審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関す る一考察 : 弁論主義と裁判官の釈明権行使の関係 を中心に
著者 渡邉 泰子
雑誌名 同志社法學
巻 58
号 7
ページ 401‑504
発行年 2007‑03‑31
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011113
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四〇一同志社法学 五八巻七号
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察
―
弁論主義と裁判官の釈明権行使の関係を中心に―
渡 邉 泰 子
︵二七六九︶ 目 次第一章 はじめに第二章 日本における弁論主義と釈明権行使の関係
第一節 従来の議論の状況 第一款 釈明権の行使を弁論主義の欠陥の補充とする見解 第二款 釈明権の行使を弁論主義の修正とする見解 第三款 弁論権に基づいて釈明権の行使を位置づける見解 第二節 近時の議論の状況
第三節 法的観点の指摘の態様についての考察 第四節 弁論主義や釈明権の行使をめぐる判例の検討
第一款 最判昭和五五年二月七日民集三四巻二号一二三頁 第二款 最判昭和四一年四月一二日民集二〇巻四号五四八頁 第三款 最判昭和四五年六月一一日民集二四巻六号五一六頁 第五節 小括第三章 ドイツにおける裁判官の訴訟指揮 第一節 裁判官の訴訟指揮に関する規定の解釈 第一款 旧一三九条及び旧二七八条三項の解釈
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四〇二同志社法学 五八巻七号 ︵二七七〇︶
第二款 新一三九条の解釈 第二節 指摘義務をめぐる近時のBGH判例の分析 第一款 当事者の事実主張に関する指摘 ① BGH, Urteil vom 25. Februar 2002 - II ZR 346/00 ② BGH, Urteil vom 14. Oktober 2004 - VII ZR 180/03 第二款 定款・約款や当事者の合意の解釈に関する指摘
③ BGH, Urteil vom 25. Juni 2002 - X ZR 83/00 ④ BGH, Urteil vom 5. Nov 2003 - VIII ZR 380/02 ⑤ BGH, Urteil vom 4. Oktober 2004 - II ZR 356/02 第三款 権利抗弁に関する指摘
⑥ BGH, Beshuluß vom 2. Oktober 2003 - V ZB 22/03 第四款 訴訟要件に関する指摘 ⑦ BGH, Versämnisurteil vom 16. Mai 2002 - VII ZR 197/01 ⑧ BGH, Urteil vom 20. Juni 2005 - II ZR 366/03 第三節 小括第四章 結びにかえて
第一章 はじめに 民事訴訟手続上︑弁論主義を当事者の権能とみるか責任とみるかについては︑様々な捉え方が主張されている︒確かに︑弁論主義は︑すでに議論し尽くされた分野であるともいわれることもある︒しかし︑近時の訴訟実務や学説をみる
と︑民事訴訟手続と弁論主義の関係を再検討する余地があるように思われる︒というのは︑弁論準備手続︑準備的口頭弁論等の準備手続が導入されている現在の民事訴訟手続では︑準備手続の段階で両当事者の主張が提出され︑口頭弁論
期日ではそれが書面で上程されるにすぎない︒つまり︑口頭弁論における事実主張の形骸化が指摘されており︑あるいは伝統的な弁論主義がどこまで維持されるのかという問題も生じている︒学説においても︑近時︑弁論主義に関する議
論が再燃している︒特に焦点があてられているのは︑弁論主義が手続上どのような場面で妥当するかについてであり︑
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四〇三同志社法学 五八巻七号 そのために弁論主義の内容そのものの精緻化が試みられている︒その結果︑現在の手続では従来の弁論主義の枠組みをそのまま維持することは不可能であるとして︑何らかの修正を加えなければならないという見解まで主張されるに至っ
ている︒
他方︑日本の民事訴訟法に影響を与えたドイツ民事訴訟法では︑弁論主義に関連する諸問題はどのように処理されて
いるのか︒二〇〇二年︑ドイツ民事訴訟法︵以下ZPOとする︶の全面的な改正が行われた︒そこには弁論主義に関連する規定の改正も含まれている︒例えばそのひとつに︑新ZPO一三九条の裁判官の実質的訴訟指揮の規定が挙げられ
る︒旧法一三九条で定められていた裁判官の釈明義務規定が整理されたことにより︑審理における裁判官と当事者の役割分担の境界がさらに明確になっている︒
そこで再び日本に目を向けると︑ドイツに比べて弁論主義や釈明権の行使に関する議論が細かい点まで及んでいるものの︑その議論が実際の訴訟の場面で生きていないように感じられる ︵
︒したがって︑近時の日本の議論が本当に実務と 1︶
リンクしているかについては︑もう一度見直す余地があるように思われる︒本稿では︑それが︑ドイツのZPO改正以降の議論と方向を同じくするものであるのか︑それとも全く別次元の問題を対象としているのかを比較することで︑日
本の議論で看過されている視点を補い︑議論の対象を再確認することにしたい︒
以下では︑まず︑裁判官の役割である釈明権・釈明義務と弁論主義の関係をめぐる従来の議論と近時の議論をそれぞれ検討し︑代表的な判例の分析を行う︵第二章︶︒本来であれば︑弁論主義だけでなく処分権主義も視野に入れて検討
すべきところではあるが︑本稿ではあえて弁論主義に関連する議論に範囲を限定する︒というのは︑私が有する関心の軸が︑現在の民事訴訟手続において弁論主義がどのように位置づけられるかという問題にあるためである︒
続いて︑ドイツの裁判官の指摘義務について規定したZPO一三九条に基づいて判断された最近の連邦最高裁判所
︵二七七一︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四〇四同志社法学 五八巻七号
︵以下BGHとする︶の判例を取り上げ︑裁判官にいかなる指摘が義務づけられているのかにつき筆者の見解の立場か
