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会津と八重 : 会津の八重 (特集 八重像を求めて)

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会津と八重 : 会津の八重 (特集 八重像を求めて)

著者 北垣 宗治

雑誌名 新島研究

号 105

ページ 3‑9

発行年 2014‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014140

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特集 八重像を求めて

会津と八重:会津の八重

北 垣 宗 治

 この発表における私のテーゼは次の五点です。

第一 八重の87年の生涯を通して、会津は彼女の精神であり、拠り所であり、

生甲斐でありました。

第二 八重の兄、山本覚馬は比較的早い段階で会津を超越した人でした。

彼には、今は日本人同士が戦っている時期ではないという、開明主義的な 認識がありました。

第三 会津戦争は日本人がそれまで経験したことのない総力戦で、女性も また戦闘員として参加しました。

第四 源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、朝廷と幕府の両方に尽くして感 謝された人物は、松平容保のみでした。

第五 明治政府は二回のクーデターによって成立しました。第一は公武合 体派による1863年のクーデターで、それは松平容保と会津藩に名誉をもた らしました。第二は王政復古倒幕派による1867年12月のクーデターで、会 津藩を逆賊に陥れ、会津藩に悲劇をもたらしました。

 少し歴史を遡ってみます。源義経が鵯越(ひよどりごえ)を駆け下りて、

平家を西海へ駆逐した話は有名です。私は小学生の頃、国語読本でその物

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語を習いましたが、それによると、さすがの義経も鵯越という急な坂を前 にして躊躇しました。その時佐原十郎義連という武士が進み出て「我らに はかかるところも平地に同じ。進めや」と叫んで駆け下りたので、義経を 含めて全員が駆け下り、奇襲作戦を成功させたのでした。その佐原十郎義 連は、源頼朝が奥州藤原氏を討ったおりに功績により会津を与えられ、息 子が葦名氏を名乗ったといいます。その子孫が代々会津を支配してきまし たが、伊達政宗に滅ぼされ、その政宗は豊臣秀吉に土地を没収され、会津 は蒲生氏郷に与えられました。若松というのは氏郷がつけた名前です。そ の後、上杉景勝、次いで加藤嘉明が支配した時期を経て、徳川幕府のもと では、三代将軍徳川家光の腹違いの弟、保科正之に与えられました。

 歴史家たちは、この保科正之は明君であったと高く評価します。正之は 四代将軍家綱の後見役であり、江戸城にあって徳川宗家を忠実に守り、発 展させました。江戸城に天守閣を作らせなかったのは、正之の功績です。

彼は会津藩の家老たちに十五箇条の「家訓」を与えました。その第一条は 宗家である徳川家に対する忠勤を励むべきことを謳っています。「大君之 儀、一心大切ニ可存忠勤、不可以列国之例自処焉、若懐二心則非我子孫、面々 決而不可従旨」。この家訓は会津藩の憲法でありました。

 会津藩五代目の藩主、松平容頌(かたのぶ、1742-1805)は、どの文献 を見ても「会津藩中興の藩主」と書かれています。会津全体に広がった寛 政の大一揆の直後の多難な時期を、田中玄宰(はるなか)という優秀な家 老を用いて、養蚕、漆器、酒造業を起し、会津藩の主要産業に成長させま した。それとともに、日新館という藩校をたて、10歳以上の武士の子ども を入学させ、朱子学を中心に学ばせ、剣術、槍術、馬術、水泳などの訓練 をしました。容頌は彼自身の考えに基づいて「日新館童子訓」という上下 二巻の書物を作らせ、日新館での教科書にしました。新島八重は父からこ の童子訓を教わり、晩年になってもなおその序文を正確に暗記していまし た。序文は次のような文です。

それ人は三つの大恩ありて生をとぐるなり。

父母是を生じ、君これを養い、師これを教ふ。

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会津と八重:会津の八重

父母にあらざれば生ぜず、君にあらざれば長ぜず、師にあらざれば知 らず。父母の恩きわまりなきこと天地とひとしく、父母なくんば何ぞ 我あらん。胎育のはじめより数月の間、千辛万苦をかけ出生の後は、

母はぬれたるふすまに伏し、子をばかわける褥にふさしめ、子ねむれ ば母の身も動かさず。夏は涼しく冬は暖かに、父は孕子の安穏をいのり、

衣服医薬の心くばり至らぬくまなく、食する頃より箸のとりようをは じめ行儀作法ものいいを教え、それぞれの師を選び道を学び芸をなら わし、才徳人にすぐれんことを願い、年頃にもなれば妻をめとらしめ、

