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劇における複合的語り手

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劇における複合的語り手

著者 荒木 正純

雑誌名 静岡大学教養部研究報告. 人文科学篇

巻 12

ページ 3‑14

発行年 1977‑03‑10

出版者 静岡大学教養部

URL http://doi.org/10.14945/00008496

(2)

劇における複合的語り手

The Composite Narrator in a Play

荒 木 正 純

Masazumi ARAKI

(Received Oct 8,1976)

       1

  (1)King. But now, my cousin Hamlet, and my son−一一

    Hamlet・〔Aside〕Alittle more than kin, and less than kind.(Hamlet, L 2)注1  ハムレットのこのセリフはく傍白〉であるとされているが,クォート版にもフ、、r.一一リオ版に

電,このことについての記述はない◎ちなみに,このハムレヅトのセリフ自体が,いわゆるく悪 しき四折版〉とされているQ1にはなく, Q2以降現われてくるのである。大山俊…編の版にあ る注解によると,このく傍白〉(Aside)の説明は,1733年に編さんされたTheobald版にはじめ て付けられたという。しかし,Horace Howard Furnessの編さんのA New Var三〇rum Editionに よれば,このく傍白〉は王747年に出されたWarburton版が最初だという。この初出の真偽はど ちらであろうと,われわれのここでの考察にとっては重大な問題ではない。必要なことは,本文 校訂の初期の段階で,ハムレヅトのこのセリフがく傍白〉にされたという事実である。そして,

それ以後の各版がずっとく傍白〉説をとりつづけてきている。 (ただし,「ペソギン・シェイク スピア」のHarrisenの版には,このく傍白〉の記述がない。)

 本来このit・yフが,舞台でく傍白〉として扱われてきたという事実があるから,セオボールド にせよウォーパートンにせよ,〈傍白〉と校訂したのか,解釈上このほが適切だと考えてのこと であったか判然としない。ただ,「ニュー・ヴェリオラム版」によれば,ドイツの学者 Max Moltkeは1871年に出版したドイツ語の注解付版で,このハムレヅトのセリフをく傍白〉にする

ことに反対している。その理由は,概略こうである。こういう大へん短かい独白で主人公が導入 される例は,他のシェイクスピア劇にはないこと。自分で考えるときに,言葉遊びをする登場人 物は他にいないこと。シェイクスピアは劇の初めでその劇のテーマとなるべきものを述べるこ

と。だから,この場合とくにハムレットと王の対立を強調する必要があり,ハムレヅト自身が自 覚するだけでなく,王にこのことを伝える意図が必要だ,という。

 モルトケの反論が正統なものであるかどうかは別として,こうした反論が出ることの事実にも とつくと,このく傍白〉の校訂は,校訂者の解釈によるのではないかという推測ができよう。と きにモルトケの主張のなかで興味をひく点は,自分で考えるとき,言葉遊びをする登場人物はい ないということである。これは後で考察することになる地口(pun)の機能を暗に述べているも

のである。

 今,このハムレットのセリフがモルトケの主張のようにく傍白〉でなく,王に聞きとれるよう に述べた返事であるとしよう。すると,王およびガートルード,そしてその揚にいる宮廷人は,

どのようにそのセリフを解釈することになるのだろうか。 「ただの親戚でもないが,肉親あつか 一 3 一

(3)

いはまっぴらだ」(福田{亙存訳)「血はかよっても,心はかよわぬ」 (三神勲訳) Alittle more than kinsman, since y◎u have married my mother, yet ha雌y yeロr son, siRce the marrige丞 incestuous. (J. D.ウィルソン)などと理解したとすると,いならぶ人々は驚いたであろう。たと えば「甥よりも関係は深まりましたが,息子とはいえまぜん」ぐらいであれば,客観的判断であ るから人々は当然だと思うであろう。つまり,王に対する反抗は見てとれるものの,露骨な表明 にはなっていない。そもそも,ハムレットは黒衣を脱がないでいることによって,すでに反抗心 は王に伝えている。そして,この場での王やガートルードのセリフは,ハムレットのセリフにつ いて反応するより,もっぱらそうしたハムレットの外見( seem )的様子について反応をしてい

る。

 それにして電,この部分の解釈は古くから多い。大きく分けて,問題点は二つある。一つは,

統語論kのもので,このセリフの主語はハムレットか王かということである。もう一つは, kind の意昧についてである。このセリフには, kin kind の地口が使われていることに異論はな い。そして, kin についての解釈はほぼ一致していると見てよい。 kind の意味の問題は,第 一の問題点の主語決定によって左右される。たとえば王が主語だとするSingerは, Steevensや Caldecottの後をうけて, By 1ess than kind Hamlet means degenerate and base,と言ってい

るし, Whiteは『in marrying my mother, you have made y◎urself so】薩ユeth加g more than my kiRSman, and, at the Same time, haVe Sh。Wn yOUrself unW◎紬y◎f曜raCe,曜㎞♂と釈 義している。もしこの意味が返事として王に伝わるとされるなら,当然次の王のセリフで王の反 応が表明されてしかるべぎである。しかし,王はそう反応していない。だから,このハムレヅト のセリフはく傍白〉だとされたのだろう。いや,手続としては逆かも知れない。〈傍白〉だと考 えるからこそここまでの意味をそのセリフに与えることができたのである。

 ハムレットがそのセリフの主語であるという立場も古いQJohnson博士はこの kind はドイツ 語の Kind という「子供」にあたるとし, I am more than cousin and less than son. という