ら分析する︵第三章︶︒そして最後に︑明らかになった日独それぞれの判例の状況や学説を踏まえて︑今後の議論の方向性につき若干の考察を試みる︵第四章︶︒
第二章 日本における弁論主義と釈明権行使の関係 第一節 従来の議論の状況 かつて︑弁論主義の採用によって図られた裁判官と当事者の役割分担の明確化は︑裁判官の積極的な資料収集活動を封じただけでなく︑裁判官は当事者が提出した事実のみを単に斟酌することしか許されないという副次的効果を生み出
した︒しかしながら︑極端に裁判官が資料収集について単なる傍観者に徹することは︑かえって裁判の適正を欠き︑あるいは訴訟の遅延を招くとの批判を受けることになった︒学説が︑弁論主義について論ずるとき︑その根拠や構造だけ
でなく︑釈明権や釈明義務 ︵
︒背景する存在が事情このような︑にはげてきたとの上り取として対象をもその関係 2︶
戦後︑すでに弁論主義は︑民事訴訟の審理判断の材料を当事者が収集する﹁建前﹂として定着していたが︑前述のよ うに︑その原則を貫徹すると生じる弊害 ︵
は︑当時の学説においても認識されていた 3︶︵
補︑図られたのである︒その意味で一般回避に︑釈明は弁論主義をがのとしてその︑することにより行使を釈明権弊害 裁判所そこで︑︒が訴訟指揮の一環 4︶
充ないし修正するものであると解釈されてきた ︵
﹂弁論主義るわれ思いがあったように違の視点えるかの捉とそれとも修正﹁の ︵ ﹂︑かるえ捉と充︒明ただし︑そこには︑釈権補の行使を弁論主義の﹁ 5︶
︒釈明権の行使を弁論主義から生じる結 60︶
果の 00修正とみるか︑あるいは弁論主義それ自体の 00000修正とみるかという点に︑各論者の﹁弁論主義﹂という原則に対する ︵二七七二︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四〇五同志社法学 五八巻七号 評価の違いがあらわれているのではないだろうか︒その弁論主義に対する評価は︑民事訴訟の目的をどのように考えるかという大きな問題に関わってくると考えられる︒そこで︑このような視点から︑それぞれの見解を分析することにす
る︒
第一款 釈明権の行使を弁論主義の欠陥の補充とする見解 兼子一博士は︑釈明権の行使に弁論主義の実現のための調節補完的役割を求め︑その意義は紛争解決に必要な訴訟資
料の提出を確保することにあると考える︒
兼子博士は︑民事訴訟の目的を﹁紛争又は利害の衝突の解決調整を図ることによってこれに基く私人の生活上の障害 や危険を除去すると共に︑社会の秩序を保持すること﹂にあるとする紛争解決説をとっている ︵
当事者にであり対等であれば︑理想的実現ができるが︑現実の問題としては完全能力訴訟追行の当事者︑のねらいはの ︒でその上主︑﹁弁論義 7︶
の知識︑経験︑経済力が充分且対等ではなく︑殊に弁護士のつかない本人訴訟の場合は︑完全な弁論を期待することは困難﹂であると弁論主義の実現の限界を説くとともに︑﹁これを調節補充するために︑裁判所の訴訟指揮権に基く後見
協力が必要になる﹂として釈明権の必要性を論じている ︵
き︑﹁で︑な要必にめたの争紛は︒権明釈なうよのこ︑てしそ 8︶
るだけ完全な弁論を受取れるようにする﹂という目的をもつという︒
同様に︑弁論主義の枠組みで釈明権の範囲を捉える見解に︑奈良次郎教授の見解がある︒奈良教授は︑当事者の訴訟 資料の収集・提出だけでは紛争の真相を把握し得ず︑適切・妥当な判断をすることが困難である場合に釈明が用いられるとして︑釈明権の目的・本質を︑真相 ︵
解に見にとこる図を決なす当妥・切適たし致合出 9︶︵
︒つまり︑裁判所としては︑ 10︶
当事者のする訴訟資料の収集・提出の不十分な点については︑これを補い︑指導し︑適切・妥当な判断をなしうるよう
︵二七七三︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四〇六同志社法学 五八巻七号
な状態に導く必要があるが︑通常訴訟では弁論主義に反しないよう間接的な方法 ︵
によるのが大原則であり 11︶︵
︑その際に裁 12︶
判所の釈明権ないし釈明処分が用いられる ︵
えていの︑弁論主義の妥当する領域と釈明権行使結果的される範囲を重ね合わせて捉に︑考づけを位置えることになり 枠組弁論主義それゆえ︑奈良教授は︑みののというのである中で釈明権の︒ 13︶
ると考えられる︒
それに対して︑釈明権の役割を弁論主義の補充と修正の両方に求める見解として︑上田徹一郎教授の見解がある ︵
︒し 14︶
かし︑﹁補充﹂と﹁修正﹂とは本来重なる部分のない概念であるから︑釈明権の行使に両方の役割を認めることは果たして可能なのだろうか︒
上田教授は︑釈明義務を﹁当事者が当然出すべき事実・証拠を提出しておらずまた訴訟行為に不明確・矛盾等がある場合に︑その形式的には平等に保障されている提出の機会を現実化して︑両当事者の裁判資料収集における法的地位の 実質的平等の実現をはかる裁判所の義務﹂と考える ︵
補充︑所が協力して弁論主義の諸機能の回復をはかり審判の質と円滑性を実現するものであるという意味で弁論主義を に判裁う当よして︑釈明権につき︑﹁事︒者が弁論を尽くしうるそ 15︶
するものであり︑そのことは当事者の弁論に裁判所が後見的に関与しその公共的使命の実現をはかるものであるという面から弁論主義の修正と解され﹂るとして︑補充と修正の両方を釈明権の役割として捉えている︒しかし︑裁判所の公
共的使命の実現が︑即座に弁論主義の修正にあたるとは言い難い︒弁論主義を修正しなくても︑弁論主義の枠組みの中で裁判所の公共的使命を実現することは可能であるといえる︒おそらく︑上田教授の見解は︑補充であれ修正であれ︑
弁論主義で説明し得ない部分を釈明権の行使に委ねることには変わらないという意味で︑﹁補充﹂と﹁修正﹂という言葉の相違が明確にされていないのではないかと思われる︒
最後に︑弁論主義を二つの意味から構成した上で釈明権の行使について論ずる見解として︑小林秀之教授の見解を紹 ︵二七七四︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四〇七同志社法学 五八巻七号 介する︒小林教授は︑弁論主義 ︵
―し攻展が御防撃にさーアェフつか滑開れ︑にとのもな要必めるたる作を況状円し者とを解理の通共に間のと有事当 ―と特長両当事者が発揮される状況争点についてが実質的に武器平等で︑の裁判所機能 16︶
て︑釈明権の行使を認めている ︵
