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チアパ・デ・コルソ出土の彫刻の施された大腿骨に ついて

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Academic year: 2021

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チアパ・デ・コルソ出土の彫刻の施された大腿骨に ついて

著者 太田 真琴

雑誌名 金大考古

巻 41

ページ 2‑3

発行年 2003‑05‑01

URL http://hdl.handle.net/2297/2909

(2)

畿で勾玉の出土例が減少し、各地域で素材を選択した様相が 捉えられるようになり、流通形態に変化が生じたと考えた。

 古墳後期における流通の変化は製作技法にも影響を与え、

結果として碧玉・メノウなどを製作していた出雲玉作遺跡周 辺では大量生産化が加速的に進み、製作技法の省力化・工程 の省略といった形で勾玉未成品に表れてくるものと理解する に至った。

卒業論文概要 

「縄文時代後・晩期の信越地方における土製耳飾りについて」  

        江口 麻美  縄文時代にはさまざまな装身具が存在した。その中の一 つに「土製耳飾り」と呼ばれるものがある。この土製耳飾り は、現在のピアスのように耳朶に穿孔を施して装着するもの であると考えられている。またこの遺物は、縄文時代後期に は盛んに製作されるようになり晩期には最盛期を迎える。そ して中には、精巧な透かし彫りが施された華麗な耳飾りも存 在している。

 この土製耳飾りは主に関東・中部地方で多く出土している。

本論では、新潟県の中郷村籠峰遺跡においても大量の耳飾り が出土していることに注目し、 新潟県上越・中越地方と長野県 の主に北信地方を対象として30遺跡775点の耳飾りを集成し、

この地方における土製耳飾りの特徴を指摘した。

 耳飾りの分析に際しては、設楽博巳と金成南海子・宮尾亨 の分類を元に一部に改定を加え、 形態と文様から分類を行い、

中でも特徴的なものを類型として設定した。その結果、

11

種 類の類型が設定できた。さらにもう一点、耳飾りの着用に関 わる要素として直径があげられる。 そして直径については

1cm

刻みで耳飾りを分け、その傾向を探った。

 その結果、

(1)土製耳飾りは、河川周辺の遺跡で多く出土し

ている。しかしその出土点数には2

,3点から1000

点まで、

遺跡間で大きな差がある。

(2)

信越地方の耳飾りは

1cm

2cm

台の小型のものが多く、 そのピークは

2cm

台である。 さらに、

サイズが大きくなるほど各サイズでの点数は減少していく。 

(3)設定した類型の中には、特定の地域にのみみられるタイプ

があり、またそれぞれの類型にはサイズの偏りがみられる。

といった特徴が明らかになった。  

 そしてサイズの大きな耳飾りは、少ないながらもそれぞれ の遺跡に存在しているが、その数が限られることから、大き な耳飾りの着用は、 限られた人物のみができたと考えられる。   

4本の骨を採り上げる。この遺物は墓の中から発見されたも

のであり、精巧な彫刻が施されていた。そのデザインはオル メカ文化・イサパ文化・サポテカ文化という3つの文化の美術 様式から影響を受けていると言われている。 その3つの文化間 の関係について考察を進め、この骨に彫刻が施された時期を 絞り込むことを試みた。 

1

章では、チアパ・デ・コル また籠峰遺跡周辺においては、関東地方でみられる華やか

な花弁様の耳飾り(本論の類型では

11

類にあたる)よりも、

この地域独特の耳飾りとして3 類の耳飾りと、

8

類や

10

類の 耳飾りが使用されていたと考えられる。また

7

類の「工字文」

様の中には、地域性がみられた。さらに、

10

類の耳飾りは中 越地方から北信地方全域にいたるまで、最も広い範囲に分布 していることが明らかになった。

これらの類型から、信越地方には独自の「耳飾り文化」と いえるものが存在していたと考えられる。それは戸沢充則が 想定しているような、1県単位ぐらいの「宗教センター」が

