• 検索結果がありません。

北森嘉蔵のシュライアマハー理解 : その批判的検 討

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "北森嘉蔵のシュライアマハー理解 : その批判的検 討"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

著者 崔 弘徳

雑誌名 基督教研究

巻 76

号 2

ページ 1‑18

発行年 2014‑12‑08

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014539

(2)

北森嘉蔵のシュライアマハー理解

  その批判的検討  

A Critical Study on Kitamori’s Understanding of Fr.

Schleiermacher

崔 弘徳 Hong-Duk CHOI

キーワード

直接性、イエス・キリスト、仲保者、救贖者、キリストの死

KEY WORDS

Immediacy, Jesus Christ, Mediator, Redeemer, Death of Christ

要旨

  北 森 嘉 蔵(1916-1998) は、F・

D

E

・シ ュ ラ イ ア マ ハ ー(Friedrich Daniel Ernst

Schleiermacher, 1768-1834)の神学

3 3を「直接性」(Unmittelbarkeit)の立場であると批 判する。第一の批判点は、直接的な「神関係」を論じているということ。第二は、イ エス・キリストを唯一の仲保者として認めていないということ。第三は、イエス・キ リストの救贖的死を否定しているということである。本論文は、これらの批判内容の 妥当性を検討することを目的とする。この研究によって、北森の批判が、シュライア マハーの『宗教論』ならびに『信仰論』を単に宗教哲学的側面からアプローチした結 果であり、さらにはシュライアマハーの初期説教を扱う場合も、ごく一部の内容に限 定して、不徹底に考察した結果にすぎないということが明らかとなる。それらの諸資 料を全体的に綿密に分析してみるならば、シュライアマハーは一貫してイエス・キリ ストを唯一の(特有の)仲保者として、また救贖者として捉えていることがわかる。

つまりは、シュライアマハーの神学は「直接性」の立場であるという北森の前提その ものが、致命的な誤りであることが論証される。

(3)

SUMMARY

Kazo Kitamori(1916-1998)criticizes the theology of Schleiermacher(1768-1834)

as being a standpoint of “immediacy”: first, that the immediate relationship between God and man is rooted in the theology of Schleiermacher; second, that Jesus Christ is not acknowledged as the only mediator in that relationship; and third, that Schleiermacher denies the redemptive death of Jesus Christ throughout his life.

The aim of this paper is to examine the validity of these criticisms. From the result of this study, we can point out the following problems. First, Kitamori only takes the approach from the philosophy of religion with consideration of “On Religion”

(Über die Religion/Reden)and “The Christian Faith”(Der christliche Glaube/

Glaubenslehre). Second, he considers only a small part of the sermons by a young Schleiermacher, and worse, does not deal with those materials in detail.

However, when we study Schleiermacherʼs writings thoroughly, we can see that he acknowledges Jesus Christ as the only(particular)mediator, as well as his redemptive death. Therefore, Kitamoriʼs criticism of Schleiermacherʼs theology as a standpoint of “immediacy” is insupportable.

はじめに

 北森嘉蔵(1916-1998)は、今日の神学において「第一義的3 3 3 3な問題」として神関係 の「直接性」(Unmittelbarkeit)を取り上げる1。彼の理解において、直接性というの は神と人間との関係を「仲保者3 3 3

mediator, Mittler

)なるキリストを抜きに」して、

「直接的3 3 3(immediate, unmittelbar)な関係として」捉えるものである2。彼は、16世紀 か ら18世 紀 ま で に 現 わ れ た ソ チ ニ 主 義(Socinianism)、 ア ル ミ ニ ウ ス 主 義

(Arminianism)、 理 神 論(Deism)、 敬 虔 主 義(Pietismus)、 ド イ ツ 観 念 論

Idealismus

3、そしてロマン主義(

Romantik

)などのすべてがこの直接性に基づい ており、とりわけ「教会神学者3 3 3 3 3」である

F

D

E

・シュライアマハー(Friedrich Daniel

Ernst Schleiermacher, 1768-1834)が、その神学

3 3 に直接性を持ち込んだと激しく批判 する4

 北森は、自分の神学的公理は『コリントの信徒への手紙一』2章2節5に基づいた

「キリストの十字架」6であることを強調する。そしてそれを基準にして、シュライア マハーの『宗教論』7ならびに『信仰論』8、そして説教においては、イエス・キリスト が唯一の仲保者としても、救贖者としても理解されていないと結論づける。しかし、

(4)

それらの諸資料を綿密に考察してみるならば、こうした北森のシュライアマハー理解 や批判は根本的な誤りを含んでいることがわかる。本論文では、彼の批判内容を(1)

神関係、(2)唯一の仲保者、(3)キリストの死(贖い)という側面から分類してその 妥当性を検討し、北森によって歪曲されたシュライアマハーの神学的事柄を正すこと を目的とする。シュライアマハーへの批判を含む北森の著作としては、『神の痛みの 神学』(1946年)9、『福音の性格』(1948年)、そして『今日の神学:近代から現代へ』

(1950年)をあげることができるが、主として『今日の神学』において論じられてお り、その批判内容は他の二作とほぼ重複している。

1. シュライアマハー神学においては、イエス・キリストを抜きにした「神 関係」が内在しているのか。

1.1. 宗教概念を用いてキリスト教を解明したという理解

 北森は、まず、シュライアマハーの『宗教論』について、それはキリスト教神学者 の立場から論じられたものであるが故に、「神学的3 3 3に問題になり得る」と指摘する。

そこで、何よりも「一般的3 3 3宗教より特殊的キリスト教へ歩み行った事実」そのものが 致命的な問題であると批判する10。北森にとっては、『宗教論』における「直観と感 情の向けられる『宇宙』としての神が、直接性3 3 3の立場―mediatorなき

immediate

な 立場―」として理解されるのである11。彼は、『宗教論』における<宇宙の直観と感 情>(Anschauung und Gefühl des Universums)と関連した諸文章を取り上げて批判 す る。 例 え ば、「『 … 宗 教 は … 小 児 の 如 き 受 動 性 に お い て 宇 宙 の 直 接 的 な3 3 3 3

(unmittelbar)影響により捉えられ充たされたとする』」12、「『無限者と有限者との結

婚(

Vermählung

)である』」13、「『有限の中にあって無限と一つになり、時間にあって

永遠となる』」14などであるが、それらにあらわれているシュライアマハーの思惟は

「超越的他者としての神の実在」との直接的な「神関係3 3 315であり、それはまさに「直3 接性3 3の立場」であるというのである16

 次に、北森は、『信仰論』においても「『絶対依存』の懸けられる神が同様に直接性 の立場で考えられている」と指摘する17。<絶対依存の感情>(das schlechthinnige

