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河原正博先生追悼

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Academic year: 2021

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著者 岩永 博 [他]

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 46

ページ 140‑149

発行年 1994‑03‑24

URL http://hdl.handle.net/10114/10500

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本会顧問法政大学名誉教授河原正博先生は、平成五年一月二十六日午前四時十六分、呼吸不全のため、川崎市中原区井田一二七一一、市立井田病院て逝去されました。享年八十歳、告別式は二十八日午前十一時から横浜市港北区綱島東二’五’’五、長福寺会館で行われました。墓地は三浦市南下浦町金田一一一九九’一、一一一浦霊園です。心から哀悼の意を表します。先生の略年譜・論文目録は『法政史学』第三十五号に掲載されています。

そろそろ物忘れの多いのに隅を噛むこの頃ですが、河原先生が豫科教授、第一教養部教授として過ごされた、昭和二十三年から昭和二十八年春までの五年間、木月キャンパスで先生からいただいた御高誼には、御迷惑をお掛けしたことの多かっただけに、ど 法政史学第四十六号謹直で瓢逸な河原先生

河原正博先生追悼

岩永博 うにも忘れ難いことが多い。以後四○年間の楡らぬ御厚情にもまた感銘を深くするのみです。

×××

木月キャンパスでの思い出の第一は、東洋史の河原先生と、日本史の渡辺保先生(のち明治大学史学科教授、同文学部長、昭和四十八年没)と西洋史担当の小生との、歴史担当のトリオの協力の日夜です。三人は一一一領域の講義を分担しつつ、新制大学の教養科目設置の主旨に沿うのだと、色々な障害を排して、学生全員の完全な自由選択を可能にする目的をどうにか達成する苦労をともにしました。尤も小生は、気風のよい江戸っ子の渡辺先生と熊本っぽの河原先生の息の合った努力に、のほほんと追随しただけでしたが。最も強く胸に残るのは、広島大学の教養部に移られた岩佐正教授(国文学担当)の後を承けて、河原先生が第一教養部の学務課長となられ、事務職を四年間兼ねられた期間のことです。先生の繊密で、正確な仕事振りに感銘したことと、当時教授会主任をし 一四○

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ていた小生が、教授会のむつかしい要求や、教授方の多少我がままな要望を持ちこんで、先生に随分とご迷惑をおかけした汗顔の数々とは、到底生涯忘れられません。学生闘争その他の悩は絶えないにしろ、入試競争率は高く、吃大な数の学生を擁し、充実した施設に恵まれ、職員組織の整った、今日の大学の現状が頭を占める人々には、新制大学発足前后の、戦禍の傷痕の大きい施設と、少ない職員を以て、戦時中に底を衝いた学生数を急速に増加させる急務の結果として、当時の第一教養部の学務課長として担われた先生の、事務上の負担と苦労は到底理解されぬものかもしれません。市ヶ谷校舎が潰滅的な戦災を蒙った結果もあって、新制大学の第一教養部(戦後三年半存在した大学豫科を引継いだ)は、各学部第一部の一、二年次生、云わば各学部学生の半数を収容していたので、その学務課の業部は各学部第一部の入学試験業務を含めて非常な量と責任を負っていました。豫科と第一教養部は、戦時中衰微した本学の戦前の隆盛(昭和七~’○年頃、豫科の入学者は年四○○~五○○人を数えた)を回復し、さらに戦後の新規進学者の増加に応えねばならなかった。入学者数は、昭和二十一年に二五○人であった豫科の(戦時下の昭和二○年には約一○○名強)から、昭和二十四年の第一教養部の新入学者数約八○○人、昭和二十八年のそれの一一三○○人と急増した(この数は豫科と専門部などを統合した新制大学として、戦前の隆盛期の水準をほぼ回復したものと云えよう。因みに本学の第一部の入学者は昭和三十六年の約六○○○人がピークであり、本学は以後入学者実数を

