彫
刻の調査と研究経過
一、俊桑一房一軍狐の研究
俊乗一筋震源が東大寺の復興事業を位進するために
諸国で川聞いた仕事の数々は、彼の南加熱阿bw陀仏作普
彫刻の調夜と研究経過 終にきわめて掛川釧に古き叫附されていて、その実際をいまによくうかがうことができる。ただその中で、いまの阿山県に合まれている前中と備前の両国のことは、例えば作普集にも州中別所伶土堂古川川津宮神宮寺堂弁御似合庭瀬堂備前国常行堂図府大湯屋川護原庄豊光寺湯屋国中訪中守修造廿二一助とあるだけで、これ等がはたしてどこにあったものか、あまり明らかにされていなかった・しかしこの霊源研究においてはかなり早くから、山川中別所をいまの吉備郡真金町にある士口側律神社の附近にこれを舵定し、
また
備前常行堂をいまの御津郡一宮村の士口備体-F神社の境内にその逃祉をたしかめ、さらにまた伽前回府の大湯屋がいまの岡山市湯迫の浄土寺に該当するものであることをたしかめていた。しかしなおこの備中、備前両国のことにはまだまだわからないところがたくさんあるので、三十五年度においては主としてこの両国のことを調べてみた・その結果として、まず第一三官制津神社にある十一一聞の菩
美術工芸研究室
彫 刻
雌戸聞の中の八而は、いわゆる麟原和阪の古い体統をかなりよく伝えたものであるがやはり鎌倉初則頃の二十五菩際来迎而の一・端であることが批定され、したがってこれがおそらく霊源による制中別所浄土立に関する逃口川ではないかと倣察された。次の第二は、金山寺(問山市金山寺)にかなり数多く停っている古文部煩で、この中に辺久四年(一一九一二〉六月の金山寺住僧等解一通があり、これの袖舎に重狐自筆の外.地と花抑とがあることによって、この金山寺が震源による「(似前〉国中諸寺修造廿二所」の中の一寺であるミとが知られた・なお第三は、能満寺社〈総社市川派尾新山)の鉄ぬ笠で、二れは径六尺一寸余、高三尺五寸のきわめて大形なものであるばかりでなく、その恰好や造作が周防阿似陀寺の鉄湯釜にひじようによく似ていて、ニれがやはり車税ゆかりのものではないかということが考えられたわけである・これ等はたしかに虫淑研究に山口車な資料を加え得たものと信じて疑わない.二、興正諮問薩叡尊の研究興正銃同一降淑曲吋の研究も軍総研究と問機にその研究対象がひじように数多いので、その基際資料の調査だけにでもなかなかひまどるわけであるが、本三十主忽阪においてはほぼ次のようなホのか一調査した・
35
奈良同立文化財研究所年報
すなわちその第一は、制肌前叶の本拠西大寺の大m一…目〈立像で、この像は寺体(行実年掛川〉によると、建治二年(一二七六〉九月に仏師善春が叙尊の命によって造ったものと体えられているが、たしかにその綴式は古く、例のあまり肥満していない、すっきりとした形婆をした大地仰天で、作りもかなり手家的な、しかもきわめておだやかな手法をもって、かえって生彩の・ある表現をなしてレるものである‘なおこの像にはその品店内
ι
かなり多くの納入物があるらしいの 機会を見て、更によくそれ与の一必然法制聞を淵有したいと思っているのその第四は、三重県下の律宗関係寺院で、これには無量奔福寺をはじめとして宝厳寺、不動寺、銭恩寺、EK降寺、帥帥勝寺、徳月寺、金仙寺、削円山内寺、一州議寺等があるそこで本作度にはよの中で慨公布福寺(上野市下洲一いじと金仙寺(上野市比自岐)と悩警守
(鈴陀市玉応一町〉との納責をおニな
って、
多少の叡務関係史料を見山し た‘これも今後の測をに期待すると-」ろが大きしで、次の機会にそれ等を捌ますることができるように期待している。次の第二は、一χ興寺極楽坊の聖徳太子像で、よれば4の像の修却に際して、その一玖部内から王限のおさえい小その他に託された場担や二訟の小さな木造五輪第などが見出されて、e」れ等によってこの像が一一m、相肌前吋ゆかりのものである’」とがたしかめられた.その第三は
、小
第院(山知山良市凶新屋町〉で、この寺にばかつて文永十年(一二七三〉に叡尊の徒の良飢や性海などによって造られた消涼寺釈迦像などもあったが、いまは見るかげもなく絞れはてている・しかしこの寺
はな んといっても平安初期に説命僧正などの住した名制円であり、また小世に叡噂による真言律宗の教えをよく体えたところで、いまはほとんど知る人もないが、ここにかなり数多くの中世の在銘一わ広・裟が欣位されている,本年度はただそれ等の存在を確認した山制度に止めたが、今後
大!!日ミ{匁Ci国大寺〉
36
藤原彫刻の研究
藤原彫刻の研究は、昭和三十一年度以降の研究に
よって一まずその造立年次などがたしかめられる必
礎資什り調査を終ったので
、本
三十五年度におして
は主として和様の形成にもっとも大きな史探となっ たと魁われる奈良地方あるいはそれに近レ地域の勝
以前期の作例をとり上げてみた.すなわちお船守の
阿弥陀如来像をはじめとして、ムハ波間緋強オ吋本誌の楽 師如来像、一死興寺極楽坊本堂の阿跡陀如来像