ように釈義している。またMaloneはこう考える。 I am a磁tle more than thy k圭nsman

(f・rl ara thy step−s。n), a旦d am s・mewhat less than kind t。 thee(f・r l hate thee, as being the perSOIt who has in(;estuously married my mother). ファーニスは釈義としてこれが一番い

いと言ってはいるが,マ舜ソの釈義もく傍白〉だと考えてのことである。

 こうした過去の釈義を見てわれわれが興味を覚えるのは,それぞれの内容よりは各注釈者たち の共通にもっている心的態度である。 「ハムレヅトは実のところこういうつもりでそのセリフを 言う」と考えるその態度である。つまり,ハムレヅトは意図的にある特定の意味を込めてその言 葉を使っていると考えているのである。ここには,われわれ血肉をそなえた現実的世界の住人 が,言葉を使いそれで何かを言おうとする,これと全く同じようにハムレヅトは劇的世界のなか で話し行動するという思考があるように思われる。しかし,劇はこういう態度で眺めてよいもの かと反省させられる。そういえば,『ハムレットs批評史のなかで,性格論というものが一時隆 盛をなした。そしてこれに対する批判は,余りにも評者の人格を反映しすぎる,というものであ

った。たしかにハムレットという一個の人格が言葉を述ぺると無意識のうちに考えていたのであ る。はたして,一個の人格が言葉を述べるのであろうか,ということが本論の一つの論点であ る。現実世界における3ミュニケーショソのような状況が,劇の世界にあるのか,つまり,登場 人物は一個人として,それぞれ相手に話しかけ,その話しを他の個人が了解する,という構造が 劇の世界にはあるのか,ということである。〈地P>の問題でいえぽ,相手に地ロということが 了解されるのか,ということになる。 (1)の地口では,このセリフ全体がく傍白〉とされ王には 伝わらないと考えられているから何とも判断はできないが,次の(2)の例では了解されると考え

一 4 一

(4)

られているかどうかの糸臓がつかめる。

  (2)King. How給it that the cloudS still hang on yeu?

    Hamlet. Not so, my loτd, I am te◎much in the son .(Hamlet,1・2》注2

 この部分についてモfi・一ゾフは,『シュイクスピア研究』(中本信幸訳,未来社)のなかでくハ ムレットのこのせりふは,きっと, 「こんなけばけばしさ,こういう宮廷の華麗さはまっぴらご めんだ。」 という意昧であろう〉というが,その意味は誰がそう了解したものであろうか。モPt 一ゾフという一人の読者(観客)が了解した意味であることに間違いはない。それと同時に,王 もそのように了解したと考えているようである。モP一ゾフはこの地口について次に説明をし,

さらにこれは当時の僅諺を暗示していると言う。そして,さらにこうつけ加える。<ハムレヅト は,自分は父の遣産,つまりIIEStをさん奪された身の上だと暗にのべている。この最後の意味を

とらえるとすぐさま,ハムレヅトの答が王にたいする痛烈な毒青であることをわれわれは理解す るのだ。顧問官会議の面々はあっと息をのんだにちがいない。王も,ハムレヅトの言わんとする ことがわかった。王は,ハムレヅトになんとこたえたらいいのか見当がつかない。ガートルード がすかさず王をたすける〉という。モr・・一ゾフは,われわれ観客が理解できれば,ヨiiやその他の 登場人物もそのように理解できるはずのもの,と考えているのである。地口についていえば,王 は理解したと考えているわけである。ここでは,ハムレットから観客に向けられたベクトルが,

劇平面上に移されているのである。エリザベス朝の人々が,平常行なっていた地口のやりとり を,劇平面の上に投影していると思われる。H常的に地口が理解されたから,劇的世界の人物た ちが行なえば,同じように理解もされているはずだと見ているのである。しかし,劇構造とはこ

ういうものなのであろうか。少なくとも明らかなことは,こうした考え方を許す構造であること は確かである。ここでいうく劇構造〉とは,その内部の世界の仕組のことだけでなく,観客(読 者)を含めた構造のことである。そこでは登場人物のセリフはどのような機能を果すものなので

あろうか。

       2

 演劇とは,それによって何かを観客に伝える構造であることに闘違いはなかろう。しかし,そ れはどのような伝達の構造をもっているのであろうか。明らかにわれわれは,前述のとおり,劇 的世界なるものを想定し,そこは現実的世界と同類の論理が支配している,こう考えている。も ちろん虚構の世界が現実に露出してくるのだということはわかっているが,その虚構の世界と現 実の世界とを容易に置き換えてしまうのである。こうした場が舞台であるわけだが,どうして仮 構された世界が,異空間である現実に露出してくることが可能なのであろうか。

 まずわれわれは次のことを銘認しておかなくてはならない。シェイクスピアの『ハムレット2 という劇作品は,1600年か1601年頃書かれたと見られているから,エリザベス朝において使われ ていた英語で書かれ,その英語を使っていた観客を対象にしていたという事実である。なにもシ ェイクスピアは,二十世紀のイギリス人やアメジカ人のために書いたのではない。ましてや異邦 人である日本人のために書いたのではない。この事実は言語の本質に基づく必然である。言語を 使用して,表出するということは,必然的にそうなるのである。つまり,ee−一共同体の成員のた めに,共同体の認識体系を用いて,共同幻想をつくるぺく書くことになるのだ(拙稿「翻訳,語

