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文学研究における「言語」の問題 : 象徴/アレゴリー論を手がかりとして

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(1)Zum. der. Sprache. 「言語」. der. の問題. die. (1). Dichotomie. Literaturwissenschaft. 象徴/アレゴリ-論を手がかりとして. 文学研究における. Prob)em dber. von. Symbol. und. Allegorie. 7. in. Betrachtung. 浩. einer. 本. 浮かぶ文献学の使命である。伝承されてきた文献の言語面に注意を注. によって、ありうべきテクスト解釈の基盤を提供することが通常思い. 体比較によって信頼に足る「テクスト」を再構成すること'またそれ. に限らない)をその言語的特性の面から研究し、精密な異本校合や文. 時代錯誤的な印象を与える。古典的な文献(もちろん狭義の「文学」. 受け入れ、共時的(syncbmnisch)な論述スタイルへと移行すること. という形で地歩を求めることほ可能であろうが'経験科学の諸前提を. ない。経験科学としての言語学の内部に、いわゆる「テクスト言語学」. も、文献学は、残った「言語学」的側面において自立することはでき. てることは不可能である。たとえ「文学」の部分を切り捨てたとして. に属するものであっ. ほ、この学科が元来「歴史的な知識」(カント). であろう。文献学者が自覚するか否かはともか-、もともと「本文批. たことからすれば、もはや全-別種の言説への転向であると言うべき. っている.「文学語学研究」と訳されることがあるのは'文献学のこ. 判と解釈とは相互に宰急白っている--記述的な構造解明ほ、不可避. へと繋がる面を拷. うした二面性のためである。いわゆる「古典」文献学だけを本来の文. 的に、テクストの歴史的・政治的'文学理論的・詩学的、かつ文学史. (1). 献学の領分とする考え方も可能であろうが、テクスト言語の記述・分. 的な位置づけを伴うものなのである」。こうした不可分な絡み合いの. 中で、間テクスト的な実践の軌跡を描いてきたのが文献学であるとす. 三七. 文献学の一領域であることになる。 文学研究における「言語」の問題. 森本. 析に携わるという広い定義からすれば、現代の文学研究も本来的には. けるという点では'「解釈学」ないし「文学研究」. ぐという点でほ「言語学」的であり、また規範的な解釈への筋道をつ. 文献学から、窓意的な解釈の危険性を寧む文学研究的な側面を切り捨. 文献学の時代錯誤の印象は、この不可避的な二面性に由来している0. 森. mit. -. 「文献学」と邦語訳されるPhilologieという学科ほ'今日では幾分. l.

(2) 文学研究における「言語」の問題. であるがゆえに、両者の統一(同一)態の可能性と不可能性とを同時. の科学といった方面にないことほ. る線が引かれうるのである。いったい或る「作品」が「文学」に帰属. ように、ジャンルの競界線は常に侵犯され新たなジャンルを輪郭づけ. を指したり、歴史小説の中に実在人物の書簡が「引用」されたりする. れば、その本領が純然たる「言語」 「文学」的側面を首足してみたとしても、そこに纏い付くいかがわし さほ払拭しきれないように思われる。それは「文学的なもの」を規定 する要因が決して自明的ではないからであるo. するかどうかを'一定の固定した線引きに基づいて決定することは可 能であろうか。. ジャンルの問題が文学にとって重要なのは、ジャンルの自明的な同. (Sprachgebrauch)が言語を「変容」(Modifikation)させてゆ-側面. の言語行為を規則として制約する側面と、現実の個別的な「言語使用」. こと'文体を持つことの三点を挙げている。彼ほ、言語体系が個々人. ルに属するものとして認知することができる。それは、テクストに付. 記述がない場合でも'われわれは当のテクストを、そのようなジャン. 口頭弁論や新聞論説のテクストを読んでいる時'たとえあからさまな. が、まさに文学の可能性そのものにほかならないからである。例えば、. 1性を破ること、あるいは.・,hヤンルの潜在的な多重性を提示すること. とを統一的に把握した最初の言語思想家であり、文法的解釈と心理的. (ジャンル、タイプ、. trait.. 「メンバ-であることをそれによって認知. このような弁別的な目印(marque). こと)が帰属決定の基準として磯能するためである。デリダにょれば、 は、それがコ-ド的に機能しう. rかcurrence)」が存在し、この特徴()e. (5). モ-ド、フォルム等々). (3). (Gat{ung)』に、つまり慣習化された『(言語. めの反復(la. 取りしたとされている。ところで大まかに言って、構造が文法に、文 ちらに属するものであろうか。常識的にはジャンルも構造と同様、規. する、あるいは認知するべきであるような共通の特徴を同定できるた ・線を引ほ特定の. 体がパロ-ル的な言語の個別性に対応するとすれば、ジャンルとはど. 『ジャンル. 範化されたシステムの側に含ませるべきである。「『作品』. シュライア-マッハ-は、『言語の内で固. るためには、つねに「アプリオリに再着目可能(remarquab)e)」でな. (発話の) 使用の). (6). 「虚構の論説文」となることも可能なのである。ジャンルの綻は、ジ. ができるとともに'そのような顕示を行いつつ他の文脈に接合されて. とは明らかであるが、まさにこの反復可能性によって、新聞の論説は、. (つまりGenreに)o例えば、学問的に. 「模範(タイプ)」という言い方が. 方もしている (4). いうふうに」。しかし、「文体」. 既に示すように、ジャンルは、特殊なものと一般的なものとの接合点. の. それがそのようなジャンルの作品であることを一般的に顕示すること. に下属する. ければならない。コ-ド化可能性が反復可能性と同一の事柄であるこ. 文体の模範』. の. 帯した何らかの目印、或るテクストが或るクラス. (2). 学的な規定として、構造化されていること、特定のジャンルに属する. である。例えば、シュライア-マッハ-は、「作品」. する学科なのか、という問いは容易に答えを見出しえない困難な問い. そもそも文学とは何であり、そのテクストを扱う文学研究とは何を. (Werk). 解釈の対化においてソシュ-ルのラング/パロ-ル連関の考え方を先. の文献. に暗示している.")etter"が迅速な公表を意図して善かれた学術論文. 三八. 明らかである。しかし、性急な科学主義をひとまず留保し、文献学の. 森本. 定化するタイプ』とか『既に固定化している形式の力』といった言い. -. 組織立てられた作品、手紙、ハンドブックの項目記事、押情詩等々と. -.

