アジア概念,ヘーゲル
『精神現象学』に拠って(補遺)
科学哲学批判
川 田 俊 昭
くコ む
経済学(敢て,経済・経済学の研究とは言わないが)を志向している我々,我々の周囲 の者は,一体に極めて楽観主義的であるのが,普通である。彼等(我々自身を含めて)を 一般的に特徴づけるもの それは,或る種の錯覚に基づくところの,既知・既成の領域
としての経済学への安住である。
千年至福的楽観主義 豚のような 自己満足。
変化・変革ありとしても,せいぜい,若干の手直し程度のもの,小手先仕事,所謂 業 績 に終始する。
手垢によごれた・うすぎたない論理実証主義(公式主義)や,三百代言的弁証法(ドグ マ,イデオロギー)こそは,彼等(俗流)が,御生大事とする守本尊である。
筆者は,一昨年の所謂 長崎大水害 の約1ケ月前,ある種の予感をもって(結果的に言って),
次のような原稿下書(「経済学における神話」序節,本節は中断)を,したためていた。
「6月,日本列島は固有の梅雨期を迎え,毎日がうっとうしい雨の日々であり,しかも,時にそれ が集中豪雨型の,家の基盤をも洗い流すようなドシャ降りの際にも,我々は一種の安堵の中にある。
家や土地が,更には,このマチが水の中に埋没するような危険は,よもやあるまい,と。まして,
人類の危機 など,毛頭だに予想しない。
そして,我々は,従前と変りない凡々たる日々を繰返すことを,立前としている。一その保証は,
我々の中における,我々の間に交わされる黙契のうちにのみある。より正しくは,「……しかない」,
と言うべきであろっ。
丁度,経済(学)について我々が考慮する時,その実,我々は,同様の楽観主義的な弊に陥ってい るのである。
せいぜい,事あっても,資本主義から社会主義へと(或は,その逆に)変革するに止まる,と。依 然として,我々の考え方は,相対的な域に止まり, 経済(学)の基礎 にまで,及んでいない1 経済体制についての仰々しく,騒々しい論議も,只管,姦しく,空転するだけであるd
宗教,芸術,或は文学には天才を必要とするが,法学,経済学など社会科学(の修得)
には天才を必要としない(凡庸であってよい),ただ年数だけ 既製の知識(の量)を 積み上げればよい,とは,大学生の男主人公の心境に托したところの我国のある小説家
(所謂 売文の徒 )の言葉である。
む
再読したいという意欲を少しも湧かせぬところの 本邦の三文文士の小説(シナ人の 所謂「小説」)の中にも,一般のレベルを超えたところの,部分,些かの,興味ある叙述 がある場合がある,その一例であろう。
.天才を必要とするのは,量,芸術などに限られない,社会科学の場合も全く同様である というのが,筆者の主なる意見の一つである。
先の文士は,大きくは,二つの錯覚に陥っている。
一つは,彼が,天才を単なる ひらめき と同一視していることである。
、青白い貧弱な体躯と外貌こそは,天才としての外見(或は実質的内容)と夢想する。し かしながら,天才,天才的作物は,決してそのようなところに胚胎するものではない。と
りわけ,線香花火よろしく,一挙に,突然のひらめきとして結果するが如き安手のもので は,決してない。はるかにたくましく息の長い過程,極めて生産的・創造的(積極的)な 結果として生ずる。
能役者・演出家(芸術家),観世栄夫氏の次の一文(郵政省「はがきインタビュー」より)は,
その点,正鵠を得た言葉である。
謂う。
「『珍らしきと思うが花なるべし。』これは,能の大成者であり,私の祖先でもある世 阿弥の書き遺した言葉です。『珍らしき』というのは,奇想天外な物珍しさを言ってい るのではなく,物を創り出していく人間というものは,自分自身を常に厳しく見つめ,
日々,工夫研究を加え,昨日の自分,今日の自分を打ち壊して,明日に向って自分を創 り変え進んでいく努力を怠ることなく続けねばならない。それで,始めて,自分の創り 出すものが,新鮮で生命力あふれる美しさを保つことが出来るのだ,と言っているのだ と思います。しかし,苦心して築き創り出して来た自分の技なり考え方なりを打ち壊し て,明日,明後日のために新しく創り変えていくことは,大変に苦しく辛いことですが,
それを乗り越えて始めて,いつも生き生きとした枯れることのない『真の花』を咲かせ ることが出来るのだ,と言っているのだと。……」
二つに,先の文士は,経済学(社会科学)を,単なる知識の集積と見ていることである。
事実,そう見られても詮方ないのが,従来における本邦経済学者の所謂 業績 であっ た。が,しかし,それは所謂「偏差値教育」,或は凡庸(似非インテリ)にとっては,た
とえ有意義であっても,知識(真理)それ自体については,従って又, 真の 知識人(教 養人)にとっては,その価値は,ゼロに等しいか,場合によっては,マイナスの性質を有 するものでさえある。模倣・亜流としてのそれ一それは,ゴミ,しかも,粗大ゴミの集
積以外の何ものでもない。
もほう じんこう
「暮倣は用米に堕すd(呉昌碩)
知識は,批判を,・自己批判(自己否定)を内に蔵することによってこそ,知識である。
以上,二つの筆者による指摘は,当然,我々の知識が,量的拡がり・繋がりの上に保証さ れるものでないこと,換言すれば,単なる表象(現象)のきまぐれな連なりにではなく,
その深部,即ち本質(認識の価値)に関わるべく質的規定を,とりわけ,時に,飛躍・発 展(変革・革命)を内的必然としていることを,我々に示唆するであろう。
こういつたことへの無感覚,或は錯覚(精神の薄弱を理由とする)こそは,反面,我々の 精神の産物(としての知識)の,事実上,その具体的現実についての無力・無効の証左とし て,たとえば,所謂 経済学の危機 (科学の危機 諸学の危機 )として,現存している。
何故ならば,斯かる知識は,その実,真の知識所謂 真知 (先の観世氏の所謂「真 の花」)ではないからである。
「知識というものは,本来,変革をもたらすものである。」(アリゴ・レービ)
無論,このことは,経済学(科学)が 独断と偏見 に支配されることを,決して,望 むものではない。普遍妥当性,即ち,如何なる人間,如何なる者にも(M.ウェーバーの 言葉を借りれば,「シナ人にも」),通用,納得のいくことを,大事としている。
