• 検索結果がありません。

東北北部の竪穴住居に付随する 外周溝と掘立柱建 物の機能

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "東北北部の竪穴住居に付随する 外周溝と掘立柱建 物の機能"

Copied!
3
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

東北北部の竪穴住居に付随する 外周溝と掘立柱建 物の機能

著者 木村 ふさ子

雑誌名 金大考古

41

ページ 3‑4

発行年 2003‑05‑01

URL http://hdl.handle.net/2297/2912

(2)

4章では、彫刻骨とそれが出土した墓との関係と、3つの

「東山道武蔵路の側溝から見た工事区間」 

悠美   律令制による中央集権国家を目指した古代日

の駅路の例に漏れず、直線的な

東の上遺跡から南端の(仮称)尾崎ビルま

日本の古代山城について−城内平坦地面積からの一考察−」 

古代山城とは、近畿・瀬戸内・九州北部の各地に

山城遺跡の内、城内の平坦地面積を測定で

の比較では、総面積が大きいと平坦地

察から導き出される結論としては、一部の例外を

「東北北部の竪穴住居に付随する      外周溝と掘立柱建物の機能」 

さ子   近年、青森県と秋田県の平安時代の集落

立柱建物の機能を明らかにする 的に低い方へ開口していることから排 化の前後関係から彫刻骨の作成時期について考察を進めた。 

今回扱ったような骨製品は、頻繁には見られないがメソア リカに広く分布しているようである。本稿は、このように 骨に彫刻を施すという特徴ある遺物を手がかりに、経済活動 の一端を理解しようと試みたものである。 

 

川村 亜 本にとって、

中央と地方を繋ぐ道路網の整備は最重要課題であった。その 結果造られた駅路七道のひとつが東山道であり、東山道武蔵 路は、上野国と下野国の中間で東山道本道から分岐して武蔵 国府へと至る支道である。

 東山道武蔵路の側溝は、他

ものであった。しかし側溝間心々距離12mの直線道といわれ た東山道武蔵路の側溝も、詳細に調べていくとわずかに揺ら ぎが見られる。

 本論では北端の

でを計測し、側溝間心々距離の変化や側溝幅の変化の結果か ら、東山道武蔵路における工事区間を考察する。現時点にお いては側溝検出地点に偏りがあるため、結果としては武蔵国 分寺68次地点から府中74次地点までの一連の区間を確認で きただけであった。しかし、府中74次地点を含め、3箇所の 区間の切れ目と、1箇所の掘削時の目印と思われる土坑が見 つかった。

  菅 優也  点在する 代の城郭遺跡である。一般的に、『日本書紀』『続日本紀』

などの史書に記載されているものを「朝鮮式山城」と呼び、

記載されていないものは「神籠石」と呼ばれている。「朝鮮 式山城」は、663年の「白村江の戦い」に敗れた大和朝廷が 唐・新羅軍の侵攻に備えるため、亡命百済人の技術によって 造られたことが知られている。一方、「神籠石」は、文献に 記載されていないため築城経緯や目的など不明確な点が多い。

これら古代山城遺跡には大きく2つの特徴があるように思わ れる。第一の特徴として、土塁・石塁・列石・水門・城門な ど多くの遺構が外郭線部分に集中していることが挙げられる。

そのため、外郭線内部すなわち城内部分は未調査な遺跡が多 い。城内の礎石群が発見され、発掘調査もされている城もあ るが、大野城・鞠智城など数城にとどまっている。第二の特 徴として、古代山城の立地している地形が挙げられる。古代 山城は近世城郭をも上回る広大な面積を占有しているが、立 地している地形が山岳であるため、城内のほとんどが生活や 戦闘行為に不適切な山の傾斜面である。以上のことから、本 論では、城内の有効に使用できる平坦地を求めれば、今日ま で不明とされてきた城内部分の多少の解明や、今までとは違

う観点からこの遺跡の特徴づけを行えるのではないかと思い、

検討を行った。

 27個所ある古代

きる遺跡は、大廻小廻山城・鬼城山城・石城山城・城山城(香 川県)・永納山城・御所ヶ谷城・鹿毛馬城・大野城・金田城・

杷木城・高良山城・女山城・基肄城・帯隈山城・おつぼ山城 の計15城である。 

総面積と平坦地面積

積も大きく、また総面積が標準的であれば、平坦地面積も 標準的な範囲に収まる傾向があった。平坦地面積が総面積に 占める割合を見ると、多くの遺跡が10%前後の位置に集中し ていた。このことから、一定の面積を得るように山を囲繞す るという、城が立地する具体的な地形の共通性がうかがえた。

