シュテファン・グローテ 「第3の道」を求めて : アルトゥール・カウフマンの法哲学 3
著者 上田 健二, グローテ シュテファン
雑誌名 同志社法學
巻 59
号 4
ページ 17‑103
発行年 2007‑11‑30
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011331
「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学③ 17
(2258)
シュテファン・グローテ
「第 3 の道」を求めて:
アルトゥール・カウフマンの法哲学③
上 田 健 二 訳
目 次 略語目録
第 1 部 始めるに当たっての諸々の所見 [頁番号は本誌第59巻第一号 1 頁以下を見よ]
A.本稿の目標設定:アルトゥール・カウフマン法哲学への一接近の試み
Ⅰ.アルトゥール・カウフマンの法哲学
Ⅱ.アルトゥール・カウフマンの法哲学上の作品
Ⅲ.ひとつの時期を失した課題 B.伝記上の背景
Ⅰ.序言
Ⅱ.アルトゥール・カウフマンの生涯の道
Ⅲ.理解背景としての伝記的背景 1 .アルトゥール・カウフマンの解釈
2 .ヴィンフリート・ハッセマーとウルフリット・ノイマンの解釈 C.アルトゥール・カウフマンの現実性理解
Ⅰ.現実性の過程的性格
Ⅱ.合理主義 D.中間的所見
E.解釈学上の予備的諸考察
Ⅰ.理解への道
Ⅱ.アルトゥール・カウフマンの思考様式
Ⅲ.アルトゥール・カウフマンの哲学理解
Ⅳ.道としての法哲学
Ⅴ.解釈学上の諸帰結
Ⅵ.「前理解」
Ⅶ.赤い糸としての「第 3 の道」を求める探究 F.「第 3 の道」
Ⅰ.標語しての「第 3 の道」
1 .ひとつの流布している標語 2 .ひとつの魅惑的な隠喩
3 .法哲学上の議論における「第 3 の道」
Ⅱ.自然法対実証主義
1 .「法とは何か」という執拗な問い 2 .自然法 実証主義 問題の暫定的な説明 3 .さらなる処理方法にとっての諸帰結 4 .論争の現実性
Ⅲ.「第 3 の道」というものを求める探究 1 .現在の法哲学
2 .「第 3 の道」というものの重要な探究 3 .歴史上の諸々の所見
G.探究のさらなる進行
第 2 部 アルトゥール・カウフマンの思考の道
A.序言
Ⅰ.思考の道の分割
Ⅱ.カントの認識批判 1 .存在論と認識論 2 .カントとヘーゲルとの間
3 .カントの認識論のアルトゥール・カウフマンの解釈
B.思考の道の第 1 節:存在論のフォーラムを前にした自然法論と法実証主義
Ⅰ.歴史的状況
1 .法哲学の歴史性についての序言
2 .アルトゥール・カウフマンと自然法のルネサンス 3 .自然法のルネサンスから法実証主義へ
4 .歴史的自然法
5 .トマス流の自然法論のアルトゥール・カウフマンの解釈
Ⅱ.法の歴史性
1 .歴史性のカテゴリーについての序言 2 .諸々の熟慮の出発点
3 .相対主義と歴史主義 4 .法の客観性と収斂の原理 5 .絶対主義の自然法概念 6 .相対主義と絶対主義との間の道 7 .歴史性と法存在論
Ⅲ.法の存在論的構造 1 .実在存在論上の出発点 2 .普遍論争
3 .法の実在性
Ⅳ.法実証主義の一面性
1 .実践的実証主義と理論的実証主義 2 .法実証主義の存在論的根拠づけ 3 .法実証主義の認識論的根拠づけ
「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学③ 19 4 .反 形而上学としての実証主義
Ⅴ.伝統的な自然法論の一面性
Ⅵ.法の内的な緊張
Ⅶ.中間的帰結
Ⅷ.法の存在論的歴史性 1 .人間の歴史性 2 .人間の人格性 3 .実存哲学の現存在解釈 4 .時宜に適った法
Ⅸ.自然法と実定法
1 .法存在論の光のもとでの自然法実定法との関係 2 .附録:ラートブルフとフォイエルバッハにおける類似思想
Ⅹ.総括と帰結 1 .総括的な評価 2 .ひとつの「第 3 の道」?
C.思考の道の第 2 節:自然法と法実証主義を突破して法学的解釈学へ
Ⅰ.序言
Ⅱ.解釈学的構想の成り立ち 1 .歴史上の背景
2 .法存在論から法学的解釈学へ
Ⅲ.法律と法
Ⅳ.類比 書の主要思想 1 .存在と認識との類比性 2 .法の実現手続き 3 .「事物の本性」
4 .カール・エンギッシュにおける類似の思想
Ⅴ.アルトゥール・カウフマンの哲学的解釈学の習得 1 .法学的および哲学的解釈学
2 .主観 客観 分裂
3 .法発見過程の解釈学的な質:前理解と解釈学的循環 4 .解釈学の存在論的方向転換
Ⅵ.附論:解釈学と自由法運動
Ⅶ.論文『自然法と法実証主義を突破して法学的解釈学へ』(1973/75年)
1 .序言
2 .方法二元論からの方向転換
3 .自然法と法実証主義の方法論上の類縁性 4 .解釈学的法理解
5 .法適用者の積極的な役割
6 .解釈学の光のもとに照らし出された正しい法 7 .法律の意義
Ⅷ.批判的評価 1 .序言
(2256)
2 .存在と当為との分離
3 .演繹メカラニズムと当てはめイデオロギー 4 .ハンス・ケルゼンの当てはめの理想 5 .中間的帰結
Ⅸ.解釈学的構想のさらなる展開と自然法 実証主義 問題 1 .序言
2 .主観 客観 図式からの方向転換
3 .アルトゥール・カウフマンの後期作品における法学的解釈学 Ⅹ.ひとつの「第 3 の道」?
