「 握手」 にお ける語 りと主題
松 本 修
プロロー グ
「握 手」●1について次の よ うに論 じた ことがある。 (松本 1998:66)
この物語 は、心 と心の結びつ きが、言語的な記号の共有 によって支 え られ、精神 の伝 承 がそ うした記号の受 け継 ぎに支 え られているとい うモチーフによって、心 とことばの 関係 を考 える契機 を与 えて くれ る。 ち ょっ といい話 としてル ロイ修道士のや さしさを読 み と り、道徳的な心の教育に短絡 させ られて しま うことをおそれ る0
その代わ りとして提案 したのが、指文字 と、人差 し指 を交差 させて打 ち付 ける しぐさと の質的な相違 を問題 に し、握手や天使 園での 「天使 の十戒」とも構造的に関連す る記号解 釈 とい うモチー フを精神 の伝承 とい うテーマ に結びつ けて読む とい う方 向性 であった。 し か し、指文字 を ど う整理す るか とか、指の しぐさと握手 とを どう関連 させ るか とい うこと は、基本的 には読み手の解釈 に属す ることが らである。人差 し指の しぐさを一連 の指文字 と解釈す る読み手 と、別物であると解釈す る読み手には明 らかな読みの違 いがある。 この 違いが どの よ うなテ クス トの文脈‑のアプ ローチか らもた らされ るのか、読みのプ ロセス に着 目して説明できなけれ ば、提案 した読みの方 向性 も しょせんは一つの解釈 の提示 に過 ぎない。文学テ クス トの読みの学習 においては、互いに異なる読み を媒介す ることが重要 になるとい う立場か ら、その媒介 の可能性 について (語 り)の側面か ら考 えてみたい。
語 りのマク ロ構造
「握手」の語 りのマ クロ構造は、冒頭部分でほぼ把握できる。 冒頭部分 は次の よ うにな ってい る。
①上野公園に古 くか らある西洋料理店‑、ル ロイ修道士は時間 どお りにや って来た。
②桜 の花 は も うとうに散 って、葉桜 にはまだ間があって、その上動物園はお休みで、店 の中は気の毒になるぐらいすいてい る。③いすか ら立って手を振 って居所 を知 らせ る と、
ル ロイ修道士は、
*1井上ひ さし 「握手」は、
『 I N
・POCKET』1984.5 初 出 『ナイ ン』講談社 1987所収『ナイ ン』講談社文庫 1990所収 平成15年版 中学校国語科用教科書では、光村図 書 『国語3』学校図書 『中学校国語3』に収載 されてい る。 引用は学校図書 『中学校国語
3』によった。
「呼び出 した りしてすみませんね。」
と達者 な 日本語 で声 をかけなが ら、●こっち‑寄ってきた。 (中略)
④ル ロイ修道士は大 きな手を差 し出 してきた。⑤その手を見て思わず顔 を しかめたの は、光 ヶ丘天使 園の子 どもたちの間で ささやかれていた 「天使 の十戒」 を頭 に浮かべた せいである。⑥ 中学三年の秋か ら高校 を卒業す るまでの三年半、わた しはル ロイ修道士 が園長 を務 める児童養護施設の厄介 になっていたが、そ こには幾つかの 「べか らず集」
があった。
①③④の 「や って来た」「寄ってきた」「差 し出 してきた」とい う方 向性 を持つ動詞 (捕 助動詞)表現、② の 「てい る」とい う継続相の表現、③ の 「こっち」とい うダイ クシス、
な どによ り、語 り手が物語場面に臨在 ない し存在 してい ることが示 されてい る。そ して、
③⑤ に省略 されてい る主語 として想定 され る一人称 が⑥ に 「わた しは」とい う提題主語 と して現れ ることで、語 り手 「わた し」が物語の作中人物で もあるとい うことが明 らかにな る。一人称限定視点の語 りによってい ることが明 らかになる。ただ、回想場面があるため に、一人称 の語 り手は複数の時間を動 くことになる。そ して、テ クス ト末尾近 くでは、「上 野公 園の葉桜が終わ るころ、ル ロイ修道士は仙台の修道院でな くなった。 ま もな く一周忌 である。」とあって、最終的な語 りの現在 は、物語 の場面 としての上野の西洋料理店での 対話か らさらに一年以上あ とであることになってい る。 この よ うな複数の時間が交錯 しな が ら措かれ ることで、語 り手 「わた し」は幾つかの相 を持つ ことになる。