Abhängigkeitsgefühl)という「神関係

3 3 3の意識」が問題になっているとの批判である。

彼の理解によれば、シュライアマハーにとっての絶対依存の感情は「『人生の普遍的3 3 3 な要素』」、「『人間性質の本質的3 3 3な要素』」であるが故に、結局、人間は仲保者なしで さえも「普遍的に・本質的に、従って直接的に3 3 3 3・自然的3 3 3に」神関係をもつことができ るという直接性の立場に他ならないのである18

 最後に、このような神関係の直接性は、シュライアマハーの説教にも貫かれている

(5)

と、北森は主張する。『宗教論』は一般の人々を対象とするものであり、説教はキリ スト教の信仰者を対象とするものであるにもかかわらず、その両者の間には「極めて 大きな近似性が見出される」というのが北森の見方である。そこで彼は、

J

・ヴァン デル(J. Wandel)の見解を借りて、『宗教論』における「『有限者の中における無限 者の直観と感情』」が、説教においては「神の前での生活、神との交わり」として表 現されたと指摘し、それはまさに「直接性の宗教」を説いたものであると語る。そし て、シュライアマハーの説教の中には「神との関係が普遍的・自然的・直接的となっ たが故に」、イエスは我々に単なる「『神的な援助』(göttlicher Beistand)を与える

『 神 的 な 教 師 』(göttlicher Lehrer)」、 あ る い は「『 模 範 』(Vorbild)」や「『 例 証3 3

(Beispiel)」 と し て 性 格 づ け ら れ る と 論 じ る。 そ こ で、J・ ヴ ェ ン ト ラ ン ト(J.

Wendland

)の主張を借りて、とりわけ「『例証』は有った方が便利であるが、然し必3

ずしも無くてもよい3 3 3 3 3 3 3 3 3ものである」と批判する19。北森は、シュライアマハーが『宗教 論』ならびに『信仰論』、そして説教において、「直接性」をもって「宗教概念を決33」するのみならず、その宗教概念を用いてキリスト教を解明しようとする甚大な誤 りを犯していると理解したのである20

1.2. その検討

1.2.1. 『宗教論』ならびに『信仰論』における「神-人」としてのイエス・キリスト  以上のような北森の批判内容は、幾つかの問題を露呈している。まず、第一に、

『宗教論』の考察では第5講話を本格的に扱っておらず、大体において第2講話(「宗教 の本質」)に集中している点である。しかし、第5講話には、明らかにイエス・キリス トは有限なものと無限なものとの間における真の仲保者であり、彼の直観は最も完全 な<根本直観>(

Grundanschauung

)であると叙述されているのである。

 第二に、『信仰論』の考察においても、北森はイエス・キリストを中心としては 扱っていない。シュライアマハーによれば、絶対依存の感情は普遍的なものではある が、個別的人間におけるそれは罪の状態にある不完全なものである。イエス・キリス トのみが罪のない存在であり、したがって完全な絶対依存の感情を有している「完全 な贖いの根源者」なのである21。それゆえ、イエス・キリストは神と個別的人間との 間における仲裁者となり22、代理人あるいは大祭司として「我々の祈りを神に執り成 し、また神の至福を我々にもたらす」役割を果たすのである23。これは、「我々は、

キリストにおいて神に会う」とのシュライアマハーの言及とも一致するものであ る24。故に、シュライアマハーにおける有限なものと無限なものとの関係は、根源的3 3 3 には3 3、個別的人間と神との直接的な関係を指すものとして捉えてはならないと考え る。むしろそれは、イエス・キリストの位格における「人」性と「神」性との関

(6)

25、さらには歴史的存在としてのイエスと父なる神との関係(『ヨハネによる福音 書』10章30節)26を示すものである。個別的な人間と神との完全な関係は、シュライ アマハーの理解では、こうしたイエス・キリストを通してのみ可能となるのである27。  シュライアマハーはキリスト教神学者として『宗教論』と『信仰論』を書いたと北 森も述べたように、『宗教論』における「宇宙の直観と感情」や「有限の中にあって 無限と一つ」であるという思惟、それから『信仰論』における「絶対依存の感情は

……人間性質の本質的な要素」(北森訳)であるとの思惟などは、徹底的にキリスト 教神学的視点から解釈しなければならない28。しかし北森は、シュライアマハーの神33(Theologie)に問題があると論じつつも、シュライアマハーの神学的構想からで はなく、ただ宗教哲学3 3 3 3(Religionsphilosophie)的な側面からのみ『宗教論』と『信仰 論』を取り扱っている。さらには、『宗教論』において直接的にキリスト教的である と言える「第5講話」の思想を主題にして、あるいはそこから出発して研究を行って いない。また『信仰論』においても<「絶対依存の感情>の「普遍的な要素」のみに 注目してしまったが故に、「神関係」におけるイエス・キリストの仲保者としての位 置を十分に把握していないのである。

1.2.2. 初期説教における「神-人」としてのイエス・キリスト

 第三は、シュライアマハーの説教についてである。北森は、単に初期説教に対象を 限って、しかもヴェントラントに頼りつつ、そこではイエス・キリストが理想的な人 間としてのみ述べられているが故に、その仲保者としての役割が取り除かれてしまっ たと批判している。しかしこれは、北森がヴェントラントの叙述をも全体的に把握し ていない結果であると言える。ヴェントラントは、シュライアマハーの初期説教

(1790

-

1801年)においては、イエス・キリストが「『徳の教師』」(

Lehrer der Tugend

) や「『模範』」(Vorbild)や「『例証』」(Beispiel)、そして「『神的援助』」(göttliche

Beistande)といった表現をもってよく述べられているが

29、後期説教(1810年以降)

に至っては非常に「キリスト中心の説教」(Christuspredigten)となっていったと言 う30。さらに、1808年にはシュライアマハーの説教がキリスト教の救贖信仰へと移行 したとも語る31。P・ザイフェルト(P. Seifert)の場合は、そういう諸表現がシュラ イアマハーの初期説教の特徴であることを認めつつも、ヴェントラントとは違って、

それにおいても「キリストは神様と我々の間において仲保者となられました」という 説教が述べられていると主張する32。実は、シュライアマハー自身も「キリストがた だ教えと例証によって働きかけるならば、我々はまだまだ律法の古い途上にありま す。それは、まだ如何なる贖いも見出していないということです」33と説教したので ある。こうした事柄と関連して、後の『信仰論』においては、救贖者なるイエス・キ

(7)

リストは人間の生の形をとって歴史に顕れているにもかかわらず、その中には無時間 的かつ永遠である神の存在が活動の原理として働きかけているとされる34。つまると ころシュライアマハーは、常にイエス・キリストは<真の神であると同時に真の人>

