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魚木忠一の「日本基督教」を再考する : 挫折した 土着化神学への試み

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魚木忠一の「日本基督教」を再考する : 挫折した 土着化神学への試み

著者 李 元重

雑誌名 キリスト教社会問題研究

号 68

ページ 91‑115

発行年 2019‑12‑20

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000487

(2)

魚木忠一の「日本基督教」を再考する

―挫折した土着化神学への試み―

李 元 重

魚木忠一は、キリスト教と日本の宗教的伝統を国家主義的に混淆した「日本的キリ スト教」を提唱したものとしてしばしば批判の対象になってきた。しかし、彼が主張 した「日本基督教」は、戦時下の他の「日本的キリスト教」とは由来も、性格も異な る。魚木が提示した「基督教の日本類型」とその方法論としての「基督教精神史」は、

今日の言葉では土着化神学の試みに値するものだろう。しかし、一方では戦時下と戦 後という時代的な状況によって、他方では内在する神学的な限界によって挫折を余儀 なくされた。

Ⅰ はじめに

本稿は、同志社大学で歴史神学の教授だった魚木忠一(1892−1954)の神学 的業績に対する研究である。戦後、国家主義との癒着が批判された「日本的キ リスト教」あるいは「日本的神学」の問題と関連して、魚木もまたしばしば批 判の対象になってきた。『キリスト教大事典』の「日本的キリスト教」の項目 では、魚木が「キリスト教と皇国臣民の道の一致を説いた」と非難され(1)、笠原 芳光は魚木の理論を「超国家主義に癒着するイデオロギー」として批判した(2)。 この研究をもとにして金田隆一をはじめ、李慶愛、山口洋一、金原典子らは、

魚木の神学的な試みは戦時下における日本帝国のイデオロギーを支えるものに 他ならないと論じた(3)。そうした研究とは別の角度から見ているのが、熊野義孝

(3)

と原誠である(4)。二人とも戦時下という危機的な時代背景を考慮した上で、魚木 神学が土着化議論に寄与できると論じた。しかし、その背景を考慮すべき当為 性と、土着化神学としての可能性を十分説明したとは言い難く、魚木の他の著 作や活動などを用いて立体的に説明するものではなかった。

本稿では、「日本的キリスト教」の特徴を概略的に紹介し、魚木の中心的な 論旨を把握することによって、当時の他の「日本的キリスト教」に関する言説 とは異なる内容に魚木のそれが由来することを提示する。そして、魚木の言説 が1960年代の日本キリスト教界で議論された「土着化神学」に先鞭をつけるよ うな試みであったことを明らかにするとともに、その試みが時代的な状況と魚 木神学の内部の限界によって挫折したことを論じる。最後に、魚木の神学と教 育の意義を今日の視点から考察する。

この研究は魚木の人物史ではない。人の思想とその神学を理解するためには、

人物史的な方法論を必要とするが、この神学者の軌跡を辿ることは今後の課題 にしたい。

Ⅱ 戦時下「日本的キリスト教」と魚木忠一の言説

1 「日本的キリスト教」の問題点

魚木に関する議論を進める前に、魚木と同時代に議論された「日本的キリス ト教」に対する理解が必要である。それに対しては土肥昭夫の定義が的確だと 考えられる。

1930年代に現れた、キリスト教の教説を日本的伝統と様々な方法で関連づ けて理解しようとする試み。(中略)キリスト教を外来宗教として排撃す る一方、その日本化を求めて国策に奉仕させようとする動きも現れた。こ の相矛盾する社会的な風潮の中で、キリスト教指導者の中にはキリスト教

(4)

を日本民族の精神的伝統と積極的に関連させて理解し、これを説き明かす ことによって、キリスト教の自己弁護を行おうとした者もいる。日本的キ リスト教はその所産である(5)

土肥は、笠原芳光の研究成果を用いて

(6)

