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「1810〜1820年代のアメリカ黒人移住運動にみるハイチ像」

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序 論

1804年に独立を宣言したハイチ共和国は、史上初の黒人による、しかも奴隷反乱に端を発した 共和国であった。ギルロイや中條献氏の指摘通り、近代の黒人による抵抗運動の歴史にとっての ハイチとハイチ革命の存在について、その重要性は認識されているものの、それを主題とした考 察は深まっていない(1)。本稿はこの問題について、アメリカとハイチの黒人が直接交流する機 会となった移住運動を題材に、アメリカの黒人知識人たちがハイチ共和国にどのようなイメージ をもっていたか、そして移住運動が彼らの抱くハイチ像にどう影響したかを考える。

アメリカ黒人によるハイチ移住運動は19世紀中に2度起こり、いずれも実行された。ハイチ政 府が移住者へのインセンティヴを設定し、合衆国北部の自由黒人を中心に希望者を募った結果、

1820年代には6,000人以上が移住した。移住運動は1850年代に再び起こり、1860年末から2年ほ どで2,000人近くが移住した(2)

アメリカ黒人とハイチとの歴史的関係の研究としては、ハントが19世紀前半の合衆国における、

ハイチ革命やトゥサン・ルーヴェルチュール(Toussaint  L’Ouverture,  ?-1803)のイメージの用 いられ方を明らかにしている。彼によると、南部の奴隷主や奴隷制の擁護論者は、ハイチ革命が 白人の殺害を通じて達成されたことを強調し、その点を黒人の生来の野蛮さの象徴と位置づけた。

また、彼らは独立後のハイチの経済・産業の不振が、獣同然の黒人が文明社会で有益な存在とな るには、奴隷制による束縛と労働の強制が不可欠であることの証拠であるとし、奴隷制を正当化 した。これに対して、奴隷制に反対する側は、一方では、奴隷制が続けばハイチ革命のような黒 人の暴力による報復が合衆国でも起こり得るという脅しにハイチのイメージを使い、他方では、

黒人共和国の存在を、黒人に文明的な進歩と自律の能力があることの証拠として用いた(3)。よ り新しい研究では、共和国の独立から20世紀末までのハイチとアメリカの黒人との交流の歴史を 追ったパンフィルの著作がある(4)。だがいずれの研究も、移住についてその経緯を紹介するに 留まり、この運動そのものや、移住とハイチ像の関係を掘り下げてはいない。

19世紀のアメリカ黒人による国外移住運動は、1960年代後半から、ブラック・ナショナリズム 的なイデオロギーの起源を探る文脈において注目を浴び始めた。そうした観点から黒人の移住運

「1810〜1820年代のアメリカ黒人移住運動にみるハイチ像」

遠 藤 慶 一

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動についてまとめた代表的な研究に、ミラーの著作がある(5)。しかし、移住運動とその研究の 中心はアフリカへの移住運動に置かれ、管見の限りでは、ハイチ移住そのものを主題とした論考 はジャクソンの博士論文しかない。ジャクソンはアメリカ黒人とハイチ人双方の言説を見たうえ で、2度のハイチ移住運動にパン・アフリカニズム(Pan-Africanism)の起源があった、という 図式を提示した(6)。だが彼は、本稿で述べるような、移住がもたらした、アメリカ黒人の抱く ハイチ像の意味合いの変化に着目していない。

日本国内の研究では、樋口映美氏が1790年代から1830年代までの合衆国におけるハイチ革命の 記憶について考察する論文を発表しており、その材料として当時のハイチ移住運動を用いた(7)。 樋口氏は、アメリカの自由黒人が自由や平等の象徴としてハイチ共和国へ抱いていた期待も、移 住が失敗に終わったことで過去のものとなり、1830年代初めにアメリカ黒人のあいだで、もはや

「ハイチ共和国は公の場で口にされないようになっていた」と結論している(8)。だがそれならば、

その後も黒人知識人がハイチ革命の歴史を語ったことや、1850年代になって再びハイチ移住を実 行した事実についての説明が必要である(9)

本稿は、1810〜1820年代の移住運動における言説から、アメリカ黒人のハイチ観を抽出し分析 する。第1節では1810年代のアメリカ自由黒人によるハイチ移住論を概観する。第2節で、移住 についてのハイチ政府側の事情と論理を探る。第3節は、1820年代半ばからの本格的な移住開始 の経緯を、第4節は移住運動が衰退する過程を追う。第5節で1830年代以降の黒人知識人をめぐ る状況を考慮しつつ、移住によってハイチのイメージに何が起きたか、を論じたうえで結論を述 べる。