り,話法」(東京教育大学文学部紀要「西洋文学研究」1976年)参照)。

 この事実を考えると,〈仮構された現実〉の現実への露出の仕方がわかってくる。舞台(ない し劇)の世界は,地理的・時間的にエリザベス朝の世界と異次元のデソマークということになっ ている。そのデンv一クの住人であるデソマーク人たちが,エリザベス朝の観客に対して,その 認識体系の言語である英語を話す。このことから,舞台上に見える役者たちは,観客と同一共同

一一 T −一

(5)

体のデンマーク人の影を背負った成員たちではないか,さらに言えば,デンr一ク人たちの特定,

の時間・空間に起った爵来事を語るという役割を担った人たちではないか,という考えが生まれ てくる。このく語る〉という言葉は広義であって,〈演じる〉ということも含まれる。<演じ る〉とは,身体による一つの〈語り〉行為に他ならないからだ。

 役者が演じるとは,誰しも認めるところであろう。しかし,彼らがく語る〉という事実は以外 に看過されている。狭義のく語る〉行為には,当然言語が使用される。それは,人の言った(と 仮溝した)事実を伝えたり,その場の状況(そうあったと仮構して)を伝えたり,人の思ったこ と(そう仮携した言葉)を伝えたりすることである。こうした言語によるく語り〉と同時に,演 技による〈語り〉をするからこそ,舞台上の役者は観客にとって現実の個人と幻想することが可 能になるわけだ。役者が〈語り〉〈演じる〉のであるとすれば,これに類した現象をわれわれは 知っている。噺家は,高座に座し不動の姿勢でく語る〉だけではない。彼は,伝達している仮構 された人物の言葉に合わせて,演技することをわれわれは知っている。このことを考え合わせる と,演劇の演技と語りとの関係はどうなるのか,という問題が起こる。〈演技〉は独自の芸術の 表出形態,たとえば舞踊から出てきたものであり,〈語り〉はく物語る〉という蓑出形態から出 てきたものであり,その二つの要素が舞台という場で融合した,という仮説も可能だろう。また く演技〉は,〈語り〉行為がその迫真性を得るために,自然的に生みだしたものだ,とも考えら れる。しかし,これは速断できる問題ではない。

 ともかく,俳優は演技者であると同時に語り手でもある。この点について,次の説がわれわれ にとって有効である。

  もっとも,演劇も初期においては役者が観客に話しかける直接的伝達が見られるが,すでに  かなり早い時期に,登場人物が客席を無視してもっぱら登場人物同志でことばのやりとりをす  る間接伝達の様式が確立している。 (外山滋比古『読者の世界』40頁) (傍点筆者)

ここでの力点は,間接伝達の様式の確立に置かれているが,前者の事実が消えることはない。こ こで述べられている通り,演劇が伝達の一形態であることは確かである。その伝達をするのカ㍉

舞台では役者に他ならない。役者である語り手は,デンマーク人ハムレヅトが言ったと仮構され た言葉や,思ったと仮構したことを観客に伝えるのである。この時,シェイクスピアは直接的な 観客はエリザベス朝の人々であったために,語り手にその手段として,…IJザベス朝の英語を与え た。ニリザベス朝の人たちの認識体系を与えたのである。したがって,観客がデンマーク人であ れば当然デソV−一ク語になろうし,H本人であれば日本語になる。さらに,語り手のその語る言 葉は,デソマーク人ハムレットが,伝説の中の現実で言った言葉ではなく,そういう言葉を使っ たと仮構して語る言葉である。後で述べることになる,ハムレヅト伝説の物語の諾り手が,説明 的に語る言葉は,ハムレヅトが話したと仮構して語らなくはならない。ここに,役者としての語 り手の制約がある。また,役者が語り手だとすれば,そこに語りの修辞が起るのも当然である。

伝説の物語の現実におけるハムレヅトが使った修辞ではなく,語り手が語りの対象にする共同体 の持つ修辞である。ここにく地1;〉の問題も姿を現わしてくることになるのだ。

       3

 ここで,われわれは〈演技+語り〉の劇(演劇)から書かれた劇く戯曲)に目を転ずる。戯曲 はく演技〉という語りの形式をもたない。言語による語りのみで成立する。この戯曲の成立につ いて吉本隆明は次のような説を述べている。

  書き言葉としての劇,あるいは書き言葉としての戯紬(的なもの)をもとにした演劇の成立は,慢界中  どこでも,詩の時代と散文(物語)の時代のあとにやってきている。……詩の表出としてもっとも高度な  野情詩では,人間の内的な世界のうごきをえがくことができるようになった。物語の表出では,複数の登  場人物の関係と動きを語ることができるようになった。劇においては,登場人物の関係と動きは語られる

一一@6 −一

(6)

 のではなく,あたかも自ら語り,慈ら動ぎ,自ら関係することができるかのような言語の蓑出ができるよ  うになった。

  物語でも,登場人物たちはある場面で会語をかわすが,それは会話をかわすことが語られるという仮構  を意味している。劇では登場人物が自ら語り,それによって自ら関係するという仮構を意味している。

  (吉本隆明『言語にとって美とはなにか』ll,勤草書房,1i3頁)。

物語の語り手の姿は,初期においては明らかだった。その系譜をひく小説においても,初期のも のははっきりとしている。しかし,現代においてはその姿は見えにくくなった。現代においても 一人称小説より三人称小説のほうが見えにくいのである。しかし,言語を使うという形態をと

