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1920年代における中国人の「満洲移住」について

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(1)

1920年代における中国人の「満洲移住」について

その他のタイトル Chinese Migration to Manchuria in 1920's

著者 鍛治 邦雄

雑誌名 關西大學商學論集

巻 21

号 6

ページ 461‑481

発行年 1977‑02‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00021025

(2)

1920 年 代 に お け る 中 国 人 の

「 満 洲 移 住 」 に つ い て

鍛 治 邦 雄

(461)1 

1920年代の満洲(旧中国東北部,以下便宜上この名称を用いる)を特徴づ ける一硯象は中国人の大量流入である。満洲三省(遼寧,吉林,黒寵江)へ の,いわゆる中国人「出稼ぎ者」数は次第に増加していき,最盛となった 1927年から29年にかけては年間百万に達している。当時の満洲における中国 人以外の人口は,日本人が約20万,朝鮮人が約60, ロシア人が約10万,そ

(1) 

の他を加えても高々百万程度であるといわれている。最盛期にはこの数に匹 敵する人口が中国から流入してきたことになる。 1920年代は人口移動を通じ て中国本部と満洲との結びつきが強化されていく時期といえよう。

同時に,満洲はこの時期には複雑な政治的事態のもとにおかれているので ある。 1912年の民国成立以降,中国は実質上統一国家たる実を失い,地方的 権力割拠が強まっていく。中でも満洲はこの傾向が強く,一見すると「独立 (1)  Tsao Lien‑en,'The Method of Chinesee ColoJ?,ization,'Chinese Economic 

Journal,  Vol. 7,  No. 2,  1930, p. 844. 

(3)

2(462)  1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治)

国」であるかの如き状態となるのである。日本を始めとする外国勢力の,こ の地域をめぐる角逐の激しさが,その感をいっそう深くさせているが, 1920 年代には,複雑な変化を伴いつつもこの事態が次第に収拾の方向へと進むの である。民国領土の一部として統一されていくのか,政治的独自性をもつ地 域として踏み留まるのか, 1930年代に解決を迫られる問題が浮き彫りにされ てくる。中国人の大量流入はこのような状況下で生じているのである。

中 国 人 の 大 量 流 入 に 最 も 注 目 し , そ の 動 向 を 見 定 め よ う と し た の は 日 本

(とりわけ,その満洲出先機関である南満洲鉄道)であった。満鉄は, 1923

(2) 

年以来,中国人「出稼ぎ者」流出入数についての統計を蒐集発表している。

(3) 

大連経由の入離満者については調査詰上でやや詳細な統計報告を行っている が,流入が最盛となる1927年から1930年までについては,全入離満者につい

(4) 

ての移動状況報告を各年次に刊行している。さらに, 1930年には,大連,営

(5) 

口経由入満者について直接尋問調査を行い,その結果を報告している。

本稿は,満鉄により発表されたこれらの資料をもとに, 1920年代における 中国人の満洲流入にみられる特質を明らかにしようとするものである。初め (2)  統計は漸次整備されていくのであるが,種々の不備を含んでおり,利用にあた っては注意が必要である。たとえば,女子の入離満者数は1925年までの数値には 算入されていない。また,「出稼ぎ者」数として扱われるのは.海路ではデッキ・

パセンジャー数であり,陸路では貨車輸送者数(一部では,三,四等乗客も含む が)である。海路のものは,原統計として大連では水上警察署統計が,営口,安 東では海関統計が用いられており,同一原則で蒐集されたものではない。そのた めの総数の算出にあたっては,かなりの推測が加えられている。

(3)  1928年分までは調査時報, 1930年分までは満蒙事情,以降は満鉄調査月報をみ (発表誌名が異なるのは,同一誌の誌名変更による。)

(4)  中島宗一,「民国十六年の満洲出稼者」,満鉄調査資料第70編,昭和2年。栗本 豊,「民国十七年の満洲出稼者」,同第100編,昭和4年。栗本豊,「民国拾八年満 洲出稼移民移動状況」,同第130, 昭和5年。栗本豊,「民国拾九年満洲出稼移 民移動状況」,同161絹,昭和6

