言語における主体の概念と認知文法
著者 長谷部 陽一郎
雑誌名 Core
号 30
ページ 33‑61
発行年 2001‑03‑10
権利 同志社大学英文学会Core編集部
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015046
言語における主体の概念と認知文法
言語における主体の概念と認知文法
長谷部陽一郎
1.はじめに
言語学者
RonaldLangacker
による認知文法理論は、従来の言語理論で は厳密な考察の対象として日を向けられてこなかった様々な心的認知活動の あり方に注目し、その解明こそが自然言語のメカニズムを明らかにする鍵で あると見なすC c f .Langacker 1 9 8 7
,1 9 9 0
,1 9 9 1
,1 9 9 9 a )
。そのような認知文 法理論における様々な理論的概念の中でもとりわけ重要なものの一つが、主 体およびグラウンドの概念であるO それは言語の基盤となる認知活動自体を 可能にするような、いわば人間の知覚と認識の根本的な構造に関する概念で あり、その意味で言語の問題を論じるにあたっては、何よりもまず詳細な考 察と厳密な定義を必要とする概念であるといっても過言ではない。本稿では認知文法における主体とグラウンドの概念についての認識論的・
存在論的考察を試みる。以下、次のように議論を展開するO まず2節では、
言語理論における主観性の概念の重要性と、それを理論的な考察の対象とす ることの妥当性について論じる。ここでは従来の客観主義的言語理論と認知 文法理論の言語観の決定的な差が明らかになる。 3節および4節では、あら ゆる言語表現がそれなしには適切な意味を持つものとして成立し得ない認知 的基盤としてのグラウンドの概念について、現在までの認知文法の枠組みに おいて論じられてきたことを中心に概観する。しかし、グラウンドの概念の 本質は、
Langacker
による定義のみによって完全に明確にされ得るとは考 えられない。グラウンドと密接な関係を持ちながらも全く異なる存在のモー ドを持つ、根源的主体というものの存在についての正確な認識を試みること言語における主体の概念と認知文法
がまず必要であると思われるo
5
節においてこの問題について考察し、グラ ウンドと根源的主体という二つの概念の定義についての理論的に厳密な差別 化の必要性を論じるO2 .言語理論における主観性
生成文法に代表される従来の客観主義的言語理論において主観性の問題が 取り上げてこられなかったことは、これらの理論がとっていた言語観による 必然的な帰結であるo 生成文法が言語使用者としての人間に内在するもの として仮定する文法の構成要素とは、原理やパラミターといった構文論的な 客観命題の集合であり、この理論ではそれらに対して事実上無条件に実在と してのリアリテイが与えられている(山梨2000)0客観的事実の観察と一般 化によってもたらされた原理やパラミターは、それ自体に本質としての客観 性を備えたものであり、それらの体系こそが言語能力という一種の自然現象 的事実のあり方なのである。
しかし、ある事実に内在する関係性が見出され、それが一つの命題として とらえられるとき、そこにはその事実を認識する主体というものがやはり存 在していることは、我々にとって逃れられない現実である。そして、そのよ うな主体によって記述された命題は、それ自体に本質としての意味を持って いるわけではない。命題に意味を与えるのはあくまでも認知主体の役割であ る。このような見方からすれば、生成文法がいかなる主体の見立てからも独 立した、純粋に客観的な命題性を持った構文論的体系というものを言語の本 質として規定していること、そして、人間にはそのような体系を備えた文法 が生得的に与えられていると仮定していることに対しては、当然ながら疑問 が生じることになるO このような客観主義への疑問に対して、生成文法はど のように答えるのであろうか。
それはきわめてシンプルに述べられる。生成文法が堅持するような客観主 義の立場からすれば、このような問題意識を持つことはそれ自体、言語に対
する科学的態度の放棄を意味するものであり、理論以前の根本的な科学観に おける誤りと見なされるのであるO 近代以降の自然科学は、世界におけるあ らゆる現象を客観的。三人称的な分析と記述によってのみ説明され得るもの と規定し、そのことによって実際に大きな成功を収めてきた。言語もまた物 質世界における現象の一つに過ぎないと仮定するならば、同様の客観的な方 法論をもってそれは考察され、記述されなければならない
CChomsky2 0 0 0 )
。 そこに主観性や主体といった概念の入り込む余地があってはならないのであ る。このような客観的言語観においては、既述の通り、理論におけるあらゆる 要素とそれらの振る舞いについて語る原理は、それ自体に本質としての客観 性が与えられた一つの閉じたシステムを構成するO 言語を習得し使用する主 体としての話者や聞き手にとっての事態認識のあり方や意志性。志向性とい ったものは、文法体系に対して直接的な影響を持つことはない。なぜならそ のようなものはすべて理論的考察の場から排除されるべき主観と見なされる からである。厳密に客観的な科学の問題として自然言語の問題に取り組むに あたっては、あらゆる現象はより微視的な要素に還元されこそすれ、人間の 意志や意図の世界に帰せられることがあってはならないのである。
しかし、このような主張の中には主観や主体という概念が本来意味すると ころのものについての明らかな誤解があり、それによる重要な事実の認識の 欠如がもたらされている。すなわち主観的にのみ存在し得る事象の客観的な 分析が成立するという事実に対する認識の欠如である。この問題は、近年多 くの認知科学研究者たちによって論じられていることであるが、中でも
John S e a r l e
は、意識や言語の構造を論じるにあたって生成文法のような客 観主義的方法論を採用することを厳しく批判し、主観的存在の客観的考察が 可能かつ不可欠であることの認識の重要性を強く主張している。2そしてS e a r l e
は、それが理解されるためには、主観性という概念が、実際には認 識論的な主観性C e p i s t e m i cs u b j e c t i v i t y )
と存在論的な主観性( o n t o l o g i c a l
言語における主体の概念と認知文法
s u b j e c t i v i t y )
の二種類に区別されなければならないと論じる( S e a r l e1 9 9 2 , 1 9 9 8 )
。このS e a r l e
の主張は、非常に示唆的であるO そこで、彼のいう二種 類の主観性の区別というものが、具体的にどのようなものであるのか見てみることにしよう。
まず、主観性という概念のナイーブな解釈として最も一般的な次のような 解釈は、認識論的な主観性についてのものであるといえる。すなわち、ある 観察者が自らの感情や晴好などに基づいて、ある偏った視点から事実の認識 や判断を行うとき、そのような認識や判断およびそれについてなされた陳述 は「主観的」であるといえるという解釈であるO この解釈に基づけば、次の CIa)のような丈は客観的な丈であるのに対して、 (lb)のような文は主観 的な文であるということになる
( S e a r l e1 9 9 8 : 4 4 )
。(1)
a .