まくとして機能するための土台を支える柱釈明権の行使を位置づけていると考えられる ︵ がう弁論主義︑︑︑弁論主義の貫徹の結果生︒じる不足を後から補うのではなくつまり 17︶
︒ 18︶
小林説の特徴は︑以下のように弁論主義の意味を二つの側面に分類することにある︒小林教授は︑﹁弁論主義の意味として︑裁判の基礎となる資料を収集することが当事者の責任かつ権能であることと当事者が主張していない事実を裁 判所が認定できないこととは同一不可分のことと考える論理的必然性はない﹂と指摘し︑弁論主義の沿革や性格から︑前者を本来的弁論主義︑後者を機能的弁論主義と呼んでいる ︵
︒そして︑裁判所の釈明義務の限界や職権証拠調べの可否 19︶
といった問題を本来的弁論主義の問題とし︑当事者の主張の擬制や当事者の主張と裁判所の認定の食い違いといった弁論主義違反の有無が問われる場合を機能的弁論主義の問題として区別することには︑問題の混乱を防ぎかつ問題の解決
を促進する意義があると主張する ︵
︒ 20︶
小林教授は︑当事者の実質的武器平等の原則に合致し︑裁判所が証拠上ある重要な事実を認定でき︑認定することが
紛争の適切な解決のために必要であるならば︑裁判所は釈明権を行使して当事者にその事実について攻撃防御を尽くさ
せるべきであり︑釈明権を行使せずにその事実を認定することは当事者の攻撃防御の機会や権利を奪うことになるから︑許されるべきではないという︒その意味では︑機能的弁論主義は裁判所の釈明義務と密接な関連を有し︑機能的弁
論主義違反が同時に釈明義務違反を構成することも多いと指摘する︒また︑裁判所が釈明義務を果たせば相手方の手続的不利益が減少することからも︑機能的弁論主義と裁判所の釈明義務の間には密接な関連があると結論づける ︵
︒ 21︶
つまり︑小林教授は︑﹁主張していない事実につき裁判所から釈明権を行使される当事者の攻撃防御の機会の保障﹂と︑
︵二七七五︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四〇八同志社法学 五八巻七号
﹁裁判所が釈明権を行使することなくある事実を認定した場合に相手方当事者が被る手続的不利益の減少﹂という両方
の目的を釈明権の行使に委ねていると考えられる︒このような小林説では︑両当事者が攻撃防御を展開する機会や権利は機能的弁論主義に内包されているといえるのではないだろうか︒そうであれば︑裁判官が釈明権を行使して当事者に
適切な事実主張をさせることは機能的弁論主義であり︑これは後述する山木戸説の弁論権に結びつくように思われる︒その結果︑弁論主義と弁論権のつながりについて肯定できると考えられる︒
また︑機能的弁論主義違反と釈明義務違反が同時に構成されやすいことから︑釈明権は機能的論主義を補充するものと解釈することができるのではないだろうか︒他方で︑小林教授は︑釈明義務が本来的弁論主義によって限界づけられ
るとも述べている︒したがって︑小林説の立場では︑釈明権の行使は機能的弁論主義の補完である一方︑義務としての釈明の範囲は本来的弁論主義によって限界づけられることになり︑結果的に弁論主義と釈明権・釈明義務の関連性を非
常に強いものとして捉えていることになる︒
以上の諸見解を総合すると︑釈明権の行使を弁論主義の補充・補完と捉える見解は︑多少の差異はあるものの︑﹁当
事者の主張していない事実を裁判所が判決の基礎としない﹂という意味での弁論主義を維持した上で︑そこから生じる不都合︵裁判所が受動的に当事者の主張を聞くだけでよいとすることによる不都合︶について手を加えるといった手法
をとっていると考えられる ︵
されたのされるべきづけられる︒その結果︑釈明権が行使範囲についても弁論主義の枠によって限界づけられると解釈 が位置行使ばのな弁論主義の枠組みを維持すれ︑︒必然的に弁論主義を中心に釈明権伝統的 22︶
ではないだろうか︒ ︵二七七六︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四〇九同志社法学 五八巻七号 第二款 釈明権の行使を弁論主義の修正とする見解 三ヶ月章教授は︑民事訴訟を私的紛争の解決のための制度とみている ︵
︒そして︑弁論主義の根拠を﹁真実発見のため 23︶
の手段性のほかにも︑当事者の公平︑不意討の防止︑訴訟運営の計画性︑関係人の労力の効率的利用等々︑およそ後見的紛争解決制度としての民事訴訟が顧慮しなくてはならぬ諸要請の複合﹂であると解することにより︑弁論主義を﹁高
次の訴訟運営の諸考慮を多元的にとりこんだ上で訴訟運営の基礎にすえられている原則だというのが︑適当﹂であるとして︑手段説から多元説へ立場を改めている︒
その上で︑釈明権・釈明義務とは︑弁論主義の貫徹によって︑権利のある者が権利を失うという事態を回避するために︑裁判所による後見的な努力の要請として具体化されたものであると主張する ︵
︒ただし︑釈明権は裁判所の後見的な 24︶
権能であって︑釈明権の行使により裁判官が事案解明の全責任を背負い込むというものではないという︒そうはいうものの︑三ヶ月教授は︑釈明権・釈明義務が︑古典的な弁論主義︵根拠を私的自治の尊重︑それに基づく紛争当事者の自
己責任に求める見解︶を修正する一面を持つことを認めている︒また︑裁判官が釈明権を行使すべき範囲については︑広く解したとしても釈明された内容が当事者の陳述に変わりうるものではないから︑釈明のしすぎによって弁論主義違
反を導くことはありえないという︒むしろ︑裁判所はあらゆる法律上・事実上の問題が出尽くすように配慮すべきであ
るとして︑釈明権の範囲をできるだけ広く解するのが適当であるとの立場をとる ︵
︒ 25︶
第三款 弁論権に基づいて釈明権の行使を位置づける見解 しかし︑時代の変遷とともに︑弁論主義の補完あるいは修正という役割を釈明権の行使に求める見解に対して異議が
述べられるようになり︑その立場が次第に有力になってきた︒それは︑弁論主義の枠組みで捉えられていた当事者の﹁権
︵二七七七︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四一〇同志社法学 五八巻七号
利﹂と﹁責任﹂のうち︑当事者に付与された﹁権利﹂の側面が﹁弁論権﹂という別個の概念として区別されるようにな
ったことに由来する︒この弁論権は︑弁論主義の妥当しない職権探知主義の手続においても認められるものとして考えられている︒その影響を受けて︑釈明権の目的や役割も弁論主義から切り離され︑弁論権の角度から見直されるように