しかし,普遍妥当性,「客観性」を希望することは,無力,或は,その安きにつくこと を,必ずしも,意味しない。
それでは,我々は,如何なる自然の(むしろ,自明の)主張と立場を,保持すべきと言
つのか。
「……もし,人々が,他人のすべてが言っていることを,ただ,繰返すことしかしなか ったら,……いつの日か,私が,大多数の人々と意見の一致をみる日が来たら,それは,
私が研究をやめてしまっていることを意味する。そして,その時は,誰か他の人が,更 に進んでいかなければならないd(ミルトン・フリードマン)
経済学を一つの手掛りとして一問題(の理解)の端緒につくために,しかも,如上の 筆者の主張の「つの証言として,ある一つの援用(松浪信三郎『死の思索』,岩波新書,1983年)
を,便宜として,利用しよう。
曰く。
「哲学が表現の手段としているものは,ロゴス(言論)である。ソクラテスが友人達の 疑問に応えつつ,霊魂の不死を立証しようと試みる時,彼が拠り所とするのは,そのよ うなロゴスである。ロゴスは,一挙に,人の直観に訴えたり,人の心情を動かしたりす ることが出来ない。ロゴスは,筋道を立て,順序に従って,一歩々々,人を納得させて いくしかない。その途中で,幾つもの疑問や反論が生じる。従って,ロゴスの筋道は一 本道ではない。行ったり戻ったり,脇道にそれたり,廻り道をしたり,時には振り出し
に戻って出直したり,色々な紆余曲折を経なければならない。そうした揚句,必ずしも 目的に到達出来るとは限っていない。全く御破算になることもある。ソクラテスの問答 法とは,そのようなものであった。これを読んで難しいと言うのは,そういう紆余曲折 を辿っていくのが,面倒臭いというだけのことである。だからこそ,ソクラテスは,あ の最後 )日の問答の最中にも『言論嫌い(ミソロゴス)という気分に陥らないようにし よう』と,友人達を戒めたのであるd(同書,70頁) ●
然して,斯かる意味での, より正確には,斯かる意味として捉えられた,ソクラテ スにおける哲学,ロゴス(の実体)こそは,又,哲学のみならず,その他の諸学,即ち,
経済学を含む社会科学(……自然科学)その他における論理(存在・認識の論理)そのも のなのである。
加えて,筆者をして言わしむれば これこそは又・ヘーゲルにおける論理・殊に筆者 の場合,当面しているところのヘーゲル『精神現象学』における論理そのものな②である。
斯かる論理が,所謂 アジア概念 に適用されること,無論,論を侯たない。
尚,本稿の以上の見解については,拙稿,「経済学説史の方法一経済学の現状についての批判と展 望のための」(雑誌「経営と経済」,第61巻第4号,第62巻第1〜3号),併参。
アジア概念の基礎論,殊に,《認識論》たるべきヘーゲル『精神現象学』を,前里(「ア ジア概念,ヘーゲル『精神現象学』に拠って(1)」,「年報」,第24・25(合併)集)に引続いて取扱う今 一つ以前に,前述に関わる
二つの小県 更に加えて
一つの大きい解題 を取扱う。
斯かる脱線は,恰も骨董を骨董自体として尊重する,即ち,既成を既成として取扱う,
コ リ コ む む の
在り来たりの不生産的な目的のためではなく,一つの批判(限定としての)と,他の今一
くう
つの批判(一般化のための)として,より生産的・創造的な役割を果し得ると確信するか らである。いわば,そのことが,筆者における前向きの立場の足固め・用意として,乃至,
普遍的・客観的な説得性に,これ又,些かの便宜を与えると信ずるからである。
小題の一つ
最近時出版の,宇沢弘文『ケインズ「一般理論」を読む』(岩波セミナーブックス7,1984年 3月) 同書の叙述中,たとえば,
「ケインズが批判した正統派の理論は,ワルラスの一般均衡理論にその雨着が最も集約 的に表されているd(同書,40頁)
それは,筆者もかねがね主張していることであり,ケインズは又,ジョン・ブル気質とし
て自国の経済学者しか問題にしなかった……など,そういった若干の小視点( 点と線 中の点と称すべきか)を除き,同書にさしたるユニークさはなくとも,本邦レベルの解説 書としては一部適当な の中に,著者自身,その重要を全く理解していないところの
(所謂 玉石混清 ,折角の玉を石と化しているところの),次の如き一文(引用を主とする)
がある。
「ケインズは,ユ946年4月21日逝去したが,その翌日,ロンドンのタイムズ紙は,長文 の追悼文を掲げてその死を悼み,ケインズに匹敵するほど大きい影響力をもつ経済学者 を見出すためには,アダム・スミスまで遡らなければならないと述べた。追悼文として の,些かの誇張はあったとしても,おそらく当時のイギリスにおけるケインズ評を代表 したものだと言ってもよいであろう。ハーバード大学のセイモア・ハリス教授は又,
1947年に『新しい経済学New Economics』を編して,当時指導的な立場にあった26人 の経済学者の手によって,ケインズ経済学の全容を伝えようとしている。その中で,シ ュムペーターは,ケインズ経済学の特質を,次のように述べている。
『現実の.経済の混沌とした表層的現象の深部に存在する本質を,天才的な能力によっ て洞察し,経済循環のメカニズムに関して,単純にして明快な構成をもった理論模型 を提示したのが,ケインズの経済学である。』
ケインズ経済学がもたらしたものを,ローレンス・クライン教授は,『ケインズ革命』
という言葉を使って表現した。安井琢磨教授の言葉を借りるならば,『経済学に新しい 地平を開き,新しい分析方法をつくり出し,それによって,公共政策への手段としての 経済学の威信を回復したという意味で,ケインズ経済学は,確かに一つの革命であった といえよう。』」〈同書,3〜4頁)
この一文の後半,殊に援用(の内容)は,科学における「革命」という意義を若干敷衛 しているという意味では,必ずしも無意味ではない。 しかし,ただ,それだけのこと である。むしろ,悪しき実証主義,凡庸に止まる。
況して,同書におけるその他の技術(論)的詳細(就中,纏まりあない)についての言 及は,論議そのものとしては,無意味,不毛である。
ここで,重要なのは,前半,即ち,シュムペーターの言葉そのものである。
それは,「ケインズの経済学」というより,むしろ,シュムペーター自身の経済学を,
