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「美的判断」,「知見」,「思想圏」の関係からみた
ヘルバルト教育学体系の成立過程研究(注1)
教育学研究室 高 久 清 吉
ま え が き
● ●
{稿では,ヘルバルト教育学の基本的概念と目される「美的判断」(Asthetisches Urteil)
「知見」 (Einsicht)「思想圏」(Gedahker〔㎞eis)の関係を吟味したい・この吟味は,教
(2)
育学史上,「科学的教育学の創始者」と称されるヘルバルトにおける「科学」(wissensひ haft)としての教育学体系の成立,展開の過程を探ろうとする私のヘルバルト研究の一環
をなすものである。したがって,以上のような諸概念の関係に関する考察の中心観点は,
ヘルバルト教育学体系の展開を明らかにするとの根本意図に基づいて設定されている。本 稿におけるこのような考察は,次の二点を問題点として進められる。第一は,美的判断と 知見との関係,第二は,美的判断と思想圏との関係である。
1. 美的判断と知見
● ● wルバルトの初期の論文『教育の中心任務としての世界の美的表現について』(Uber
dle asthetische Darstellu㎎der Welt als das Hauptgeschaft der Erziehu㎎.1802.1804)
(以下『美的表現』と略称)では,人問の意志関係に対して下される 「美的判断」が,こ の判断に「服従する意志」との関係に入るところにはじめて道徳が成立するとのヘルバル
ト道徳論の眼目が述べられている。したがって,この論文は,美的判断の陶冶(「教授」)
7 と,これに伴う服従意志の陶冶(「訓練」)が,道徳を「唯一全体の課題」とする教育作 用のすべてであるとの論旨に貫ぬかれている。
この「美的判断」とこれに「服従する意志」との関係は,ヘルバルトのその後の諸著作 では「内的自由」(innere Frei heit)またはその現実化の「徳」(Tugend)と呼ばれ,教 育の最高目的,したがってまた教育学体系構成の要としての中核的位置を一層はっきりと
させられている。
しかし,ここで問題になるのは,『美的表現』の論文以後のヘルバルトの諸著作におい て,「美的判断」に代り「知見」の語が使用され,それ故,「美的判断とこれに服従する
● ● ● ●
38 茨城大学教育学部紀要第十三号
意志」という代りに,「知見とこれに服従する意志」の関係がもっぱら前面に出されてい ● ■
ることである。たとえば『一般教育学』(AIIgemeine Padagogik.1806)では次のように 述ぺられている。「道徳は正しい知見に従う意志の作用にその本拠をもっている。それ故,
何よりもまず明白となるのは,道徳教育がある外的な行為をひき起そうとするのではなく,
知見ならびに知見に従う意志の作用を生徒の心の内にひき起さねばならないということで ある。」また『教育学講義綱要』(Umriss Padagogischer Vorlesu㎎en.1835.1841)
(3)
(以下『綱要』と略称)では,「徳は教育目的の全体についての名称である。徳は人格にお いて確立され,現実へと発展した内的自由の理念である。一内的自由とは二つの肢節,
すなわち知見と意志との間の関係である」と述ぺられている。
㈲
このようなヘルバルト自身の所説からして,一体ヘルバルトのいう「美的判断」と「知 見」とは同一・のものであるのかどうか,したがって,「美的判断とこれに服従する意志
● ● ● ●
との関係」は,「知見とこれに服従する意志との関係」と同一であるかどうかの問題が,へ
o ●
ルバルト研究者の間で論議の対象になってきたのである。この論議に対し,一・応の結末を与 えたように思われるのがナトルプ(PNatorp)である。美的判断とは「趣味」(Geschmack)
の判断であるが,ナトルプは,ヘルバルトのいう「趣味とは感情である」それ故,趣味判
(5)
断または美的判断は快,不快の感情に基づく判断であるとの解釈の前提に立って次のよう に述べている。「ヘルバルトは趣味を全く不意に,以前には全然あり得ないはずの知見と して登場させることにより,なるほど実際には暗黙のうちに,彼の倫理学のもっとも重大 な誤謬を訂正している。そこで内的自由の理念の実質として,今や意志に対する知見の支
配が前面にあらわれる。」ここでナトルプが「以前には全然あり得ないはずの」というの (6)
は,知見と趣味とが絶対に置き換えることのあり得ない全く異質のものであるとの彼自身 の見解の表明とみなすことができる。
(7)
このナトルプの見解が直接,間接にその後のヘルバルト理解を大きく左右し,ヘルバル ト教育学は・当初の美的判断に代り,知的な知見を前面に出すことによって一面的な主知 主義に陥ったとの解釈が通例になってきたように思われる。たとえば,故山極真衛博士は
『ヘルバルト派における教育的教授論の概念の展開』と題する論文の中で次のように述べて いる。「ヘルバルトおよびヘルバルト派の教育学は,近代主知的教育学の源泉として一般 に非難されている・そしてこの非難は決して的なき矢でないといわねばならない。併し,美 的判断とか美的表現の言葉が与える語感は主知主義などとは凡そ縁遠いものである。そこ でヘルバルト教育学において,果してこの美的判断の見解がどこまで堅持されていたか,
或はそれが如何に解釈されていたかが問題となる。」そこで博士はこの問題を次のような 形で提示されている。「ヘルバルト教育学において,道徳は果して美的判断であったか,
高久:「美的判断」,「知見」,「思想圏」の関係からみたヘルバルト教育学体系の成ウ:過程研究 39
或は知的な知見であったかが問題となるのである。美的判断とみるときは,その中心は芸 術的であり一知見とみれば,むしろ中心は認識であり知識である。何れに解するかによ
って方法の上の大なる相違を来すことがある。」このような問題は結論的には次のように 答えられている。「『美的表現』における『美的判断』の思想は1斬次影が薄らぎ,主知的色彩
を濃くしている。」
(8)