なってきた︒
その筆頭として︑しばしば︑山木戸克己博士の見解が取り上げられる ︵
う主いと﹂造構法の義論弁︑﹁は士博戸木山︒ 26︶
論文において︑釈明権が弁論主義を補充し︑同時にこれを修正ないし制限する面をもつという理解はかなり不明確であると指摘し︑弁論権に基づいて釈明権の意義を説明している︒山木戸説で用いられる弁論権とは︑﹁弁論主義の訴訟に
おいても職権探知主義の訴訟においてもひとしく当事者に認められる事実および証拠を提出する権能﹂であり︑その意義は︑裁判手続における当事者の主体的地位の発現にある︒つまり︑当事者に訴訟資料の提出の機会を十分に確保する
ことで弁論権は保障されることになる︒
さらに︑弁論権を基準として︑弁論主義と釈明権は以下のように位置づけられている︒すなわち︑山木戸博士は︑弁
論主義を弁論権の消極的効果︵裁判所は当事者が提出した訴訟資料以外の資料を用いてはならない︶の発現として捉える一方で︑当事者に弁論を尽くさせる釈明権の目的を︑弁論権の積極的側面における発現を促し触発することによって
当事者に協力することにあると考える結果︑釈明権は︵弁論権の消極的効果としての︶弁論主義について協力ないし補充するものではない ︵
と結論づける︒ 27︶
このような見解は︑弁論権を手続における当事者の主体的地位の発現と捉えていること︑そして弁論主義の根拠を当事者の私的自治の尊重に求めていることにも関係しているように思われる︒そもそも︑山木戸博士は︑民事訴訟の目的
を紛争の解決にあるとみているけれども︑弁論権よりも広い概念である手続における﹁当事者権﹂を重視していること ︵二七七八︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四一一同志社法学 五八巻七号 がうかがえる︒しかし︑釈明権の行使を積極的に認めることによって︑果たして当事者権は保障されているといえるのであろうか︒例えば︑訴えの変更を促す釈明権の行使が無条件に肯定されることは︑私の立場では理解できない︒なぜ
なら︑処分権主義に基づくと︑いかなる請求をたてるか決めることは当事者の自由とされるべきであり︑釈明権の行使によってそれが侵害される可能性を否定できないからである︒確かに︑釈明権が行使された後に当事者が訴えの変更を
しなければ︑一見して処分権主義は侵害されていないともいえる︒しかし︑それは形式的なものであって︑実質的には当事者の意思形成過程において当事者の自由が確保されているとは言い切れないのではないだろうか︒また︑訴えの変
更を促すことは︑一方当事者に有利な判決を得られるようにするものであり︑相手方当事者は︑それによって新たな攻撃防御方法を提出しなければならないことになるから︑当事者の公平が損なわれる恐れもある︒したがって︑裁判官が
釈明権を行使しても︑それに応じるか否かは当事者の自由であるとして︑釈明権行使の範囲を拡大する山木戸説には賛成できない︒
同様に︑弁論主義と釈明権の関係を否定するものとして竹下守夫教授の見解がある︒竹下教授は︑まず︑民事訴訟の終極的な目的を適切な紛争解決にあるとみる︒しかし︑民事訴訟の終極的な目的それ自体を釈明権の目的とするのでは
なく︑その前段階の審理判断の場において口頭弁論の充実を図ることを釈明権の目的としている点に特徴がある︒竹下
教授は︑釈明権の目的について﹁①当事者の訴訟主体としての地位を尊重し︑その意思に基づく攻撃防御を通じて真実を発現させると共に︑②訴訟の結果に対する当事者の納得・受容を確保するとの目的を︑よりよく実現するため︑裁判
所が事件の解決に重要と考える論点を指摘し︑当事者にこの点につき充実した弁論を尽くさせるところにある﹂として︑釈明権の行使は︑弁論主義の妥当する訴訟のみならず︑職権探知主義の下でも必要なはずであるとして︑弁論主義と釈
明権の結びつきを否定する︒
︵二七七九︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四一二同志社法学 五八巻七号
このように︑弁論主義と釈明権とを切り離し︑当事者に十分な弁論を尽くさせるために釈明権の行使が必要であると する考え方については︑建設的であるとの評価がなされている ︵
するの上げられなくなっていることに鑑みれば︑弁論権概念提唱取は︑釈明権行使の目的に関りがの釈明権と主義関係 においても近時で紹介する︑の議論︒もはや弁論第二節 28︶
議論においては大きな意義を有しているといえる︒
しかし︑この考え方によると﹁手続上の当事者の主体的地位﹂は釈明権の行使によって逆に侵害される場面があるの
ではないかと懸念される︒事実の提出に関する当事者の主体的地位は︑弁論権︑弁論主義によって確保され︑訴えの提起・変更・取下げに関する当事者の主体的地位は︑当事者権︑処分権主義によって確保されるべきである︒山木戸博士
は︑訴えの変更を促す釈明権の行使について肯定的であることは︑先に述べたとおりである︒その理由は︑釈明権を行使されたとしても︑それに応じて主張するかどうか︑あるいは訴えを変更したり取り下げたりするかどうかは依然とし
て当事者に委ねられているためであるといわれる︒確かに形式的にはそういえるかもしれないが︑当事者の処分権が実質的に侵害されていないといいきれるのであろうか︒手続における当事者の主体的地位は︑実質的な意味で確保されな
ければならないはずであり︑その意味で釈明権を行使する範囲を拡大することが︑真に当事者の主体的地位を確保しているとはいえないのではないかと思われる︒
第二節 近時の議論の状況 前述の山木戸博士によって提唱された弁論権概念は︑釈明権行使の目的に関する議論において受け継がれてきた︒し
かしながら︑現在では︑山木戸説のように﹁弁論権の消極的効果の発現として﹂弁論主義を捉えるという認識が薄れてきている︑むしろ︑そのような認識はなされていないように思われる︒そもそも︑弁論主義は当事者の権能と責任の両 ︵二七八〇︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四一三同志社法学 五八巻七号 側面を定めているというのが通説とされていた︒しかし︑最近では︑その通説の枠を超えた様々な弁論主義論が提唱されている︒例えば︑当事者の責任のみを弁論主義と考え︑当事者の権能を弁論権に求めたうえで︑釈明権行使を弁論権 との関係で捉え直す見解 ︵
