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一一― 「批判的―構成的教授学」の特徴 と問題点

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(1)

W。

クラフキー教授学理論の考察

一一― 「批判的―構成的教授学」の特徴 と問題点

Interpretation der Didaktikstheorie W.Klafkis

Grundziige und Probleme der "kritisch-konstruktiven Didaktik"-

高 橋 洸 治 Ko覇 i TAKAⅡ

ASⅡ

I

(平3年10月 11日受理)

1。

教授学における「批判的―構成的」な視座 一―主題へのアプローチーー

W.ク

ラフキー

(Klafki,1927〜)は

、その教育科学的な理論を「批判的 ―構成的教育科学」 と して発展させると共に、それに基づいて「批判的―構成的教授学」の体系化を試みている。そ の意図は、「精神科学的教授学から批判的―構成的教授学へ」

(1981)と

いう彼の論文題名に示 されている。ただしその表題は、前者を全面的に否定し、それとは全 く異なる後者への移行を 意味するものではない。それは、前者が後者の教授学理論の内へ発展的に包摂されてゆく過程 として教授学的な時代状況を捉え、その動向への支持を表明しているのである。

60年

代のあの

「現実主義的な転回」は、精神科学的教育学から経験的

0社

会科学的に基礎づけられた現代的 な教育科学への転換であり、それによって前者は克服されたと見なすのが一般的な見方と言え よう。たが彼の「批判的―構成的」な理論は前者との緊密な関連性を依然として保持 し続けて いるのであり、まさにその点にこそクラフキー教授学の特徴が認められるのである。そのこと は「批判的―構成的」という用語の解明によって明らかにされる。

0

「批判的」という用語をクラフキーは次のような認識関心を持っていることと規定している。

すなわち、教授学の目標を「すべての子どもや青少年に対 して、あらゆる生活次元における自 己決定能力、共同決定能力および連帯能力を発展させることができるようにすること」に置 く と共に、そうした目標は「社会全体の民主化の努力 との関連においてのみ」推進され得るもの として捉えていることである。要するに、そのように明示された目標を確認 し、そのための教 授 と学習の過程を妨げているような教育制度等の社会的な現実を究明し、改革しようとする視 点に立つことを「批判的」というのである。

次に「構成的」という規定は、この教授学の有する次のような「理論・実践関係」を指示 し

ている。すなわち、基本的には精神科学的教授学にみられるように、 「教育的行為の前提、可

能性および限界に関して教育実践者の意識を啓蒙すること」を課題としつつも、さらに積極的

な「理論」と「実践」との協働関係の確立を追究するものである。つまり、「理論の先取 り、

(2)

可能な実践のためのモデル設定、実践の変容及びより人間的で民主主義的な学校 とそれに即応 した授業についての考え方の基礎付け」を主要な課題 としているのである。要す るに、「構成 的」 というのは「実践」 を「理論」によってプログラム化することを意味 しているのである。

上のような用語規定か ら理解 されるように、「批判的」 というのは社会科学的な視点 を、 よ り詳細 に言えば社会批判的―イデオロギー批判的な視点を意味 し、「構成的」 とい うのは、精 神科学的な視点を、 より詳細に言えば歴史的 ―解釈学的な視点を意味 しているのである。そ し

てクラフキーはさらに、両者の視点を連関させるいわば媒体 として経験科学的 (経験的

)な

点を取 り入れている。従って「批判的 ―構成的教授学」は、総体的にみれば、三つの方法論的 な視点を統合 した研究方法に依拠 して成立 しているのである。

クラフキーが構想する「批判的 ―構成的教授学」の最 も重要な特徴はそうした統合的な研究 方法論 にあるが、 しか しその教授学理論に対する批判はまさにその点に向け られているのであ る。後で論及されるように解釈学 とイデオロギー批判 との関連づけを「補完」 として捉えるク ラフキーの試みに対 して、例えばK.ライヒ(Reich)は「精神科学的な解釈学は、イデオロギー 批判的及び経験的な思考方法によっては決 して補完 されえないものである」 と指摘 し、「・・・

クラフキーは 〔方法の〕統合を基礎づけることの方法論的な困難 さか ら目をそらしている」0と 厳 しく批判 している。この批判 を念頭 において、教授学の領域での三つの方法論の統合に関す

るクラフキーの理論 を解明 し吟味することが本稿の中心的な課題である。

その方法論的な問題 と関連 して、先に示 された「理論」 と「実践」 との関係 を教授学領域 に おいて具体的に確認することが第二の課題である。そ してその課題 と緊密に結びついている陶 冶 目標の問題、すなわち「 自己決定能力・共同決定能力・連帯能力」育成の教授学的な意味づ けとその達成方法に関するクラフキーの見解を検討することが第三の課題である。

