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‑構成的教授学と授業の基本構想−

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

西ドイツ教授学の研究(?)−Klafki, W. の批判的

‑構成的教授学と授業の基本構想−

著者 小野 擴男

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 36

号 1

ページ 107‑126

発行年 1987‑11‑25

その他のタイトル Zu didaktischen Theorien in der BRD ( I ) ― Wolfgang Klafkis kritisch‑konstruktive

Didaktik und Unterrichtsplanung―

URL http://hdl.handle.net/10105/2068

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西ドイツ教授学の研究(I)

‑Klafki.W.の批判的一構成的教授学と授業の基本構想‑

小 野 旗 男 (奈良教育大学教育学教室)

(Pfl和62年4月30日受理)

は じ め に

クラフキーによる批判的一構成的教授学(kritisch‑konstruktive Didaktik)は、彼L'l身が'50 年代から'60年代にかけて精神科学(Geisteswissenschaft)の立場から展開した陶冶理論的教 授学(bildungsthoretische Didaktik)を今日さらに発展させたものといえるがJ‑'そうした発展 の必然性を生みだすことになった最大の理由は、ドイツ教育学に最も伝統的な思考‑研究方法で あった精神科学的アプローチに対する経験科学および社会批判理論からのイソパクトであった。

クラフキーの言を借りれば「精神科学的教授学は批判に曝され、そうした新しい立場との論議を 余儀なくされ、そのことによって自らの立場を変化させ、 Ill栗の立場を越え出て、より大きな問 題関連を自己の内に取り込まざるを得なくなった。」̀2)ということである。その意味では、批判 的一構成的教授学の構想は、精神科学的教授学をいわば山場(aufheben)したもの、つまり、

ある面では後者を克服するものではあるが、他面では、それを捨て去ることのできない契機とし て保持しているのである。

以下本論文においては、批判的一構成的教授学の概要とそれに基づく授業計画の構想を略述す るとともに、その教授学構想の今日的意義を明らかにしようとするものである。

I 批判的一構成的教授学と陶冶理論

批判的一構成的教授学の基本的問題関心は、クラフキー自身の従来の陶治論的立場の継承、発 展にあるが、そのことを述べる前に、批判的(kritisch)と構成的(konstruktiv)という言集の

もつ意味について言及しておきたい。

クラフキーによれば、「批判的」ということはこの教授学構想の基本的な認識関心(Erkentnisinteresse) を示すものであるという。教授学が青少年に自己決定、共同決定そして連帯能力の育成をめざし、

そのための制度上の改革努力を押し進めていこうとする限りにおいて、常に現実に対する「批判 的」な関心を必要とするというのである。 「構成的」というのは、この立場の積極的な実践との かかわり(Praxisbezug)を示すものであるO実践上の「行為J 「構成」 「変革」を生みIllL創

り出していくという立場をより鮮明に表わしたものだといえる。したがってここでの理論一実践 の関連は、精神科学的教授学のように、理論がただ実践家の意識を啓発するにとどまるのではな

く、理論的な先取り、実践可能なモデルの提示、実践変革後の理論一実践上の新たな問題、そう いったことを含み込んで考察がなされわはならないことを意味している。クラフキーは自らの教

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小 野 族 男

授学の構想を陶冶理論的教授学にかえて、このような意味を込めて批判的一構成的教授学と呼ぶ のであるが,しかしそれは、次の̲二つの点から陶冶理論的基礎づけを可能とするし、また必要と するものとしているという。

まず体系的(systematisch)に考えてみるならば、教育理論一実践Lの諸要因を体系づけ関連 づけることのできる中心的なカテゴリーが必要となるということである。精神科学的な教授学に おいて陶冶(Bildung)概念に対応.するものが必要とされるのであるO今日、西ドイツにおいて 教育のI‑・椴的目標規定として用いられている「解放」(Emanzipation)とか「自己決定と共同 決定能力」(SelbsトundMitbestimmungsfahigkeit)とか「自律的な行為能力」といったカテ ゴリ一一は、「陶冶」という概念が果したのと同じ役割を果し得ると考えているのであるOそうし たカテゴリーは、数多くの教育(撹)学的な計画や方向づけおよびその価値判断のための基準な いし尺度(MaBstab)を示すものといえるo

また歴史的(historisch)に考えてみても、18世紀後半から19lt棉己前半にドイツ教育学におい て用いられてきた陶冶概念は、批判的一進歩的なものであっただけでなく、社会批判的な意味内 容をもつものでもあった。たとえばカソト(Kant,I.)が「自己過失による未成熟さからの人 間の解放」として示した啓蒙(Aufkl邑rung)の中心理念が、陶冶という概念において止場され たといってもよい。すべての人間が自己白身の形成者であるということ、教育に支えられて人間 は自己に秘められた可能性を開花させていくということ、一一人ひとりの理性の啓発が政治一社会 面でのヒューマニズムを実現していくものであるということ。陶冶という概念は、教育において そうした諸理念を集中的に担っていたといえる。

ただ、陶冶概念については、そうしたことだけではなく次の諸点についての検討も加えられな くてはならない、19世紀から20世期にかけてその概念が衰退したということとその理由。一方で は[)ベラルで進歩的なブルジ:lワジーのI‑・部において、他方ではまた労働運動とその教育理論の 中に、あるいはまた精神科学的教育学の構想の,再こ、陶冶概念は再生され発展させられようとし たことについて、批判的一構想的教授学の陶治論的基礎づけという問題は、そうした陶冶概念の 惟史的な検討とも結びついているのである。

クラフキーによれば、その際、批判的‑構成的教授学の陶冶論的基礎づけとして、二つの次元 が問題になるという。つは、クラフキー自身が「範暗陶冶の理論」(Theoriederkategonale Bildung)と呼んだ、雁史的現実と人間の発達のダイナミックな関係の問題であるO能動的な習 得過料の中で,歴史的な現実が千どもたちに開かれていくということ、同時にそれはまた子ども が社会に対して開かれていくということであり,この∴側面の開示は、教育の過程において統一 的に生ずるものなのである(31

。さらに無数に存在する具体事象の中で、そうした二側而開示が意

味をもちうるのは、無数の具体を基本的な形式、構造、型、関連、一一言でいえば、諸範暗(Kategorien) に還元し、それを能動的に習得させていく時においてである。

