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中村嘉男

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『恋する女たち』または

『精神性の女たち』(その1)

中村嘉男

Women in Love or in Spirituality (Part 1)

YOSHIO NAKAMURA

I序

The RainbowやWomen in Loveを書き進めていた頃のロレンスが,同時にトマス・ハ‑

li

ディ論にも手をつけていたことは,よく知られている通りである.にもかかわらず, ̀Women in Love'におけるLoveの意味を,ロレンスがハ‑ディ論で使った特殊な意味によって理 解しようとした論文は,今日まであまり見られなかったように患われる.当然のことながら,

̀Women in Love'を単に「恋する女たち」と解釈するだけでは,その小説において支配的 な末位的雰囲気をとうてい説明することはできない. Loveはいわゆる「男女の愛」という意 味のほかに,ハ‑ディ論で与えられた特殊な意味をもっているのではあるまいか.

ロレンスがバーディ論でLoveという言葉に与えた意味は簡単には説明できない.が,ここ では次の点を理解しておけばよいように思われる.すなわち,バーディ論におけるLoveは, Lawと調和することによって初めて充全なものになりうるのであり,それ自体では,われわ れがふつうLoveという言葉で思いうかべる充溢性,完全性をもたないということである.

bodyとかsensualityの意味を一部もったLawに対して,それと調和するLoveの意味 はspiritとかspiritualityであり,同じ愛という言葉であらわされても,肉体性の豊かなも

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のはLawに,精神性の勝ったものはLoveに属するのである.

̀Women in LoveにおけるLoveを,このような一面的な意味で理解しなければならな い理由は,あまりにも明白であろう.充全な変の門口にやっと辿りつけるように思われる女性 は,物語の後半におけるア‑シュラただ一人であるのに対して,精神の過剰とその破壊性に苦 しめられ,愛に絶望したり失敗したりする女性は,物語の前半におけるア‑シュラを初め,グ ドル‑ンやハ‑マイア二といった女性の主要人物をすべて含んでいるからである.小説の題名 が̀A Woman in Love'ではなく̀WomeninLove'となっている限りLoveは愛より

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もむしろ精神性を意味していると考えた方が,その小説の内容に即した捉え万ではあるまいか.

もちろん,過剰な精神の破壊性に苦しむ人物は,女性に限らない.バーキンやジェラルドも また,高度に発達した知的意識をもちながら,あるいはそのゆえに,存在の充全性にいたるこ

とのできない苦しみを味わっている.それではなぜ特別に女性だけが̀in Love'となってい るのか.

その理由の一つは,やはりバーディ論において明らかにされていると考えられる.ハ‑ディ 論によれば, 「其の男性」は,自らの女性的要素である「肉体」・ 「法」になんの注意も払わな

いのである.彼が精神によってたえず肉体から離れていこうとするのは,いわば彼の本性なの

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ど.従って̀Men inLove'というのは,男性の本性的な姿をあらわしているだけで,おもし ろくもなんともない題名になってしまうのである.

しかるに, ̀Women in Love'というのは,もともと豊かな肉体性が支配的であることによ って,精神性の勝った男性と調和できるはずの女性がLoveすなわち精神性の状態にあるこ とを示していて,興味ある小説の題名になりえているのだ.女性がその本性に反する状態にい るということは,彼女がLaw対Love, body対spiritといった相対立するものの調和の 中にあることを意味しているのではなく,逆に,肉体性に満たされているはずの女性が,自分 の本来の姿を見失って精神性に捉われていることをあらわしており,危機的な現代の状況を適 確にえぐった表現となっているのである.

̀Women in Love'という題名をこのような意味で考えたときに,初めてそれはその小説の 内容と調和するものとなる.その小説は, F・カ‑モウドの指摘した通り,西洋文明の終末的な

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様相にかかわっており,精神文明たるその文明の中で,女性はその毒に体を侵されながら,そ の毒の使用を通して新しい肉体を獲得していく以夕恒こ,進むべき方向をもたないのだ.もちろ ん,精神によって肉体を離れながら,新しい肉体,新しい存在にいたることによってしか自己 の充全性をえることのできない男性もまた,この女性と向かう方向を同じくするものである.

作者ロレンスの思憩を一部代弁しているWomen in Loveの主要人物の一人バ‑キンの考える 通り, 「現代には,過去の古い肉体を破って外に逃げようとする慎重な知的操作なしに,いか

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なる新しい行動もありえない」のだ.

断るまでもなく, 「慎重な知的操作」を通して「新しい肉体」にいたろうとする努力は,ロ レンスのほとんどの作品につらぬかれているものである.が,特にThe RainbowからWomen in Loveにかけてその努力は顕著であると言える.ロレンスの思憩は, 「知的操作」とか「精 神性」に対して否定的であると,しばしば考えられてきた.たしかにその通りかもしれない.

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しかしたとえば「肉体はよいものであり,精神は堕落している」といった単純きわまりない図 式で,彼の全作品が理解できると考えるなら,大変な誤ちを犯すことになるだろう. 「知的操 作」をまったく知らない人がどれほど狭く閉された人生を送らなければならないかを,ロレン スは知りすぎるほど知っていた. 「知的操作」を経ることによってしか「新しい肉体」にいた

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『恋する女たち』または『精神性の女たち』 (その1) 67

ることはできないという考えは, TheRainbowからWomen inLoveにかけて,重要なテ‑

マを構成しているとさえ言いうるのである.これら二つの小説の両方に主要人物として登場す るアーシュラは,健全な肉体性を最も豊かに保持していると考えられるのに,強靭な知性を一 杯に用いて「新しい肉体」を獲得しようとしているのだ.