(vere Deus et vere homo)であり、神と人(世界)との間における真の仲保者である と受け止めていることがわかる。

2. シュライアマハー神学においては、イエス・キリストを唯一の仲保者と して認めないのか。

2.1. イエス・キリストを人格的・唯一の仲保者として捉えていないという理解  北森は、シュライアマハー神学においてはイエス・キリストが人格的な仲保者とし て、また唯一の仲保者として論じられていないと指摘し、それは他ならぬ「直接性3 3 3」 の立場であると批判する。敷衍すれば、批判点の一つは、仲保者という概念が人格と してのイエスではなく、仲保の「理念」や「精神」や「原理」として捉えられている ということである35。そこで北森は、イエスの「仲保者たる品位」が無視されること は、『ヨハネによる福音書』14章6節36と矛盾するのではないかとの疑問の声をあげ、

次のように批判する。

   「『仲保者たる品位が無視されてもよい』という事は、結局この『仲保の理念』

の宗教も、直接性3 3 3の立場にほかならぬことを露呈しているのではないか。直接 性とは仲保者を無視する立場だからである。イエスの仲保者たる所以が無視さ れ得る事は、イエスが将来において踏み越えられ得る3 3 3 3 3 3 3 3ことを必然的に結果す る」37

 もう一つの批判点は、イエス・キリストが唯一の仲保者として捉えられていないと いうことである。これと関連して北森は、シュライアマハーにとっては<仲保者>の 概念が複数形(「仲保者たち!」)に用いられる場合もあり38、さらには「『彼(イエ ス:筆者注)は…唯一の仲保者たるべきことを、決して(!)主張したことはなかっ た。…彼は常に、彼の後に来るべき真理(Wahrheit)を指示していたのである』」39と さえ、捉えられていると批判する。

2.2. その検討

2.2.1. 人格としての仲保者であるイエス・キリスト

 まずは、「仲保の理念」の問題である。これは、北森がヴェントラントの見解、す

(8)

なわち、シュライアマハーにとってキリスト教における本質的なものはイエスの人格 よりも彼の魂の中に形成された「救贖の理念」にある40という見解をそのまま受け容 れたものと見られる。しかしこれは、シュライアマハーの叙述を厳密に把握したもの とは言いがたい。その叙述内容を見れば、イエスにおける理念ではなく3 3 3 3 3 3、確かにイエ3 3 ス自身について3 3 3 3 3 3 3述べていることがわかる。「(イエスは)その偉大な理念をあらわすた めに来た3 341、「多くの人のために存在する3 3 3 3 3 3 3 3 3 仲保者」42、「仲保者の務めの意識3 343などの 諸表現における「来た」とか「人のために存在する」、そして仲保者としての「意識」

を有しているなどの言葉が、その人格性をあらわしているのである。シュライアマ ハーにおいては、イエス・キリストは一方では、当時のドイツ観念論の背景から考え ることができるものであるが、歴史的人間として他の人と同様に仲保の理念をもって3 3 3 3 3 3 3 3 3 いる3 3にもかかわらず、他方では、「神-人」として歴史においてその仲保の理念を具3 3 3 3 3 3 3 現した人格的仲保者3 3 3 3 3 3 3 3 3であると理解されているのである44

2.2.2. 唯一の仲保者としてのイエス・キリスト

 次に検討すべきは、イエス・キリストが唯一の仲保者として捉えられていないとい う問題である。『宗教論』第1講話には、「仲保者たち」という叙述があらわれるのは 事実である。ここに述べられるのは、神は対立的な二つの要素(二つの極端な隔た り)を結びつけるために、どんな時代にも少数の仲保者たちを立てて、神ご自身の意 志と業の代弁者としての役目を果たさせるということである45。しかしシュライアマ ハーは、この仲保者たちに関する叙述の後に、次のように論じる。

    「 し か し、 い つ か は こ ん な 仲 保 者 の 役 目 も 終 わ り、 人 類 の 祭 司(das

Priestertum der Menschheit

)がそれ以上に美しい使命を授けられんことを

(『イザヤ書』13、『ヨハネ一書』2・27)!いにしえの預言に記されているよう に、すべての人々が神から教えを受けるようになり、もう他人から教えられる 必要など少しもない、という時代の来たらんことを(『ルカ福音書』2・

49)!」46

 それから、『宗教論』第5講話に至って、また仲保者の概念が登場するが、そこで は、イエス・キリストが、「神の本性」(göttliche Natur)と「有限の本性」(endliche

Natur

)とに同時に属している特有の仲保者であることを強調する47

 ここで注意しなければならないことは、『宗教論』における仲保者の概念は多重的 意味を有しているということである。ザイフェルトによれば48、その仲保者の概念は 様々な段階で用いられる。第一は、「人間性」(Menschheit)との関わりであるが、

(9)

「制約された人間と無限の人間性との間における仲保者」49である。ここでは、あらゆ る人が自らそのような仲保者であることができる。第二は、「自分が見出した宇宙」50 を啓示する存在としての仲保者である。この場合は、天から新しい啓示をもたらすた めに遣わされる51。最後かつ最高の段階では、唯一無比性を有した仲保者である。こ の仲保者は、「肉となられた神」としてのイエス・キリストであり、あらゆる仲保の 関連における最後のものでありかつ目標なのである。以上の指摘からすれば、北森の 場合は、彼自身が「仲保者たち(!)」と強調している如くあまりにもその概念の複 数形に拘ってしまったに違いない。しかしシュライアマハーの思惟において根源的な3 3 3 3 のは3 3、イエス・キリストのみが唯一無比の仲保者であるということである。これは

『信仰論』においていっそう具体的にあらわれる。すなわちイエス・キリストは、上 の引用文と関連されるが、「祭司の頂点」(

der Gipfel des Priestertumes

)であって、

今までのあらゆる大祭司を越えた存在なのである52

 そして、単に仲保者の概念の複数形についての先入観から、その複数形と「唯一の 仲保者(der einzige Mittler)であるとは決して主張しなかった…彼は常に彼の後に 来るべき真理を示していた」との叙述とを結びつけて、シュライアマハーはイエス・

キリストを唯一の仲保者として捉えていなかったとの北森の批判は適切でない53。こ れも『宗教論』を綿密に把握していない結果であると言わざるを得ない。というの は、シュライアマハーは聖書と聖霊をも仲保者として受け止めているからである。

『宗教論』第5講話によれば、「聖書はその中に神的な本性を含んでいるもので、有限 で堕落した悟性のために神の認識を仲裁する論理的仲保者(ein logischer Mittler)」