一言の無駄もなく,直接に,即ち,直載且つ厳密に,指示している。いわば,シュムペー ター癖というか,抜群の極立った才能に間々あり勝ちな固有の,シニカルな言い廻しであ
る。
にも拘らず,この著者は,それを全く自覚していない。
禅(の本質)とは何か幽 それは 無 である。 野狐禅 を得意とする世のインチキ 坊主に倣うならば,筆者の結論は極めて単簡・簡単に決まる。
既述の筆者の行文に,夫々,次の言葉をあてはめれば,すべては,明快である。
曰く。
「混沌とした表層的現象」,「深部に存在する本質」 媒介(者)としての「天才的能
力」,天才。
「現実の経済」……「経済循環のメカニズム」(経済の本質,マルクス・シュムペーター・
ケインズ共に等しく経済の核心と認めたところの)……究極としての本質 内的必然。
「単純にして明快な構成をもった理論模型」,理論……論理……。
天才者としてのシュムペーターを見抜けない者には,所詮,経済学の論議も又,野狐禅 に等しい。
命題 天才とは,努力し得る才能である。
天才的努力(能力)は,一つの(内的)必然性一深化への方向性をもつ。
(諸)天才は,近い窮極において,一つの共通をもつ。
「人は偉大になって,偉大を感ずるd(フランス映画『旅路の果て』より)
小題の二つ目
最近著の一つ,柳瀬睦男『科学の哲学』(岩波新書,1984年3月)に,こうある。
「・・…・自然科学の方法論が一体何を我々に与えるか,つまり,自然科学の方法論でどれ だけ本当のことが分かるか,という問題……。自然科学が何故起ったかということの一 つの理由,動機は,物事(自然現象)をなるべく人間の主観的な表現とか,主観的な印 象から離れて,誰でも,何時でも,納得出来るような仕方で記述しようということであ つた,と思います。熱いとか冷たいとかいう主観的な表現が,温度という客観的な目盛,
客観的な尺度で言い表わされるようになる。……このように,誰の目にも客観的に納得 出来るようなやり方で,自然の現象を記述していこうとする。……更に,自然の現象と いうのは,非常に複雑なように見えるけれども,案外簡単なのではないか,簡単なから くりがあって,どこかで何かの法則が決まっていて それに全部が従っている。そうい う形で理解が出来れば,その法則さえ知れば,後は,それを,個々の場合に当てはめて いけばよい。そこで,自然科学は,そういう動機によって,自然現象を整理して,実際,
非常に多くの成果を収めてきたのです。しかし,同時に,非常に多くの新しい現象が起 って来て,今までのからくりからはみ出しでしまう。これはおカ)しい,何か別のからく りがあるのだろうと,又別なからくりを見つけるわけですね。そして,新しい法則は,
古い法則のより一般的な場合,つまり,古い法則を含むような具合に出来ていますd
(同書,143〜4頁)
然して,この著者を超えた我々の立場からすれば 自然科学と社会科学とは,その何 れの場合にも,同じことが言い得るのである。
たとえば,ケインズの所謂『一般理論』(『雇用・利子及び貨幣の一般理論』)における
一般という接頭語の意味するところは,上述と全く同じ意味合いを含んでいる。 む
我々の知識(学問)はより一般的であることによって,優越を獲ち得る。
ケプラー,ガリレイはより一般的なニュートンによって,ニュートンはアインシュタイ ン(相対性力学)によって,超えられ(この時,ニュートン力学は所謂 古典力学 とな る),……更に,アインシュタインはマックス・プランク(量子力学)……によって,夫々,
超克されて来た(現在では,相対性理論でさえ,時に, 古典 と呼ばれる) という事 態が,その一つの説明となり得ている。
無論,所謂 新しい経済学 としてのケインズが,一定の条件の下においては(所謂 完全雇用 の下においては),古典派(正統派)に一致するという逆の事態も,可能と
なる。
同様,同書も続けて言う。
「……古典力学は量子力学と全く違うと言いましたけれども,ある極限の場合,つまり 乃というプランクの常数が他の物理量に比べて非常に小さい,無視出来るような場合に は,量子力学は,古典力学と大体一致する。そうしだ自然法則の確かさを調べることは,
ただ,自然科学の基礎を理解するだけではなくて,他の種類の法則,特に社会科学の法 則とは一体何か,社会科学の法則はどの程度当てになるか,という問題を調べる上に,
非常に役に立ちますd(同書,144頁)
ケインズ革命 は,連続(連続性)における断続(不連続性)としてある 単なる
「新しい地平」,「新しい分析方法」(前出,安井氏の言葉)では,決してない。
但し,この著者は,最重要な肝腎を,看過している。
「自然現象……を,なるべく人間の主観的な表現とか,主観的な印象から離れて」
という表現(低次の,平面的思考からする)は,文字通り,誤り安い表現である。実際,
著者自身,終始誤っている。
「誰の目にも客観的に納得出来るようなやり方」 とは,むしろ,極めて主観的(動 機としては) 超主観的,乃至,脱主観的(結果的には)な才能(即,天才)によって こそ,初めて可能となる。決して,姑息な(自称)客観主義によってではない。むしろ,
後の場合,その結果は,却って,通常見られる如く 単なる個人的・主観的妄説に終る のが,関の山である。
同様に又,「自然の現象というのは,非常に複雑なように見えるけれども,案外簡単な のではないか」 ではない。簡単にしているのは,自然そのものになく,人間,即ち,
認識者サイド, より正確には,認識者における自然にある。(これらの諸問題については,後 出・アインシュタインの言葉,併参。)
「非常に多くの新しい現象が起って来て,今までのからくりからはみ出してしまう」
のではない。「新しい現象」が起きるというより,より正しくは 新しい認識者の登場 によって,新しい問題(より高次の,或は異次の 思考の深さを欠いていたことから結
果する)が,発生するのである。
同書全体における叙述,論旨の一貫性の欠如(もっとも,我国学者としては出色と言っ て差支えないが)は,同著者の 真の 科学的体験の不足のなせる故か。
斯かる点,同じく自然科学者乍ら,数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞受賞者,