1806年から1820年までハイチは南北に分かれ、北部はアンリ・クリストフ(Henry  Chris- tophe,1767-1820)の王国、南部はアレクサンドル・ペシヨン大統領(Alexandre  Pétion,  1770- 1818)の共和国となった。移住計画の本格的な始動は1810年代後半からで、とくにクリストフは アメリカ黒人プリンス・サンダーズ(Prince  Saunders,  1775-1839)と交渉し、アメリカ黒人の ハイチ移住を実現させようとした。

アメリカでは、黒人による国外移住の訴えや、黒人を国外に植民させようという白人の主張は 18世紀中から存在していたが、そうした議論がとりわけ活発となったのは19世紀初頭だった。そ の大きな要因は、世紀転換期における北部での奴隷制廃止の進展と、南部でのタバコ栽培不振の 影響を受けた奴隷解放による、自由黒人数の増加だった(10)。自由黒人の多くは、奴隷ではなく なっても社会・経済的には貶められ、南部では奴隷制を脅かす存在として敵視された。こうした 問題の解決策として浮かび上がったのが、国外への植民と移住だった。

1816年には、首都ワシントンで「アメリカ植民協会」(American  Colonization  Society,  以下

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ACS と略)が設立された(11)。ACS はその活動目的として自由黒人の国外植民を掲げながらも、

内部に奴隷制を擁護する立場から植民を支持する人々も抱えていたため、植民が奴隷制廃止のた めとも、逆に奴隷制の維持のためであるとも明らかにしなかった(12)

この ACS の活動と態度に対し、自由黒人たちの多くは早い段階から反対を表明していた。彼 らにとって、明確に奴隷制反対を打ち出しもせずに黒人を国外へ植民させようとする ACS の計 画は、白人による黒人の国外「追放」に他ならなかった(13)。北部の自由黒人コミュニティでは、

白人主導による植民とは異なる、自発的な国外移住が議論され、その行き先としてアフリカだけ でなくハイチも検討された。

サンダーズはボストンで教師をしていた自由黒人であり、もともとは、黒人のアフリカ移住を 提唱していた。1815年にアフリカ移住計画への支援者を探しに渡英した彼は、高名なフィランス ロピストのトマス・クラークソン(Thomas Clarkson, 1760-1846)と知り合った(14)。クラークソ ンは、自らの治世にイギリスの教育や宗教システムを取り入れようとするクリストフと交流があ り、彼に紹介されてサンダーズはハイチへ渡った(15)

サンダーズは1816年初めにはクリストフに謁見し、クラークソンらとクリストフのあいだの使 者のような役割を任せられた。ロンドンへ戻った彼は、クリストフの王国における公文書を編纂 した本『ハイチ文書』( )を出版した。その目的は、ハイチの「啓蒙的な政治シ ステム」や「平和を好む精神」、「政治のリベラルな原則」などを世に広めることだった(16)。そ の後、再びハイチを訪れてから合衆国へ帰ったサンダーズは、アメリカ黒人のハイチ移住に向け て行動を始めた。1818年5月には、マサチューセッツ州セイレムの牧師に移住計画を相談し(17)、 12月には、フィラデルフィアで催された白人の奴隷制反対集会で講演し、ハイチ移住を説いた(18)

当時のフィラデルフィアの自由黒人たちは、ACS が誕生して以来、白人主導による自由黒人 のアフリカ植民計画を激しく批判していた。そこでサンダーズは、自由黒人にふさわしいのはア フリカ植民よりもハイチへの移住だ、と論じた。「新世界におけるパラダイス」と称される、「壮 大にして広大な」イスパニョーラ島ほど、その立地、規模、気候、土地の豊かさの点から、「実 行の可能性、絶対の成功、そして現実的な事業性」が約束された移住先は他にない、と(19)

サンダーズは、イスパニョーラ島にはまだスペイン領地域があること、フランスがハイチの独 立を承認していないこと、ハイチ政府が独裁的で軍事的専制に近いことなどの問題は認めつつも、

すべて改善の見込みがあるので心配はいらない、と楽観的だった。ハイチが南北に分裂して内戦 状態にあることも障害とはならず、むしろ、その問題を解決するためにアフリカに起源をもつ同 胞のアメリカ黒人と、それを支える白人の助けが必要だ、と主張した(20)

サンダーズが上記の講演をした時点で、彼の構想は公式にクリストフの承認を得てはいなかっ

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(21)。クリストフを移民受け入れへ後押ししたのは、それより後のクラークソンによる提言だっ た。クラークソンは1819年中の書簡で、クリストフへアメリカ黒人移民の受け入れを度々提案し た。移民を入れれば国防に必要な兵力を削減せずとも農業労働力が増えるし、とくに一定の財産 をもつアメリカからの移民は、商業の発展やハイチへの英語普及にも寄与しうる点で有益だ、と 彼は指摘していた(22)