Rembrandt was born i n 1 6 0 9 .
b . Rembrandt was a b e t t e r p a i n t e r than R u b e n s .
(l
a )
で語られている、「レンプラントは1 6 0 9
年に誕生した」という命題は、話者がそのことについてどのような解釈を与えるか、あるいはどのような感 情や態度を示すかといったことに関わりなく真であり、その意味でそれは厳 然たる世界内の事実を表現するものである。従って(Ia)の文は客観的な 文であるO それに対して、(lb)で語られている「レンプラントはルーペン スよりも優れた画家であった」という命題は、特定の観察的視点を持った主 体の感情や趣味に基づいてなされた判断によるものであり、別の主体の基準 によれば全く別の判断がなされるということも十分あり得る。従って客観的 であるとはいえない。 (lb)は主観的な文である。
このようにナイーブな語の解釈による主観性(および客観性)の概念は、
認識論的な定義に基づくものである。この場合、表象として認識された命題 が現実世界における厳然たる事実との聞に対応を持っているかどうかがその
言語における主体の概念と認知文法
基準となるのであり、そのような対応が認められれば問題となっている命題 の陳述は客観的であると見なされ、逆にそのような対応が認められなければ それは主観的であるということになる。結局のところ、歴史を通じて科学が 目指してきたものは、世界のあり方についての「認識論的に」より客観的な 記述であった。そしてそのことは、現在においてももちろん変わらない CSearle 1998) 0 観察の対象が何であれ、あらゆる科学には認識論的な客観 性を保持していることが要求されるO それは、たとえ客観主義的言語観を厳
しく批判する立場にある理論にとっても同様である。
ただここで見落としてはならないのは、主観性という語にはもう一つの意 味として、存在論的な主観性という解釈が存在するということであるO 認識 論的な客観性・主観性の基準が、命題内的な表象が現実世界との問に実際の 対応、を持っているかどうかにあったのに対して、存在論的な客観性・主観性 がその基準とするのは、現実世界における物的な事象であれ心的な表象であ れ、対象となる要素そのものが持つ存在のモードのあり方であるO 例えば
「山
J
や「氷河」は、主体がそれを経験として知覚するか否かに関係なく現 実世界に存在する。それゆえ、これらは存在論的に客観的な要素である。そ れに対して、例えば「痛み」ゃ「かゆみ」の感覚などは、認知主体の一人称 的な経験としてのみ存在することのできる、存在論的に主観的な要素である といえる。存在論的に主観的な要素とは、存在論的に客観的な要素のように、誰にとっても等しい心的アクセスを許すものではなく、また三人称的な定義 によって物的な基盤に立脚させることのできる要素ではない。しかし、「痛 み」ゃ「かゆみ」やその他のあらゆる一人称的な事象が「そこにある」とい うことそれ自体は、客観的な存在のモードを持つあらゆる要素と同様、否定 しようのない「厳然たる事実
J
であるO それゆえ、これらは存在論的に主観 的な要素でありながら、それでもなお認識論的には客観的な「実在」であるといえるのである。
もちろん痛みにせよ意識にせよ、それらが一人称的な経験としてもたらさ
言語における主体の概念と認知文法
れるためには、存在論的に客観的な要素の特定の物理的状態がその原因とな っていることが不可欠であろう(例えば、脳内神経細胞の特定の物理的状態)03 あらゆる現象はそれが「化学的」なものであれ、「電気的」なものであれ、
「光学的」なものであれ、あるいは「心的」なものであれ、厳然たる事実と しての物理的・物質的基盤を持っていることは否めないと思われるO それゆ え、究極的にはあらゆる要素が存在論的に客観的な分析を受けることが可能 であるかもしれない。ただ、ここで重要なのは、たとえ存在論的に主観的で あるといわれる要素であっても、主観的なのはあくまでも存在論的にという ことであって、それが必ずしも認識論的に主観的であることを意味するわけ ではないということである。4
あらゆる言語表現においてその基盤となる心的な表象 (representation) は、まさしく存在論的に主観的な実在であると考えられる。それは決して音 声や筆記のように物的な形式を持って存在するものではなく、一人称的にの み実現し得るものである。しかし、たとえその存在のモードが主観的であっ ても、言語表現の成立にとってそのような表象の存在は不可欠であり、それ を言語理論において主観的であるからという理由で消去してしまうことはで きない。存在論的に主観的な事象に対して認識論的に客観的な分析を行うと いうことは十分可能であるO そして、そのような認識をもってはじめて、命 題的規則の集合それ自体に無条件の実在性を与えることなく、人聞が歴史的 時間の中で作り上げた記号体系としての形式と、個体における一般的認知能 力との相互作用による構造体としての言語というものを理論化する用意がな
され得るので、はないか。
形式としての言語それ自体が本質としての意味を持つということはあり得 ない。形式は自らの意志や意図を持った人間の認知的活動においてはじめて、
対応する意味とのシンボリック (symbolic)な関係を成立させることがで きる (Langacker1987)。それゆえ、言語が表現および伝達というその主た る機能を果たし得るためには、まず人間の心的認知活動の存在が前提となるO
言語における主体の概念と認知文法
ここで、主観的な存在のモードを持った要素に対する認識論的に客観的な視 点を持つことの妥当性についての適切な認識がなければ、言語表現における 心的認知活動のあり方を理論的にとらえることは不可能であるO 生成文法理 論をはじめとする従来の客観主義的言語理論においては、このような認識が 明らかに欠落している。それに対して
Langacker
の認知文法において主観 性という概念が非常な重要性を持つものとして取り上げられてきたのは、以 上のような問題意識が理念として保持されていたからに他ならない。この点 において認知文法理論は客観主義的言語理論と明らかに異なる特質を持って いるといえるO そして次節以降で考察するグラウンドとグラウンデイングの 概念およびそれらを構造的に表示するために使用される認知図式といったも のは、まさしく存在論的に主観的な概念を認識論的に客観的に記述すること を目的として、認知文法が提案し発展させてきた方法であると考えられるO3 .