(3) ヤンルが本質的に純粋であり混同を排除することを要請する。しかし、. の反復可能性であり、線引きが様々な場所で常に繰り返し行. この綻を成り立たせるのは、ジャンル同定の可能性を与える「特徴線引き」. (9). 起したのほまさにそうした生成の運動によって生き延び続ける文学の イメ-ジであった。. ジャンルを確定しようとする学知的な身振りは、単に個別的な文体. ルの区別を指定しっつその都度変容する見えない線だからである。こ. れによって画定されるジャンルに属するものではな-、複数のジャン. 学的な言語の一般化的な分類と価値付与は、言語的な出来事としての. 個別を下属させようとする典型的な挙措である。そして、こうした文. つけるだけでな-、それによってテクストの文学的な意義を確定しよ ぅとする欲求を反映している場合が多い。それほ普遍的な価値の下に. において出現するテクストの言語を、慣習化した分類体系の内に位置. のような見えない線を自らの痕跡的な輪郭として保蔵することにょっ. テクストに即して思考するという元来の定義からすれば、必ずしも「文. し脅かすものともなるoなぜなら、「特徴--線引き」それ自体は、そ. われうるということである.それは必然的にジャンルの同1性を撹乱. て、或るテクストはジャンル的な規定に参与(participation)するの. 献学」的な身振りとは言えないのである。恐らく文献学者の仕事が最. 値序列の内に強引に回収しょうと目論むこうした瞬間である。その一. もいかがわしいものとなるのは、彼がテクス-を自明化した伝統や価. である。そして、「あらゆるテクス-、つまり痕跡(traces)からなる あらゆる作品体にとって常に可能な再-着目 (re・marque)が、芸術、 、ないしは文学と呼ばれるものにとって絶対的に必然的かつ. 例として、フリ-ドリヒ・バイスナ-がカフカ解釈において示した姿. ポニジ-. 構成的であること」が重要である。標準化されたジャンル的帰属関係. 勢を挙げることができる。. (7). がまず確固として存在し、それの第t7次的・虚構的な変容として文学. 的なカフカ解釈の悪意性を厳しく批判し、作品の物語言語に即した研. 一九五二年の有名な講演の中で彼は、それまで優勢だった実存主義. あるいは舞台上の台詞として使用することができる。こうした可能性. 究の重要性を訴えている。哲学的な「解釈は文学作品(Gedicht)を、. が成立するのではない。あらゆる言語ほイロニ-として、嘘として、. を痕跡として保蔵することが、むしろ標準的分類の成立条件なのであ (8). 単に作者やその時代、その国民の精神的姿勢の証拠文書ないし証言と. こ.れに対して文献学者は'言葉、形象化された言葉. してしか理解せず、時代精神を映す他の記録と関連づけるだけである0. る。文学というジャンルがあるのでほなく、ジャンル的認知の可能性. 果として、文学(ロマン主義的な語法で言えば、ポニジ-)が成立す. Wert)を、概念的に理解されるいわゆる内容(Inba-t)を包んでいる. を与えつつジャンルの純粋な同一性を否定するテクス-の逆説的な効 るのである。文学とほ何かという問いが、命題論理的な述定を求め、. すぐさま捨て去るべき外皮として軽-あしらうのでほなく、言葉のも. えることほできない。ジャンルの可能性の条件としての文学にできる. ほ、時代精神つまり歴史性に汚染されていない「言葉」など存在する. とに留まり、その表現価値について問うのである」。実際問題として. (dasgesta-tete. 文学のジャンル的な囲い込みを指向しているのだとすれば、それに答 のは、その間いへの答えを際限なく遅延させ、その間に現実にジャン. 三九. はずがないし、言葉を分析する文献学的な装置とても超歴史的な客観. (10). ルを生み出し消し去る運動を継続することだけである。ロマン派が提 文学研究における「言語」の問題. 森本.

(4) 文学研究における「言語」の問題. 四〇. 対して'相対的にはより中立的であると認められる言語論的観点を対. うわけではない。バイスナ-が試みるように、野放図な悪意的解釈に. い。しかしこの不可避性それ自体が、文献学をいかがわし-するとい. ことも避け難いのである。文献学に価値中立性を求めることはできな. 語法の採用がテクストに対する1定の価値投与と解釈を最初から伴う. 値的パラダイムを排除することはもちろん不可能であり、修辞学的な. 的に形成されてきたそれらのメタ言語的システムが布置する一連の価. ル分類もそうした用語法の文脈で登場する避け難い論点である。歴史. は、特定の文法理論や修辞学の用語を用いな-てはならない。ジャン. ながら、例えば彼がその分析の最後に述べる次の様な所感は、むしろ. 構造の分析に与えたインパクトは非常に大きいものであった。しかし. のである。バイスナ-のこの指摘が、その後のカフカ研究、特に物語. 特有の-アリティ-と閉鎖感を作り出すという点で極めて特徴的なも. の目から見た世界が描かれるというカフカの手法は、措かれた世界に. 殆ど完全に重なり合い、外からの論評を介入させず、あ-まで主人公. と呼ばれる物語構造のことである。語り手の視点と主人公の視点とが. 統一的な構造の描出とみなしているのは、「一視点性」(Einsinnigkeit). かないのである」。バイスナ-が現代的な「叙事性」の実現であり、. を失したものに見える。. 世界(heile}einheitlieheWelten)を探究し見つけ出しているので. カフカは'特にこの奇妙な動物物語の中でも、傷のない統1的な. い。従って重要なのは、意識的に選択した論述の装置をいかに巧妙に. ある。なぜなら'彼はこの世界を全-動物の視点から眺めているか. 通常の動物物語に見られるような読者を意識した教訓. (12). されていることも忘れてはならないであろう。「今日の前衛的な論者. 必要であると力説する。その指摘ほ説得的である。しかしそれ以上に. 解釈の窓意性を退けるために、このような構造分析に立脚した議論が. を用いることで、構造上の一視点性とそれによって描かれた世界の統. たちは、カフカが或る語りの態度(E)・z恥h)ha)tung)を獲得しそれを. いて叙事的(episcb). 一性とを'両者があたかも自明的な因果関係を形作るかのように結び. な作品を創造することが可能となり、その作品. のいずれもが、もっとも小さい作品ですらも、或る統1的に構造化さ. 重要なのは、ここで彼がwei〓なぜなら--だから)という接続詞. バイスナ-は、カフカの物語に対するアレゴリ-的ないしは隠喰的. 的・風刺的・譜諺的な意図は1切なしに.. らである. -. 維持しえていること、その態度によって、神に見捨てられた世紀にお. か野放図な普遍化的解釈に変質してしまう'そうした危険性に常に曝. 実践であるとすれば、「言葉」に着目していたつもりが、いつのまに. とを意味してもいる。むしろその微妙な差異に賭けるのが文献学的な. はこの領域の言説の質が'非常に微妙な差異によって左右されうるこ. 利用し、自らの言説の説得性を高めるかという点にあるのだが、それ. 自然科学のような固有の制度化された方法を持っているわけではな. 有効性が自動的に保証されるかの如-信じ始める時である。文献学は、. 者が、或る理論的観点や手続きの採用それ自体によって自らの言説の. 「言葉」に定位したテクスト読解を指向する文献学者のバランス感覚. れた世界を描き出し'完全なるものを実現しているということに気づ (ll). 置してみせることには十分意味がある。問題が生じてくるのは、研究. 性を主張することはできない。言葉の形態化の様式を論じるために. 森本.