移民がアメリカ黒人であるべき理由は、ハイチ指導層のハイチ観にも関係していた。クリスト フは、ハイチの存在は黒人にも人間としての尊厳や白人に劣らない能力があることの証明だ、と 信じていた。彼は「黒人の劣等性」という偏見を反駁するにあたって、人種間の相異は遺伝的な 形質ではなく「文明化と知識」の度合いに帰せられる、と主張していた。したがって、ハイチは

「文明化」を進めることでレイシズムへの反証となり、「黒人は白人と同じ人間である」と証明で きる、と国民に呼びかけていた(23)。クリストフの側近で、王国のイデオローグと呼べる存在で あったポンペ㽍ヴァランタン・ドゥヴァスティ(Baron  Pompée-Valentin  De  Vastey,  1781- 1820)も同様の見解を示していた(24)

彼らにとっての「文明化」とは、ヨーロッパ的方法の受容に他ならなかった。たとえばクリス トフは、ハイチ人には「いつの日かアフリカをヨーロッパ文明の水準にまで引き上げる」使命が ある、と述べていた(25)。ドゥヴァスティは、アフリカ人がヨーロッパ人に劣るとの見方を否定 しつつも、総じてアフリカを遅れた大陸と見なし、「高貴にして寛大なイングランド」が啓蒙的 な植民地政策でアフリカの人々に「文明」をもたらすことを望んでいた(26)。こうした知見を有 するハイチのエリート層にとって、ハイチの進歩に寄与する移民は、手近な場所にいて、すでに ヨーロッパ流の「文明」の洗礼を受けているアメリカの自由黒人が望ましかった。

サンダーズは1820年8月に、ハイチ移住を望むフィラデルフィア周辺の黒人の代表としてハイ チを訪れた。10月3日にハイチ政府とサンダーズとのあいだで、政府の資金による移住計画の責 任者にサンダーズを据え、彼に必要経費2万5,000ドルをあたえる契約が交わされ、同5日に正 式に成立した。しかし、その翌日に起きた反乱のためにクリストフは自害して王国は崩壊し、サ ンダーズの計画も消えた(27)

ハイチ南部の共和国で、ペシヨンを継いで大統領となっていたジャン㽍ピエール・ボワイエ

(Jean-Pierre  Boyer,  1776?-1850)が、南北に分かれていたハイチを統一したのは1820年末だっ た(28)。移住運動に関連して考えれば、そうしてハイチ国内がひとまず安定したことで、大規模 の移民を受け入れる体制が一応は整ったことになる。ボワイエ政権下で移住が実行されるのは 1820年代半ばからだが、ボワイエは南北統一以前から、クリストフと平行して合衆国からの移民 受け入れを計画していた。

1818年10月、メリィランド州のボルティモアで出版される白人向け週刊誌『ナイルズ・ウィー クリィ・レジスター』(

)には、ボワイエ政権が合衆国からの移民にあた

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える特権を説明した記事が掲載されていた(29)。1820年7月の同誌に掲載された声明で、ボワイ エはハイチをこう形容している。「驚くべき土地の豊かさ」や「文明と科学の諸分野における住 民の進歩」に支えられたハイチは、「不幸な兄弟たちがついに平等の香油で傷を癒され、自由の 手で保護され、涙を拭われる約束の地であり聖なる避難所」である、と(30)。彼は、ハイチが黒 人の自由、平等、進歩を体現した地であるとして移住を呼びかけていた。

また、ボワイエは ACS によるアフリカ植民は、「文明化された」アメリカ黒人を「困窮か確 実な死が待っているアフリカの野蛮な地」に送り込む「恐ろしい」計画だと見なしていた。アフ リカを黒人の起源の地としながらも、現実のアフリカは「不潔な地」と見るボワイエにとって、

ハイチ移住はアフリカ植民への、「人道的大義」に基づく代替案だった(31)

しかし何よりも彼は、プランテーション型の大規模農園での労働力として移民を欲していた。

ハイチ国内では、それまでの政策により公有地売却が進んだことで小規模の自作農が増え、植民 地時代からほとんど唯一の産業だったプランテーション作物と砂糖の輸出が衰退していた(32)。 そのため、奴隷労働と変わらない大農園での仕事に戻りたがらないハイチ人に代わる農業労働力 として、アメリカからの入植者に期待がかけられていた。

合衆国でボワイエの呼びかけに反応したのは、ニューヨークの牧師で、ACS ニューヨーク支 部長でもあった白人ローリング・デューイ(Loring  D.  Dewey)だった。彼は1824年3月にボワ イエへ書簡を送り、移住計画について協議を始めた(33)。ボワイエは1824年5月に、ジョナサス・