グラウンドとグラウンデイングさて、認知文法では言語における主観性および主体性の問題に対して、ど のような理論的説明を与えているのだろうか。本節および次節では、認知文 法におけるグラウンドとグラウンデイングという概念について、現在までの 認知文法研究の中で論じられてきたことを概観し考察することにより、主体 という概念の言語学的重要性についてこの言語理論が論じるところを明らか にしたいと思う。まずは
Langacker
によるグラウンドとグラウンデイング の基本的な定義を確認しておこうOグラウンド (ground)とは、発話事象、参与者(話者と聞き手)、発話の 時間的。空間的環境などを要素として含む複合的概念である
(Langacker
1991: 548)0それはいわば、「わたし」と「あなた」によって「今J I
ここで」談話が行われているという事実それ自体に関して話者と聞き手が共有するあ らゆる知識の総称であるO ただし、詮意しなければならないのは、それは発 話事象に関わりを持つ様々な要素のうち、物的な実質を持つものだけを意味
言語における主体の概念と認知文法
しているわけではないということである。グラウンドとはより広範な対象を 含む概念であり、それは、話者の願望、コミュニケーション的な意図、聞き 手の期待といった、発話事象の参与者における心理的あるいは社会的な状態 に関する知識をも幅広く要素として持つ
(Langacker1 9 9 1 : 4 9 6 )
。それに対してグラウンデイング
( g r o u n d i n g )
とは、文の構造におけるノ ミナル(nominaD
と定形節( f i n i t ec l a u s e )
というこつの概念的に高い自 律性( c o n c e p t u a lautonomy)
を持ったユニットを形成するための最終ステ ップとなる意味機能である(Langacker1 9 9 1 : 5 4 9 )
0 ノミナルと定形節とは、その形式的側面に関していえば、それぞれ(いわゆる最大投射の)名調匂と 文に相当する認知文法的ユニットであるO しかし、グラウンデイングの本質 は形式だけにあるわけではない。むしろその心的な認知プロセスの側面に、
より大きな重要性があるO そのような側面から見れば、グラウンデイングと は、グラウンドを一種の参照点とした認識様態的
( e p i s t e m i c )
な解釈を客 体的対象概念に付与することによって、その対象概念を談話的認知空間にお ける特定の場所に位置付けるという認知操作であるといえるO そして、ひと たびグラウンデイングされ、談話的認知空間における位置付けを得た要素は、それ以降、話者と聞き手の両者によって等しく心的なアクセスを受けること が可能となるO
次に、ノミナル形成と定形節形成のそれぞれについてのグラウンデイング について少し詳しく見ておこう。まず、ノミナル形成にとってのグラウンデ イングとは、ある特定のモノ
( t h i n g )
概念に対する定性・不定性を、主に 冠調や接辞などの働きによって確定することであるO 例えば英語で自動車はcαr
であるが、何らかの意図のもとでc a r
という対象に関することを述べよ うとする話者は、このcαr
という語が表象する[CARJ
という概念につい て、彼自身が持っている認識のあり方を聞き手に対して明らかにする必要が ある。つまり、話者は言語表現によって表そうと意図した対象概念に関して、それに対して彼が心的に与える認知的位置付けにふさわしい形式をもった表
言語における主体の概念と認知文法
現を行うことにより、その概念への心的アクセスの可能性を談話の参与者間 で等しいものにしなければならないのである。そこで、この話者は現在の文 脈と意図に応じて、自らにおいて志向された一国的な指示対象としての概念
[ C A R ]
を心的にグラウンデイングするとともに、それに対する適切な表現 形式として、 αc a r
、cαr s
、t h ec a r
、myc
αr、h i s
cαr、というような個別的 ノミナル表現を形成し、発話することになる。一方、定形節の形成にとってのグラウンデイングとは、ある関係概念に対 してそのテンスやモダリテイを確定することであるO ここでいう関係 (relation)概念とは、モノ概念と同様、構造化された世界認識とその言語 化を可能にするために基本的認知能力の働きにより話者のうちで必然的に実 現する、世界における対象を心的にとらえるためのパターンの一つである。
それは、ある要素が別の要素(モノであっても別の関係であっても構わない) と相互に結ぶ、認識された世界におけるあらゆる種類のつながりを意味するO
このような関係概念をプロファイル (profile)する表現として代表的なもの には、例えば動詞と形容調があるO 認知文法において動詞とは、主語として 提示されるモノ概念が参与するところの何らかの関係を、その時間的進行の 側面にもプロファイルを与えつつ、客観的場面上に想起させる要素であるO それに対して形容詞とは、主語としてのモノ概念が他の要素と結ぶ関係を、
より静的に(すなわち時間的進行の側面に対してプロファイルを与えること なしに)想起させる要素であるO
動詞や形容詞といった語葉自体が想起させるところの関係概念は、特定の 時間的・空間的基準点をそれ自体に内在的なものとしては持たない。5そこ で、モノ概念に対して定性・不定性を明示化するためにグラウンデイングの プロセスが必要で、あったように、関係概念にとっても、それが定形節として のステイタスを持って現れるためには、意味される事象の認知的基準点を明 示化するためのグラウンデイングのプロセスが必要となるO つまり、談話に おいである文が適切な意味を持って成立するためには、動詞や形容認といっ
言語における主体の概念と認知文法
た関係概念語棄によって想起される、談話的・文脈的具体性を持たない抽象 的イベントとしての命題的関係に対して、話者の一人称的視点からの認知的 位置付けという意味的具体化がなされなくてはならないのである。
関係概念のグラウンデイングについては、英語では
‑ e d
や・8などのテン ス接辞や、 ωi l l
やmight
などの法助動詞が、その明示的な形式であるO こ れらの語(あるいは形態素)は、客体的で命題的な意味内容 Csemantic content)を持たない。そこで、例えば「ジョンがボールを蹴る」というイ ベントについて、もし仮にそれを時間的・空間的に超越した一種の抽象世界 におけるタイプ (type)概念として想起するなら、これらの語棄は丈の形成 に お い て 必 要 な い こ と に な る 。 そ の よ う な 場 合 に 必 要 と な る の は[JOHN
+KICK
+BALLJ
という命題的な意味内容を持った記号の列だけ である。‑ e d
、s、ωi l l
、might
などの語義はエピステミック・プレディケー ション Cepistemicpredication)とよばれるが、これらはあくまで客体的な 対象概念とグラウンドとの概念的な「つながり」のあり方について語るもの であり、実際に行われている発話という事象そのものについての概念が話者 において一切想起されないところには決して現れ得ない。しかしながら、そのような仮想的空間ではなく、現実的な談話空間の中で 閉じ命題が具体的なインスタンスCinstance)として発話される場合には、