2.精神科学的教授学から「批判的―構成的教授学」への発展

前節で触れたように教授学の主要な視点は精神科学的なものか ら「批判的 ―構成的」なもの へ と変容 したが、それをクラフキーは教育の科学史における「必然的な発展」 と捉 えている。

60年代以降、精神科学的教授学はその限界 と弱点 とを「根源的な形で」指摘 されるが、 しか し それによって精神科学的教授学は決 して 〈片付けられた もの〉にはならない、 という確信 を彼 は持ち続けている。経験科学的ない し社会批判的な一元的視点に立つ研究者は、現在でもなお 精神科学的教授学を全面的に否定 しているが、それはその教授学が実際にどんなものであった のかについて誤った解釈 をしているか らだ、 と彼は反論 している。 とはいえ彼は精神科学的教 授学を旧来の形態のままで維持 しようとしているのではな く、それへの批判を真剣に受け止め、

その変革を遂行 しているのである。結論的に言えば、「精神科学的教授学は、ここで 《批判的―

構成的教授学》 という表現で言い換 えかれているところの連関において 《止揚》 される」。こと になるのである。前者のある部分は克服 され、他の部分は「放棄 しえない要因」 として後者の 新たなより大 きな連関の中で保持 されることになる。要するにクラフキーは、精神科学的な視 点を「批判的 ―構成的」な視点の中へ弁証法的に統合 させることを試みているのである。

そこで次に問題 となるのは、放棄で きない不可欠な要因として継承すべ き内容 とは何か とい う点である。それへの回答 としてクラフキーは精神科学的教授学の「決定的な特徴」 を挙げて いる。彼は10項目のテーゼで提示 している0が、それ らを筆者な りに要点化す る と共 に必要 に 応 じて多少のコメン トを付けて示せば以下のようなものである。

(3)

①精神科学的教授学は 《陶冶理論的教授学》である。

:「現実主義的転回」以後伝統的な「陶冶」概念は批判されるが、クラフキーはその意味

内容 に変更 を加 えて、教授学の陶冶論的前提 を継承す る立場 を取 っている。

②精神科学的教授学は 《普遍妥当的な規範 (目標)と 内容》を否定する。

:教

授学的な決定は時代相対的な歴史的決定であるというデイルタイに由来する歴史的な 視点を、継承に価する重要な視点として彼は捉えている。

③教授の日標0内容に関する教授学的決定は 《精神的ないし社会的な勢力との対決》の結果 である。

:精神科学的教授学 は、そ うした対決 に直面 して決定 を下すのは教育政策の責任者である ことを現実肯定的 に認め る視点 をもつが、それにさらに批判 的な性格 を加味すれば継承 させ得 る もの と見 なされる。

④教授計画の担い手およびその統轄主体は 《民主主義的な法治国家・文化国家》である。

:精神科学的教授学のこの認識は、こうした国家によって 《教育学の自律性》が確保され るということを前提にしている。クラフキーは、そこに、教育学的な固有の目標である

「成人性」の育成は国家によって承認されるということを合意させて、この視点を継承 させるのである。

⑤精神科学的教授学は、青少年の現在と将来の要求は同時に充足されなくてはならないとい うシュライエルマッハーの教育原理を承認するものである。

:彼はこの原理を、各発達段階の充実を強調するルソー的な「現在主義」の視点と子ども

の将来を先取 りする視点とを結合した統合的な視点として捉え、継承させる。

⑥教授学の研究と理論は、教育計画の作成にあたる専門家や教授学的な課題解決にあたる教 師の決定に対して啓蒙的に援助するものである。

:精

神科学的教授学のこの啓蒙的な役割を彼はさらに発展させ、理論と実践 とを行動科学 的に結合させて「批判的―構成的教授学」の中で生かしてゆくのである。

⑦精神科学的教授学はいわゆる 《 方法論との関係における教授学の優位性》という原則を支

持 している。

:これは、教育の方法は教育の 目標・内容によって本質的に規定されるという認識の主張 である。 これは、 日標・内容の決定か ら方法論等その他についての教育的決定が演繹 さ れると解 さないで、「 自己決定能力」等の 日標 を優先 させる視点 として継承 される。