Women in Loveを今まで述べてきたように, Loveの側面から,すなわち「知的意識」あ るいはそれより広義の「精神性」の側面から捉えようとしたとき,さらにわれわれはその小説 のもっているもっと重要な特徴に気付く.それは, Loveないし「精神性」という元素に各登 場人物の考えとか行動を分解したとき,その一つ一つがどの人物のものであったかということ がほとんど意味をなさなくなってくるということだ.ア‑シュラのダイヤモンドのような精神 の動きも,グドル‑ンのすすのようなそれも,等しく炭素という元素に分解されてしまえば, いずれも人間精神の普遍的な在り方として,われわれの生き方に根底からかかわってくるので ある.このことに関してロレンスは,有名な手紙で次のように述べている.

You mustn't look in my novel for the old stable ego of the character.

There is another ego, according to whose action the individual is unrecognizable, and passes through as it were, allotropic states which it needs a deeper sense than any other we've been used to exercise, to discover are states of the same single radically unchanged element.

(Like as diamond and coal are the same pure single element of carbon.

The ordinary novel would trace the history of the diamond but I say>

ODiamond, what! This is carbon." And my diamond might be coal or

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soot, and my theme is carbon.)

womeninLoveを読み進んでいくとき,われわれは,ア‑シュラとグドル‑ン,バーキンと ジェラルドといったふうに,対照的に提示された個人の違いにまず最初注目せざるをえない.

が,上に引用した手紙の趣旨に従うなら,そのような読み方では「人物の陳腐な固定された自 我」が認識されるだけで,その小説の実体は捉えられないことになるのだ.小説の核心に迫る ためには,各登場人物の個人的な差の根底に共通して見られる「不変の元素」にまで各々を分 解することによって彼らの根源的同一性を明らかにしなければならないのである.恐らくそう した操作を通して初めて読者はWomen in Loveが抱えこんでいる問題の全体を自分自身の

ものとして認識できるようになるであろう.

ところが,この「同素体的状態」という言葉に関連して多くの評者はWomen inLoveの 登場人物を解体させるのではなく逆に固定してしまい,その上でそれらを大きく二つに分けて 捉えている.すなわち,どちらかというと肯定的に描かれているバ‑キンやア‑シュラに対し てジュラルド,グドル‑ン,ラ‑クそれにハ‑マイア二といった否定的人物群がいると考えて

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いる.あるいはE ・ヴィ‑ヴァスのように,バーキン的な人物としてWhite Peacockとか Lady Chatterley's Loverの森番を,また「ジェラルド的なタイプの人」としてThe Rainbow のトム・ブラングイン二世とかLadyChatterleysLoverのクリフォード・チャタレイなどを

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挙げる批評家もいる.このように小説の登場人物を二分するやり方は,今日までしばしばおこ なわれてきたものである.が,それだけでは前にも述べたように, 「陳腐な固定された自我」

が明らかになるだけであり,小説の表層的な意味しか理解できないのだ.

「同素体的」人物をこのように一様に近代的意識に毒された人物に限定するとき,あるいは 逆に生命力に満ちた人物に限るとき,われわれはロレンスが例としてあげた「炭素の同素体」

(たとえばダイヤモンドとすす)のあいだの大きく異なった特徴と矛盾するものをそこに感じ るのである.ジェラルドとグドル‑ンのあいだに,あるいはバ‑キンとア‑シュラのあいだに, ダイヤモンドとすすほどの外観も性質も格段に違うところが認められるであろうか.同素体的 人物とはむしろジェラルド・グドル‑ンの組とバ‑キン・ア‑シュラの組を共に合わせたすべ ての登場人物を含んでいるのではないだろうか.

ジェラルドやグドル‑ンなどどちらかというと否定的に提示されている人物だけを同素体と して考えるなら,バ‑キンやア‑シュラは別の元素の同素体として捉えなければならなくなる.

しかし,ジェラルドとバ‑キン,あるいはグドル‑ンとアーシュラがいくら対照的に描かれて いるにせよ,彼らが別々の元素から成り立っているとはとうてい考えられないのである.まち がいなく彼らは,すべて等しく人間性という同一元素からつくられている.恐らくこうした観 点に固執しない限りWomen in Loveが抱えこんでいる問題を真に自分自身のものにするこ

とはできないのではあるまいか.たしかにジェラルドやグドル‑ンはやや否定的に,バ‑キン やアーシュラは肯定的に措かれていることは否めない.しかしこのように登場人物を二分する 方向で論じた場合,ジェラルド的な人物はどうしてもわれわれの心から切り離されてしまうの ど.たとえば, F・Rリ‑ヴィスはジェラルドに深い理解を示し,その人物像を見事に分析

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してみせながら,彼の「心の病弊の診断が一つの文明の病弊の診断となりうる」とか,ア〜シ ュラとバ‑キンが「将来自分の場所をえるであろう‑社会は,ジェラルドという形でいま診

M,

断を下された文明を代表するものである」と述べている.つまりジェラルドは,現代「社会」

という形で「代表」される「文明」なのであって,リ‑ヴィスが共感を寄せるバーキンやア‑

シュラの「外」に存在するものなのである.ジュラルドはバ‑キンにとって「愛情をもって気

ll)

にかけてやる友達だ」とリーグィスは言うが,それはそのままリ‑ヴィスのジェラルドに対す る態度なのだ. 「友達」とはすなわち「愛情をもって気にかけてやる」あるいは「気にかけて」

くれるところの「他人」にはかならないのである.