広中平祐氏の次の一文(郵政省「はがきインタビュー」より)は,やや行き過ぎの感なきでも ないが,筆者の大いに賛意を表したい含意のものである。
日く。
「学問は,自己に問うことから始まる。……学問するとは何だろう。他から学び触発さ れて,自己に問い,自己の頭の中で問い詰めて,先覚者の思想を見直し,新たな感動を 知る。学問するとは,このような頭脳の作業だと思う。人間の智慧という問題になると,
頭脳の作業を超えたものらしい。京都天竜寺の師家,平田精耕先生のお言葉を借りると,
智慧とは自己の本来の姿に目覚めること,とも言える。学問も,自己に問うことから,
始まる。数学の先覚者達も,自己に問い,自己の中に優れた理論の出発点を発見したと,
僕は信じている。考える喜びも,自己の新たな発見にめぐり会ってこそ,大きいd
更に,一つの別の誇張的語法を用うれば,こうである
「知によって形成されるものの他には,何物も全く存在せず,事物とか,存在自身も,
知自身において根拠づけられた知の形態,に過ぎないd「知が,端的にそれ自身によっ て,その本質によって,思惟するのであるd(フィヒテ)
前平の復習に役立つ一一つの大きい解題(序節)
前稿を書き終え,印刷に附した段階において,筆者が,その存在に気付かされ,少から ざる賛意と共感を感じた論文の一つ,(やや,古いものながら)に,村上陽一郎「科学理 論の連続性と不連続性」(雑誌「展望」,1978年3月)がある。
我国学者に通例のスケール感の欠如は,一応止むを得ないものであるが,少くとも,本 邦学者のアルバイトとしては,矢張,出色のものである。
その他,同氏の最近訳書(1984年4月)に,,注目すべきものとして,A。ブラニガン『科学的発見の現 象学』(原書タイトルThe Social Basis of Scientific Discoveries)がある。
「理論の『共約不可能性』をめぐって」の副題をもつ 同論文は,先ず,次の様な問 題提示を行う。
「自然科学は,一方においては,今日,我々が直面するあらゆる難問を作り出した元凶 として,科学の征矢を浴びている。他方,そうした難問の存在を認めながらも,或は場 合によっては,自然科学が,そうした難問の元凶であることさえ認めながらも,尚,我 々をこの苦境から救い出してくれる唯一の望みを,自然科学に,賭けている人々があるd
後の面については,遠く,カントが,ニュートン力学を,むしろ,唯一の学問として,
む む くき くコ
方法(論)的に基礎付けすべく『純粋理性批判』をものにした時,既にその運命が定まっ ていた,ということが出来る。
新カント派(カントからの形而上学の追放,所謂 価値からの自由Wertfreiheit とし での),そして,その一つとしてのマルブルヒ学派が,自然科学の方法論的基礎付けとし て,即ち,自明の無問題的な扱いとして,引続きカントの忠実なおさらい(消極的な)を した時(この方向の行手に,我々はマッハを発見することが出来る),他方において,そ して,これは新しい方向(歴史理解)としてではあるが,同様,新カント派としてのバー ゲン学派が,文化(精神・社会)科学の方法(論)付けに新しい意欲的方向(積極的な)
を指示した時(この方向に,我々はマックス・ウェーバーを併せて考慮することが出来 る),……そして,更に,又々,他方,全く別方向(形而上学の立場)から,新カント派以 前ともいうべく,ヘーゲルがこの後の方向(精神科学的一歴史科学的・社会科学的方 法)に大胆極まる発展・展開を示した時,…… その一切の経緯のすべてを含めても,
尚,我々は,今にして,自然科学を所謂 諸科学の王 (乃至,諸学の王)として,仰い でいるのである。
ごく限定された立場として,より狭く,現代における所謂 科学哲学 の立場(ハンス
・ライヘンバッ一等,ウィーン学派)……現今,一部に,未来学として期待されている 科 学統一論 ……その他の試み等々,それらは一見新しく装いつつも,依然(顕在的・潜在 的に),自然科学への絶対的信頼に,自己の立場を賭けている。
経済学者(社会科学者)としてのマルクスの立場,
「経済的諸形態の分析では,顕微鏡も,化学的試薬も,用いるわけにはいかぬ。抽象力 なるものが,この両者に代らなければならぬd(『資本論』,第1版序文)
或は,同様,ケインズの
「人間の考えを形式的又は実験的にはっきりと検証することが,屡々不可能である経済 学(他の道徳科学と並んで)……d(『一般理論』,序)
の深刻・真率な苦脳は,彼等には,所詮,縁のないものである。
彼等も又,今日どきの経済学者同様,痴呆ともいうべく楽観主義的性向の所有者である。
より正しくは,彼等 亜流 (我々はここで, 真の 自然科学者とその亜流とを区別す る必要がある)には,自然科学そのものの真の,精確な把握は,その科学的体験(その広
く,深い基盤の把握)の欠如と共に,その実,獲ち得られていないのが,実際である。
自然についての単なる技術(論)的把握一その悪しき専門化……浅く,.狭い,歪曲。
言う。
「たしかに,自然科学は,現代社会に巨大な影響をもっている。しかし,自然科学の厳 しい専門化現象とも相侯って,自然科学自体は,人間社会とは無関係に,自己閉鎖的な 体系として発達してきており,通常の人間存在から切り離され,離陸した性格を備えて
26
いる,という信念は,今日でも,かなり強固である。この前提に立つ限り,人間がそれ をいかに使うか,という道具主義的な立場を引出すか,それを必然的で仕方のないもの として受取る運命主義に陥るか,その裏返しとして,それを全面的に否定する破壊主義 に徹するか,という道しか開けてこないd
我々の問題の究極の根底には,単なる人と物との関係でなく 人と人との関係……
人と世界,人と宇宙(更には,絶対者……神)との関係が,横たわっている。(たとえ ば,マルクスにおける経済学→社会学の意義。)
.筆者の謂う《認識論》(広義の 意識 乃至 意識構造 ……更には 社会構造 の現 象学としての,近時,事実上,全く無視せられているところの)……ヘーゲルの所謂「精 神現象学」(その基本的な理解・解釈に大いなる誤りがある,と筆者の信ずるところの)