家をたもち先祖を恥じしめざるよう辛苦慈愛いくばくぞや。

(吉海直人『新島八重:愛と闘いの生涯』角川書店、2012, pp. 204-05 原 文のカタカナをひらがなに直し、現代かなづかいに改めた)

儒教の教えが基本です。なかなか味わい深い家庭教育の指針であります。

私の世代ですと、このようなことを小学校の修身の時間にも先生から教わ りました。

 会津藩の教育の特徴は、9歳以下の子供にも及んでいたことです。日新 館に入るまでの、6歳から9歳までの男の子は、什という組織に組み込ま れ、「什の掟」という七カ条の掟によって集団的に教育されました。その 七カ条を締めくくるのが、有名な「ならぬことはならぬものです」であり ました。あくまで男の子を訓育するための掟でしたが、会津の武家の女性 たちも、その精神を進んで体得したように思われます。八重がこの「什の 掟」や「日新館童子訓」や、「家訓十五箇条」の中に会津の士魂を見てい たことは確実です。

 「新島八重子刀自懐古談」が吉海先生の『新島八重:愛と闘いの生涯』

という本の中に入っています。これは京都付近配属将校研究会の資料とし て八重に話してもらったものですから、いくらか割引してみる必要がある かもしれません。私は八重が忠義について次のように述べていることに注 目するものです。

君に忠を尽さなくてはならぬという事は、極く小さい中から教え込ま

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れて居りますから、皆戦に行ったら自分の命を捨てて戦を仕様と一途 に思い込んだことでございます。三つ子の魂百まででございまして、

小さい時から教え込まれた精神は堅いものでござります。

 小学校で楠正成の事や色々教えられますけれ共、尚家で小さい子供 の時からして君に忠を尽すという事を教える事が大切だと思います。

私共は藩という小さい国の為にそう教えられたのではありますが。

 一天万乗の君に忠を尽すという事を小さい中から教え込まない事に は、とてもいかんと思って居ります。私はそれを頻りに主張するので ございます。  (吉海 205-06)

私の世代の者には、この天皇に対する忠義の思想は全国津々浦々の小学 校・中学校で教え込まれたことです。天皇のためには、人間一人の命は鴻 毛の軽きに比せられました。第二次大戦における日本の悲劇の一因はここ にあります。私は会津の鶴ヶ城の開城の部分を読む時、日本の1945年8月 15日のことがどうしても思い浮かぶのです。新島八重が強調する忠義の思 想が、会津の人々の悲劇の一因であることを否定できません。

 話を戻します。幕末の京都における攘夷過激派の横暴ぶりが制御不能と なったため、徳川幕府は京都守護職という、強い権限をもった役職を新設 することにしました。島津久光はその職を狙っていたそうですが、幕府は 久光にそれをまかすと却って幕府の命取りになるかもしれないと考え、徳 川御三家に次ぐ格式をもつ会津藩主松平容保に白羽の矢をたてました。負 担が大きすぎるとして、藩の家老たちは辞退することを強力に進言しまし た。しかし例の家訓第一条を突き付けられると、容保も辞退できませんで した。それが貧乏くじであることは明白だったにもかかわらず、容保は悲 壮な決意をして受諾しました。会津藩の運命はこうしてきまったのです。

会津藩の悲劇の原因の一部はこの家訓第一条にあるということができま す。

 会津藩の中にも、もちろん恭順派が存在しました。将軍慶喜が大政を奉 還し、鳥羽・伏見の戦いで幕府側が負けると、慶喜は江戸に逃げ帰り、最 初は上野の寛永寺、ついで水戸に蟄居謹慎した以上は、会津藩としても新

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会津と八重:会津の八重

政府に服従する、という選択もありえた筈です。しかも会津藩は朝廷に対 する謀反の気持が全くないのに賊軍のレッテルを張られ、さらには仙台藩 が長州藩士世良修蔵のような傲慢な奥羽鎮撫総督府参謀の侮辱を受ける と、武士として黙っていられなくなるのもまた人情でしょう。岩倉具視、

西郷隆盛、大久保利通ら、新政府の指導者は、徳川幕府とその同調者を武 力で屈服させるという方針を固守しました。幕末の会津戦争はこのように して起こったのです。会津人が薩摩を憎むのは、公武合体派のクーデター で協力し合った薩摩と会津であったのに、第二のクーデターでは薩摩は会 津を裏切って長州と手を組み、会津を攻め落としたからであります。