ジェラルドやグドル‑ンをバ‑キンやア‑シュラたちから引き離すことによって前者のグル ープの存在意義をわれわれ自身の心からも引き離してしまう危険性は,リ‑ヴィスほどの批評 家にも内在している.ジェラルドやグドル‑ンを一人の固定した̀character'として論じる限

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り,このような危険性はつねにつきまとうと言えるだろう.しかしながら,先に引用したロレ ンスの手紙にもあったように,固定された人物の自我ではなく「別の自我」,すなわち「人物

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に先行する根源的な力」としての自我をFfjOにしてWomen in Loveを論じるなら,そのよう な危険性を避けることができるかもしれないのである.ジェラルドを例にとるなら,彼を「文 明」とか現代社会として外から捉えるだけでなく,内側から彼の意識の動きを追いつつ,それ をあらゆる人が根源にもっている力の一つのあらわれと見るのだ.彼の場合はそのあらわれ方 があまりよくない形に固定されて自由を失っているため批判されやすいが,実は,その源とな っているものは,ロレンスの主張に従えばあらゆる人が内にもっている神経中枢の一つにほか ならないのである.

前置きがすっかり長くなってしまったが,私はこの小論においてWomen in Loveの主要 人物をグドル‑ンを中心に̀spirituality (精神性)という元素にまでしばしば還元しながら

論じてみたいと思う.精神性は,人間性を構成する主要元素なのにかつてなく混迷しており, 今日ほどそのあるべき姿が探し求められたことはなかった.その否定的様態はわれわれの内と まわりのいたる所で見られるのに,われわれはそれに対してほとんど無自覚ですらある.この 無自覚を自覚に変える以外に精神性のあるべき姿を兄い出すことはできないだろう.あるいは, Women in Loveの世界をおおいつくしているかに見える精神性の否定的様態を詳しく観察す

ることなしに,精神性に対する横極的なヴィジョンを切り開いていくことはできないだろう.

もとより,この精神性を先に述べた「人物に先行する根源的な力」の一つとして捉えるため には,それをロレンスがFantasia of the Unconsciousで述べていた「意志中枢」と関連づけ

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て論じなければならない. 「ジェラルドとは‑われわれのことなのだ」というM・ショ‑ラ‑

の言葉通りに主要人物の存在意義をわれわれの心に深くとりこむためには,これ以外に方法は ないように思われるのである.次章ではこの立場をふまえて,なぜグドル‑ンを中心にもって

くるかをもう少し詳しく述べてみたい.

I 「精神性の女たち」の典型としてのグドルーン

̀Women in Love'すなわち「精神性に捉われた女たち」とは,具体的には,アーシュラや グドルーンやバーマイアこといった女性の主要人物をすべて含んでいる.彼女たちと異なり精 神性に侵されていないように見える女性はWomen in Loveではほんの脇役をつとめるにす ぎない.たとえばジェラルドの妹ロ‑ラは,第一章で海軍の軍人と結婚式を挙げるだけであと は物語に登場しない.彼女はためらうことなく現実の男性を受け入れ,結婚生活という現実に なんの矛盾も感じないで入ってゆける女性の一人であるように思われる.この津の女性の魅力 は一様に軽んずることはできないかもしれないが,終末的な状況の中にあってさえなお「古い 肉体」に依存することしか知らないとすれば, 「精神の時代」の終末を越えて新しい「聖霊の

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時代」を創造しようとする人々の群れに加わることはできないのである.

ロレンスの関心は,この種の平凡な女性よりも,近代的な知性によって「古い肉体」を離れ ざるをえなくなった女性の万にあった.本来なら肉体性の中で豊かに安らいながら現実をその まま受け入れることによって自らの存在をまっとうできた女性が,現代では存在を否定する精 神の毒をもろに受けて,一度は「肉体」を放乗せざるをえないのである.たとえ女性でも現代 ではその過程を経ないかぎり,存在の充全性に近づくことはできないのだ.

周知のごとく,アーシュラとグドル‑ンは,ジェラルドの妹ロ‑ラがなんの疑問ももたない で受け入れた旧態依然たる「結婚」という「肉体」または「法」に対して,最初から懐疑的で あった.彼女たちは,男性との生活そのものを拒絶しているわけではなく,むしろその豊かな 可能性の実現を希求しているのだが,昔ながらの結婚という制度が男女を家という狭い艦に閉 じこめて二人の経験を「終結」させてしまいがらな現実に対しては否定的にならざるをえない のである.新しい肉体,新しい法としての結婚は,男女を日常的な世界から解放して限りない 人生の可能性を実現させていかねばならない.だが現実は,古い肉体,法に捉われて,結婚し たほとんどの男女は身動きがとれない有様なのだ.

このような現実をア‑シュラとグドル‑ンは徹底して否定する.しかしよく言われるように 彼女たちは姉妹でありながらそれぞれ対照的な性格の持主として措かれており,現実に対する 二人の否定の仕方は,同じように見えて実は深いところでかなり異なっているのである.この 違いはWomen in Loveと密接な関連をもっているFantasia of the Unconsciousを読めば 一層はっきりしてくる.姉妹の否定の仕方の違いをわかりやすく説明するためにその本にでて くる用語を借用させてもらえば,ア‑シュラの拒絶は下部の「腰椎神経節」から生じてくるよ うに思われるのに対して,グドルーンのそれは上部の「胸部神経節」から発している.と考えら れるのだ.ロレンスによれば,独立・意思中枢たる「腰椎神経節」によって人は, 「自身の存 在の孤独的同一性,さらにそれをとりまくものに対する己れの権力を主張する」のであり,そ の中枢は幼児の「我値」, 「己れの孤我なる存在に対する幼さものの全き喜び‑‑幼児期の驚く べきいたずら‑‑母親の愛に対する票Ij軽な噸弄‑・‑痛旗や憤怒の発作」など「自ずと閃き発す