であり、「聖霊は実践的に神に近づくための倫理的仲保者(ein ethischer Mittler)」な のである54。こうした視点から考えてみれば、もちろんイエス・キリストは唯一の仲 保者ではなくて、特有の仲保者である。つまるところ、将来にあらわれる「真理」と いうのは、この聖書や聖霊を指すものであって、決してイエス・キリスト以外の如何 なる歴史的人物も指していないのである。単なる歴史的人物の中では、イエス・キリ ストは唯一の仲保者であり、確かに「唯一無比の位置」を占めている55。もちろんこ れに関しては、すでにシュライアマハーも聖書を引用して主張したのである。「彼

(イエス・キリスト:筆者注)以外のどこに、仲保する者がいただろうか。『父を知る 者は子、また子の欲するままに顕すところの者のほかになし』」56。こうした思惟は、

『信仰論』においても貫かれている。そこでは、キリストはすべての時代にわたって 神と個別的人間との間における「最も完全な仲裁者」(

der vollkommenste Vermittler

57 であるといっそう明確に論じられる。

(10)

3. シュライアマハー神学においては、イエス・キリストの贖いが否定され ているのか。

3.1. イエス・キリストの死を代贖的にでなく、道徳的に捉えたという理解

 北森の批判の根幹は、シュライアマハーの神学にはキリスト教の「贖罪論」を否定 する直接性が内在しているということである。彼は、シュライアマハーの説教におい てさえ、キリストの救贖的な死が全く否定されていると批判する。

    「イエスの苦難と死とは決して決定的な位置を占め得ない。かりに彼の苦難が 取り上げられるとしても、それは苦難そのものに意義があるのではなく、イエ スがその苦難に全く自己を献げつくしたという道徳的事実に意義があるのであ る…。かくして結局イエスの死は『無くてもよい』(entbehrlich)ものとなる のである」58

 それから北森は、シュライアマハーの『信仰論』においても、イエス・キリストの 救贖的死は否定されていると理解する。まず彼は、<絶対依存の感情>を「直接的な る 神 関 係 」 と 言 い 換 え る。 そ し て シ ュ ラ イ ア マ ハ ー に と っ て は、「 感 覚 性 」

(Sinnlichkeit)によって「直接的なる神関係が圧迫阻止されていること」が罪であ り、「直接的なる神関係が、再び解放され支配するに至ること」が贖いであると捉え る59。そこで、次のようにシュライアマハーを批判する。

    「一切を支配するのはこの直接的なる神関係である。贖罪は、直接的なる神関 係の徹底的な破綻を通って、新に創造される高次の秩序としての仲保媒介の神 関係ではなく3 3、圧迫阻止されていた直接的なる神関係が、直線的3 3 3に解放され支 配するに至る事象とされる」60

 このような北森の批判には、シュライアマハーの『信仰論』における一つの命題、

すなわち「キリストは、彼の強き神意識(die Kräftigkeit seines Gottesbewusstseins)

の中に信仰者を摂取する者であり、そしてこの事が彼の『贖罪の働き』である

(§100)」(北森訳)61という命題への理解が大きく影響していると考えられる。北森 にとっては、ここでの神意識というのは普遍的なものであって、「神が彼(イエス:

筆者注)の中に存在すること(Sein Gottes in him)」のみを除くならば、キリストは 他の人間と区別されないと理解されるのである62

 ここで北森は、シュライアマハーにおいては「贖罪者キリストの意義」を見出すこ

(11)

とができないと断定する63。そして、シュライアマハーは「キリスト教の『伝統的』

教義を大体において殆どすべて受け容れようとしたが、十字架が贖罪的意義をもつと いう事のみはこれを頑強に否定した」、「生涯の終りに至るまで」イエス・キリストの 死を、その「代理的な和解であったこと」を信じることができなかったと論じつつ、

次のようにシュライアマハーを激しく批判する。

   「彼(シュライアマハー:筆者注)がキリストの死を以て我々の罪のために神 の怒りを負って刑罰の死となすことを拒否し(§104, 4)、『キリストの血』に 言及するすべての贖罪論を『魔術的』(magisch)(§100, 3)なるものと称し て斥けた瞬間は、…悪しき、悪しき、最も悪しき瞬間と呼ばねばならなくな る」64

    「使徒パウロはキリストの十字架のみ3 3を守らんとした。シュライエルマッヘル はキリストの十字架のみ3 3を除かんとした」65

3.2. その検討

3.2.1. 初期と後期の説教における救贖者としてのイエス・キリスト

 では、シュライアマハーは「キリストの死」を否定したかどうかを、その説教内容 をもって検討したい。まず言えることは、北森が、ただシュライアマハーの初期説教 のみを、それも全体的に把握せず、二次資料に基づくごく一部の内容のみをもって、

シュライアマハーの救贖信仰への否定が彼の全生涯や思想全体に貫かれていると主張 する大きな誤りを犯しているということである。しかしながら、シュライアマハーの 初期説教を綿密に考察してみると、そこにもキリストの救贖的な死について述べられ ていることがわかる。いくつかの例を挙げる。「主よ、…あなたは、あなたの御子の 派遣と死によって、我々を赦す善き御業を始められました…そのためにキリストは、

十字架の死を迎えられました。アーメン」66。「そのためにイエスは、こうした苦難 を、こうした強いられた死を耐え忍ばなければならなかったのです」67。「あなたは、

ただイエス・キリストをお遣わしになったのでなく、我々のための犠牲にもされたの です。あなたは、イエス・キリストにおいて、イエス・キリストの生と死によって、

すべて、すなわち我々の救いのために、…我々の完全な信仰のために必要なすべてを 充たされたのです」68などである。

 次に、後期の1824年の説教69を見ると、やはりそこにもキリストの救贖的な死は取 り上げられる。

(12)

    「しかし、今、救贖者の死によって罪が取り除かれたように3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3、我々は救贖者と 共に救贖者の死において葬られ、そして救贖者と共に新しい生へと復活するよ うになるという、それは救贖者の死と生における交わりの大いなる神秘です。

その両者は、救贖者への真の信仰と切り離されないのです」70

    「キリストの死は3 3 3 3 3 3 3、キリストが罪のためにささげたいけにえです3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3。なぜならキ リストは、ご自身の服従の、死に至るまでの服従の、それも十字架上の死に至3 3 3 3 3 3 3 3 るまでの3 3 3 3服従のいけにえだからです。救贖者の服従3 3 3 3 3 3と、キリストがささげたい3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 けにえ3 3 3、その両者は異なるのでなくて、むしろそれは一つであり、同一なもの です」71