グランヴィル(Jonathas  Granville,  1785-1839)という役人をデューイの下へ派遣した(34)。グラ ンヴィルへの指令書には、移民の待遇と条件が詳細に示されていた。原則としてハイチ政府が渡 航費を負担し、移民は市民権、政治上の権利、良心および宗教活動の自由をあたえられ、政府の 指定する土地に入植すれば無条件で土地を相続でき、最初の4ヶ月間は食糧も支給される。さら に、12人までの団体で移住が可能であり、その場合、政府はコーヒーや綿花栽培のために最低36 エイカーの土地をあたえる。こうした方法により、ボワイエは1年に6,000人以上の移住を見込 んでいた(35)

グランヴィルはフィラデルフィアで白人から資金援助の約束を取り付けた後、6月半ばに ニューヨークでデューイと会談した。その前にデューイは、ACS 上層部にハイチ移住計画への 支援を訴えていたが、アフリカ植民と競合する計画に理解が得られるはずもなかった。そこで、

デューイは自ら賛同者を集めて、6月末に「自由有色人ハイチ移住推進協会」(The  Society  for  Promoting the Emigration of Free Persons of Colour to Hayti)を設立した。その集会では、ハ イチ移住を前向きに検討していると伝えるニューヨークの黒人集会からの手紙が紹介された。そ れを書いたのは、後に合衆国初の黒人新聞『フリーダムズ・ジャーナル』(

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を創刊する黒人牧師サミュエル・コーニシュ(Samuel Eli Cornish, 1795-1858)だった(36)。 本格的に始動した移住計画へ、アメリカ黒人はどう反応したのか。グランヴィルはフィラデル フィアで黒人コミュニティの指導的人物だった牧師リチャード・アレン(Richard  Allen,  1760- 1831)と接触していた。ここで、フィラデルフィアの黒人たちと黒人の国外植民・移住運動との 関係について、より深く説明しておかねばならない。アレンらフィラデルフィアの黒人指導者た ちは、個人的には、植民・移住が黒人救済の手段として優れていると考えていた。彼らは周囲の 自由黒人大衆も同意見であると予想していたが、黒人大衆の多くは ACS によるアフリカ植民を

「白人による黒人の国外追放」と見なして猛烈に批判した。これを受け、アレンらは黒人コミュ ニティの総意として、ACS への不支持を表明した、という経緯があった(37)

だが、ACS を痛烈に批判したフィラデルフィアの黒人の多くが、ハイチ移住には賛同した。

それは、この計画が黒人共和国の主導するものだったからだ。彼らは8月の半ばに「ハイチ移住 協会」(The  Haytian  Emigration  Society)を設立し、アレンがその会長に就任した(38)。協会の パンフレットは、計画の主導者と協会の成員が、白人ではなく「あなた方の肌の色と不名誉を共 にする兄弟」である黒人たちだ、と強調していた。協会の目的は、「黒人がその権利を行使する ことはまったく不可能であることが、ほとんど確実である国」アメリカを黒人が離れる手助けを することとされ、「黒人が権利を手に入れた唯一の地」で、黒人にとって「まさに希望の太陽」

であるハイチへの移住が説かれていた(39)

黒人によるハイチ移住の支援組織は、ニューヨークやボルティモアでも設立され、上に挙げた ようなハイチ像と移住論が共有されていた(40)。ニューヨークの「有色人ハイチ移住協会」(Hay- tian Emigration Society of Coloured People)は、移住の目的を、黒人の「境遇を改善すること」

や、「傷つけられ苦しんでいるわれわれの人種を、最も栄えている文明化された民族の水準にま で引き上げること」としていた。ニューヨークの黒人エリートたちは、ハイチこそが、彼らの思 い描く黒人の向上を実現できる場所ととらえ、「アフリカの子孫たちが文明化され、秩序の下に あり、繁栄した民族として存在している、いまだ唯一の地4 4 4 4に行きましょう(41)」と呼びかけてい た(傍点は原文イタリック)。

その後、ハイチ移住運動はベンジャミン・ランディ(Benjamin  Lundy,  1789-1839)という著 名な反奴隷制活動家の後押しもあって、8月の移住開始から半年ほどは移民数を順調に増やして いった(42)。1824年10月から、ランディは自身の雑誌『ジーニアス・オブ・ユニヴァーサル・エ

マンシペイション』( 、以下 と略記)を使って運動を宣

伝した。 によると、1824年の11月時点で、すでに出発した者と同月中の出発予定者が、合 わせて4,000人から5,000人いた(43)。1824年の秋から冬にかけてボストン、ニューヨーク、フィラ

(7)