、日本的なものとキリスト教との関連 付けが多様であったことを指摘した。笠原はその関連性について、三種類の形 態を提示した。一つ目は混淆論で、その典型的な性格が確認できるのは渡瀬常 吉の『日本神学の提唱』(1934年)である。それはキリスト教と日本の伝統宗 教である神道との習合を試みたものであった。例えば、キリスト教の三位一体 論と日本の神道の神々の結合を次のように主張した。

要するに神と聖霊と基督は、創世記より我が教会史を一貫して、其三位一 体の実を示し給ひ以て世界宗教の完成に御意を止め給ふた。我が日本に於 ては、天之御中主神、産霊神、天照大御神の三位が一体と為り給ふて、我 が古典より近世史に至る迄、之を一貫して我が帝国を今日あらしめ給ふた。

而して此の両者が時満ちて今や一に合せんとするのである、否な既に相合 したのである(7)

笠原によると、このような混淆的な言説は椿真泉の『日本精神と基督教』

(1934年)、大谷美隆の『国体と基督教』(1939年)、原戍吉の『日本人の神』

(1934年)、今井三郎の『日本人の基督教』(1940年)にも見られるものだった。

二つ目は両立論で、武本喜代蔵の『日本的基督教の真髄』(1936年)が挙げ られる。武本によると、キリストは霊界の主であり、王であって、キリストの 国は宇宙的、人類的である。一方で、日本の国と天皇は、純粋な政治的・現世 的意義を有するから、二つの国は両立が可能であるとし、「日本に於ては我ら は、陛下の忠良の民であり、霊的生活に於ては救主なる唯一の神の忠僕であら

(5)

ねばならぬ」と主張した(8)。それは「カイザルのものはカイザルに、神のものは 神に」という聖句から、キリスト教と日本的なものを二元的に両立させようと する試みである。

最後は触発論で、魚木忠一の『日本基督教の精神的伝統』(1941年、以下

『伝統』と略する

(9)

)と『日本基督教の性格』(1943年、以下『性格』と略する

(10)

) に見られる。笠原は魚木の「日本基督教」がより学術的な言説であると一方で は評価しながらも、つまるところ超国家主義と癒着したものとして批判した(11)。 魚木の論旨については後述する。

金田隆一は、そうした「日本的キリスト教」を「国体論を中心とした神格化 天皇制とキリスト教信仰との関係が、より一層癒着を深めた神学的様相」とし て批判を加え(12)、魚木に対しても「難解な表現の背後にある隠された本質は、や はり天皇制に包摂された日本的キリスト教の一類型」と断定した(13)。この時期の

「日本的キリスト教」は、日本の伝統宗教と思想、そして国家主義を、キリス ト教と安易に、かつ無反省的につなぎ合わせようとしたという点で、キリスト 教の価値を損なうものとして批判されている。

このような「日本的キリスト教」は単なる神学的な言説にとどまらず、特に 植民地において国家主義的な機能を実際に果たした。1938年5月8日、朝鮮の 諸プロテスタント教会と在朝鮮日本人諸教会との連合団体として「朝鮮基督教 連合会」が結成された

(14)

。その結成にあたって、初代委員長を務めた丹羽清次郎 はこう述べた。

我国の基督教は己に内地に在っては、日本的基督教として、我国性、思想、

感情に適応したるものゝ発展進歩しつゝあるを見る然らば現下の時局に直 面しつゝある。半島基督者もまた奮って、純正なる基督教を伝へ以て報国 の忠誠を致さゞるべからず。而して之を最も有力に且つ有効ならしむるに は、各派教会信徒一致協力固く団結し、愈々日本的基督教の宣布に邁進す

(6)

るを以て唯一の道程とす、茲朝鮮基督教連合会が生まれた(15)