(5)  栗本豊,「満洲出稼移住漢民の数的考察」,満鉄調査資料第157, 昭和6 なお,これらの書名を引用する際には, 「民国十六年」, 「数的考察」という様に 略記する。

(4)

1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治) 463)3  に,全体的動向を,次いで特徴的な二,三の問題をとりあげて検討すること にしたい。

]I 

中国人の満洲「出稼ぎ者」数にかんする統計が発表されるのは,先にも述 べたように, 1923年についてのものが最初であるが,まず, 1939年までの時 期における総数の変動について簡単に見ておこう。図Iは,この期間におけ る各年度の中国人入離満者数をグラフで示したものである。入満者数は中国 本部からの満洲「出稼ぎ者」数を,離満者数はその内の帰還者数を表わすと

(6) 

考えられる。両者の差は各年度における残留超過を表わしている。 1923年か

I) 入満・離満移民数、 192339

(出所)学術振興会、『東亜経済研究(II)

191‑2頁により作成。

1E  0 0

50 

、L...

入 満 者 数

離 満 者 数

1923  1925  1930  1935 

(6)  これらの内には,旅行者(例えば,満洲に住居を持つ者の郷里たる中国本部へ の墓参など)を含んでいるおそれがある。しかし,数値は,鉄道利用者の場合に は「出稼ぎ者」用の低運賃での乗車者(多くは有蓋・無蓋貨車で移動)をもとに,

海路利用者はデッキ・パセンジャーをもとに算出されたものであるため,その可 能性は極めて低いと思われる。

(5)

4(464)  1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治)

ら1939年までの十七年間を総計すると,入満者数は百万を越えており,離満 者数も六百万に近い。残留超過数合計は四百万に達し,これを1923年におけ

(7) 

る満洲三省推定人口数二千五百万弱と比較すると,この人口流出入の規模の 大きさを推察することができる。年次系列における変動をみると,まず,入 満者数は変動が急激であり, 1932年を境いとして前後に一回ずつ増減のサイ

クルを繰り返している。これにたいして,離満者数の変動ははるかに緩やか であり,1923年から1939年の全期間で一回の増減サイクルをなすだけである。

年次系列において硯われた入・離満者数の動向のこの相遮をより詳しく検 討しよう。入・離満者数の関係は1932年を境いとして大きな変化をみせてい る。すなわち,入満者数が1932年前には高い水準を維持するため,入満者数 を大きく上回り,各年次の残留超過を示す両者の開きは大きくなっている。

逆に, 1932年以降には入満者数の水準が低下するため,離満者数との開きは 僅かなものにすぎなくなっている。 さらに, 1932年以前における両者の動 向には,約2年の遅れを伴って離満者数が入満者数と一致した変動を示すと いう特徴があることがわかる。年次系列に現われるこれらの特徴は,中国人

「出稼ぎ者」の満洲への移動が1932年を境いとしてその性格を変化させるこ とを示唆するものである。

「満洲事変」(1931年)後における中国人「出稼ぎ者」の満洲移動の性格変 化について,上原轍三郎は次の指摘を行っている。「北支移民の職業構成を昭 和十二年度に就いて見るに工業労働者最も多く……27.7彩を占め,農業労働 者,士木労働者これに次ぎそれぞれ,………15.8%, 14.4彩となって居る。

而して広義の工業に従事せんとする移民は全体の56.2彩即ち約六割を占め,

(8) 

昭和初期における農業者六割という構成とは正に対照的である。」そのため に,入満後の分散でも工業的雇用の機会の多い南満洲に集中し,同時に満洲

(9) 

への定着率も著しく低いと述ぺた後に,上原は,この移動者構成が満洲内で

(7)  高久肇「満洲鉄道の発達と人口に就いての一考察」,調査時報(満鉄),第9 年第3号,昭和4 112

(8)  日本学術振興会,「東亜経済研究 (:rr)北支移民の研究」,昭和18 213

(6)

1920年代における中国人の「滴洲移住」について(鍛治) 465)5  の労働力移動の特殊なあり方と一体をなしていると指摘している。すなわ ち,満洲内部での農村部から都市部への,また,農業から工業への移動が少

(IO) 