る‑・‑いっさいの意思系統及び独立的存在に対する誇りと喜びの精神」の源なのである.これ に比べて上層の「胸部神経節」は,同じ独立・意思中枢ではあるが,その働き方はさらに冷た く意志的なものになる.たとえば幼児が「喜びに夢中になってものをうち砕くとき」,その衝 動は下部中枢たる「腰椎神経節」から発するが,破壊の欲望が上部中枢たる「胸部神経節」か

ら生じるときには, 「掴めるものは何でも掴んで下に落してしまうようなことを」して,その 行為はより周到・冷淡なものになるのだ.つまり同じように拒絶・否定・怒り・軽蔑という言 葉で表現されても, 「腰椎神経節」から生じる場合は体の底から湧き出るような肉体性が感じ

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られるが, 「胸部神経節」から発する場合は冷たく突き離すようなものになるのである. Women in Loveを通して読めばすぐにわかることなのだが,ア‑シュラの怒りは少々激しくなっても,

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『恋する女たち』または『精神性の女たち』 (その1 ) 71

なぜか体の奥から伝わってくるようなあたたかさを失わない.それに対してグドルーンの怒り は,激してくるとまきに殺人的な冷たさ,鋭さを帯びるようになる.それゆえ,女性の主要人 物のうち最も精神性の強いのは,グドルーンということになるかもしれない.グドル‑ンは, 体と頭の働きが切り離されてしまっていていかにも脆弱な感じを与えるハ‑マイア二とは異な

り,体から発する意識を適確に表現できる強靭な知性をもっている.この点では彼女の姉ア〜

シュラも同じだが,グドル←ンの場合,肉体的意識は上部より発していて,その精神性は姉の ものよりずっと強くなっているのである.(ロレンスは同じ肉体から発した意識でも上部の「胸

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部神経節」からのものは̀spiritual'であると言っているので, 「精神性」という言葉はその 中に肉体的意識の一部を含んだかなり広い意味で使われている。)

従ってこの小論では, 「精神性」に最も強く捉われているグドル‑ンを中心にしてWomen in Loveを論じてみたい.グドル‑ンを中心に据えてみたとき,彼女がほとんどあらゆる主要 人物と密接なつながりをもっていることがすぐに明らかになる.彼女は,ア‑シュラの妹であ り,バーキンやラ‑クとは同じ芸術家同士,さらにジェラルドとは愛人関係をもつようになる.

これに対してア‑シュラを中心にもってきた場合,ジェラルドとの関係が弱くなるし,バ‑キ ンの場合も同様である.バ‑キンはジェラルドの最も親しい友人であったが,残念なことに彼 らの関係は十分に深められないままで終ってしまったのだ.しかるにグドルーンは,たとえマ イナスの方向であったにせよ,ジェラルドとの関係を文字通り彼の死にいたるまで徹底的に発 展させていったのである.精神文明たる西洋文明にほとんど無意識のまま流されて生きたため に,その文明の特徴を最も忠実に反映する者となったジェラルドと誰よりも深く付き合ったグ ドル‑ンの宿命は,西洋文明の流れにまきこまれて嫌でもそれにかかわっていかねばならない われわれの宿命と重なり合う部分が多い.彼女の生き方を物語の最後まで見極めようとする努 力なくして彼女を越えることはできないし,必然的にわれわれ自身の宿命を乗り越えていくこ

ともできないであろう.

Ⅱ根源に対する不信と信瀬:グドル‑ンとア‑シュラ またはジラルドとバーキン

妹姉とはいえグドルーンとア‑シュラが決定的に異なっていると思われやすいのは,一つに は,彼女たちの本能に対する見方がまったく逆になっているからであろう.一口で言えば,グ ドル‑ンは性感説の立場を,ア‑シュラは性善説の立場を,それぞれ無意識のうちにとってい る.そしてグドル‑ンの感じ万,考え方はジェラルドのそれに,ア‑シュラのものはバーキン のそれに一致するため,二人の男性の大きく異なった特徴が彼女たち姉妹の違いをますます際 立たせるように患われるのだ.だが序論でも述べたように,彼女たちの根深い異質性は,さら に根源的なところで彼女たちの同根性に通じているということに,第‑に注目しなければなら

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ないのである.もちろん,この間根性は彼女たちの恋人となるジェラルドとバーキンのあいだ にも観察される.彼女たちの同根性を明らかにする前に,まずジェラルドとバーキンの異質性

と同根性をここで見てみよう.

衝動約・本能的な行動に対するジェラルドとバーキンの捉え万の違いはすでに第二章におい て明らかにされている.その事においてジェラルドは,妹のロ‑ラが花嫁の慎しみを忘れ,敬 会の前で花婿ラブトンを挑発するように衝動的に駆けだした行為に対して,内心にがにがしく 思っていた.だがバーキンはこのことについて,それは「完全にみごとな姿だった.みごとな 姿の傑作といっていいほどだった.世の中に自分の衝動でただちに行動することぐらいむつか

しいものはない‑しかもそれが唯一の真に紳士的な行動なのだ」と言う.ジェラルドはただ ちにこれに反対して, 「ぼくはきみの言うような個人的に天真欄漫に行動する人びとの世界に いることを願いとすべきではないと思う.そんなところにいたら,五分以内にみんなおたがい

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にのどを刺し合うことになるだろう」と述べる.彼は, 「誰だって自分ののどを刺されたいとは 思わない」のに, 「他の連中はたいていわれわれののどを刺したがっている」と考えているの

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である.バーキンの言うように,これは「邪悪なものの見方」であるに違いない.なぜジェラ ルドは, 「刺されたくない」という自分の気持から出発して, 「刺したくもない」という方向に 心が動かないのだろうか.自分の根源にあるものをそのまま受け入れることによって,他人の それも信頼するという方向に向えないのだろうか.