さて,上に引用した山極博士の主張中,ここで特に注目したいのは,「ヘルバルト教育 学において,道徳は果して美的判断であったか,或は知的な知見であったかが問題となる」
との問題提起そのものである。このような二者択一的様式による問題提起は,当然にこの 二者,すなわち美的判断と知見とが別個のものであるとの前提に立っていると判断される。
しかし,ナトルプのいうように,そしてまた一般にそう認められてきたように,果してへ ルバルトにおいて美的判断と知見とは異質のものであったのかどうか,したがって,「内 的自由」または「徳」を,「美的判断とこれに服従する意志との関係」として捉えること と,ド知見とこれに服従する意志との関係」として捉えることとは別のものであるのか ど うか,この点こそまず改めて問題にされねばならないだろう。そこで以下しばらくこの点 をできる限りヘルバルト自身の所説に忠実に吟味していくことにしたい。
晩年の『綱要』においては,前述のように,「内的自由とは二つの肢節,すなわち知見と 意志との間の関係である」と述べた後,ひき続き次のような重要な主張がなされている。
「知見ということによって何よりもまず意志の美的(未だ道徳的ではない)判断が理解さ れる。」(Unter dem Worte Einsicht wird zunachst die asthetische(noch nicht
moralische)Beurtellu㎎des Willens verstanden.)っまり,ヘルバルト自身が知見とは (9) ・…
筆的モリ暫で〜争うと特に念を押し断っているわけなのである。このようにもしこの両者が同 一のものであるのなら,先の山極博士による「美的判断か,知見か」との択一的な問題提 起はナンセンスとなるし,またヘルバをトは美的判断に代えるに知見をもってしたとのナ トルプ,あるいはこれに連なる多くの人々の非難はまさに的なき矢となるに違いない。か くて私は更にこの点についての詳しい吟味へと進まねばならない。
以上のような問題点に特に注意しながら,ヘルバルト倫理学の主著『一般的実践哲学』
(Allgemelne praktische PhUosoph{e・1808)中,直接,内的自由に関する所説に改めて 注目することにしよう・一内的自由では「模範を与える趣味(Geschmack)と,この模
● ●
範に相応するかあるいは相応しない意志(Willen)との関係が考察の対象となる。」「判
゜
@ (1① ・
断(Beurteilung)と意欲(Wollen)は,一方が規則を与え,他方がこれを受取るという・ ■ ●
二分された相異なる人物ではない。」「関係の諸要素を分離しようとするなら,非認も承 ⑪
認も沈黙するだろう。個々の要素に分けられるとき,知見(Einsicht)も服従(Folgsamkelt)
● ● ● ●
40 茨城大学教育学部紀要 第十説1ナ
も承認され得ない。」「われわれが内的自由と呼んでいる関係の特有性は,理性的存在者
(12)
の全く異質的な二つの表示,すなわち趣味(Geschmack)と欲求(Begehrung)とを結合 o ● ● .
するという点にある。」「完全な知見(Einsicht)と,これに完全に相応する意欲(Wollen)
@ ⑬ ゜ °°
との問の謝一この翻・こそ雌的存緒の真の現期雛としての徳である・」αの(傍 点筆者)一以上のように,「内的自由」または「徳」に直接言及する筒所を見ただけで も,これを成立させる関係肢節は,Geschmack対Willen, Beurteilu㎎対Wollen,Einsicht 対Folgsamkej t, Geschmack対Begehru㎎, Einsicht対Wollenというように・あたかも 意識的にその組合せを変えているのではないかとさえ思われる程のさまざまな表現をとっ ている。ヘルバルト自身によるこのような美的関係の規定をみる限りでは,関係の第二肢節 としての「服従する意志」に対立する第一肢節としての「趣味判断」または「美的判断」
と「知見」とを区別し,これを別個のものとみなすぺき根拠は全く見当たらないのである。
つまり同一のものが時には美的判断と呼ばれ,時には知見と呼ばれているに過ぎないとい
うことになる。
それではこの両者は全く同一のものであると断定してよいのであろうか。「美的判断」
と呼ばず,「知見」と称するとき,もちろん異質のものを指すのではないとしても,それ なりの違った意味づけがなされてはいなかったのであろうか。私は更にヘルバルト自身の 所説によってこの点の究明へと進まねばならない。
以上の点に特に注意しながら一層子細に『一般的実践哲学』を読んでいくと次のような主 張に突き当たる。「服従は知見に相応すべきである。一一体この知見は何を洞察するのである か。ここでは知見と意志との関係ばかりでなく,趣味の裁可(d eSanction des Geschmacks)
にあずかる更に他の諸関係のあることが明らかに前提されている・」「知見には洞察され るもの,すなわち全理念が相応するので,諸理念の関連の基礎が内的自由の関係の第一要 素,つまり知見であるのは全く明白である。」要するに,知見の対象は「趣味の裁可」に
@ σ5)
あずかる意志のあらゆる関係,云い換えれば,全理念であるというのである。この見解は
『一般教育学』中の次のような主張と同一とみなされる。「ひたすらの専心の中で無意志的 判断(ein wlllenloses Urtei1)が同意または非認をもって表示するところのもの一ここ から意志は法則を,秩序の原理を,そして意志の志向し努力する対象を受取る。この無意
志的是認によって表明されたものを私は実践的理念(eine praktlsche Idee)と呼ぶ。」以 ㈱
上のような『一般的実践哲学』および『一般教育学』の主張は,知見または判断の対象が等し く実践的理念であるということを明らかにしているが,ただこの実践的理念が前者では 圏「知見」により,後者では「無意志的判断iすなわち美的判断により洞察され,是認され
・ ● ■ ● ● ● ● ■ ・ …
ると述べられている。したがって,この場合の知見と美的判断とが同一の心的作用に付せ
高久:「美的判断」,「知見」,「思想圏!の関係からみたヘルバルト教育学体系の成、乞過程研究 41