第'̲の次元は、古典的な陶冶概念においても、また今日の陶冶の問題関心においても一つの中 心テーマとなっている「‑一般陶冶」(Allgemeinbildung)の問題である(4)

。その際、一般(Allgemein)

ということは、三つの意味を含みもつ、第‑‑は、すべての人間に対する教育の可能性の要求とい うこと、第二は、人間の‑一・両的ではなく全面的な発達をめざすということ、第三は、「1‑一般とい う媒体(MediumdesAllgemeinem)」の中での教育の成立、つまり、ヒトが人間となってい

くために、今日青少年に共通にその習得が要請されているものの究明ということである。

こうした問題を含みもちながら、自己決定、共同決定および連帯能力の育成ということが、批

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判的‑構成的教授学の中心的課題となるというのがクラフキーの主張なのであるo

II研究方法論上の三つの契穣

一解釈学、経験科学、社会批判理論一

研究方法論という視点からみると、批判的一構成的教授学は次の三つの研究方法論の手がかり を統合(Integration)しょうとするところにその特色がある(51

‑歴史的‑解釈学的(historisch‑hermeneutisch)方法

‑経験科学的(erfahrungswissenschaftlich,(empirisch))方法

一社会批判的‑イデオロギー批判的(gesellschaftskritisch‑ideologiekritisch)方法

クラフキーによれば、こうしたものの統合を問題とするということは、それぞれの立場を単純 に加算するものでもなければ、三つの方法論の背後にある学問論をそのまま受け入れるというこ とでもない。「方法論の統合」というのは、むしろ‑つの自立した学問論の論議に基づいている といってもよい。つまり、個々の方法の条件、成果、限界を考察するならば、そのそれぞれは、

構成的な統合という意味において他のものによって補完される必要があるということであるcjそ れぞれの契機が前提としていることは、その本質的な意義や有効性は他の契機によってのみ科学 的に検証をしうるということである。

I.歴史的一解釈学的な視点

全体的な関連というのは、歴史的一解釈学的な契機によって解明されなければならないoとい うのも、教育というのは常に、意味をもった働きかけの過程であるとともに、そうしたものが生 じている施設・制度のことを言い表わしており、教育的な見地や理論というものは、そうした意 味付与や意味関連を厳密に解釈(auslegen)したものといえる。そうした教育的働きかけから生 じてくる被教育者の行為もまた、その働きかけの意図に沿うものであろうと逆に反するものであ ろうと、常に意味をもった行為であって、その教育学的な意味の解明が必要とされるのであるO 教授学にとって、こうしたことはいったい何を意味することになるのか。それは、教授学的な 実践ないし教授学的な理論が遂行されているところでは、教育学的な意義、意味関連が表現され、

媒介され、実現され、議論され、課題とされているということである。しかも、意味をもった働 きかけとそれに対する反応は、歴史的一社会的文脈の中で、また、未来の社会を生きるという課 題を担って生起している。)さらに、その意味内容は、そうした歴史的一社会的な文脈の反映にと どまらず、人間の発達や、子ども・青少年・個人と社会との関係など、人間存在をめぐってのい わば哲学的な理解というものが影響を及ぼしているのである。

歴史的一解釈学的アプローチが、こうしたことを問題とするならば、教授学というものは当然、

「純理論的学問」ではありえないoそれは、実践についての実践のための学問であり、次代を担 う世代と教育に関与する人々とのために、実践とともに共同して、その責任を負おうとする学問 なのである。したがって、教授学の中心課題は、科学的な方法をもって、教授学的決定、展開、

論議、方向づけの意味を明らかにし、それを間主観的に検証可能なものとし、教育に関与してい る人たちに、そうしたことを通して、より優れた教育的行為や決定の援助を与えることができる ものでなくてはならないのである。

解釈学的なアプローチにおいて、今日、特に重要視されている問題として、二つのことをクラ

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小 野 旗 男

フキーは指摘している(6)

。一つは、刻々に生起している教授学的な現実(jeweilsgegenw義rtige

didaktischeWirklichkeit)の研究の問題、つまり、文献に表わされたものの解釈ではなくて、

具体的な相互作用や教育的施設・制度、資料の中の暗黙のうちに秘められた規定を究明していく という問題である。こうした研究は、近年のコミュニケ‑ショソ研究、社会学における現象学的 アプローチ、シソボルを手掛りとした相互作用の研究などからの刺激を受けて、解釈学的アプロー チがその問題関心とするようになったものであり、授業における言語的ないし非言語的なコミュ ニケーショソ分析、日常生活における青少年の文化的状況の分析、教える側の態度様式と学びの 手の側の反応の分析といったことに関心が向けらるようになった。

第1‑.は、社会科学的視点を含んだ生育史研究(p蕗dagogischeBiographieforschung)があげ られる。教授学が、発達の可能性やその障害となる要因を明らかにしていこうとする際、様々な 影響を受けながら人間が個性的な存在となっていく筋道を、幼年期から一貫して明らかにしてい く研究が要請されている。そうした研究は、教授学的な働きかけのもつ可能性と同時にまたその 限界をよりリアルに見つめさすことにもなるのてある。

2.経験科学的7プロ‑チと解釈学的7ブローチとの関連

解釈学的なアプローチの特質と限界を考察すると、それが経験科学的アプローチと結びつき補 完されることの必然性が理解されてくるOとりわけ解釈学的なアプローチによって、目の前で生 起している授業の問題を扱おうとする場合など特にそうである。カリキュラムや教授理論、教師 用手引きや授業計癖に表われている意味は、確かに学校や授業、授業のコミュニケ‑ショソ過程 に大きな影響を与えているものではあるが、しかし、それが教授学的な現実のすべてというわけ ではない.解釈学的なアプローチというのは、いわば、そうした意図され解釈しうる側面だけを 問題にしているといってもよい。だから、例えば、歴史や数学のカリキュラムの意味を解釈学的 に明らかにすることはできるが、そうしたカリキュラム上の意図が現実の授業の中に実現されて いるか杏かについては、解釈学的なアプローチだけでは不明である。同様に、授業単元のねらい、

児童観、授業方法の計画というものを指導案において解釈学的に意義づけることはできるが、現 実の授業がまたそうしたものであったか否かについては、決して定かではないのである。そうし た問いに答えるためには、体系立った授業観察、調査・実験・得られたデータの統計学的処理と いった経験科学的なアプローチが必要とされてくる。