解見 ︵ なづける定義と自由しない提出を事実有利に自己が当事者︑ではなく責任概念を弁論主義︑や 29︶
などが挙げられる︒ 30︶
このような弁論主義および弁論権の捉え方の違いは︑やはり各論者が民事訴訟の本質をどのように見ているかを問うことに帰着する︒具体的にいうと︑民事訴訟の目的や性質をどのように考えるかによって︑釈明の行使自体を職権主義
的なものと見るかどうか︑そして︑釈明の行使後の当事者の主張の有無に基づき判決することの是非︑さらには︑現在の民事訴訟手続そのものが職権主義への移行を示しているのか否かの判断も異なってくるといえる︒
第一節において︑手続における当事者の主体的地位の確保のあり方について若干の私見を述べたが︑近時の議論に対しても疑問に思う点がある︒
近時の議論では︑裁判所の法律構成を当事者に指摘する必要性があるのではないかという新たな問題提起がなされている ︵
当事者を︑れて離から方え考の従来してきた一切否定関与の当事者として専権事項の裁判官を法律構成︑つまり︒ 31︶
の主体的地位を確保するために法律構成を指摘すべきなのか︑そして︑それが肯定されるならば︑どのようにその確保
を図るべきなのかということが議論されている︒しかし︑そこでは︑当事者の手続保障︑つまり形式的な主体的地位の確保ばかりが一人歩きしていて︑﹁誰の権利をどのように保護するのか﹂という視点がないがしろにされており︑ある
べき権利保護から遠ざかっているように思われてならない︒釈明権を行使する︑あるいは法的観点を指摘する前提として︑釈明権を行使しなければ︑あるいは法的観点を指摘しなければ︑当事者の権利が保護されない状態になる場合にそ
の範囲を限定すべきではないか︒このような立場から︑近時の学説について分析を試みる︒
︵二七八一︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四一四同志社法学 五八巻七号
まず︑山本克己教授の見解について考察する︒山本克己教授は︑﹁弁論主義が判決の基礎となる事実および証拠の提 出を当事者の権能および責任である﹂という定義が不十分であるとして︑通説に疑問を呈した上で︑弁論主義を五つの法準則の集合体 ︵
がと事実主張両当事者︑において場面べのそれぞれの証拠調と︑は法準則それらの︒する定義であると 32︶
もに主張していない場合と両当事者がともに主張している︵一方が自白している︑もしくは争いがない︶場合における裁判所の行為規範︑すなわち裁判所に対する禁止事項を示しており︑民事訴訟手続の中で﹁審理段階﹂と﹁判決作成段
階﹂の二つの場面に振り分けて位置づけられる ︵
証にこと︵法準則①︶﹂は︑手続の﹁判決作成段階﹂属するものであり︑﹁両当事者の主張しない事実について裁判所が ないならはしてえば︑﹁両当事者の主張な︒い事実を裁判所は斟酌し例 33︶
拠調べをしてはならないこと︵法準則②︶﹂は︑﹁審理段階﹂に属するものであるという︒
山本克己教授のいう﹁審理段階﹂と﹁判決段階﹂に関しては︑以下のように解釈することができる︒まず︑審理段階
において︑直接証拠や間接事実から︑原告の主張事実と被告の主張事実のどちらが正しいかを決めるのは︑裁判官の判断による︒そこで用いられる証拠は当事者によって提出されなければならないという原則は︑従来弁論主義に含まれる
ものであった︒しかし︑山本克己教授は︑それを弁論主義から外し︑﹁証拠法上の当事者主義﹂として構成している ︵
解の︑では判決作成段階︑に次︒けられる関連付として事項審理段階おのずと︑は問題の証明責任の当事者︑結果その ︒ 34︶
決すべき﹁紛争﹂の確定が当事者の支配に委ねられているといえる︒ここでは︑両当事者が主張した事実を裁判官は斟酌しなければならないから︑この判決作成段階の弁論主義が支配する領域では︑当事者の主張責任が問題になるのでは
ないだろうか︒
しかし︑事実の提出と証拠の提出を別個の原則として捉えることには疑問がある︒証拠は事実を証明するためのもの
であるから︑証拠の提出が﹁証拠法上の当事者主義﹂として一人歩きするのはおかしいのではないだろうか︒事実と証 ︵二七八二︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四一五同志社法学 五八巻七号 拠は常に一体でなければならず︑両者を弁論主義の枠内で捉えるほうが望ましいと思われる︒ また︑山本克己教授によって再構築された弁論主義では︑その核として︑裁判所と両当事者の三者間対立構造が意識 されている︒従来︑裁判官と当事者という二者間の役割分担を定めた規律であると考えられてきた弁論主義を︑山本克己教授は︑裁判官と原告・被告の三者を念頭に置いた役割分担の規律として捉え直すべきであると考えている ︵
︒とりわ 35︶
け︑審理段階で三者間の対立構造が軸になっており︑判決作成段階では両当事者の対立構造が軸になっていると考えられる︒
弁論主義が妥当する手続で事実が主張される場面の裁判官の役割について︑山本克己教授は︑﹁当事者が水平空間で繰り広げる紛争の主観的定義をめぐるゲームのレフェリーを務めることと︑当事者が無知や誤解に基づいてプレーする
ことを防止するために︑パターナリスティックな配慮を働かすことの二点にある︒ただし︑ここでのパターナリスティックな配慮は︑自己決定に代えて他者決定を行うのではなく︑あくまで当事者の自己決定を内実あるものにすることを
目的とする ︵
﹂という︒ 36︶
また︑当事者が有している事実を提出し証拠を申し出る権限である弁論権は裁判を受ける権利に内在した権利であ り︑法政策的考慮によって左右されるものではない ︵
明き表を見意が者事当は所判裁︑づ基に義主論弁︑で方一るすと 37︶
する機会のなかった訴訟資料を裁判の基礎に据えてはならない ︵
権弁論である権能の当事者た ︵ をされ保障機会する表明を意見について事実ある︑から 38︶
思想のとして審理原則づく基にる別個づけられ︑ではないが無関係は弁論主義と位置 39︶︵
︒そ 40︶
れは︑山本克己教授が︑弁論権の根拠をドイツの法的審尋請求権に求め︑弁論主義を私的自治の原則に由来するものと捉えているためであると考えられる ︵
︒ 41︶
したがって︑﹁当事者の自己決定を内実あるものにする﹂こと︑つまり弁論権の保障が︑﹁パターナリスティックな配
︵二七八三︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四一六同志社法学 五八巻七号