③以上七つの基本認識は、あ らゆる学校種の特殊教授学お よび教科教授学に対 しても妥当す るものである。

:ク ラフキーが特に指摘 しているのは、教科教授学の決定は個別専門科学 と一般教授学 と の連携において下 されな くてはならないという点である。 というのは、青少年に「基礎 的な現実理解 と自己理解」 とをもたらす ことが教育の基本的な課題だか らである。この 視点は「科学中心主義」に対する批判的視点 として継承 される。

⑨精神科学的教授学は 《実践のための実践についての科学》である。

:こ の教授学 は教育実践 の状況の解 明に よ り教育実践 を援助す る と共 に、後続世代 に対す る責任 を教育実践 と共有す る ものである。 この教育実践 に関わる特徴 は、経験科学的な 視点 との結合 に よ り、実践 的成果 を保証す る視点 として展 開 される。

⑩精神科学的教授学の研究手法は 《歴史的―解釈学的》なものである。

(4)

:この研究手法は、本来的に、教授学的な文献・資料の意味の解明に有効 な ものである。

従って、「歴史的 ―解釈学的な解釈は、教授学的な現実のメンタルな側面 を、 意識的な 要因のみを捉 えるにす ぎない」0のである。彼はこの問題点をおさえた上で、解釈学的 な手法を経験科学の仮説設定を可能にする方法論 として発展 させ継承 させている。

精神科学的教授学のこれ らの特徴は、それぞれ一定の拡大的解釈 を付加 されて、新 しい教授 学の「構成的」な視点を成立させる諸要因 とされるのである。それゆえ「構成的」な視点は明 らかに伝統的な教授学に依拠 しているのである。これらの特徴が「批判的 ―構成的教授学」の 不可欠な要因であることは理解 されるが、 しか し諸特徴がこの教授学において弁証法的に止揚 されているとするには、諸特徴の変容 を促進 させる視点を明確 にする必要がある。

なおクラフキーは、精神科学的教授学の特徴 を明示する以前に、精神科学的教育学の特徴 と して次の4点を挙げている。0要点的に示す と、

(1)精神科学的教育学は、教育実践の理論 とし て、同時に実践のための理論である。(2)この教育学は、「教育学の相対的自律性」 を追究する ものである。(3)この教育学は、あ らゆる教育理論および教育現実を歴史的現象 とみなしている。

そ して④ この教育学は、歴史的 ―解釈学的な研究方法に基づいている。言 うまで もな く、これ らの特徴に依拠 して上の教授学の特徴は引 き出されているので、教授学特有の特徴 として指摘 しうるものは少ない。挙げるとすれば、⑦の「教授学優位性の原理」 と③の教授学 と教科教授 学 との関係 に関するものである。 これ ら二点は、精神科学的教授学 を本質的に特徴づけるもの であるので、「批判的 ―構成的教授学」においてどの ように捉 え られているかが注 目される。

その点は後で言及されるであろう。

さて、それでは「批判的 ―構成的教授学」は精神科学的教授学の諸特徴 をどんな点において 変容 させ ようとしているのであろうか。クラフキーによれば、まず第一に「教授学」の概念を 拡張することである。彼は、

J.ド

ルヒの見解 を支持 して、あ らゆる階層のあ らゆる形態の学 習 とあ らゆる種類の教授 を取 り扱 う教授学に、学習・教授一般についての科学 としての教授学 に転換することを主張 しているのである。初等・ 中等の義務教育学校を念頭に置いた教授学の の概念は、ここ数十年の間に多様な学校種や教育施設に、そ して余暇のための教育など多様な 生活面に適用することが求め られて きている。そ して今 日では生涯学習・教育の視点は、逆に 学校教授学の変容を迫っているのである。その意味において も、教授学概念の拡張は時代の必 然的な要請である、 と彼は指摘 している。0

そ してその第二の、精神科学的教授学の変容を要請 している要因は、「社会化研究」 お よび

「制度分析」による認識の重要性が確認 されるようになったことである。教授・ 学習の理論 と しての教授学は、学習の社会的前提 と制度的条件 とを考慮する必要がある。 クラフキーが特に 指摘 しているのは、「 日常世界」の内部で機能的に作動 している学習過程の解明、 そ してその 学習過程 と個人の態度・能力・判断・不安・抑制等 との関連性の研究、さらに学校その他の施 設が教授・学習過程に関 して内包 している制約・許容範囲の解明 とその改善可能性の分析の重 要性である。0

要するに教授学概念の拡大化、社会化研究・制度分析 との連携強化は、回避 しがたい時代の 動向への対応であ り、それ らの視点を取 り込む「批判的 ―構成的教授学」への変容は教授学的 にも「必然的な発展」なのである。そ して、それへの発展において教授学は「社会全体 との連 関性の考察」 と深 く関連づけられることになる、 とクラフキーは捉 えている。