確かに精神科学的な教授学は、経験科学的な内容を受け入れ、そうした申し立てもしてきたけ れども、それはおそろしく素朴で自己満足的なものであり、現実は、いわば直接的に、単純な個 人的な観察と熱心な関与さえあれば把握可能であると考えていたのである。西ドイツ教育学にお いて、この素朴な態度がまさに正当にも、′50年代の末から経験科学的立場によって批判される ところとなったのである。そうしたイソパクトの強さは、教育学ないし教授学的研究における

「現実主義‑の転換」(realistischeWende)として表現されることにもなったのである(7)

この「現実主義への転換」ということは、今日に到るまでしばしば、経験科学的アプローチが、解 釈学的なそれと入れかわり、そのことによってはじめて教育学は科学な学問(wissenschaftliche Diszphn)となり得るのであって、できるだけ速やかにそのことが実現されていかねばならない、

と考えられる向きが少なくない。そこでは、この両者は相容れない排斥し合うものとしてとらえ られているである。しかしクラフキーによれば、解釈学を単純に科学以前のものと考えたり、両 者を相容れないものとみなすことは、経験科学そのものをも完全に誤らせてしまうものであると

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して、両者の相互の関連を以下の三つの点から指摘する(8)

第‑‑は、どの経験科学的研究というのも、ある問題設定を前提として成立するが、その問題設 定そのものに解釈学的な考察が加えられねばならない。例えば、新指導要領において政治教育を どのようにすべきか、その構想を得るために専門家にアソケートやイソタビューをするとしよう。

そうした経験科学的アプローチの中にはすでに多数の意味づけが含まれている。例えば学校教育 において政治教育を行うことは重要であり、それによって子どもたちに政治意識を啓発していく ことが必要であるといった前提がすでに含まれている。その授業にとって、しかしそうした問題 は、決して自明の意味をもつものではなく、論議によって意義づけを必要としている前決定 (Vorentscheidung)であって、経験的な研究の枠組みが恋意的に確認することのできる素朴な事 実(Fakten)では決してないのである。このような例はいくつかあげることは可能であろうが、

ここで確認しておくべきことは、経験科学的アプローチをとる者が、その問題設定を理性的に説 明し根拠づけようとするならば、‑彼が明確に意識すると否とは別に‑その根本において、解釈 学を、つまり、彼の前理解についての理性的な解明を行わねばならないということである。さも なければ、経験科学者として、彼自身が実際のところ何を行っているのかを理解しないままに、

調査研究を行っているということになってしまう。

第二は,その研究対象そのものがまた、意味を担った、少なくとも意味をもった文脈によって 規定されている現象であって、自然の事物のように素朴な事実としてあるのではないということ である。例えば、教授スタイルや教授法の学習に対する効果を検証しようとする場合、研究対象 の行為はすでに、何らかの意味づけをもっているものなのである。

そこでまず、研究方法を構想する場合に、その研究対象が含みもつ意味を正当に評価できるも のでなければならない。研究単位を最小の意味単位として定義づけなければならない。さらにそ うした個々の単位は、意味関連の枠の中で正しく位置づけられなければならない。一例をあげれ ば、これまでの授業研究において、経験科学的なアプローチは、確かに授業に働くさまざまな要 田を抽出して、それを一定の体系に秩序づけて授業分析を試みた。例えば、教師の説明、質問、

賞賛、叱責、子どもの発言、反応といったカテゴリーを用いて。しかし、そうしたカテゴリーを 用いて、授業を数量的に分析したとしても、授業の本質をつく分析にはなおなり得ていない。と いうのも、そうしたカテゴリー自体、特定の教科内容とは独立に、まずは内容的には中立的なも のとして抽出されているからである。さらに内容と関連して問題とされた場合も、そうしたカテ ゴリーが授業のどういった展開の中で発現しているのかを問題にしない限り、その授業の分析と はなりえないからである。

個々のデータは、その時々の意味関連の中に位置づけられてはじめて、事実に即して意味づけ が可能となる。したがって経験科学的アプローチをとる者に要請されていることは、ただ単に形 式的な観察枠を階層づけ、それに個々の授業過程をあてはめるということではなく、同時に具体 内容に即して、授業過程の記録をとり、ビデオやテープにその記録をおさめ、記録された個々の 部分を授業の全体関連の中で意味づけるということなのである。

第三は、経験的なアプローチの最終局面は、常に、しかもその中心的な課題として、解釈学的な性 格を帯びているということである。つまり、そこでは「得られたデータの解釈(Interpretationder genomenenDaten)」が問題とされているということである。データを収集した後には、その明ら かにされた事実を解釈し、包括的な意味関連の中にそれを位置づける必要が生ずる。そのような解 釈が必要とされるのは、明らかになった問題設定をさらに発展さすためにであり、その研究成果か

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らなんらかの実践的な変革をつくり出すためである。というのも教育学的な実践というのは常に 様々な要因が相互にからみ合った複合的な行為関連(komplexerHandlungszusammenhang)で あり、一定の条件下で明らかにされた経験科学による研究成果が、実践に対して何らかの意味を 持とうとする時、再びその複雑な関連の中に戻され、再統合される必要があるのである。そうし た生産的な解釈学的努力によって、現在の解説、説明にとどまらず、その変革や新しい関係の創 H摘;可能となるのである。

3.社会批判的7ブローチと解釈学および経験科学との関連

すでに述べてきたことからも明らかなように、教授学的な問題設定や関連は、経済、社会、政 治、文化といった関連や過程の中に包括的に組み込まれている。批判的一構成的教授学の第三の 方法的視点である「社会批判的‑イデオロギー批判的契機」に、教授学的な問題をそうした総体 としての社会との関連(gesamtgesellschaftlich)において、問おうとするものである。

今日、教授学研究においても強い影響力を及ぼしているこの社会批判理論は、フラソクフルト 学派(T.W.アドルノー,M.ホルク‑イマ一,H.マルク‑ゼ,J.‑バ‑マス)によって展開さ

れたものであるが、周知のように、それは、マルクス主義の社会分析の諸契機を独自に発展させ たものだと言われている<9)