グラウンドを参照点とした明確な認知的位置付け、すなわちグラウンデイン グがなされなければならない。必然的に、命題的事象は単なる三人称的事実 としてではなく、それを一人称的視点から観察する主体の視点を反映させる 形式を持つことになる。
Johnk i c k e d
αbαI I
やJohn
ωi l l k i c k t h e b
αI I
とい った定形節がその例であり、それぞれの定形節には命題内容の実現に関する 話者の主観的見立てが適切な言語形式とともに与えられている。これらは、「ジョンがボールを蹴る」という抽象的なタイプ概念としての命題が、談話 空間の中で一つのインスタンスとして成立するために、テンス接辞やモ}ダ ル助動詞の働きによるグラウンデイングを受けた結果として形成された言語
言語における主体の概念と認知文法
表現である。このように、あらゆる文には、動調句などによって表現される 命題的事象に対して認知主体が談話の文脈において持つ、主観的でー図的な 見立てというものが反映するO
4 . 段階的なグラウンドの主体性
前節では、発話事象に直接的な関わりを持つ要素の複合的総称概念として のグラウンドと、グラウンドを参照点とした客体的命題の認知的位置付けを 行う意味機能としてのグラウンデイングについての基本的な定義を確認し た。しかし、詮意しておかねばならないのは、グラウンドはすべての言語表 現において等質なものとして現れるわけではないということである。それは 様々な主体性の度合いを持って言語表現に現れ得る。グラウンドがそのよう に様々な主体性を持つということは、逆にいえば、それが様々な程度の客体 性を持ち得るということであり、これは一種の矛盾であるといえる。それで は、主体性にこのような段階性があるということ、すなわち主体でありなが らそれと同時に客体でもあり得るというのは、一体どのようなことなのだろ うか。
端的にいえば、それは言語使用というものをそもそも可能にする人間の生 得的な基本的認知能力の特徴に由来するO 我々には対象をモノとして認識す ることが可能で、あり、またモノが世界の中で何らかの特償を持って存在する、
あるいは他の要素との聞に関係を持つ、ということを認識することが可能で あるO そこでは認識の対象は客体であり、認識する我々は主体である。しか しそれ以上に、我々には我々自身を一つのモノとして客体的に見る視点を持 つことが可能で、あり、さらにはそのように客体化された主体が他者に対して 投げかける視線のあり方、すなわち主体と客体の聞に結ぼれる関係のあり方 というものを認識し、言語表現として記号化することができるO このことが 非常に重要なのであるO
このような認識のもとに、
Langacker ( 1 9 9 1 , 1 9 9 9 a )
は、モノ表現の意言語における主体の概念と認知文法
味構造におけるグラウンドがとり得る主体性の様々な度合いについての体系 的な理論化を行っているO そこでは、主体性の度合いというものが可能性と しては無段階的に変化し得るものであるとしつつも、少なくとも英語におい てはそれがかなり明瞭な三つの段階の度合いを持って現れることが示されて いるO 以下、
Langacker
によって論じられている、語の意味構造における グラウンドの主体性の三つの段階について、様々な種類の英語ノミナル表現 を具体例として用いながら確認するOまず、 I、
you
、no
ω、h e r e
といった表現が第一のグループをなす。これ らのダイクティックな表現の意味構造では、グラウンド自体がプロファイル され、それは必然的にきわめて高い客体性を持つことになるo1やyou
がプ ロファイルするのは発話イベントの参与者、すなわち話者と聞き手であるの に対して、now
やh e r e
の場合のそれは、発話イベントが根ざす時間的。空 間的基準点で、あるという違いはあるが、これらはいずれもグラウンドを構成 する要素であり、それゆえ本来は客体として対象化されるよりはむしろ観察 者あるいは観察の場として、意識および1
宝意の領域外に位置する要素である。しかし、既に述べた通り、我々にはそのような要素も客体化し認識の対象と するような認知操作と、それに基づく言語表現を行うことが可能であり、こ れらの表現はそのような認知操作に基づいてなされたものであると考えられ る。
この点に関し、
Langacker
は、主体が観察の対象として客体化されると いうことが我々にとって自然な現象であることを、次のような比輸を用いて 示している( L a n g a c k e r1 9 9 9 a : 4 7 )
。すなわち、主体の概念とはいわば眼鏡 のようなものであるO 眼鏡とは、それを身に付けているときの我々の知覚に おいては、あくまで世界と対時する自分の身体の一部であり、その存在につ いてことさらに意識されることはない。しかし、ひとたび外されるとその瞬 間からそれは他のあらゆる物質と同様、我々にとって他者となるO もはやそ れは世界と対峠する観察者としての我々の一部ではなく、むしろ観察の対象言語における主体の概念と認知文法
となるものであるO 主体という概念についても同様のことがいえるO それは 本来、認識と志向性のありかであり、対象ではない。それでも、必要に応じ て我々は、あたかもそれまで身に付けていた眼鏡を外して仔細に観察すると
きのように、 Iや「わたしj といった表現を用いて自己を客体化し、それに ついて述べることができるのである。
さて、第三のグループは第一のグループの対極に位置するものであるO
t
α
b l e
、s p e a k e r
、b l a c k b o
αrd
といった、非ダイクティックでしかもグラウ ンデイングされていない無冠詞名詞勾による表現がこれに属するO これらの 表現の意味構造におけるグラウンドは、第一のグループに属する表現の意味 構造におけるそれとは逆に、きわめて主体的であるといえるO ここでのグラウンドは、客体を対象として見る視点のありかとして存在する要素に過ぎず、
意味構造における認知的な際立ちはほとんど全く与えられていない。
ただ、既に述べた通り、通常の発話の中では、このように完全に主体的な グラウンドから観察された完全に客体的な対象としてのモノ概念は、グラウ ンデイングという意味機能のプロセスを経ることによって、 αtα
b l e
、two s p e a k e r s
、t h eb l
αckbo
αばといったノミナル表現を形成した上で表出することになる。グラウンデイングとはいわば客観的場面内の事象に対して既に 投げかけられている認知的視線(あるいは志向性)に対して、ある意味再帰 的な意識が向けられることであり、言語的に表現される対象としての客体概 念に加えて、それに対する主体自身の認識活動のある側面が概念的な際立ち を高め、記号化を受けるということである。その結果として、例えばcαr という無冠詞の名詞が想起させるタイプとしてのモノ概念は、場合に応じて αcαr、cα
r s
、t h ec a r
といった形式を与えられてノミナル表現となり、必然 的に、 [CARJというタイプに属するモノに関して認知主体が持つ一回的な 発話の状況における特定の認識のあり方を反映させるようになるO つまり、一つの具体的なインスタンスとしての概念をその意味として持つことになる のである (Langacker1991: 33)。
言語における主体の概念と認知文法