1 .「第 3 の道」としての法学的解釈学
2 .他の手段をもってする自然法思想のひとつの継続か 3 .具体的な自然法か
4 .超越論哲学としての解釈学 D.思考の道の第 3 節:人格的法哲学 Ⅰ.序言
Ⅱ.論文『法学的解釈学の存在論的根拠づけのための思想』(1982年)
1 .もうひとつの新たな問題設定
2 .法の発見過程の不可任意処分的なものとしての「事物法」
Ⅲ.諸関係の存在論
1 .法の類比性から関係性へ 2 .人格と人間的諸権利 3 .人格の不可任意処分性 4 .関係的存在論の諸起源 5 .中間的所見
6 .関係的存在論のフォーラムを前にした自然法論と法実証主義 Ⅳ.人格的に裏づけられた正義の手続き理論
1 .序言
2 .真理性ないしは正義の手続き理論 3 .討議理論
4 .アルトゥール・カウフマンの手続き的正義理論 5 .自然法と実証主義のかなた
E.総括
第 3 部 アルトゥール・カウフマンの「第 3 の道」 〔本誌本号〕 22
A.序言 22
B.アルトゥール・カウフマンの人格的法哲学:「第 3 の道」か、それとも自然法理論か
22
Ⅰ.附論:自然法対実証主義 ― 第 3 のものは与えられていない(
terutium non datur
)のか 24
Ⅱ.自然法と不可任意処分性 24
「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学③ 21
1 .法不可任意処分性の理念 24
2 .アルトゥール・カウフマンと不可任意処分性を求める問い 26
Ⅲ.人格的法哲学の自然法的内実 29
1 .主観的、歴史的および消極的自然法 29
2 .「弱い自然法論」としての人格的法哲学 31
C.グスタフ・ラートブルフと「第 3 の道」 34
Ⅰ.序言 34
Ⅱ.グスタフ・ラートブルフにおける法概念と法理念 34
Ⅲ.「第 3 の道」としてのラートブルフの法概念 39
Ⅳ.自然法と実証主義との間のラートブルフの後期哲学 43 1 .法律上の不法と法律を超える法についてのラートブルフ公式 43 2 .自然法 実証主義 問題の「解決策」としてのラートブルフ公式 44
3 .弱い自然法論としてのラートブルフ公式 44
4 .人格的法哲学と法律を超える法 44
総括と完結的な諸考察 54
文献目録 [以上本号]63
(2254)
第 3 部 アルトゥール・カウフマンの「第 3 の道」
A.序言 「人格的関係論
(1184)
」がある種の意味において「第 3 の道」を表わしていることがいま しがた強調された。この道を特別に考察することが必要である。これまでの論述では、
カウフマン法哲学の発展史を描き出すことが問題であった。以下に続く論述はこの思 考運動の極を解釈の中心点に押し出ししている。
アルトゥール・カウフマンが関係的存在論を基盤にして構想した人格的法哲学は、
以下において二つの視点から究明される。すなわち先ず始めに、この構想が自然法と 実証主義とのかなたに一筋の道を切り拓くのか、それともそれは自然法上の思考の領 域にとどまっているのかという問いが論じられる。次いでこのような構想が本質的な 点において、グスタフ・ラートブルフが第二次世界大戦後に提唱した法哲学上の立場 と一致していることを指摘することが求められる。
B.アルトゥール・カウフマンの人格的法哲学:「第 3 の道」か、それとも自 然法論か
Ⅰ.符論:自然法対実証主義 ― 第 3 は与えられていない(Teritium non datur)
のか
以下の論述では、人格的法哲学を「第 3 の道」として特徴づけることができるのか という問いが追求されなければならない。このような問題提起の根底にはもちろん、
自然法と実証主義とのかなたにひとつの立場がそもそも可能であるのかという暗黙の 想定が置かれている。
このような可能性がホセ・ヨンパルトによって否認されたことに言及されないわけ にはゆくまい。彼は「第 3 の道」というものの弁護者たちに対して、待ち焦がれてい る道は理論的に締め出されているということを対置した。この「思い切ったテーゼ
(1185)
」 の根拠づけが簡潔な符論のなかで素描することが求められる
(1186)
。
スペイン出身の、今日では日本で研究しているこの法哲学者はその論証を、どのよ うな学者も自然法と法実証主義を、彼にとって最も好ましいと思われる仕方で理解す
(1184)
Lachmayer, ARSP 78
(1992), S. 285が人格的法哲学をこのように呼ぶ。
(1185)
Klenner, ARSP 80
(1994), 593.
(1186)
以下の論述については、Llompart, Unbeliebigkeit, S. 87 ff.; Ders., Dichotomisierung, S. 54f.
「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学③ 23 る自由を有しているという論定から始める。それにもかかわらずヨンパルトは両方向 の根本的な公理を規定しようとする試みを企てる。
彼の見解によれば、すべての自然法論は ― 意識的であるか、それとも無意識的で あるかを問わず ― 「すべての実定法が必ずしも現行法であるとは限らない」という 根本思想に基づいている。このテーゼに賛同する者は自然法帰依者であり、反対する 者は法実証主義者であるとみなすことができる。法実証主義的な法思考の公理をヨン パルトは、「最も低劣な法律であっても、それが形式的に正しく作られている限り、
拘束力を有しているものとみなされなければならない」というカール・ベルクボーム の言明
(1187)
のなかに認める。このような主張に賛同する者を実証主義者と、これに反対す る者を自然法論者と呼ぶことができる。
両者の根本的公理をこのように規定することは、自然法論と法実証主義との間の関 係が中間概念の入る余地のある対立で(あるばかりでは)はなく、中間概念が入る余 地のない矛盾であるということを結果としてもつ
(1188)
。それゆえに「第 3 の道」というも のは、論理学の原則に従えば締め出されているのである。第 3 は与えられていない
(Teritium non datur)!のである
(1189)
。
自然法 実証主義 論争のこのような読み方が受け容れられるならば、人格的法哲学 は疑いもなく自然法上の構想というものとして段階づけられなければならない。アル トゥール・カウフマンは始めから、国家的法律の法としての性格と法としての妥当は ひとつの実質的な留保に服していなければならないという見解を提唱していた。その 学問上の営為のどの段階であっても、その内容が正義に適っていないような規定を法 と呼ぶことができないという思想が示されている
(1190)
。その思考の道の第 3 節のなかで人 格が実定的な法命題の内容的な尺度にまで高められる。すなわち、人間をその人格性 において尊重せず、それゆえに人間に他の人々と他の諸々の対象とのその関係におい
(1187)
Bergbohm, Jurisprudenz und Rechtsphilosophie, S. 144, 参照。
(1188)
しかしまた、v. d. Pfoldten, Rechtsehtik, S. 111をも参照。彼の意見によれば、実証主義 対非実証主義の二元論の場合にのみ、中間概念を入る余地のない二分化が問題になり得る。
(1189)
この命題が義務論的な論理学にも妥当するのかという(ここでは論じられない)問いに ついては、Kaufmann, Rechtsfreier Raum (1972)
, S. 155を見よ。
(1190)
たとえば、Kaufmann, Ontologische Struktur (1962/25)
, S. 108:「ある法律が形式的に正
しく作り出されていることから実定的でもあろうが、しかしそれは法ではない」:を参照。カウフマンはこの関連でトマス・アクイナス(「腐敗法(Lex Corrupta)の無拘束力性」と グスタフ・ラートブルフ(「法律上の不法」の無効性)に拠り所を求める。たとえば、
Kaufmann. Gesetz und Recht
(1962),S. 140 ff., を参照。 Neumann, ARSP 87
(2001), S. 420
は,カウフマンが生涯にわたって「ラートブルフ公式」を信奉していたことを強調している。この公式とトマスの法論との親近性については、Dierkmeier in:
Groschner/Diekmaizer/
Henkel/Wiehart, Rechts- und Staatsphilosophie, S. 102.