ジェラルドは,誰の目にも明らかなように,自分の根源に自信をもつことができないでいる.

幼い頃,恐らく「無意識的な意志」によって弟を鉄砲で殺して以来,彼はただ知的意識を働か せ続けることによって無意識的願望をつねに黙殺できるように,己れの生を統御していかねば ならなかった.弟殺しという宿命から逃れるためには,知的意識の持続的な活用による根源の 否定しかないように彼には思われたのだ.この上部意識の一部の活用を通して彼は社会的に大

きな成功をおさめることになる.が,そのあいだずっと無視され否定されつづけた彼の根源, 弟を殺した根源は,それでおとなしくなるどころか,最終的には彼に恐ろしい復讐をするので ある.うわべはきちんと保たれている彼の生につねにつきまとっていたある「おさえられない

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あぶなっかしさ」を生みだしている根源に対抗するには,知的意識のような脆弱な力ではどう にもならなかったのだ.その根源に太刀打できるのは,別の根源からの十分に解放された意識 だけなのである.

ジェラルドのこのカインの末南としての運命は,断るまでもなく,決して個人的なものでは ありえない.それは, 「精神」によって「肉体」を抑圧し,知的意識を可能な限り発達させて きた西洋文明の運命そのものに似かよっているのだ.その文明の中で人は,無意識的な欲望を 幼い頃より習慣的に抑圧されつづけ,ついには自らの根源から意識し行動をおこすことを忘れ はて,ただ知的意識すなわち狭義の精神性に縛られて生きることだけが人生であるかのような 生を強いられてきたのである.

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『恋する女たちJlまたはF精神性の女たち』 (その1) 73

もちろん,文明の柵になってしまった知的意識から逃れ,本来の自分をとり戻そうとしてい る人が,わずかながらいないわけではない.ジェラルドの親友バ‑キンもその一人にはかなら ない.だが,そのバーキンでさえカインの末南としての宿命を免れることはできなかった.彼

もまた精神性優位の文明の中にあって,その毒をもろに受けてきたものの一人にすぎなかった のだ.彼は西洋文明の未来になんの見通しももてず,祝学官としての自分の仕事にただ空しさ を覚えるのみで,精神的に深く病んだ日々を送っていた.加えてハ‑マイア二との長びいた交 際は,その過剰な精神性のため彼を心身共に一層疲れさせるだけであっtz. Women in Love の物語が始まる前の, ̀Prologue to Women in Loveにおけるバ‑キンは,ハ‑マイアこと

の精神的な付き合いに毒され,どうしても彼女を肉体的に欲することができないのに男性(負 体的にはジェラルド)には不思議なほどひかれてしまうといった終末的な泥沼状態に落ちこん

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で身動きがとれない有様だったのだ.

ハ‑マイア二との関係は,乳礫がだんだんひどくなり,ついに彼女が彼の頭を悌惚状態のう ちに文鎮で殴りつけたときに事実上終るのだが,その結末はちょうどジェラルドがグドル‑ン を最後のあたりで強い快感を覚えながら絞め殺そうとしたのに似ている.両方とも加害者であ るハ‑マイア二とジェラルドがそれぞれの被害者バーキン,グドル‑ンに精神的に追いつめら れてとった行動であり,加害者が被害者,被害者が加害者であるという点で本質的に類似して いるのである.害を加える者が同時に害をうける者でもあるということ,すなわちバーキンや グドール‑ンが精神的な乳鞍の果てに追いつめようとしたのは自分たち自身の宿命にはかなら なかったということは,彼らがいずれも精神文明の犠牲者であることを示している.バーキン とグドル‑ンはかなり自覚的であり,ジェラルドとハ‑マイア二はほとんど無自覚であるとい う違いはあっても,彼らはそれぞれ精神的な時代の犠牲者としての自分たちの宿命にひきずり まわされて苦闘しているのだ.

同じ犠牲者同士なのになぜバーキンが,バーマイア二よりジェラルドにひかれていったかに ついては,さまざまな理由が考えられる.まず第‑に,旧家の出身であり兄は国会議員をして いるバーマイアニと,成功した炭坑経営者のジェラルドは,共にイギリス社会を代表する人々 の一員であるように見えて,実は,西洋文明の将来がかかっているのは,ハ‑マイア二ではな

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くジュラルドの万なのである.ハ←マイア二はその家柄のよさだけで「文化の擁護者」たるポ ーズをとっているが,そこにはそれを裏付ける根拠が全然見られないのだ.精神と肉体の働き が切り離されている彼女の行動は当然それ白身の拠り所をもたず,彼女がときに「自分のする

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ことに責任がないとでもいうよう」な「発作的な狂気」を見せるのもまったく自然な成行なの である.しかるにジェラルドの場合,その「あぶなっかしさ」はバーマイアこのものとは異な り,まさにわれわれの文明そのものの「あぶなっかしさ」の具体的なあらわれの一つなのだ.

西洋文明が実らせた最も豊かな果実である自然科学の成果を次々と取り入れ産業を休みなく発 展させていくジェラルドはその文明の最も忠実な後継者であり,肉体不信から生じる不安にせ

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きたてられるように働きつづける彼の運命は,われわれの運命と重なり合うのであって,バー キンも彼の「あぶなっかしさ」には「親友」としてばかりでなく,わがこととしても心を痛め ないではおれないのである.