。とりわけ、「青年マルクス」から強い影響を受けているこの批判理

論は、経済体制としての資本主義に対する批判にもかかわらず、ドイツ理想主義に由来する成熱 した人格(miindigePerson)という思想を決して放棄することはなかった。そうした人格は、社 会的に媒介され、社会と関連づけられはするけれども、批判的、自己規定的に、そしてその限り において、自由に振舞うことができるものであり、社会に対してもまた逆に変革的に働きかけが できるという見地に立つ。,ただしかL、すべての人間がいっそうの自己規定を実現するというこ とは、また同時に、人間の人間にたいする支配、経済的搾取、社会的な不平等の破棄に向けて横 棒的に社会を転換していくということ、つまり、社会の民主化(AufbaueinersozialenDemo‑‑

kratie)ということに、結びついたものではなくてはならないということである。

ここでの問題関心は、批判的一構成的教授学の方法論的な構造に対して、この契機のもつ意義 を明らかにするということであるが、そのことはもちろん批判理論の諸要因の単純な受け売りや その適用ということではなく、自己決定、共同決定、および連帯能力ということについてのいっ そうの解明や、その発達援助をほかろうとするものである、とクラフキーは述べている。

このような知見が、明らかにしたことは何であろう。それは、あらゆる教授学的な施設・制度 や決定というものが、不可避的に社会的な関心や観念に刻印づけられているとともに、またそれ は、‑1一定の社会的な帰結をもつということである。したがって学校や授業の相対的自立性(relative Eigenst丘ndigkeit)ということを考えてみれば、それは社会との関連の中で、それとの批判的な 関係において基礎づけられ貰かれなければならないということになる。そうしたことから、相互 に関連はしているが、とりわけ二つの問題関心をその基底において、教授学研究はなされなくて はならない、とクラフキーはいう。

第I一一一の問題は、社会的な諸関係や発展が、学校教育にかかわる諸々の事象にどのように影響を 及ぼしているのか。つまり、どのような社会的グループが、どのような形で、学校の形態、指導 要領、教育手段などに対して、影響を与えているのか、あるいは少なくともそうしようとするの かということが問われねばならない。

第二は、教授学的な問題領域におけるイデオロギー批判的な問いの設定ということである。こ

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こでいうイデオロギー( Ideologie)とは、言薬の狭義の意味で、つまり、誤まった社会的意識

‑虚偽意識(falsches gesellschaftliches BewuBtsein)という意味で用いられており、そうした 意識は、特定の社会的な力関係や依存関係から刻印づけられたものとしてある。そうした虚偽意 識というものは、現在の))関係や依存関係を確かなものとし、一一見正当化LもするO たとえば、

ある人種、性、社会階層の生来的な(von Natur aus)差異や特質の一面的強調は、そうしたこ との代表例ともいえるであろう。虚偽意識というのは、社会的な強者ないし特権をもった人々の 利害に対応したものであり、それが真実であると思わされているのは、常に社会的な弱者である

ということは、虚偽意識を問題とするさいの、注目に値する車実である。

こうした虚偽意識は、教育の背景やその社会的成果を批判的に問おうとしない限り、いわば

「善意で」教育学的鶴城にもち込まれることになる。たとえばL報告や外国語のテキストのことを 思い起こしてみよ、とクラフキーはいう。そこに描かれている家庭はきわめてr伝統的」なそれ であり、男女の役割はステレオ・タイプであり、描かれている現実の‑・端からは、社会的不平等 や失業、労資の対立、貧困と豊かさの対照などといった問題を窺い知ることはできないo そこに 描かれている世界は、調和のとれた「健全な世界」なのである。もちろん、しばしばそこには

「教育的配慮(padagogische Meinung) 」が働いている場合が少なくない。生きることを確証 させるためには、純化した理想化された現実を提示することが必要とされるといった、まさに

「教育的善意」が。しかし学校教育の社会的前提や社会的帰結という問題を意識する教授は、そ のような教育がいったい誰に利するものなのかをイデオロギー批判的に間越とせねばならないの である。

「けれどもJ とクラフキーはいう。 「批判的一構成的教授学におけるこうした社会批判的‑イ デオロギー批判的契機の強調が、授業というものを総体として短絡的に政始化しようとするもの と考えることは誤りである。」"o'と。そうしたところでは、たとえば、美的構成や表規といった ものは、社会批判のための単なる器となる。たしかに、社会や政治は、美的構成のための正統な テーマである。ピカソの「ゲルニカ」やベートーヴェンの「フィデリオ」を例にとるまでもない であろう。しかし誤解してはならないのは、そうしたY晶lJlをすぐれたものとしているのは、社会 批判的な内容それ自体ではなくて、なによりもそのすぐれた美術性であり音楽性なのである。そ してまた、当然のことではあるが人間の経験・知覚・構成にかかわるすべての領域が美的コミュ ニケーションにおける正当なテーマとなりうるということである。社会批判的知見は、 「美的教 育の政治化」を生み出すものではなく、美的教育の発展を阻害している社会的要関を明らかにし、

さらにまた、悪しき意味での芸術の手段化(道具化)に対して批判を加えようとするものであるo 以上のように見てくると、解釈学は経験科学と結びつくだけではなく、批判理論との結びつき をも要請されていることがわかる。つまり解釈学が問題とする教育(撹)学的な意味関連の小に すでに、社会的利害やイデオロギーが付着しており、そのことの批判的な検討を含み込んではじ めて、歴史的一解釈学的研究は意味をもつことができるといえる。また、そのことは経験科学的 アプローチについてもいえることであって、社会批判的観点と結びつくことによって、それはも はや単なる効率性をめざした「中立的」な研究姿勢を捨て去って、青少年の発達可能性の条件を さぐるとともに、人間的、民主的なl]標設定に方向づけられた授業や学校の創造という問題を解 明していくものでなくてはならないのである。

以上、批判的一構成的教授学の基本構想を概観してきたが、以トでは、そうした構想に基づい た「授業の計画」についての問題をみておきたい.