(5) うことは、そこに措かれる世界の無傷で統1的なまとまりを自明的に. に変貌している。語りが唯一的な閉じた視点からしかなされないとい. 付けていることである。この地点で堅実な文献学老は悪意的な解釈者. れによってどう変質してきたか、といった問題もそうした理論的な地. 文学(研究)とがどのように絡み合っているか、文献学それ自体がそ. いった思弁的な. いう契機をもう1度理論的に捉え直すことである。美や理念や歴史と. 理論的諸装置と. 帰結するわけではない。外の視点からの言及がない自閉的な結構は、. 点から明らかにされうるであろう。. ヘ-ゲルにおいて完成された. むしろ個々の事象の客観的な相貌を希薄化し、言語が特定の意味に繋 を学んでいる。実際われわれがカフカの物語から受け取る印象はそう. 七〇年代以降に現れた文学研究の「理論」化的憤向の中で疑問に付さ. げるのである。慣習化された文学研究の手法は、構造主義以降'特に. それゆえド・マンは、敢えて「文献学への回帰」というテ-ゼを掲. 一. した分裂病的な偏俺であり'そこでは比喰や語りの指示連関の不確定. 留されずに上滑りしてしまう言わば分裂病的な世界を生み出す可能性. -. 性が大きな特徴となっているのである.バイスナ-のweilほ、構造. れるようになった。しかしそこに生じた混乱は、決して突発的なもの. 来事. は、一八世紀後半における独立した学科とし. 学の見かけ上の延長物へと移行しうるのほ'まさにわれわれが'文学. がいとも容易に文学から、自己意識や宗教や政治学の領域における文. 結合が、少なくともカント以降の美学の決まり文句である。われわれ. ての美学の発生である。(芸術としての)文学と、認識論、倫理学の. 規定しているのだが. それが文学の目的に関するわれわれの今日の信念をいまだに. に過ぎないとド・マンは言う。「こうした問題に関わる1番長近の出. ではな-、「解かれないままに繰り返されてきた哲学的難題」の再燃. 的価値に引き寄せようとしているのであり'そのためには描かれた世 界の統1性が保持されていな-てはならない、つまり「完全なもの」 が実現されていなくてほならない、という無自覚的な先入見に誘導さ れているのである.相対的に承認されうる文献学的な装置に基づいて、. への着目と. 四一. おける講読実践の中で月並み化してゆく経過の中でも、際限なく繰り. な解放の美学に置き代えられる場面でも、またそれらが「文学部」に. このような言説の身振りは、思弁的な観点が観念論美学から唯物論的. 全体化する身振りそのものがここでは問われているのである。そして. 理性に対する特別の位置が割り振られるようになる、そうした総合し. のと理念的なものとを総合するものとして、それに認識能力や道徳的. 観点の下で、文学的言語に美的な価値が付与され、例えば感性的なも. を美学的機能を有するものとして教えているからである」o思弁的な. (15). 一視点性をテクスト上の「形象化された言葉」の事実として確認する ことはできる。しかし'そこから措かれた世界の統一性を導き、ジャ ンルの理念の実現を証明しようとするwei)の推論的機能は、テクス. トの「言葉」にょって保証されるものではない。文献学老は、ジャン ル的帰属の問題に理想的な解答を与えようとするや否や、「言葉のも とに留まる」という自らの原則を逸脱してしまうのである。. 債斜してゆ-局面を慎重に見定め、文献学本来の「言語」. -. (14). 文学研究における「言語」の問題. 森本. -. ここで彼は'カフカのテクストを「叙事文学」というジャンルの古典. と意味とを同一化的に総合しょうとする意志を露骨に表現している。. (13). 今日文学研究に求められていることは、文献学がいかがわしさへと. 2.

(6) 文学研究における「言語」の問題. れらの役割を、同様に伝統に根ざした美学的・解釈学的契機から単純. 文学理論は、美的な価値が、その価値が引き出されてくる実質を. いるわけでほない。批判すべき単純性は、美的価値と言語的構造を同. が持つような経験科学的普遍性への指向を文学研究に与えようとして. に切り離すことは不可能である。ド・マンもまた、現代の一般言語学. 成している言語的構造に適合しうるのかどうか、という避け難い問. 種の全体化的な図式が導き入れられる、その地点を明確に見定め、そ. 一化的に結合する身振りにある。「形象化された言葉」の振舞いを読. それほ修辞学がいまだに利用され続け'かつて. いを提起する。こうした問いは常に作家や哲学者の意識に付き纏う. が放棄された時. み取ってゆく作業の中に美学的な観点が介入することによって、或る. 返されてきたわけである。. 四二. のである。それが顕在化したのは、アンビヴアレントな形で修辞学. 森本. ば'修辞的な比噴から生じてきたゆゆしい美学的負荷を、美学的に. ことが重要なのである。それはまた逆に、思弁的な統一が仮構される. 難しいであろう.. いるように見える。ジャンルに関するロマン主義的態度と、バイスナ -のような、「文献学」的というよりは美学的な態度との違いに着目. の学へと文学研究を帰還させることがなぜ困難であるか、それ紘. も呼ぶべき. なぜなら、修辞学的作業のあり方を論じるための修秤. ところにこそ、問題の本質があると言うべきなのかもしれない。修辞. しているからである。しかし、単純に美学的な発想を切り捨てえない. ヤ、、、ンにおける「商品」とアレゴリ-の等価性の議論を参照しながら、. いてド・マンが提示しているのほ、こうした差異である。彼は、ベン. できる。アレゴリ-とシンボル、あるいほ記号と象徴という対比にお. 学的な名称を持った区別であるから-・クラスを仮に設定す. ー. 学も詩学も伝統と歴史を引きずった学科である。文学研究におけるそ. のうちに言語の安定的な境位を見出だそうとする思考の傾向を強-残. 対のメタ-ジャンルを、あるいはメタ-フィギュア(meta⊥igure)と. し、こうしたジャンル論的態度の差異そのものを表示するために、1. る、ひいてほ「文学とは何か」という問いに対する態度を指し示して. 現すことを前節で見た。分類の手付きそのものが、ジャンル性に対す. 分類・ジャンル分けという手続きにおいてこの微妙な差異が効果を. critica)な局面の1つであった。問題は常に微妙な差異なのである。. 統1性を確証する推論装置として秘かに導入された場面も、そうした. けるチャンスとなるかもしれない。バイスナ-のweilが、美学的な. 美学的局面の只中に、その無根拠性を暴-契機が含まれることを見届. (文学の教授が、上述の疑問を支えと. こうした動きに対する制度の側からの抵抗に打ち勝つことは恐らく. 詩学として教えられることを必要とするからである。しかしながら、. れるのではな-'解釈学や歴史としての教授より優先する修辞学・. して行われること) ほ、困難であろう。それは一つの変化を、つま り文学が、単に歴史的・人文的(humanistic)な主題として教えら. 的見地からすれば'このこと. ほ中立的な文法にまで同化吸収させた時である。--純粋に方法論. な-洗練されていたまさにそうした時点であった∼'言い換えれ こでわれわれの言語的経験がどのように変容するのかを明らかにする. -. 美学から文献学へ、あるいはヒユ-マニスティックな解釈学から「言. (16). 言うまでもな-われわれが、美学的な総合、解釈による同一化的言明. 語」.