人称構造 と時間
語 り手 「わた し」は幾つかの物語 の時間を行 き来す るものの、安定 した一人称 となって い る。 しか し、主人公 ともい うべ きル ロイ修道士に対 しては幾つかの呼び名 が用い られて い る。先の引用部分では、①③④⑥ で 「ル ロイ修道士」 と呼ばれてお り、省略 した中間部 分では、「‑それか らず っ と日本暮 らしだか ら、彼 の 日本語 には年季が入 っている。」 とし て代名詞 「彼」が用い られている。̀テ クス ト中でのル ロイ修道士の呼称 は次のよ うに7種 類 ある。
a 朝晩の食事 は静かに食 うべか らず。 (ル ロイ先生 は、園児 がにぎやかに食事 を して い るのを見 るのが好 きだか ら)
b それか ら、 このケベ ック郊外の農場の五男坊 は、東京で会 った、かつての収容児童 たちの近況 を熱心に語 り始めた。
C ル ロイ修道士はオム レツの皿 をのぞき込む よ うに しなが ら、両のてのひ らを擦 り合 わせ る。
d だが、彼 のてのひ らはも うぎちぎち とは鳴 らない。
e 「先生の左 の人差 し指 は、相変わ らず不思議 なかっこ 5Jを していますね。」
f 「ル ロイ先生はひ と月間、わた したちに口をきいて くれませ んで した。‑・
g 元園長 は何かの病 にかか りこの世のい とまご いにこ うや ってかつての園児 を訪ねて 歩いてい るのではないか。
aは、天使園で子 どもたちにささや かれていた 「天使 の十戒」のことばであるか ら、子 どもの立場か らの ことばなので、「ル ロイ先生」となってい る。bは、作中人物 を説明す る語 りの場か らの語 り手の説明 としてそ う呼ばれているものであろ う0Cは、ニュー トラ ルな三人称の呼称であ り、その言い換 えである dの彼 とともに、 もっ とも多い。efは と もに会話の中での 「わた し」か らの二人称 として用い られている。gは、再会の場面での 作 中人物 「わた し」の心中思惟 の中のことばであ り、 「かつての園児」に対応す る役割 を 示す もの として用い られている。 こ うしてみ ると、 「ル ロイ先生」とい う呼称が、回想 さ れ る出来事 当時の園児、あるいは西洋料理店での物語 の現在の元園児 とい うような立場か ら発 されてお り、特に前者 は、物語の時間構造にかかわっていることがわかる。次の よ う な部分 にその転換が典型的にあらわれている。
①戦争が終わるまでル ロイ修道士たちはここで荒れ地 を開墾 し、みかん と足柄茶 を作 ら された。②そこまではいいのだが、カ トリック者 は 日曜 日の労働 を戒律で禁 じられてい るので、ル ロイ修道士が代表 となって監督官 に、「日曜 日は休 ませ てほ しい。その埋 め 合わせ は他の曜 日にきっ とす る。」 と申 し入れた。③す ると監督官は、 「大 日本帝国の七 曜表 は月月火水木金金。 この国には土曜 も 日曜 もあ りやせ んのだ。」 としか りつ け、見 せ しめにル ロイ修道士の左の人差 し指 を木づ ちで思い切 りたたきつぶ したのだ。④だか ら気 をつ けろ。⑤ル ロイ先生はいい人には違いないが、心の底では 日本人を憎んでいる。
⑥いつかは爆発す るぞ。⑦‑‑ しか しル ロイ先生はいつまでたって も優 しかった。⑧そ ればか りかル ロイ先生は、戦勝国の 白人であるにもかかわ らず敗戦国の子供のために、
泥だ らけになって野菜を作 り鶏を育てている。⑨ これ は どうい うことだろ う。
①か ら③までは語 りの場にお ける超越的な語 り手が解説 を してい る形であ り、「ル ロイ 修道士」とい うニュー トラルな三人称が用い られている。①文の 「ここ」とい う指示語 も、
文脈指示 と判断 され、捕虜 となっている物語の場面に即 したダイクシスではない と思われ る。それは、②文の 「そ こまではいいのだが」 とい う解説的な表現にもあ らわれている。