 以上のように72、シュライアマハーは初期から後期に至るまで決してキリストの死 やその救贖的意義を否定していなかったことがわかる。ではなぜ、北森はそのように 批判しているのか。それはヴェントラントの一部の見解にのみ頼った結果であると判 断される。ヴェントラントは、シュライアマハーにおいて贖いはイエスの死から導き 出されるのでなく、むしろその生から導き出されると理解し、シュライアマハーに とって「イエスの死は、それ自体としては、無くてもよい(entbehrlich)」ものであ ると論じたのである。しかし、ヴェントラントは「それ自体としては3 3 3 3 3 3 3 3」と限定してい るにもかかわらず73、北森はそれを省いてシュライアマハーにとっては「イエスの死 は『無くてもよい』」ものとされていると述べるのである。

3.2.2. 神秘的なものとしてのイエス・キリストの救贖する活動

 北森の誤りは、シュライアマハーがキリストの死(贖い)を「魔術的」に捉えて斥 けたという批判にも存在する。これを検討することによって『信仰論』におけるシュ ライアマハーの救贖信仰も明らかとなる。まず言えるのは、北森が、シュライアマ ハーの用いる「魔術的」という用語を誤解しているということである。シュライアマ ハーは、救贖者の救贖する活動と和解する活動などに関する根源的な事柄を「神秘 的」(mystisch)74なものとして受け止める。彼によれば、この神秘的なものは二つの 対立的なもの、すなわち「魔術的もの」(die magische)と「経験的なもの」(die

empirische)との境界において「真の中心」(wahre Mitte)として位置する。ここで

前者の立場においては、超自然的なもののみを重視する反面、後者の立場においては 自然的・歴史的なもののみを重視する。それゆえ「魔術的もの」においては、イエ ス・キリストを「天上の現在」(himmlische Gegenwart)として捉える。その救贖す る活動と和解する活動75においても個別の人々に及ぼすキリストの直接的影響のみを

(13)

取り上げ、その新しい「全体的な生」(Gesamtleben)76の超自然的な由来やその全体 的な生の創始者であるキリストの特有性のみを認めることによって歴史的な仲裁を否 定する。他方、「経験的なもの」においては、イエス・キリストを「現世の現在」

(irdische Gegenwart)として捉える。その救贖する活動と和解する活動においても、

言葉や交わり、教えや例証によって引き起こされる、信仰者における成長する完全さ のみを取り上げる77。換言すれば、新しい全体的な生を歴史的な仲裁のみに、すなわ ちキリストの継続的な活動を単なる日常的な経験の領域に還元してしまうことによっ て、キリストの超自然的もしくは特有な側面を否定するのである78

 このようなシュライアマハーの理解から読み取れるのは、イエス・キリストの贖い

(「救贖する活動」)は「神秘的」なものであって、単に「魔術的なもの」でも「経験 的なもの」でもないということである。つまるところ、北森が批判しているように、

シュライアマハーはイエス・キリストの死(贖い)を「魔術的」に受け止めて斥けて いるのではなく、むしろ「魔術的3 3 3」にのみ捉える立場3 3 3 3 3 3 3 3を―もちろん「経験的」にのみ 捉える立場も―斥けているのである79。このように北森が誤解しシュライアマハーを 批判した瞬間こそ、「悪しき、悪しき、最も悪しき瞬間」と呼ばざるを得ないだろう。

結び

 北森のシュライアマハー理解における致命的な問題点は、イエス・キリストを中心 にして展開しているシュライアマハーの神学から、可能な限りイエス・キリストのみ を抜きにして考察を行おうとした点に存在する。その理由としては、北森自身は「キ リストの十字架」の神学に立っており、シュライアマハーは「直接性」の神学に立っ ているという前提を持っているからである。そこで、シュライアマハーを強く批判す ることによって、北森は自分の神学の独自性を主張しようとしたのではないかと考え られる。しかし、北森のシュライアマハー理解、否、批判における「直接性」という 前提はそれそのものからして誤っている。それだけでなく、シュライアマハーの諸資 料を読み取ることにおいても、極めて不徹底であると言わざるを得ない。

 まず、シュライアマハーの『宗教論』ならびに『信仰論』は、叙述形式においては 宗教哲学的性格を有しているが、その根本的な事柄はキリスト教神学的であるにもか かわらず、北森は単に宗教哲学的なアプローチに止まっている。それ故に、北森は、

シュライアマハーの思惟における中心であるイエス・キリストの位格や業―とりわけ 仲保者と救贖者―の扱いを軽んじてしまったのである。北森が、神学的に3 3 3 3シュライア マハーを批判するならば、何よりも『宗教論』における根本直観の存在であるイエ ス・キリスト、有限なものと無限なものとの間における特有の仲保者であるイエス・

(14)

キリスト、それから『信仰論』における無罪性かつ完全な根源的啓示として表現され るイエス・キリストを中心にして研究を行うべきだったと考える。その点を重要視し て研究を行ったのであれば、決してシュライアマハーの神学を直接性の立場であると 言うことはなかったであろう。

 それから北森は、全く神学的にのみ取り扱うべきシュライアマハーの説教を取り上 げることにおいても徹底していない。敷衍すれば、二次資料を通してシュライアマ ハーの初期説教について言及しているが、厳密に分析してみると、それもイエス・キ リストの「人」性に限られたごく一部の内容のみである。つまり「神」性とか、救贖 者といったキリスト教における根源的な真理内容に繋がるシュライアマハーの神学的 思惟については扱っていないのである。さらに驚くべきことは、その初期のごく一部 の思惟のみをもって、イエス・キリストの救贖的死の否定がシュライアマハーの全生 涯、思想全体に貫いていると拡大解釈している点である。このようにあまりにも不徹 底な研究結果をもって、シュライアマハー神学3 3が直接性の立場であると主張すること は、シュライアマハー神学の甚大な歪曲であると言わなければならないと考える。

* この論文は、2014年9月9~10日に関西学院大学で開催された日本基督教学会第62回 学術大会において発表した研究を加筆修正したものである。

1 北森嘉蔵『今日の神学:近代から現代へ』、弘文堂、1950年(以下、『今日の神学』と表記する)、38 頁。

2 『今日の神学』、31、32頁;他のところでは、直接性とは「神と世界との間に、神と人間との間に」

「否定」が介在しないことであると定義する。北森によれば、神と人間との間に調和が形成され、仲 むつまじく存在している状況であって、それを詩的に表現するのが「パラダイス」であり、概念的・

神学的に表現するのが「直接性の世界」、あるいは「直接的な愛の世界」である。北森嘉蔵『創世記 講解』、教文館、2005、31頁。ちなみに、「直接性」と「神秘主義」とは、仲介媒介者(仲保者)を経 由しないという点では共通点を有しているが、直接性においては人と神との融合などに踏み込まない 点では神秘主義と異なると考える。とくに、シュライアマハーの『宗教論』をめぐる神秘主義の問題 について、日本の研究者の見解に関する研究は、水谷誠「石原謙における宗教と神秘主義―とくに シュライアエルマッハーの『宗教論』をめぐって―」『基督教研究』(第45巻第2号、1983. 8)、25-36 頁、水谷誠「シュライエルマッハー『宗教論』受容の一形態―ディルタイ、リッチュル、オットーと 石原謙の対論及び翻訳―」『基督教研究』(第46巻第1号、1984. 10)、93-112頁を参照せよ。