(5)

「批判的―構成的教授学」における教育と社会との関係理解は、言うまでもなく精神科学的 教授学のそれを変容させたものである。後者において、世界

(そ

して社会も )は たとえ歴史的 に変遷するものであれ基本的に「平穏な世界」 として理解されている。そして解釈学的―現象 学的的な「了解」によって、世界は「有意味な必然的な構造連関」をもって「現在」するもの として肯定的に把握されるのである。それゆえ教育は「現在」する肯定的な世界

(社

)と

の 関わりにおいて、有意味な世界の規範内容との関わりにおいて遂行されるのである。それに対 して「批判的―構成的」な立場は、否定的な世界 との関わりにおいて教育の主要な活動を捉え ている。だからこそ、教育実践を理論的に方向づける試みが重視されているとも言える。しか し、教育・教授は否定的対決によって本当に成果を挙げることができるのであろうか。肯定的 受容と否定的拒絶との教育的・教授的な効用についての評価は意見の分かれるところである。

だが基本的に言えることは、前者は心情陶冶と、後者は意志陶冶と結びつき易いというこ ‐ とで ある。それを示すかのように、「批判的―構成的教授学」 はその目標 として「 自己決定能力」

を強調 している。自己決定をすることが、その個人の教育・陶冶とどのように関わるのであろ うか。あるいは、自己決定能力の重視は、従来の教育・教授観にどのような変更を求めること になるのであろうか。こうした問題意識は次の陶冶理論と深 く関わるものである。

3「

批判的―構成的教授学」の陶冶理論的前提

精神科学的教育学・教授学の本質的 とも言える特徴は、それが陶冶理論に基づいているとい う点にある。それゆえ、精神科学的教育学 0教 授学に対する批判は実質的にはその陶冶理論に、

つ まりそこで使用 されていた陶冶概念の意味理解に向けられていたのである。その陶冶概念は、

過度に理想化 0理 念化 されているため、教育実践の内容 と方法 を的確に把握 させ導 くことが も はや不可能になって しまっている、 というのがその批判の主旨であった。

その事情 を十分承知 した上でクラフキーは、「批判的 ―構成的教授学 もまた・・・陶冶理論 的な基礎 に依拠 している」働 と明言 している。陶冶理論的な基礎づけを「必然的かつ可能なこ と」 とする理由を彼は二点挙げている。

第一に体系的な理由として、教育実践 とそれを意味づける理論的研究 との統合性 を確保する ためには、方向性 をもた らす中心的カテゴリー (陶冶概念のような)が不可欠である。「現実 主義への転回」以後、多 くの教育学・教授学理論は確かに陶冶概念 を放棄 したが、 しか しその 代替 となる別の概念、例 えば「生活場面の克服に必要なコンピテンス」を追求 していたのであ

る。その意味において基本的には陶冶理論は存続 しているのである。

陶冶概念の代替 としてクラフキーは、最終的に、「 自己決定能力」「共 同決定能力」 お よび

「連帯能力」 を提示 している。 これ らの説明は後でなされる。

第二は、歴史的な視点か らの理由づけである。彼は、1830年頃までにはすでに教育学的思想 の中心概念 となった陶冶概念は「批判的 ―進歩的な概念」であった し、少な くとも「社会批判 的な概念」でもあった、 と指摘 している。つ まり、その概念には啓蒙思想の中心的な理念が保 持 されているのである。それはカン トが 〈自己に責任のある未成熟か らの人間の脱却〉 と表現 した理念である。人間の精神的な未成熟性の原因は悟性の欠如にあるのではな く、 自分か らす すんで悟性 を使用 しようとする決意 と勇気 を欠 くことにある、 というカン トの見解に基づいて クラフキーは、「 自己決定能力」 を獲得することの重要性 を強調するのである。 さらにまた彼 は、理性能力の発展は生活条件の人間化 と社会的 ―政治的な諸関係 をより理性的な ものに し、

(6)

根拠のない支配関係 を撤廃 させ、人々の 自由の余地を拡大 させ るものである、 という意味 をそ の理念に読み取るのである。

今世紀に入って陶冶概念は衰退化の傾向を示 し、特に

60年

代以降には陶冶 とい う用語 を使 用することさえ控えられるような状況 も生 じていた。 しか し他方において、陶冶概念の現代的 な意義 を捉 えなおす試み も近年み られるようになっている。