外郭線と平坦地との関係では、多くの遺跡の数値が10000 付近に集中した。大野城や城山城などの大規模な城を除く一 般的な城は、同程度の軍事的価値を持っていると考えられた。

平坦地面積と収容人員の推察平坦地面積からその城が収容で きる人員を見ると、大野城は25200人、城山城は17800人と かなりの人員を収容でき、少ない城でも1000人程度は収容で きると推定された。また、九州北部を中心に古代山城と兵士 数について検討すると、収容人員が兵士数を大幅に上回って おり、城内には兵士以外にも多数の人々が収容できたと考え られた。

  以上の考

除く古代山城の共通性や求心性である。このことはすなわち 古代山城は同時期に同一者(組織)によって同一目的のため に築城されたことを意味している。そして「663 年以降に大 和朝廷が大陸からの侵攻軍に備えて築城した」という「朝鮮 式山城」の説明が古代山城全般にも当てはめられるのではな いかと考えた。

    木村 ふ 跡から、外周溝や 掘立柱建物が付随した竪穴住居が相次いで検出されている。

この掘立付随住居は、竪穴部分は単独で存在する竪穴住居と 変わらず、かまどのある壁の外側に掘立柱建物が、かまどの 無い壁の外側3方をコの字形やU字形の外周溝が囲むという のが一般的な形状である。

 本論文は、この外周溝と掘 ことを目的とする。

 まず、外周溝は地形

水溝であるという見方がほぼ定着しているが、ここで改めて 遺跡ごとに地形と外周溝の形状を確認し、機能を考察した。

その結果、傾斜の急な遺跡においては、低い所に位置する外 周溝のほうが高い所に位置するものよりもしっかりとした造 りになっていたため、排水的な機能を果たしていたのではな いかと判断した。一方、傾斜の緩やかな遺跡においては、必

−3−

(3)

ずしも外周溝は低い方に向けて開口してはいなかったため、

排水溝とは異なる使われ方をしていたのではないかと考えた が、機能の特定には至らなかった。

 次に、掘立部分の機能を考察した。掘立部分からは遺物や

どのように使用されてい

「古代地中海世界のイルカ」 

坂本 豪士  イルカは、古代地中海世界に好んで美術作品に表

のイルカの

カは、神話の場面に描かれ、イル

てとらえられて

「カア=アブ=トレイハ西遺跡出土の台石について」 

 カア=アブ=トレイハ西遺跡(以下QATW

分析

構の台石の出土点数から、台石の使用方法を考

火の痕跡等の手がかりが出ていないために、依然として本格 的な研究はされていない状態である。そこで、本論文では① まず遺跡別に全住居における掘立付随率を明らかにした上で、

時代背景と照らし合わせて機能を想定し、②その想定を裏付 けるために、掘立付随率が高い遺跡と低い遺跡との、出土品 や検出遺構の比較を行った。その結果、①では掘立付随住居 が建てられた時期は津軽地方において安定した農業社会が営 まれた時期と重なることが判明し、掘立部分は農業に関する 遺構であったのではないかと推測することができた。②では 付随率の高い野尻遺跡では農耕関連遺構や農具が検出され、

付随率の低い山元遺跡では鍛冶関連遺構や大量の鉄製品が検 出されたことから、やはり掘立部分は農業に関連していたの ではないかという結論に至った。

農業に関した遺構として具体的に

かという点に関しては、地面から活動の痕跡が検出されな かったこと、外周溝が掘立部分まで届かず地面に水が浸入す る可能性のある遺構が検出されていること、勾配が急で地面 をそのまま床面として使うには不都合であろう遺跡からも掘 立部分が検出されたことから、高床式倉庫であった可能性を 想定したが、証拠が無いために決定することはできなかった。

現された 物である。イルカはギリシアの神々、特に水域の神々の眷 属であった。時代が下るにつれて、イルカはその形態を変化 させていった。特に、ヘレニズム時代から、ローマ時代にか けての形態の変化は著しく、とても実際の動物とは思えない 空想上の動物となる。それに伴い、イルカが表現された場面 にも変化が生じる。何故このようにイルカは形態を変化させ、