、法
隆止寸誠九犯の薬師三羽像、薬師寺の文妹菩雌像、ぬげ陶叩羽ヰ寸の薬剤如米像、
山烈福寺の阪彫十二神将像等の如き
ものである・
これ等によって和総彫刻のもつね和な 柔味のある表現というものが、
隊式史的にいかに発問問してトったものであるとか、そんな隊六をつくり上げている而の構成二、
はたしてどんな造作を施し
ない?」の研究に連関するものとして、
が比三年(一一七一〉に仏削仏忍が造った湯川阿弥陀裳(奈良県凶古・肝HUの丈六本尊像や、いつ頃造られたものかわからなしものながら、鎌倉の名匠快段の手がけた正寿院(京都府宇治田原町〉の不動川王像等を訓食したe-)の小で快肢の不動明王像はその同印式手 法共にきわぬて脱酬寺の不動明王像によく似ていて、
,ア代者か同一作家の手に成ったものであることは、
だれに
でも
すぐにわかる・ことにその念悠形として
ぞやおと・なしすぎる表現ゃ、
写実を巧みにd』なした手法や、
紡織をきわめた政金彩色などは、
やはり快
・肢の特色をよく示したものといわなければならない
だろうeなおこの像,-1快療の直妓の銘はな
いが
、
その’一口仰に ぶ此木作者氏川弘陀仙川快雌之作山}
然出土司五大院同以之附御光弁恋々之 政令焼失掛川後人被修造之 一五星納UM山桜別行之々去年兇U1
・
J「刊当院内um炎上之-一ー:」,F’」1’ノιLIl--
叫御山佳品汁 火炎焼失」/~削則今年内U卯バ廿七日ボ修造之〉Hr立正三年円五月一一一日JT,&
法印権大僧都実済同十六浪 記者総少僧都公海二十九 市都高天大武好時三十七
ているかとか、そしてそんな造型をもとめた時代の感覚を、その願主なり作家なりがどうして陥ったかというような-」とを考えてみた守これにはいますぐにここで結論を山すわけにはいかないが、もうすF」し多くの額似作例の比較によって、かなり耐白い結
川叫がでるのではないかと期待しているa
山、鎌倉時代における院派仏師の研究
附
、、、針民随院智、院法院恵、院道 たように、主として現存作例のある作家すなわち院 当研究所にいロける院派仏附の研究は、前門」も述べ 目本彫刻作家研究一般
、院
信、運妙、悦修
、院
決、院階、院児、院玄、院命、定古川、抗巾也、民昔、覚件、院副問、・見務等について、これをおこなってきたのであるが、本年度においてはむしろ二れ与作家述の史料を縦究する-」とにつとめた・
小到Jゆ1王(象(IL�対l淀〉
彫刻の別査と研究経過
向IiHli
との盤苫修洲一婦があり、とにかくιれで-』の像を一応、快出血の作と州えるe』とができるそしてニの五一比三年(一四」ハニ)に二の火炎光背と悲丘二世とを補作したのが、南部一雨天(たかま〉俳一所の大瓜灯視であった-」とが知られるのも興味をひく・
丘、その他の調査研究
ー、笠土吋淵咋刊号包帯とは、いま竹林寺といい、奈良県桜井市笠にある古利で
、世
俗に銭荒神として知られている。この苛はかつて古く奈良川代に悠奇鷺楽院と呼ばれたもので、一次には東大寺の附山良介僧正の出生地とも郎えられている・この寺の本時は像高六μ八凶寸八分の一木造りの族的如米立像で、平安初則の彫刻としてかなり見るべきものであることは、すでに一部のものロ知られているこの」寸にまだすe」し法志すべき文化財があるので、山枚引山の裂請によって、それ等を一応調流した・そのよ{なる品目は次の泊りで 点りマQa 一、地球主両立像及納入’X山内一、板絵三宝荒神画像(原像l鎌倉氷カ〉一、阪絵三宝荒神磁像(元禄十年公俊開眼)一、興正法口隊叡同刷出て閲雌十五同十似て木版彩色不動明王画像(宝山楳海六十九歳
抑制一〉一、不動三尊凶像一、笠荒神鷺山宮山竹林中守米山記一巻(延京六年一
37
奈良国立文化財研究所年報頽運︶一︑古版木類なおこの寺の鎮守笠山神社の神像は︑興津彦神と興津姫神との一具像で︑これが享保十七年︵一七三二︶に清水隆慶によって造られたものであることが知られている︒2︑元性院調査
元性院 とは︑京都府宇治田原町奥山田にある無名
の小利であるが︑ここに藤原時代の年記がある大般若経を伝えてい
のもい りこれはまた他日くゆっと調ば査らななれなけをし 奥年︵一一八〇︶等のり書あっがあて︑かながものる ︶︑承四治︶︑九二︵一年︵応元嘉七一年︵安二二︵ 中一そのには永治二年︵一四二︶をはじめとして仁 を調請によってその一部た査したが︑しかに師の要 る と宏寿藤佐住職のそこ︑とでこの
3︑西吉野村調査 だ と思う︒
この調査は奈良県吉野郡西吉野付の教育委員会の要請によったもので︑同付内の立川渡辻堂︑正林寺︵川岸︶︑圖光寺︵陰地︶等の文化財を
初てとに本格的像であっな肖︑立もおそらく室町造 高二色︑像まこ尺六寸の造彩木れ︑こ像で坐人上は もの憲した︒この中で注は囘すべき調光寺の定専査 ご く単に簡
期を下るものではない と思われる︒したがってこの
像は真宗関係の肖像としてもっとも古 く︑またすぐれたものといわなければならないだろう︒︵小林 剛︶