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小 野 横 男

III批判的一構成的教授学

1.授業計画のための一般的前提

クラフキーは、授業計画をおこなうためのI‑一般的な前提を11の命題(These)という形で提示 し、それを大きく二つの命題群に分けて、それぞれの説明をおこなっている(ll)

第1の命題群一授業の一般的目標と授業の基本構造1

1.授業の・椴的目標。授業のI‑・椴的なH標は、自己決定能ノJ(Selbstbestimmungsfahigkeit) 及び共同決定能力(Mitdestimmungf蕗higkeit)を内に含んだ連帯能力(SOlidaritatsf邑higkeit)と をf・どもたちに発達させていくというところにある。それらに含まれる基本的要素として、根拠 づけや省察を迫る理性的な討議能力、積極的に自然や社会現象に働きかけることのできる発達し た情動性や行為能力などがあげられる。ただここで注意すべき点は、そういった能力は、歴史的 一社会的な内容と切り離された形式陶冶的能力としてではなく、それはあくまでも、‑一定の歴史 帆‑社会的文脈の中で、「範鴫陶冶(kategorialeBildung)」的なものとして考えられねばなら ないということである。

2.相fl.fi:用過程(Interaktionsprozeβ)としての授業。教授と学習とは、教授者からの働き かけに基本的には規定されながら、教授者と学習者、学習者相互の作用関連としてある。最終的 には、現実に対する意欲的な働きかけができるように、教師の指導性のもと子どもたちは、認識 力、判断力、行為能力といったものを、よりntr二的に自己自身の力で獲得していかねばならない のである。教授一学習過程はそのような学習能力を子どもたちに形成していく過程であると同時 に、教師自身にとってもまた、新たな発見や学習の過程でなくてはならないO

3.「範例」を手がかりとした("#)発見学習。+どもたちの学習の中心は、範例的なテーマ (exemplarischesThema)を手がかりとした発見ないしは再発見学習であり、それは意味を明 らかにして理解を深めるものでなくてはならない。記憶したり、練習したりするということは、

諸能力(技能)を自己のものにしていくという点から考えれば、欠かすことのできない学習では あるが、その前提として、その内容の理解や発見というものがなくてはならない。

4.授業計画‑の学習者の参画(MitplanungdesUnterrichts)教えるということが今述

べた意味での学習を呼び起こす過程と考えるならば、授業というものは、なによりも学習者のた めに、そして次第に学習者とともに論議され計痢化されねばならない。言い換えれば、教授一学 習過程において、自己決定と共同決定の原理が、その要求(発達)水準のレベルを上げながら実 現されていかなくてはならないのであるo授業全体あるいは、個々の授業局面の共同の計耐化、

子どもと共同した授業批判、(「授業についての授業」)といったことが試みられる必要がある。

内ドイツ教授学における「『開かれた授業』あるいは『子どもに方向づけられた授業』(offener bzw.schiilerorientierterUnterricht)」論(12‑の立場は、そうした試みを積極的に押し進めよう とするものである。

5.「社会的過程」("sozialerProzeBつとしての授業。考えてみれば授業というものには、

子どもの、(そしてまた教師の)生育歴やさらにその背後の社会的諸関係に媒介されながら、さ まざまな社会的感情、偏見、行為様式、態度といったものがすでに入込んでいるoさらに、そこ ではまたそうしたものが、いっそう強化さたり、抑圧されたり、あるいは変革されたりもする。

「所与」の社会的感情に対する葛藤や困惑が生じたり、関わりや妥協が新たに創りだされたり、

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納得や拒絶が生じもする。こうしたことが意識化される時、‑クラフキーによれば、それは、西 ドイツの授業理論において、ここ十数年来の怯向であるというが‑そのような社会的学習(soziales Lernen)は、民主的な社会的教育を実現するという意味において、H的意識的に授業計由の中に 位置つけられねばならない。もちろんこの社会的学習ということは、そうした意味ではただ授業 方法の次元、たとえば、「授業の社会的形式(SozialformendesUnterrichts)」でのみ間題と されるものではなく、授業内容とも当然かかわって考えられていかねばならない間題でもあるo

第2の命題群‑具体的な授業計画に関連して‑

6.授業計画における目標決定の優位性。このことは精神科学的教授学が‑Frして主張してき た「狭い意味での教授学の方法学(Methodik)に対する優位性」という命題をいっそう発展さ せ厳密にしたものといえる。,目標の優位性ということは次のことを意味するoつまり、教授対象・

テ一一マをどういった見通しのもとに構成し、授業方法や授業主眼はどのようなものとするのか、

あるいは、授業をめぐっての社会的一文化的、また人間学的条件をどのように考察し判断すれば よいのか、そういった問題はすべて、目標という見地(Zielentscheidungen)からのみ基礎づけ られるものなのである。

もっともこの命題は、授業に関与するすべての要t月の相互依存性を否定するものではなくて、

むしろ、棚Ti.依存性という間題を「分考慮に入れたものでなくてはならないoただし、その際相 互依存性ということは、すべての要因が決して同一の関係にあるのではないということは注意し ておかねばならない。

さらに、目標決定の優位性ということで決して誤解Lてはならないことは、その日標から他の 次元の決定が導き出されたり演鐸されたりすると考えることであるoクラフキーによれば、そう した演梓が成立しているように思われる場合があっても、それは誤解にもとづくものか、表面的 にそう見えるだけのものにすぎないという。テーマ(内容)の決定や社会的学習の強調といった たとは、教授学に先立つ歴史的一社会的現実に直面しておこなわれるものである。ただそれらの 教育的価値、妥当性を明らかにするためには、そうしたテーマが自己決定や連帯能ノ<3(H標)の 発達にどのように寄与するものであるかという論議が不可欠なのであるOそうした論議は、たし かに、主導的な目標観念のもとでの批判的な解釈という性格を′帯びてはいる。しかし、それは演 梓(Deduktion)ということと同じてはない。

7.授業テーマ(教授内容)の構成。自然や社会についての内容が授業テーマ(Unterrichtsthema) となるのは、それぞれ特定の視角から生徒に関連づけられたり、あるいは、彼らによって授業に もち込まれる時にである。クラフキーは、そのことを、よく引き合いに出されるブラソケルツ (H.Blankertz)の「結核」についての見解を例としてとりあげ説明する(14)

。教授学的な検討を経

ない「結核」という事象は、さまざまな視角から考察日用巨である。つまり、診断や治療という医 学の見地から、伝染病に対する「政治的な」対策という見地から、また、防疫体制というまさに 衛生学的見地から等々。このように考えれば、教授学的になお意義づけられていない「結核tJと いう問題は、生徒に関連づけられ、特定の設定に方向づけられてはじめて授業テーマになること ができるということである。

もちろんこうしたモデルは、純粋に思考上のものにすぎないとクラフキーはいう。歴史的‑礼 会的現実においては、内容というのは常に、社会的、政治的、宗教的、文化的な価値や利害を掛っ ているからである。そうした所与の内容に対して、授業において、明確な見通しが与えられたり、