要す るに、「批判的―構成的教授学」の陶冶理論的な基礎づけは陶冶概念の啓蒙主義的 な解 釈の確認 と今 日的な有意義性の把握 とによって行われているのである。

次に問題 となるのは陶冶の 目標についてである。精神科学的教授学は「規範的教授学」 と称 されていたように、その 目標は本質的に「価値的性格」 を有するものであった。高度な文化的―

精神的価値が追究される場合は「陶冶理想」 という表現が用いられていた。 より現実的な水準 では、社会生活の内で機能 している規範か ら陶冶 目標は引 き出されていたのである。それに対 してクラフキーの「批判的 ―構成的教授学」は、「カテゴリー的陶冶」 と「一般的陶冶」 とい う二つの視点か ら陶冶 目標 を規定する方法 を取 っているのである。

「 カテゴリー的陶冶」について筆者は別稿aOで紹介 しているので、ここではその要点の指摘 に留めたい。クラフキーによれば、この陶冶理論は「主体」 と「対象」 との関係を仲介する理 論である。両者の関係は二重の「開示性」 によって成立 している。すなわち、歴史的現実が 自 己を陶冶する人間に対 して「開示」 される、つ まり「接近 しうるもの、理解 しうるもの、批判 しうるもの、変更 しうるもの」 として受けとめ られると共に、同時に主体はその歴史的現実に 対 して自己を「開示」する、つ ま り「 自己の内に理解可能性、行為可能性、責任可能性 を発展 させ る」のである。 こうした主体 と現実 との「相互的な開示性」が実現 されるのは、「無数の 具体的なものを根本形式、根本構造、根本類型、根本関係 に、つ まり諸 カテゴリーの構造に還 元 し、陶冶過程においてそれ らの積極的な獲得・発展を教育的な援助でもって可能にする」場 合である。0

この「 カテゴリー的陶冶」の理論は、いわゆる「形式陶冶」 と「実質陶冶」 とを統合するも のである。ただ し、その重点は「知識のカテゴリー」に置かれていて、そのカテゴリーが認識 のカテゴリーにな り、その行使によって認識能力が成立することになるのである。それゆえこ の陶冶理論の 目標は「カテゴリー的な認識能力」 を獲得 させ ることである。 なお、 ここでの

「 カテゴリー」はカント的な「主観的 ―先験的な悟性形式」 としてのカテゴリー (範)で

な く、「客観的 ―対象的な要因と主観的 ―形式的な要因との対応・相関関係」 を表示す る哲学 的な一般的意味をもつ ものである、 と彼は説明 している。

陶冶 目標に関する第二の視点は「一般的陶冶」である。陶冶を「一般的陶冶」 と規定するこ とは、人間的および民主主義的な陶冶概念を追究 した ドイツ古典主義の教育思想にもみ られた ことであると指摘 して、クラフキーは「一般的」 という用語の意味を次のように規定する。0

①陶冶 というのは、それぞれの社会 。文化圏のあ らゆる人間の可能性であ り要求である。

②陶冶は、人間の もろもろの可能性の総体 を意味 している。すなわち、「一般的」 とい うの は、生産的に労働する存在、世界を技術的に変容 し、認識する存在、倫理的・政治的に決断 し 行為する存在、情緒的に感受 し価値づける存在、仲間との関係 を保持する存在、美的に知覚 し 造形する存在 としての人間を目指 しているという意味である。

③陶冶は主 として「一般的なこと」 を媒介にして行われるものである。すなわち陶冶は、人 間に共通に関わる課題 と問題、歴史的に発展 された思想、個人的・社会的存在 としての人間の

(7)

基本的経験、将来に関わる問題等 との対決においてなされる。

この規定は、特 に② と③がそうであるが、先の「カテゴリー的陶冶」を一層具体化ない し精 確化 したもの と言えよう。いずれにせ よ、 これ ら二つの陶冶理論は「一般的なこと」 を媒体 に して、その学習者を世界に、歴史的・現実的そ して将来的な社会に大変有効な仕方で結びつけ る性格 を持 っているように思われるのである。精神科学的な教授学は、現存する世界への適合 性 0適 応性 を重視するとして非難 されることがあったが、実際にはその教授学 は現実の世界 を 見る知性・能力の育成には失敗 していたのである。つま り受け身的に社会の中に組み込まれて 適応 していったとい うのがその実体であろう。 したがって、この「批判的 ―構成的」 な教授学 の方が、青少年を社会に強 く結びつける可能性 をもっていると思われる。そこでクラフキーは、