(2252)
て彼に帰属しているものを保障しないような法律は法たる性格が剥奪されなければな らないのである。
自然法 実証主義 論争についてのヨンパルトの解釈に対してはもちろん、ひとはい くらかの異議を申し立てることができよう。たとえば、問題となっている二元論が実 際に中間概念の入る余地のない対立というものであるのかという問いが提起される(1191)。 そのうえにひとは、ホセ・ヨンパルトが自然法思想の根本的な公理と考えているテー ゼが事実としてこの思考方向の本質的内実を表現しているのかについて疑問をもつこ とができる。
人格的法哲学を自然法哲学の広い領野に組み入れることができるのかという問いへ のひとつの答えが以下において探し求められることから、自然法上の反省の根本思想 をもうひとつの仕方で言い表すことが合目的的であるように思われる。努められるの は、自然法思想を相応に特徴づけると同時に、アルトゥール・カウフマンの思考端緒 へと架橋するような表現形式である。
Ⅱ.自然法と不可任意処分性
1. 法の不可任意処分性
アルトゥール・カウフマンとヴィンフリート・ハッセマーによって編集された『現 在の法哲学と法理論への案内 (Einführung in Rechtsphilosophie und Rechtstheorie der Gegenwart)』は、自然法問題を扱っているカウフマンの弟子であるギュンター・エ ルシャイド(Günter Ellscheid)のひとつの論稿を含んでいる。このテクストのなか では、法の不可任意処分性の理念が現代の自然法思想の共通の基準であることが論じ られる。「そのルネサンス以降の自然法にとって以前よりもまして問題であるのは、
法の不可任意処分性0 0 0 0 0 0 0を主張し、そしてこれを確保することである。法に対する任意処 分権が国家に帰属すべきであるとする法律実証主義の真っ向からの対抗列車において
(1191)
カ ウ フ マ ン の 見 解 に よ れ ば、 排 他 的 な 選 択 と い う も の は 問 題 で は な い。Kaufmann,
Nach-Neuzeit
(1990), S. S. 18; Ders., Rechtsphilosophie
(1997), S. 40., 参照。 ― 中間概念が
入り込む余地のない二分説の問題、をこの箇所で全幅において討議することは求められな い。法の概念についての現実的な討議にかんがみて、しかしながらなお述べられなければな らないのは、「第 3 は与えられる(Teritium non datur)」という格言は、法実証主義/自然法 論の二元論が分離テーゼ/結合テーゼの対立と同一視される場合であっても適用されるとい
うことである。このような見解は、たとえば、Wagner, Das Reflexionspotential, S. 31 f.;Koller, Theorie des Rechts, S. 3に示される。これについては、Paulson, Law and Philosophie,
13 (1994), 343 f.,
を参照。「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学③ 25 自然法は、立法による法の操作可能性に(現実的に、もしくは単に規範的であっても)
バツ印をつけるものとして理解される(1192)。」それゆえに、法の不可任意処分性を前景に 押し立てるすべての理論を自然法上の構想として段階づけることができるのである。
自然法的な思考のこのように拡張された理解(1193)は、彼とは別の法哲学者たちによって も引き継がれた(1194)。実際のところ、任意に処分することができないということの理念が 自然法的な反省の核心思想であるということを、説得的に根拠づけることができるの である。これに続く諸々の論述も同様にこのような見解から出発するであろう(1195)。 現代の法哲学上の議論
(1196)
のなかには、内容的に不可任意処分的なものの法的諸原則の 表現形式の獲得を求める声が数多く存在している
(1197)
。このような声にアルトゥール・カ ウフマンも属している。不可任意処分性の理念は彼をしてその全学者生活を通してこ れに取り組ませたのであり、立法者と裁判官の任意な処理に限界を設定する法的諸内 実を求める探究は一貫して彼の学問上の著作物を貫いている
(1198)
。
(1192)
Ellscheid, Das Naturrechtsproblem, S. 164 f.
― このような見解は、自然法論と法ないし は法律実証主義が中間概念の入る余地のない二つの立場として現れることへと導く。すなわ ち、国家の法に対する普遍的な処分権を主張するすべての理論は、「法実証主義」という集 合概念に算入され得るのであり、これに対して立法者に(何らかの)の制約を課するすべて の理論を自然法の立場として分類することができる、ということである。Kaufmann,Rechtsphilosophie
(1997), S. 20をも見よ。
(1193)
このように解釈する場合には、「自然法」という言葉の第一構成部分はその意義を失う。
すなわち、とりわけ問題になっているのが不可任意処分性の思想であるからには、(それが どのような種類のものであれ)自然概念についての条件は第二次的である、ということであ る。
(1194)
Hassemer, Unverfügbares im Strafprozeß, S. 185; Weimar, Grundlagen einer „Einheit“, S.
474; Seelmann, Rechtsphilosophie, S. 140 f.,を見よ。
(1195)
このような論定によって、これとは別の自然法理解から出発する学問上の根拠に異議が 唱えられるのでは、もちろんない。
(1196)
不可任意処分性の理念は判例にもその入り口を見出している。BVerfGE 23, 98 (106)
:「法
と正義は立法者の任意な処理にゆだねられているのではない。」:参照。(1197)
これについては、とくにツイッぺリウス、カウフマン、ロールズおよびドウオーキンに 言及しているHorn, Einführung, Rn. 382 (S. 225)を参照。他では、任意な処分が可能でな い(十分な検討によって固められた)法的諸立場の理念を刑事訴訟法のなかにもなじませよ うという試みを企てたヴィンフリート・ハッセマーを挙げることができる。Hassemar,
Unverfügbares im Strafprozeß., 参照。 ― 不可任意処分性のカテゴリーには、討議理論もま
た基づいている。不可任意処分性はJürgen Habarmas
(Faktizität und Geltung, S. 594)に とって「法に本質的に内在する要素」である。討議理論上の考察方法にとっては実質的な諸 原理ではなく、手続き上のそれらが不可任意処分的である。ハバーマス(Faktizität und Geltung, S. 598)が考えるように、「実定法のなかにすでに移住している手続き的合理性が、
(理性法の崩壊後では)実定法に不可任意処分性のひとつの契機と偶然による諸々の介入か ら免れた構造というものを保障することができる唯一の次元である」。
(1198)
不可任意処分性の理念は彼の著作活動の全段階において示される。この問題の現実性
(2250)
2 . アルトゥール・カウフマンと不可任意処分的なものを求める問い
自伝的なスケッチ『45年を体験した法哲学』(1991年)のなかでカウフマンは、法 における不可任意処分的なものを求める問いがナチズムの恣意的な支配を通して格別 な意義を獲得したと述べている。彼はこれに加えて、「法哲学に奉仕し続けた45年は、
全く決定的にこの問題によって規定されている(1199)」と書き留めている。
カウフマンの弟子であるウルフリット・ノイマンはこのような評価に与している。
「アルトゥール・カウフマンはその全テーマにおいて、何よりも先ずその内実におい て、さらに引き続いてナチズムの時代における法の破壊の諸々の経験によって刻印づ けられている。法における不可任意処分的なものを、法定立者の任意な処理から引き 離されているものを求める問いは、彼の法哲学の中心点に置かれているのである
(1200)
。」
アルトゥール・カウフマンが不可任意処分性の思想
(1201)
を法の存在論と結びつけている ことは、本稿ではすでに何回も示唆された。カウフマンは、人間の恣意に先立ってい る領域というものは「存在」のなかにしか見出すことができないことに確信を有して いた。彼はそこから、法定立の場合では国家に、法適用の場合では裁判官に遵守を命 じることができる存在論的な根本的な諸々の所与を探し求めるのである。
は、しかし様々に評価される。Kaufmann, Die „Natur“ (1989)
, S. 209は次のように書いてい
る(強調は原典のなかで)。「法哲学の歴史は長い道程にわたって自然から獲得することが目 標とされるような法の歴史と、言い換えれば自然法の歴史と同じである。それは、どのよう にして何か不可任意処分的なものから、自然0 0(そのさい、どのような『自然が』がそこで問 題であるとされるのかは、最も大きな問題のひとつである)から、人間の恣意に対して抵抗 力のあることの実を証明する、人間の行動にとっての諸々の尺度と基準を読み取ることがで きるのかという問いの歴史である ― この問いは、二千年前と同様に現実的である、それど ころかまさに今日この核および遺伝子技術の時代において全く確実に現実的である。」Kaufmann, Rechts philosophie
(1997), S. 8 f.,は、これに対して次のように論定している。
「と ころで、『不可任意処分的なもの』を求める問いはひとつのいつまでも続く法哲学の問いで あるが、われわれが再び法治国家上の諸関係を有している今日では、格別に現実的なテーマ ではない。これに対してわれわれにとって急を要しているのは、核エネルギー、バイオテク ノロジー、人間遺伝学……である。」(1199)
Kaufmann, Fünfundvierzig Jahre
(1991), S. 452.