られた名称の相違に過ぎないという点はこれまでと変わらない。
ところが同じ実践的理念の洞察を説く『現今流行哲学とのわが論争について』(むber meinen Streit mit der Modephilosophie dieser Zeit.1814)中の次のような主張は多少 趣を異にしている。「教育の目的は徳である。徳は知見とこれに相応する意志との結合で ある。知見はそれぞれ独立した五つの実践理念,およびこの理念の人間生活への適用に関
● ・ o ● . ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ・ ● ・
する無数の知識を包含する。(Die Einsicht umfasst f臼nf, unter sich unabhangige,● ● ■ o ● ● ● ● o ● ● ●
praktlsche Ideen, nebst elner unbestimmte Me㎎e desjenigen Wissens, welches die
Anwendung der Ideen auf das menschliche Leben betrifft)」ここでは知見が単に実働
践的理念の洞察のみならず,この理念の現実生活への適用に関する無数の知識をも包含す るものとして拡大されている点に特に注意を要する。このような見解は『一般教育学』にお ける次のような主張と軌を一にする。「人間は道徳的眼識をもって世界における自分の全 位置を熟視しなければならない。一彼は実践的洞察を理論的洞察で武装しなければなら ない。そしてこの洞察に従って行動しなければならないQ私はこれを他のところで,『道徳
的生活秩序の実用的構成』(Pragmatische Konstrukti on der sittllchen Lebensordnung)と
の表現で予示しておいた。」「他のところで」というのは『美的表現』の論文を指している圏
のであるが,そこでは,性格の堅固と統一とを維持する源として,「実践的情操(Praktische Gesinnungen)の確固たる体系」を組織するために,諸関係の各々についての美的判断を
「一一つの生活秩序」(eine Lebensordnung)へと構成することの必要が説かれている。
α91
以上のような主張は,単に美的判断を表明することそれ自体から更に進んで,この判断 がどのようにして生徒の内部に根を張ったものとなるか,云い換えれば,この判断によっ て洞察され是認される実践的理念がどのようにして人間の現実生活へと適用されるかとい
う点にまで及んでいる。そして「知見」がこのような「理念の適用に関する無数の知識を も包含する」というのなら,これは「美的判断」よりも拡大されたより広い概念であると みなすことができう。しかしそれにしても,この両者が「美的判断か,知見か」との二者 択一一の対象となる程異質のものであり得ないことはこれまでの所説から明らかである。
以上の理由から,ヘルバルト教育思想が漸次主知的色彩を濃くしていったとの問題点の 吟味一一更に大きくみれば,ヘルバルト教育学体系の成立,展開の過程をより正しく捉えよ
うとする場合,美的判断から知見へというよりも,美的判断から思想圏の陶冶へというへ
・ ● ・ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ■ ● ● ● ● ●
ルバルトの教育課題,教授課題の移行に注目することの方が問題の核心に触れることにな
ると思われる。
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2. 美的判断と思想圏
『美的表現』においては,「言葉のもっとも高貴な意味での自由」,つまり子どもが「自 分を取り巻く世界の美的把捉に専念し」,「ある法則を自身に用意し,これに従うべき義 務を白身に課するものとなる」ような「道徳的自由iの確立が教育の究極のねらいとされ ている。したがって,「教育の中心任務」は「世界の美的表現」を通して,子どもによる
「世界の美的把捉を早期に,かつ強く十分に規定することである」とされている。「世界
⑳
の美的把捉」から「美的判断」が出てくる。それ故,『美的表現』の論文では「趣味陶冶」(Geschmacksbildung),つまり美的判断の陶冶が教授一教育の中心課題とされている。
『一般教育学』ではどうであろうか。道徳性の確立,輩固な道徳的性格の陶冶が教育の究極 的目的とされている点については『美的表現』と変わらない。しかし,ここでは「思想圏の陶 冶」(Bildung des Gedankenkreises)という主張が際立って前面に出てきている。『一般教 育学』の基本思想は,この「思想圏1なる語によってきわめて端的に表明されているとみ なすことができる。同書中の次の主張がしばしば引用される。「青少年が単なる利得の故 に,誰かある師匠(Lehr−Meister)からどのような技術,技能を学ぼうとそれは教育者
● ● ■ ● ●
(Erzieher)にとっては,彼等がその衣服にどのような色を選ぶかと同様,どうでもよい ことである。しかしながら,青少年の思想圏がどのように規定されるかは教育者にとって すべてである。なぜなら,思想から(aus Gedanken)感情が生じ,更にそこから基本的原 則や行動様式が出てくるからである。」「思想圏は,興味の段階を通って欲求(Begehrung)
⑫1)
へ,そしてそれから行為によって意志作用へと高まり得るものの貯えを包含しているG思 想圏はなおその上に思慮のあらゆる機械的作業のための貯えを包含している。一すなわ ち,それなしには人間がその目的を手段を通して追求することのできない知識,思慮洞察 は思想圏に属している。実際,思想圏にこそ全内的活動はその本拠をもっている。ここに 本源的生活があり,第一のエネルギーがある。」したがって,「一つの大きな,かつその
國
諸部分がきわめて緊密に結合した思想圏を青少年の精神内に作りヒげることを知るときだ け,人は教育を支配するのである。つまり完全に教育を遂行することになる。」更に『一
囲
般教育学』では,「性格陶冶の中心は思想圏の陶冶である。」「思想圏の陶冶は教育のもっ
図