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論議か加えられたり、あるいはまたタブー視されたりするものである。したがって、多くの内容 は、価値やあるいはまた、偏見を含み込んだものとしてすでに存在しているということであり、

その事実を無視して、教授内容というものをただ教授学的に意味づけられる、教育上の単なる手 段としてのみ考えることは明らかに誤りである。

このような多くの内容が、すでに価値を担っているということを強調することは、教授学がそ うした価値内容を無批判に受け取らねばならないということではない。現実には価値の対立とい う事態もある訳だから、また、そうすることは本来不可能なことでもある。だからこそ、自己決 定や連帯能ノ」の育成という観点から、社会的に所与の内容を、批判的に検討することによって、

授業テ一一マを構成していかねばならないのである。その意味でも、範例を手がかりとしながら、

事柄のさまざまな見方、そこに入り込んでいる利害や見通しを明らかにし、行為や決定の選択の 可能性を明らかにしてやるということが、授業の中心課題としてあげられることになるのてある。

8.テーマに内在する方法。授業テーマというのは、静的で、それ白身客観的に存在している ものでないことは、今述べた通りであるoさらに、テーマというのはそれ自身内容と関連をもっ た方法、手段、構成形式‑数学的操作から絵の描き方やクラスでの討議形式に到るまで‑である か、そうした操作、問題解決、構成過程、したがって言葉の巌も広義の意味での「方法」の成果 だともいえる。科学や技術の研究、構成方法の成果、体操の動きの構成、グループ作業の組織方 法といったものもまた授業テーマとされるのである。そうした意味で、教授対象となるどんなテー マにも、方法的なものが内H:しているといってよい。クラフキーはそれをテーマに内在する方法的 性格(immanenトmethodischerCharakterderThematik)とよび、次の授業方法(Unterrichtsmethode) という概念と区別している。

9.授業テーマと授業方法。授業方法(Unterrichtsmethode)の一つの課題は、たしかに、8.

でのべたように、「テーマに内在する方法」を例に即しながら学習者のものとするところにある。

その意味でたしかに、授業の方法は、テーマに内在する方法に対応したものでなければならない。

しかし、授業の方法は、テーマに内在化された方法から導き出せるし、それで十分であると考え ることは、授業方法の課題を余りに‑・面的にとらえすぎている。というのも授業方法というのは、

なによりもtl的指向的な教授一学習を成立さす組織・遂行形式の総体にはかならないからである.

授業方法を教授者の道具として考えることは、いまだ不「分であって、それは教授と学習とが相 I/Iに関連し合ったものとして、つまり教授親織・行為と了・どもの側での学習過程との関係 (Beziehungen)を表しているものとして考えられねばならない。授業方法において基本となる点 は、教師の姐織・遂行形式が、r・どもたち・人ひとりに学習を成立させるということなのである。

だとするならば、授業方法というものは,単純に教授内容からのみ演鐸しうるものではないとい うことなのである05)

10.授業テーマの二つのタイプ。クラフキーは、授業テーマを大きく二つに区分する。I‑つは 直接教育口腔、(たとえば、自己決定や連覇能力、共同決定能力や批判、判断能力といった目標)

にかかわるテーマであり、それを「潜在的に解放的な力を備えたテ一一て̲(potentiellemanzipatorische Themen)と呼ぶ。そうしたテーマとしては、政治的、社会的論議の的となっている事項、たとえ

ば、「社会的諸関係とその変革可能性J、「性の問題」、「バイオ・テクノロジー」などをあげ ている。

第̲̲̲二のテーマ群は、なるほど解放的な教育目標にとって放てきはできないが、しかし同時に二 面的な価値をもったものである。そうしたテーマは、解放的な目標実現のために道具的に不ilT欠

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ではあるが、批判的な潜勢力を直接に喚起するものではない。彼はそれを道具的テーマ(instrumentelle Themen)と呼び、そうしたテーマとして、3R'Sに始まり、あらゆる教科領域における必要最

少隈の知識や技能をあげている。

もっともクラフキー自身指摘しているように、こうした区別はあくまでも相対的なものであっ て、それが道具的なものとなるか、直接的に解放的な力‑とつながっていくかは、歴史的一社会 的状況や学習者の生活状況や興味、関心とも深いかかわりをもつものでもあることは留意してお く必要があろう。

なお、授業テーマをこのように区分することによって生じてくる授業実践・理論Lの帰結は次 の二点にある。

第一は、道具的なテーマというものは、可能な限り包括的な問題設定のもと、解放的なテーマ と関連づけられて学習される必要があるということ。つまり、そうしたものは、解放的なテーマ の視点から子どもたちに意義づけられ、必要なものであることが理解されなければならないとい うことである。

第二は、教育目的の方法論に対する優位性の問題とかかわる。テーマが道具的なものであって も、教授‑学習の組織・遂行形式は解放的な目標設定に直接方向づけることができるということ である。道具的なテーマであっても、その学習過程を発見的なものとしたり、子どもたち自身に 計画的に学びとらせたり、あるいはまた共同で学習さすこともできる。テーマの道具的な性格を 方法の解放的な性格によって補完することも可能だということである0

ll.矛盾や対立を内包した授業。第5と第9のテーゼともかかわるが、授業においては様々な

利害、関心が浮かび上がってくるし、「本能」的な衝動と制度的条件や規範との緊張関係が生み だされてくる。そうした矛盾、葛藤は授業進行上の妨害物(Storung)となみされがちであるが、

社会的な学習という見地から考えてみれば、それ自身テーマ化され、社会的な態度を発達さす動 因ともなしうるものなのである。そうした視点がまた、今日の授業計画の中に組み入れられてい かなくてはならない。

2.授業計画の意義と限界

授業計画を構想するに先立って、その意義と限界について、クラフキーは、次のように述べて いる(16

。‑

1.授業指導の観点を明確にするもの。授業計画というのは、それに基づいて機械的に授業を 遂行していくための計画構想ではない。授業の諸次元や一般的基準を明らかにし意識化さすもの ではあるが、きわめて具体的な、根拠づけをもった決定というのは、個々の実践的な状況の中で Fされていくものである。もっともそうした計画は決して、授業計画のための中性的な道具