第三のグループを構成するのは、このような形でグラウンデイングされた モノ概念としてのノミナル表現である。このグループに属する表現の意味構 造におけるグラウンドは、客体的場面において意識のフォーカスを受ける対 象ではなく、また三人称的対象を自らの観察行為に無自覚的に観察する単な る視点としての存在でもない。それは客体に対する特定の心的アクセスの方 法を、話者と開き手との聞で共有するための足場としての参照点の機能を担 う要素であるO それゆえ、ここでのグラウンドは、純粋に主体的な要素でも なければ、また純粋に客体的な要素でもない、中間的な特散を持った要素で あるということになる。
話者はこのようにグラウンデイングされたノミナル表現を発話するとき、
聞き手とともに談話空間という対象認識の場を共有していることに対する、
(多くの場合は)非意識的な認識を持っていると考えられるそして、この 話者の中では、談話が展開されるための動かぬ観念的基準点としてのグラウ ンドは、それぞれに独自の認識世界を持つ談話参与者同士が協調し、その
「間主観性」を乗り越えて発展的なコミュニケーションを成立させるために 利用できる唯一の足がかりとして、ある程度の客体性を帯ぴることになるO
前述の
Langacker
による比除を用いれば、それは決して「手にとってまじ まじと観察される眼鏡」ではないが、もはや主体そのものでもない。言語に よって命題的に表現されるのは常に客体として認識された対象であるが、こ こでのグラウンドはそのような客体へと主体が認識的に結んだ関係の存在を 保証し、そのあり方を決定する参照点としての役割を果たす要素なのである。
この第三のグループに属する表現の意味構造こそが、モノ概念に対する言 語表現の最も典型的な構造であり、認知文法の枠組みにおいてそれは、図1 のような図式によって表示される
( c
王Langacker1 9 8 5 : 1 2 0
・1 2 7 )
。言語における主体の概念と認知文法 一一一一←一工一一一最大叙述領域
(maximal scope of predication)
¥ 1 ̲ ‑ ‑
ー モ ノ 概 念 (thing)CJ‑‑t‑‑I‑
客観的場面 (0対ecti… 凶一十十十十十トトトトト一〕一一一‑一「一一¥‑¥て一;一(一一「牛
l
ト一一一一一寸主観的関係 (匂叫a剥t切d脚例料配叫叫ti刊vee削M印r叫.喝ee⑤
--~ ー グラウンド (ground)一
図1
さて、以上のようなモノ表現の三つのグループの意味構造図式は、それぞ れの構造におけるグラウンドの主体性の度合いに基づいて、図2のように一 つのスケール上に並べて表示することができる。図
2
(a)は、I
、you、noω、h e r e
などの表現(第一のグループ)の意味構造であり、図2(b)は三人称的 対象である客体がグラウンデイングされることにより成立したノミナル表現 (第三のグループ)の意味構造、そして図2(c)はグラウンデイングされてい ない無冠詞の名詞句(第二のグループ)の意味構造である (cf.Langacker 1985, 1990: ch. 12)。(a) ( 唱h u )
(c)
。 ハ Y 1
3 O
,
⑥ ⑥
ごう
増加するグラウンドの主体性の度合い 図2
言語における主体の概念と認知文法
図
2
の三つの意味構造におけるグラウンド要素の主体性の度合いは、 (a)より (b)の方が高く、 (b)より(c)の方がさらに高い。このことは各図式の中でグラウ ンド要素が異なる位置に描かれることによって明確に示されているO 以下、各図について少し詳しく見ていこう。
まず、 Iや
you
などのー・二人称代名調およびh e r e
やnow
といったダイ クティック表現は、主体そのものを含むグラウンド要素を客体としてプロフ ァイルする表現であるため、これらの表現の意味構造図式である図Z
(a)では、Gが客観的場面(破線による楕円)の内側に配置されている。この客観的場 面 (objectivescene)とは主体の志向的意識の中心であり、言語表現の命題 的意味がプロファイルを受けることのできる唯一の認知領域であるO
次に、グラウンドされた名調匂の意味構造図式である図Z(b)では、グラウ ンドは発話事象における「我々。今・ここ」の概念との相対的関係のもとに 客体要素を認知的に位置付けるための参照点として描かれており、発話にお ける表現の意味の実質的なあり方を大きく左右するものであることが示され ている。 Gが最大叙述領域の内側に位置しているのは、グラウンドの概念が そのように表現の意味に対して何らかの形で影響を与えるものであることを 意味している。ただし、ここでのグラウンドは図
Z
(a)の場合のように、客体 概念としてプロファイルを受ける要素ではないため、 Gは客観的場面の外側に位置付けられている。
最後に図 Z(c)は、発話に至るまでの言語表現形成のプロセスにおいて、未 だグラウンデイングされていない名調勾の意味構造図式である。ここでは、
客体要素とグラウンドとが互いに客観的場面を示す破線だけでなく、最大叙 述領域を表すボックスの境界線をも隔てて位置付けられている。主体と客体 の役割が全くオーバーラップすることなく、両者が完全に概念領域的な住み 分けを行っているのである。このような意味構造が想起されるとき、認知主 体である話者の中では、何らかの主観的見立てが表現の意味に対して影響を 持つものとして関わっているという認識は全くなされていない。つまり、そ
言語における主体の概念と認知文法
の名詞句表現によって想起された抽象的なタイプとしてのモノ概念は、あく まで主体から切り離されて独自に存在する他者であり、それはきわめて客体 的な存在としてとらえられているのであるO もちろん対象を認識する主体が そこにあってはじめて客体の存在が想起されることが可能になるのであっ て、表象としての客体がそれ自体に本質としての意味を備えているわけでは ない。それゆえ、特定の語に対応するタイプ概念の詳細がそれを想起する認 知主体によって様々な度合いで異なるということは十分あり得る。しかしな がら、このような種類の表現の意味構造では、話者の認知主体としての自己 参照的意識は完全に背景化しているために、想起される抽象的タイプ概念と
しての意味は彼にとってあたかも本質的に客体的な命題としての実在を持つ かのように現れてくるのである。
以上のように、グラウンドの概念とそれが個別の言語表現の中で持つ様々 な主観性の度合いは、認知文法において非常に重要な意味を持つものとして 体系的な理論化が行われているO あらゆる言語表現の意味構造において、そ の主体性に様々な桂度の差はあれ、グラウンドの概念が心的表象として常に 存在していることは決して無視できることではない。言語活動というものが 社会的な存在としての人間の知覚、認識、意志、意図といったものを基盤と してなされる認知的営みである以上、それは何にもまして根本的な問題とし て取り上げていかねばならない事実であるO ただし、グラウンドの概念につ いては、それが認知文法の体系における単なる道具立てとしての理論的構築 物ではなく、一つの心的実在としての本質を持った厳密な研究対象であるた めには、次章において詳しく見るように、さらに考察されなければならない 重要な問題がある。
5 . グラウンドと根源的主体の差異について
本節で論じられなければならない重要な問題とはすなわち、グラウンドと 根源的主体の本質的な差異についての問題である。そもそも、発話事象およ
言語における主体の概念と認知文法