存在したことを示しているのかもしれない。そして「耳飾り 文化」の影響は、信越地方の特に籠峰遺跡周辺において強く 及んでいたと考えられるのである。

 

籠峰遺跡出土の耳飾り 

 

チアパ・デ・コルソ出土の彫刻の施された大腿骨について」  

マヤ地域を含むメソアメリカ地域は多様な環 状

な量の文字資料が残されているにもかかわ ら

いて1957年に発見され た

ソの遺跡を紹介し、発見さ れ

整理した。ほとんどの研究 者

化の特徴について、それぞれの文化を 代

  太田 真琴  境がモザイク に入り組んでいることから非常に多様な動物相・植物相が 存在し、また、多様な自然環境に応じて様々な鉱物資源が散 在している。そのような環境の多様性から資源の偏りが生ま れ、必然的にメソアメリカ各地での長距離交易を促したと考 えられている。 

ところが、膨大

ず、メソアメリカにおける交易を含む経済活動の記録はい っさい残されていない。そのため、メソアメリカのかつての 経済活動・交易ルートを知るには、地域ごとやそれぞれの文 化の特徴を持った遺物の観察・研究に頼ることになる。現在 まで多くの研究者によってそういった研究・分析が行われ、

どういった範囲にどのようなタイプの交易品が流通していた のか、当時の交易ネットワークはどのような範囲に及んでい たのかが明らかになってきている。 

本稿では、チアパ・デ・コルソにお

た4本の骨のうち彫刻が施されている2本の骨のデザインを 構成要素ごとに簡単に纏めた。 

2

章では、先行研究について

は彫刻が施された骨の用途や図像そのものについて着目し ているが、その彫刻が施された時期についてはあまり述べて いないようである。 

第3章では、3つの文

表する都市遺跡と共に記した。これらの都市遺跡が存在し た時期が、チアパ・デ・コルソの彫刻骨作成時期と重なると 考えられる。 

−2−

(3)

4

章では、彫刻骨とそれが出土した墓との関係と、

3

つの 文

「東山道武蔵路の側溝から見た工事区間」 

悠美   律令制による中央集権国家を目指した古代日

の駅路の例に漏れず、直線的な

東の上遺跡から南端の(仮称)尾崎ビルま

日本の古代山城について−城内平坦地面積からの一考察−」  

古代山城とは、近畿・瀬戸内・九州北部の各地に 古

山城遺跡の内、城内の平坦地面積を測定で

の比較では、総面積が大きいと平坦地 面

察から導き出される結論としては、一部の例外を

「東北北部の竪穴住居に付随する      外周溝と掘立柱建物の機能」 

さ子   近年、青森県と秋田県の平安時代の集落

立柱建物の機能を明らかにする

的に低い方へ開口していることから排 化の前後関係から彫刻骨の作成時期について考察を進めた。  

今回扱ったような骨製品は、頻繁には見られないがメソア リカに広く分布しているようである。本稿は、このように 骨に彫刻を施すという特徴ある遺物を手がかりに、経済活動 の一端を理解しようと試みたものである。 

 

川村 亜 本にとって、

中央と地方を繋ぐ道路網の整備は最重要課題であった。その 結果造られた駅路七道のひとつが東山道であり、東山道武蔵 路は、上野国と下野国の中間で東山道本道から分岐して武蔵 国府へと至る支道である。

 東山道武蔵路の側溝は、他

ものであった。しかし側溝間心々距離12m の直線道といわれ た東山道武蔵路の側溝も、詳細に調べていくとわずかに揺ら ぎが見られる。

 本論では北端の

でを計測し、側溝間心々距離の変化や側溝幅の変化の結果か ら、東山道武蔵路における工事区間を考察する。現時点にお いては側溝検出地点に偏りがあるため、結果としては武蔵国 分寺