とも本質的な分野である」(Die Bildung des Gedar}kenkrelses ist der wesentlichste Teil
der Erzlehung.)との注目すべき主張が行なわれている。またヤッハマンへの反論の中で
㈲
は,「教授は何よりもまず思想圏を形成しようとし,教育は性格を形成しようとする。後 者は前者なしには無である。ここに私の教育学の総決算がある」との断定的主張がなされ
囲 ているo
高久:「美的判断」,「知見」,「思想圏」の関係からみたヘルバルト教育学体系の成立過程研究 43
、晩年の『綱要』においても,人間の心的作用の源泉が思想圏にあり,したがって,教育の 直接的目標は思想圏の陶冶にあるとの主張が繰り返されている。「人間の価値は知識にある のではなくて意志作用(Wollen)にある。しかし自立した欲求能力(Begehrungsverm6gen)
というものがあるのではなく,意志は思想圏にその根をもっている。すなわち,人が知っ ている個々の事柄にではなく,彼が獲得した表象の結合および全体的作用の中にその根を
もっている。」このような根拠に基づき『綱要』では,その「究極目的」(der letzte 図
Endzweck)である「徳」に至るための「より近い目的」(das nahere Ziel)として,思 想圏の形成のための「多方興味」が教授課題へとひき下げられ,このようにして徳と多方 興味とがいわば目的,手段の関係として一元化されている。
⑳
以上の諸引用は,教育の「中心任務」または「本質的分野」が,『美的表現』では「美的 判断」の陶冶とされているのに対し,『一般教育学』およびそれ以後の著作では,「多方興 味」の啓培による「思想圏」の陶冶とされている点を指摘するためのものであった。この 点から,ヘルバルト教育学において「美的判断の見解がどこまで堅持されていたのか」が 問題視され,また「『美的表現』における『美的判断』の思想は漸次影が薄らぎ,主知的色彩
を濃くしている」との解釈も出てくるわけなのである。
しかしながら,思想圏の強調はすなわち美的判断の後退であると解してよいのか,ある いはこの後退とはどのような意味での後退なのであろうか。
この点の吟味のための第一の手がかりとして,『綱要』および『一般教育学』における次の ような主張にまず注目しよう。「意志の美的判断が経験,交際,教授からあらわれ出る全 体的興味と織り合わされるとき,善がどこに見出されようともこの善きものに対する熱意
(eine Warme)が生ずる。そしてこの熱意は単に生徒の志向努力(Strebung)に働きかけ るばかりでなく,更に教訓や生活が与えるものを彼が習得していくその仕方に作用する。」
「道徳性の第一本源的なもの一一それは道徳的なるものとしてあらゆる気ままとは対臆的
劇
であり,徳の基礎としての純粋に無意志的な力であり,……単なる判断の力なのであるが 一この道徳性の本源は全く思想圏に属する。それは思想圏を形成するものに依存する。」
このように,美的判断が全体的興味と結合し,織り合わされてはじめて人間の心情を道徳
岡
的に規定する心術となるとの主張,またこの判断が思想圏という全体的な心意体制に所属 し,これに依存するとの主張は,要するに,美的判断が人間の精神作用,精神形成の全体 的メカニズムの中に位置づけられて理解されるに至っていることを示している。それ故,
『美的表現』以後「美的判断」が漸次その影を薄くして後退したというのは,これが無視さ れ放棄されて消滅していったという意味での後退ではなく,精神機能の全体的体制の中で
より包括的連関の下に捉えられるようになったとみるべきである。云い換えれば,美的判
44 茨城大学教育学部紀要 第十三号
断の概念は人閻の「全内的活動の本拠」としての思想圏の概念に包摂されるものとして位 置づけられ理解されるに至ったということである。
それでは美的判断は全内的活動の中でどのように位置づけられたか。この問題の吟味に あたっては,多而的な内的活動としての「多方均等の興味」の分類の中で,美的判断がど
う位置づけられているかという点に注目する必要がある。
ヘルバルト教育学体系の上で,その興味論の占める橿要な位置についてはここで詳論す る必要はないと思うので,ここでは次のようなヘルバルト自身の所説を引川するに止めよ う。彼は『現今流行哲学とのわが論争について』中,『一般教育学』で行なった「興味の分類」
にっいて次のように述べている。「私の教育学を攻撃しようとする者は誰でもこの点(興 味の分類)について論争してもらいたい。私が何よりも先に教育学者から要求するのは,
彼らがこの分類についてこの上なく慎重に注意し,そしてここにすべての教授および学習 を関連づけるようにしてもらいたいということである。このようにしない者は,優れた経 験者であるかも知れないが,私は彼らを理論家とはみなさない。」つまり,『一般教育学』
㈱
における「興味の分類」は,教授および学習を考える際の拠り所であり,教育について理 論的に考える際の不可欠の対象になるというのである。
さて,ヘルバルトはこの興味の諸方向の分類にあたり,その分類根拠を次のように述ぺ ている。「興味あるもの(das Interessante)のために興味(das Interesse)が忘れられ てはならない。対象を分類するのではなく心情状態を分類すべきである。」この心情状態
岡
がまず大きく認識(Erkenntnis)と「同情」(Tellnahme)とに区分される。認識は「現 前の事物を映像(観念)において(im Bilde)模倣し」,同情は「他の感情へと自分を置
き入れる。」認識においては「事物と映像との間に対立が起る」が,同情は「同一の感情 を複写する。」認識の対象は静止しているのが常であるが,心情はあるものから他のもの へと進む。認識の「対象の範囲は自然および人間を包括する。」これに反し,追感的に作 用する心情作用としての同情はいつでも動いている人間の感情のその動きに伴っていく。
そこで「人間のある種の表現」だけが同情の対象となる。この区分に基づき,次のような
(33)
六種の興味の方向が分類される。
認 識
(1)多様なものの認識
② 多様なものの合法則性の認識
(3)多様なものの美的関係の認識 同 情