の立場,方法(フッサール,ヤスパース……サルトルの人間主体 人間実存……社 会的実存の哲学に,殊更,顕著に窺われる如き)こそは,斯かる要請に,その根底・根幹
よりして,直接に答え得る・唯一の資格のものではないか。
即ち,言う。
「科学的知識と人間存在との関係を,認識論の場面まで立ち返って再考し,その中から,
その両者の関り合いについての全く新しい視点を,作り出すことが出来ないかd 「この課題は,現代の多くの人々が,共有するものである。勿論,そこに見透される科 学と人間との新しい関係は,場合によっては,これまでのように,科学をそれ自体独立 の閉鎖点としておけば,可能であった。すべての罪をそれになすりつけて事足れり,と する立場を根底から覆えし,むしろ,『罪』ありとすれば,それはまさしく我々自身の 担うべきものと考えなければならないほど,科学が我々人間(即ち,近代化された入間)
の個人的な意識構造と社会構造の中に直接根差し,そうした構造に本来的に固有なもの である,という結論を,我々に強要するものとなるかもしれない。それは,我々にとつ て辛いことであり,新しい道を探す仕事に取り掛ったことを,後悔したい気持にさえ陥 ることも,あり得よう。……しかし,おそらくは,そうした営みこそ,迂遠のようだが,
我々自身の意識を変え,我々の社会の様態を変え,科学のありようを変えてゆくための,
最も確かな足取りのように……思われるd
いな,むしろ,我々自身の意識(人間,人間存在)本来の姿に立ち帰ることが 即,
科学本来の正しい意味の創出(創造)を,従って又,その革新・革命を,可能にするので
ある。
然して,その場合,基幹(原因)となり得るのは,人間(主体,存在・認識主体として の),しかも,大いなる人間,即ち 天才 ,である。
大いなる主体,主観(性) 斯かる人間(の出自)あってこそ,我々における(歴史 的)課題の解決は,可能となる。
「科学的な天才が研究対象に関わらせる価値は,一つの時代全体の『見方』を規定するd
(マックス・ウェーバー)
既述の繰返しを,敢て,我々が厭わないならば 斯かる天才( 自由な魂 ,一つの超 越としての)あってこその 真の 科学,乃至,その可能(性)あっての客観i生(没価値 性Wertfreiheit)・普遍妥当性……(自然科学・社会科学共に等しく認められる.ところの,
科学本来の姿としての)なのである。決して,その逆では,あり得ない。
しかも,斯かる妥当性の要求は,通俗(俗流)における如く,単に口先,偏頭のもので あってはならない。
即ち,通常のそれ
「自然科学と他の諸科学の違いとして,最も顕著なのは,その客観的普遍性である,と 永らく考えられてきた。M.ウェーバーが,社会科学に価値中立性《Wertfreiheit》を希 幽したのも,自然科学における価値中立性を前提した上でのことであった,と一応言う ことが出来るし,勿論,ウェーバーの言う価値中立性なる概念が,普通一般に信じられ ている自然科学の客観的普遍性と完全に重なるわけでもないだろうが,少くとも両者は 重なる部分をもっていることは,改めて言い立てる必要もないだろう。……今日でも,
科学者の現場ではもとより,一般に,科学的知識だけは,時代が変っても,場所を隔て ても,いつでも,どこでも,誰にとっても,同じように成り立つ客観性と普遍性を備えた ものである,という信念は,非常に強固に拡がっているd
しかしながら,我々の如上の考慮と言及よりして,斯かる科学(殊に自然科学)の結果 科学自体,その妥当性(経験的・事実的に与えられているものの)の強調,それのみ に,終始,こだわるに過ぎないところの,現今においてごく一般的な,プチな考慮をもつ
む む む
てしては,折角の科学自体の意義と性格の検討はナンセンスに堕する,のみか,科学の存 在,従って又,その根拠の説明BegrUndungも,全く不可能となる。
我々は,我々の知識(科学)の危機(所謂 諸科学の危機 )のなかにあって,大いな る問と,批判と,反省を,先ず,実行しなければならない。
おそらく,それは,結局において,我々における哲学(乃至,形而上学)の果すべき役 割であろうか。
我々は,我々の科学の正体を,存在としての科学・科学そのものの実体に即して,解明 すること,換言すれば,我々の科学の 現象学 を,我々の思い切った・徹底的な思惟の 転換によって,確保すること,即ち,我々の科学の所謂 現象学的還元Reduktion を,
ものにせねばならない。
所謂 合理的 , 非合理的 なもの一切を含む,真に合理的な基礎(我々の自由な主体 的生の根源,究極の拠り所,……我々における《真》と《善》と《美》のための,無限の 宝庫 )への遡求,深化,……その時期は,まさに,今にこそある。そして,それは,科学
(者)の(真の)在り方を体験し得る我々の中のごく 少数者 ,真の意味での エリー ト ,によってのみ,可能である。
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「根本的なことは,私にとって真理であるような真理を,見出すことである。そのため になら,私がいつでも生き且つ死ぬことが出来るような理念を,見出すことである。い わゆる客観的な真理などを発見したところで,それが,私にとって,何の役に立つとい っのだろっかq」(キェルケゴール)
世の在り来りの凡庸( 亜流 ,せいぜいセカンド・クラスの連中)……その皮相な常 識によっての, きまり文句 (実体のない,空疎な,しかも,それ自体が目的であり,手 段でしかないところの)としての 所謂 科学万能主義 ……
「客観性と普遍性……という信念……ごく少数の人々の間に,この信念に対する,殆ど 感情的とも言える反撲がある。その例の一つを,次に掲げておこう。
第一の神話 〈科学的〉認識のみが,真にして,実なる認識である。……『真』にして,
『実』な認識は,時には,『客観的』認識ともいわれて,いつ,どこでも,どんな社会 であろうと,どんな特別な文化であろうと,常に成立する普遍的認識 と定義しても よい。
評註 愛や情,美しさや深みのような感覚体験,楽しさや苦しさの最初の経験さえ,
科学理論に包摂するというわけにもいかず,真の認識の王国から,排除されてしまう ことになる。キリストだって,サフォだって,愛について,何も知っちゃいないのだ!