 新島八重は会津の板カルタが好きで、得意でした。年末や正月には同志 社英学校の生徒を自宅に招いて、カルタ会を開きました。八重に勝てる生 徒はいなかったといわれます。(晩年になると、京大に会津若松出身の天 文学者新城新蔵があらわれ、板カルタが得意で、八重を簡単に負かしたそ うです。この新城は大下道夫人の祖父にあたり、のちに第8代京大総長と なった人です。)八重の主催したカルタ会に八重は薩摩出身の生徒を招き ませんでした。夫の襄が「八重さん、聖書は『汝の敵を愛せよ』と教えて いるのだから、薩摩の生徒も招いたらどうです」と言いましたが、それで も八重は従いませんでした。ついに1889年になって、襄の留守中に薩摩の 生徒をも招いたという手紙が前橋にいた襄に届き、襄を喜ばせました。こ れは当時前橋で襄の世話をしていた、京都看病婦学校出身の不破ゆうの証 言でもあります。

 今年の3月23日、私は会津若松を訪れ、鶴ヶ城を見学しました。新島八 重に関する展示をしていたので、説明文を詳しく読んでいきますと、板カ ルタのエピソードも紹介されていました。八重は薩摩出身の生徒を招かな かった、とあり、その次に、「夫の襄もこれを黙認した」とありましたので、

私はただちに学芸員に連絡して、この箇所は間違いだから、訂正してほし い、と申しました。そして、後には八重が薩摩の学生を招き、その知らせ を旅先で聞いた新島が喜んだ、と話しますと、学芸員はこう答えました。「新 島先生に関する間違いは訂正します。しかし、八重さんが薩摩の学生も招 いたということは、この会津では書けません」と。会津精神もここまでく

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ると、事実を曲げる力になる、と私は感じました。

 八重は昭和6年、85歳のとき会津若松を訪問し、方々のお寺に分散して いた山本家の墓を、大龍寺の墓地にまとめました。私は大龍寺の墓地を訪 ねましたところ、それはすぐにわかりました。「山本家之墓所」という石 碑の裏に、「昭和六年九月八日合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建 之 八十七歳」とありました。大龍寺の檀家総代は先程ふれました新城家 という末広酒造を経営する酒屋さんで、新城家の墓はその墓地の真ん中に そそり立っています。

 八重はこの最後の会津若松訪問のとき、会津高等女学校で講演しまし た。その講演を聞いた女学生の一人は根本さんという、いま95歳の北海道 在住の人で、昨日の朝 NHK のニュースで紹介されていました。講演会場 で演壇に立った八重は椅子を奨められてもことわり、立ったままで二時間 しゃべったということでした。内容の大部分は会津戦争の経験談だったそ うで、銃を構える身ぶりをしてみせたりしました。後輩である会津の若い 女性たちに、会津の精神を伝えようとする意欲に満ちていたということで す。

 八重を論じる人々の多くは、彼女が兄の山本覚馬から強い影響を受けた ことを強調します。たしかに大砲や銃に関して、八重は覚馬から教えられ たでしょう。川崎尚之助との結婚、さらに新島襄との結婚についても、覚 馬は八重に影響を与えたことでしょう。しかし覚馬のように、世界をグロー バルな視点から眺めることは八重にはできませんでした。八重は最後まで 会津を生きてきました。彼女は会津を超越できませんでした。キリスト教 の信仰は、理論的には、会津を超越する契機になりえた筈でありました。

 覚馬の後妻である時栄が不倫の結果妊娠してしまい、それがばれたと き、眼のみえない、体の自由のきかない覚馬は、今までずっと自分を世話 してくれた時栄だったことを思い、彼女を許すつもりでした。新島襄もこ の問題では覚馬に同調しました。しかし八重と、そして覚馬の長女で会津 生れ会津育ちのみねは、「ならぬことはならぬものです」といわんばかり に、時栄を山本家から追い出してしまいました。それを会津魂のせいばか りにしてはならないでしょう。しかし覚馬の意志にさからってまで時栄を

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会津と八重:会津の八重

追放した張本人が八重であったことは事実です。「八重の桜」は、この事 件をどのように扱うのでしょうか?

 新島なきあとの八重が裏千家の茶人として、女性で登り得る最高の地位 まで登ったことは事実です。日清、日露の戦争のとき、八重が篤志看護婦 として献身したことも事実です。またクリスチャン・レイディーとして八 重を規定しようとする人々は、涙ぐましい努力をして、八重のクリスチャ ンぶりを示す事例を集めてきました。しかし、結局のところ、故郷会津若 松で八重が示したのは会津魂でした。会津魂の全身に充満した女丈夫とい うのが、八重に関するいちばん自然な解釈であろうかと思います。

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