それは、「日本的キリスト教」が単なる一つの理論、スローガンではなく、

植民地では支配構造を強化する、強制的な理念として作用するものであったこ とを意味する。日本基督教団の成立以降、朝鮮においても朝鮮総督府の指導に よって教派合同が進められた。その際、朝鮮を訪問した富田満は、朝鮮のキリ スト者への説教中、日本基督教団の成立を「日本的キリスト教」が実現したも のとして提示し、朝鮮の教会も「一つとなって日本的性格をもつ合同教会にな るよう」勧めた(16)。穏健な言葉とは裏腹に、その実態は天皇制と融和した「日本 的キリスト教」を強いる説教であった。

このような「日本的キリスト教」は、天皇制を根幹とする日本の国家主義、

つまり天皇制国家主義に利用され、扶翼した一つの理念であった。それは戦時 下という危機的な状況の中で、日本におけるキリスト教の信仰の内容とその集 団を、日本で生まれた日本独特のものとして正当化するために、日本固有の思 想、宗教、理念、そしていわゆる日本の国体に結び合わせたものである。そう した「日本的キリスト教」の代表的な主唱者として、しばしば魚木忠一が挙げ られているが、その妥当性を検討していく。

2 魚木忠一の「基督教の日本類型」と「基督教精神史」

「日本的キリスト教」に関連した魚木忠一の主な著作は、上記の『伝統』と

『性格』である。そこで魚木が論じた内容は、二点に要約できる。一つは「日 本基督教」あるいは「基督教の日本類型」の成立とその特質、そしてもう一つ はその方法論としての「基督教精神史」というものである。

「日本基督教」に関して、魚木はハルナック(Adolfvon Harnack)とゼー ベルク(Reinhold Seeberg)のキリスト教歴史理解の影響のもとに、原始教 会の源流からキリスト教のギリシア類型、ラテン類型、ゲルマン類型、ローマ

(7)

類型、アングロサクソン類型が成立したと理解し、そのキリスト教が日本に至 って「基督教の日本類型」が成立したと主張する。それを立証するために、魚 木は日本のキリスト教の歴史について16世紀カトリックの伝達からキリシタン の時代、鎖国時代、そして明治期という三時期に区分し、各々の時期に仏教、

儒教、神道などの宗教的精神とキリスト教との接触について論じた。魚木によ ると日本人は、キリスト教の内容に関して仏教から救済宗教としての特質を、

儒教からは崇高な道徳意識を、そして神道からは創造神を把握し得た。そのよ うな日本国民の伝統における宗教的精神とキリスト教精神との「触発」(con- tact and development)によって織り出された歴史的な現象と精神の事実が

「日本基督教」である(17)。ここで触発とは「何物かに触れて啓発されることであ って、教師の教説、行為、乃至は経典を契機として、求道者の宗教的精神が発 展することを意味」し(18)、「福音によって表はされて居る宗教的絶対的なるもの に接することにより、日本民族の精神が特定の展開を生起こすることが基督教 的触発」であると魚木は述べている(19)。つまり、キリスト教の福音を日本人が学 び、理解しまた解釈するにあたって、日本人固有の宗教精神と伝統が背景にあ ったことを論じたのである。

そうした論考には、魚木のキリスト教理解がある。彼はキリスト教を「精神 的な宗教」として理解することを強調した。魚木が言う「精神」というのは、

ギリシア語の「プネウマ」(πνεμα, spirit)に相当する概念であって、キリ スト教教会の原初的体験であるペンテコステの体験から始まるものである。し たがって、精神的宗教とは、「教理を中心的なものと見る教理的哲学的宗教か ら区別する」ことであり、儒教を礼教的宗教、仏教を哲学的な宗教とするなら ば、キリスト教は「生命的な体験を中心として存続する」性格が強いという理 解である(20)。このような精神的な宗教としてキリスト教が成立するためには、教 理や制度の習得よりもむしろ「触発」による体得こそ重要であるとした。

魚木がこのような「日本基督教」を提示したのは、既存の神学概念を日本の

(8)

伝統思想の視座から我田引水のように解釈する時代迎合的な試みからではない と言えよう。キリスト教の歴史と思想史の研究者として長い時間をかけて検討 し、整理した彼なりの方法論を駆使した結果であった。魚木はその方法論を