(1200)
Neumann, ARSP 79
(1993), 259.
(1201)
法の不可任意処分性と不任意性との間には、ひとつの思想上の関連が成り立っているの であるが、この両概念は、しかしながら一致していない。カウフマンにおける言葉使用を、
次のような意味上の差異が成り立っているというように解釈することができよう。すなわち 不可任意処分性のカテゴリーは本来、法の特定の諸内実が立法者と裁判官の任意な処理から 引き離されているということしか意味していない。不任意性の思想はそのうえに、法の歴史 性を考慮に入れる、ということである。
「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学③ 27 彼はそのうえ、不可任意処分性のカテゴリーが自然法の理念(1202)と関連しているという 見解を提唱する(1203)。自然法理念についての彼の諸々の言明を、彼がこのような理念を核 心において次の二つの構成要素に還元しているという意味において解することができ
よう(1204)。すなわち、それは正しい法の理念(1205)と不可任意処分性の理念とを含んでいる、と
いうことである。
アルトゥール・カウフマンにとってはそれゆえ、自然法思想を存在の哲学と結びつ けるひとつの鎹である。不可任意処分的なものが存在論的な諸々の考察を通してのみ 指摘され得ることから、「自然法論は結局のところつねに法存在論である(が、しか し必ずしも実体的存在論ではない
(1206)
)」。
古典的な自然法上の諸理論の根底には、不可任意処分的なものを、その内容が時間 と場所に依存することなく固定しているような普遍的な自然法のなかに定位させるこ とができるという考え方が置かれている。このような考え方をカウフマンは否認する のであって、それというのもそれは法の歴史性を(そして法哲学上の認識能力の不完 全性を)無視しているからである。彼の見解によれば、問題となっているのは、「た とえ具体的で歴史的であっても、立法者の、裁判官の、そしてそもそも法仲間の任意 な処分にゆだねられていない
(1207)
」法の諸内実を浮き彫りにするということである。カウ フマンの思考の道を、不可任意処分性の理念を古典的な自然法の終焉の後に新たに裏
(1202)
自然法の概念と理念とを区別することについては、Henkel, Einführung, S. 505をも見よ。
(1203)
この関連は多くの公刊物のなかで示唆される。たとえば、
Kaufmann, Die „Natur“
(1980), S. 209; Ders., Gibt es Rechte der Natur?
(1992), S. 577; Ders., Lukrez
(1993), S. 108.
(1204)
たとえば、Kaufmann, Problemgeschichte (1994)
, S. 76:
「自然法理念が考えているのは、その内容を任意に処理することが許されない『正しい法』であるが、しかしそれは必ずしも、
この種の『正しい法』は、どのような時でも、またあらゆる事情のもとで妥当しなければな らないかのように考えているのではない。」:を見よ。 ― このような論定は、歴史性が自然 法のどのような本質的要素でもないというカウフマンの確信をも表現している。
(1205)
カウフマンの初期の著作物のなかでは、「正しい法」と「自然法」とはしばしば同義語 として用いられる。けれども後期の諸作品のなかでは、「正しい法」が話題となっている場 合には、自然法上の真理性要求に対して懐疑というものが感じ取られるのであって、それと いうのも解釈学が客観的な正当性というものの理念を破壊したからである。 ― ハインリッ ヒ・ヘンケルの見解によれば、正しい法の理念が、自然法と実証主義のかなたに置かれてい るような立場に導くことができるのである。Henkel, Einführung, S. 521を見よ。
(1206)
Kaufmann, Rechtsdogmatik
(1994), S. 228.
― 存在論的な自然法の詳細な説明を、本 稿ではすることができない。しかし、自然法が存在論的な基盤を獲得しているのであれば、「自然」と「存在」とは同義のものであるということが指摘されなければならない。自然法 を「存在」のうえに構築することができるのかという問いについては、
Studler, Begründungs- probleme des ontologischen Naturrechtsをも参照。
(1207)
Kaufmann, Die Naturechtsrenaissance
(1991), S. 228.
(2248)
づけようとする粘り強い試みとして解釈することができるのである(1208)。
そこで、アルトゥール・カウフマンはその人格的法哲学をもって「第 3 の道」とい うものを歩んでいるのか、それとも自然法上の思考の道かという問題が浮かび上がっ てくる。ギュンター・エルシャイドの所説が根拠に置かれて、法に対する国家の任意 処分権を制限するという理論的構想のすべてが自然法思考に算入されるならば、この 哲学は疑いもなく自然法的に刻印づけられた構想である。もう二つの論拠が、このよ うな評価を裏づけるのに適している。
その他のあらゆる異種性にもかかわらず自然法哲学の多様な形態をした変型は、立 法と法の適用に除去することができない形で先置きされているような領域を発見する という共通の目標を有している
(1209)
。ある法哲学上の理論が自然法構想であることを証明 しているこの特殊な認識関心が人格的法哲学に彫琢を重ねることの誘引にもなったの である。「自然」への関係づけがひとつの典型的な自然法的論証形象であることを、
ひとは争うことができない。たとえカウフマンが、それがどのように理解されようと も自然から人間の行動にとっての諸規範を導き出すことは可能ではないという見解を 提唱している
(1210)
にしても、このような根拠づけに立ち戻ることは、実質からして人格的 法哲学には表われているのであって、それというのもこの哲学は、法の本性と一致す る人間の人格的本性に基づいているからである
(1211)
。アルトゥール・カウフマンは自然法 の理念を正しい法の、不可任意処分的な法の理念として理解していることから、彼は 彼自身の立場からも、彼自身の道を全体として自然法思想に算入することができると いう評価に立ち至ることができたであろう。それというのも、彼の諸々の熟慮はつね に正しい法、任意に処分することができない法をめくって旋回しているからである。
このような自己評価は、しかしながら初期の作品のなかでのみ示される
(1212)
。後期の公刊
(1208)
不可任意処分性の理念を新たに根拠づけようとするシュタムラー、ラートブルフ、マイ ホーファーそしてカウフマンの努力については、Hassemer, Unverfügbares im Strafprozeß,
S. 192 ff.,をも見よ。
(1209)
こ の 点 が、 同 様 に ギ ュ ン タ ー・ エ ル シ ャ イ ド に よ っ て 強 調 さ れ た。Ellsceid, Art.
„Naturrecht“, S. 970を見よ。
(1210)
現にKaufmann, Gibt es Rechte de Narur? (1992)
, S. 378.