びそれに対して直接的な関係を持つ諸要素を総称的に表象する概念としての グラウンドと、それぞれに国有の一人称的経験として他の誰にも同じように はアクセスできない認知領域を保持する実在としての根源的な主体は、理論 的に厳密な区別がなされなければならない要素である。それにもかかわらず、
現在までの認知文法理論の枠組みの中では、そのような区別が必ずしも明確 にされず、多くの場合、グラウンドと主体との概念的な区別はあたかも本質 的に唆昧なものであるかのようにとらえられてきた。おそらくそこでは、グ ラウンドや主体といった概念は、具体的な言語表現を説明するための理論的
「手段」に過ぎず、それ自体が説明されるべき「目的」としては十分に認識 されていなかったのである。しかしながら、グラウンドと根源的主体の区別 についての適切な認識がなされなくては、後に述べるように、認知文法が想 定する言語観というものが厳密な理論として実現し得ないということにもな
りかねないと思われるO
既に述べた通り、グラウンドとは発話事象、時間的。空間的環境、参与者、
参与者の心理的・社会的状態など、発話という事実の成立そのものに直接的 関わりを持つあらゆる要素の総称としての複合的概念である。それは一人称 的な概念領域を持つ認知主体としての話者と、発話事象の共同参与者である 聞き手との聞で共有される知識であり、両者の間で談話というものが成立す るためには、ある意味アプリオリに想起されねばならない前提的概念である。
とすれば、そもそも以下のことは明らかでなければならない。すなわち、誰 にとってもそれぞれに与えられているものでありながら、本人だけにしかア クセスすることが許きれない一人称的視点からの認識世界というものを持つ 実在としての根源的主体と、聞き手との聞で共有されることが談話という社 会的事象の成立の前提となる心的表象としてのグラウンドとは、その存在の モードにおいて明らかに異なるものであり、決してイコールの関係で結ぶこ とのできるものではないということである。それにもかかわらず、現在まで の認知文法研究において、このことが明確な形で確認されることはほとんど
言語における主体の概念と認知文法 なかった。
確かにそれは、問題の性質からいって、理解できないことではない。例え ば、英語のIや日本語の「わたし
J
といった一人称代名詞は、話者自身すな わち主体の対象化による表現の形であるということができる。それによって 表されるのはまぎれもない自己であり、それは主体以外の何ものでもないか らであるO その一方で、、理論的記述においてはこのような表現の意味構造で プロファイルを受けるのがグラウンドであるとされるために、あたかも、意 味される対象としての主体と、その表象としてのグラウンドが「同一」であ るかのような認識が持たれてしまうO しかしながら、このような場合のグラ ウンドも、決して根源的主体そのものではないのであるO 根源的主体とは、一人称表現の意味構造における心的表象としての主体としてのグラウンドと は別の存在のモードを持つ要素であり、いわばそれはあらゆる心的な表象を 表象として知覚する側の存在としての主体の概念なのである。
一人称表現の Iや「わたし」が談話において特定要素の指示の役割を果た し得るのは、その要素が話者と聞き手との間で共通の既知知識として了解さ れているからであるO この点においてこれらの表現はその他の代名調表現と 変わることはない。三人称代名調の
he
や「かれ」といった表現が意味を持 ち得るのも、話者と聞き手との間にその対象についての知識が共有されてい るからである。ただ、一人称の表現が他の代名詞表現と異なるのは、一人称 表現の場合には外部世界における厳然たる事実としての発話事象の成立それ 自体が談話の参与者に対して現在進行的に、そして必然的に、そのような知 識を与えてくれるという点である。三人称代名詞が理解されるためには、命 題的な文脈が必要となる。それは一般的には先行する談話の中で何らかの形 で提示され共通の知識として理解された命題の集合としての文脈である。基 本的に、そのような命題的な文脈の助けなしには三人称代名調が適切な意味 を持つことはできない。それに対して、一人称代名詞が指示対象を持つため には命題的な文脈が存在する必要はない。発話という厳然たる事実がいかな言語における主体の概念と認知文法
る形であれ成立するなら、志向性・意図性を持った主体が話者としてそこに 存在していることは、発話事象の参与者にとってアプリオリに認識されるか らである。そしてそのような認識こそが Iや「わたし」といった一人称表現 の意味を支えるのであるO これは
you
、now
、h e r e
といった、グラウンド要 素自体をプロファイルする他の表現すべてについて同様であり、まさにこの ことによってこれら一群の表現は図2(a)のような特別な構造を持ち得ると考 えられる。発話事象が成立するとき参与者に対してアプリオリに与えられる「わたし」
や「あなた」についての認、識や、進行する談話における認識上の現在時点と しての「今」の認識、あるいは談話が現実世界におけるイベントとして展開 し成立する場所に関して参与者同士が共通認識として持つ「ここ」について の認識といったものは、いずれもその指示対象が客体的な見立てを受けるこ とによってはじめて、図2(a)の認知図式に示されるような意味構造を持った 言語表現となることができる。7つまり、 I、
you
、no
ω、h e r e
といった表現 が可能であるのは、発話事象というーつの現実的イベントが外部世界の中で とり行われるという事実それ自体が高い客体性を持った概念として、談話の 参与者である主体に対して現れてくることが可能であるという事実に根ざし ているのである。そしてそれは結局のところ、グラウンドの概念というもの が発話事象という厳然たる外部世界内の事実の成立に完全に依存した、主観 的な存在のモードを持つ心的表象の一つに他ならないということを意味す るO本来多様な現実的属牲を持つ要素の集合であるグラウンドがそのような多 様性を完全に反映させることなく単一の概念として認知文法理論の中で総称 的に取り扱われることが可能であるのは、まさしくグラウンドというものが 心的表象であるということに由来する。それは問題となる発話事象をとりま く一つ一つの要素により構成された集合それ自体ではなく、その集合に関す る一種の知識なのである08それゆえ、発話事象がないところには、グラウ
ンドは実質的に存在し得ない。表象すべき対象がないからである。あるいは 表象として想起される必要がないからである。このことからも、根源的な主 体の概念がグラウンドの概念と明確に区別されなければならない理由が見出
されるO
さらにいえば、グラウンドには主体の表象は含まれるが、主体自身は決し て含まれない。なぜなら根源的な主体それ自体はあくまで主体であり、(別 の主体からの視点というものを別にすれば)決して客体に転じることはない からであるO そして根源的な主体は決してグラウンドのように発話事象とい うある種の社会的事実の成立を待って存在するものではない。それは人間の 認知機構そのものであり、あらゆる心的表象が想起されるための前提となる ものなのである。それゆえ、根源的で前言語的。前概念的な存在としての主 体にとって、グラウンドとはそれ自体ある意味において既に客体であり、両 者の聞にはその存在のモードにおいて大きな隔たりがあるといえるのであ る。