「基督教精神史」と名付けた。

「基督教精神史」という名称は、クリューゲル(Gustav Kruger)から採用 したものだが、その中身は、何人かの複数の神学者から学んだ内容を総合した ものである(21)。魚木がこの方法論を採用したのは、究極的にはキリスト教の本質 が何であるかについて答えるためであった。その問いについて、魚木はハルナ ックを引用してこう述べている。「基督教の本質は耶蘇基督と彼の福音であっ て、これが基督教を独特にし、無双なる宗教」にしたという(22)。その福音が長い 歴史の中で各時代の環境や状況の中で順応し、働き、現れた。そのようなキリ スト教を究明するためには、教理史あるいは神学史、そして、思想史の方法論 だけでは十分ではない。魚木の「基督教精神史」とは、「信仰者の団体として の教会に生起する、啓示の理解および福音の体得の発端並びに変遷を、原始教 会より現代に至る凡ての時代を其正当なる検討の領域として、考究し記述する ものである

(23)

」。その対象は教義や神学のみならず啓示の理解、福音の体得をも 含意している。つまり、キリスト教を教理や教義、あるいは哲学の展開として よりも、人間の「生命的体験」を中心とする宗教として理解している。原始キ リスト教の福音は歴史の中で、様々な民族と文化の精神の性格、政治、思想の 類型などの複雑な影響を受け、それぞれの民族や文化の中で体得された。その 体験を「触発」と表現し、その触発の結果、類型が成立すると理解し、その理 解に基づいてキリスト教の本質を考究するのである。

この方法論には四つの特徴がある。①歴史を理解する主体は、神によって新 たにされた自我である。②合理主義を超える。つまり、すべての啓示、体験な どを相対化することによって福音の絶対性を否定することを拒み、具体的・相 対的な宗教的経験を媒介して永遠と普遍性を求める。③過去の教会を絶対化す

(9)

ることも、未来の完成を待つ進化主義的態度も捨て、永遠なるものが過去、現 在、未来のいずれにもあると認める。④「基督教精神史的循環」を呈する。そ れは福音の「源流に即して後世を評価し、後の発展によって源流の意義を明ら か」にすることを意味する(24)。現在の言葉で「基督教精神史的循環」は「解釈学 的循環」とも言えよう。つまり、一つのテキストである源流の福音をそれぞれ のコンテキストの中で読み取り、その結果からテキストの新しい意味を浮き彫 りにすることである。それは、テキストつまり福音の源流、そしてその福音を 伝達した西洋のキリスト教を絶対化することを避けて、テキストとコンテキス トの対話を可能にし、それぞれのコンテキストに命を与えるアプローチだと理 解できる。このようにコンテキストの重要性と価値を以てキリスト教の本質を 問うということは、後述するように魚木の理論を土着化神学の試みとして捉え 直す手がかりであると考えられる。

それにもかかわらず一方で、著作として『伝統』と『性格』は、戦時下日本 における天皇制国家主義との迎合という前述した批判から免れえないことも事 実である。例えば、日本の儒教的精神とキリスト教の触発を説明する際、「萬 世一系の天皇を仰ぎ奉るわが国に於てこそ、基督教が理想とする忠孝信一如が 最も完全に体得されるのであつて、之が日本類型の他に比すべきものなき特質 である」と述べ(25)、キリスト教の倫理と天皇制イデオロギーを結びつけた。1943 年4月に出版された『性格』では、魚木は「基督教の日本類型」を「臣民の 道」に帰属させ、「日本類型」が他のいかなるキリスト教の類型より優れたも のとして無理やりに評価し、その役割が「大東亜建設の聖業の完遂を期し、皇 化圏内の民の化導に親心の発動を覚ゆるもの」と規定してしまった(26)。しかし、