く,「農業経営は零細化し,小作は増加し,相対的過剰人口を生じつつある」

南満洲の農村人口はむしろ北満洲の未開墾地へと流出するのである。上原の 指摘に従えば, 1932年以降の時期における中国人の満洲移動は一時的労働移 動すなわち,本来の意味での「出稼ぎ」的性格のものであり,主として南満 洲の工業地帯に流入したことになる。この時期における中国本部と満洲(主 として南部)の出稼ぎ者の循喋は南満洲の人口過剰をいっそう激化させ,

南から北への満洲内での農民の移動を加速したと考えられる。図 Iに現われ 1932年以降の二つの特徴たる離満者数の安定的推移と年次残留超過の縮 小とは,この出稼ぎ者の環流という事実を反映するものだったのである。そ れでは,これと異なる動向を示す, 1932年以前の推移は中国人の満洲移動の いかなる性格を表わすものであろうか。

1923年から1931年までの時期にみられる離満者数の漸増は,この時期にお いても,中国人の満洲移動に出稼ぎ者(本来の意味での)が多く含まれ,ま たその数が増加する傾向にあったことを示唆している。中島宗ーは中国人の 満洲移動における滞満年数について,「満洲苦力は……一箇年で帰郷する者 は寧ろ僅かで大抵二年三年あるいは四年と経過し相当の貯蓄が出来た後に帰

(11) 

郷してまた出て来るのである。」と述べている。滞在年数の長短は従事する職 (9)  同上書, 220 229頁。中国人の定着率の低下は, 1932年の「満洲国」独立に より,土地所有権を始め従来享有していた権利の多くが「外国人」として制限を 受けるようになったことが大きな原因である。

(10)  同上書, 354

(11)  「民国十六年」, 147‑8頁。中島は参考のため満鉄鉄道部旅客課員の調査にな る出稼ぎ期間による区分の表を示している。それによれば,

一年で帰郷する者 10% 

二年  // / / 20% 

三年 //  40% 

四年 II  10% 

それ以上  // 5% 

となっている。

(7)

6(466)  1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治)

(12) 

業や地方により,また賃金貯蓄額に作用を与えた金銀為替相場の状態などに より異なるが,出稼ぎ者は満洲に何年か留まるのが常であり,いわゆる「春 来秋帰」のものはごく一部であったとみられる。この事実を考慮に入れて,

入満者数と出稼ぎ者(帰還者)の動向を対比してみよう。前掲図Iの点線表 示のグラフは,実線表示の離満者数のグラフを1923年から31年までの部分の みについて左へ二年ずらせたものである。移動後のグラフの年次変化は入満 者数の変化と全く一致した動向を示している。このことは, 1920年代におけ る入満者数の増大は,中国本部と満洲間での出稼ぎ者の循環が拡大すること によりもたらされたことを表わすものである。

二十世紀における中国人の満洲移動がいわゆる「出稼ぎ」形態のものであ

(13) 

ったことは,多くの論者が一致して指摘するところである。東支鉄道を始め

(14) 

とする鉄道建設,農産物輸出の拡大,伐木業・鉱山業の開発は,農業のみな らず建設土木,港湾,森林,鉱山労働者の需要を生み出し,中国本部から多 数の労働力を「出稼ぎ苦力」として流入させた。 1920年代においても,満洲 経済の開発はさらに進められ,出稼ぎ労働者の流入が増加して行ったのであ る。このことを, 1923年から31年までの鉄道建設と貿易額の推移を入満者数 (12)  満洲通貨制度の複雑さのため賃金支払は多様な通貨様式で行われている。この

点については,武居卿ー,「満洲の苦力」,昭和8 78頁以下を見よ。

(13)  たとえば,寺島一夫は,十九世紀末までとニギ世紀の中国人満洲移動の性格の 相遮について,前者が,清朝の封禁政策下での北支と満洲における人口対耕地比 率の極端な不均等を是正し,北支における耕地分配の均衡を回復させるという役 割を果たす,農民の綬慢な移動であるのにたいして,後者が,ロシアさらに日本の 満洲経営にとって必要となった低廉な労働力を供給する,季節労働者の移動であ ると指摘している。 「漢民族の満洲移住の経過と在満朝鮮人圧迫問題」, 新興科 学の旗の下に,第2巻第9号,昭和 4年 102‑113頁。なお, c.w.ャング,「満 洲に対する支那の植民(上)」,東洋,第32巻第1号,昭和4 41頁も見よ。