これは,〈科学主義〉乃至〈科学主義イデオロギー〉に対して,最も先鋭的な闘いを挑 む異形の数学者,フィールズ賞受賞者でもあるグロタンディエクの言葉の一部である。
グロタンディエクは,《今こそ,宣戦布告して,科学主義の没落を早めるべき時は来て いるのだ》,とさえ言う,」
解題 要約と結論
通常のプロを自称する所謂 自然科学者 (又は, 社会科学者 ),彼等における皮相な 科学(者)観
「グロタンディエクの言う科学主義の第一の『神話』は,典型的には,帰納主義と呼ば れる方法論によって支えられてきたd
そこで重要視されるのは,文字通り,表面的な事象(表象,シュムペーターの所謂『表 層的現象』)について, 数多く というのが,そのモットーとなる。
たとえば,経済学における統計 惹いては,計量経済学(者)なる没個性的……没本 質的・没理論的方法が,そのよき(悪しき?)特徴を,形作っている。
「そのあらましは,次の通りである。まず,我々には,データが与えられる。ある程度 以上の数のデータが集められれば,そのデータの集合には,自ら,規則性,秩序が見て とられることになる。いくつかのデータの集合内に見てとられた幾つかの規則性や秩序 から,法則が,そして,そうした法則としての理論系魁組上げられていく。それらの 営みを,通常『帰納』と呼ぶ。……それが,言語的表現に訴えられる限り,原則的には,
それは,普遍命題の形をとる。つまり,『すべての……は である』という普遍命題 の基本型に,馳何らかの意味で充当する表現形態を,とるわけである。従って,直接的に は,そこから,『ある……は である』という命題が,演繹されるし,そうでなくと も,いくつかのこうした命題の組合せから,論理的に様々な命題が演繹される。……」
敢て(適切でほないが),対象的な比喩を用いれば
一滴の水が集まれば,川となり,湖.となり,海となる か。流れが,さざ波が,潮流
・干満が可能となる一か。否!決して,そうではあるまい。
海は,実体として,最初にして最後まで,海である。同様にして,(固有のものとして)
川は川,湖は湖である。
川と海との間には,無限と言ってよい(諸)条件の隔絶がある。
科学主義の弱体,その主張者の精神的薄弱(さ)は,量的なもの(実際,そこには,量 的なものしかない)の追加により(それによる,肯定としての証明一「検証」,或は否定
としての「反証」の必要により),もろくも,露呈する。即ち
「『検証』された場合には,その検証の役割を果したデータは,それまでに蓄積された データの集合の中に組込まれ,その中の一つになってしまう。既に蓄積されていたデー タの数が多ければ多いだけ,今度新しく組込まれたデータが,当該の規則性・秩序,法 則,理論系の『正しさ』を支持する力は弱くなっていく。……他方,『反証』の場合には,
そのデーターつが,非常に大きな力をもっている。早い話,既に見たように,元になる 規則性なり,法則なりが,直接的な普遍命題の形をしていれば,つまり,『すべての ……は である』式に表現されていれば,今,観察された命題が,『ある……は で ない』ということである以上,最早,その一つのデータをもって,元の法則は完全に維 持出来なくなった,と言わなければならない。……元になった規則性,法則,理論系に,
修正の手を加えなければならないことになる。この修正は,手直し的な……ものから,
基本法則の立直しといった根本的なものまで,色々なレベル,段階において行われる。
……ところで,このような帰納一演繹を軸にした方法論は,実は,単に自然科学のみな らず,あらゆる知識領域に妥当するものと,考えられそうである。自然科学の場合は,
データが自然現象を扱うものだけに,固定性が強く,それ故,規則性なり秩序なりを,
普遍法則の形に帰納し易く,又それ故,観察のための条件も整備し易い。……これに反 し,社会科学や人文科学は,データ自身が人間や社会に関するものであるだけに,個別 性と変化性が強く,普遍法則に還元し難い上に,実験上の制御も行い難い。そういう差 はあるにせよ,上記の方法論自体は,すべての知的営為にあてはまる図式ではないか,
と考えられたとしても,それなりに不思議ではないし,事実,これまで,大筋のところ は,この図式が,共通了解となってきたのであるd
検証,反証の量的材料(データ),データそのものは,事実上,無限である。
換言すれば,科学主義一帰納主義は,データを積み重ねることによって,却って,自 らの確実さを失う一自らの墓穴を堀る,こととなる。
筆者は,嘗て,近代経済学者(純粋経済学者,計量経済学者)を颯し,次の様に書い
た。
「……彼等は,籔外れをおそれ,可能な限り多くの番号の籔を集めんがために,折角の 貯金箱を壊してまで懸賞つきの菓子を買う世の子供達に似ている。彼等の価値観は,投 機に総当りを狙ったが故に総外れになり,自らの身代を傾けつくし,遂には,死に至っ ほろび
た欲深の富者の話をも,想起させる。まことに,まことに,『滅に至る門は大きく,そ い
の路は広く,之より入る者多し。』」
斯様にして,帰納主義は,結局において(自然科学,社会科学,その何れに適用されて も),それ自体として,不確実,不確定であると同時に,その証明は,不可能となる。
にも拘らず,それが確実であり,可能である根拠とは何か。即ち
「この図式の中には,一つめ明白な前提がある……。それは,データが,検証において も,又反証においても,当該の規則性,法則,理論系にとって,その正邪を決定するレ フェリーの役割を果すものがある,という前提である。この前提は,更にデータが,常 に客観的であるという暗黙の前提を含んでいる,と言えるだろう。……データは,誰が,
どこで,いつ見ても,確かなものとして存在し,これに対するに,法則や理論系が,そ のデータから審判を下されるものとして,対置される。法則や理論系は,勿論データ から帰納されたものであるけれども,データのもつ確かさが,帰納を繰り返すたびに,
薄められていくために,データの確かさと同じ確かさを,もつわけにはいかない。……
この見取図からは,一つの系が生まれる、その系とは,データの蓄積が多ければ多いほ ど,それだけ,そこから帰納された法則や理論系は,より確からしくなる,という了解 であるら法則や理論系に絶対的な確実さを求めることは,……不可能であるにしても,
しかし,より多くの(確かな)データによって支持される法則や理論系は,より少い (同じよう に確かな)データによって支持される法則や理論系よりも,より確からしい のであって,それは,相対的に見れば,より真理に近付いたと言える,ということにな る。……こうした明らさまな知識の進歩説が,明確な形で歴史の中に登場するのは,フ ランス啓蒙思想,就中コンドルセにおいてである……すべての知識の根源を,入間の 『経験』に還元し,その経験的事実の集積の量を重んじた一あの百科全書を視よ!」
数多く,数多く,……ただひたすら,既知のデータを積上げること。
「より多くのデータに支持された法則,理論系は,より少いデータに支持された法則,
理論系よりも,より真理に近いという了解……d
では,このようなデータそのものの存在,その存在の根拠・理由は何か。ノン!