(7) こう言っている。. 商品性格を持つものが非有機的であるのほ、それが単なる紙片と ではな-、言語とし. して、金券上の書き込みないし記録として存在するからである。対 立しているのは、自然と意識(あるいほ主観) て存在するものとそうではないものとである。ベンヤ、、、ンにょれば、 に依存することにょって、アレゴリ-は. アレゴリ-ほ物質的ないし唯物論的である。なぜなら'文字に'文 字の文字性(literalism). に歴史的な関心からでほな-、むしろ現代における文学研究のあり方. を議論するための効果的なトポスとして、アレゴリ-ないし「象徴/. アレゴ--」関係に着目する時'われわれはどのような問題場面に遭. 遇するのか。ここでは歴史的な概観を進めながら'「いったい何が問. 題なのか」を問い糾す筋道を考えてみたい。. menalism)の聖典であり、ハイデガ-にとってすらそうであったo. あるoところでこの『講義』ほ、芸術の現象〔仮象〕主義(pheno・. 目されることのない一節〔2.Tei1.3.Kapitel,B・2.〕からの引用で. これほベンヤ-ソではなく、ヘ-ゲルの『美学講義』の中の殆ど注. な-、むしろそうした言説を駆使する精神. で、修辞的な言説をそれ自体の形式性・技術性の観点から扱うのでは. 学が始まる」と言っているが、これは、近代的な主観主義の流れの中. て-るo. 関わりの中に再定位するかが問われるようになるo特に美的特性を論 じに-い言語芸術 (請) をいかに評価してゆくかが大きな問題となっ. 1八世紀の半ば以降、啓蒙主義的思潮の中で'下級の認識能力つま り感性的能力に訴えるものである「美」を、どのようにして理性との. アレゴリ-とは、文学的テクストが現象的・世界指向的な方向から、. 的に洗練された主観性に変わってゆ-わけだが. 象徴的。美(学)的な総合から決定的に切り離されるからである。. 文法的・言語指向的な方向へと移行する修辞的プロセスを名指して. て考察しょうとする見地への転換が生じたことを意味している。問題. トドロフは、「修辞学が終わりを告げたちょうどそのとき糞. いる。従ってそれは、美学的な価値と詩学的な価値とが枚を分かつ 瞬間を名指すのである。. た「自然」の中に現れ出ていると見なされる。そこで、人為的に形成. は、自然のミメ-シスが'美の言語的発現の基準と考えられていた。. 自然がモデルとならな-てはならないわけだが、いずれにしても当初. される芸術も、何らかの仕方で、自然を模倣していなくてはならない0. ンがメタ-フィギュアとして再規定するアレゴリ-は、その伝統的な. 森本. 一時期集中的に論じられた話題であることを見逃してほならない。単 文学研究における「言語」の問題. 四三. 世紀後半以降、特に「ゲ-テ時代」と呼ばれる一八〇〇年を境にした. もちろん不快な自然も存在する以上'実際には理想化された「美しい」. 的な快感を呼び起こすという特質から考えても、第一にほ神が創造し. ものにするのはいかなる仕方によってか、という点にある。美は感性. は、言語芸術のよしあしを評価する基準となる「美」を言語が自らの. との関わりにおい. それほ、やがて観念論. ー. (19). 「アレゴリ-の主体ほ、文法的な主体と呼びうるものにすぎない」。. 3. 観念からはかなり隔たっている。また周知のように、象徴とアレゴ-の関係は、さきに美学的偏向が始まった時期として指摘された一八. ベンヤ、、、ンの先駆的な問題関心を引き継いでいるとはいえ、ド・マ. (18). (17).

(8) 文学研究における「言語」の問題. 四四. 点にあった。小田部は、自然の継起性の表出というテ-ゼを次のよう. の表現方式を、言語と事象の間に構造的対応を作り出すことによって、. とは、個々の語と事象の関係に関しては悪意的でしかありえない言語. 然的記号の力を有しうるのである。ゆえにレッシソグが試みているこ. れの連関に関しては構造上の対応が存在しうる。その限りで言語は自. しては悪意的結合しか存在しないにもかかわらず、しかし両者それぞ. 似性が成立しうる。つまり言語と事象の問には、その個々の要素に関. 語の継起の仕方と個々の語の表示する事象の継起の仕方との間には類. 示する事象との問には悪意的結合しか存在しないが、しかし、個々の. 術の場合と違い、言語について自然の模倣ということがどのようにし. の様相が明らかにされつつあり参考になる。. ていたかという点である。これについては最近、いわゆる啓蒙主義的 な「記号論」(Semiotik). Symbolという語が元来「記号」 1般を意味していたことは周知の通 りであるが、このライプニッツの時代に、既に言語記号に関しては、 記号そのものと記号表示される事象との結合関係が「悪意的」である ことがはっきりと認識されていた。例えばメンデルスゾ-ンは、「芸 術の表現手段としての記号が自然的であるか、悪意的であるか、とい ぅ区別に基づいて芸術分類を展開し、自然的記号を用いる芸術として. 絵画、彫刻、建築、音楽、舞踏を、悪意的記号を用いる芸術としては 詩と雄弁を挙げる」。そしてこの窓意性と、自然性の体現という美の 基準とをどう調停し、詩の美しさを記号論的に保証するか、という問 オノマーペや感情的な叫び声を自然的と評価するだけで十分でない. 題が当然生じてくる。. (有縁化された)」. ことは明らかである。直接に自然を模倣するのではないにせよ、詩的 言語が何らかの仕方で自然へと「動機付けられた. において'絵画の空間性、つまり並. (motiv6)特性を有することを説明する必要がある。例えばレッシソ グは『ラオコオン』(1七六六). 存的・同時的な記号表現と、詩の時間性、つまり言語記号の継起的な ものであるとした. 特性とを対比し、文学が表出するのは自然の中で継起的に展開される. (第〓ハ章)。トドpフによれば、画期的なのはこ. 係>すなわち<記号の結合>が、事物相互の<関係>と対応するとい. で対応する<事物>との間の関係」ではな-「複数の記号相互の<関. 絵画の表現方式に近づけることであるといえよう」。これは、ライプニ ッツ的な記号結合術の考え方、つまり「ある<記号>とそれに一対一. (23). (20). 世紀当時、言語を含む記号表現一般についてどのような理解がなされ. に捉えている。「たしかに個々の語に注目する限り語とそれが記号表. へと有縁化されていな-てはならないという視点を明確に打ち出した (22). て成り立つのかという疑問が生じる。この文脈で重要なことほ、一八. ところが、絵画のように視覚的直観を介して直接自然を模倣できる芸. 森本. の分類そのものではな-、詩的言語もまた絵画とは違った仕方で自然. (Tatkraft). (一七八八) で示し. は自らの内に創. を秘めており、これが表象の能力と結. び付くことで、ちょうど神が自然世界を調和的に産出したのと同じよ うに、自然の調和性を反映する完結的な作品を産み出すことができる0. 造的な「活動力」. 直した点にある、と彼は述べている。人間(芸術家). く、制作・形成する、つまりbi-denする主体の対応関係として捉え. た議論の新しさは、模倣の関係を、作品と自然との間に見るのではな. た。モ-リッツが『莫を形成する模倣について』. マン沢を通じての言語芸術観のひな塑を示したのほモ-リッツであっ. トドロフによると、レッシソグの洞察を更に押し進め、古典派・ロ. うこと」に着目した記号観の影響をそこに見ようとする解釈である。. (24). (21).