(14)  二十世紀における満洲経済の発展を概括したものとして,天野元之助,「満洲 経済の発達」,満鉄調査月報, 第1硝紗言7号,昭和7。 この論文は,満洲経済 の分析の先駆をなすものであり,以後,満洲経済の構造をめぐって種々の論争が 展開されることになる。大上末広, 「「満洲経済の発達」をめぐる諸家の批判」,

新天地,第12年第11号,昭和7

(8)

1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治) (467)7  と対比させて確かめておこう。図Iが示すように,三者はほぼ一致した動向 を示し,満洲経済の発展が出稼ぎ者の流入の漸培をもたらすことを表わして いる。

もに,

しかし,図Iにおける入満者数の急速な増加は,出稼ぎ者の漸増とと 中国人の満洲移動に別の一面がつけ加わっていることを物語ってい る。以下では, この点について詳しく検討しよう。

Iにおいて, 1920年代の特徴を最も明瞭に表わしているのは,年々の残 この数が直ちに満洲定着者(永住者)数を示すとは 留超過数の増大である。

いえないが,出稼ぎ者の在満期間を考慮したうえでの残留超過数は定着者数 に近似する大きさとなると思われる。したがって,図Iにおける入満者数と 二年ずらせた離満者数(点線)の差は,各年次の入満者にしめる定着者の比 重を表わすとみられる。この加工した残留者数(定着者数)は1923年以降次 第に増加していくが, とりわけ1927年から29年には飛躍的な増大をみせてい る。何廉は, 1927年から29年までの期間に入満者数の増大が著しいことに注 目して, 1927年において中国人の満洲[移動の性格に変化が生じたとみてい

II)満州の鉄道建設と貿易額、 192331

5 0 0

1000

信 配 )

250 

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¥ ) \ , \ ︑ ¥

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1925 

500 

(出所)

学術振興会、

『東亜経済研究(II)

278‑9頁および .289頁より作成。

(9)

8(468)  1920年代における中国人の「滴洲移住」について(鍛治)

る。すなわち,移動形態が,一時的な労働移住 (casuallabour migration)  から永住 (permanentsettlement)へと重点を移したこと,また,移住者が,

鉱山・伐木・港湾・鉄道労働者から植民の意向をもつ農民およぴ農業労働者

(15) 

へと主体を移したことである。何廉の指摘する永住者(定着者)の増加とい う現象は, 1927年から29年に最も顕著な形で現われるのであるが,一時的な ものではなく,図Iが示すように, 1920年代において,中国人の満洲移動の 特徴となっているのである。 1923年以後定着者は次第に増大していく傾向に あり, 1927年からはその上に一時的要因がつみ重なることにより,定着者の 激増がもたらされるのである。それでは,この定着者の増大は,何廉の指摘 するように,農業的性格の移動者の増加と結びついているのであろうか。

入満時における移動者の職業構成についての資料はごく限られたものしか 利用できない。その内で最も信頼しうるものは, 1930年に満鉄調査課によっ て実施された抽出調査である。この調査は,海路入満者のうち,大連および 営口を経由するものの一部にたいして,特定の期間に行った尋問式調査であ

(16) 

り , 入 満 者 総 数 の 傾 向 を 代 表 さ せ る に は 制 約 の 多 い も の で あ る が , 少 く と も,大連および営口経由の入満者についてはその特徴を知る手懸りとなりう (15)  Franklin L.  Ho(何廉), Population  Movement  to  the  Northeastern 

Provinces in  China,'The  Chinese  Social and Political  Science  Review,  Nov~ 1930, pp. 354‑7.全く同じ内容のものが中文でも発表されている。何廉,