(1211)
Kaufmann, Die „Natur“
(1989), S. 220:「もし『理念』といったものが、法の『本性』と
いったものが存在するならば、それは人格的な人間の理念であり、本性である。そうでなけ れ ば、 そ れ は 全 く の 無 で あ る。」: 参 照。 ― こ れ と 同 じ 思 想 は、Klenner, Sein/Sollen-Problematik, S. 173:「法の本性は人間の社会的な本性から定義されなければならない」:に
示される。(1212)
初期の著作物のなかでは、不可任意処分的な法の内実を求める探究はひとつの自然法上 のプロジェクトとして理解される。「歴史的自然法」という標語は、不可任意処分性の思想 を新たに根拠づけるカウフマンの最初の試みとして理解される。
「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学③ 29 物のなかでは、伝統的な自然法論(1213)との区別を強調することがアルトゥール・カウフマ ンにとってとりわけ問題である。自らの構想を明瞭に古典的な自然哲学から限界づけ ようとする諸々の努力が最終的に、「自然法と実証主義とのかなたに0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0置かれているよ うな立場からのみ(1214)」、不可任意処分性の問題のひとつの解決が存在しているというテ ーゼへと導く。先に展開された論証をもってしては、しかしながら人格的法哲学が決 して自然法的思考の影響圏から去ることはなかったと証明することができる。
本稿はさらに、人格的法哲学を原則的にひとつの自然法上の理論的構想とみなすこと ができるということから出発する。とはいえ、この法的構想の自然法的な内実がいっ そう明瞭に視野のなかに入ってこなければならない。
Ⅲ. 人格的法哲学の自然法的内実
1 . ひとつの主観的、歴史的および消極的自然法
その法哲学上の思考の道の最終段階でアルトゥール・カウフマンは、人間の人格的 本性から流出する基本的および人間的な諸権利
(1215)
が法の実質倫理学上の最小限内実であ り、法を正当化する根拠であるという立場に立つ
(1216)
。前もって与えられている、客観的 な秩序という考え方をカウフマンは否認するのであるが、しかし彼は人間的諸権利に は前国家的妥当が帰属するという見解を提唱する
(1217)
。その人格的法哲学を、それゆえに
「主観的法哲学」と呼ぶことができよう
(1218)
。
(1213)
伝承された見方によれば、任意に処理できないものは超歴史的かつ実体的である。カウ フマンの見解によれば不可任意処分的なものは状況に関係づけられて(具体的 歴史的で)
あり、関係的である。
(1214)
Kaufmann, Rechtsbegriff und Rechtsdenken
(1994), S. 66
(強調は原典のなかで).
(1215)
基本的諸権利と人間的諸権利の区別を、以下では考察の外に置くことができる。
(1216)
Kaufmann, Lukrez
(1883), S. 117: 人間的諸権利は、「法の全宇宙が破壊されようとしな
いのであれば、破壊されてはならない」法の「根源的諸要素」である:をも参照。(1217)
Kaufmann, Reflexionen
(1995), S. 384は、基本的および人間的諸権利は前国家的に妥当
することを明瞭に論定している。カウフマンの論述によれば、すでにフォイエルバッハとラ ートブルフが客観的自然法という思想を拒絶したが、その代わりに前国家的な主観的諸権利 を要請している。Kaufmann, Feuerbach (1984), S. 189; Ders., ARSP 70
(1984), 384; Ders., Gustav Radbruch - Leben und Werk
(1984), S. 84; Ders., Art. „Radbruch“, in: Staatslexikon IV
(1988)
, Sp. 625; Ders., NJW
1995 86; Ders.,Rechtsphilosophie
(1997), 42; Ders., Die Bedeutung Gustav Radbruchs
(2001), S, 10, 参照。
(1218)
客 観 的 自 然 法 と 主 観 的 自 然 法 と の 立 場 を 区 別 す る こ と に つ い て は、Gröschner/
Dierkmeier/Henkel/ Wiehart, Rechts- und Staatsphilosophie, S. 105.
(2246)
とはいえ、カウフマンが人間的諸権利の歴史的被制約性(1219)と状況被関係性を前景に立 てていることも顧慮されなければならない。その関係的な思考方法によれば、実質的 な内実を究極的に固定することは可能ではないのであって、それというのもこれらの 権利は「その『実定的な』内容を、それらが具体的に置かれている関係から獲得
する(1220)」からである。カウフマンが前もって与えられた人間的諸権利を歴史性の地平に
おいて把握し、それらの内容を可変的なものとして捉えていることから、ノルベルト・
ホルン(Norbert Horn)はカウフマンの法哲学をひとつの「変化する内容をもつ自
然法
(1221)
」として特徴づける。ひとは「歴史的自然法」という呼び方をすることもでき よう
(1222)
。
もうひとつの点にも、やはり言及されるべきであろう。アルトゥール・カウフマン は ― とりわけその最後の創作期間のなかで ― 法哲学上の理性は誤謬証明の場合に しかより確実な諸認識を獲得することができないことに注目させた。「われわれは、
何が正義に適っているのかよりも、むしろ何が正義に適っていないのかのほうが、同 様に、何が人間的諸権利に則しているのかよりも、むしろ何がそれらに反しているの かのほうがはるかにうまく言明することができるのである
(1223)
。」このように見れば、人 格的法哲学をひとつの「消極的自然法」として特徴づけることも是認されよう。
人格的法哲学の自然法的内実をより厳密に把握しようとする上述の試みは、この構
(1219)
Kaufmann, Theorie der Gerechtigket
(1094), S. 39は、人間的諸権利は、それらが抽象的
に言い表される場合にのみ、超時間的な性格というものをもつことを強調している。Ders.,Genelarisierung
(1992), S. 348は次のように論定している。「しかしそれは人間的諸権利の場
合であってもかつての自然法の場合と同じである。すなわち、それらがきわめて抽象的に考 えられる場合には、それらは普遍的である、ということである。それらが具体的な状況に方 向づけられ、具体化されることが多ければ多いほど、それだけいっそうそれらは偶然的かつ 相対的になる。同様になおまた、Ders., Rechtsphilosophie (1997)
, S. 162.
― 人間的諸権利 の歴史性についてはすでにまた、Kaufmann, Schuldprinzip (1961), S. 110 f.
(1220)
Kaufmann, ARSP 70
(1984), 295.