(9) 形成原理であり'形成された自然や作品の完結的な全体性である。作. に接近する。そして単なる象徴においては、われわれがものを書-. 或る美しい形象が、それ自体の外にある何かを指示し意味するよ -に用いられる時、この形象はそれによって単なる象徴 (Symto)). 対応するのは作品と自然の個別的な要素ではな-'それらを創造する 品が自然と同様の調和的全体性を示す時、それが芸術の美なのである0. の美は'とりたてて問題とはならないのである.. におけるのと同様、本来固有(eigenナ 際に使う文字(Buchstabe) lich). ここに至って美ほ、,、、メ-シス的要求が含意する自然への従属的な関. 係から解放され、自己充足的な全体性として自律的な様相を口王する。 「目的の表象を伴わない合目的性の形式」という実の. 従ってそうした芸術作品は'もはやその目的を専らそれ自体の中 に持つのではなく'むしろ外へ向けての目的を所持している。 しかし真に美的なるものが生じるのは'或る物が専らそれ自体を. それほカントの. 力を発現することによって'外からの正当化を要せず自ら実現しうる. 意味し、それ自体を包摂し、それ自体において完結した一個の全体. 定義の間近に迫っている。しかもこれは、人間精神が固有の創造的能 ものなのである.更に言うなら、「世界のように、芸術作品ほ自己充. である場合なのである。. て、作品はもはや世界との関係を確認する必要ほない。モ-リッツの であり、しかも. る位置・,?占めてはいない。勤勉と労苦をいくら費やそうとも'それ. の美の概念と矛盾する時、それは莫的なるものの系列の上にいかな. こうしてアレゴリ-が'形成的(bi-dend)な諸芸術における一切. 足的な全体であり、作品が世界と似ているのはそれだけのことであっ 美学の中心的概念は、本当のところ全体性(totalitか) のである。. は私がものを書く時に使う文字と同様、価値がないのである。. 〔幸運の女神〕. が、髪をなびかせながら'回転する球に足の爪先で触れている姿は、. のフォルトゥナ. ようになる。しかし'自然というマクロコスモスと同じような調和的. 芙しい形象である。しかしそれは'幸運がその形象によって適切に. 〔フラ・アン・ジェリコ〕. な全体性を芸術作品が有するということは実際にはどういうことであ. 表示されているからではなく、形象の全体がそれ自体において調和. グイ-ド. るのか。自然的模倣が信じられていた段階ならば、ともか-快感とい. 差異は問題ではな-なり'外の自然に言及することな-美を論じうる. を測定できる議論の枠組ができあがる。ここでは表現記号の自然性の. 力点が人間精神の側に移り、作品そのものだけから美の実現の如何. 彼ほ好んでそれを美とよんだ」. へ25). う直観的な尺度がある。しかし、モ-リッツは糞が感覚的快感という. 引用の初めにある「象徴」という語は、トドロフが注記するように、. を有しているから美しいのである。. まだ単なる記号としてのシンボルを、特に「慣習によって指示作用を. 四五. が考えているような、作品を構成する記号が表現と内容との,即一態を. 「外部」に言及するものであってほならないとされる。ードロフも引. 外的な目的に奉仕するという見方を拒否する.それほ莫の自己充足的 な完結性という理念に反するからであるoそこでは記号の意味作用も、. (26). おこなう悪意的記号」を指して用いられている。もちろんモ-リッツ. 文学研究における「言語」の問題. 森本. 用しているモ-リッツの次のような発言ほ、極めて興味深いものであ る。.

(10) 文学研究における「言語」の問題. な転換点である。ここで押さえてお-べきなのは'「言語」の本来悪. しているわけである。それは同時に当時の記号論の伝統が忘却され.て. 在の連関を表現する限りにおいて言語は存在意義を持つのであり、ま. 現するものではない。記号論の見地からすれば、その全体的連関が実. 象徴を優位に置き'アレゴ--を皮下する二項対立がこうした思想. 史的経緯の中で表面化して-る。ここでは、われわれにとって重要と. 思われる論点についてのみ触れておこう。象徴論的思考への転換ほ、. は自然そのものへの何らかの繋留によるしかないという,、、メ-シス的. る。この否定的な疑念を素朴に残す限りにおいて、言語の価値の保証. 回しになぞらえることで、この議論の特徴を捉えることができるかも. ものとの関係が前面に出て-るのである。あえてソシュ-ル的な言い. まり精神的活動としての言語表現内部での意味するものと意味される. ら、言語表現そのものの内での関係へと取り込むことを意味する。_つ. 記号と記号表象されるものとの関係を、言語とその外部という関係か. な発想が生まれる。レッシソグの図式が、逝に記号論の表出対応関係. を単位として実体化される. における産出行為として捉える展望杏. として、あるいほ精神∼それは実際には「民族. しれない。「形成」主義的な言語観は、言語を人間における創造活動. としないところにまで、つまり価値基準を完全に人間精神の内に見出. ることなしに、その完全性を論じることができる。アレゴリ-とは、. 秩序ほ当然に神と同型的な秩序であり、今後はいちいち後者に言及す. して言語を位置づける現代の言語観. しているだけではな-、認識や価値意識を構成する問主観的な枠組と. る事象を主観的な形成過程の内に取り込んでゆ-観念論の指向を予示. 開-。それは超越論的主観性の哲学の洗練とともに自然を含むあらゆ. a))os+ago12ueinつまり「別様に語る」ことであり、記号と記号表象さ. にしかありえないわけだが. の端緒であるとも言えるだろう。しか. -. 世紀的記号論が明らかにした悪意性と慣習性に関する思考を脱落させ. -. 実際それほ、カン-の延長上. れるものとが外在的な関係に置かれることを含意する記号関係である0. し他方で、ここでの意味するものと意味されるものとの対化は、一八. 別称なのである。モ-リッツは、人間精神の自立的な形成(Bildung). それは記号論的美学にとっての難問だった言語記号の慣習的悪意性の. しぅるところにまで押し進めたわけである。精神が創造する言語的な. …. のだとすれば、モ-リッツはそれを、もはや対応関係への参照を必要. を肯定的に引き継ぎ、言語表現の内的・独立的な価値への道を開いた. 間の作り出す対応の形式に疑念を抱き懐疑に陥る可能性を残してい. ようとも、悪意性の否定的側面と紙一重であり、事柄上、神ならぬ人. った。しかしこの自由は、その予定調和的な能動性がいかに強調され. たそのような対応を形成しうることが人間の精神の自由の証しでもあ. .4. ているように見えることである。言語はそれ自体として美や理念を体. ゆく転換点でもあった。. さにそうした思考の様式、言説の組み立て方を、芸術論において提起. 関係を本質とするアレゴリ-から解放することができると考える、ま. の能力を引き合いに出すことで、人間の言語を外在的・悪意的な言及. 四六. 意的な性格が、美の問題圏に吸収されることによって不当に忘却され. これは一八世紀的記号論が、観念論的な象徴論に変容してゆく重大. ものである。. 作り出した状態、これこそやがて「象徴」と呼ばれるようになる当の. 森本.