「東三省内地移民研究」,統計季刊(南開大学), 第一巻第二期,民国19年。これ らを要約紹介したものに,「何廉,支那人の満洲移住」,支那,第23巻第2号およ び第3号,昭和7年がある。なお,何廉は同年度における入・離満者数の差をそ のまま定着者数の増加とみている。

c.w.ャングは,出稼ぎから定住への移動形態の変化が1925年に既に生じている としている。前掲論文, 41

(16)  大連経由者については, 3月20日より 4月10日まで,営口経由者については,

4月12日より23日まで実施された。実施期間を両港経由入満者数の年間変動との 関連でみると,大連はややピークを過ぎた時期であるが,営口はピークにあたっ ている。

また,尋問は両港からの貨車搭乗者の一部にたいして行われた。抽出比率は大連 で39.3彩,営口で44.9彩である。

(10)

1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治) 469)9  ると考えられる。また, 1930年は,その前に三年連続した一時的激増が鎮静 し,入満者数が26年の水準に戻る年であり,その意味で1920年代の平均的特 徴を示す年であるともいえるのである。表Iはこの調査で明らかにされた入 満者の職業構成を百分比で表わしたものであるが,入満者の職業構成が両港 経由者間で著しい相遮を持つことが特徴的である。大連経由においては,農 業労働者が三分のーを越えるのにたいして,工業以下の労働者は合計しても

(17) 

22.4%にすぎない。また,入港時には特定の職別を明示せぬ自由労働者が約 四割をしめ,大連経由で最大の構成要素となっている。一方,営口経由で は,工商業労働者合計で六割近くをしめるのにたいして,農業労働者は10%

にみたず,また自由労働者の比率も大連経由をはるかに下回わっている。大 連経由者には農業的色彩が強く,営口経由者にぱ,商工業を中心とする出稼

ぎ者的色彩が濃く現われているといえ る゜

さらにこの調査は,大連・営口経由 にみられる如上の相逮を補強する興味 深い結果を示している。すなわち,入 満者中での女性および子供の比率,家 族形態での入満者の比率をみると,大 連経由では,前者が22彩後者が40彩と 比 較 的 高 い の に 比 べ て , 営 口 経 由 で は,前者が10%後者が15彩 に す ぎ な

(18) 

い。大連経由者には,一家を挙げて渡 満するという形のものが多く含まれて いるのであり,それだけ永住的性格が 強く,農業移民的要素が濃いと思われ

I)1930年における入満者職業構成

 

1大連経由 l営口経由 農業労働者

│ 

34.o  s.6 

自由労働者

│ 

39.2 ・ 24.5 

工業労働者 12.s  31. 9  鉱山労働者 o.s 

0.2 

交通労働者 1.7  1.4  商業労働者 7.9  25.8  そ の 他 4.4  7.6  (100)  (100) 

(出所)「数的考察」, 70‑4頁により 作成。その他には家事労働者な どが含まれている。なお,有業 者についてのものである。

(17)  自由労働者の定着地と関連して,同調査の報告は次の指摘を行っている。 「調 査の結果に依る自由労働者の定着地は大髄に於いて農業移民の定着地と合致する を観る。」のであり, 自由労働者中にも農業移民が相当数含まれていると推測し うるのである。 「数的考察」, 89‑90

(11)

10(470)  1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治)

表lI)大連経由入満者の職業構成

  1928 1929 23..2  20.1 

64.2  70.2  1.5  2.1  3.5  0.8  0.9  0.7  2.7  2.7  そ の 他 3.6  3.4  (100)  (100) 

(出所)1928

「昭和3年度大連経由満洲支那 移民統計」,調査時報(満鉄),

9年第3 昭和4 397

1929

「昭和4年度満洲支那移民統 計」,満蒙事情(満鉄),第10 3号,昭和5 35

るのである。

大連経由者の職業構成にかんしては 入満者激増期のものであるが, 1928 およぴ29年についての数値が利用でき る。表Iは,両年度における大連経由 入満者の構成を示したものである。両 年度とも,一時的要因により入満者が 多く自由労働者の構成比が著しく高く なっているが, 1930年の調査結果と同 様に,農業移民の比率が高く,工業以 下の比率が低いという特徴を備えてい るのである。自由労働者は,都市の運 搬や雑役,奥地での土木工事や鉄道建 設に従事するものとみられるが,`都市 その他での雇用機会が限界をもつ.の に,この両年度のように大量流入した 場合には,かなりの部分が農村地域に 流入したと考えられる。この両年度においても.大連経由者の大きな部分は 農業的要素であるといえよう。