(1221)
Horn, Einführung, Rn. 582
(S. 225)und Rn. 419
(S. 242),参照。ホルンの所説は、しか しながら誤解を招きやすいのであって、それというのもシュタムラーによって形づけられた この表現形式はカウフマンの著作物のなかにしばしば立ち表われるからである。これは問題 にならないのである。(1222)
Fritjof Haftの追悼文では、カウフマンの全構想がこの意味において解される(JZ 2001,
969):「歴史的な、可変的な、時宜に適った自然法というもののなかに彼は法の根本的な諸々 の問いへの答えを見出した。」(1223)
Kaufmann, NJW 1995 83. Dens., Rechtsphilosphie
(1997), 42/43 Fn. 10(強調は原典のな
かで):「私の
0 0考えによれば、認識理論上の諸々の理由から『正しい法』を十分な厳密さをも って認識することができない。『不正でない法』を論定することしか可能ではないである。」をも参照。 ― これと同じ思想が
Alexy, Recht und Geltung, S. 91:
「不正義が極端であればあ るほど、その認識はより確実である。」にも示されている。「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学③ 31 想が法を根拠づけるという野心的なプログラムからも伝統的な自然法論の真理性諸要 求からも遠く隔たっていることを明らかにした。(完全な)基盤としての実定的な法 的諸命題に役立つことができるような不変的な内容をもった前実定的な規範秩序を明 示するというようなことは、もはや問題ではない。カウフマンの見解によれば、不可 任意処分的なものはごくわずかな規制密度しか有していないのであり、単に実質的な 照準となる諸点と準拠諸尺度しか前もって与えられていないのである。これに属して いるのはとくに、人間の人格的な本性から流出する人間的諸権利であるが、しかしま た、法理念が人格的な人間の理念に向けて開かれている場合にのみ指摘することがで きる正義の根本的な諸命令もこれに属している
(1224)
。これらの照準点は、法哲学が実定法 の内容的な形態化のための諸提案を提出して説明が求められる場合に、「トポス」と して引き合いに出すことができるのである。それらはしかし、国家の諸法律が不法を 法と偽証する場合には、とりわけ効力を発揮するのである。
2 . 「弱い自然法論」としての人格的法哲学
上述の最後のところが、人格的法哲学をひとつの「弱い自然法論」として特徴づけ ることになるほどと思わせる。このような呼び方が様々な著者に立ち現われていて統 一的に理解されないことから、このような概念がここでどのように考えられているの かを、いくらかの言葉ををもって説明されなければならない。
オタ・ヴァインベルガー(Ota Weinberger)は1980年に公刊されたある記念論集 への寄稿論文のなかで自然法のひとつの構想に取り組んだのであるが、彼はそれを
「弱い自然法論」と呼んでいる。彼の語るところによれば、このような自然法の諸理 論の論証の仕方にとっても特徴的であるのは、「それらが多少とも自明の諸条件から 導き出されいることから、またそれら自体が枠組み的に言い表されていることから、
あとで納得のゆくような自然法の諸原則として受け容れやすいと思われる法的な当為 体系への一定の諸要求をそれらから獲得するために、弱くて一般に納得がゆくような 諸条件を作り出す
(1225)
」ということである。例としてアルフレット・フェアドロス(Alfred Verddoss)とH・L・A・ハート(H. L. A. Hart)の理論が挙げられる。
その後のある作品のなかでこのグラーツの法理論家は次のように書いている。「事 実として妥当している法体系を探究することが法律学の主要な課題であることを承認 しているあの諸々の理論を、私は弱い自然法論と呼び、それらの場合では自然法につ
(1224)
正義の根本的な諸命令については、
Kaufmann, Rechtsbegriff und Rechtsdenken
(1994), S. 56 f., 参照。
(1225)
Weinberger, Über schwache Naturrechtslehren, S. 326 f.
(2244)
いての諸々の考察は単に次のような課題を有しているにすぎない。⒜それらは法の内 容的な正当化に奉仕する、⒝それらは法的な諸義務を道徳的にも根拠づけようと試み る、⒞それらは実質的な正義の諸内容を提示しようとする、そして⒟それらは法的な 問題諸事例の解決にとってのひとつの拠り所を提供する。弱い自然法諸理論は、現行 法を自然法上の諸原理から導き出すことができること、もしくは実定的に成り立って いる法的諸命題は自然法上の諸原理との不調和ゆえにあっさりと無効であるとみなさ れることを前提としている(1226)。」
ヴァルター・オッツ(Walter Ott)は次のような区別をした
(1227)
。自然法論の強い変型 というものは,自然法は矛盾する実定法を無効に(部分的に廃止)することができる ことから出発する。これに対して自然法論の弱い変型というものは、実定法の評価の ためのひとつの尺度である(しかない)という想定に基づいている。これと比較する ことができる分類はロナルド・ドウオーキンにも示される
(1228)
。
ペーター・コラー(Peter Koller)は同様に、ひとは自然法上の法概念を二つの変 型に区別することができるという見方を提唱している。しかし彼の区分はもうひとつ の視点に照準を合わせている。「自然法上の法概念の強い変型0 0 0 0は、自然法が実定法の ひとつの完全な基盤を提供しているということから出発している結果として実定法の 諸規範を直接に自然法から導き出す0 0 0 0ことができるということから出発する
(1229)
。」弱い変 型の場合では、これとは別の事情にある。すなわち「この変型によれば、実定法の諸 規範が基本的な道徳上の諸規範と一致していれば、言い換えれば、明白にそれらを侵 害していないのであれば、それで十分である。自然法上の諸原則は、ここではそれゆ え、実定法がそこからあまりにも広く逸脱することが許されないような、いわば一般 的な枠組みをなしている
(1230)
」ということである。
本稿は最後に言及された見解に結びつく。以下の諸論述では、「弱い自然法論」と いう概念に従う立場の特徴を述べることが求められる
(1231)
。すなわち、どの立法者にとっ ても、またどの解釈者にとっても任意に処分することができない実質的な法的諸原則 の核心的な手持ちというものが存在している、ということである。この自然法の最小 限を蔑ろにする国家の諸々の指令を、もはや法とみなすことができないのである。
(1226)
Weinberger, Jenseits von Positivismus und Naturrecht, S. 141.
(1227)
Ott, Der Rechtspositivismus, S. 264を見よ。Seidel, Rechtsphilosophische Aspekte, S. 138
をも見よ。(1228)
Dworkin, Law’s Empire, S. 36
(„weaker version ob natural law“),
102 (“strong version ob natural law
), 参照。
(1229)
Koller, Theorie des Rechts, S. 32
(強調は原典のなかで).
(1230)
Koller, Theorie des Rechts, S. 33.
(1231)
Alexy, Begriff und Geltung, S. 83は、この立場を「弱い拘束説」と名づける。
「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学③ 33 人間の人格性から出発するカウフマンの哲学が言わんとしているのは、ある法律の 規定が人間的諸権利を(もしくは正義の諸命令)を侵害している場合にのみ、その法 律の法たる質を否認することができるのである。それ以外では、実定的な法的諸命題 の効力を疑うことはできないのである。人格的な法哲学はそれゆえ、これを弱い自然 法論とみなすことができるのである。
(ここで考えられているような)弱い自然法論の概念の根底には、完全な、生活上 のすべての問題を規制する自然法の体系というものを見出すことができないのである が、しかし前もって与えられている法的諸原則と、実定法が決して超えてはならない 極端な限界が存在しているという思想が置かれている。その後期の著作物のなかで
「第 3 の道」が問題とされる場合には、アルトゥール・カウフマンはこれと同様の思 想を考えているものと推察される。このテーゼを根拠づけるためには、「第 3 の道」
がカウフマンの『法哲学』のなかで次のように書かれていることを想起されたい。「自 然法論にとっては、法はロゴスのなかに、神の律法のなかに、理性のなかに客観的に それと認めることができるような形で前もって与えられている。法実証主義によれ ば、何も前もって与えられていない、少なくとも前もって与えられている法の諸内実 を認識することができず、それゆえに法の内容は任意である。これに対して『第 3 の 道』というものの提唱者たちは、確かに法の具体的な全内容がそれと認めることがで きるような形で前もって与えられているとは考えないが、しかしそれでもある種の構 造が、原則が、もしくは消極的にすぎなくとも『不法論拠』という意味において前も って与えられているのである。すなわち、いずれにせよ明白な『法律上の不法』は妥 当しない、ということである。これによれば、客観的な諸内実(『自然』)へのどのよ うな拘束も存在しておらず、存在しているのは特定の諸事情の内部におけるひとつの 相対的な、よりうまくは関係的な拘束にすぎない(たとえば『売買』という法律関係 が規範化されるならば、売り手と買い手の役割を任意に処理することができないので ある
(1232)
)。」
このようなテクストの章句からなかんずく
(1233)
、「第 3 の道」という玉虫色の概念が前 もって与えられている諸々のもののひとつの核心的な手持ちを考えていることが明ら かにわかる。かくして ― 実質的な意義内実に関して言えば ― 「弱い自然法論」と のある種の合致が成り立っているのである。
いましがた引用された諸言明についてほかでもひと目を引くのは、「不法論拠」が 第 3 の道のひとつの重要な現象形式として挙げられるということである。この論拠は
(1232)
Kaufmann, Rechtsphilosophie,
(1997), S. 40 f.