河原正博先生追悼 抑制し、従って当時ほぼ一一~三倍であった入試競争率を、今日の高水準まで上昇させることになった)。それはともかく、入試事務が電算化され始めたのは三十年代末であるから、昭和二十年代には、入試受験者の得点の集計、合否判定資料の作成、入学者の語学級の編成などの年々増大する姥大な事務を、総て手作業に頼らねばならなかった。受験者が幾何級数的に増加する中で、不足勝ちな職員を以てこれに当る学務課の作業は非常な過剰労働となった。作業は一ヶ月余に亘って深夜十一、十二時に及ぶ日が多かった。河原先生は繊密な作業手順を設けて職員を指揮されたのみならず、キャンパス近くに住まわれた因果で、深夜女子職員を家庭に送り届ける労を、主任職員とともに、蓋された。明蜥な業務指揮のうえ、温情に溢れた先生に敬服して、職員が喜んで業務に励んだ状況は羨ましい程であった。二十八年春先生が文学部に移られた数年後、学務課長は職員に代えられ、学生も一一一○年と一一一一一一年の一一回に分れて市ヶ谷キャンパスに移り、大学は一変した。こうして、諸制度の未成熟、施設の不足に苦しみつつ学園発展の礎となった木月の教養部の歳月は、歴史に埋没した感が深いが、一番苦しい時代の学務業務に責任を負われた先生の御功績と、先生の御研究の足を引っ張ったような経緯とは、先生の生涯の異風の一駒として是非記憶していただきたいと、餘談を加えさせていただきました。

×××寡黙で謹直な先生でしたが、時に示された瓢逸な御人柄は頗る味の深いものでした。教養部の教員の懇親会で、浅酌の合間に漏

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らされた寸鉄人を刺すような人物評や、さりげない餘興演技にはすっかり意表を衝かれた。職員との懇親旅行の宿で、鯨飲組が酔い潰れた後にも、乱れることもなく、熊本の気風や異風の中国人物伝を語って、人々を笑わせられていた屈託の無い、遠い昔の先生の姿は今も鮮烈に想起させられます。文学部に移られてからも、小生は変られぬ御温情に接し網けました。小生が昭和三十年に、外貨規制の嚴しい中で、中東諸国を自費旅行した折には、何人かの現地在住邦人を紹介していただいて、懐寂しい旅に、大変便宜を得て、助けられました。その後間もなく、胸部疾患に罹壹われた折は、既にストレプトマイシンが使われていたが、新式の外科療法をも進んで受けられて、病を克服されました。先生の強靱な意思力には驚かされるのみでした。小生は中東史研究の一部で、イスラムの中国への伝播の経緯を探究したとき、手に余る中国文献の内容についてよく先生に教示を乞いましたが、恥しいような初歩的質問にも、懇篤な御回示を戴きました。同時に先生の書簡の、|字一画も崩されぬ独特な偕書で綴られた嚴密な文章には、身の引き締まる恩をさ、れました。これは小生の速断的文章と、乱筆とへの頂門の一針であり、生涯忘れ難い先生の記憶となるでしょう。(法政大学名誉教授) 法政史学第四十六号

河原正博先生が法政大学文学部の専任教授を定年退任されてから約一○年になる。先生には定年後もしばらく大学院にご出講をお願いし、また、通信教育部のご指導を引き続き担当していた、いたのでいつも身近に感じていることが多かった。先生が体調を崩されて入院されたとのことは一寸伺ったが、年賀状も何時もと変らずいただき安心していた。そのうち通信教育部の方は辞退されたいとの話もあったが、そろそろ担当を交代したいとのお考えかと思い別に気にとめていなかった。しかし、突然一九九三年(平成五)|月一一六日、川崎市中原区にある市立井田病院で亡くなられたという計報に接することになったのである。二七・二八日の両日は、文学部史学科では卒業論文(通信教育部)の面接が予定されており、どうしても公務のため告別式に参列できないので、取急ぎお通夜に史学科の同僚の教員と共に、横浜市港北区綱島にある長福寺会館に赴きご焼香させていただいたのである。先生とは、ご生前、時々お電話でお話することがあった。「先生お変りございませんか」と申し上げると、いつも変らぬお声で「元気でいますよ」と直ぐ返ってくる。先生は余計なお話は余りされないので、いつも短い会話で終るのであるが、まだまだお元気でおられると信じていただけに、計報をお聞きしたときは大き 河原正博先生のご業績