大連経由者と営口経由者の職業構成に現われた相遮は,一時的なものでは なく,入満者の出身地の相遮とも関連をもつものであり,その限りで恒常的 なものである。満洲移動者の出身地は,大部分が山東省であり,一部分が河

(19) 

北省であるが,一般的にみて,山東出身者に農業的性格強く,河北出身者に商

(20) 

工業的性格が強いことが知られている。さらに,同じ山東省内でも,膠東道 (18)  同上書, 25頁およぴ28

(19)  1923年から29年の期間では,山東省出身者が約8割をしめる。 F. L.  Hou,  op. cit, p. 358. 

(20)  上原轍三郎は,入滴者中で農業労働者が激減している昭和10年代においても,

この特徴が存在することを指摘している。学術振興会,前掲書, 236‑9

(12)

1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治) 471)11  は山東半島に位置し,多くの海港をもつために対岸の満洲とは往来に便であ

り,早くから出稼ぎの習慣が成立していたといわれる。これにひきかえ,東 臨•清寧二道出身者は満洲出稼ぎの習慣が乏しく,農民的性格が強いのであ

(21) 

り,済南道出身者は前二者の中間に位置するといわれる。これら山東・河北 の諸地域から満洲へ向う径路は,大別して三つである。すなわち,京奉線を 利用して陸路で入満するもの,青島・芝衆から大連を経て,あるいは龍江・

天津から営口を経て海路入満するものの三つである。山東省東臨•清寧二道 出身者の大部分,膠東道出身者の半ば,および済南道出身者の一部が大連経 由を利用する。一方,河北省および膠東道出身者の半ばが営口経由を利用す

(22) 

る。河北省と済南道の残りが陸路を用いるのである。この出身地と径路の結 ぴつきからみても,大連経由には農民的性格が,営口経由には定期的出稼ぎ 者の性格が強いといえよう。

最後に,入満者総数にしめる大連経由者の比率をみることにより, 1920 代における移動者のもつ農業的性格の強さを示しておこう。大連経由は19

(23) 

23年から1929年までの時期では常に五割前後をしめている。 1925年までは若 干低下をみせるが, 1926年以降再び上昇し,大量流入時には五割を越えてい る。入満者総数にしめる大連経由者のこの比重の大きさから, 1923年以降の 入満者に農業的性格が強いこと,とりわけ,1927年から29年の三年間にそれが

(21)  「数的考察」, 121‑3頁および137‑8

(22)  径路については, Ho, op.  cit.,  pp. 348‑9をも見よ。海路と陸路の比率はほ 3:1である。

なお,陸路入満する場合,京奉線で奉天へ出て,満鉄,東支鉄道を利用して中北 満へ向う径路の他に,民国鉄道の開通に伴い,京奉線打虎山で下車,打通線,挑 昂線を経て斉々恰爾に出る径路,奉天から奉海線,吉海線によって吉林省に出る 径路が開けた。自国鉄道の利用のみで入満,黒龍江・吉林両省に向うことが可能

となったのである。

(23)  入満者総数にしめる大連経由者の比率は, 1923年に53%, 1924年に44%, 1925  年に40%, 1926年に41%, 1927年に57%, 1928年に52%, 1929年に55%である。

入満者総数は,学術振興会,前掲書, 191‑2, 大連経由入満者数は, 1926 までについては,「民国十六年」, 16頁,以降については,「民国拾八年」, 10頁か らとりそれらによって算出した。

(13)

12(472)  1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治)

いっそう強まることが推測しうるのである。

以上において,不充分ながら, 1920年における中国人満洲移動の全体的動 向についての特徴を明らかにした。 1923年以来の増加傾向は,中国北部と満 洲間での「出稼ぎ者」の往来が次第に大きくなることによってもたらされ た。しかも,「出稼ぎ者」の往来増加はたんなる季節的労働の定期移動の増 大を意味するのみではなく,満洲への定着(永住)者の着実な増加を伴うも のだったのである。 1920年を通じて,移動における移住的性格が,また,入 満者における農民的要素が徐々に強まっていき,満洲は中国北部の住民にと って,恰好の「出稼ぎ」の場から内国植民地へとその内実を変化させていく のである。