り,対象をもって存在するものは,必然的に語り手を設定しなくてはならない。小説の語り手の 姿が見えにくいのと同様に,劇の語り手は存在しないように思える計そういう仮構をとって表現 がなされている。しかし,それは登場人物が〈あたかも自ら語ることができるかのまう〉な形式 をとっているだけである。演劇における語り手の姿を役者に見たわれわれは,〈演技〉という語 り行為をもたない戯曲においては,その語り手をどこに見い出すのであろうか。当然,役者が演 じていた登場人物にその姿を見ることになるはずだ。

 ハムレットという登場人物は,自ら語ると同時に,自らについて語り,他の登場人物について 語り,彼らと自己との関係について語り,自己の置かれている状況について語る。つまり,セリ フの前に置かれた登場人物の名は,自分のいうべぎことを言う仮構された人物の名だけでなく,

戯曲を成立させる構成要素としての語り手を示し,その語り手は,仮構されたハムレットを影と して背負うのである。セジフは,ハムレヅトが話したと仮構する語り手の言葉に他ならない。た とえばく王クn一ディアスの言葉に対して,「ただの親威でもないが,肉親あつかいはまっぴら だ」とハムレットは心ひそかに思った〉という物語的語りにおけるく直接話法〉が,吉本の言う

ようにく会話をかわすことが語られるという仮構〉であると同じ意味で,<思ったということが 語られるという仮構〉が戯曲のセリフである。

 セリフとしてのく直接話法〉は,物語のく直接話法〉と同一の性質のものではない。たとえ ぽ,思ったことも前者は口に出して話すという仮構をとらざるを得ない。<王クローディアスの 言葉に対して〉という語り手の声も,戯曲では時間的順序によって示すか,〈直接話法〉のセリ フのなかにとり込むしかしなくては.ならない。物語では,〈「ただの親戚でもないが,肉親あつ かいはまっぴらだ」ハムレヅトは,「それはそうと,ハムレット,今度は余の甥でもあり息子でも あるお前だが……」という王クローディアスの言葉を聞いて思った〉とできる。これは,語り手 自身の声がく直接話法〉と二重映しになり,そこだけに限る必要がないからである。これに対し て,戯曲の語り手は,自分の声とく直接話法〉とを寸分たがわず重ね合わさなくてはならない。

このことは,語り手が消滅したことを示すのではなく,語り手が自分の声をく直接話法〉のなか に限ったことを示すのである。そして戯曲は,演じられることを期待して成立するものであるか ら,その語り手の数は複数であると言わなくてはならない。舞台では一人の役者がクPt・一ディア スを演じ,同時にハムレヅトを演じるというわけにはいかない。この点落語と異なるところであ

る。したがって,物語から戯曲への転化は,仮構した現実の裏出の仕方における変化であり,そ れは語り手の複合化であると指摘できはるずだ。

 セリフが語り手によって伝達されるということは,いくつかの事実によって証拠だてることが 可能である。たとえぽ,物語の語り手は状況説明などを自分の声で行なうが,たとえばシ・。イク スピア劇にあっては,その説明が登場人物のく直接話法〉にされたセリフのなかに現われてくる 例がある。しかも,それが二人の登場人物によって担われているということがある。これは,語

り手の複合化の根拠である。たとえぽ次の例はその例である。

 (3)Horatio。_〔 a flouri・sh of trumPets,, and ordnance sゐo季げ

一 7 一

(7)

What d◎es t趣膿a燕, my 1◎rd?り

Hamlet. The king doth wake to−night and takesぬis rous馬 K㏄ps wa{mail and the swag9,婁ing upsp!漁g reels:『

And as he dra圭ns h奮draughts of R.heniSh down,

The kettleriぎum a織d trumpetもhus bray out The t盛umph of his Pledge.    . .、、

Horatie.        】8 it a cust◎m?

Hamletr Ay磁arry三s,も

Bu重to即y mi薮d, though l a恥nat圭ve h㈱

And to the mar莚ner born, it圭s a cus毛◎m More honoured圭n the bfeach than observan◎e。

(Hamlet.工4)注3

 劇全体から見て,ホレイショーはデソマーク人であり,このエルシノアの宮廷と関わりのある 人物であると考えられる。しかし,そうなると,こうしたハムレヅトが説明する習慣を知らぬと いうのはおかしい。J.D.ウィルソソは,「ニュー・シェイクスピア版」の序で次のように述べ

ている。

 He(Horatio)is n◎w a foreigner to whom Hamlet丞obliged to explain the customs and  outst駄nd三ng pexs◎nalities Qf Denmark, and n◎w a Dane, who knows the latest rumours at  ceurt, has seen KiRg}{amlet, and can command the respectful hearing of FQrtinbras and the  rest after Prince Hamlet,s death. The explanat至on is, of course, that he 盤nQt a person in  actual life◎r a character in a novel but a piece of dramatic structure.