言語表現の意味{構造における表象としてのグラウンドがとり得る主体性お よび客体性の度合いは、前節で考察した通り様々であるO しかしながら、い ずれにせよグラウンドという概念がそもそも認識において客体として対象化 され言語化され得るということは、それが主体のうちで意識に上る可能性を 持った概念として保持されていたということである。それゆえ、たとえグラ ウンデイングされていない名詞勾の意味構造においてもグラウンドの概念は 潜在的な表象として意識の水面下に存在しているものと見なされなければな らない。図 2(c)の構造において最大叙述領域の外に位置する Gはそのような 状態のグラウンドを表示しているものと考えられるO 重要なことは、この場 合のように、意識されない潜在的な表象として機能するグラウンドも、表現 の意味に対して直接的にも間接的にも貢献していないからといって、根源的 主体と同一視されるべきものでは決してないということである。
また、図2の(a)と(b)の意味構造図式を理解するにあたっても、我々は同様
言語における主体の概念と認知文法
に、そこに展開する様々な要素を心的表象として持つ根源的な主体というも のが、図式上の明示的な形式をもって示されているわけではないにせよ、グ ラウンドとは別に存在しているということを、確実に了解しておかねばなら ない。グラウンドはその認知的卓立の度合いにおいて様々に異なるものであ るが、いずれにせよ根源的主体にとってそれはあくまで認識における「他者」
であり、両者は存在のモードにおいて完全に別のものである。すなわち、一 方はあくまで心的な表象であるのに対して、もう一方は心的概念化以前の厳 然たる外部世界的な存在である。
ただ、グラウンドとは明確に区別されるべき根源的な主体の存在を理論の 中で一つの概念として積極的に認めていくことは、ある種の方法論的危険性 をはらんでいるO なぜ、ならそれは、根源的主体という存在を明らかにそれと は質の異なる他の様々な要素とともに客観的な命題として理論の中で形式的 に位置付けていくことを意味するからである。結果として、各要素の存在の モードにおける本質的な違いが見えにくくなり、場合によっては根本的な理 論上の矛盾をきたしてしまうような誤りを招く可龍性もあるO 例えば、いく
ら根源的主体の存在を想定することが必要で、あるとはいっても、もし認知文 法の意味構造図式の上でその存在を図式的に表示したとしたならば、既にそ こには理論的破綻が訪れていることになるO なぜなら、意味構造図式とはそ もそもある表現の意味を構築する話者の内的な認知メカニズムの図式化であ り、そのような図式に対してそれ自体は心的表象ではない根源的主体の存在 が投げ込まれたならば、認知図式として本来表示されるべきものの枠を超え た概念についての表示が無理に行われるという事態に陥ってしまうからであ る。
そして実際のところ、認知文法という言語理論の枠組みでなされる具体的 な言語現象の説明において、根源的主体というものの存在をあえて想定しな いことが重大な理論的問題をつきつけるように見えることはないかもしれな い。また、現象としての語棄や表現を分析する上で必要十分な道具立てと説
言語における主体の概念と認知文法
明力を備えている限りにおいて、言語の理論に対してあまりに高い認識論 的・存在論的厳密さを求めることは、その理論の本来の分析対象(すなわち 文法)にとっては周辺領域にしか過ぎない部分での過度の理論的複雑化をも たらしかねないために、避けられてしかるべきだという見方もできなくはな
し述。
しかしながら、そのような妥協は、それ自体によって想定されるメカニズ ムのリアリティを保証できないような命題的構造説明に終始して、現実の客 観的事実のあり方を無視してきた、いわば存在論的に閉じた理論としての客 観主義言語理論と結局は同じ轍を認知文法理論が踏んでしまうことを危倶さ せる。認知文法にとって、言語は他の基本的認知機能から独立したモジ、ユー ルとして生得的に与えられたシステムにおける、有限個のパラミターと原理 の集合によるものでは決してないことは既に述べた通りである。それは人間 の歴史的時間の中で発達し共有される一つの人工物
( a r t i f a c t )
であると同 時に、人間社会を含む外部世界との接触と適応の中で、各個体の一般的認知 機構が記号能力的な特化を受けることによって個別に実現されるものであ る。10そのような言語観に根ざした認知文法理論において、個々の言語現象 分析が妥当であることの究極的な保証は、生成文法理論家たちが仮定してい るような命題的ー構文論的実在としての普遍文法ではなく、言語という実を 結ぶことが可能であるような豊かな認知能力を実現する人間の身体性に求め られるべきであろう( L a k o f fand Johnson 1 9 9 9 ; Langacker 1 9 9 9 b )
0 とす ればやはり、すべての認知プロセスのありかとしての根源的主体の存在を認 知文法理論の枠組みの中で厳密に定義することは、この理論が単なる主観主 義的言語理論ではなく、存在論的に主観的な実在に対して認識論的に客観的 な説明を与えることのできる理論であるためには避けられない課題であると 思われるO 安易に妥協することは許きれない。言語における主体の概念と認知文法
6 . まとめ
存在論的に主観的な実在に対する認識論的に客観的な考察というものが言 語の理解にとって必要で、ある以上、主観というものはすべからく排除されな ければならないと主張するいわゆる客観主義言語理論によっては、言語の本 質を十分にとらえることは不可能であると思われる。認知文法のように、人 間の言語活動において主体や主観性の概念が果たす大きな役割についての認 識と視点を持った理論が求められるのであるO しかしながら現在までの認知 文法においても、主体の概念についての厳密な考察は未だ十分にされている とはいえない。本稿ではそのような問題意識のもとで、認知丈法理論におけ る主体の概念についての存在論的・認識論的により厳密な考察を行うことを 試みた。
根源的な意味での主体とは、一人称的経験として現れる心的表象に対して 向けられる志向性のありかであり、それ自体は決して表象ではない。それに 対してグラウンド要素として客体化され言語表現を与えられるのはあくまで 表象としての主体である。これらは明確に区別されなければならない。グラ ウンドとは他のあらゆる表象としての概念と同様、認知主体の一人称的な心 的概念領域にのみその実在性を認められる存在論的に主観的な要素である。
それはただ、発話という行為が厳然たる事実として成立することそれ自体の 働きのために認知主体においてアプリオリに認識されるという点で、そして それゆえ、命題的客体事象に対する認知的参照点として機能することができ るという点で、他のあらゆる心的表象と異なるに過ぎない。グラウンドを含 むあらゆる心的表象は、それがいかなる認知的卓立性と個別的性質を持って いるにせよ、主観的な存在のモードを持つものであることに変わりはないの である。これはすなわち、グラウンドさえも、根源的な主体に対しては一種 の客体に過ぎないということである。
一方、根源的な主体とは存在論的に客観的な存在であるO それは世界にお
ける厳然たる事実として、他のあらゆる存在論的に客観的な存在物と同様の 存在のモードを持っている。確かに、この厳然たる事実としての根源的主体 の存在もそれ自体概念として対象化され、また言語化されることが可能であ るO しかしながら、そのようにして表象としてのステイタスを得ることにな った主体は、既に根源的な主体とは異なる存在のモードを持った別の実在で あるO それゆえ、究極的な意味においては、「主客の融合」というものが起 こることはあり得ないといえる。確かに表象としての主体は主体であると同 時に客体でもあり得るが、そのような文脈における「主体」とはあくまで一 種の対象化された客体であり、それを「主客の融合」によってもたらされた