この「一般的 ―カテゴリー的な陶冶」理論は青少年をこれまでの歴史に縛 りつけるための もの ではな く、「彼 らにその歴史的現在の理解 と将来の形成のために自己決定する自由をもた らす」

ものであると念 をお している。

以上のような陶冶の考察の最後に、クラフキーは次のように陶冶概念 を規定 している。「 陶 (陶冶性)というのは、

 00・

主 として各個人の自己決定能力 と共同決定能力、および連帯 能力 と理解 されな くてはならない」00、 と。それ らの意味は次のように規定されている。

・ 自己決定能力 :人 間関係的、職業的、宗教的な種類の、各個人の個人的な生活関係 と意味 づけに関して自己決定するための能力

・共同決定能力 :わ れわれの共通な社会的および政治的な諸関係 を造 りあげることに対 して 各人が要求、可能性、責任 をもっていること

・連帯能力:自己決定 と共同決定への要求が正当化 されるのは

t社

会的関係・政治的制限な い し抑圧等によってそれ らの能力が制約 されている人々が存在 しない場合であ る、 ということを認識 していること

陶冶概念 を「 自己決定能力」 として捉 えることは、。一見違和感を与えるものである。 だが、

その訳語の原語である ドイツ語「Selbstbestimmungsfaeigkeit」 は「 自己規定可能性」 とも訳す ことができ、そうすれば精神的な規定およびその可能性 を意味す る陶冶 (Bildung)に 接近 し て くる。その註をしたうえで指摘 されることは、従来陶冶および陶冶可能性は人間の精神的内 面を外部か らの文化的な働 きかけによって形成することを、そ して内面的な被規定性 という性 質を帯 びていたのに対 して、クラフキーは陶冶が 自己の主体性 に帰属することを、そ してそれ への責任は自己に所在するということを強調 したと言えるであろう。

4「 批判的―構成的教授学」における三つの方法論の統合

すでに指摘 されているようにこの教授学は、歴史的 ―解釈学的、経験科学的 (経験 的)、 して社会批判的 ―イデオロギー批判的 という三つの方法論お よび視点の統合 という研究方法論 的な特徴 をもっているのである。三者の統合 と言って も、実際には歴史的 ―解釈学的方法を中 軸に して他の二つの方法がそれに連結するとい う形態になっている。 どういう形態であれ三者 の統合は、それぞれの科学的性格か らみて不可能であるとの指摘がなされているが、 まずはク ラフキーの試みをみることにする。

クラフキーは、三者の統合の仕方を「構成的な統合」 と呼んでい る。α°それは三つの方法視 点 を受け継がれたままの形で単 に「加算」することではな くて、それぞれの方法視点が相互 に

「補完」の関係で連結することである。その補完的な関係は各方法視点の「補完必要性」 に起

(8)

菌するものである。「補完必要性」 というのは、「それぞれの方法視点の内容 と妥当性は他のそ れぞれの方法視点によってのみ科学的に検証 されうる」 という仮説に基づ くものである。

統合の基本的な規定をしたうえで彼は歴史的 ―解釈科学的な視点の意義を明確にするもその 次にそれ と経験的な視点 との連結、最後にそれ ら両者 と社会批判的 ―イデオロギー批判的な視 点 との連結の必要性 を論証的に証明 しているのである。以下その順に要点をおさえることとす る。その際、理解 しやす くするために筆者の解説的な記述を加えている。

a)歴史的 ―解釈学的な視点

学校の意味を捉 えるには、それが社会 とどんな有意味な関係 をもっているか、そ して歴史的 にその関係はどのように変容 して きたかを理解する必要がある。同様に人間にとっての教育の 意味を知るには、人間存在ない し人間の活動全体 との有意味な関連性 を理解する必要がある。

このように個々の事柄の意味を理解するためには、それらを内包する「全体的な連関」 を捉 え な くてはならないのである。この全体的連関性 を捉 える方法視点 こそ歴史的 ―解釈学的な視点 なのである。

教育活動は本質的に教育学的な意味づけ、意味付与によって基礎づけられているのである。

教授学において、授業の 目標や内容、方法、教材について検討する場合、教師 と児童・生徒 と の教育関係および意志疎通の問題 を考察する場合、そ してまたどうしてフランス革命について 学習する必要があるのかが問題 とされるばあい、児童・生徒が学習への不満 を示 した リグルー プ学習 を拒絶 した りする場合、要するに教授学的な理論や実践の問題が提起される時には常に、