㈲ 人間に対する同情
高久:「美的判断」,「知見」,「思想圏」の関係からみたヘルバルト教育学体系の成立過程研究 45
(5)社会に対する同情
(6)両者の最高実在(神)への関係に対する同情
またヘルバルトは以上の分類を次のようにまとめている。「認識,同情の双方はあるが ままのものを受けいれる。前者は経験(Empirie)へ,後者は共感(Sympath1e)へと没入
● ● ● ・
して生ずる。しかしながら双方共事柄の本性につき動かされ上に向って進む。世界の難問 題は経験から思弁(Spekulatlon)を,人間の相交錯する複雑多様iな要求は共感から社会的
● ・ ● ・ ●
秩序の精神(der gesellige Ordnungsgeist)を前面へと押し出してくる。この社会的秩序
■ ● ● ● ●
の精神は法則を与え,思弁は法則を認識する。そのうち更に心情は表象群の圧迫から自由 となり,もはや個々のものへと没入することなく,今や興味は諸関係に対してひき起され る。すなわち美的関係についての静止的な熟慮と,事物の進行への恭順に対する人間の願 望と力との関係についての共感である。かくて前者は趣味(Geschmack)へ,後者は宗
● ●
教(Religion)へと高まる。」
㈱
以上のような興味の六方向中,本稿の主題からみて特に注目する必要があるのは,「認 識」系列の最後に位置づけられた「多様なるものの美的関係の認識」,すなわち「趣味」
である。この趣味の判断が美的判断である。したがって,全内的活動の中で美的判断に与 えられた位置を明らかにするためには,上の分類における興味の他の諸方向,とくに認識 系列における「経験」および「思弁」と「趣味」との関係が吟味されねばならない。云い 換えれば,趣味には,文字通り興味の六方向中の一つとしての軽い比重しか与えられなく
なったのか,それとも他の諸方向に対する支配的究極的な位置を与えられているのかどう かの問題の吟味である。以下,この問題を,第一に,「教授の進行」の観点からみた興味 の各方向の関係,第二に,「教授の結果」の観点からみた興味の各方向の関係に関する『一 般教育学』の所説に拠りながら考察していくことにする。
ヘルバルトは,相互に絡み合うきわめて多様な処置方策を含んだすぺての仕事,すぺて の企画を混乱なく効果的に進めていくために特に必要なこととして,「何が順序を追って つぎつぎと生じなければならないか。これに反し,何が同時にそれぞれの固有な本源的力 をもって生じなければならないか」を問題にしている。なぜなら,教育のようにさまざま
岡
な方策を含んだ多様な仕事は,いつでも同時に多くの側面から開始され,更に多くのこと がそれらに先行するものによって準備されながら順を追い連続的に進行して行かねばなら ないからである。これが仕事を進める際の方向,手順を決定する,いわば「二つの次元」
である。それでは上の興味の諸方向はこの二つの次元のいずれに属するものであろうか。
認識および同情の各分肢の陶冶は,まず経験,ついで思弁,そして趣味へと順を追って進 行すべきものであるのか,それともこれら各方向は同時的並列的な陶冶の進行をとるもの
46 茨城大学教育学部紀要 第十三号
であるのか。これに対してヘルバルトは次のように答えている。 「教授が陶冶しなければ ならない興味の区別は,ただ同時的なものの差異を示しているだけであって,厳密な段階
的前後関係では全くない。」 「教授は,本源的な特質をもった相異なる心情状態としての ㈹
認識と同情とを同時に発展させねばならない。下位に位麗づけられた諸分肢に注意するな ら,たしかにそこにはある順序と従属関係がみられる。しかしそれにも拘らず厳密な前後の 連続的関係は全くない。」
Gり
しかし果してヘルバルトは以上の各分肢間の連続的関係を全く否定しようとしているの であろうか。彼自身のいうように,興味の分類が何よりもまず「本源的特性をもつ相異な る心情状態」に着目して行なわれたものであり,したがってこの区別が厳密な段階的従属 関係を示しているものでないという点は明らかである。しかしながら彼自身も述べている ように,認識および同情の各系列中,特に下位の分肢間に「ある順序と従属関係」がみら れることは確かである。このような解釈は,先の分類を要約するにあたり,認識および同 情の「双方共事柄の本性につき動かされて⊥に向って進む」,すなわち,「あるがままの もの」を受けいれる「経験」と「共感」は,当面する「世界の難問」や「人間の相交錯す る複雑多様な要求」の故に,「思弁」と「社会的精神」とに高まるとの主張によっても裏 づけられる。かくて興味の各分肢問の関係中特に注意を要するものとして「多様なるもの の認識」と「思弁」および「趣味」との関係があげられる。ヘルバルトは「経験的把捉の 進行中,思弁と趣味とはこれが終るのを待っているわけではない」として両者の厳密な前 後関係を否定しているが,それにも拘らず,「思弁と趣味が経験的事柄の把捉を前提して いる」というのを当然のことと認めている。この両者の関係は同じく『一般教育学』中,「生 活と学校」の関係として多少違った観点から論じられているので,次にこの所説を参照し ながら上の問題を解明していくことにしよう。
「すでによく知られているはずの興味の諸分肢が,年月の経過の中でわれわれと共にい かに順調に生き続けるか,この点を考えるなら,われわれは確かに,しかもこの上なく容 易に生活を理解するだろう。」かくてヘルバルトは「学校のためにではなく,生活のために
幽
学ばねばならない」との古い箴言と,彼の「興味の分類」,さらには「専心」(Vertlefung)
と「致思」(Besinnung)とを結びつけることによって,教授の到達すべき結果を見通し ている。まずはじめに,ここで説かれている生活と学校,興味の諸方向,専心と致思との 関連を整理すると次のようになる。
生活{雛(観察)洞情(共感的同㈲
学校{灘趣味
高久:「美的判断」,「知見」,「思想圏」の関係からみたヘルバルト教育学体系の成立過程研究 47