(11) にょってもたらされた奥深い意義を有している。象徴的なもめが表. 現以外に何かを表しているとすれば'それは常に間接的な仕方にお. たところに成立していることを忘れるべきではない。そのことが'こ. いてであろう。--. (図式・象散・アレゴリ-)を、言語の問題として. の対化の諸タイプ. て生彩を放つ芸術作品も存在する。すべてのアレゴリ-的(a】-eg?. risch)な芸術作品はこれに入るわけだが、この種の作品から良いも. のを期待することは殆どできない。と言うのも'それらは、〔セン. チメンタルな作品〕と同じく表現(Darste))ung)への関心をみずか. ら破棄し、精神をいわば自分自身のなかに押し戻して、現実にそこ. に措かれているものからは眼を逸させてしまうからである。アレゴ. リ-的なものは象徴的なものと区別される。象徴的なものは間接的. (bezeicbnen). のであ. ところで悟性や機知や粋(Verstand}Witz.Galanterie)にょっ. ではなく、むしろ認識論や歴史哲学の中でのル-ズな分類基準として 流用させる可能性を与えたのであるo 象徴/アレゴリ-において、意味するものと意味されるものとして 対化されるのは'個別と普遍である。トドロフはゲ-テの象徴/アレ ゴリ-観を説明する粂りで、次のように要約している。「完成された 作品においては誰しもつねに個別とかかわりをもち、しかもまたこの. 特殊個別はつねに普遍を喚起する。しかし創造のプロセスにおいては、 個別から始まり、後から普遍的なものを発見する(それは象徴である). に、アレゴリ-的なものは直接的に表示する (if:). アレゴリ-は現象を概念に変え、概念をイメ-ジに変える。但し、. 方で。 象徴(Symbo)ik). て意味が与えられる. (盟). (idee)に変え、理念をイメ-ジ. (bedeutendとなる)ことで'表現された対象の. 象徴において重要な点ほ、普遍性ないしはイデア-ルなものによっ. 然言い表しえない(unaussprech)ich)ままであるような仕方で。. 達不可能なままに留まり、あらゆる言語で言い表したとしても、依. に変える。但し'その理念ほイメ-ジの中で無限に作用し続け、到. は現象を理念. れ'所有され'同一のイメ-ジによって言い表しうる、そうした仕. その概念はイメ-ジの中に限界付けられた形で常に完全に掴み取ら. る。. か、あるいはまず最初に普遍をもち、ついでにそのために特殊個別的 な具体化をおこなうかによって相違が生じる。この道程の相違は作品 そのものにも影響をあたえる」.しかし単に普遍が発か個別が先かと. いうことだけではなく'双方の関係の仕方、そして特に普遍として具 体的に何が指定されるかといった点が問題となる。ゲトテの範例的な テクストを二つ掲げておこう。 --以下においてほ、むしろ〔芸術活動における対象の〕取り扱 い方と取り扱っている精神とを考察する。このように見た時、対象 を規定しているのは‥ (koinzidieren)、恐ら-. 深い感情である。それが純粋かつ自然的(nattirlich)∵であれば、 (symbo)isch)にするであろう。こうして表. この深い感情は最善で最高の対象と一致し はそれを象徴的なもの. 現された対象は、一見単にそれ自身のために存在しているかのよう 森本. に見えながら、しかし、普遍性を伴う理念的なもの(dasidea12) 文学研究における「言語」の問題. 四七. (27).

(12) 文学研究における「言語」の問題. 独自性も高められるという点である。表現手段 第二の引用で言え. の連関の中に、つまり認識論的かつ実践哲学的な思想体系の中に位置. ない。. 彼によれば、深紅色(Purpur)が. の表現として用いるのは悪意的・慣習的なアレゴリ-で. 「区別」そのものが、恐らく当時のドイ. 「自然」だったのであろう慣習的な色彩観念に根ざしたち. 「区別」を信じさせ. の、つまり悪意的な言語の効果について、改めて考えさせずにほおか. 別を、あたかも自然的な区別であるかのように思念させてしまう慣習. のであることは明らかである。この事例は、元来偶然的でしかない区. ツにおいて. あるということになる。この. 緑を「希望」. 厳」を示すのほ、自然と完全に一致した象徴的な意味作用であるが、. はその最たをものであろう0. に接した時とりわけ大き-なる。ゲ-テが色彩論の中で挙げている例. 過ぎないように見えることも少な-ない。その疑念は'具体的な事例. な評言が、1種の独断的な宣言であり、素朴なイデオロギ-の表明に. に理解しに-い面を持っているo調和・統1・全体性といった肯定的. として捉えられたのである。このことは、今日のわれわれには、非常. 的・調和的に顕現した状態であり、これら両項の理想的な統一の局面. 徴とは、イデア-ルなもの=普遍がレア-ルなもの-特殊の内に即一. だが、その際概ね「象徴」は高位のランクに位置づけられている。象. ほ二肢的ないし三肢的なヒエラルキ-系列を作ることを常としたわけ. ー・の固有の価値が'それが理念の媒体であることによ づけ直されていることである。周知のように、この時代の思想家たち. 描かれているもの」に限が塞がれてしまっている。つまり、意味する. 他方アレゴリ-の場合は「表現への関心」がなく、「現実にそこに. すということを意味する。「間接的」と言われる所以である。. なること、それ自体としては「到達不可能」となり、解釈を呼び起こ. が全面に出て-るために、意味されるものが自明的にほ読み取れなく. 理念的(理想的)なものの了解という側面から見れば、表現の固有性. えること、これが芸術の「自然的」な理想なのである。しかしこれは、. って高まり'表現と意味とが過不足な-一致しているという印象を与. ば、イメ-ジ. 四八. -、このイメ-ジの全体がそれ自体において調和を有しているからで. てはならない。先に引用したモ-リッツのテクストの中で、アンジェ リコのフォル-ゥナが美しいのほ、単に 「幸福」を示すからではな. ていた言説のあり方について、もう少し立ち入って考察しておかなく. われわれとしては、この象徴とアレゴリ-との. 「威. ものへの芸術的な注視が欠落し、意味されるものの認識だけが優先さ れるということである。骸骨という陳腐なイメ-ジで「死」という観 念が表示される時、表現(骸骨)は自らの「外」にある観念を伝達す る以外に存在理由を持たない。そしてこの連想関係は、両者が慣習的 ・規約的に結合している限りにおいて透明であり、直接的である。 ゲ-テからの第二の引用は、普遍として何を置くべきかをほっきり と指定している。これはカントの図式/象徴の区別を念頭に置いたも のであるoカントほ、悟性概念を直観的に描出するものを図式(Sche・ ma)、理性概念つまり理念を類比的・間接的に描出するものを象徴と 呼んでいる。理念に直接適合する直観ほ存在しえず'ただそのもとに 置かれる(unterge(egt)ような直観がありうるだけだというのがカン. いうゲ-テの言い回しはこの点を正確に反映していると言えるだろ ぅ。いずれにせよ、このカント的な区別が示すのは、芸術における完 結性・調和性の問題が、観念論的な主観の能力(感性・悟性・理性). (32). (31). 森本. -. トの考え方だが'理念が最終的には「言い表しえないままである」と. (30).