68

次地点から府中

74

次地点までの一連の区間を確認で きただけであった。しかし、府中

74

次地点を含め、

3

箇所の 区間の切れ目と、1 箇所の掘削時の目印と思われる土坑が見 つかった。

  菅 優也  点在する 代の城郭遺跡である。一般的に、『日本書紀』『続日本紀』

などの史書に記載されているものを「朝鮮式山城」と呼び、

記載されていないものは「神籠石」と呼ばれている。「朝鮮 式山城」は、663 年の「白村江の戦い」に敗れた大和朝廷が 唐・新羅軍の侵攻に備えるため、亡命百済人の技術によって 造られたことが知られている。一方、「神籠石」は、文献に 記載されていないため築城経緯や目的など不明確な点が多い。

これら古代山城遺跡には大きく

2

つの特徴があるように思わ れる。第一の特徴として、土塁・石塁・列石・水門・城門な ど多くの遺構が外郭線部分に集中していることが挙げられる。

そのため、外郭線内部すなわち城内部分は未調査な遺跡が多 い。城内の礎石群が発見され、発掘調査もされている城もあ るが、大野城・鞠智城など数城にとどまっている。第二の特 徴として、古代山城の立地している地形が挙げられる。古代 山城は近世城郭をも上回る広大な面積を占有しているが、立 地している地形が山岳であるため、城内のほとんどが生活や 戦闘行為に不適切な山の傾斜面である。以上のことから、本 論では、城内の有効に使用できる平坦地を求めれば、今日ま で不明とされてきた城内部分の多少の解明や、今までとは違

う観点からこの遺跡の特徴づけを行えるのではないかと思い、

検討を行った。

 

27

個所ある古代

きる遺跡は、大廻小廻山城・鬼城山城・石城山城・城山城(香 川県)・永納山城・御所ヶ谷城・鹿毛馬城・大野城・金田城・

杷木城・高良山城・女山城・基肄城・帯隈山城・おつぼ山城 の計

15

城である。 

総面積と平坦地面積

積も大きく、また総面積が標準的であれば、平坦地面積も 標準的な範囲に収まる傾向があった。平坦地面積が総面積に 占める割合を見ると、多くの遺跡が

10%前後の位置に集中し

ていた。このことから、一定の面積を得るように山を囲繞す るという、 城が立地する具体的な地形の共通性がうかがえた。

外郭線と平坦地との関係では、多くの遺跡の数値が

10000

㎡ 付近に集中した。大野城や城山城などの大規模な城を除く一 般的な城は、 同程度の軍事的価値を持っていると考えられた。

平坦地面積と収容人員の推察平坦地面積からその城が収容で きる人員を見ると、大野城は

25200

人、城山城は

17800

人と かなりの人員を収容でき、少ない城でも

1000

人程度は収容で きると推定された。また、九州北部を中心に古代山城と兵士 数について検討すると、収容人員が兵士数を大幅に上回って おり、城内には兵士以外にも多数の人々が収容できたと考え られた。

  以上の考

除く古代山城の共通性や求心性である。このことはすなわち 古代山城は同時期に同一者(組織)によって同一目的のため に築城されたことを意味している。そして「

663

年以降に大 和朝廷が大陸からの侵攻軍に備えて築城した」という「朝鮮 式山城」の説明が古代山城全般にも当てはめられるのではな いかと考えた。

    木村 ふ 跡から、外周溝や 掘立柱建物が付随した竪穴住居が相次いで検出されている。

この掘立付随住居は、竪穴部分は単独で存在する竪穴住居と 変わらず、かまどのある壁の外側に掘立柱建物が、かまどの 無い壁の外側

3方をコの字形やU

字形の外周溝が囲むという のが一般的な形状である。

 本論文は、この外周溝と掘 ことを目的とする。

 まず、外周溝は地形

水溝であるという見方がほぼ定着しているが、ここで改めて 遺跡ごとに地形と外周溝の形状を確認し、機能を考察した。

その結果、傾斜の急な遺跡においては、低い所に位置する外 周溝のほうが高い所に位置するものよりもしっかりとした造 りになっていたため、排水的な機能を果たしていたのではな いかと判断した。一方、傾斜の緩やかな遺跡においては、必

−3−

参照

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