つまり,ホレイショーとハムレットの会話は,情報を観客に伝達する舞台上の工夫の一つだとい うのである。また,大山俊一は次のような注解をしていて興味深い。<ホレイショーが自分の国 のことについてこう訊ねるのは,事実おかしいといえばおかしいが,あくまでも芝居のリアリズ ムの観点から考えなければならない。ここではわれわれ読者,及び観衆の注目は専らデンーr・・一ク

      の   つ         コ    ■

のこのような慣習に向けられていて,ホレイシ導一はここではハムレットにそれを物語らせるキ ッカケをつくっているにすぎない。あるいは更に極言するならば,ホレイショーはここでは当時

の   の       の   サ   ゑ   ロ   ロ   の        

のPソドソの若者の・・・…一一人と考えられても一向に差支えないのだ〉(傍点筆奢)。 ハムレットとホ ンイショーのこのやりとりは,ギリシア悲劇の主人公とコロスのやりとりの形式をとっているよ

うである*。 ここで,ホレイシH一が当時のPtンドンの若者であるならハムレットは何者になる のか◎エルシノアの習慣をよく知っている者でなくてはならない。したがって,ニルシノアの宮 廷人であるか,また別の人間なのであろうか。Pンドンの若者が,エルシノアに下降したのか,

エルシノアのハムレヅトが歴史と空間の暗闇を通り抜け,Ptンドンに上昇したのであろうか。次 元の異なる世界の人間が,同一の場に居る,これは虚構的リアリズムだといえばそれまでである が,理論的には誤りであろう。われわれは,ハムレットもホレイシa一も仮構的世界について語

るエリザベス朝の語り手だと考えるのだ。物語の一人の語り手の声が,二人の語り手の声によっ て表出されたと考えるのである。

 ・M・yR・・d Ma・kは The J・c。b・・n Sh・k・sp・a・e・s・m・・bservati・ns・n the c・nst・u・ti・n。f the  Tragedies (Jacobean Theatre)の中で,マックベスとマヅクベス失人,オセ冒とイアゴ・㍉ハムレヅト  とホレイシR…とをギリシア悲劇の主人公とコ Ptスに対応するものと考えている。

 登場人物として,戯曲の語り手は物語の語り手から複合転化したことは, (1)におけるく地 口〉とく傍白〉,(2)の〈地口〉がその例証となろう。そもそもく傍白〉にしろ〈独白〉にしろ,

      一一 8 t…一一

(8)

そのセジフは他の登場人物には聞こえないことを仮構するもので,そのセリフの主が心のなかで 思ったことを表現しているρつまり,ここには語り手の姿が他の部分より竜色濃く現われている のだ。〈傍白〉は演劇において,役者が観客に向いてセリフを述べる,あるいは,他の役者の誰 れにも向かわないで述べなくてはならない。向かうという演技は,彼が他の登場人物に語ったと いう事を語る言葉に他ならないからである。これに対して,戯曲では演じるための台本でなく,

読むための劇になると,演技による語りは期待できなくなる。したがって,語り手は自分の声以 外に何かを求めることになる。つまり,〈傍白〉という記号が要請される。たとえば,J. D.ウ

ィルソソは次のようにしている◎

  (Hamlet. A斑tle more than kin, and less than kind.

〈独白〉においては,そうした記号が用いられないが,他の登場人物が全員退場するという記号 が前のセリフのあとにつけられる。たとえば,ウィルソソにあっては次のとおり。

      〔 Flozarish. Exeuat all bUt Hamlet    Hamlet.0, that th盈too too su欝ed fiesh wauld melt,

       (Hamlet,12)

 演劇では,独白する人物の役者が,一人舞台の上に残るという語りでく独霞〉であることを観 客に伝達する。

       3

 われわれは,劇の語り手を物語の語り手の複合化であるようなことを述べたが,この二つの表 出の仕方の転移について,吉本隆闘は次のような見解をとっている。

  言語としての劇は,言語としての物語をへてのち,長い期間をへて徐々に確実に転移したものと考える  ことができよう。これが,言語としての劇が,言語としての物語からのく飛躍〉であり,またおなじよう  に〈連続〉であるということの意味である。(前掲書,133−一一4頁)

ここで吉本が述べていることは,言語の表出の仕方としての劇が,物語から転移したということ である。しかし,一・・…Lつの具体的な言語としての劇が,一つないし複数の物語から現実的に,具体 的に転移した例をわれわれは知っでいる。シmイクスピアのほとんどの劇がそうした経緯のもと に成立しているのである。たとえば,本論で扱っているシェイクスピアの『ハムレットgは,そ の成立以前にそうした歴史を持っている。まず,北欧の伝説があった。その後色々な文献に「ハ ムレヅト」の名が現われてくる。そして,この伝説を言語としての物語として,完全な形で最初 に定着させたのが1200年頃書かれたサクソー・グラマティクスの『デソマーク史』である。さら に,1570年にフランソワ・ド・ベルフ才レーがこの『デソマーク史』のハムレヅトの物語を自由 訳しr悲劇物語』の第五巻にとり入れる。そして,1608年これをトーマス・ペイヴァーが英訳 し,『ハムレット物語』を出している。しかし,この英訳はシェイクスピアの『ハムレット』に 直接の影響を与えたとは考えられていない。直接には,今は紛失してないが,存在したと想定さ れているトーマス・キッドのいわゆる『原ハムレット』があって,それを下敷にしたと言われて いる。こうした筋立ての上で,シ呂イクスピアの『ハムレヅト』が成立してきたのである。

 シ=イクスピアの作品の言語的・劇的完成度の高さは,こうした過程がなくては果せなかった ものと思われる。では,この過程のなかで,物語としてあった『ハムレットsの語り手の姿は,

劇としての『ハムレットaのどこに転化したのか。この問題は先刻解答済みである。登場人物と して複合化したのである。複合化することで,登場人物はく語られる〉ことからく自ら語るかの ように〉なっていったと考えられる。そういう仮構ができたのである。あるいは,語り手は複合 化するたあに。〈直接話法〉に自己を限ったということでもある。