ただ し、 この部分は園児たちの間で ささやかれていた既成 の説話的物語の引用であるとも 言 える.④か ら⑥は、一文の短 さ、「気 をつけろ」とい う命令形や終助詞 「ぞ」、非 夕系列 の文末表現、 「憎んでい る」とい う継続相の表現に 口頭語的表現な どに見 られ るよ うに、
回想 されている天使園での出来事の場面における園児たちの ことばをそのまま反映 した形 であ り、明確 な引用表示はないものの、発言 をそのまま提示 している自由直接表現 と判断 され る。⑦ は リーダー 「・‑‑」によって、④〜⑥ との位相の違いが示 されてお り、⑥まで の部分の引用表示 として機能 している側面 もある。また⑦ はタ系列の文末表現によって位 相の転換があ らわれている。 しか し、⑧は継続相の文末 となってお り、⑨ も非 夕系列であ る。 しか も⑨ は思考内容が表現 されていて、 「これ は」とい う指示語 も文脈指示 とい うよ りは、⑧文の内容 を直接指示 している表現 としての性格 が強い。つま り、⑦か ら⑨は天使 園での出来事、物語場面における作中人物 「わた し」の心 中思惟がそのまま提示 されてい る自由直接表現 としての様相 を帯びている。むろん、タ系列や リーダー とい う標識 を重 く 見て、⑦ を独立 して語 りの場における語 り手の解説 とみ ることも、様 々な標識にもかかわ
らず、⑦か ら⑨全体 を語 りの場における語 り手の説明 とみ ることも可能である。そ して④ 文以降の 自由直接表現 としての様相 を帯びた部分では、 「ル ロイ先生」 とい う呼称が用い られ てお り、作中人物 としての園児 、 「わた し」あるいは語 りの場 における 「わた し」の 立場か らの表現であることがあらわれている。そ してまた、それに連動す る形で、入れ子 状の物語 内容 の時間 と物語言説 の時間が交錯す る構造 になってい る。織 田保夫 (2001:
106‑107)は次のよ うにこのテクス トの時間構造 を指摘 している。
ここには (天使園にいた頃) (上野での再会の時) (葬式の時) (ま もな く一周忌 になろ うとす る時) とい う四つの時間があ り、第四の時間が執筆の現在である。 ここか ら三つ の回想が作品の時間を形成 しているわけだ。
「執筆の現在」 とい うと生身の作者 に近づ くが、物語言説の語 りの現在 とみて よいだろ う。先の引用部分には (天使園にいた頃) (上野での再会の時) (物語言説の語 りの現在) の三つの時間がかかわっている。超越的な語 り手のことばは必ず しも織 田の言 う執筆の現 在 に繋留 され るものではないが、語 りの現在はテクス ト上では (まもなく一周忌になろ う
とす る時) とされていることは確かである。引用部分の⑦ あるいは⑦か ら⑨ を、①〜③同 様、語 りの現在 における語 り手の ことば と見 るか、天使園にいた頃の作中人物 「わた し」
のことば と見 るかによって、読みは異なることになる。それは時間構造の把握そのものに も違 いを与 え、 「わた し」 の行動 を どの程度相対化 して見 るか とい う点において も違いを もた らす。そのことが主題の把握 に一定の影響 を与える可能性がある0
語 りの現在 と指言葉
織 田 (2001:100)は このテ クス トに繰 り返 し現れ る指言葉について、次の よ うに述べ ている。
「わた し」がル ロイ修道士の指の動 きを見 るたび に 「思い出 した」ものは天使 園での 共同生活の 日々である。かつてのある時の状況の細部や心情の陰影 をも含 めた総体が、
具象的な指の動 きを見ることによって一瞬の うちに復帰 し現前す るのだ。 「わた し」の 過去は指 ことばの象徴作用の うちにある。
青嶋康文 (2001)も同様 にカ ッ トバ ックの切 り替 え装置 としての役割 を指摘 してお り、