教授学的な意味づけ・意味付与・意味連関が問われているのである。教授学的な意味づけは包

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けがなされることを忘れてはならないであろう。

この視点において教授学は、そ うした意味づけの蓄積により、教育実践のための教育実践の 科学 として理解 されるものである。つ まりこの教授学の中心的な課題は、歴史的 ―解釈学的な 研究手法によって「現在の教授学的現実」 を意味的に解明することである。

b)歴史的 ―解釈学的視点 と経験的視点 との連結

そこで次にクラフキーは、歴史的 ―解釈学的な視点により獲得 される教授学的な認識を反省 的に捉 えて、経験的な研究による補完の必要性、つ まりその研究視点・方法 との結合の必要性 を導 き出すのである。例えば、教授・学習の現状 とかその成果の問題に直接的に関わろうとす る場合、前者の解釈学的な視点・方法は有効 さに欠けるのである。 というのは、「歴史的 ―解 釈学的な解釈は意図に関わる部分、解釈 を必要 とする部分だけに、換言すれば教授学的な現実 の意味づけ・意味連関の要素だけを捉 える」か らである。それだけでは当然のことなが ら、教 授学的な現実の全体的連関は把握できないのである。

経験的な研究による補完の必要性 を示すために彼は次の事例を挙げている。例えば、歴史授 業や数学授業の教授学的な意味付与を解釈学的な研究は解明 しても、実際の授業がその意味付 与 と合致 しているか どうかを確認するには経験的な研究の援助が必要である。

歴史的 ―解釈学的な方法視点は、そうした点において経験的な研究による補完を必要 として いるが、それでは後者は前者による補完を必要 としているのであろうか。あの「現実主義的な 転回」 において、経験科学的な教育学が精神科学的教育学の現実を捉えるいわば本質直観的な

(9)

「見 る目」の素朴 さを批判 して以来、経験 と解釈学 とは互いに相入れないものと思い込 まれて いた。 しか しクラフキーはその想定を打破するのである。彼 によれば、経験的な研究お よびそ の対象 と解釈学 とは緊密 に関連 しているのである。それは次の三点においてである。 第一 に、

あ らゆる経験的な研究は問題提起 を前提にしているが、その問題提起には一定の意味解釈・意 味付与が不可欠の要因となっているのである。第二に、経験的研究の対象が教育的・教授学的 なものである場合その対象は、 自然的事実の意味での「単なる所与」ではないので、事前の歴 史的 一解釈学的な解明を必要 としているのである。そ して第三に、経験的研究で得 られたデー タの分析お よび結論は解釈 を必要 としているのである。 こうした関連性か らみて、解釈学 と経 (―科学)とは相互的な補完関係 をもち、互いに検証 しあっているのである。

C)社会批判的 ―イデオロギー批判的視点 と、歴史的一解釈学的視点および経験的 との連結 すでに指摘 されているように、教授学的な事柄および問題提起は全社会的な連関構造に組み 込 まれている。 この事実 を研究の対象にしているのが社会批判的 ―イデオロギー批判的な立場 である。西欧の教育史においてこの視点を示 しているのは、ルソー、フランス革命期の教育 コ ンセプ ト、 シュライエルマ ッハー、デ イースターヴェーク (その一部分で

)、

ベ ル ンハ ル ト、

そ して「批判理論」の影響 を受けた教育科学者たちである。この最後のグループにクラフキー は位置づけられるであろうが、 しか し彼は単なる批判理論的な教育科学者でない と言 えよう。

彼 はその「批判理論」の重要 さをその社会分析的な視点にのみでな く、それが「 ドイツ観念論 に根 ざす成熟 した人間という中心思想」 をもっていることにも見い出している。

この視点の基本的な仮説は、あ らゆる教授学的な制度 と決定は社会的な関係 と観念によって 刻印づけられている、 というものである。それに基づ く教授学的な研究は、例えば教育課程の 内容の中に入 り込んでいる社会的な情況や関係 を明 らかにすることである。そうした社会 との 関連性が問題にされる場合には、同時にイデオロギー批判的な視点か らの考察が必要になるの である。クラフキーは「イデオロギー」 を「誤った社会的意識 と証明されるもの」 として規定 している。社会における特定の権力への依存関係、不合理な人間関係 さらに根拠のない社会的