デルフィア、ボルティモアなどから旅立った黒人は、合計6,000人から7,000人ほどいた(44)。 ランディは実際にハイチの入植地から届くポジティヴな情報を宣伝に利用した。たとえば、イ リノイ州から移住した黒人たちからの手紙は、ハイチが「自由な国」で、働いた成果は平等に自 分のものとなり、移民の権利はハイチ人と同等で法の下に保護されている、したがって、アメリ カ黒人はこのすばらしい国に来るべきである、と伝えていた(45)

しかし、ハイチ移住の提唱者たちはハイチの悪評や相次ぐ移民の帰国という事態に対応せざる を得なくなっていった。ニューヨークの「自由有色人ハイチ移住推進協会」は、1824年の12月に 計画の一時中断を決定した。それは、「ハイチから戻ってきた移住者たちと、合衆国にいる者た ちがハイチから受け取った手紙による、好ましからぬ話でいっぱいの報告」のせいで、移住希望 者が集まらなくなっていたからだ(46)

ハイチについての風評は、どのような内容だったのか。典型的な例として、1825年にヴァジニ アの新聞が、ハイチで政権への不満を漏らした移民は「国家への封建的義務を放棄した廉」で権 利を剥奪されて、「頑健な者はフランスと戦争を行うための兵士

4 4

とされ、それ以外は堡塁建設に 従事させられるか、プランテーションで農奴のように働かされる」と書いていた(傍点は原文イ タリック)(47)。また、医療体制が整っていない入植地で、移民は「前代未聞と言えるほど惨め で困窮した状況」に置かれており、必死に耕作をしたところで近隣のハイチ人の妨害を受ける、

などと言われていた(48)

くわえて、南部の奴隷主やハイチ移住をライヴァル視する ACS に関わる白人は、折に触れて ハイチを中傷していた(49)。彼らは、ハイチ人は「無知で半ば野蛮」で、宗教もなく、偏狭で人 間の権利というものも十分に理解していない人々だ、と吹聴した(50)。彼らによれば、移民の暮 らしぶりはアメリカの奴隷よりもよほど貧しく、「貴族的で、軍事的な専制主義」の政府の下、

産業は荒廃し、一夫多妻や正式な結婚をしない男女の同棲という不愉快な風習を保つハイチ人の 社会は堕落していた(51)

こうした悪評が広まるなか、1825年4月には、運動の行き詰まりに追い打ちをかける決定が下 された。ハイチ政府が、6月半ば以降の移住者への渡航費負担の廃止を通告したのである(52)。 それは、移住船のために雇った船舶業者が渡航費を不正取得するというかたちの詐欺行為が多発 したことや、すぐに帰国する移民が続出したことに業を煮やした末の決断だった。くわえて、ハ イチとフランス政府間で独立承認の交渉が進展するうちに、フランスへの賠償金支払いが現実味 を帯びてきたことも影響したと考えられる(53)

それ以降も、ランディやフィラデルフィアの「ハイチ移住協会」は移住運動を何とか盛り上げ ようと、移民からの好ましい報告を に掲載した。その1つで、ある移民はこう呼びかけて いた。「アフリカ人の兄弟姉妹たちよ、この実り多い土地にやって来てハイチの兄弟たちと共に 収穫を味わい、アフリカ人の国のアフリカ人の政府に支援をあたえましょう。わが同胞たるアフ

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リカ人たちよ、来て自由なパン4 4 4 4 4を食べ、自由な水4 4 4 4を飲みましょう(54)」(傍点は原文イタリック)。

しかし、こうして黒人としての連帯感をアメリカ黒人に喚起しようとしても、事態は好転しな かった。1820年代末には自由黒人たちのあいだで、ハイチ移住は完全に過去の失敗となっていた。

『フリーダムズ・ジャーナル』は1829年2月に、「黒人たちがハイチ移住を否定しているという事 実」をはっきりと指摘していた(55)

樋口氏が説明するように、確かに1820年代末以降、自由黒人たちのあいだでハイチ移住は失敗 だったと認められ、その可能性を否定されるようになっていた(56)。だが、この失敗によって、

アメリカ黒人にとってハイチが理想的なモデルでなくなったとか、ハイチの存在がアメリカの自 由黒人の記憶の外に置かれるようになった、とはいえない。ハントやジャクソンの研究で明らか なように、その後もハイチ革命にまつわる記憶とイメージは、黒人の自治の能力や文明的進歩の 証拠、そして急進的な方法による奴隷制打破の実例として喚起され続けたからである(57)