村上直

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な驚きであった。何時の頃であったか、先生が川崎市立の井田病院にしばらく入院なさったことがあった。私はそのときお見舞いに伺ったが、病室に先生と奥様がおられ、しばらくお話をしたが、「どうも痩せてくるので検査をして貰っている」というような話をされていたことが思い出される。勿論、そのときは間もなく全快されお元気になられたのである。河原先生のご業績については、私が何分にも日本史の専攻であるため、充分に理解しているわけではないが、主として、漢民族の華南への発展とそれに伴うその地域の開発、また、それによって生ずる華南少数民族との接触・交流・摩擦などの相互関係についてのご研究であったとうかがっていた。とりわけ漢民族の華南への発展は、中国史の大勢であり、その解明は多民族国家の中国史を理解していく上で、きわめて重要な意味をもつものである。そのため、先生のご研究は早くから注目されていたと、研究者の方からお聞きしたことがあった。先生が亡くなられてからのことであるが、奥様から、一九九三年九月一日付で、中華人民共和国河南省開封市図書館の館長李錘舞氏気付で、陳高衡氏という方が、東京大学名誉教授山本達郎先生宛に「先生と河原正博先生他の共著『ベトナム中国関係史』は現在この分野で比類のない大著であると言えます。私は貴著を中国語に翻訳しましたが、それは順調にいけば近いうちに中国の読者に紹介されることになります。これは文化交流史上の重大な出来事であり、先生方の卓越した研究成果が中国において発表されることでもあり、ここに先生方に対して謝意を表する次第です。

河原正博先生追悼 (以下略)」という内容の手紙が送られてきたことをうかがった。それと共に『ベトナム中国関係史』の「訳者説明」という文章も同封されてきた。そこで早速、私から山本先生にお手紙を差し上げたが、中国語の「訳者説明」の部分を、河原先生の教え子である岡安勇氏に日本語に訳して貰ったので、その一部分を次に掲載することにしたい。『ベトナム中国関係史』(山川出版社)は、一九七五年(昭和五○)一二月刊行された山本達郎先生ら七名の共著であるが、河原先生はその中で重要部分の執筆をなさっているのである。「訳者説明」で陳高衡氏は次のように記している。歴史上、ベトナムと中国の関係は西周にまで遡ることができ、しかも三千年間変化発展し、中断することはなかった。唐末五代以前のベトナムと中原は混然として区別はなかったが、唐末五代以後は両者の間に次第に分離の動きが見られるようになり、ベトナム人は中原に対抗して自らの国家創建を求め始めた。中原の封建王朝は漢族・蒙古族・満州族のいずれであっても常にベトナムに対して一大支配者としての政治的地位を占めて強固に圧迫して平等に扱わなかったが、大小の情勢と文化・経済面の深い影響によって、ベトナムの独立闘争はついに属国関係を作り出したのである。五代から宋・元・明・清までの約千年間、ベトナム(もと安南と称す)と中原の封建王朝は絶えず支配服従とそれに対する反抗闘争の状態にあったが、この段階の中越関係史について、中国においてはこの千年の歴史を見通す体系だった著述は現在まで見い出すことはできない。ベト