中国人満洲移動の増加をもたらした原因の一つが,送出地である山東省河 北省の社会事情にあることはいうまでもない。何廉は,山東省における移出 をもたらす要因として,工業化の進展しない条件下での人口過密,経営耕地

(24) 

の零細さ,低賃金と高地価,高利の跳梁等をあげている。華北において無数 に存在する小農民経営が次第に没落し,所有地や耕作地を失い,農業経営を 維持しえなくなっていることが基本的要因であり,満洲「出稼ぎ者」とりわ け「移住者」の増大は,山東河北において,土地から駆逐されざるを得なく

(25) 

なった農民が増加していくことの結果でもあるといえる。

(24)  F.  L.  Hou,  op.  cit, pp. 358‑60. 

(25)  1927‑29年の入満者激増は,農民の駆逐(土地からの)が急激に生じたことを 示している。 「民国十六年」は, 1925年における張宗昌の山東入り以来の,兵 乱,匪禍,重税に加えて, 1926年から連年天災(水旱!皇)にみまわれ,さらに銀 元,山東銀行紗票の下落が重なり,農民の生活が極度に窮乏したことを指摘して いる。 120‑31頁。)この時期における入満者増加は,文字通り「流民」

の流入によってもたらされたのである。小沢茂一,「山東避難民記実」,昭和4 年,をも参照せよ。

なお,山東河北の「出稼ぎ者」送出の一般的要因については,学術振興会,前掲 書,高岡熊雄執筆分に詳しい。

(14)

1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治) 473)13 

1923年以来の入満者数増加に伴い,入満後の地域的分散にも変化が生じて いる。従来から満洲南部には中国人「出稼ぎ者」の流入が盛んであったが,

それに加えて,満洲中部や北部への流入が次第に増加し,入満者数における

(26) 

比率も大きくなっていくのである。 1920年代における中国人入満径路の本流

といえる大連経由入満者を例にとって,このことを確かめよう。表皿は,大 連経由入満者について,北行車搭乗者数および満鉄の終着である長春駅下車 数を示したものである。北行車搭乗者数は,大連発の満鉄貨車輸送者数であ り,いわゆる「出稼ぎ者」の数を表わしているとみてよい。表皿によれば,

北行車搭乗者にしめる長春駅下車の比率は, 1925年 に や や 低 下 す る こ と を 除けば,時期を通じて五割弱と安定している。北行車搭乗者の半数が長春以 遠を目的地とするのである。他方,入満者にしめる北行車搭乗者の比率は,

1923年以来次第に増加し, 26年に三分の一を越えている。入満者の激増する 27,28年には五割に近づき,29年にはやや低下するもののやはり三分のーであ る。北行車搭乗者にしめる長春駅下車の比率が, 時期を通じて一定している (26)  何廉は, 1927年と28年における入満者の激増により,一時的に,新入満者が直 接に北満洲へ向うという現象が生じたことを指摘している。すなわち,通常の場 合は,入満者が直ちに北行していくことはなく,まず入満地周辺に一旦腰をす え,滞満年数を重ねるにつれ,後来の入満者に押し出される形で次第に北方へと 流出していく。ところが.入満者急増期には,南満洲の吸収力をはるかに越えた 人口が流入したため,過剰部分が直接に北渦洲へ向ったとするのである。 1927 28年にかんする限り,この指摘は当っているといえる。ただし,何廉は,各入 満径路からの北行車搭乗者合計にしめる長春以遠を目的地とする者の比率のみに 注目している。

しかし,この比率は,入満者激増年に限らず, 1923年以降時期を通じて高くかつ 安定している。入禍者総数にしめる北行車搭乗者の比率をあわせて検討すること が必要であろう。 F. L.  Hou,  op.  cit,  pp. 365‑7. 