(13) ある、と言われていた。しかし、フォルトゥナほ元来典型的なアレゴ. -. における表現と意味(個別と普遍). の即一性とは、果して本質的に異. なったモ-ドなのか。ゲ-テほ第一の引用の末尾で、象徴とアレゴリ -の区別を、be2eichnenする仕方が直接であるか間接であるかの違. いであると言っている。彼が特に意識してこの語を用いたのかどうか. ほわからないが、通常bezeichnenという動詞ほ'今のカントの例に. 用にあった間接的/直接的という対比の暖昧さである。アレゴリ-ほ. 差異の中に既に含まれているように見える。それほ、先のゲ-テの引. の作用を行うものだということが「言われている」. の違いがあるにせよ'象徴とアレゴリ-とは「記号」表示という同一. な表示作用を意味する語である。つまりここでは、媒体による透明度. 見るように、「言語」そのものに代表される単なる記号(Zeiehen)的. 表現としての自分自身の固有性に関心を示さず、概念を喚起しっつ自. いる」のでほないにせよ-ーのである.しかしこれほ'経験的にほ当. 「言語」の機能と変わると. 普遍は即一的に調和しており、そうであるからこそ、表現の固有性も. となる。しかし道に象徴においては、表現の個別性と意味されている. 接的」に結合するのに対して、象徴の場合は、直観される対象、つま り表現面の固有性が注意を引き付ける分だけ概念との関係ほ「間接的」. ものなのである。このようにアレゴリ-が、慣習を通じて概念と「直. (Zeichen). の体験を分節化するために、それ自体とは別の関心の下で引かれた区. という区別は、空虚なものとなる。あるいはそれほ、表現やその享受. かないのだとすれば'絵そのものが象徴であるかアレゴリ-であるか. 感じ取ることとほ、分節化可能な異なった経験として生起しうるのだ. することと、その女性像の美しさと或る種の「幸福」感とを同時的に. 別できるであろうか。そもそも、フォル-ゥナの像に「幸運」を連想. 未来の多-の経験の予科という二重の痕跡を背景として生起する再=. る。そして個別者にとって、個々の経験が過去の多-の経験の記憶と. が存するのか、何が境界を確定するのか'という終わりなき問いであ. ろうか。もしもそこに何事かを理解し感じ取っている一つの出来事し. 前景化するという事情がある。いわゆる表現と意味との自然的な「有. ル問題の最も基本的な場面に引き戻されるように見える。どこに差異. 分線であるかもしれない。象徴/アレゴリ-論ほこうして再びジャン. なものとなる。. 森本. 規約によって成立する意味作用の直接性と、「自然的」な象徴連関 文学研究における「言語」の問題. 四九. の関係ほ'規約的な連想において偶然的に結びついただけの「間接的」. 縁性」である。この契機を強調すれば'両者は「直接的」な近さにお. に従っているのか'それとも「自然な」連関に導かれているのか、区. 生じている時'その体験者自身は、自分が単に約束事としてのコ-ド. 然の事実である。或る表現に接しその意味を理解するという出来事が. -. いて存在していることになり、道にアレゴ--における表現と意味と. であり、直観的というよりも論証的(diskursiv)な性質の. 「意図されて. らは立ち消えることが理想であるとされる。これは実際には、カント. る。そしてこうした反転が生じうる根拠は、古典派が主張した両者の. リ-であるかは、専ら解釈者の観点に委ねられているということであ. して眺め評価することが可能であり、或る作品が象徴であるかアレゴ. リ-図像である。つまりここで言われているのは モ-リッツは、 、アレゴリ-的な像を象徴と そうではないと主張するであろうが. -. の言うCharacterismen'つまり感覚的な記号によって、単に概念の (Bezcichnung)のみを行う通常の (33). ころがない。アレゴリ-は「図式」というよりも、むしろ「記号」. 表示.

(14) る多を1なる内へと収赦させる力が働いて、物における内なる本質と. 文学研究における「言語しの問題 経験・再=着目でしかない限りにおいて、二つの経験のモ-ドを予め. 〔この稿未完〕. ルな意味と同1化する精神の身振りそのものの成否を問わなければ、. かkonnotativであるかの違いに過ぎない。直観的なものをイデア-. 与された対象の直観像であるかは、「記号」作用がdenotativである. その表現面が本来のシニフィアンであるか、既に第一次的な意味を付. 述べたように、アレゴリ-とはむしろ「記号」一般の構造なのであり、. の可能性に関わるものであることが明らかとなったからである.既に. はなく、異質なものの間に同一性を仮構する理論的な身振りそのもの. アレゴリ-の分節が、単に芸術ジャンルの分類という局地的な問題で. いるかを見ておくべきであろう.というのも以上の検討から'象徴/. 歴史的な概観の最後に、彼が記号やアレゴリ-についてどう言及して. にあることを見抜き、非等質系の論理を追求したのはへ-ゲルである。. い」。問題の核心が非等質なものの問の関係をどう捉えるかという点. に引き出そうとも、それと非等質な外なるものとの連続は成り立たな. 外なる現象との関係が成り立つ。/外なる現象と内なる本質との関係. 論的な枠組の中で確定することができるはずである。それはモ-リッ. ッ的な構想において切り開かれたのが'人間精神にとっての「外部」 を排除する枠組だったことを想起すれば十分である。経験的には個別 の表現から出発しているように感じられても'事柄上は概念にしろ理 念にしろわれわれの精神の内に既に与えられているoそれらが表象の 能力を介して自らを直観化するのであって、決して偶然的に出会われ た直観を場当り的に普遍化しているのでほないのである。従って、自 己同一的な精神の枠組の中で見れば、表現を具体化した活動の根底に あるのが概念であるか理念であるかによって、アレゴリ-と象徴との 区別は権利上可能だということになる。記号論を悩ませた外なる自然. という醜からの解放ほ、自然の「内面化」(Er・innerung)という着想 に多-を負っている。能動的・自立的な美を定礎するためにほ'何よ. LeEikon,9,Au戸Bd118.. 事柄の本質は見えてこないのである.. 〔注〕 EnR'yklopa.disches. Manfred. der. Lilera・. Frank,"TeltauS・. 麻生建『解釈学』、世界書院'一九八五年、1二四頁以下、参照。. lur,Metz)er,)982,S.)4)-2.. )egung",in:D.Harth[P.Gebhardt(Hrsq.)、Erkenntnis. Krilik.Suhrkamp,)977,S.)67f.また. cf.、F.D.E.Schleiermacher(Hrsg.vonM.Frank)〉Hermeneuiikund. Meyers. りも広義の理性と同じ地平にあって理性と総合できるような直観を調 達することが必要だったわけである。しかし実際には、その調達が容 易に成功しうるわけでほない。主観にとって外的なものを強引に等質 的な関係に持ち込んだことによる困難は避け難いのである。「主観と 客観、心と身体、内なるものと外なるものとほ、いずれも同1の視界 には置かれず'同1の要素ももたない関係である」oこの「非等質の関 係」が不可避的なアポリアとして露出してくる。「たとえば、内なるち. のと外なるものとの関係を、内なる本質が外なる現象に発現するもの として考えたとする.1なる内から多なる外へと発現する力と、外な. 榊 川 ㈱. もっとも観念論的な見地に立ち帰って言えば、両者の差異は、超越. 決定し尽くすことは困難となる。象徴/アレゴリ-の分節化そのもの. 五〇. を、意識は等質的だと思い込んでいる。しかし、内なるものをいずこ (35). が'他を導き入れるジャンルとしてのアレゴリ-なのである。. 森本 (34).