(1233)
最後の文章のなかには、事物論理構造についての理論へのある種の依拠も示されている。
(2242)
根本において有名な「ラートブルフ公式(1234)」以外の何ものでもない。これとともに、ア ルトゥール・カウフマンが「第 3 の道」というものを求めるその探究に当たってグス タフ・ラートブルフの諸々の痕跡に従われているのかという興味深い問いが持ち上が ってくる。以下の諸々の叙述のなかでは、この問いが究明される。
C. グスタフ・ラートブルフと「第 3 の道」
Ⅰ. 序言
いましがた投げ掛けられた問いを、三歩の足取りで前へと進めることが求められ る。先ず最初にラートブルフの法哲学の基盤と発展連関を短い概観のなかで紹介して おくとかが必要である。これに続いてその師がその立場を自然法と実証主義のかなた に置いているというアルトゥール・カウフマンの主張を仔細に検討することが求めら れる。最後に、カウフマンの人格的法哲学が本質的な点において、グスタフ・ラート ブルフがその学問的な生涯作業の最終段階において提唱した哲学上の立場と合致する ことが示される。
Ⅱ. グスタフ・ラートブルフにおける法概念と法理念
グスタフ・ラートブルフの法哲学がヒトラー 独裁の不法な諸々の所業の印象のも とにひとつの基本的な「回心」を成し遂げたのかが、周知のように争われている
(1235)
。ア ルトゥール・カウフマンはつねにその師の思考における継続性を主張してきた
(1236)
。今日 では支配的な意見
(1237)
もまた、疑いもなく確認することができるラートブルフの諸々の変 化のなかに亀裂なく前へと進行する思想展開が表現されていることから出発してい
(1234)
アルトゥール・カウフマンは一見して「ラートブルフ公式」と「不法論拠」が同一であ ることから出発しているように見える。Kaufmann, Rechtsphilosophie (1997)
, S. 31 Fn. 39,
178, 参照。他の論者たちにとっては、高度に非難すべき個別的諸規範の場合には適用される が、しかし極端に不正な規範的諸体系には適用されないこの公式は、「不法論拠」のひとつ の重要な変型である。 ― 「不法論拠」については、Alexy,, Gegriff und Geltung, S. 70 ff, 参 照。(1235)
この議論については、Seidel, Rechtsphilosophische Aspekte, S. 159 ff,をも参照。
(1236)
たとえば、Kaufmann,
Gustav Radburch - Leben und Werk
(1987). S. 45. 81 f.; Ders., Gustav Radbruch
(1997), S. 25 ff., 190 ff.; Ders., Rechtsphilosophie
(1087), S. 41 ff.
参照。す でにまた、Der Mensch im Recht (1958), S. 29 ff.,をも参照。
(1237)
Dreier/Paulson, ARSP 85
(1990). 465; Dreier/Paulson, Einführung, S. 244も ま た こ の 継
続性テーゼの意味において論証している。「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学③ 35 る。法概念と法理念を通した時間的な横断面のなかで追求されるならば、その継続的 な展開は可視的なものとなる(1238)。
差し当たり哲学上の背景についていくらかの言葉が必要である。本稿ではすでに、
ラートブルフの法哲学が新カント主義に由来していることが何回も示唆された(1239)。一般 的には二つの主要な方向に、すなわちマールブルク学派(ヘルマン・コーエン
(Hermann Cohen)、パウル・ナトルプ(Pail Natorp))とハイデルベルク学派(ヴ ィルヘルム・ヴンデルバント(Wilhelm Windelbant)、ハインリッヒ・リッケルト
(Heinrich Rickelt)に区別される
(1240)
。法哲学上の研究領域ではマールブルクの新カン ト主義
(1241)
はとりわけルドルフ・シュタムラーによって、ハイデルベルク学派はとりわけ グスタフ・ラートブルフ
(1242)
によって稔り多いものにされた。両学派の間には ― 簡単に 言えば ― 次のような差異が成り立っている。すなわち、マールブルク由来の新カン ト主義はとくに厳密な自然諸科学に方向づけられ、これに対して価値論的に方向づけ られた南西ドイツ流儀の新カント学派は文化的な諸価値に関心を有していた、という ことである
(1243)
。
価値理論上の批判主義
(1244)
を基盤としてグスタフ・ラートブルフは、再び内容的に充足 された法哲学へと突き進み
(1245)
、法の実質的な概念を展開しようとする試みを企てた。ハ
(1238)
も ち ろ ん 以 下 で は、 ご く 短 い 素 描 し か 提 供 す る こ と が で き な い。 こ れ に つ い て は、
Kaufmann, Gustav Radbruch - Leben und Werk
(1987), S. 71 ff.; Koch, StuR 40
(1991), 465;
Dreier/Paulsen, Einführung, S. 244をも参照。
(1239)
新 カ ン ト 主 義 に つ い て は、Kaufmann, Art. „Neukantianismus“, in: Ergänzgares Lexikon
des Rechts
(1086), S. 1 ff. 新カント主義の法哲学上の思考にとっての意義については、
„Neukantianismus und Rechtsphilosophie“
(hrsg. von Robert Alexy, Lukas H. Maiyer,Stanley L. Paulson und Gerhardt Sprenger)という論集を見よ。 ― Saliger, Rad bru ch s- che Formel, S. 9は、新カント主義を自然法 実証主義 問題と関連づけている。彼の見解によ
れば、「新カント主義の法哲学の主要な課題は、古典的な自然法論と法実証主義を克服して 科学的であると同時に批判的な法哲学にとっての礎石を据えることにあると見た」。(1240)
もうひとつの方向をゲッチンゲンの新カント主義(
Leonard Nelson)が演じている。
(1241)
マールブルク学派の法哲学について詳しくは、Müller, Marburger Neukantianismus.