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ナムにおいても見い出せるだろうか。しかるに第三国の日本において山本達郎主編、七教授共著の『ベトナム中国関係史』が出版されたことにより、それは当を得た客観性をそなえ持つことになったものである。この書は世界史、特に東南アジアの視点から中越関係を取り扱ったものであり、とりわけベトナムの民族主義が中国の封建勢力の伝統的な統一に抵抗した闘争を重視しており、史料も豊富で、歴史関係者ばかりでなく中越関係に関心のある一般の中国人、なかでも中越友好善隣関係建設に関心をもつものに対して、戒めとすべき先例の教訓としての重要性があるので、無学をも省みず、三年の歳月をかけてこの著書を中国語に翻訳し、いささかでも寄与できればと考える。これによって、山本・河原両先生らの共著は、現在、中国の歴史学会でも高い評価が与えられていることが分かる。間もなく、この『ベトナム中国関係史』は陳高衡氏によって中国語訳が上梓されることになっているので、再び注目されることになると思うのである。先生のご生前の研究が広く中国において伝えられていくことは、私たちにとっても大きな喜びである。法政大学史学科では、先に岩生成一・竹内直良両先生がご他界になられ、また、河原先生を失ったことは寂しい限りである。古い卒業生のなかには、これで史学科の歴史の一つの段階が終ったと思っている人もいるのではなかろうか。その意味でも、多くの卒業生から敬愛されながら亡くなられた河原先生は、私たちとは違って、研究者としても教育者としてもお幸せな方であったと思うのである。ここに改め 法政史学第四十六号

先生との出会いは四○年程前の史学研究室であった。創早期の史学科では、東洋史担当教員としては関野雄先生・周藤吉之先生がおられたが相次いで東大に転出され、法政の方は兼任となられた。その後を受けて当時第一教養部におられた河原先生が専任教員として着任されたのであった。当時の史学科は二部のみであり、学生も何らかの職についていたいわば勤労学生であった。研究室も、三○平方メートルにも満たないもので、専任の先生方の控え室兼書庫兼学生との懇談室であり、時に卒論面接試験場ともなった。史学会発足以後はその事務室も兼ねたのはいうまでもなく、学生委員その他が足繁く来室するなどその利用度はまことに高いものがあった。当時の主任教授故藤井甚太郎先生は、なるべく学生譜君が研究室に出入りして、史学のセンスを磨くようにと念願され、他の先生方も一致されてこの風潮を維持された。このような研究室の助手Ⅱ雑務係が私の役柄であり、人間的にも大いにもまれた。当時の学生諸君にはなかなかの猛者がそろっていた。このような雰囲気の中で、河原先生は教授陣の中でも故丸山忠綱先生とともに若手であり、決して表面には出られなかったが、 てご冥福をお祈りする次第である。

河原正博先生を偲んで (法政大学文学部教授) 一四四

芥川龍男

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講義を終えられて研究室に帰られると「おう皆集まっているな、ところで君は教室にはいなかったが、研究室に来ていたのらなよしとしよう」などと気軽にいわれ、学生は恐縮していたことなどが思い出される。当時の学生諸君と今でも時々会合を持つが、その折にもしばしば先生のイキな取り計らいが話題なる。一言にしていえば、先生の学生を見る目は、やる気のある学生かどうかを基準にされていたよう思われてならない。やる気のある学生には後日を期待しておられたのであろう、単なる甘やかしではなく学生を人間的に信頼される温かい眼差しで見守られていたのであ

る。今でも申し訳ないと思い出されることがある。昭和三○年前後であったと思うが、先生は肺を患われおよそ二年ほど療養生活にはいられたことがある。申し訳ないというのはこの発病に関してである。法政史学会の行事のひとつに、史跡見学を春秋二回行っていた。歴史的な視野を広げると共に親睦を図るためのもので、卒業生会員も多く参加した。なかなかの盛況で通信教育生の会員も加わり四○名を越える時もあった程である。そのひとつで、村山の正福寺の地蔵堂と元弘三年の板碑見学を目的としたコースで行った時のことである。季節も晩秋から初冬に入ったころであった。当時の村山あたりの東京近郊では、タクシーなどの手配は難しく、全コースを歩くことになった。途中の田んぽのあぜ道で小休止をとるほどの道のりであった。この史跡見学が終わって間もなく、河原先生は寝込んでしまわれ、入院。