3 北森は「ドイツ理想主義」と呼ぶ。

4 北森嘉蔵『福音の性格』、西村書店、1948年(以下、『福音の性格』と表記する)、168-169頁。

5 「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以 外、何も知るまいと心に決めていたからです」(新共同訳)。

6 『今日の神学』、10、29頁。

(15)

7 Fr. Schleiermacher: Über die Religion; Reden an die Gebildeten unter ihren Verächtern(1799), 7. Aufl.

Göttingen 1991(以下、R1と略す);高橋英夫訳『宗教論:宗教を軽んずる教養人への講話』、筑摩書

房、1991(以下、高橋訳と略す)。

8 Fr. Schleiermacher: Der christliche Glaube nach den Grundsätze der Evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt(1830/31), 7. Aufl., hg. v. Martin Redeker, Erster Band、Berlin/New York 1999(以下、CG2と略す).

9 北森嘉蔵『神の痛みの神学』、講談社、1996(以下、『神の痛みの神学』と表記する)。

10 『今日の神学』、34頁。

11 『福音の性格』、169頁;『今日の神学』、16頁。

12 『今日の神学』、34頁;R1, S. 50;傍点は筆者のもの。『福音の性格』には「子供の如き受動性を以って 宇宙の直接の3 3 3影響により…」と「直接の」に傍点がついている(169頁)。以下、北森の文章を引用す る際には、旧字体を適宜新字体に改める。

13 『今日の神学』、38頁;R1, S. 267;北森は、シュライアマハーのこうした関係における愛を「恋愛」、

「性愛」であると指摘する。J・ヴェントラント(J. Wendland)の言葉を引用し、次のように述べ る。「『シュライエルマッヘルの全宗教を性的衝動から導き出す』ことさえ可能であろう」と。『今日 の神学』、36頁;しかし、シュライアマハーにおける愛というのは、神の属性としての愛をあらわす ものであって、イエス・キリストの贖いの業を通して現実化するのである。したがって、「キリスト において存在するとき」にその神の愛を認識することができる。CG2 Ⅱ, §165, 1, S. 444; CG2Ⅱ,

§166, Zusatz, S. 446; CG2 Ⅱ, §166, 2, S. 448参照。

14 『今日の神学』、38頁;R1, S. 133.

15 『今日の神学』、36頁。

16 『今日の神学』、16頁。

17 『今日の神学』、16頁。

18 『今日の神学』、45頁;『福音の性格』、170頁参照―「人間は絶対依属という神との関係を普遍的に本 質的に、即ち直接的に所有している」。

19 『今日の神学』、42頁。

20 『今日の神学』、38、45頁参照。

21 Fr. Schleiermacher: KGA, 1/7, 1=Der christliche Glaube nach den Grundsätzen der evangelischen Kirche im Zusammenhange dargestellt(1821/22), Teilband 1, hg. v. Hermann Peiter, in: Fr.

Schleiermacher: Kritische Gesamtausgabe I. Abt. Band 7, 1. hg. v. Hans-Joachim Birkner…―Berlin/

New York 1980, §18, 4, S. 66; §25, 3, 4, S. 94, 95を参照。北森は、シュライアマハーのドイツ語の用

語Erlösungを「贖罪」に、Erlöserを「贖罪者」に訳しているが、筆者はそれぞれ「贖い」(もしく

は救贖)、「救贖者」と訳する。なぜなら、シュライアマハーにとってそれらの概念には、基本的にた だ<罪>からの解放のみならず、<律法>からの解放も含んでおり、さらにはその贖いは和解とも不 可分の関係にあるからである。

22 CG2 Ⅱ, §166, 2, S. 448.

23 CG2 Ⅱ, §104, 5, S. 135.

24 CG2 Ⅱ, §104, 4, S. 128; “daß wir Gott in Christo sehen”.

25 シュライアマハーにおけるイエス・キリストの「神-人」性に関する筆者の論文を参照せよ。崔 弘 徳「イエス・キリストにおける『神-人』性についてのシュライアマハーの理解」『基督教研究』(第 76巻第1号、2014. 6)、83-101頁。

(16)

26 「わたしと父とは一つである」(新共同訳)。

27 この完全な関係は、終末的出来事(終末的贖い)として実現されるだろうと、筆者は考える。

28 『宗教論』について、ザイフェルトは、哲学的手段(Mitteln)をもってキリスト教ないしキリスト教 神学の一定の理解を弁証(Apologie)するものと捉える。ヘルテルは、神学的テキストあるいは神学 的命題であるというテーゼをもって出発するものと捉える。それぞれ、Paul Seifert: Die Theologie des jungen Schleiermacher, Gütersloh 1960, 15; Friedrich Hertel: Das theologische Denken Schleiermachers:

untersucht an der ersten Auflage seiner Reden ≪Über die Religion≫, Zürich-Stuttgart 1965, 146-147.

29 Fr. Schleiermacher: KGA III. 3= Predigten 1790-1808, hg. v. Günter Meckenstock, in: Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher, Kritische Gesamtausgabe; im Auftrag der Berlin - Brandenburgischen Akademie der Wissenschaften und Akademie der Wissenschaften zu Göttingen, hg. v. Günter Meckenstock und Andreas Arndt, Ulrich Barth, Lutz Käppel, Notger Slenczka, Dritte Abteilung, Predigten, Band 3, Berlin/Boston 2013を参照。この初期の諸説教には教師や模範や例証などといった 表現がよく出てくる。「キリストは、我々に前もって指示された人間として、我々にお生まれになり ました。…(キリストは)自分の例証(Beispiel)を人間的本性の最高の大勝利としてあらわします」

(KGA III. 3, S. 27;『ガラテヤの信徒への手紙』4:4に基づいた、1790年12月25日のクリスマスの説教 である)。「お遣わされた方、すなわち神の子は、我々に次のようなことを宣べ伝えます。言うならば 神様は、我々皆の父であること、愛と配慮が我々の真の幸福のために我々皆の運命を決定するし、神 の子の例証(Beispiel)と教え(Lehre)が我々に子どものような、堅い信頼を引き起こすというこ とです」(KGA III. 3, S. 92;『テトスへの手紙』2:11-15に基づいた、1794年4月6日の按手礼の説教で ある。)。「キリストは、我々のためにのみならず、彼に信従する人々の長子として、彼の真の友らの 模範としても復活されたのです」(KGA III. 3, S. 122;『コリントの信徒への手紙一』15:26に基づい た、1794年7月26日のイースターの説教である)。

30 Johannes Wendland: Die religiöse Entwicklung Schleriermachers, Tübingen 1915, 63-66, 93-94, 146参照。

31 a. a. O., S. 150.