ただ与えられたものとして,我々はそれを受取るより他はない。
そのデータ(data, Daten,所謂 与件 )の根拠・理由 としての,とりわけ,そ の存在についての説明は,全く省略されている。
「データは,その語源からして,『与えられた所のもの』,即ち,『所与』,であり,それ 自体にとって,如何ともし難い。人間は,与えられるデータを,そのまま受取る以外に はない。冷厳な事実としてのデータ。ホワイトヘヅドは,それを,『頑固で裸の事実』
と呼んだし,自殺した物理学の天才ボルツマンは,科学者が,そうした一切の主観的先 入観の汚染を被らない,純粋で,裸の,客観的データへの信仰を持ち続けていることを,
多少の皮肉を籠めて,科学者の『裸体偏愛』《nudity predilection》という卓抜な比喩 で,表現したd
科学主義の所謂「データ」 そのようなものは,存在しないし,又存在し得ない。
「いかなる洗煉化,いかなる精緻化といえども……d
存在するのは,既成(の理論)の,しかも,それに似せた安手なカケラの数々 所謂
「与えられたもの」(からの解釈)にしか過ぎない。
むしろ,最初から,カントの所謂「コペルニクス的転回」におけると同様 理論あっ てのデータ(事実),なのである。
「理性が洞察するところのものは,理1生自ら自己の計画に従って産出したもののみであ るd(カント)
自然科学の歴史的流れ自体において,まさに然りである。アリストテレスの自然学……
スコラ自然哲学……ガリレイ……ニュートン……アインシュタイン……マックス・プラン ク……と,自然科学的世界(空間,時間,質量,力,運動……)は,絶対像(論)より相 対像(論)へと,転化して来た。
「我々が量子理論で数学的に定式化している自然法則は,最早,素粒子自体を取扱って いるのではなく,素粒子に関する我々の認識を取扱っているのであるd(ハイゼンベルグ)
理論……論理……抽象力,……認識主体,精神の。
「科学者とは,知覚行為から独立に世界を記述しようと努める限りにおいて実在論者で あり,概念や理論を人間精神の自由な創造(つまり,経験的に考えられたものから論理 的には導き得ないもの)と見る限りにおいて観念論者であり,又,その概念や理論は感 覚的経験の間の諸関係に論理的な表現を与えるという範囲でのみ正当化されると考える 限りにおいて実証主義者である,と見えることだろう。更に,論理的な単純性という立 場を研究における有効で不可欠な手段と看官す限りにおいて,プラトン主義者乃至ピタ ゴラス主義者とさえ見えるかもしれないd(アインシュタイン)
データの所謂「理論負荷性theory40adennes」。
「この考え方を遡れば,今世紀初めの物理学者で物理学史研究者でもあったP.デュエ ムにまで達するが,最も印象的な形でこの言葉を提案したのは,N.R.ハンソンという
物理学史研究者であった。彼はその主著『発見の諸型』(『科学理論はいかにして生まれるか』
村上訳,講談社)の中で,邦訳の副題『事実→理論』が象徴するように,事実の第一義性か ら理論の第一義性への転換を,やってのけたのである。従来の図式では,データが理論 を造り出し,データが理論を審判した。ハンソンの議論は……これを逆転させ,理論が 事実を造り出す,と主張し,それ故,本来,事実には理論を審判する資格はないし,又,
もともと,それは不可能だと主張したのであるd
リンゴが落ちるのを見たすべての者が,ニュートンたり得たわけではない。
「小学生の見ている霧箱の煙と,熟練した物理学者の見ている霧箱の煙とは,……同じ ものではないのであるd
科学主義のもつ悲劇であり,且つ,実際は,滑稽であるところのものは, 真の 科学(者)がそのようなものではない,というところに,主なる問題が,胚胎しているこ
とにある。
我々の大部分,大多数の者は,科学の諸部門,諸成果の創始者,即ち 少数者 に到底 及ばない追随者,即ち 亜流 せいぜいのところ,その唱導者( 宣伝ヤ か, 政治 たぐい
ヤ ,所謂 ボズ の類),である。
彼等が知るのは,単なる現象としての科学であり,いわば,科学を現象させているとこ ろの 科学(者)の本質(叙述の上では,天才達がかくしているところの)については,
完全に,その理解の枠の外にある。
科学が現代に蔓延させているところの諸害悪・禍いの類は,それらが既成のものを理由 としてあることであり,又そのことは,ただに科学の場合に限らず,むしろ,人間,人間
こう コ
の知識一般のなせる業として,ごくありふれたものでさえある。
科学主義 その典型としての論理実証主義,は言わずもがな,イデオロギー,乃至イ デオロギーそのものとしての唯物弁証法(自然科学的事実のみしか眼中にないところの,
俗流マルクス主義,ロシア・マルクス主義の)についても,全く同様である。(説明略。)
むしろ,我々は,一つの自律したものとしての 人間の精神全体に関わる歴史的発展 過程(有機的な)の中に,(個々の)科学の形成を見つめゆく努力が必要である。
たとえば,経済学における シュムペーター『経済分析の歴史』。
まして,科学主義に,科学の創成,創造を期待するのは,まさしく, 木に縁りて魚を求 むる ,に等しい。
「……自然科学の理論と錐も,人間のものの考え方全体の中で,その一部として得られ るものであるとすれば,一つの社会の中での,同時代に共通のものの考え方(時代精神 とでも呼ぶべき),に影響されない筈はない。従って,時代を共にし,時代精神を共に している複数の人々が,同時に,同じ理論を(意識的にせよ,無意識的にせよ),自ら の中に胚胎し,それを通じて,独立に同一のデータを得る,ということは,それまでに,