河原正博先生追悼 春愁・療養生活に入られたのである。この時のお疲れが原因ではないかと気がかりでならなかった。ご回復後の先生は、慎重に体調を維持されておられたが、といっても消極的な日々を過ごされることなく、エネルギーの配分に工夫されたと見受けらる。その結果が御高著『漢民族華南発展史研究』(吉川弘文館発行、昭和五九年七月)として上梓されたのである。いつぽう、コンパなどの席ではお酒は召し上がらなかったが、軽妙な替え歌などを披露されたり、風呂敷にノートなどを包んで小脇に抱えられて教室に臨まれていたお姿などが思い出される。借越ながら、先生のご生涯は、静かで.暖かく・芯の通った。粘り強い生き方であったといえよう。間もなく一周忌を迎える今日この頃、先生から得たものを大切にして私なりの老後を充実したものとしたいと念願するものである。末尾ながら、あらためて先生のご冥福を祈るものである。(法政大学第二教養部教授)

法政史学第十一一一号(’九六○年一○月)に次のような雑報記事がある(傍点筆者)。この一大叢書の研究室備えつけによってシナ史研究におけ

、、、、、、、、る最大の障害である史料上からの制約が幾分か緩和される 河原先生を偲んで

一四五 安岡昭男

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ことになる。これは「叢書集成」三千四百余冊が史学研究室に入った時の紹介記事であり、研究室の助手であった筆者が河原先生の意を体して書いたのだが、誇張を避け抑制された表現をとったのが印象に残っている。研究室に受け入れた紀要などの東洋史関係論文目録カードを作成して、排列について伺ったのに対し、即座に執筆者名の五十音順がよいとの明快な指示を下さった。いまでも研究室のカードケースに納まっている。教室で学生に、校注書である岩波文庫の「宋名臣言行録』を全部回収したいと洩らされたのは、厳密を尊ぶ学者的良心からの、偽らぬお気持であられたと察する。法政史学第三十五号(一九八一一一年)の小稿「河原先生と史学科」にも述べており繰り返さないが、教育と研究に黙々と専念された先生は学界への寄与と学生の薫陶に後進に立派な範を示されたのである。(法政大学文学部教授)

’九七六年、私が法政の史学科の専任教員になったとき、現在もおられる村上直・安岡昭男・伊藤玄一一一の三教授のほかに、豊田武・河原正博の両先生がおられた。 法政史学第四十六号河原正博先生の思い出倉持俊 河原先生といえば、まずその真筆で手堅い研究姿勢が浮かんでくる。私の遠く及ばぬところである。また控えめな御性格で、教授会などさまざまの会合で、余計な発言をされることはなかった。これまた私の及ばぬところである。しかしポッリともらされる先生のご判断は中正、穏健で実に的確であり、何事についても先生のお考えは最も信頼できた。ただここでは、そういうことから離れて、今でも私が折にふれて思い出す二つのことを書いてみたい。まず一つは次のようなことである。法政に来て一一一、四年たったとき、教授会である人事問題について、T教授が痛烈な正論を吐いた。多くの出席者にとって、そこまで言わなくても……といった内容で、必ずや〃敵”をたくさん作りだすであろうような正論であった。そしてそれは、私もかねてから、そうあるべきだと考えていた内容であった。教授会が終り、二人で市ヶ谷駅へ向う途上、河原先生に「いや1、T先生、見なおしましたね。あそこまで、はっきり一一一一口うとは……。ぼくもこれから言いたいことを、どんどん言おう」と話しかけたとき、先生は言われた。「いや-、倉持さん、あなたとTさんでは、法政のなかでの立場が違いますよ。あれはね-、Tさんだから言える、言ってよいことで、われわれは外様なんだから。」もう一つは、それからまた数年たって、私が学部長になったときのことである。河原先生はその三月末で定年退職され、大学院の講義だけ担当されていた。キャンパスでたまたまお会いしたとき、先生が言われたことは、今でも忘れることはできない。 ’四六