慮﹂︑つまり裁判官による釈明権の行使によって確保される ︵
づる基に料資訟訴いなの会機す明表を見意が者事当︑果結 42︶
いた不意打ち判決が防止されるから︑釈明権の行使は弁論主義の外延に位置づけられ︑弁論権に関連するものであることが導かれる︒
では︑釈明権の行使と法的観点の指摘との関係は︑どのように考えられているのだろうか︒ まず︑山本克己教授は︑﹁事実と法の分離は不可能である﹂という前提から出発するので︑釈明権の行使と法的観点
の指摘は区別されない︒それは︑釈明権の行使と法的観点の指摘を別のものとして捉えるとすると︑なぜ当事者が事実主張だけでなく法的主張をしなければならないのかについての説明がつかなくなってしまうということに基づく︒当事
者の法的主張は︑結論が法的観点の違いで大きく変わってしまうことを考えれば明らかに重要であり︑裁判官が法的観点を指摘することで︑どのような観点から審理判断されるのかを踏まえて当事者は法的主張を行うことができる︒その
結果︑山本克己説における法的観点の指摘の目的は︑不意打ち判決の防止にとどまらず︑裁判に対する当事者の信頼獲得にまで拡張される︒
さらに︑山本克己教授は︑裁判官による法的観点の指摘からさらに踏み込んで︑法的討論の必要性についても主張する ︵
︒をであるといえる一環の方え考いた置に念頭三者の被告・原告と裁判官︑も法的討論この︒ 43︶
続いて取り上げるのは︑山本和彦教授の見解である︒ただし︑山本和彦教授は︑弁論主義を当事者の自由として構成するので︑私の立場から分析することは難しく︑ここでは紹介に徹したい︒
山本和彦教授は︑従来の弁論主義概念を否定し︑弁論主義の目的を︑当事者が提出しない事実・証拠を裁判所︵国家︶に顧慮されない自由を当事者に保障することにあるとする ︵
を当事者事実な有利に自己が﹁を内容の弁論主義︑つまり︒ 44︶
提出しない自由﹂として再構成する ︵
な有利である﹂自由する提出を事実峻別にとの自己が当事者﹁に場合その︒弁論権 45︶ ︵二七八四︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四一七同志社法学 五八巻七号 を図っている︒他方︑﹁当事者が自己に不利な事実を提出する﹂ところの自白は︑有利な事実を提出しない自由とは異なる位置にあるといえそうであるが︑自白によって争点を限定し︑争点と矛盾する事実を裁判所が顧慮することを禁止
しているので︑結果的に山本和彦教授のいう弁論主義の目的は達成されていることになる︒
また︑山本和彦教授は︑事実主張をしないのに自己に有利な事実を認定される当事者の私的自治の問題と︑不意打ち
の対象となる自己に不利益な事実を認定される当事者の問題とは︑保護の相手方・方向性に違いがあり︑両者は切り離すべきであるという立場にたつ︒そして︑私的自治の保護は不提出当事者の視点に基づく弁論主義の問題であるとし︑
不意打ち防止は相手方当事者の視点に基づく釈明義務・弁論権の問題であると主張する︒つまり︑﹁当事者が主張しない事実を裁判所が取り上げ︑それに対して相手方が不服を述べる﹂場合については︑これを弁論主義違反の問題とすべ
きではなく︑弁論権保障︵釈明義務・法律問題指摘義務︶の問題として把握すべきであるとする︒このことから︑山本和彦教授が︑弁論主義と弁論権を切り離して考えていること︑さらに︑弁論権を保障するために釈明権の行使が必要で
あると考えていることがわかる︒
次に︑釈明権の行使と法的観点の指摘の関係を︑山本和彦教授がどのように考えているのか分析する︒なお︑山本和
彦教授は︑法律問題指摘義務という用語でこの問題を論じているので︑それに従うことにする︒
山本和彦教授は︑まず︑法律問題指摘義務の内容を﹁少なくとも一方当事者に知られていない ︵
︑けをすべき義務﹂と定義づる指︒この法律問題指摘義務は摘に与者者に攻撃防御の機会をえるために︑裁判所が当事 法律問題当事について 46︶
訴訟物の拡大と弁論主義の変容によって果たされなくなった法律問題に関する不意打ち防止機能を補う手段として位置づけられ︑指摘の態様によっては︑当事者の納得を調達する機能を果たしうるものであるという︒さらに︑法律問題指
摘義務は︑憲法上の審問請求権 ︵
のた釈明義務確保の実質的平等の当事者︑はその︒えられている捉に根拠を釈明義務や 47︶
︵二七八五︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四一八同志社法学 五八巻七号
めの補償義務︑心証開示義務︑法律問題指摘義務の三つに細分化される ︵
ので︑法律問題指摘義務は釈明義務に含まれる 48︶
ことになる︒山本和彦教授によると︑法律問題指摘義務は︑釈明義務の行為規範的側面をより意識的に明確化する効果を有しており︑法律問題が指摘されることによって︑裁判官と当事者間の法的見解のすり合わせが容易になるだけでな
く︑当事者が裁判官の指摘した法律問題に沿った形で事実主張や立証を適切に行うことから︑判決の基礎が真実に近いものになりうる︒このような利点を考慮して︑山本和彦教授は︑法律問題指摘義務を肯定する立場をとっている︒
第三節 法的観点の指摘の態様についての考察 ここでは︑近時の議論で有力になりつつある法的観点の指摘について︑具体例を挙げながらその態様を考察する︒審
理手続において裁判官が法的観点を指摘する態様としては︑次の二つの場合が考えられる︒それは︑法的観点のみが指摘される場合と︑事実についての釈明権行使とともに法的観点が指摘される場合である︒前者には︑事実は上程されて
いるが訴訟物として明示されていない場合に︑裁判所が当事者に法的観点を指摘して当事者と裁判所の間での理解の一致を得るという事例が想定されるのに対し︑後者は︑裁判所が法的観点を含んだ事実についての釈明によって当事者に
適切な事実の提出を促し︑その後の審理内容をより適切で充実したものにするという事例が想定される︒
当事者に訴訟物の変更を促す事例においては︑訴状の請求原因の欄に事実として記載されているものの訴訟物として それが明示されていない場合 ︵
場民法七医療過誤訴訟において︑民法四一五条の債務不履行と〇九条の不法行為の要件事実がいずれも主張されている ば︑え裁判官例準備手続の争点整理の段階で︑はには釈明権を行使するのが通常である︒︑ 49︶
合には法律効果は同一であるといえる︒しかし︑債務不履行と不法行為では主張される事実は異なるから︑原告が債務不履行を意識して事実を主張しており︑不法行為については全く認識していない場合に ︵