(15) Derrida.. Frank,ibid.S.)4). ]acques. "La Loi. Hopkins. genre[The. Univ.p.)84. Law [trans)ation. Genre",GLYPH. inter. Eng)ish:p.. (colloque. さえしたということだけではない。また単に、ロマン主義が結果的には、. 「ロマン主義とは何か」「文学とは何か」というように問題が際限なく自. こで示されているのでもない。むしろ、文学が不断の自己への問い糾し. 己回帰し続ける形での定義しか見出しえていないということだけが'こ. 現したのがロマン主義の時点であり、またロマン主義という姿において. として、自らに問われる問いを永久に問い続けるそのあり方において出. マン主義が発する問いにも、ロマン主義についての問いにも答えは存荏. 答えは永久に遅延されるか、(更に問う必要性を否認し、その結果)新た な疑問を喚起するだけの虚偽の答えとして与えられるしかないであろ. ぅ、ということである。このために、ロマン主義は特定の時点(その間. Derrida,ibid..p.)85[p.2))].. 「記号論とほ原則的に言えば'嘘を言うために利用しうるあらゆるもの. いかけの瞬間). R・Schehr)∼. ままなのである。そしてこのことをロマン主義は'. "Genre".in‥GLYPH7(n.6),pp.)・2.;cf..Ph.Lacoue・. 二六番)o』PhilippeLacoue・Labarthe])ean・Luc. ないということが'このジャンルの其の木質である』. Literary. Absolute.SUNY. Nancy(tr).by. Press.)988.. ().. (アテネウム断片. まだに生成の途上にある。常に生成するのみで決tて自ちを完成させえ. 完全に意識していた。『ロマン主義的な文学ジャンル(Dichtart)は、い. (in・comp)ete). 以上のものとなり'今日でさえそれは自らが開始した時代を仕上げさせ. において出現したにもかかわらず'常に単なる一「時代」. を研究する学問である。嘘を言うのに使えないようなものがあれば、そ れは逝に真理を伝えるために用いることもできない」。U・ユ-コ 嘉彦訳)『記号論-』'岩波書店'一九八〇年'八頁。 「いったい何が問題なのかo. 様々な証拠からして、〔アウグスト・シュレ-ゲルの〕. 全-単純に、『文学とは何か』が問題である。 ロマン主義的語法で、特に有名な〔フリ-ドリヒ・シュレ-ゲルの〕 断片一l六番. ・LINancy.The. カフカの物語は、近代の小説における視点の多重化という欠陥. ibid.,S.40.. ibid.,S.9-)0.. Aufl..)952),S.718.. Fr,BeiL3ner,DerErR:a.hlerFranR:Kafka,Koh)hammer.)96). p.83.. Labarthe\),. は、この断片への注釈なのだが1を用いて言えば、問題ほ『ロマン主. 『芸術・文学論』と〔フリ-ドリヒ自身の〕『ポエジ-についての対話』. を創出し. に関する問題とよんでいるものにほかならない。. 義的ポエジ-とは何か」、より精確には「ロマン主義的ジャンルとは何 か」ということになる。つまるところこの問題は、われわれが簡略化し て「文学のジャンル」. いずれにせよ重要なのは、まさにこの問題が問題化しているとい-こ と'何にもましてこの問題こそが存続し問われ続けなければならず'明 らかにわれわれは、その答えを待たなくてはならないということである。 ここに示されているのは、厳密に言って、この間いの出現した場所がロ (epoch). 五1. -. 解釈学」・『現代思想』一九八六年一〇月号、l一六-1二九京。. だった'ということである。それは'従ってこういうことでもある。ロ. GATTUNG[GENRE)での発表の一部を. 拙稿「『巣穴』. (1九人四年)、九二-一〇一貫、を参照.. 載録したものである。 コ-ドと反復を巡る問題、特にデリダとジョン・サ-・ルの問で争われた. GENRE\D)E. 学』第七三号. の解体1カフカ読解に関する山試論1」'『ドイツ文. しないし'存在しうるものでもないということ。そうでないとしても、. (池上. ない. 論点については'以下の拙稿を参照。「フランクにおける『個別性』の. national‥LE. 九七九年七月ストラスブ-ル大学で催されたコロック. 2)0・)」.なおGLYPHのこの号は、文学とジャンルの問題に関して一. 7()980).]ohns. of. マン主義であること、更にロマン主義が文学の時代. (13)(12)(ll). (14). L.. in. du. 文学研究における「言語」の問雇. 森本. 彼は. -. 糾 3 ㈲ ㈲ S 桝.

(16) (18)(17)(16). ¢頚¢4¢3)¢g). 文学研究における「言語」の問題. (ホメロス). を回避. の統一的な語りの構造を復活させていると. 大胆にもフn-べ-ルやドストエフスキ-を例に引いている し'古典叙事詩 いうのが、.,(イスナ-の評価である.もちろん三〇年以上前のこの論考 は、それ自体歴史上のドキュメントとして読まれなくてはならないわけ. Resislence. "Ursprung. Theory. deutschen. Trauerspie)s"(1925),. Bd.I・),)974,Suhrkamp、SS・203ふ30・邦. des. Univ.ofMinnesotaPress,. だが、文献学者が「文献学」的でなくなってしまう局面をこれほど鮮明. Benjamin.. Man,The. に示している事例も珍しいと言えるであろう。 Paul )986,p.25.. ibid.,pp.25-61. ibid"p.68.. in‥GesammelleSchriflen. (及川穣・一之瀬正興訳). symbole,Seuil(coil.Points)76)}. ed.,)977)〉p.)4).T・トドロフ. Todorov,Theories. 訳、川村二郎・三城滞積訳)『ドイツ悲劇の根源』'法政大学出版局、一 九七五年。 Tzvetan )985()are. 『象徴の理論』、法政大学出版局'一九八七年、一八一貢.歴史的概観に 関しては、主として本吉を参照した。. 例えば、以下を参照。麻生建『ドイツ言語哲学の諸相』東大出版会'一 九八九年。黒崎政男「l八・一九世紀ドイツ言語哲学の見直しについて」. l四八号(l九八七年). 七〇-七五頁o. 理性の時代における. Poelik,Max. K.Ph.Moritz, and. dorov,ibid.,p.)94・. "tiber. "i)her. die. Allegolie",in‥Sc7mf12n2ur. よer. bi)denden. Kunst",in‥. derArtemis・Gedenkausgabe)Bd・)3,. Gegenstande. Niemeyer,)962∩SS・))2・5])S・))3・4・cf・)To・. ibid.、p.24).邦訳'三lヒ頁. die. Werke(Nachdruck. I.w.Goethe,. Allhetik. und. Urlei15krafl,S59・. Symbol. Denksys-em. "MaximenundRenelionen")Nl・1112,1113・・in:ibid・,Bd・9,. der. Titzmann."Allegorie. der. り、「象徴/アレゴリ-」を対比的に用いた最も早い事例の三とされ. Artemis\DTV.)977,S.)24・5.これが書かれたのはl七九七年であ. sdmtliche. 五二. 同上書、三〇頁。. (KoichiMoRIMOTO. ドイツ語教委'Dept・.fGerman). ル哲学の現在』世界文化社、一九八八年、二八頁。. 加藤尚武「ヘ-ゲル哲学の歴史的位軍づけ」、.加藤尚武はか編『へ-ゲ. Kant.ibid.(Anm,30),. Goethe,ibid,(Anm128).Bd・)6,S・233・4・. 665.. Allegorie:SJ,mPosion. Goethezeit",in:Wa)terHaug(Hrsg.).FormenundFunktionender Wolfe71bduel]978,Met7Jller,)979,S・642・. Michael. Kant〉Kritik. S.639.. ders.,. る。. ′のや ー【り. ㈹. -. 『理想』一九八五年十二月号二〇八-二l六頁o小田部胤久「ダヴイッ ド・E・ウェルペソ『レッシソグのラオコオン. 記号論と芙学』(書評)」『美学』. 小田部胤久「記号結合術としての芸術」、谷川渥編『記号の劇場』. (注21)、一三三頁。. l三1一四二頁]'一二七頁. 堂、一九八八年[l Todorov,ibid.,p.)7).上記邦訳、二l九頁. 小田部、上記論文. im. to. du. ㈹ 帥 帥. 森本. -. 鯛¢頚(3g). de. 麻生、上掲書 (注20)、三六頁。 Todorov.ibid.、p.)87.邦訳、二四l頁。. 昭和. 的. Walter.

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