「本来の経験,単なる観察は……新奇な事象を好み,また日常の生活はこれらの活動に 対しふさわしい対象を与える。一この日常生活が与えるものの中でのあるものはまた同 情の対象ともなる。」「観察と同情は,それによってわれわれが刻々の時の流れを所有す る活動であり,この活動によってわれわれは実際に生活しているのである。」すなわち,
eg
経験や観察はいつでも日常生活の新奇多様な事柄に向い,同情もまた日常生活中自らにふ ・
ウわしい対象に付着する。そしてこのような観察や同情の作用するところに現実の生活が ある。またヘルバルトは「専心」の作用をこれら観察や同情に対応させている。専心はい つでも多様な対象の…つ一つの奥深く入り込む作用だからである。しかし多様に変転する 現実生活は,生活する個々人において一つの全体としての人格的統一をもたなければなら ない。ところで思弁と趣味は生活の流れ,変化に向けられるものではない。また致思は専 心によってもたされた多様なものの統一をもってその生命とする。それ故,思弁,趣味,
致思が先の現実生活としての経験,観察,同情,専心と対立する。このことをヘルバルト は次のように要約している。「思弁と趣味は致思と人格の錨である。これに反し,観察と 同情は常に新たな専心へと没頭する。」
㈹
以上のように,ヘルバルトは「思弁」と「趣味」とを「致思」による人格的統一の錨,
したがって「生活の支配者」と呼ぶのであるが,この理由を次のように述ぺている。一
● ● ● ● o ●
観察は限りなく多くを寄せ集める。しかし結局はその中で本来の自己を失うようになる。
同情は熱っぽい要求をもって行為的に手を差しのべようとするが,この故にまた致命的に 冷されてしまう危険にさらされている。「このような観察と同情を適度に,冷静に保つこ と・これにふさわしく,かつこのための力あるものが思弁である。」思弁は現象ではなく,
㈹
実在へと高まるために変化を放棄し,超感覚的なものにさかのぼってそこから感覚的なる ものの一般的可能性を規定し限定することにより,他方,経験と結びつきながら,単に現 象面にのみとらわれる者のあらゆる誤謬,些細な小利口さを戒める。しかし,純粋に致思 的な生活は,端正,美,道徳,正義,一一言でいえば「完全な状態にあるなら,完全な 静観による適意をひき起すようなもの」を提示する。このためには,趣味が喚起された力 を価値にふさわしく働かせる基準,イデーを示さねばならない。「趣味はきびしく,なん の容赦もしない。生活はこの趣味に従わねばならない。さもないと生活はこの趣味の非難 に屈する。」かくてヘルバルトは「思弁」と「趣味」を「生活の支配者」と呼び,「これ
囮
らが生活をどう規定するか,これを完全に教えようとするためにわれわれは教授のかなめ 石としての哲学の体系を求める」というのである。
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しかしヘルバルトによれば,今日現存の哲学は正しい教授のかなめ石となることはでき ない。嘆かわしいことに,現代の哲学は思弁と趣味とを混同しているのみならず,またこ
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の両者によって観察の精神と同情とを抑圧し,生活を導くどころかこれをひどく損ってき ている。要は観察,同情と思弁,趣味との正しい相互関係の確立である。そこで改めてへ ルバルトは,生活とは何か,学校とは何か,そしてこの両者の関係はどうあるべきかを問 題にする。「学校一この高貴な言葉に対してその本当の意味を与えることにしよう。学 校とは閑暇を意味する。そして閑暇は思弁,趣味および宗教にとっての共有財産である。
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カ活,それは同情的観察者が外的な行為や苦欄の変転へと没入することである。」更にご
醐
の両者の関係は次のように要約される。「常に新たな生活は常に新たな学校を生み出すぺ きである。」「一から他へ,他から一へと双方の間を往復し,行為や行為の忍受(Le三den)から閑暇へ,更にまた閑暇から行為やその結果の忍受へと移っていくのは,人間の精神の 呼吸,健康のための必要,また健康の徴候とみなされる。」
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さてこれまでは,多方興味の全体の中で「趣味」がどのように位置づけられたか,この 点を一方,興味の分類そのものを問題にし,他方,「教授の結果」として説かれた興味各 分肢間の関係についての所説を問題にしながら吟味してきた。このような吟味の結論とし て次の二点をあげることができるQ
第一に,先の興味の分類においては,あくまでもそれぞれの本源的特性をもった相異な る心情状態の分類であるとして,これら各分肢問の厳密な段階的従属的関係は否定された。
したがって,趣味は認識系列の最後に位置づけられてはいたが,しかしこれが他の分肢,
諸方向に対し支配的な位置を占めるものとして未だ明白に述ぺられてはいなかった。けれ ども後に,「教授の結果」の全体的見通しから再び興味の分類を問題にするところでは,
思弁および趣味は「致思と人格の錨」,「生活の支配者」と称され,特に趣味は,喚起さ れた諸力を価値にふさわしく働かせるイデーを示すもの,生活が従うぺき基準となるぺき ものとして位置づけられている。ここから,かの興味の分類中,趣味が最高の支配的位置 を占めることは明白であり,したがって,もっぱら趣味陶冶を教授の唯一課題,教育の中 心課題とした『美的表現』の見解は,本質的には『一般教育学』においても一貫していたもの
とみなすぺきである。
第二に,興味全体の分類に基づき,「一から他へ,他から一へ」とその各分肢問,殊に 日常生活における経験,交際と思弁,趣味との相互関係が強調されていることを見落して はならない。これによって趣味陶冶,つまり美的判断の陶冶を頂点とする精神の多方的陶 冶の過程が,精神活動の全体から一層包括的に問題とされ,把握されるに至っている。か くて教授は「精神生活の源泉」としての経験と交際から出発しつつ,これを補充し完成す ることによって,豊かな統一ある思想圏を形成するとの『一般教育学』の見解は,かの興味 の分類と切離して理解することはできないものとなる。