 シェクスピアが自分でまず物語を創作し,それを劇に転化するとbう手順をとらず,存在して 一 9 一

(9)

いる物譲を劇化したということは,溢そらく悲劇成立には欠くことができなかったに相違ない。

時問的・空間的に離れた物語が必要なのではないだろうか。観客にとって,自分たちの身のまわ りに起った出来事は,悲劇のもとになる物語にはなりえないと思われる・血のしたたり落ちる現 実ではなく,それが物語のなかにまず入りこみ,一種の観念的な幻想にまで抽象化・構成化され

る必要があったのではないか。ギリシア悲劇の代表である『オイディプス王』は・ギリシア神話 としてrオイディスj伝説をもっていた。そうした幻想化された物語,つまり仮構された時間的

・空間的に遠い現実が,同時代の語り手の日を通り,その属する共同体の成員に向ってく語り〉

〈演技〉されて伝達されるのが演劇(とくに悲劇〉なのではなかろうかと思われる。少なくとも 偉大な劇にとっては必要条件なのではないだろうか。そして,その語り手の観客に対する同時代 性,同共岡体性こそが,遠い仮構された現実を現実に露出させるメカニズムなのではないだろう

か。

       4

 rハムレットSのテキストに付された過去の注に見られるとおり,<ハムレヅトはこういうつ もりであった〉という表現がよく使われる。そしてある特定のセリフはその場にいると仮構され た他の登場人物に聞かれ,理解される,しかも一一定の意味においてと考える。そしてさらに,ハ ムレットの性格は,こうであったと,われわれ現実的世界の住人のように論べられそきた。こう した考えを生むのは,『ハムレット』という劇がくハムレヅト伝説〉→〈ハムレット物語〉→<ハ ムレット劇〉というように,重層的な過程を経て成立し, しかもそこにはく語り手(演技者)〉

がいて,そのく語り手〉は複合化し,一個の現実的人間の姿をとり,話し行動する,その時の言 葉や行動様式は観客が認識体系とするものである,という全体的枠組があるからだ。異邦人のハ ムレットが,時間・空間を超えてエリザベス朝の観客の前に,現実的エリザベス朝の人間である かのように立ち現われるのは,こうした枠組が必要であった。劇中のハムレヅトのセリフが,自 分の友達と同じレヴェルにあるかのように思われるのは,eうした構造のためなのである。

 しかし,観客が現実に耳にする言葉は,遥かかなたの仮構された現実のハムレヅトが口に出し た言葉ではない。それを翻訳したというのでもない。あるいは,物語の申の仮構された現実のハ

ムレットの声でもない。それは,シェイクスピアの書いた劇『ハムレット」,.正確には,The Tragedy Of Hamget Prince Of Denmarfeの中の登場人物Hamletの声である。そして;舞台で はチェソバレソ座の一役者の声である。しかも,1600年あたりにおけるグローブ座の舞台におけ る彼の声であるわけだ。こうした事実の上で,観客はあたかもハムレットが語っているように幻 覚するのである。役者の語るセリフは,劇『ハムレット』の構造化された言葉である。そして,

ハムレットの性格とは,シイェクスピアが,過去の物語から彼の認識体系を濾過させ,現実に浮 かび上らせたものに他ならない。黒衣をまとったハムレットは,仮構的現実のハムレット王子が 黒衣をまとったからそうしているわけではない。それは,語り手ハムレットが,衣装という一種 の言葉で,ハムレヅトの仮構された現実から浮かび上らせたシェイクスピァの認識によるハムレ

ットの性格,彼の劇的状況に置かれた時の気持,そしてその時の雰囲気などを観客に語るための ものである。(このように,劇における語りの方法は多様化している。)

 では,こうした劇講造のなかで,ハムレヅトのセリフはどう位置づければよいのか。まず,語 り手の言葉だということはわかった。また,それはいわゆる〈直接話法〉だということもわかっ ている。しかし,これは物語における語り手の語るく直接話法〉とは異なり,謡り手の物語にお ける地の部分も取り込む性質のものである。そもそもく直接話法〉とはく発話者の言ったことば をそのまま伝達する〉語りの形式ではなく,〈発話者の雷ったことぽをそのまま伝達するかのよ

うな仮構をする〉語りの形式に他ならない。語う手の述べる言葉はく直接話法〉においては,自 一10−一

(10)

分の言葉ではないように見せかける工夫をいくつか竜っている。たとえば,発話者を示す〈わた し〉などを使い,実際は語り手にとってそのくわたし〉はく彼(彼女>>にほかならないという工 夫がある。そのために,〈そのまま伝達するかのような仮講〉が可能になる。こうした語り手の 言葉が,〈あたかも自ら語る〉ようになった劇のセリフであるわけだが,そうなった原因はおそ

らく語り手の複合化によるのであろう。

 では,その複合化した語り手の語る言葉は,実際問題として,物語りの語り手の語る言葉から どのように転化していくのであろうか。つまり,劇のく直接話法〉がどのように物語から生じて くるのであろうか。この問題は,『ハムレヅト』より原典のはっきりしているrマクベスsの方 が例として見やすい。学者の過去の研究の成果によって,その主要な原典はホリソシ呂ッドの

『年代記』の「マクベス」の記事だとわかっている。

 (4)TheR Banquho二 What manner◎f wcmen (saith he> are you,完hat seems so little fa−

   vourable vntQ⑳¢, whereas to my feUow heere, besides短gh o鎚c銘, ye assigne a麺o the    kingdome, apPointing foorth n◎thing for me at a薮?