ジェラルドとバーキンは,意識的な立場はたとえ正反対であっても,無意識的には互いに親 しみを感じていた.彼らは, 「衝動的な行動」に関して共に相入れることのない考えを述べた あとで, 「ひじょうに変に近い‑‑‑奇妙な敵意」を覚えるのだ. 「話しをすればいつも彼らは接

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近しすぎて,得体の知れぬ,嫌意か愛か,あるいはその両方である危険な近親感をもつ」ので あった.彼らの考えは,どれほど激しく対立しているように見えても,実は,両方とも同じ一 つの体から生まれてくる根源的な意識のそれぞれのあらわれにすぎないのである.ジェラルド の性感説もバーキンの性善説も,互いにとうてい相入れないものの考え方のように見えて,つ まるところ,われわれがみんな共通してもっている根源的な意識の異なった表現にはかならな いのだ.従ってわれわれは,性感説に成程と賛成しながら,性善説にも共鳴できるというわけ である.

性感説を生む根源中枢は,前にも少し触れたことのある上部の独立・意思中枢たる「胸部神 経節」である.ロレンスの言う四つの根源中枢のうち,われわれ西洋文明の流れの中で育った

ものにとって,一番発達しているのがこの「胸部神経節」にはかならない.この中枢は,他の 中枢との調和がとれているときには, 「より生に即した活動の中枢」となり, 「飽くことを知ら ない真の好奇心,物事を分析せんとする善ばしき欲望,それを再び総合せんとする欲望, F発

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見』の欲望,発明の欲望,などの中枢」となるのである.西洋文明はまさにその中枢のめざま しい働きで発達してきたに違いない.だが残念なことに,西洋文明の流れは同時にまた2千年 もの長きにわたってその中枢だけを特に重視してきたのだ.必然的に各中枢間の調和はこわれ,

「胸部神経節」はその働きの邪恋な面をあらわすようになる.それはロレンスが「精神的な意 志の過剰な表現」と呼んでいるものであり,たとえば「母親の愛と注意」を自分にひきつけて おこうとして泣き叫ぶ子供の「強制の‑形式」がそれである.それは「ただ猛烈に泣喚く場合 の」,すなわち下部の「腰椎神経節」から発する場合の強制とは「全く事情を異にする」ので

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あり,「共感の周到な強要」をしたり「悲しげにないし愛情ありげに見せながら同時に愛を疎欄」

したりするその意志的な動作は,普通われわれの我慢できないものなのである. Women in Loveにおいてもこの「精神的意志の過剰な表現」はさまざまな形をとっていたるところで跳 梁しているのが観察される.牛の前で踊るグドルーン,文鎮でバーキンの頭を殴りつけるバー マイア二などいずれも惑しき精神性の最も不気味なあらわれにはかならない.程度の差こそあ れこの種の精神性にほかの主要人物もみんな侵されており,互いに相手を苦しめたり相手から 苦しめられたりしているのだ.

このような状況下にあってバ‑キンは,根源‑の不信に傾くジェラルドのJbの動きが痛いほ どよくわかるのであった.だが彼は,精神性優位の文明にあって自らそこに深くまきこまれな

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『恋する女たち』または『精神性の女たち』 (その1) 75

がらも,なんとかして豊かな肉体性をとり戻し,根源への倍頬を回復したいと廠ったのである.

そのようなバーキンの前にあらわれたのがア‑シュラであった.ア‑シュラは,体で感じるこ とと頭で考えることとのあいだに深い断絶のあるバーマイア二とはまったく異なり,肉体的意 識がそのまま知的な表現となってあらわれるような女性であった.さらにまた彼女の場合,肉 体的な意識はグドル‑ンの場合より一層深い根源中枢から生まれたものが多く,それはそのま ま表出してほかの人々とのあいだに激しい乳礫を生じることはあってち,なぜか殺人的,破滅 的な傾向を帯びることはなかった.肉体性を自然な形で解放したいと願っていたバーキンにと ってアーシュラはまさにうってつけの女性といえたのである.

ア‑シュラが肉体性を直裁に表出できるのは,もちろん彼女がそれを深く信頼しているから である.それに満腔の信頼を寄せているがゆえに,彼女はそこに安らい,そこからのびのびと 行動でき,ものが言えるのだ.この点で彼女と妹のグドル‑ンは大きく異なっていた.グドル

‑ンは,根源に対してバーキンに負けないぐらい深い理解力をもちながら,その表・出の仕方は 決してアーシュラのように自然なものではない.彼女は,ジェラルドのようにあからさまに肉 体性を否定するようなことはしないが,彼女の「本能」に対する入りくんだ見方には,むしろ

ジェラルド以上に矯正しがたい不信がうかがわれるのである.

そのことが明らかになるのは,彼女が姉からジェラルドが幼い頃弟を鉄砲で殺したというこ とを聞いたときであった.彼女は躊躇することなく,それはまったく偶然おこったことであり,

「純粋な事故」にすぎないと断定する.しかしアーシュラは, 「もしだれかが銃口をのぞいてい たら,たとえ銃口のなかが空だとわかっていても,引き金なんかひけないわ.人間は本能的に そんなことはしない‑できないわ」と言い,子供のジェラルドが引き金をひいたのは「その 行為の底に無意識の意志があった」からだろうと推測する.グドルーンはそれに反対して, 「大 人だったら本能的にそんなことはしない」が, 「遊んでいる二人の少年にそれはあてはまるわ

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けはない」と論ぱくする.