(wertfreies,neutralesInstrument)といったものてあってはならず、その構想は、民主的で解放 的な目標に方向づけられねばならないoまた、そこにおける一般教授学的な観点は、教科教授学 (Fachdidaktik)との対話、連携のもとに具体化され内実が豊かなものとされるのである0

2.実践を導き出すための授業計画というものは、‑一般の大多数の授業と関連づけられるもの であるとともに、そうした授業のいっそうの発展をつくり出していくことができるものでなくて はならない。

3.授業計画を高度化し細密化するという今日的必要性(それは、今後、ますます強くなって

くると考えられるが)は、授業計画をますます教師集団でおこなうことを要請している。したがっ

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て、共同で授業計画を?くりLfjしていく技最の育成を教師教育においてもはかっていかなければ ならない。

4.計画構造は、授業のどのレベルと関係するか。 一方では、年間計画や学期ごとの計画とい うことが問題となり、他方では、45分という時間が 一つの授業の時間単位となっている。そうした 中にあって授業計画の基礎となるべきものは、テーマに規定された授業単元(Unterrichtseinheit)、

あるいは教授計画(Unterrrichsproject)であり、テーマに規定された、 ‑まとまりの教授過程 (Lehrgangssequenz)である。そうした枠組の中で個々の授業時間の教授学的な位置づけが可 能となる。これに反して、個々の授業時間を絶対化して,計画を立てるという傾向がしばしばみ られるが、基本的には、それは誤りである。

5.授業計画の諸部分は、授業そのものの中で生み出されるということである。しかしまたそ うした授業局面は、再び前もって計痢化されていかねばならないものとなっていく。したがって クラフキーによれば、 「子どもに方向づけられた授業(schiilerorentierter Unterricht)」という 上張が、教師による授業の計向ということと、まったく対立的に考えられているとするならば、

それは、誤りであるか思慮4く足としか言いようがないということになる。

ところでクラフキーが、授業計画の問題をこのようにいうのは、州レベルの指導要領(Rahmenrichtliene) と個々の授業計画との関係を、次のように考えるからであるo 「指導要領というものがあるとい うことを遺憾なものと考えるのではなく、必要なものと考えるO ただしその計画を具体化するに 際して、個々の条件が考慮され、決定の余地が残されており、批判や改訂の可能性があるという 限りにおいてであるが。」(17)本来、指導要領と授業計画の間にはそうした緊張関係が存在すべき なのであるにもかかわらず、現実が必ずしもそうなっていないのは、学校における教育計画がま だそうした現実をつくり出し得ていなかったり、地域の世論がそうしたこことを許さなかったり、

あるいは所定の教材を教えることに教師が忙殺されてしまっていることによる。

6.そうした意味で授業計画というのは、まさに開かれた構想(offener Entwurf)でなくて はならないO つまり、柔軟性のある教授活動を可能にするものでなければならないのであるo授 業計癖に沿って正確におこなわれたかどうかということが問題ではなく、その計画が、教師には 教授学的に意義づけられ、しかも柔軟性に富む活動を、そして子どもたちには、きわめて生産的 な学習活動を引き起こすことができたのかどうかという点にその本質がある。

7.計画の綱目(Planungsraster)は、目標に方向づけられ、可能な限り、授業の本質的な諸 次元とその相互関連を明示しておく必要があるO もっともこのことは、きわめて微細に計画を立 てねばならないということではない。それは、非現実的な要請であるとしても、時としてできる だけ詳しく授業計画を練ってみるということが、若い教師だけでなく、ヴェテラソの教師にとっ ても、その教授資質を高めるために必要不可欠なことといえる。

3.授業計画の概要‑授業構想の7つの次元‑

クラフキーは、授業計画のための見取り図を右のように図式化(18)して示している。図の概略 を述べれば,この7つの問題領域(次元)は,すべて、授業成立にかかわる具体的な社会・文化 的条件の分析結果を考慮しておく必要があること、 7つの問題領域は、大きくは4つの問題群に 区分され、第・群はテーマにかかわっての教授学的な基礎づけに関すること、第二群は、テーマ の構造化にかかわるものであるということである。また図の矢印は、その印の示すところのもの

を考慮して入れわはならいといったことを表わししいる。以下クラフキーの説明に従って、それ

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ぞれの問題について説明を加えておきたいo

判榊処 「;¥   ‑‑.・''耶  ・;‑‑;','.・聖完1 ・wk ∴:恥1ト

第1の問題群一教授学的基礎づけの問題一

基礎づけの問題としている三つの次元は、現実的には相互に関連し合ったものてあるが、その 相互依存の構造を明確なものとするためにも、まずは、三つに区分して分析しておく必要がある。

テーマの今日的また将来的な意義は、なぜ問われねばならないのかoそれは言うまでもなく授 業の課題は、子どもたちに、今必要な、そしてまた、将来に備えることのできる知識や認識、技 能そして、行為能力を形成してやるという点にあるからであるO教科課程によって目標とテーマ を決定する時に、さらには、教師がそれについて批判的考察をおこなう時、あるいは1・どもから ある種の教育要求が出される時、そうした時には、こうした問題は常に考慮に入れられねばなら ない基本視点であるわけである。

ところで、今日的意義(第1の問い)を問題にするということは、青少年が経験し実践してい る意味内容を日常生活(Alltagswelt)との関連において問うということ以上のことを含んでいる。

I‑どもの喜びや不安、価値づけや偏見や興味、関心が生みIllされているそのu常世界は、すでに 現代社会のI‑・定の条件を反映したものである。それは、一一万では、 I‑椴的社会的条件、たとえば、

高度に:丁二業化され情掃化された社会的条件を、そして他方では、社会階層や地域的条件、さらに はl知桁的信条といったものを映し出しているものであるoその意味では、設定されたテーマの今 H的意義というものは、すべての子どもたちにとってI一一一義的な意味をもつものではない。

将来的な意味についての問い(第2の問い)についても同じことがいえる。子どもの出身階層 の違いや子どもの将来に対する教師の考え方の違いなどによって、同一のテーマであっても、まっ たく違った思考や態度様式を引き出すことになる。けれどもそうした意見の分れというものは、

決して授業の妨害要困ではなく、むしろ、社会的な不T一等に対する批判的考察を刺激し、社会発

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展に向かっての決断や選択肢をより鮮明にしそうしたことについての思考を深めるすぐれた契機 ともなる。