高久:「美的判断」,「知見」,「思想圏」の関係からみたヘルバル・ト教育学体系の成立過程研究 49
以上の考察が明らかにしたように,教育課題の本質的把握において一貫しているにも拘 らず,『美的表現』から『一般教育学』における趣味または美的判断から思想圏へという展開 は,ヘルバルト教育論の倫理的見地から心理的見地への展開に基づいているという点を銘 記しなければならない。『一般教育学』の中心概念である思想圏や多方興味というのは,表 象概念を中心とするヘルバルトの心理学的見地より導き出されてくる概念に他ならないか
らである。この基本的見地の展開は,従来ヘルバルト研究者によってしばしば指摘されて いるのであるが,たとえば篠原助市博士は次のように述べている。「『美的表現』と『一般教 育学』との隔りは僅かに二箇年であるが,この短日月において,重点の置き所にかなりの転 換が行われた。……『美的表現』は主として美的判断を基礎とし,心理的方面は背後に退い ていたが,『一般教育学』では之とは逆に,教育の主な任務を思想界の形成に置き,『人間は 絶えず思想界を通して自己を決定する』と説き,この思想界の形成を多方均等の興味に仰 いだ。かくて『美的表現』における倫理的見地は背後に退き,心理的見地が前景に立ち現わ れた。」また優れたヘルバルト研究者の一人,ブリッチュ(Th、 Fritzsch)は,『美的表現』
催㊦
と『一般教育学』とにおける教授課題を比較して次のように述べている。「『美的表現』の論 文において,教授は,趣味陶冶ということをどれ程広義に解したとしても無理に,その課 題がこの陶冶へと限定され,したがって,教授がその全部門にわたり正当に解明されてい ないという点をヘルバルト自身認めている。同時にまた,教授を通して得られる陶冶独自 の自立的価値が十分な形で現われていないということも彼を満足させてはいなかった。し かしながら,この不分明な点について,心理学的考察が結末を与えたように思われる。へ ルバルト心理学は……人間の精神を徹頭徹尾表象から構成する。感情や意欲の本拠として の表象の全体は思想圏である。したがって今や教育の課題が明確に捉えられる。すなわち 教育は思想圏を形成しなければならない。しかも知見に相応する意欲が生ずるように規定
されねばならない。このような教育課題の捉え方は,思想圏の規定が……多方均等の興味 の喚起を通して行なわれるぺきであるとの点が明瞭にされるとき,尚更に優れたものとな る。……『一般教育学』におけるこのような新しい教育課題の捉え方は,前の『美的表現』の 見解を少しも変えていない。なぜなら,道徳性を確立し,道徳的性格を形成するという点 では両者全く同一である。ただ教授が前よりも一層適切に位置づけられているというだけ である。『一般教育学』は『美的表現』の論文と同様,厳密な演繹的叙述を認めている。ただ 前者は主として心理学的吟味に,後者は主として倫理学的吟味にその方向が向けられてい
る。」
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このようなブリッチュの見解に暗示されているように,また先の「教授の結果」として 説かれた興味各分肢間の関係に関する吟味の結論において予示したように,美的判断から
50 茨城大学教育学部紀要第十三号
思想圏へ,倫理的見地から心理的見地へ,『美的表現』から『一般教育学』へというこの展開 にこそ,ヘルバルト教育学独自の,より広い,より緻密な体系化への大きな展開の根本契 機をみるべきである。
(注)
本稿におけるヘルバルト所説の引用はすぺて, Johann Friedrich Herbarts Padagogische Schriften・
Herausgegeben von Otto Willmann und Theodor Fritzsch 1913−1919 および Joh. Fr. Herbart s Samtliche Werk巳Herat蛤gegeben von Karl Kehrbac臨 によっている。
本稿中では,前者をW.F.後者をK.と略称して,その巻数,頁数を示している。
(1)本稿では本来,本紀要前号の拙稿「ヘルバルトにおける教育目的としての道徳性概念の拡大(そ の一)』に続く『その二』をとり上げるぺきはずであるが,これに該当するものは,教育哲学会機 関誌『教育哲学研究』第9号に発表した。
尚本稿は,昭和38年度教育哲学会総会での発表内容に筆を加えたものである。
② Einsicht を「知見」と訳すのが通例になっているが,これはEinsichtが「美的判断」とは異
質の知的なものであるとの解釈を前提とした訳語のように思われる。美的判断とEinsichtを同質● ■
のものとみなす私の見解からすれば,Einsichtは「洞察」と訳すぺきで,「知見」の訳は不適当と 考えるのであるが,本稿では我国における長い慣用に従ってこの「知見」の訳語をとった。
(3)JF忍erbart:Allg㎝eine Padagogik aus dem Zw㏄k der Erz量ehung abgeleltet・1806・WJ孔 Bd.1 S.263
㈲ 〃 〃 :Umriss Padagogischer Vorlesung肌1835,1841. W汎Bd.2 S.16
(5) P己Natorp :Kant oder Herbart.1899
偽a㎜elte Abhandlungen zur Sozialpadagogik.2A㎡LHt.2 S.159
(6) RNatorp :Herbart, Pestalozzi und die heutige Aufgaben der Erziehungslehre・1899・
Gesammelte Abhandlu㎎en zur Sozialp哲dagogik。2Auf1. Ht.2S。32
(7)拙稿 :「ヘルバルトにおける教育目的としての道徳性概念の拡大一趣味論をめぐる問題 点一』 (『教育哲学研究』第9号)参照
⑧ 山極真衛:『ヘルバルト派における教育的教授論の概念の展開』(学位論文,未刊)
(9)JJ田erbart:Umrlss P註dagogischer Vorlesungen・WFJ3d2 S・16