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「倉持さん、あなたはマジメだから、あまりやりすぎないようにしなけりや1。あまり一生懸命になっちゃ1駄目ですよ。気軽に考えてやりなさいよ。」それまで(正確にはその後しばらく)私はマジメという評価は、私には最も無縁なものと考えていた。むしろ、そういう評価を拒否していた。太宰治に心酔し、田中英光や坂口安吾を敬愛し、「破滅」的生き方に共鳴する私は、前任校の信州大学でも東京教育大学でも、マジメ学生からは徹底的に毛嫌いされ、全共闘系の活動家とか総じて非「模範生」的学生から慕われる存在であった。私に、かりに評価される点があるとしても、マジメは一番縁遠いものと思っていた。だから、そのときは河原先生のお言葉の深意をとらえかねていた。しかしその後、私は自分の性格が、最近の日本で誤用されることの多い否定的意味での小心翼翼であり、そういう意味では確かにマジメであると考えるようになってきた。なにかにつけて、河原先生の言われたマジメが気になるこのごろである。先生のご冥福を心よりお祈り申し上げる。(法政大学文学部教授)

河原正博先生追悼 河原先生とお会いした最初は、多分第Ⅱ朋年館三階の史学科研究室でだったかと思う。多くを語らず、端然とされていたお姿は、ついこの間のように思い出される。私が法政大学へ赴任した一九七四年は、未だ学生運動の盛んな時であり、セクト間の争いで学生会館が暁の襲撃を受けたりしていたし、試験が度々妨害されたりしていた。そのような状態の中でも、河原先生をみるとどこか超然たる感があり、何とはなく落着かされるように思えた。先生のそのようなお姿は、教育面での姿勢にもうかがえた。学生がとかくの質問をしてきたというような時でも、「学問はそんなものじゃないですよ。」とよくいわれた。あのお言葉の中には、先生が深くお考えになってこられた学問観があったのであろうが、それを詳しくおうかがいする機会は遂になかった。しかし、端然として一一一一口われるあのお言葉には、何か「さもありなん」と思わせるものがあり、納得させられるところがあった。先生の御研究に関しては、最終講義の折に感銘深くうかがったというのが正直のところである。漢代嶺南経略についてのご講義であったが、日本古代の東北経営と一脈通ずるお話をうかがって、もっと早く先生にその比較検討の上でお教えをいただければ良かったと後悔した次第であった。越南への漢民族の進出が、か 河原先生の思い出

一四七 伊藤玄三

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の地の条件とも関連して思うに任せなかった事情、在地勢力の強さなどは大いに学ばせられるところがあった。その後、私も中国古代の跨帯資料を調べる機会を得てわかったことは、中原の文化が南へ入りにくかったらしいこと、かなり異質の文化があったことなどである。それはまた、とりもなおさず嶺南地域のみの問題だけではないのであり、広い中国の周辺地域にも共通項をもつものであろう。たまたま赴く機会のあったタクラマカン砂漠周辺の古代国家の場合にもそれが指摘できる。時には中原文化の波及、武力征服があったとしても、それが根づくことは無かったといえよう。中国古代の西域経営などについても、できるなら先生の御意見をうかがいたかったところであった。今はただ、先生の論文集『漢民族華南発展史研究』に学ばせていただくのみとはなってしまった。河原先生は、大変穏やかなお人柄であった。学生達のことでも、「あれはよく勉強してますよ。」などといわれ、余り悪くいわれることはなかった。香ばしくないと思われた時は、言葉にせずにはにかんだような笑いの中に納められてしまっているようにお見受けした。人格者であったと思う。常に過激な見解は見られなかった。先生の日吉のお宅へは、一度迷いながらお訪ねしたことがあった。見晴しの良い、高台の住宅地にある落着いたお宅であった。応接間で用件をすませた後、しばらくお話をすることができ、||、三の問題についておうかがいした。やはり、靜かに落着いてお教えいただいた記憶がある。もう、その時は退職された後では 法政史学第四十六号