内容(テーマ)の今日的、将来的意義を問うということにかかわって特に注意すべきことは、

なによりも授業の計画者である教師自身がそしてまた教師集団が、そうした問題を自らの課題と して、自己自身‑の問いかけをするということ、教師自身が自らの態度、偏見、利害意識を問い 直し、望ましい将来の社会像を模索していくことによってはじめて、そうした問題を子どもたち に学び取らしていくことが可能となってくるということなのである。

しかしそのことは、教師の考えを子どもたちに押しつけるということではもちろんないとクラ フキーはいう。重要なことは、そうした自己省察や子どもとの共同の討議によって、社会や自然 に対する認識や判断や処理の仕方について見通しがつくり出されていくということなのである。

そうした過程を経て、これまでの教師自身の見通しを見直し、同時に子どもの考え方に対しても 柔軟性をもって対処し論議できるようになっていくということなのである。もっともその際注意 すべきは、そうしたT・どもの考え方が規定的な基準(verbindlicherMaBstab)と考えられては ならないのであって、子どもたちの無批判でいまだ無自覚で、「素朴」な見通しが批判的に検討 し直され変革されていくこと、そしてより高い認識や新たな行為の可能性を認識さすことが本質 的な問題なのである。

第3の範例的な意義について。範例的な意義を問題にするということは、潜在力をもったテー マというものが、それを手がかりとして、I‑一般的な関連、関係、法則性、構造、矛盾、行為‑の 可能性といったものを学習者に獲得さすことができなくてはならないということである。それは また授業内容における‑椴的目標と特殊な目標および両者の関連を明らかにするということでち ある.クラフキーによれば、したがって、学習目標を問題とする際に、その階層性(Hierarchie vonLernzielen)ないしは水準(Lernzielebenen)ということが検討されなくてはならいというo つまり目標体系として、一般、特殊、きわめて特殊、といった学習目標の構造を明らかにする必 要があるというのである。クラフキーは、そうした目標水準を4つのレベルて考察する(19)

第‑ll‑の目標水準は、最も一般的な目標レベルである。批判的一構成的教授学においては、それ を「解放」(Emanzipation)という概念で表わすことが適切であるという。もっとも̀60年代 後半に西ドイツ教授学において捉起されたこの「解放」概念は、あらゆる支配、強制からの解放 をいい、何のために、どこ‑向かっての解放であるかが明確にされなかったために、必ずしも肯 定的な評価を得ることはできなかった。教育目標としての「自己決定と連帯能力」の育成という 規定は、解放という概念をより積極的に定義づけたものであるとし、教育目標として、より伝統 的にいわれてきた成熟(Miindigkeit)という概念を社会批判的見地から一層発展させたものと いうこともできる。もちろん、「自己決定と連帯能力」という問題は、かつての目標を部分的に 修正したというものではなく,現代社会の中で、I一一人で生きるということと共同で生きていくと いうこととの関係を明らかにしていくという、きわめて今日的問題を意識して設定されたもので mm

第 二の目標水準は、「自己決定や連帯」という問題が、I一般的な資質形成としてどのように考 えられるかということである。ここではなお個々の内容からは抽象された資質である、批判力、

判断力、対話能力、自己の立場の明確化とその変革能力などといったことが問題とされる。

第三の目捺水準は、上記2つの問題を領域に固有な形で具体化するということである。ここで はなお、個々の教科に対応した分化が考えされるのではなく、包括的な問題領域の構成や連関が

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考えられることになる。たとえば、 「自然と人間との対話」とか「科学・技術と政治・社会との 関連」といった問題である。 「自然との対話」というテーマをもとに育てるべき批判力・判断力

は、次のような認識と結びついている必柴があるO 自然科学の法則は、 「あるがままの自然」の 素朴な記述や反映ではなく、人間が自然に対してr甘いを設定し、実験によって答を得るという、

そうした過程の成果であるということ、また俄城を越えた問題設定において考えるべきことは、

科学・技術的な発見というものは、まったく様々な、時には相反する目的に奉仕するということ、

素朴な科学信仰を打ち破るとともに科学・技術の社会的機能や政治・経済との利害関連に[日揮,I けられねばならないということなのである。

第四の目標水準O個々の教科およびいくつかの教科にまたがった(fachiibergreifend) 】牒規 定。諸教科の区別と関連が問題とされるとともに、それぞれの分野の中でまた 一般的なH標と特 殊な目標とが明らかにされなくてはならないO

以上が学習目標の水準についての説明であるが、その際注意しておくべきことは、こうしたヒ エラルヒ‑はいっそう精敵なものにされていく必要かあるとしても、普遍的に妥当する目標体系 といったものではなく、その具体内容は常に、歴史的、社会的に発展していくものであるのだか ら、こうした体系は常に1つの税制的な理念(eine regulative Idee)として考えられねばなら ないということである。また、実際の授業において、こうした目標のどのレベルにまで考察が及 んでいるのかが明らかにされる必要はあるが、 ̀削こその4つが同じ比重をもってある授業(テー マ)において問題にされなければならないというものではない。

第2の問題群‑テーマの構造化と検証の問題‑ (第4と第5のレベル) 第4の構造化の問題は、次のような観点から考察される♂o'

a) そのテーマは、どんな見通しのもとで取り扱われているのか。

たとえば、労働組合の問嶺は、将来の4=̲活や職業のことを考えると15才の青少年にどんな意味 をもつか。

一歴史的起源と主要発展拠点 一現在の綱簡

一親や学校関係者による評価

一社会的な対立者や批判者の側の視点

b) そのテーマに内在する方法的な構造は、何であるか。

たとえば、ドイツ労働組合総同盟(DGB)の現在の綱領は、諸々の社会発展の状況を背景に した、組合内での意志形成過程の結果なのである。

C) ある見通しのもとで、そのテーマを構成する要素は何かo

たとえば「親や学校関係者による(組合の)評価」ということを考えると、評定者に作用する 要因の分析がおこなわれねばならない。職種や地位、組合員か非組合員か、政党に所属している

か否か、といった要田が,そうしたことを明らかにする方法とともに考慮されなければならない0 d) 明らかにされた諸要因(構造要因)は、どんな関係にあるのか。

たとえば、論理的ないし因果的連関か、相互作用関連か、手段一目的関係か、あるいは、そう したものを複合的に含み込んだ関係であるのかということが。

e) テーマは層構造を成すものであるかどうか。

r) そのテーマは、全体の中でどんな位置を占めるものであるか。

参照

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