グドルーンのこの反論には,少し考えてみれば容易にわかることだが,巧妙な自己欺蛸が見 られる.彼女の言うところに従えば,本能は子供のときと大人のときでは違ったものになって しまうのだ.この矛盾した言葉の裏には,子供のときの本能‑もちろんこれが本当の意味で の本能であるが‑はあてにならない,何をおこすかわからないという不信の念がうかがわれ る。 「大人だったら本能的にそんなことはしない」と言う場合,その「本能」はすでに精神的 な意志の支配を深いところで受けており,もはや真正な意味における本能ではなくなっている

ということに,グドルーンは気づこうとしないように見えるのである.

ただ彼女には,根源の動きを知的意識によって捉え,適確に表現できるという芸術家として の自負があったのかもしれない.それが彼女に「大人の本能」という奇妙な表現をさせたのか

もしれない.この「大人の本能」によって彼女は,何をおこすかわからない「子供の本能」し かもちえなかったジェラルドとの闘いに勝つことになる.だが,彼女が肉体に強い不信を抱き

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ながら破滅にいたらなかったという事実には,あるからくりがあるはずである.一体なぜ,荏 在の基盤である肉体を信頼していないのに,彼女は肉体的に破滅することなく生きのぴること ができたのか.恐らく誰もが,雪の中で死んでいったジェラルドに悲劇的人物を見,生き残っ たグドルrンには何か不純なものを感じとるであろう.肉体的意識を十分に意識化できないジ

ェラルドは, 「胸部神経節」から発する過度に意志的な気持に突き動かされるままで,それに 抵抗する術も知らず破滅に向っていった.彼は, 「胸部神経節」によって発展させられ,その 中枢の最大の擁護者になった西洋文明の純粋な末路を辿るのだ.しかるにグドルーンは,同じ ように発達した「胸部神経節」をもちながら,その必然的な末路に従うことはなかった.恐ら く彼女は,芸術家としてのその強靭な知性によって,破滅にいたる道を回避したのである.そ れは「肉体」ないし「現実」を避けることで生じた空隙に美の世界を形づくろうとする回避で あった.が,それはいかに美的に満足のゆくものであっても,ジェラルドの純粋な死を前にし ては,その欺臓性,不純性を露呈せざるをえなかったのだ.

肝心なことは,彼女のこのごまかし,不純さこそ,彼女とわれわれを最も強力に結びつける 梓にはかならないということである.なぜならわれわれもまたほとんどが,肉体にあまり信頼 をおかず精神に頼って生きながら,肉体的に破滅することもなく生きのびているからである.

ジェラルドのように死によって完成されることもなく,ア‑シュラのように四つの根源中枢が ある程度まで調和のとれているわけでもないグドルーンは,なによりもその「肉体」に対する 不信とごまかしによってWomen inLoveのどの人物よりもわれわれに近いところにいると 言えるだろう.唯美的な芸術家らしく, 「肉体」あるいは現実に対して美的に満足のゆく欺痛 をおこない,それだけ一層救いがたい状態に最後になって入りこむのがグドルーンである.級 女のごまかしは徹底しているがゆえに,あやふやなごまかし万しかできないわれわれには自分

たちの立っている暖昧模糊とした立場を強烈な光で照射されるような気がするのだ.現実に対 するごまかし,すなわち現実回避は,あやふやなものは言うに及ばずたとえどれほど美的に完 成されたものであっても,貧しい現実がそのままに放置されているゆえに,結局,停滞した日 常性と表裏一体をなすものでしかないということを,彼女ほどはっきりと教えてくれる人物は

いないのである.

だが,グドル‑ンのこのような存在意義は二次的なものにすぎない.それはあまりに静的で ありすぎるのだ.彼女の存在意義はなによりもまず,彼女が誰よりも深くジェラルドとの宿命 的な闘争にまきこまれながら,同時に新しい創造的な生の可能性を学んだア‑シュラと姉妹の 関係にあるという一点に求められなければならない.そこにこそ,否定的な状態がたとえどれ ほど宿命的なものであっても,そこから脱け出るための重要な契機が求められるのである.

グドル‑ンとア‑シュラが姉妹であるということの意味は,もちろん,単なる血のつながり のことをあらわしているだけではない.それは,彼女たちを生んだ親が同一人物であるという ことを字句通りにとるよりむしろ比境的な意味で理解することなのだ.すなわち,彼女たちの

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感情とか思考を生んだ母体は同一のものであってもよいということを認識することなのである.

この認識があって初めて,終末的な状況から新生へ向かおうとしている小説のダイナミックな 動きが,バラバラの登場人物の問題というより有機的に統一された個人の,すなわち読者自身 の問題であるということが理解されてくるであろう.

ア‑シュラとグドル‑ンの感情や思考の動きが同一人物のものであっても決しておかしくな いということは,しばしば感じられることである.その振舞いの一つ一つに上部意識の不自然 な介入の見られるグドルーンと,下部の肉体的意識が自然に表出されてしかも高い人間性が保 たれているア‑シュラは,たとえどれほど隔たりがあるにせよ,繰り返して述べるように,わ れわれが共通にもっている肉体的意識をそれぞれ異なった形で表現しているにすぎないのだ.

たとえば,自分が日常性という「古い肉体」に埋没したほかの人々とは違うということを,わ れわれはグドル‑ンと共に「もちろん,なすべきことはただ彼らを軽蔑すること‑それだけ よ」という言葉で表現するかもしれないし,あるいはア‑シュラのように, 「わたしの感じで

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はわたしは鷲鳥のなかの白鳥なの‑そう感じないわけにはいかない」という気持であらわす かもしれない.知的意識の根を信頼している根源にいつも安心しておろしているがゆえに,た だそこから直裁にものを言うだけで「古い肉体」から飛び立つことのできたア‑シュラと同じ 気持になるかもしれないし,あるいは逆に,グドルーンのように体の上部中枢から生れた嫌意 感を知的意識によって研ぎすまし, 「軽蔑」という鋭い武器でほかの人々を攻撃することによ

って「古い肉体」をうち破ろうとするかもしれない.精神によって「古い肉体」を否定しよう とするとき,われわれは破壊的な状況に向かう危険性と豊かな肉体性から直裁な行動をとる可 能性をつねに二つながら学んでいるのである.