その理論がなかった時代には,そのデータは存在しなかった(と敢て言おう),という 解釈を加えて考えれば,充分納得出来るものとなる……。……そうなると,このような 図式では,科学理論と社会や時代の基調をなす一般的なものの考え方との間の関係も,
これまでとは違った姿で見えてくることになる。従来の図式では,自然科学のデータの 客観性を強調する結果,自然科学だけは,時代や社会や人間から切り離され,離陸した 知識体系として,看倣されてしまう。しかし,それでは,どうも話が実状に合わなくな る。自然現象は,社会現象のようにそれ自体変化なく,今も昔も同じように繰返されて きているとしても,或は,そうだからこそ,逆に,人間社会の側の変化に伴って自然現 象を捉える視角が変化し,それと共に,自然科学の歴史が造られてきた,と考える方が,
より自然である。……つまり,上のような図式に従うと,自然科学と社会現象との間の関 係は,必然的により密接なものにならざるを得ず,思想史としての科学史,或は科学の 社会学,社会史としての科学史などの視点がづそこから生まれてくると言うことが出来
るd
自然科学に対する 社会科学(文化・精神科学)の優位。
科学に対する一哲学(形而上学)の優位。
無論,我々における科学の創造,乃至 革命 が,単に断続的でないこと,連続におけ る断続であることは,今更,言うまでもない。(前出,柳瀬氏における問題の項,併参.)
より正確には,我々における科学が,その絶えざる精神(本質)の昂揚によるにも関ら ず(むしろ,その進歩が質的内容・規定を有するものであるからこそ),その現象形態は,
断続として発現するのである。
たとえば,ケインズの『一般理論』において,古典派はそのままの形において特殊理論 として相対化された, が,その場合,古典派の位置付けは,旧態然たる古い古典派の 範疇としての《価格》においてではなく,革命的な新しいケインズの一般的体系としての
《所得》の次元(概念)に,吸収(止揚)された形において,である。
マルクス(経済学→社会学)についても,矢張,同様なことが言い得る。(説明略.)
「……そのよい例は,物理学における現代の革命と呼ばれる量子力学や,相対性理論の 出現を見ても判る。たしかに,この二つの力学体系は,ニュートン的な古典力学の革命 的変革であったには違いないが,しかし,それは,矢張,蓄積的拡大なのだ。何故なら,
量子力学の基本方程式の中の作用量子をゼロと置けば,それはそのまま古典力学の基本 方程式になるし,(特殊)相対論力学の基本方程式の中で相対速度刀が光速度0 に対 して充分小さい,という条件を加えれば(事実上卿♂という項をゼロと看f貸してよく なるために),やはり,それは,そのまま,古典力学の基本方程式になる。……革命 派は,これに対して,とっておきの概念を用意する。それが,所謂,科学理論における 『共約不可能性incommensurability』である。革命派の駿将ターン,そしてファイヤ
アーベントは期せずして,全く同時に(!),同じ概念に到達した。ターンは,『科学革 命の構造』という著作で,又ファイヤアーベントは,『説明1還元・経験主義』と題す る論文の中で,同時に,この考え方は発表された。……ファイヤアーベントの言葉を紹 介しておこう。
……結局のところ,本論考全体を通じて私が主張したかった論点は,知の拡張によっ て,旧来の理論は決定的な改変を蒙るが,その改変とは,そこで言われている定量的 な言明に関する改変であると同時に,そこで使われていた主要な記述用語の意味の改 変でもある,という点である。
……古典論的,前=相対論的物理学においては,質量という概念は,ある物理系の質 量が,選ばれた座標系内でのその系の運動によって影響を受けない,という意味では 絶対的なものであった。しかし,相対論にあっては,質量は,時間二空間的記述のす べてが,対照されるべき座標系をきちんど指定しない限りは,その規定は不完全であ る,という意味では,相関的な概念になってしまったのであるd
科学主義は存立し得ない。
又,我々における大部分,犬多数の者にとって,科学は,その存在として,或は,その 本質それ自体として,重要なのではなく,むしろ,極言すれば,科学(的成果,.理i生的な)
がもたらす彼等における利益(感性的な),個人的(又は集団的)利害(戦争,或は平和 のための利害を含めて)としてのみ,重要であるに過ぎない。
彼等における科学(者)観が皮相なるのも,故なしとしない。
如何に巧妙に既成の,将又,流行の科学(の結果)を,( 模倣 , 輸入 によって)利 用(応用)するか(エゴイズム),が,そこでは問題であって,如何にして科学の組成,
創成に参加するか,その体験をもつか(科学における根本的なもの 当然,そこでは,
認識論としての現象学,或は 解釈学 が問題である),への,根底からする,根気ある 努力(乃至,その体験)は,全く無視されている。
我国の場合を想え! 仮にち 真の 科学(者)を志す者があれば,彼は,(遅かれ早か れ)その職業集団より排除されるのが,オチである。
悪貨は良貨を駆逐する 。
プレハブよろしき,科学主義(科学技術主義)の建物。
プロとしての科学(者)の不在。
人聞(人間性,精神)の不在。
「語りかけない作品は,作品ではないのではないでしょうか。私は制作以前のこと,そ の人の人間性が,『作品に出てはじめて本物だということを,思っています。……」(今泉 今右衛門・郵政省「はがきインタビュー」より)