奴隷制や人種偏見と闘う黒人活動家たちにとっては、簡単にハイチの忘却や否定ができない事 情があった。1830年代に入ると、合衆国南部では奴隷労働による綿花栽培が莫大な利益を上げる ようになり、奴隷主たちはそれまで以上に奴隷を手放しがたくなっていた。そうした状況で、北 部におけるアボリショニズムの盛り上がりと、1833年のイギリス領西インド植民地での奴隷制廃 止に直面した南部では、1830年代後半から「科学的」な人種理論による積極的な奴隷制擁護論が 生まれていた(58)。そうした「理論的」な奴隷制擁護論は度々、ハイチを自らの主張の根拠とした。

ハイチ革命における黒人の残虐な殺戮行為、独立後のハイチの政情不安や経済・産業の荒廃は、

黒人の野蛮さ、知性の欠如、そして劣等性などの証拠である。したがって、黒人が文明社会にお いて有益な存在となるには、奴隷制による拘束が必要である、と彼らは論じた(59)

これに対抗しなければならない黒人指導層には、たとえ同時代のハイチ社会の廃頽を隠せない にせよ、少なくとも、奴隷解放と黒人の政治的独立を実現したというハイチ革命の歴史的意義を 訴える必要があった。たとえば、1840年代にヘンリィ・ハイランド・ガーネット(Henry  High- land Garnet, 1815-1882)は、アメリカ黒人はトゥサンを手本の1人として人種的抑圧に直接的な 抵抗をせよ、と訴えた(60)。彼にとって、ハイチ革命の歴史は「有色人種の生来の劣等性という 古い教義」を「反駁」するための証拠だった(61)

また、黒人共和国が忘れ去られた、と断定すると、1850年代からのハイチ移住運動の存在を説 明できない。したがって、少なくともここで言えるのは、1820年代の移住運動の終息後、ハイチ はアメリカ黒人の暮らしぶりを向上させてくれるユートピアとしては4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

語られなくなった、という ことである。移住の失敗は、黒人解放の象徴としてのハイチ像とは別に、ネガティヴな現実のハ イチのイメージをアメリカ黒人の記憶に加えた。だが、従来の象徴的なハイチ像が完全に否定さ

(9)

れたり忘却されたりしたのではない。本稿で取りあげた史料においても、ハイチ移住の可能性は 否定されていても、ハイチ革命と共和国建国の歴史を根こそぎ否定する意見はなかった。

結 論

本稿は、1810年代半ばから1820年代末までの移住運動の経過を追いながら、移住に関わるハイ チの語られ方を検証してきた。移住開始の前には、アメリカ黒人はハイチを黒人の解放の象徴と いうだけでなく、黒人の生活にとって唯一無二の理想郷であり、移り住めば豊かな生活ができる 地と見なしていた。そうしたハイチ像は、アメリカ黒人とハイチ指導層の両者に共通していた。

しかし、現地からの手紙、帰国してきた移民の体験談、そして白人によるハイチ移民の記録は、

悲惨なハイチ像を伝えていた。ハイチは、貧しく、文化や倫理の面で堕落している国で、専制的 な政府が自由を奪う国だという噂が広まった。このような風評の拡散により、また、黒人の国外 移住論全般の鎮静化に伴い、ハイチは移住先としては顧みられなくなっていった。

黒人指導層や反奴隷制活動家は、移民の話によってハイチが理想郷ではないと認めざるを得な かったが、ハイチ革命と共和国建国の偉業までは否定できなかった。なぜなら、人種偏見や奴隷 制と闘う彼らにとって、ハイチを貶すことは、黒人に向けられる偏見を受け入れ、黒人に社会的 な自律や「文明化」はできないと認めることに繋がり得たからである。そうした意味で、移住の 失敗の記憶が新しいあいだは、ハイチについて語ることはデリケートな問題だった。移住運動の 失敗は、ハイチを黒人の自由、進歩、「文明化」の能力の象徴としてもちだすことの難しさと、

現実のハイチの姿とシンボルとしてのハイチ像とのあいだの落差を生んだ。そして、この落差が 1850年代のハイチ移住論の核心となるのだが、その説明は別稿に譲る。

(1) ポール・ギルロイ(上野俊哉・毛利嘉孝・鈴木慎一郎訳)『ブラック・アトランティック──近代性と二重 意識──』月曜社、2006年、37頁 (Paul  Gilroy, 

[London and New York: Verso, 1993]); 中條献『歴史のなかの人種──アメリカが創り出す差異と多様性──』

北樹出版、2004年、199頁。

(2) Willis D. Boyd, “James Redpath and American Negro Colonization in Haiti, 1860-1862,”   XII,  no. 2 (October 1955): 180.

(3) Alfred  N.  Hunt, 

  (Baton 

Rouge and London: Louisiana University Press, 1988), ch. 4, 5.