通念等を一定の利害関心または意図をもって

(正

当化〉している見解および思いをイデオロギー と言うのである。教授学的な例として彼は、「生徒には現実の調和的なイメージが提示 されな くてはならない」という見解を挙げている。その見解は、現実の社会において公正さ、民主主 義的な自由が完全に実現されているかのようにみせかけるものである、と批判 している。これ は、周知のごとく、よく議論の対象となる問題である。子 どもの発達段階を考慮 しなくてはと かいろいろ付帯条件をつけられ、今なお決着をつけ難い問題である。ある意味では、クラフキー の見解の方が「イデオロギー」ではないのか、と問われた時、彼はどのように回答するのであ ろうか。実のところ、彼のそういう見解は「平穏なる世界」を前提する精神科学的教育学・教 授学に対する批判に起因するものである。この教授学は「教育固有なこと」を認めているのに

対 して、社会批判的な立場はそれを社会の中に解消 して しまうので、当然両者は対立するわけ である。いずれにせ よ、 この問題はさらに追究 されなくてはならない課題である。

そうした考察をしてクラフキーは次の ように結論づけている。すなわち「教授学的な制度・

プログラム・理論の歴史的 ―解釈学的な意味解釈の中に、社会批判的 ―イデオロギー批判的な 問題提起は統合 されな くてはな らない」00と。なぜ ならば、教授学的な資料 は一定の社会的な 利害関係による制約 を受けているか らである。

(10)

そのことは同様に経験的研究に対 しても言えるのである。特 に経験的研究の問題提起 とその 結果の評価 と解釈に関 して。経験的研究はそれ らにおいて「中立性」の位置を確保できるとの 前提 に立っているが、すでに指摘 されたように経験 と解釈学 とは緊密な関係にある。解釈学 と 関係があるということは、批判的な視点か らの「問いかけ」 を取 り入れその妥当性 を吟味する 必要があると言えよう。そ してクラフキーは経験的な研究に対 して、それは民主主義的一人間 的な目標設定に導かれた ものでな くてはならないと要請するのである。要するに「自己決定能 力、共同決定能力、および連帯能力の育成」 という目標に寄与するものでな くてはならないの である。

以上、三つの方法論の「構成的な統合」についてみてきたが、三つの方法視点の補完的関係 についてのクラフキーの論証は、結局のところ解釈学的方法の「限界性」に関わっているので ある。解釈学は本来的に現存する「共生的な生 (生

)の

連関」の理解 (了)を意図 したも のであって、「理解 (了

)は

方法 とい うよりも、体験である」 と言える。 したが って この解 釈学 を実践 を積極的に方向づける教育科学理論 と結びつけるのは適切ではないのである。00そ こで彼は両者を結合するために積極的かつ実践的な陶冶 目標である自己決定能力を提起するの である。 この 目標達成のために三つの方法視点を相互補完的に統合 して活用するのである。そ の統合の原則は「相互検証性」に求め られているが、この科学理論的な論証はまだ十分ではな いと思われる。それはともか く、この「批判的―構成的教授学」の構想において、解釈学はそ の固有の世界観および価値観において一旦「中性化」 され、そのうえで日標志向的な実践的性 格 を付与 されていると言えよう。その試みこそクラフキーの研究意図であ り、それによって実 質的に精神科学的視点か ら批判的 ―構成的視点への変容が達成 されるのであろう。

註〉

(1)Vgl.W.Klafki:Neue Studien zur Bildingstheorie und Didaktik.〔 Neue Studien〕 Beltz 1985.S.37.

(2)K.Reich:Erziehung und Erkenntnis.Klett‐ Cotta 1978.S.298.

(3)Vgl.Neue StudienoS。 32.

(4)Vgl.ebendaoS.3 5ff.

(5)W.Klafki:Von der geisteswissenschaftlichen zur kritisch‐ konstruktiven Didaktik.

In:H‐K.Beckmann(Hrsg。 ):Schulpaedagogik und FachdidaktikoW.Kohlhammer 1981.S.55.

(6)W.ク ラフキー(小笠原道雄監訳)『批判的・構成的教育科学』黎明書房

 1981.19ペ

ージ以下参照.

(7)Vgl.Neue Studien.S.39.

(8)Vgl.ebenda,S.40.

(9)EbendaoS.42.      ̀

αO拙 稿 「W.ク ラフキー陶冶理 論 の考 察」 静 岡大 学教 育 学 部研 究 報告

(人

文 。社会科学篇)第

41号

1991.205‐

222ペ

ー ジ参 照.

〔⇒

Neue Studien.S.42.

l121Vgl.ebenda.S.45.

l131ibid.

041Ebenda.S.46.

l151EbendaoS.58.

61Vgl.D.Ulich:Theorie und Methode der Erziehungswissenschaft.Beltz 1972.S.14.

参照

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