︑裁判官は不法行為という別の 50︶ ︵二七八六︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四一九同志社法学 五八巻七号 法的観点を指摘すべきなのだろうか︒
私は︑当事者が債務不履行に基づいた請求で主張すべき事実がすでに揃っている場合にまで不法行為という別の法的
観点を指摘する必要性はないと考える︒なぜなら法律効果は同一であれば︑当事者が受ける不利益はないと考えられるからである︒
同様のことは離婚訴訟でも生じうるが︑ここでは扱いを別にしたほうがよさそうである︒離婚訴訟において︑不貞な行為が事実としては上がっているにもかかわらず︑訴状には﹁その他婚姻を継続しがたい重大な事由﹂としか記載され
ていない場合︑裁判官は原告に対して︑不貞な行為があったという事実を請求原因に含めて考えてよいかにつき指摘を行う︒この点については︑離婚訴訟が形成訴訟であることから︑形成訴訟の特殊性が絡む問題である︒形成訴訟では︑
訴訟物である離婚原因に法律行為が伴わない︒判決で離婚が認められることが訴訟の目的ではあるものの︑仮に離婚判決が出ても︑﹁その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき﹂と認定されるのと﹁配偶者に不貞な行為があったとき﹂
として認定されるのとでは︑その後の損害賠償請求の可否という問題につながることになる︒しかし︑﹁その他婚姻を継続し難い重大な事由﹂があるとして離婚判決がなされた場合︑判決の理由中の判断について不服がある場合に上訴す
ることはできない︒その点を考えると︑どちらの請求原因をとるかによって︑その法律効果との関係で結論が変わって
くるということができ︑このような場合は︑事実の提出を促すためのものでなくても︑例外的に︑裁判官が法的観点を指摘する必要性があるのではないかと考えられる︒
もっとも︑訴えの提起は処分権主義の領域の事柄であるから︑このような法的観点の指摘は︑処分権主義の侵害の有無をめぐって問題になるであろうし︑この場合の指摘は︑原告︑つまり釈明権を直接行使される当事者に有利な判決を
得られるようにしている点で︑当事者間の公平の観点から慎重に行使されるべきであると考えられる︒
︵二七八七︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四二〇同志社法学 五八巻七号
逆に︑前述の医療過誤訴訟において︑債務不履行として主張すべき事実が揃っておらず︑かつ不法行為を理由づける
事実が原告の主張のなかに見られるのであれば︑裁判官は不法行為に基づく損害賠償請求も視野に入れて当事者にそれに合う事実を主張するように指摘するべきである︒これは︑一定の法的観点に基づく事実についての釈明権行使にあた
るといえる︒
同じく︑裁判官が事実について釈明権を行使する際に︑法的観点にも触れて指摘するような場合として︑以下のよう
な事例が想定される︒原告が主張した請求原因事実に対して︑被告がある事実を提出したが︑それを抗弁事実として主張していない場合︑裁判官は︑被告の提出した事実は抗弁として捉えてよいか確認するために釈明権を行使する︒これ
は誰の利益を保護するための指摘であるのか︒抗弁事実として主張することができた被告のための釈明権行使であると考えることもできるが︑この場合はむしろ︑被告が抗弁として提出していなければ再抗弁事実を提出する機会を失うこ
とになる原告のための指摘であるといえるのではないか︒つまり︑裁判官が被告に対して抗弁事実とみなしてよいかを指摘することが︑逆に原告の利益になる︒つまり︑法的観点を含んだ事実についての釈明権行使は︑指摘を受ける当事
者に限らず︑その相手方当事者の利益のために行われている可能性が高いと考えられる︒
このような立場を一応の基準として︑以下︑日本およびドイツの判例を分析する際に用いることにする ︵
︒ 51︶
第四節 弁論主義や釈明権の行使をめぐる判例の検討 第二節の学説の整理から明らかであるが︑最近では弁論主義の枠組みから離れて裁判官の釈明権行使のあり方が議論
されている︒そのような新しい視点と私自身の立場から︑関連判例を分析することが第四節の目的である︒かつて弁論主義違反とされた判決が︑最近では︑釈明義務違反の問題やあるいは法的観点義務違反の問題として批評されている︒ ︵二七八八︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四二一同志社法学 五八巻七号 たしかに︑事実が完全に出ていないのであれば当事者の主張していない事実は認定されてはならないから︑その前に裁判官は釈明権の行使によって当該事実の主張を促すことの是非が問題になるであろうし︑当事者によって事実がすでに
提出されているのであれば︑法的観点指摘義務違反の有無が問題になりうる︒また︑釈明権が行使された後の当事者の対応如何によっても︑結果を細かく検討すべきである︒裁判官の釈明権行使に応じて当事者が主張︑立証することが一
番望ましいが︑当事者がそれに応じなかった場合︑裁判官はその事実を斟酌することは許されないから︑裁判官が当事者の主張しなかった事実を認定すると弁論主義違反を構成する︒また︑釈明権行使の妥当な範囲を考える上で︑釈明権
の行使される対象によっては処分権主義に反する可能性があると考える立場からは︑本来なら釈明権を行使すべきでない事例で釈明権が行使されると違法になるし︑その違法な釈明権行使に応じて当事者が主張しないのに裁判官が判決の
基礎にする場合は︑やはり弁論主義違反を構成することになる︒逆に︑事実についての釈明権を行使すべき事案で︑裁判官がそれを行使しない場合は︑釈明義務違反を構成する︒同様に︑法的観点指摘義務を肯定する見解に立つと︑法的
観点指摘義務違反事例も想定されうる︒
そこで︑以下では︑弁論主義違反と釈明義務違反︑法的観点指摘義務違反を区別する基準を明確にするために︑いく
つかの判例の分析を試みる︒
第一款 最判昭和五五年二月七日民集三四巻二号一二三頁︻事実関係および判決︼
原告
X〜1
X︶である子のA訴外した死亡に昭和三四年五月二六日︑は死亡に昭和三九年で夫のY被告︵CおよびB︑︒3
そして︑被告Yは訴外Cの財産を同人の死亡により相続した︒