このような記述を根拠になされる魚木の批判に反対する論者もいた。

3 魚木忠一批判に対する反論

熊野義孝は魚木忠一を他の「日本的キリスト教」と同一視することに疑義を

(10)

はさんでいる。熊野は、自ら戦時下を乗り切って、「日本的キリスト教」をめ ぐる様々な議論の経験者の立場から語る。「日本的キリスト教」に対して、「過 渡的な非常事態におけるキリスト教神学思想の一つの断片」とみなしつつ、魚 木に関しては遠慮がちに「幾多の同情と弁疎を試みる」ことも可能だと述べて いる

(27)

。熊野がこのように同情的な態度を示すのは、魚木忠一が論考した「日本 基督教」を先述した「日本的キリスト教」とは、その発端も内容も質的に異な るものとして評価しているからである。熊野は、魚木の論考の趣旨に従うと、

「個々の語法や文体が当時の思想風景によって今日の眼から異常に感じられる こと」があるが、「それは思想家の運動として已むをえないこと」であり、む しろ「『福音の土着化』と言いなおしても、恐らく魚木論文のまま通用する」

と評価した(28)。原誠もその意味で同じ意見を示した。「魚木の所説には欧米のキ リスト教自体を相対化する視点があり、そのことは同時に日本の文化とその特 性も、そして日本に成立するキリスト教自体も、同様な意味で相対化しうる視 点を獲得」したとし、魚木がキリスト教の土着化論に対して貢献する可能性が あると見ていた(29)

本稿は、魚木に対する熊野と原の意見に的確なところがあると考える。つま り魚木の「日本基督教」を、土肥や笠原が批判する戦前・戦時下の「日本的キ リスト教」とは異なるものとして捉える。全体として魚木の思想と言説の論旨 は、そして研究者と教育家としての彼の行動は、日本の伝統思想や天皇制との 結託によってキリスト教の価値と理念を損なう部分があるものの、そこに重点 を置くべきではないとしているように思われる。

まずは、その論旨から検討しよう。魚木に対する批判はそれぞれ妥当性があ ると認めざるを得ない。しかし、そこには魚木に対する誤解もある。例えば、

笠原が批判する「僕神としての基督」は(30)、キリストの権威を天皇制に屈従させ るものでない。フィリッピの信徒への手紙2章1−11節に基づき、僕として道 を歩んだキリストこそ模範であり、それからなる「臣民の道」とは、「公に奉

(11)

仕する百官有司は己の名誉や安楽を忘れて廉潔の政治を行うべきであり、産業 人は自己の利益を第二とし産業報国を第一とすべきである」ことを意味した(31)。 しかし、魚木がここで僕の道を実践する責任が一般の民衆ではなく、当時戦争 の主役である政治家や経済の責任者にあることを指摘したことは注目に値する。

あるいは、彼は臣民の道の一つとして「忠孝信一如」を挙げ、儒教的忠孝の倫 理にキリスト教の信仰を結び合わせることによって日本のキリスト教の国家主 義的性格を固めようとした。が、そのような論理の中でも、天皇を日本国民の 父とする教育勅語的なイデオロギーまで歪曲することはしない

(32)

先述したように笠原も『伝統』については、国家主義への迎合は見られない と評価した。笠原が問題視するのは『性格』であるが、その『性格』はそもそ も学術書として『伝統』の続編のように出版されたものではない。それは1942 年9月22−25日に開かれた「日本基督教団幹部錬成会」中、魚木が担当した講 義の内容がまとめられたものであった(33)。この錬成会は、合同されたばかりの日 本基督教団が「一致結束シテ大東亜新秩序建設ノ国策遂行ニ挺身」することを 目的に企画した修養会で、講演者のほとんどが文部省宗教局長などの政府関係 者、軍部の幹部、帝国大学の教授が手配されていた。つまり、『性格』におい て魚木が述べた内容は、自分の神学的な言説というより、戦時下日本帝国の政 策に従って自ら規制し、適応したものである。筆者がそのように判断する理由 は、魚木が『性格』で「臣民の道」の一つとして「召命即報国」を挙げる際、

