育勅語が国民の間で一定の権威をもつようになるのは、]八九二∼九三年の第一次 教育と宗教衝突論争を通してであったとする久木幸男の見解と関連づけてみると、キリスト教批判の世論の高ま りと教育勅語の権威形成は深い関わりを持っていたことが推察される。﹃天則﹄における道徳論議と教育勅語と の関係を明らかにする上で、教育と宗教の衝突論争に関する議論を今後分析する必要があると思われる。次回の 課題としたい。 ︻参考文献︼  哲学研究会の発足、﹃天則﹄の発行状況や哲学館の講師陣と円了との関係などについては以下の文献を参照した。 ﹃東洋大学百年史 通史編工﹄↓九九三年 ﹃東洋大学百年史 資料編1・上﹄一九八八年 ﹃東洋大学百年史 資料編1・下﹄一九八九年 井上円了記念学術センター編﹃東洋大学人名録 役員・教職員 戦前編﹄一九九六年 ︻注︼ ︵1︶ 井上円了﹁加藤老博士に就きて﹂﹃東洋哲学﹄第二二編第八号 ︵2︶ 佐藤秀夫は、教育勅語の成立について、日本近代化に相応した教育体制の形成をめざす﹁試行錯誤﹂の一環として   ﹁たまたま﹂企画・実施をみたという面があることを指摘した上で、さらに公布以後も、権力上層部における教育勅   語改訂・追加の構想が存在したことや、﹁戊申詔書﹂、﹁国民精神作興二関スル詔書﹂、﹁青少年学徒二賜ハリタル勅語﹂   などの天皇制の公教育支配を﹁補強﹂・﹁補完﹂するための諸詔勅類が出されたことに着目している︵佐藤秀夫﹁解説﹂   ﹃教育・御真影と教育勅語1﹄︿続・現代史資料八﹀みすず書房、一九九四年︶。教育勅語改訂論についての研究とし   て、久木幸男﹁江原素六教育勅語変更演説事件﹂︵﹃佛教大学教育学部論集﹄第四号、一九九二年︶も注目に値する。 211 rx則」における道徳論議の研究(一〉

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久木幸男﹁明治期天皇制教育研究補遺﹂ ﹃佛教大学教育学部論集﹄第六号、一九九五年 佐藤秀夫﹁解説﹂佐藤秀夫編﹃教育 御真影と教育勅語﹄︵続・現代史資料八、一九九四年︶、 ﹃東洋大学百年史 通史編1﹄一三三頁 ﹃東洋大学百年史 通史編1﹄↓二八、↓三九頁 二五頁 212

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