(4) Leon D. Pamphile,   (Gainesville, Florida: 

University Press of Florida, 2001), esp., ch. 2.

(5) Floyd  J.  Miller,   

(Urbana, Chicago, and London: University of Illinois Press, 1975).

(6) James  O.  Jackson,  III, 

“The  Origin  of  Pan-African  Nationalism:  Afro-American  and  Haytian  Relations, 

1800-1863” (PhD diss., Northwestern University, 1976), esp. vi-vii, 240-41.

(10)

(7) 樋口映美「アメリカ合衆国の公的記憶から消されるフランス/ハイチ革命の功罪──自由黒人・奴隷蜂起・

移住問題をめぐって(一七九〇年代〜一八三〇年代)──」『専修人文論集』(専修大学学会)80号(2007年)、

41-83頁。

(8) 同上、75頁。

(9) 1850年代の移住運動については修士論文で論じたが、これについては改めて別稿を準備中である。

(10) 竹本友子「アメリカ植民協会の歴史的性格」『史苑』(立教大学史学会)42号第1・2巻(1982年)、103-11頁;

清水忠重『アメリカの黒人奴隷制論──その思想史的展開──』木鐸社、2001年、114-18頁。

(11) ACS についてはおもに以下の研究文献を参照。Early L. Fox,  (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1919); Philip J. Staudenraus, 

 (New York: Columbia University Press, 1961); Allan Yarema, 

 (Lanham, Maryland: University Press of America, 2006). 日本での研究には、竹 本友子「ウィリアム・L・ギャリソンとアメリカ植民協会──奴隷制度即時廃止主義への転換──」『史苑』

39号第2巻(1979年)、1-16頁 ; 竹本「アメリカ植民協会の歴史的性格」103-27頁 ; 清水『アメリカの黒人奴隷 制論』第 II 章などがある。

(12) 竹本「アメリカ植民協会の歴史的性格」111-12頁。

(13) 同上、121-23頁。

(14) Arthur  O.  White, 

“Prince  Saunders:  An  Instance  of  Social  Mobility  Among  Antebellum  New  England 

Blacks,”   LX, no.4 (October 1975): 526-27.

(15) Ibid., 528; Pamphile,  , 38. クリストフには、イギリス人教師の招聘、英国国

教会の祈禱書のフランス語訳、英語のハイチ公用語化などの計画があった。David  Nicholls, 

 (London: Cambridge University Press, 1979),  53.  クリストフとクラークソンの交流については、Earl  Leslie  Griggs  and  Clifford  H.  Prator,  eds., 

  (Barkley  and  Los  Angels:  University  of  California  Press, 1952) に史料がまとめられている(以下 と略記)。

(16) Prince  Saunders, 

 (London, 1816), vii-viii, 192; quoted in Hunt,  , 160. サンダーズは1818年にボストン で同書を再出版した。 , 125n. 39.

(17) White, 

“Saunders,”  531;  William  D.  D.  Bentley, 

, 4 vols. (1905-1914; repr., Gloucester, Mass.: P. Smith, 1962), 4:516-17.

(18) Prince Saunders, “A Memoir Presented to the American Convention: For Promoting the Abolition of Slav- ery, and Improving the Condition of the African Race, December 11th 1818,” in 

, ed. Dorothy Porter (Boston: Beacon Press, 1971), 269-78.

(19) Saunders, “Memoir,” 272, 274.

(20) Ibid., 273-75.

(21) 1819年の夏、アメリカ黒人の移住に関してクリストフはクラークソンに対し、ハイチを離れて以後「何の 音沙汰もない」サンダーズが、ハイチ国王の使節であるかのように振る舞っても騙されないように、と警告 していた。King Henry to Clarkson, July 29, 1819, in  , 149-50.

(22) Clarkson to King Henry, February 20, 1819, in  , 124-25; Clarkson to King Henry, June 28, 1819, in  141-42; Clarkson to King Henry, September 28, 1819, in  , 162-63.

(23) Saunders,  , 211; quoted in Nicholls,  , 42.

(24) たとえば、以下を参照。Baron Pompée-Valentin De Vastey,   (Cap Henry, 1816), 54, 82; De Vastey, 

 (Sans Souci, 1817), xviii-xix, 166.

(11)

(25) King Henry to Clarkson, April 26, 1818, in  , 106-7.

(26) De Vastey,   (Cap Henry, 1814), vi, 18. ただし、彼がイギリスに過剰とも見える 好意を示したのは、フランスに対抗する上での戦略でもあったと思われる。

(27) Saunders to Clarkson, July 14, 1821, in  , 226-28. サンダーズはその後もハイチに留り、後述のボワイエと も移住計画を交渉して断られた、と記録している。だが、これ以後の移住運動の史料に彼の名は出てこない。

(28) Nicholls,  , 34.