時代の状況を直接「政治的統制」、「統制の時代」として示しているからである(34)。 このような魚木の論旨は、当時他のキリスト者の日本精神理解と比較すれば、

その差異が明らかになる。例えば、札幌組合教会の牧師椿眞泉は、日本精神を

「日本人の国家意識、民族意識の自主的覚醒」と定義し(35)、その日本精神の根本 にあるのは「敬神の念」だと断言した(36)。椿は、日本の真の神が八百万の神々で はなく「生ける、真の、独一の、創造の、宇宙の唯一神」であるとし(37)、そこで キリスト教とその根本において一致すると述べた(38)。これは、日本精神とキリス

(12)

ト教を結合し、正当化するために、宗教間の根本的な差を無視し、歪曲した言 説である。魚木は「日本的ものと基督教的なものとを混淆」してしまうことを 強く警戒し、反対したのである(39)

藤原藤男の『日本精神と基督教』は、1939年10月初版以来、1941年まで増補 6版を出すほど、良い評判の書籍だった。藤原は、日本精神とは、日本国独特 の国体精神であり、それは皇道精神と皇室中心の精神であると主張した(40)。藤原 は前述した武本喜代蔵のような両立論の立場から、「基督教には国境はないが、

基督者には祖国のある」と言い

(41)

、キリスト者は大帝(天皇)から信教の自由を 賜った臣民として忠誠すべきと論ずるなど(42)、天皇制国家主義を極めて強調して いる。その主な根拠の一つは、神社非宗教論という政権の政策を固く擁護する ことにあった(43)。ところで魚木は、神道を「わが国固有の宗教」、「国体宗教」と して明記したが(44)、それは明治政府以来の神社非宗教論に反する姿勢であること は言うまでもない。

つぎは、彼の行動から検討しよう。魚木が本当にキリスト教と国家主義の結 合を図る者であったなら、彼が教員を務めた同志社大学文学部神学科も、大学 の研究と教育において天皇制国家主義的な色彩が現れるのが自然であろう。し かし、当時の同志社大学文学部神学科のカリキュラムには、「日本精神史」以 外には国家主義的色合いを持った科目はなかった(45)。この「日本精神史」という 科目は、魚木が担当していた科目だが

(46)

、古代から現代までの日本の文化と宗教 の流れを概説するものであり、日本の伝統思想を学生に押し付けるようなもの として見ることは難しい(47)。もう一つの手掛かりになるのは、魚木が指導した卒 業論文はもとより、この時代に同志社大学文学部神学科に提出された卒業論文 の中では、日本の国家主義に関するものは一本もなかったという事実である。

松本寛二という学生は1939年度卒業論文の想定題を、「内鮮融和事業問題につ いて」のタイトルで提出したが、それは教授会で「人種関係問題としての」と いう修飾語が付け加えられるようになっていた(48)。の卒業論文は所蔵されていな

(13)

いので、その内容を知ることはできないが、いわゆる皇民化政策あるいは同化 政策としての「内鮮融和事業」が同志社の神学科で簡単に受け入れられていな かったことは推察できる。

教育に関してもう一つ事例を挙げよう。1944年に入学した金元治という朝鮮 人学生は、在学時に魚木の自宅を頻繁に訪れ、彼と親しく交流を行い、その指 導を受けた。魚木による朝鮮人に対する差別の経験は全くなく、むしろ尊重さ れると感じ、魚木を心から尊敬したのである(49)。このように管見の限りではある が、魚木が自分の職場である大学の教育において天皇制国家主義と結託した教 育を実行した証拠は確認されないのである。