(1242)
ラートブルフは南西ドイツ学派をその最盛期にまで導いた。その後期では、しかし彼は その克服者になった。現に、Kaufmann, Art. „Kantianismus“, in: Ergänzbares Lexikon des
Rechts
(1986), S. 3は、このように言う。
(1243)
新カント主義の価値倫理学については、Kaufmann, Recht und Sittlichkeit (1964)
, S. 242
を も 参 照。 哲 学 上 の 価 値 思 考 が そ の な か で 成 り 立 っ て 精 神 史 上 の 状 況 に つ い て は、Böckenförde, Zur Kritik der Wertbegründung des Rechte. S. 89 ff.,参照。
(1244)
リッケルトの一人の弟子であるエミール・ラスク(
Emil Lask)はラートブルフをハイ
デルベルク新カント主義に近づけた。Radbruch, Rechtsphilosophie, S. 221, Fn. 1の指摘を見 よ。(1245)
Kaufmann, Der Mensch im Recht
(1958), S. 25:「それどころか、ラートブルフはそもそ
(2240)
イデルベルク学派の文化哲学に依拠して彼は法を「価値被関係性」の側面のもとに考
察した(1246)。それは一方で(自然的諸事実のように)価値から自由ではなく、他方でしか
しまた(正義のように)純粋な価値でもなく、目的的に諸価値の実現へと向けられて いる、というのである。
ラートブルフの法概念についての理論は、その創造のすべての段階において持続し 続けている。1914年の『綱要』に、1932年の『法哲学』に、1948年の『案内』に同様 な、実質的には一致している諸々の定義が見られる。その『法哲学』のなかから関連 する文章をここで引用しておくことが求められる。「法の概念はひとつの文化概念、
すなわち価値に関係づけられた現実というものの、ある価値に奉仕するという意味を 有する現実というものの概念である。法とは0 0 0、法的諸価値に0 0 0 0 0 0、法理念に奉仕するとい0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 う意味を有する現実である0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。法の概念はそれゆえに法の理念に方向づけられているの である
(1247)
。」
1932年に公刊された『法哲学』では、法理念についての理論も文言化される。グス タフ・ラートブルフはこの理念を、正義、合目的性および法的安定性という三つの傾 向の緊張に満ちた共存関係と対立関係として、アンチノミーな
(1248)
三位一体として構想す る。法理論の三つの側面を進展する思考の行程を、いまや全く簡潔かつ必要とされる 単純化において再現することが求めらる。
ラートブルフは法理念の解説を、「ところで、法の理念とは正義よりほかの何もの でもない
(1249)
」という論定をもって開始する。次いでアリストテレスの思考伝統に習い、
も、ヘーゲルの直後に生じた法哲学の衰退の後に法の実質的な諸内実について、とくに法的 諸価値について哲学した最初の人であった。」:参照。
(1246)
ラートブルフの見解によれば、価値盲目的、評価的、価値関係的および価値超克的な考 察方法が存在する。価値関係的な態度は文化諸科学の方法的態度である。これについては、
Radbruch, Rechts Philosophie, S. 221.― 価値盲目的、評価的および価値関係的な考察方法
は『方法二元論』を形成する。Radbruch, Rechtsphilosopie, S. 251, 参照。(1247)
Radbruch, Rechtsphilosophie, S. 255
(強調は原典のなかで). 法概念のこのような規定を
もってラートブルフはシュタムラーの理論から限界づけるのであって、それというのもシュ タムラーの見解によれば、法の(構成的な)概念と(規制的な)理念との間にはどのような 関係づけも存在していないからである。Radbruch, Rechtsphilosophie, S. 251, 参照。これに いては、Welzel, Naturrecht, S. 187; Tjon, Der Weg zur rechtsphilospphische Relativismus, S.29 f.― ラートブルの法概念を、どのような法秩序も正当性を要求するというように解する こともできる。Dreier, Zur gegenwärtigen Diskussion, S. 64; Alexy, Begriff und Geltung, S. 62, 参照。
(1248)
Radbruch, Rechtsphilosohie, S. 302 ff, 参照。このようなアンチノミー論について批判的
なのは、Henkel, Einführung, S. 450 ff.; Seidel, Rechtsphilosophische Aspekte, S. 103 ff.(1249)
Radbruch, Rechtsphilosophie, S. 256.
「第 3 の道」を求めて:アルトゥール・カウフマンの法哲学③ 37
正義(1250)の理念が平等の理念に基づいていることが論ぜられる。それ自体として考えられ
るならば、しかし正義の理念は、何が等しく、また何が等しくないかにとってどのよ うな基準をも含んでいない。そこからこの理念は純形式的な原理にすぎないのであ る。
法の内容的な規定へと立ち至るために、ラートブルフは法理念の第二の要素とし て、法の諸目的の領域を確定する合目的性を導入する(1251)。彼の見解によれば、法の最高 の諸価値、すなわち個人的諸価値、集団的諸価値および作品的諸価値という三位一体 というものが存在しているのである
(1252)
。どのような価値に個別事例において優先権を与 えるべきかと問われある場合にラートブルフの相対主義があらわになる
(1253)
。最高の諸価 値の具体的な比重認定は科学的な認識というものを通してではなく、政治上の信念と いうものを通してなされるのである。
科学的な法哲学が果すことができ、また果さなければならないであろう三つの課題 が存在している
(1254)
。それは第一に、望まれた目標を達成するための手段を見出すことが できる。それは第二に、法的な価値判断を内在的な無矛盾性という意味においてその 究極的な世界観的諸前提に至るまで突き詰めて考えることができる。科学的な法的価 値考察の第 3 の課題は、「そもそも思考可能な究極的な諸前提を、そしてこれととも に法的な評価のすべての視点を体系的に展開すること、法的な評価の諸体系をそれら の対立とそれらの類縁性において余すところなく叙述すること、そもそも可能な諸々 の世界観におけるトピック論の枠内において可能なひとつのトピックを構想するこ と、そしてそのようにして確かに法哲学の当の0 0システムではないが、しかしそれの可 能な諸々の完全な体系論を与えることに成り立っている
(1255)
。」
(1250)
アルトゥール・カウフマンは、ラートブルフの場合ではより広い意味における正義とよ り狭い意味における正義とが区別されなければならないことを指摘する。より広い意味にお ける正義とは、法理念と同一である。より狭い意味における正義にとっては、平等の理念が 構成的である。Kaufmann, Rechts philosophie (1997)
, S. 113の図式を参照。
(1251)
Radbruch, Rechtsphilosophie
(1997), S. 278, 参照。
(1252)
Radbruch, Rechtsphilosophie
(1997), S. 279,
参照。 ― このような最高の諸価値の間に はアンチノミーな関係というものが成り立っているというラートブルフの見解は、その弟子 の 否 認 に 行 き 当 た る。Kaufmann, Gedanken zur Überwindung (1960), S. 67; Ders., Schuldprnzip
(1961), S. 82 f, 参照。Henkel, Einführung, S. 461もまた、このような見解を批
判している。(1253)
Radbruch, Rechtsphilosophie, S. 230は、相対主義と方法二元論がその哲学の二つの基本
的な様相であることを強調している。 ― 相対主義に関しては、ラートブルフはマックス・ヴェーバーの強い影響のもとにある。
(1254)
これについては、Radbruch, Rechtsphilosophie, S. 233 f, 参照。
(1255)
Radbruch, Rechtsphilosophie, S. 234(強調な原典のなかで) , 参照。 ― これについては、
Loos, Gustav Radbruchs rechtsphilosophische „System der Systemen“をも見よ。
(2238)