(27)  大連経由者にかんしては,他の径路のものに比して統計的整備が進んでおり,

数値の確実さも高いといえる。

(15)

14(474)  1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治)

(表皿)大連経由入満者の分散 (a)  (b)  (c) 

1

(b)% 長数春下車!(C 1923 1 172 

36.3 

21.1  16.4 

45.0 

1924 167  39.7  23.8  ¥  19.4  48.8  1925 197  55.0  9

22.9 

41.6 

1926 267  92.8  34.7 

46.5 

50.1 

19切年 599  279.3  46.6 

126.7  45.4 

1928 507  226.0  .6 111.4 

49.3 

1929 513  174.0  33.9 

84.4 

48.5 

(人数は単位千人)

(出所)数値は, 1926年までが「民国十六年」, 16頁および41 1927 年からが「民国拾八年」, 10頁および26頁による。 (パーセン

テージは丸めない数で算出した。)

ことからみて,入満者にしめる北行車搭乗者の比率が漸増することは,入満 者中の長春以遠分散者の割合が増大していくことを表わしている。長春は,

その北方に農安周辺の農業地帯を隣接させるのみでなく,吉長・吉敦両鉄道 により松花江上流地域へと,また,東支鉄道各線により満洲北部の各地へと 通じるのであり,いわば「中北満の咽喉地」といえる。長春以遠を目的地と する入満者の増加は,満洲中部・北部が「出稼ぎ者」の流入地として次第に 重要性をもってきたことを示唆しているのである。

1920年代における,満洲中部・北部への流入漸増をもたらしたのは,これ らの地域での鉄道建設に結びついた耕地の拡大であった。 1923年を100とす

(28) 

る,各省別耕地面積は,1930年に,奉天省96.6,吉林省108.6,黒龍江省149.6 (28)  天野元之助,前掲論文, 37

(16)

1920年代における中国人の「満洲移住」について(鍛治) 478)15  となり満洲中北部での開墾が進んだことを示している。また,地域別にみた 耕地拡大率でも,比較的伸ぴの大きいのは,松花江下流や東支鉄道沿線の従 来から交通の便のよかった地方に加えて,奉海線地方,吉長線地方,呼海線

(29) 

地方など,この時期に新たに鉄道が建設された地域である。前節において,

1920年代の中国人「出稼ぎ者」には農民的性格のものがかなり多く含まれて いること,満洲定着者(永住者)の数が次第に増加していくことを指摘して おいたが,これらの傾向は,この時期における満洲中・北部の農業的開発,

「出稼ぎ者」の流入漸増およびその農民としての定着と密接な関連をもつも のである。「出稼ぎ者」が,自ら耕作する土地を確保して定着していく過程 は次のようにして進んだと考えられる。

(30) 

満洲においては,すでに土地の私有制度が確立しており,耕作可能な未墾

(31) 

地の主要な部分も私有へと移っていた。清末以来の土地開放は民国期にもひ きつづき行われたが,この「公有地」払下げによって土地を取得しえたの

(32) 

は,主として,中央および地方の文武官や商人層であったといわれている。

(29)  奉海線が1925年,呼海線が1926年に起工されている。吉長線の開通は1912年で あるが,吉敦線が1926年,吉海線が1927年に起工され,吉林を中心とする交通網 が整備されてくる。なお, 地域別耕地拡大については,「民国十七年」, 111‑2 頁を見よ。

(30)  民国初の土地改革により,清朝下での身分的封建的土地領有制度が最終的に解 体され,近代法上の土地私有権が確立された。大上末広, 「満洲社会経済史の諸 問題(下)」,東亜,第7巻第11号,昭和9 59‑65頁。同, 「近代における満 洲農業社会の変革過程」,歴史学研究,第5巻第2, 昭和10 197‑203 なお,清朝下における満洲土地所有関係にかんする大上の見解には若干の変化が みられる。 「旧満洲の土地形態と地代形態」,満鉄調査月報,第13巻第3号,第 4号,第5号,昭和8年では,満洲においては身分的封建的土地領有が十全な形 で成立せず,頭初から土地私有的性格の濃い土地制度であること。また,清朝期 の「招民私墾」や「土地開放」により身分的封建的土地領有制度が崩壊してい き,早くから土地私有制への実質的移行が始まったことを主張している。これに たいしては,柴三九男の批判(「清代の土地所有関係」,歴史学研究,第2巻第6 号,昭和9年)が加えられ,大上は,清代の土地領有制度における近代的要素を 主張する第一の論点を放棄したが,第二の主張点は変えなかった。

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