要す るに指言葉が特別な象徴作用 を持 った ものであることを指摘 している。 この象徴作用 は、ル ロイ修道士の指言葉が、単なる固定的なコー ドに結びつけ られ るサイ ンであるばか りでな く、子 どもたちとの心の交流 を通 して再び生まれ変わる記号 となっているか らであ り、いわば意味作用の原初的な発現 となっているか らであろ う。そ して、そのよ うなもの として指言葉があるとき、織 田や青嶋が一連の指言葉 に位置づけてい る 「両手の人差 し指 を交差 させ て打 ちつ ける しぐさ」が他 の指言葉 か らは突 出 してい ることがわか る。松本 (1998:64‑65)では、「他の指文字 とは違 って、無意識的、無 自覚的なものであった」「人 さし指 を打ちつけるとい う行動は、抑 えがたい激 しい感情 を持った ときに、無 自覚的無意
識的に現れて しま う癖だった」としたが、そのことを部分テクス トに即 して も う一度考 え てみ る必要がある。
①ル ロイ修道士の、両手の人差 し指 をせわ しく交差 させ、打ちつ けてい る姿が脳裏 に 浮かぶ。② これ は危険信号だった。③ この指の動 きでル ロイ修道士は、 「おまえは悪い 子だ。」 とどなってい るのだ。④そ して次にはきっ と平手打 ちが飛ぶ。⑤ル ロイ修道士 の平手打ちは痛かった。
①③⑤でル ロイ修道士 とい うニュー トラルな三人称が用い られ、②⑤でタ系列の文末表 現が とられてお り、基本的には上野での再会場面における作中人物 「わた し」か語 り手 「わ た し」の立場か らの表現 となっている. しか し、(丑で 「脳裏 に浮かぶ」 とい うその浮かん だ内容は少年時代の 「わた し」の経験である。ニュー トラルな呼称や タ系列の文末にもか かわ らず、 「脳裏 に浮かぶ」が一種の引用表示 となって、②③④ を少年 ‑「わた し」の立場 か らの表現 と見ることも可能である。とりわけ④文は、これだけを独立 して少年 「わた し」
の 自由直接表現 と見 ることも可能であろ う。 しかも、 この部分の直前は次のよ うな会話 と なってお り、 「ぶたれた」とい う受身形が作 中人物 「わた し」それ もぶたれた少年時代の
「わた し」を想起 させ る構造 となっている。
「それ よりも、わた しはあなたをぶった りは しませんで したか。 あなたにひ どい仕打ち を しませんで したか。 もし、 していたな ら、謝 りたい。」
「一度だけ、ぶたれま した。」
読み手は、再会場面の 「わた し」や語 り手 「わた し」に寄 り添 う場合、ル ロイ修道士の この しぐさを、少年 「わた し」の 「おまえは悪い子だ」とい うコー ド化 を相対化 して読む ことができる。 しか し、少年 「わた し」に寄 り添 う場合には、その相対化が し難 くなるか もしれない。描出表現の様相 を持つ部分テ クス トをどう捉 えるかによって、解釈の相違が 現れ る可能性がある。
内容的に見て も、再会場面にお ける 「わた し」、語 り手 「わた し」は 「おまえは悪い子 だ」 とル ロイ修道士が どなっていたのだな どとは考 えていないはずである。 これが無意識 の行動であることを今の 「わた し」は知っている。ただ子 どもである園児たちがその よ う に短絡的にコー ド化 しただけだ。む ろん、ル ロイ修道士は、 「ル ロイ修道士は改めて両手 の人差 し指 を交差 させ、せわ しく打ちつける。ただ しあのころと違 って、顔 は笑 っていた。」
とあるよ うに、この しぐさを後には 自覚は していた と思われ る。しか しそれが 「あのころ」
実際に現れて しまったのは無意識 の ものであった。
そ してこの しぐさは無意識 の裡 に発露す るもの としてそのまま 「わた し」に受け継がれ ている。
上野公園の葉桜が終わるころ、ル ロイ修道士は仙台の修道院でな くなった。間 もな く 一周忌である。 わた したちに会って回っていたころのル ロイ修道士は、体 じゆうが悪い 腫癌の巣になっていたそ うだ。葬式でそのことを聞いた時、わた しは知 らぬ間に、両手
の人差 し指 を交差 させ、せわ しく打ちつ けていた。