︵二七八九︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四二二同志社法学 五八巻七号
本件土地は︑昭和二八年七月に訴外DからCに売買を原因とした移転登記がなされている︒Xらは︑本件土地の共有
持分権に基づき︑又は遺留分減殺請求として︑Yに対し︑Xら及びYがそれぞれ各五分の一の持分を有する旨の相続による共有登記手続を求めた︒もっとも︑本件は控訴審で訴えの変更がなされたため︑第一審の内容そのものは上告審判
決の前提とはなっていない︒
第一審において︑Xらは ﹁本件土地は︑
X〜1
Xら義名のCに的宜便︑け受い買かDがAるあで父のCびよおB︑に3
していたところ︑Aの死亡によってXら三名︑B︑Cが共同相続し︑五分の一ずつの共有持分権を有するに至った︒仮に︑AがCに対して本件土地を贈与したとしても︑それは︑遺留分権利者であるXらに損害を加えることを知ってなさ
れたものである︒﹂と主張した︒
これに対して︑Yは︑﹁本件土地は︑昭和二八年三月頃にCがDから直接買い受けたものである︒﹂と主張して争った︒ 第一審は︑本件土地はCが直接Dから買い受けたものであると認定し︑Xらの請求を棄却した ︵
︒ 52︶
そこで︑Xらが控訴した︒控訴審では︑Xらは訴えを交換的に変更し︑本件土地の共有持分権に基づき各持分五分の
一の所有権移転登記手続を求めた︒第一審同様︑昭和二八年七月三一日に本件土地について売買を原因とする所有権移転登記がDからCへ経由された事実については当事者間に争いがない︒Xらは︑請求の原因として︑本件土地に関する
DA間の売買が昭和二三年であることを主張した ︵
︒した主張にあったと二八年三月 D昭和が直接売買の間C︑陳述同様での第一審はY︑して対それに︒ 53︶
控訴審は以下の理由からXらの請求を棄却した ︵
していは昭和二八年七月三一日にC名義に所有権移転登記がなされた︒その当時︑単に税金対策等のため︑名義をCに 受︑がたけい昭買なわち︑本件土地は︑和︒二三年頃︑AがDからす 54︶
たにすぎないが︑その後Aの子のうちCだけが家業に従事し︑跡取りの地位を得たことから︑Aとしては︑遅くとも昭 ︵二七九〇︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四二三同志社法学 五八巻七号 和三四年五月の死亡直前には︑本件土地が登記上のみならず実体的にもCの所有とすることを肯認していたと推測される︒事実によると︑Aは︑買受け及び登記当時には︑登記簿上の買主であるCに所有権を帰属させる意思まで有してい
たとは断じがたく︑その後のCの家業承継により︑Aの意思に変化を生じ︑登記上の名目を実質的にも権利関係の実体に副うものとして承認するようになり︑この意思は︑Aが死亡するまでの間に本件土地の登記簿上の所有名義人を更に
移転させようとしなかったところから︑遅くともAの死亡によって確定したものというべきである︒これを法律的にみるならば︑本件土地は︑その登記簿の表示とは別に︑昭和二三年頃︑Aが買い受けて所有者となったが︑これをCが昭
和三四年五月二六日のAの死因贈与によって取得し︑更に
︒ることができる Yこ続がす価評とのもたし得取相れ日六月九年九三和昭を︑1
Xらは︑当事者の主張していないAC間の贈与事実を認定した控訴審の判断は︑弁論主義違反であるとして上告した︒ 上告審は︑以下の理由に基づいて控訴審判決を破棄し︑差戻した︒﹁相続による特定財産の取得を主張する者は︑⑴
被相続人の右財産所有が争われているときは︑同人が生前その財産の所有権を取得した事実及び⑵自己が非相続人の死亡により同人の遺産を相続した事実の二つを主張立証すれば足り︑⑴の事実が肯認される以上︑その後被相続人の死亡
時まで同人につき右財産の所有権喪失の原因となる事実はなかったこと︑及び被相続人の特段の処分行為により右財産
が相続財産の範囲から逸出した事実もなかったことまで主張立証する責任はなく︑これら後者の事実は︑いずれも右相続人による財産の承継取得を争う者において抗弁としてこれを主張立証すべきものである︒⁝⁝原審は︑⁝⁝Yが原審
の口頭弁論において抗弁として主張しないCがAから本件土地の死因贈与を受けたとの事実を認定し︑したがって︑Xらは右土地の所有権を相続によって取得することができないとしてその請求を排斥しているのであって︑右は明らかに
弁論主義に違反するものといわなければならない﹂︒
︵二七九一︶
審理手続における裁判官と当事者の役割分担に関する一考察 四二四同志社法学 五八巻七号
︻判例分析︼
まず︑本件における両当事者の主張内容や証拠を整理しながら︑主要事実と間接事実に振り分けることからはじめる︒控訴審において︑YはDC間の売買事実についてのみ主張している︒このようなYの主張は︑X主張のDA間の売買事
実に対する積極否認とみることができるが︑抗弁事実ではないので︑間接事実であるといえる︒また︑控訴審では︑X側の証人として︑本件土地の売主Dと売買の仲介をした代理人Fが召喚されており︑昭和二三年にAに本件土地を売却
したが昭和二八年まで登記が未了であったことを証言したものと考えられる︒このようなDおよびFの証言内容は︑昭和二三年のDA間の売買事実を裏付ける間接事実であるということができる︒それに加えて︑控訴審は︑昭和二三年当
時Cは二一歳で郷里を離れており︑その間に資力を蓄えた事情はなく︑実際にCがAに送金していた形跡もないという間接事実を総合的に考慮して︑本件土地の売買代金である一万六〇〇〇円を支弁することは不可能であったと推認し︑
結果的にDC間の売買事実を認めず︑DA間の売買事実を認定している︒つまり︑これでDからAへ本件土地所有権が移転したことが確定された︒
そこで︑次に本件土地の所有権がAから他に移転したのかどうかが問題になる︒Aから他に移っていなければ︑Xらのいうように︑本件土地はAの財産であるから五分の一の共有持分権がXら︑BおよびCに発生することになる︒すな
わち︑本件土地がCの財産であると主張するYは︑DC間の売買事実が覆された場合に備えて︑AからCへ所有権が移ったという抗弁事実を主張し証明しなくてはならない︒以下では︑控訴審でこの点に関して当事者の主張がないといえ
るのかどうかに焦点を絞る︒
まず︑YはAからCへの贈与事実そのものにつき主張している様子はない︒しかし︑YがAからCへの贈与の可能性
を窺わせる間接事実を主張していることがわかる︒すなわち︑控訴審において︑Yは︑本件土地上にある材木商に供用 ︵二七九二︶