32 Paul Seifert: Die Theologie des jungen Schleiermacher, 120;イエス・キリストは「神様が…我々に贈っ てくださった」存在であるという内容もあるという。

33 a. a. O., S. 173から再引用;“…wenn Christus nur durch Lehre und Beispiel wirkt; so sind wir noch auf den alten Wege des Gesezes, und es ist keine Erlösung erfunden”. Fr. Schleiermacher: Sämmtliche Werk: Predigten, 10 Bde., S. 31-35を参照せよ。

34 CG2 Ⅱ, §100, 2, S. 91.

35 『今日の神学』、39-40頁;R1, S. 301.

36 「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(新共同訳)。北森の文章では、

「『我に由らでは3 3 3 3 3 3誰にても父の御許にいたる者なし』」である。

37 『今日の神学』、40頁。

38 『今日の神学』、39頁;北森は、第5講話においてはじめて「仲保3 3の概念が登場して来る」と言ってい るが、実際、複数形を含めて仲保者の概念は第1講話から登場する。

39 『今日の神学』、40頁。

40 Johannes Wendland: Die religiöse Entwicklung Schleriermachers, 147-148;1809年の『キリスト教倫理 学』(Christliche Sitte)における「救贖の理念」に関するヴェントラントの説明はa. a. O., S. 158f.を 参照せよ。ちなみに、ヴェントラントは、シュライアマハーが1807年6月14日の説教において、信仰 の3段階について述べていると紹介する。すなわち、第一はカント的信仰、第二は観念論への信念、

(17)

第三は永遠の贖いへの信仰である。a. a. O., S. 163.

41 R1, S. 301: “zu welcher die große Idee, welche darzustellen er gekommen war”.「(イエスは)」と傍点は 筆者の付加。

42 R1, S. 303; “Mittler zu sein für viele”.

43 R1, S. 303; “das Bewußtsein seines Mittleramtes”. 傍点は筆者のもの。

44 これに関しては、ザイフェルトが適切に示していると考える。彼によれば、イエス・キリストはただ 神と人との間の仲保者(Mittler)として立っているのでなく、彼自身の位格や業において仲裁

(Vermittlung)が出来事となるのである。Paul Seifert: Die Theologie des jungen Schleiermacher. 143-144.

45 特に、R1, S. 9f.;高橋、9頁以下を参照せよ。

46 R1, S. 12-13;高橋、12頁;( )内のドイツ語は筆者の付加。

47 R1, S. 291ff.;高橋訳、229頁以下; R1, S. 302.

48 以下の内容に関しては、Paul Seifert: Die Theologie des jungen Schleiermacher, 137-142を参照。

49 R1, S. 10.

50 R1, S. 11.

51 R1, S. 29, 9を参照。

52 CG2 Ⅱ, §104, 6, S. 135.

53 R1, S. 304; これと関連して、H・フィッシャーは、シュライアマハーはキリストの唯一性を認めては いるが、「絶対的意味ではなく、相対的意味においてのみ」理解していると述べる。また石井次郎 は、シュライアマハーが伝統的教義におけるキリスト論に懐疑を抱いていたと断言しつつ、『宗教論』

における見解では、「イエスを必ずしも唯一絶対の仲保者」として捉えていないと論じる。そして B・A・ゲリッシュは、「イエスは、決して自分を唯一の仲保者であると主張しなかった。さらには、

彼を最高の者であると主張することは、さらに良い者が後々に到来するであろう可能性を開示したま ま残すことにもなるのである」とシュライアマハーが言い表していると述べる。しかしながら、彼ら は皆、シュライアマハーにとってはイエス・キリストが絶対的な意味における唯一の仲保者として受 け止められなかったと主張しているが、その主張の十分な論拠も提示していないし、さらには具体的 な説明もしていない。たぶん、彼らの見解では、シュライアマハーにおいては、イエス・キリストの みならず他の諸宗教創始者あるいは他の歴史的人物の中にも特有の仲保者が存在しており、特有の仲 保者となり得る、と捉えているのではないかと考えられる。H. Fischer: Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher, München 2001, 56;石井次郎『シュライエルマッヘル研究』、新教出版社、1948、

205、206頁;B. A. Gerrish: A Prince of the Church; Schleiermacher and the Beginning of Modern

Theology; 『シュライエルマッハー:近代神学の父』、(松井睦訳)、新教出版社、2000、68-69頁を参照

せよ。

54 R1, S. 306.

55 Paul Seifert: Die Theologie des jungen Schleiermacher. 143を参照;“Man sollte nicht leugnen, daß seine Ausführungen die klare Absicht zeigen, der Person Christi eine einzigartige Stellung einzuräumen”.;

ヴェントラントは、『宗教論』においてイエス・キリストが唯一無比の存在としてあらわれると述べ ているが、あくまでもそれを理念の次元で理解しようとする。Johannes Wendland: Die religiöse Entwicklung Schleriermachers, 147-148.

56 R1, S. 302;高橋訳、237-238頁。『マタイによる福音書』11章27節、『ルカによる福音書』10章22節参 照。

57 CG2 Ⅱ, §104, 6, S. 135.

(18)

58 『今日の神学』、50頁;『福音の性格』、171頁においても「キリストの死は結局『無くしてもよい』も のである!」と述べている。これは、『神の痛みの神学』、32頁によれば、ヴェントラントの見解を借 りたものとされている。

59 『今日の神学』、45-46頁;『福音の性格』、170頁を参照。

60 『今日の神学』、46頁。

61 “§100. Der Erlöser nimmt die Gläubigen in die Kräftigkeit seines Gottesbewußtseins auf, und dies ist seine erlösende Tätigkeit”. CG2 Ⅱ, §100, Zusatz, S. 90;「§100. 救贖者は、信仰者たちを自分の神意 識の強力さのなかに引き入れるが、これが救贖者の救贖する活動である」(筆者訳)。

62 『今日の神学』、47頁;『福音の性格』、170頁。

63 『今日の神学』、46-47頁。

64 『今日の神学』、49-50頁;シュライアマハーが、イエス・キリストの血に関する贖罪論を「魔術的」

であると言及したという北森の陳述は、『福音の性格』、170頁および『神の痛みの神学』、32頁にもあ らわれる。

65 『今日の神学』、49頁。

66 KGA III. 3, S. 79; “Aber auch so Herr bedürfen wir noch Deines Beistandes und Deiner Gnade, Du hast gute Werk unserer Begnadigung angefangen durch die Sendung und den Tod Deines Sohn,…und um dessentwillen er den Tod des Kreuzes gestorben ist. Amen ”.『コリントの信徒への手紙二』5章12節に 基づいた、1793年3月29日の説教前の祈りである。