 (5)Bangzae. Good sir, why do you start, and seem to fear    ThiRgs that do sound so fair?工  ths name of truth,

   Are ye fantastica1,0r that魚deed

   Which outwardly ye shew?My noble partner    You greet With present grace and great prediction    That he seems rapt witha!:to me you speak not.

   If you can 1・・k int・the seeds◎f time,

   And say which grain w還gr◎w and which W三11 not,

   Speak then to me, who neither beg nor fear    Your favours nor your hate. 注4

(4)の一節が(5)に転化されたのである。ある意味で(5)は(4)の直接話法であろうが,表現は大部 変化が見られる。すなわち,〈直接話法〉はそのまま伝えるかのように仮構した語り方なのであ る。(4)は「エヴリマソ・ライブラリーJによったため,引用符が付けられているが,これは原典 にはないものである。形式的に見れば,(4)から(5)までの距離はたいしてないことがわかろう。

       の     コ    の

(4)の(saith he)とThenを取り去れば,形式的に(5)になってしまう。しかし,なんと内容に変 化が見られることか。(5)の語り手はマクベスの驚ろいた様子について語り,多弁になっている。

イメジャリー一を盛り込んでいる。さらに,ブラソク・ヴァースに転化した。こうしたことには,

当然シェイクスピアの想像力や詩的表現力が関与している。次の(6)(7)は,いかに地の部分が く直接話法〉に転イヒされているかの例である。(5)はr年代記di, (6)はシェイクスピアのrマク ベス.11の部分である。

 (6)Herewith the foresaid women v琴niShed immeCliatlie out of their sight. Th均was reputed at the first but some vaine fantasticall illusi◎n by Makbeth ・ and BanqUho, insomuch that    Banquho would .call Mackbeth in iest, king  Scot1and;and Mackbeth againe would㈱11    him in sport likewise, the father of man圭e kings.

 (7)Banguo. The earth hath bubbles, as the water has,.

   And these are of them:whither are they vanished?

   Macbeth.,Into the air;and what seemed corporal, melted,

   As breath into the w滋Would£hey had stayed!

   Banguo. Were such things here as wa do speak abo凱?

一i1一

(11)

   Or have we ea紀簸 ◎n the i Lsane r◎◎t    That takes the reason pdsoner?

   Macbeth. Your children sぬa蓑be k圭ngS.

   Banqao、        You sha難be kiR9・

   Maebeth. And thalte of Cawdor too:went it not se?

   Banauo. To th selfsame tune and words. Who s here? 注5

魔女たちが消えたという事実を語るのに,(7)では詩的イメジャリーが用いられている◎そして・

土入あ語ら手によって語られている。しかも,二人の使うイメジャリーがいわゆる四大要素の三 つが使われ同一でない。ヴァソクォーは〈地〉〈水〉,マクベスはく風〉である。これは劇構造 の上からもテーマの上からも興味あることである。こうした転化は,当然シェイクスピアの才能 が大きく作用したわけだが,言語による蓑出の形式の稲違,一・・…一つは語り手の複合化という形式に 大きく影響されていると見られる。こう並べてみると,(7)の劇の語り手たちは・(6)の物語の語

りをしているということがわかる。しかも,その語りはく直接話法〉をとってはいても・そのま まではなく,内容に大きな変化がある。ある意味でく間接話法〉といってもよいほどである。し たがって,劇の語りの言葉(セリフ)は,物語の語り手の言葉をそのまま伝えるという仮構では なく,物語の仮構しているその背後の現実の世界になりきるという仮構をとっているものだとい

うことになろう。あるいは,その仮構された現実を現実に引き込む,露出させるといってもよい

だろう。

 戯曲は,登場人物をそのセリフごとに連続的に並べてあるが,それはその頽序に時間が流れる ことを示している。したがって,前のセリフと後のセリフで一つの組ができる。これは,文法の 統語論こ似たまとまりを示すことがあるように思える。その時,二つないしそのまとまりを成す セブリ群は,そのセリフの上に付けられた登場人物の名の数の語り手たちによって語り含いがも たれていることを仮構して示している。あくまでも,これは登場人物が語り合うことを仮構する ものであって,語り手同志が語り合うというわけではない。いくつかのセリフのまとまりで,仮 構された現実の人物たちが語ったという事実を仮構的に示すものである。登場人物を担った語り 手は,一つの文における一つの語が決して他の語にはみだしてつづいていかないように,ただ自 分の役割に自己を限定し.それを果すだけである。劇のセリフの連続の中に位置するだけでその 役割を果すのである。あくまでも藷り手は読者に語るだけである。これが劇のセリフのありよう

である。

       5

 〈傍白〉やく独白〉のセリフの持つ意味は,登場人物が語り手であるとするとどうなってくる のであろうか。セリフとは,そうした語り手のく直接話法〉の語り言葉らしいということにな った。われわれの知る文法が教えるところによると,〈直接話法〉とは発話着の言ったことだけ でなくく発話者の思ったこと〉(発話しているのに思うというのもおかしいが)をも伝える方法 であった。すると,今考えているく傍白〉やく独白〉のセリフは,そうしたセリフを述べると仮 構された現実の入物の思ったことをく直接語法〉で語る言葉だということになろう。しかも,