ものと表現するのは単なる便宜上のことに過ぎない。
以上の考察は、現在の認知文法の枠組みにおいて主観性および主体という 概念についての認識論的・存在論的に厳密、な定義が未だ完全に明確には打ち 出されていないという事実への問題意識からなされた一つの試みである。た だ、次のことは繰り返し強調しておかねばならない。認知文法が主体の概念 の重要性を当初より認識し、実際の言語現象とは別次元に属する単なる抽象 的概念としてではなく、その包括的な文法理論体系の縦糸のーっとして、実 際の言語現象の分析に大きな役割を果たさせてきたことはまぎれもない事実 であり、それこそが認知文法を、生成文法をはじめとするいわゆる客観主義 言語理論と大きく異なるものとしているのであるO そして、主体の概念につ いてのさらに詳細な研究が進められることによって、認知文法理論は今後さ
らに発展することができるに違いない。
注
1. 本稿では「主体性」と「主観性」というこつの用語を適宜使用する。これらは いずれも英語のsubjectivityという諸に対応するものであり、本来は明確な区別 はない。しかしながら、ここでは認知文法の枠組みにおける述語としては「主体 性jという諮を、より一般的な、あるいは哲学的な意味が意図される場合には
「主観性」という語を、それぞれ使用する。「主体的」と「主観的」という語の区
言語における主体の概念と認知文法 別についても同様であるO
2. Chomsky理論に対しては、近年様々な観点からの批判がなされている。例え ば、哲学的批判としては、 Johnson(1987)、Searle(1992)、Churchland
(1996)など、進化論生物学・人類学的な批判としては、 Deacon (1996)、 Tomasello (1999)などがある。
3. 主体によって対象が認識されるということ、すなわち、何かが志向的に意識さ れるということが、世界内の厳然たる事実としての物的状態といかなる連関を持 っているかという問題については、心の哲学の分野においても未だ共通の理解は 得られていない。 JohnSearleによればそれは脳内神経細胞のある特定の物理的 状態が原因となって「生じる」ものであるのに対して、 PaulChurchlandはそ のような見方を批判し、何かが意識されるということは脳内神経細胞が特定の物 理的状態にあること「それ自体jに他ならないと主張する (Searle1992, Churchland 1995, 1997)。いずれがより妥当な記述であるかは、ここでは問題に しないことにする。
4. 存在論的な主観について主張することが、決して本質的に客観的なものの存在 を否定することを意味するわけで、はないことも強調しておかねばならない。心的 な現象が究極的には他のあらゆる現象と同じく物理的なシステムに還元され、
「心的」という言葉も「化学的
J
["光学的J
["電気的J
といった言葉と同様のもの として用いることが将来的に可能になることは十分に予想され得る (Chomsky 2000)。しかしながら、認知文法を含む認知科学のある領域の研究者たちによっ て疑問が投げかけられているのは、あらゆる本質的に客観的なメカニズムの実在 性についてではなく、生成文法が無条件に想、定しているような、文法の命題的・構文論的な実在性についてなのである。
5. その意味において、動詞や形容詞など、具体的な意味的内容を備えた語棄にも 非常に抽象的な側面があるといえるO だからこそ我々はこれらの語葉をあらゆる 適切な状況で随意に使用することができるわけで、あるO
6. ここでいう「非意識的な認識
J
とは、意識の水面下において、意識的な命題操 作を支えるために必要となる概念が手続き的に活性化されるという現象を想定し ている (cf.Damasio 1999)。認知文法の枠組みにおける、単一の心的表象が 様々な「際立ち (saliency)J
を持って現れ得るという基本的な考え方は、この ような想定と相容れるものである。7. グラウンドを構成する要素としての「今
J
や「ここ」といった概念には必ずし も時間的・空間的な厳密性は求められない。話者と聞き手にとっての「今」ゃ「ここjはあくまで心的な概念であり、展開する談話世界の個別的なあり方に応
言語における主体の概念と認知文法 じて、相対的に定められるに過ぎない。
8. ここで「知識jという語は、必ずしも意識的に想起された命題としての概念を 意味しているわけで、はない。むしろそれは、たとえ今は意識的な想起がなされて いなくても、可能性としては場合に応じていつでも想起され得るようなあらゆる 概念を意味している Ccf.Searle 1992) 0 グラウンドはそのような知識の一つで あるがゆえに、様々な度合いの認知的際立ちを持った心的表象として現れること が可能となる。
9. グラウンデイングされていない無冠詞の名詞句は、談話において必要とされる 認知的位置付けのための参照点を持たず、それゆえ一回的な発話事象に根ざした 表現としては成立し得ない。図2(c)に図式化されているのは、あるモノ概念につ いての一人称的・主観的なスキーマ認識のあり方であるが、それによって意味さ れる対象は具体的なインスタンスではなく抽象的なタイプである。このような意 味構造はグラウンデイングされている無冠詞の名詞匂の構造とは区別されなけれ ばならない (e.g.Diamond is the hαrdest substαnce knoωn)。グラウンデイン グされている無冠詞の名詞匂の意味構造における最大叙述領域にはグラウンドが 含まれている(よって図2(b)の構造を持つ)のである。このようなゼロ形式のグ ラウンデイングが可能であるのは、グラウンデイングというものの本質が、形式 的な操作そのものではなく、むしろ形式的表示を伴い得る心的な認知プロセスに あることを考えれば、自然なこととして理解できる。
10. 心理学者MichaelTomaselloによって提出された「ラチェット効果 Cratchet effect)
J
に基づく自然言語の発生の理論は、まさしく認知文法のこのような言語 観と軌をーにするものであるO ちなみにTomaselloは、言語の発生に関する従 来の系統発生時間と個体発生的時間という二分法的概念に加えて、ちょうどその 中 関 に 位 置 付 け ら れ る 歴 史 的 時 間 と い う 概 念 の 重 要 性 を 主 張 し て い る (Tomasello 1999)。参考文献
Chomsky, Noam. 2000. New Horizons in the Study of Lαnguαgeαnd Mind.
Cambridge: Cambridge University Press.
Churchland, Paul M. 1995. The Engine of Reαson, TheSeαt of the Soul. Cambridge, Mass.: MIT Press.
Churchland, Paul M. 1998. Betty Crocker's Theory of Consciousness." in Paul M.