0の JF.Herbart :AlIgemehle praktische Phj!osophi軌1808. KBd2 S.355 ω Ditto, S.355⑫ DittQ, S.356
⑬Ditto, S.356 σ萄 Ditto, S410
㈲ Ditto, S.357 .
α㊦J.RHerbart:Allgemeine Padagogik. W♂FBd.1 S.358
働 〃 〃 :むber meinen Streit mit der Modephilosophie dieser Zeit・KBd3 S・343
⑱ 〃 〃 :Allgemeine Padagogik. WFBd。1 S.357
. ㈲ 〃 〃 ;Uber die asthetische Darstellung der Welt als das Hauptgeschaft der Erzieh岨9・
W.FBd.1 S.99−100
⑳ Ditto S。103−104
鋤J.Fおerbart:Allgeme量ne Padagogik. WどFBd.1 S237−238
ヘ Ditto S.362 圏 Ditto S.245
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kv:「美的判断」,「知見」,「思想圏」の関係からみたヘルバルト教育学体系の成立過程研究 51
図 Ditto S.369 飼 Ditto S.363
圃 J.F.Herbart :Herbart s Replik gegen Jachmann s R㏄ension. K.Bd.2 S.169 吻J.F.Herbart :Um㎡ss Padagogischer Vorlesungen. W.F.Bd.2 S.35 圏 Ditto S.37
凶 Ditto Sβ4−85
⑳J。F.Herbart:Allgemeine Padagogik. W.F.Bd.1 S.370−371
, ■
S 〃 〃 :Uber meinen Streit mit der Modephilosophie dieser Zeit. K.Bd.3 S.346 圃 〃 〃 :Allgemeine Padagogik. W.F.Bd.1 S.285
岡 Ditto S.285 鋤 Ditto S。287−288 鉤 Ditto S.296 鱒 Djtto S.296 Gの Ditto S。298 B8) Ditto S.341
Gg Ditto S.341−342
㈹ Ditto S.342
㈹ Ditto S.342
㈹ Ditto S.343 ,
ω Ditto S.345
㈹ Ditto S.346
㈹ 篠原助市,独逸教育思想史,上,398頁
㈲Th. Frltzsch:W.F.Bd.1 S.217−218
Die Untersuchung Uber das Werdensprozess des Herbarts Erziehungslehrgebaude durch Betrachtun9 der Beziehung de亀, asthetischen Urteils mit der,,Einsicht , dem,,Gedankenkreise
Ibaraki Universitat
Seikichi Takaku
● 0
P. Asthetisches Urteil und Einsicht
P.Natorp und die vide behaupten, dass,,註sthetisches Urtei1 und,,Einsicht als die Hauptbegrjffe der Herbarts Erziehun9…証ehre die ungleiche Bedeutung ware, d.h. jenes gefUhlmassi9, k廿nstlerisch,
diese inteUektuell ware. Aber Ich behaupte lnfo19e der nahere Er6rterung der Herbarts Ansicht selbst, dassおsthetisches Urteil und Einsjcht f丘r ihn wesentlich die 91eiche Bedeutung ware.
● ●
Q. Asthetisches Urteil und Gedankenkreis
■ ●
hn der frUhern Abhandlun9 Uber die asthetische Darstellung der Welt als das Hauptgeschaft der Erziehun9.1802,1804 bezeichnet Herbart,,die Bildung des asthetischen Urtejls als die wes一 entlichste Aufgabe der Erziehun9. Aber ln der spatern padagogischen Schriften, vor alI㎝in
,,Al19㎝eine Padagogik aus dem Zw㏄k der Erziehung abgeleitet.1806 bezeichnet er,,die Bildun9 des Gedankenkreises,, als der wesentlichste Teil der Erziehun9.
Solch eine Abwandelung der Bezeichnung der wesentlichsten Aufgabe der Erziehung in der Herbarts
・ ●
oadagogik beruht auf d㎝Ubergang von der ehti㏄he zur p寓hyo1Qgi就he Ansicht in seiner
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padagogischer Betrachtungsweise. Herbarts Erziehungslehrgeba血de also wurde n㏄h umfassender
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