あり、風邪気味とかであったので、長くはお邪魔しないで辞去した。帰途は、初めての道だったので随分周囲を気にしながら帰ったが、今はよく思い出せない。思い出せるのは、先生のお宅の庭の木々のことぐらいである。高低のバランスのとれた庭の木々と建物の印象が午後の高台のかなたの空を背景にしてひどく印象に残っている。河原先生とのお話の中で、私が遂に果せなかったことが一つある。それは、曽我部靜雄先生と一度お会いしたいとのことであり、「そのうち折をみて御紹介申し上げます」と申し上げておいたのであるが、その機会を遂に失したのである。曽我部先生も今はおられない。実は、両先生は直接的にはお会いになったことはなかったのであるが、同じ東洋史学者としてはどこかですれちがわれていたのであろう。ただし、親しくお話をされる機会はなかったのである。しかし、両先生には、確かにすれちがいで終ったらしい絆が一本あったようである。かつて曽我部先生からチラとそれらしいお話をうかがったことがあるが、詳しいことは私にもわからない。そして、両先生はお互いに話もされることなく、あの世に旅立たれてしまった。私の仲介の努力が足りなかったのが悔まれる。両先生がお会いになっていたらどんなお話が聞かれたのであろうか。(法政大学文学部教授) 一四八

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先生が、紫の風呂敷の包みを解いて、分厚い『和田清博士古稀記念東洋史論叢』を丁寧に取り出してお貸し下さったのは、私が法政大学を卒業して中央大学の大学院に進学してまもない頃であった。当時はいわゆる学園紛争がもっとも盛んな時期で、授業はもちろん、研究室・図書館などの利用もほとんどできないような状況にあった。渤海を中心とした東アジアの国際関係に関心をもって勉強をし始めた頃で、前掲書の中に収められている和田久徳氏の市舶使に関する論文を読みたいと思ったが、前記のような事情でなかなか見ることができなかった。そこで同書に先生ご自身も論文を寄せておられることを知っていたので、借用を申し出た次第である。その後、論文を筆写してお返ししたのであるが、その時のことは覚えていない。何よりもお借りした時の丁寧に書物を扱われているご様子が強く印象に残っている。気軽にお願いしたものであるが、今にして思えば、学生に大切な本を貸すことには、大きな不安がおありになったことであろう。現在卒業論文などの資料として学生に私本を貸すことに、はたして丁寧に扱ってくれるか、|抹の不安を感じることもあるが、先生から受けた御恩を思い、快く貸し出すように努めている。私の専攻は日本史で卒業論文のご指導は故丸山忠綱先生に受けたが、専攻にかかわりなく東洋の歴史にも関心があり、先生の授

河原正博先生追悼 河唐堺先生の思い出石井正敏 業は楽しみであった。授業では東洋史演習や東洋近世史などを学んだ。演習では『宋史紀事本末』をテキストに、漢文史料講読の基礎を学び、『大漢和辞典』の存在を知ったのも、先生の演習であった。講義では、中国史における近世の概念には二説あることを丹念に説明され、また福州を中心とした貿易の問題を扱われ、「間は海中にあり」といった言葉とともに、先生の講義される姿が思い出されてくる。特に日本と宋元明関係について理解する上で大いに役立ち、近年、日本近世史の分野で議論になっている海禁の問題についても扱われており、卒業後もしばしば講義ノートを参照して今日に至っている。彫りの深いお顔立ちが、どこか中央アジアの人を思わせ、いかにも東洋史の先生にふさわしいなあ、と友人と語り合ったこともある。晩年にはほとんどお目にかかる機会がなく、『漢民族華南発展史研究」に収められた諸論文について、ご教示を得たいことも多かったのであるが、実現できず残念であった。いまは静かに学恩を謝して、ご冥福をお祈りするばかりである。(中央大学文学部教授)

一四九

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I凶GI

河原正博先生遺影

参照

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