67 KGA III. 3, S. 90; “Wir wollen an das Ende Jesu nicht denken, ohne zugleich auf den Zwek seiner ganzen Erscheinung unter den Menschen zurükzubliken; wir wollten uns fragen, was war es denn, was er auf Erden ausrichten sollte, um dessentwillen er dieses Leiden, diesen gewaltsammen Tod erdulden mußte”.『テトスへの手紙』2:11-15に基づいた、1794年4月6日の按手礼の説教である。

68 KGA III. 3, S. 98; “daß Du nemlich Jesum Christum gesandt, daß Du ihn nicht nur gesandt, sondern auch für uns dahingegeben hast; daß Du in ihm durch sein Leben und Sterben alles erfülltest, was nothwendig war zu unserm Heil, zu unserm Trost, zu unserm völligen Glauben an Deine erbarmende und verzeihende Güte und Gnade”.『コリントの信徒への手紙一』11章26節に基づいた、1794年4月18 日の説教前の祈りである。

69 Fr. Schleiermacher: KGA III. 8=Predigten 1824, hg. v. K. M. C. Kunz, in: Kritische Gesamtausgabe im Auftrag der Berlin-Brandenburgischen Akademie der Wissenschaften und der Akademie der Wissenschaften zu Göttingen, hg. v. Günter Meckenstock und Andreas Arndt, Ulrich Barth, Lutz Käppel, Notger Slenczka, Dritte Abteilung Predigten Band 8, Berlin/Boston 2013; 次の二つの引用文 は、『ヘブライ人への手紙』10:8-12に基づいて、1824年4月16日にベルリンの三位一体教会にて行われ た説教である。

70 KGA III. 8, S. 209; “Wie aber nun durch den Tod des Erlösers die Sünde hinweggenommen sei, das, m.

g. F., ist das große Geheimniß der Gemeinschaft seines Todes und seines Lebens, daß wir mit ihm begraben warden in seinen Tod und ihm auch auferstehen zu einem neuen Leben; und beides, m. g. F., läßt sich von dem wahren Glauben an den Erlöser nicht trennen”. 傍点は発表者のもの。

71 KGA III. 8, S. 213; “…der Tod Christi ist ein Opfer, welches er dargebracht hat für die Sünde, weil er der Gipfel ist seines Gehorsams, eines Gehorsams bis zum Tode und bis zum Tode am Kreuz. Der Gehorsam des Erlösers und das Opfer, welches er dargebracht hat, beides ist nicht verschieden, sondern es ist eins und dasselbige”. 傍点は発表者のもの。

(19)

72 その他の説教も参照せよ。「罪を犯して堕落してしまった人間は、生の指導者かつ栄光の主を十字架 にかけたのです」。KGA III. 8, S. 208; 「救贖主の死は、決定的に、すべての時代のために、全人類の ために、しかしあらゆる個々人のためにも起こされました」。KGA III. 8, S. 208; 「主が罪の代わり に、一度、いけにえをささげた以来、これ以上いっそう、如何なる『罪の記憶』も要らないので す」。KGA III. 8, S. 209; 「救贖者の死はいけにえすべての終わりです。つまり主の死によって、主の 力によって罪そのものが取り除かれたというのが、ここでのパウロの卓越した考えであります」。

KGA III. 8, S. 209;「今や、もはや主イエス・キリストを十字架にかけた罪との交わりのなかで生き

るのではなく、むしろ主イエス・キリストとのすばらしいかつ神の国の喜びに預かっている交わりの なかで生きることができるという事実を我々は感謝すべきです」。KGA III. 8, S. 214.

73 Johannes Wendland: Die religiöse Entwicklung Schleriermachers, 181.

74 キリスト教信仰において内的経験は根源的なものであるが、その内的経験を持っていない人々はその 経験を神秘的なものと呼んでいた。ここでシュライアマハーは、当時の人々との神学的・学問的共有 のために、言わば公教的な(exoterisch)側面で、その用語を用いていると考えられる。CG2Ⅱ,

§101, 3, S. 100.

75 イエス・キリストの救贖する活動による新しい「全体的な生」の創始の高次的段階は、信仰者の神と の交わりの領域であるが、その救贖する活動は信仰者たちを神の至福へと引き入れることを含むが、

これがキリストの和解する活動である。Marlin E. Miller: Der Übergang; Schleiermachers Theologie des Reiches Gottes im Zusammenhang seines Gesamtdenkens, Gütersloh 1970, 143参照。

76 シュライアマハーにおいて「全体的な生」は個別的なものの全体との一致、個別的なものの相互間に おける一致、そして個別的なものの神との一致が形成されたものである。a. a. O., S. 142.

77 CG2 Ⅱ, §100, 3, S. 94-96;シュライアマハーによれば、教えと例証によって成長する完全さはキリス ト無しにも行われるものであって、この場合キリストの出現はむなしいものとなってしまう。特に、

a. a. O., S. 96.

78 シュライアマハーにとって「神秘的」という言葉は、彼の神学における様々な事柄にもあらわれる が、それらにおいても常に「魔術的」と「経験的」との間における中心として用いられる。これに関 しては、特にCG2 Ⅱ, §100, 3, S. 93-97; CG2 Ⅱ, §101, 3, 4, S. 100-105を参照。

79 ヴェントラントは、「神秘的なもの」を「経験的なもの」に対立的なものであるという一側面だけの 不十分な理解を示している。「こうしたキリスト論を、シュライアマハーは後には、彼自身が初めに 指示していた経験的なものとの対立で神秘的なものと呼ぶ」。Johannes Wendland: Die religiöse Entwicklung Schleriermachers, 164.

参照

関連したドキュメント

60年 代以降、精神科学的教授学はその限界 と弱点 とを「根源的な形で」指摘 されるが、 しか し それによって精神科学的教授学は決 して 〈 片付けられた

文部科学省のことばで言うと、思考力、 判断力、表現力を養う、ということになります。そ ういう理解が、 OECD が提起する「

④1993 -1996 年における中央教育審議会の「生きる力」論の提起に 20

う』」とである○論理学はあるということ、いっさいの論理学なるものはただあるというだけなのである。だから、

それでは一般民衆のための教授にとつて「最も緊要なるもの」(das Dringendste)とは

マグレガーは.管理者にたいしてニY理論へその思考を変革することを提唱する  

2 ) ただし,紙幅の関係上,本稿の考察は限定的な ものたらざるを得ない.パーフィットは非同一性

150