この無意識 の行動 を織 田 (2001:108)は 「不条理‑の憤慨 を神 に訴 えている」ものだ としている。 もともとこの しぐさには、否定、禁止、 自己抑制、 自己打櫛な どさま ざま意 味を読み とることが可能だ し、そ もそ も葬儀 の場面での 「わた し」の感情は未分化 なもの であろ う.そ うでなければこの しぐさは現れ ないであろ う.織 田は、「間 もな く一周忌で ある。」とい う語 りの現在 を示す一文が葬式の場面の回想 よ り前に置かれていることに着 目し、 「わた し」の憤 りの現在性 を強調 してい る。 しか し、そ もそ もこの指言葉が憤 りを 示す とす ることそのものが一つの解釈である. この しぐさが現れ る三つの部分テ クス トを
どう読むか、再検討が必要なのではないか と思われ る。
「握手」の主題
すでに見てきた よ うに、 「握手」には入れ子状に回想 の時間が組み込まれてお り、そ う した時間構造が、部分テクス トを、天使園時代の物語内容の時間の作 中人物 「わた し」、
上野での再会場面の物語内容の時間の作 中人物 「わた し」、葬式の場面における作 中人物
「わた し」、物語言説の語 りの現在 における語 り手 「わた し」、さらに超越的な立場の 「わ た し」 とい うよ うな一連の 「わた し」の どの位相 に属す る表現 とみなすかによって読みが 異なるとい う結果 をもた らしている。た とえば、織 田の解釈は、天使園時代の 「わた し」
のコー ド化がある程度そのまま語 りの現在 における語 り手 「わた し」にも生 きてい ると考 えるところか ら生まれているであろ う。 「語 り手」像 を重ね合わせ、少年 「わた し」 を語 り手 「わた し」に近づけた上でそ こに寄 り添っている読み手像が浮かぶ。織 田の言 う 「ル ロイ修道士‑の信仰告 白」 とい う主題 はそ うした読みのプ ロセスか ら生まれているもの と 思われ る。 しか し、「語 り手」像 を分離 し、 どれかの 「わた し」にもっぱ ら寄 り添 うこと も可能である。松本 (1998)では 「精神 の伝承の物語」 とい う主題 を導いたが、これはよ
り語 り手を分離 し、作 中人物 を相対化 した ところにある読みである。
冒頭 に示 した よ うに、テクス ト構造や部分テクス トに対す る精微なアプローチを欠いた まま 「ル ロイ修道士のや さしさ」な どとい う主題 を導 くのは読み以前の問題であるが、精 微なアプ ローチを実践す るとき、ま さに読みのプ ロセスの違いや、それ をもた らす読みの ス トラテジーの違いがクローズア ップ され ることになる。 こ うした読み手相互の読みの違 いを意識化 し、その違いの拠 って くるところを互いに理解 してい くことこそ、文学テクス
トを読む とい うことだ と考える。
文献
青嶋康文 2001 「喪失 と継承‑ 井上ひ さし 『握手』 を読む」 田中実 ・須貝千里編 『文学 の力 ×教材の力 中学校編3年』2001 教育出版
織 田保夫 2001「『握手』の構造」 田中実 ・須貝千里編 『文学の力 ×教材の力中学校編3 年』2001 教育出版
野村 最木夫 2000『日本語 のテ クス下一関係 ・効果 ・様相 ‑』ひつ じ書房
松本修 1998 「「握 手」′」、論一精神 の伝承の物語」『GroupeBricolage紀 要』No.16 Groupe Bricolage
松本修 2000「ナ ラ トロジーの役割 ‑ 「山月記」を具体例 として‑」『読書科学』172 日 本読書学会
松本修 2002a 「「走れ メロス」の語 り」『宇大国語論究』13号 宇都宮大学国語教育学会 松本修 2000b 「ナ ラ トロジー と国語教育学研究」全国大学国語教育学会編 『国語科教育
学研 究の成果 と展望』明治図書
松本修 2002C 「教材研 究にお ける語 りの分析 の方法‑ 「に じのみ える橋」(杉み き子) を 例 に‑」『Groupe Bricolage紀要』No.20GroupeBricolage
(まつ もとお さむ 上越教育大学学習臨床講座)