〈直接話法〉は発話者の思ったことをそのまま俵達するという仮構はするものの,決してそのま ま伝達するわけではなかった。すると,(1)のハムレヅトの思ったことは,正確には仮構された 現実のハムレヅトが思ったと仮構するとはどういうことになるのか。それは王がハムレットに向 って語った(と仮講したとぎ)言葉に対して(実際には何と言ったかわからないのだが)ハムレ

ヅトが反応を示したということ,ハムレットは王に反感を抱いているということをハムレットの 思ったセリフは仮溝しているのである。つまり,そのように仮構的事実を語り手ハムレヅトは述       一12−一

(12)

べるのである。

 (1)では,語り手ハムレヅトは地口を使っているが,仮構的現実のハムレヅトが地口を使った という事実をそれで観客に伝えているわけではない。地口という一種の修辞によって,仮構的現 実のハムレヅトの心境なりを観客に伝えようとするものであり,観客に対する一つのサーヴィス なのである。地口は当時の観客たちにとって一つの共通語的なところがあった。彼らの文化的財 産の一つであった。すなわち,認識の型の一形式となっていたのである。その点に関してM・M・

マフードは,ShahesPeare  S WerdPlayのなかでく言葉遊びはエリザベス朝の人たちが真剣に遊 んだものであった〉<シェイクスピアの地口はオーガスタンの人々からその名声を危くさせたか

も知れないが,彼の時代と教育とが言葉遊びをするよう運命ずけていたのである〉といってい る。ジェソソソ博:ヒなどは,シェイクスピアの地口をく破滅の因となるクレナノ弥ラ〉と書い批 判したわけだが,その反対理由はこうだ。登場人物が死に瀕して地口をつかうことが多いが,こ れはく理屈〉〈適正〉〈真理〉に反するものだというのがその一つである。マフードは実際に臨 床の時に述べられた地口はあるとして,キーツやダソトソの例を引いている・しかし・これは次 元の混乱であって,劇における地口は,死ぬと仮構された現実の人物がIlelするものではなく,

われわれがこれまでみてきたように,その時の人物の心境などを,語り手が地口という修辞で表 出したものにほかならないのである。

 ジョソソソらオーガスタソ人の誤解はともかくも,エリサベス朝には地ロが共同体の認識の一 形式であったが,その後色々な事情(たとえば精神風土の変化)によって拒否されたわけであ

る。つまり,語り手の雷葉がすなおに仮構的現実を幻想させる力をもっていた,つまり,語り手 の言葉と観客の言葉が符合していk時代から,時の経過とともに観客と語り手の言葉に乖離の生 じた時代へと移行し,観客は語り手の蓄葉から直接に仮構的現実を幻想できなくなったのであ る。ある意味で,語り手の言葉が不透明になったといえるのではないか。言語が透明であるため には,それを使う人効ミその言語を共同認識体系にしていなくてはならないのだ。

 地口はとくにエリザベス朝の共通的語りの一式だったわけである。そして,ここにおいて語り 手の時代性が顕著に見てとることができる。そもそも,語り手とはその属する共同体の成員に向 けて,その共同体の認識体系を用いて語るのが原則である。

 したがって,(1)(2)の地口の持つ意味,つまり語り手ハムレヅトが観客に語ろうとしたこと は,地口の持つ機能的意味とも関係している。(1)で,もし語り手ハムレットが,たとえぽウィ ルソソのような内容だけをいいたければ,なにも地mを使う必要はないのだ。 alittle more than kinsman, since yeu have married my mether, yet hafdly y◎ur son, since the marriage is

incestUOUS・といえぽ,この方がすっきりして明快である。しかし,地口を使った。ここに意味 を見なくてはならない。地口はいくつかの種類はあるが,同音(類音)異義が原則である・だか ら,それはく現われ〉(音)は似ても〈実体〉(意味)は異なることを表わしうるはずだ。この 二項対立は,まさしくシェイクスピアのifハムレット』のテ・… ?の一つであったはずである。こ のことは,言葉にして,この地口のあとで,ハムレヅトはガ・.d Fル・・一ドに語ることでもある。

 さらにいえることは,とくに(1)(2)は学者の説として,どうも僅諺表現であったらしく,観 客は容易にその便諺を連想し,その意味をセリフに付着させることができたらしい。すると・ま

さにセリフの時代性が明らかになるではないか。

 また,地口はその語り書葉を,原典であるサクソーの『デンマーク史』の語り言葉を劇的に表 出したものであろうと思われる。今みたとおり,地口にはく見え〉とく本質〉の乗離を表出して いるとするのだが,これはrデソマーク史』の記述にある「ハムレットの友人達は彼を気違いだ

と思いこんでいろいろと彼を愚弄しようとした」 (大山俊一注解)点に相応していると思える。

       一一13一

(13)

この点ではもちろん羊狂と地口との関係も指摘できよう。

 このように,地口はその裏の意味は他の登場人物につたわらない。いや厳密に言えば,表の意 味さえもつたわらないのである。われわれが,つたわると思うのは劇的文法に従ってつくられた 構造によって,観客や読者であるわれわれの抱く幻想である。語り手から語られる地口を観客や 読老は理解すると,それは語り手が登場人物として語っているために,他の登場人物にも理解さ れるとわれわれが幻想するだけである。これはひとえに,劇の複合化された語り手のためであ

る。

      注

1Hlamlet:A New Variorttm EditionげSfiakesPeare, ed. Horace H◎ward Furness.

2HamZetr The Nezv Shaleespeare. ed.30hn D◎ver Wils◎tW

3 iみid.

4MacbetJz: The Nezv Shakespeare 5 乃畝

一一 P4一

参照

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