表現される場面にも変化が生じたのか、そして古代地中海世 界におけるイルカが、人々にとってどのような存在であった かについて述べていくのが本稿の目的である。

 そのために、アルカイック時代からローマ時代

作品を収集し、その作品を年代別に並べ、なおかつそのイル カの表現される場面を区別して図像分析を試みた。その結果、

時代ごとにイルカの形態が変化し、その表現される場面も変 化することがわかった。

アルカイック時代のイル

は、海の象徴であるというよりは、水域の神々の眷属とし て表現されていた。それは、イルカの形態にも現れている。

表現の仕方に、後の時代との技術の差が見られるが、実際に 生息しているイルカの生態的特徴を表した、写実的なイルカ である。クラシック時代に入り、イルカに様々な役割が与え られた。その1つが騎乗用動物としての役割である。これは、

この時代のイルカに関する伝承の影響が大きい。もう1つが 海の象徴である。ヘレニズム時代は、美術の構図が変化した 時代であり、表現の世俗化、人間化が行われた時代であった。

神話の場面が姿を消したことにより、水域の神々であること を示すために、イルカはよりいっそう海の象徴という役割を 強めていった。そのために、自らの体の形態を変化させ、海 を象徴する空想化した生物へと変化していく過渡期でもある。

ローマ時代とは、ヘレニズムの伝統を受け継ぎ、神話の場面 がほとんど表現されなくなった背景により、イルカを完全に 海を象徴する空想化した動物へと変化させた時代であった。

このようにイルカは大別して、クラシック以前の写実的な ルカと、ヘレニズム以降の空想的なイルカに分けられる。

その変化の理由として、美術表現の変化、つまり構図の変化 が第1の要因として挙げられる。そして第2に、イルカの伝 承、神話の影響が挙げられる。そしてイルカは、海の神の眷 属という役割を離れ、海の象徴となった。

本稿では、単なる神の眷属、海の象徴とし

たイルカが、どのようにその役割を担ったかについて、論 じることができた。そして、西欧諸国がイルカに対して特別 な思い入れがある背景は、ローマ時代に完成した空想化した イルカが、その根底にあるからであろう。

  田中 範裕 

)は、ヨルダン 南部のジャフル盆地に位置する初期遊牧民遺跡である。この 遺跡には、後期新石器時代にあたる第4層の遺構と、前期青 銅器時代にあたり、板状スクレイパーの製作が確認されてい る第3層の円形遺構が存在する。また、第3層からは、石灰 岩製の台石も報告されているが、これまでの研究では台石自 体の研究は行われていない。従って、本稿では、台石製作方 法をはじめとして、QATWの各遺構の板状スクレイパーとの 関係や台石の使用方法を明らかにすることを試みた。

 台石の作業面の大きさや形状、台石の高さについての の結果、台石の作用面および高さにおける規格性の存在が明 らかとなった。その結果、QATWにおける台石製作方法を明 らかにすることができた。遺跡全体の台石の高さの規格性は、

原石を調達する際の意図的な露頭の選択を表しており、台石 の形状は、作業面を円形に近づけようとする成形の意図を表 している。

 また、各遺

察した。その結果、台石がこれまでいわれてきたような板状 スクレイパーの素材分割の際の作業台ではなく、板状スクレ イパーの二次調整の際の作業台であることが示唆された。

更に、分析の結果、台石製作技術の盛衰と板状スクレイパ の盛衰はおおむね一致していることが判明した。また、都 市の盛衰は、板状スクレイパーの盛衰に大きく影響していた。

従って、都市の盛衰は、板状スクレイパーを通じて台石製作 技術にも影響を与えていたといえる。つまり、台石製作技術

−4−

参照

関連したドキュメント

2001年度目本オペレーションズ■リサーチ学会 秋季研究発表会 2−F−1 複数の組織を収容する建物における交通路と居住面積分布 01303730 中央大学 田口 東 TAGUCHIAZUMA

2.方   法  ⑴ 対象者および調査時期  対象者は,東京都内 T 大学管理栄養士・栄養士養成課 程 3 年次学生 165 名で,平成 23 年

7 (3) 所得の合算 次のような場合は、所得を合算して計算してください。

世帯の条件があると考えられる。これをもとに 15 項目 の周辺環境を設定した。表-4 に示す。外出先は子育て 支援だけでなく公園や商業施設が多い

出しました。 この溝が朱雀大路西側溝とみられ、こ れまでの調査区で確認された西側溝の規模とほぼ

終末、奈良、平安、中世に区分するが、判明している場合は土器 型式と切り合いによる新旧も記す)

2–2 事例研究その2 弥生時代・古墳時代以降の住居の事例

した。4245,4250 14 C BP を測った試料は測定誤差を考えれば,柱穴出土の試料(Pit6 出土試料は 4170 14