だが,われわれには二つある可能性も,グドル‑ンやア‑シュラにはそれぞれ一つしか認め られていない.彼女たちにおいては,根源中枢の各々のあらわれ万が,一つにまとまった人物 像を作りあげるように,つねに一定の方向に定められているのだ.たとえば次にあげる引用文 に見られるように,姉妹が水いらずでくつろいでいるときですら,二人は定められた各自の性 格に従ってものを考え,行動するだけである.

When they had finished tea, the two girls sat on, silent and serene.

Then Ursula, who had a beautiful strong voice, began to sing to herself, softly: Annchen von Tharau.'Gudrun listened, as she sat beneath the trees, and the yearning came into her heart. Ursula seemed so peaceful and sufficient unto herself, sitting there unconsciously crooning her song, strong and unquestioned at the centre of her own universe. And Gudrun felt herself outside. Always this desolating, agonized feeling, that she was outside of life, an onlooker, whilst Ursula was a partaker, caused

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Gudrun to suffer from a sense of her own negation, and made her, that she must always demand the other to be aware of her, to be in connexion

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withher.

ここで注目すべき人物は,肉体性に安らっているアーシュラよりむしろ,根源から締めだされ てどこにも落ちつくところを兄いだせないでいるグドル‑ンの方である.体の奥の「太腸叢」

28)

から「我は我なり」という充実感をえているアーシュラは,あまりにも安定していて問題がな さすぎる.彼女を羨望するグドル‑ンの方に,自らのおかれている否定的な状態から脱けでよ

うとする精神の重大な動きが認められるのである.もちろん,一つの可能性しか与えられてい ないグドル‑ンの向かう方向が積極的なものになるはずがない.彼女は負の状態からさらに深 く破滅の坂をころげ落ちることになるのだ.しかし,だからといって彼女の動きが,そのため に重要な意味を失うことには決してならない.存在の不足感を痛切に意識し, 「自己否定感」

に悩みながらグドル‑ンがおこす行動は,たとえ破滅的な状態に落ちこむことになるにせよ, 精神の活動を通して肉体にいたらんとする試みの,すなわちこの小説のテーマの,裏返しにさ れた‑変奏をかなでているとも言えるのである.それは負の方向に向かうことによって精神の 動きの否定的側面を明らかにしつつ,つねにその反対の可能性を指向しているのだ.その反対 の可能性は,彼女の邪意な心が危険な方向に大きく傾斜すればするほど,ますます強く求めら れざるをえないのである.

このテーマの裏返しにされた‑変奏は,グドルーンがジェラルドと親しくなってから一層大 きく鳴り響くようになる.なぜなら,姉の充実した状態をねたんで自らも肉体性を欲するグド ル‑ンの精神は,その好個の対象としてジェラルドを兄い出すが,彼との関係は,彼女の本性 的な傾向,すなわち肉体性回復とはまったく逆の破壊的な精神的傾向を強めるだけだったから である.このような彼らの宿命的な関係を見事に象徴する事件は,先に引用したエピソ‑ドの すぐあとにおこる.そこにおいてグドルーンの精神が肉体,現実にかかわることに非常な魅力 を感じるのは,破壊的で邪惑な形においてであるということを次章で明らかにしながら,精神 のもつ負の傾向性を最後の破滅にいたるまで追ってみたいと思う.

1) D. H. Lawrence, in a letter to Edward Garnett, 13 Oct., 1914.

2) D. H. Lawrence, Phoenix, Heinemann, pp.464‑516.

3) ibid., p.481.

4) F. Kermode, ̀Lawrence and the Apocalyptic Types'from The Rainbow and Women in Love, one of Macmillan's Casebook Series, pp.203‑18.

5) D. H. Lawrence, Women in Love, Penguine Books, p.209.

6) W. H. Auden, ̀Some Notes on D. H. Lawrence'from Critics on D‑ H. Lawrence, University of Miami Press, p.49.

7) D. H. Lawrence, in a letter to Edward Garnett, 5 June, 1914.

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8) E. Vivas, D. H. Lawrence, Northwestern University Press, pp.240‑1.

9) F.R.リ←ヴィス, 『小説家D.H. pレンス』,文理, p.202.

10) ibid., pp.243‑4.

ll) F. R. Leavis, Thought, Words and Creativity, Chatto & Windus, 1976, p.87.

12) 7)に同じ.

13) M. Schorer, ̀Women in Love and Death'from D. H. Lawrence, one of Twentieth Century Views, Prentice‑Hall, p.60.

14) D. H. pレンス, 『無意識の幻想』,南雲堂, PP.42‑9.

15) ibid., p.57.

16) ,17) D. H. Lawrence, Women in Love, p.36.

18) ibid., ppユ5‑6.

19) D. H. Lawrence, Phoenix II, Heinemann, pp.92‑108.

20) D. H. Lawrence, women in Love, p.17.

21) ibid., pユ13.

22) ibid., p.37.

23) ,24) D. h.ロレンス, 『無態識の幻想』, P.49.

25) D. H. Lawrence, women in Love, pp.53‑4.

26) ibid., pp.56‑7.

27) ibid, pp.184‑5.

28) D. H. pレンス, 『無意識の幻想』, p.41.

(昭和53年9月29日受理)

参照

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