(29) 

 (Baltimore), October 17, 1818.

(30) 

, July 1, 1820.

(31) Président  Boyer  à  Loring  Dewey,  30  avril  1824,  in  Jonathas  Granville,   (Paris: E. Brière, 1873), 82-84(以下、 と略記).

(32) Nicholls,  , 68.

(33) Loring D. Dewey, 

 (New York: Mahlon Day, 1824), 2,  3-6,  11.  同書は、フランス語で書かれたボワイエの書簡を英訳して掲載している。ボワイエによる原文は、

デューイの書簡のフランス語版とともに ,  77-97にある。以下では、デューイの書簡は前者の、ボワイエの

書簡は後者の頁数を挙げる。

(34)  , 14-18; Président Boyer à Dewey, 25 mai 1824, in  , 85-86.

(35) Instruction au Granville, 25 mai 1824, in  , 88-97.

(36) Dewey,  , 28-31;  , 118, 122, 136, 144.

(37) この経緯については、竹本「アメリカ植民協会の歴史的性格」120-22頁を参照。

(38)  , 146.

(39) Haytian Emigration Society of Philadelphia, 

 (Philadelphia: J. H. Cunningham, 1825), 4, 6; quoted in Julie Winch, 

(Philadelphia: Temple Univer- sity Press, 1988), 55. Richard S. Newman, 

 (New York and London: New York University Press, 2008), 239, 257-58も参照。

(40) Miller,  , 78-79.

(41) Haytian Emigration Society of Coloured People (New York), 

 (New York: Mahlon Day, 1824), 4, 7.

(42) ランディがハイチ移住に関わるようになった経緯と動機については、Merton  L.  Dillon, 

 (Urbana and London: University of Illinois Press, 1966), 27-29を参照。

(43)   IV, no. 2 (November 1824): 17.

(44) Gary  B.  Nash, 

  (Cam-

bridge, Mass.: Harvard University Press, 1988), 245; Miller,  , 78-82.

(45)   IV, no. 1 (October 1824): 9-10.

(46) M. Clarkson, H. Ketchum à Président Boyer, 24 décembre 1824, in  , 237.

(47)  , n.d.; quoted in   IV, no. 9 (June 1825): 130-31.

(48) 

,  October  28,  1826;  quoted  in  Jackson, 

“Origin,”  93;  Charles  Mackenzie, 

, 2 vols. (London: Henry Colburn and Richard Bentley, 1830),  1:89-90. 引用は前者より。

(49)   IV, no. 5 (February 1825): 69-73.

(50)   IV, no. 11 (January 1829): 336-37.

(12)

(51)   V, no. 2 (April 1829): 61-63.

(52) “Notice of the Secretary General (translation)” in   IV, no. 8 (May 1825): 113-14; 

December 18, 1824;  , 184; Jean D. Coradin,   (Port-au-Prince: Edi- tion des Antilles, 1988), 176.

(53) フランス政府は1825年4月17日の勅令でハイチの独立を承認し、ハイチ議会は両国間の条約を7月11日に 批准した。フランスが独立承認と引き換えにハイチに要求した、5年年賦で1億5,000万フランという賠償金は、

当時のハイチの輸出純益の約10年分に等しい莫大な金額であった。浜忠雄『カリブからの問い──ハイチ革 命と近代世界──』岩波書店、2003年、197-99頁 ;  John  E.  Bauer, 

“Mulatto  Machiavelli,  Jean  Pierre  Boyer, 

and the Haiti of His Days,”   XXXII, no. 3 (1947): 321-24.

(54)   IV, no. 10 (July 1825): 152. 同趣旨の記録として、たとえば  IV, no. 11 (August 1825): 175も参照。

(55) 

 (New York), February 14, 1829.

(56) たとえば、以下の史料を参照。 10; 

, 8; 

, 27-28, all in  , ed. Howard H. 

Bell (New York: Arno Press and the New York Times, 1969); William L. Garrison, 

(Boston, 1832), part II.

(57) Hunt, 

, ch. 4, 5; Jackson, “Origin,” 137-43.

(58) こうした奴隷制擁護論については、清水『アメリカの黒人奴隷制論』第 III 章が詳しい。

(59) Hunt, 

, 89-90, 129-46.

(60) Henry Highland Garnet,  , in 

, ed. Sterling Stuckey (Boston: Beacon Press, 1972), 171.

(61) Garnet, 

  (Troy,  New  York: Steam Press of J. C. Kneeland and Co., 1848), 28. 

  http://books.google.co.jp/books/about/The̲past̲and̲the̲present̲condition̲and̲t.html?id=rwxyAAAAM AAJ&redir̲esc=y

参照

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