魚木が国家主義とは距離を保っていたと考えられるもう一つの証拠は、植民 地朝鮮に対する彼の態度である。1942年7月、魚木は先に言及した朝鮮基督教 連合会の招待により、連合会の第4回総会において「復活の基督」という題で 講演をした(50)。その内容は、キリスト教の出発となるイエス・キリストの復活と その歴史的な体験であった。彼は、日本人の宗教精神からなるキリスト体験の 独自性を述べたが、その講演の主な聴衆である朝鮮人にそのような日本人の体 験と精神を強いることはなかった。その意味で、魚木の「日本基督教」は、朝 鮮人に対して語られた丹羽清次郎や富田満の「日本的基督教」とは違って、植 民地に対する政治性と暴力性を持たなかったと言えよう。そして、そうした事 実から見ると、著作の中にある一部の表現を根拠に彼を「超国家主義と癒着」

した論者として決めつけるには無理があると考えられる。

Ⅲ 土着化神学の観点から

1 土着化神学の概念

つぎに、土着化神学の概念を考えてみよう。「土着化」について百瀬文晃は、

「一つの宗教が発祥の地から他の地にもたらされ、その地の文化の中で新しい

(14)

表現形態を見出すこと」と定義した(51)。百瀬によると、ユダヤ世界で始まったイ エスの福音が時間の経過と共に様々な地域と民族、文化に伝達され、その文化 を変容しつつ、新たな形に作り上げられる一つの土着化の過程それ自体をキリ スト教の歴史として見ることができるという。

西洋の宣教学の概念において土着化(indigenization)は、普遍的なキリス ト教信仰がどのような文化の形式や象徴にも「翻訳できる可能性(trans- latability)」をのみ意味する

(52)

。ボッシュ(David Bosch)も、それを西欧の植 民地主義と共に進出したキリスト教が宣教先の人々の回心をもたらすために採 用した戦略として説明した(53)。カトリックではそれに対応する言葉が、「適応

(Accommodation/Adaptation)」である(54)。しかし、前述で引用したように日 本では、「土着化」が単純な「翻訳可能性」や「適応」以上の意味として使わ れている。土居真俊は、福音の土着について「われわれの宗教的営みは、神学 的思惟や礼拝儀式をも含めて、決して単なる模倣であってはならず、われわれ が立たされている日本の歴史的現実における、イエス・キリストの福音に対す る、われわれ自身の、主体的応答の表現でなければならないのである」と述べ る

(55)

。1960年代、日本基督教団内で土着化議論に参加した一人、富里教会の牧師 であった内藤一郎は、土着化問題が「人間の精神構造の変革」とも関係がある と認識し、「福音が生命的に働くとき、人間の意識構造を変革させるものであ り、生活を根底から変えていくもの」だと述べた

(56)

。日本における土着化に対す るこのような意味合いは、欧米の宣教学の概念として indigenizationより

「inculturation(文化内受肉)」に近い。インカルチュレーションについて、ワ リゴ(John Waliggo)は、「地域教会とその教会が持っている価値を基本的な 道具と強力な手段として、キリスト教を表現しながら再形成し、それを生きる 運動」と定義した(57)。それは、日本人キリスト者が理解した土着化とほぼ同じ意 味と言える。本稿では、日本語の「土着化」を西洋の宣教学の概念として indigenization の意味ではなく、inculturation の意味として用いることにする。

(15)

そのような土着化神学の概念からすると、上述した魚木のキリスト教精神史 という方法論と彼が提示する「日本基督教」は、一つの土着化神学としての可 能性を内包すると思われる。以下では、その可能性を魚木の日本キリスト教理 解、20世紀前半の西洋キリスト教の態度の変化、魚木死後の評価、そして宣教 学の立場から検討してみよう。

2 魚木が語った神学の土着化神学としての可能性

まず、魚木の日本のキリスト教理解が、前述した土着化の概念と相応してい る。魚木によると十六世紀から十七世紀のキリシタンは仏教を媒介としてカト リックを学び、表現した(58)。巴鼻庵の『妙貞問答』はその典型的な例である。東 洋の高等宗教である仏教を通してキリスト教を受容することは、西洋にはなか った出来事である。つぎに、近江聖人とも言われる中江藤樹の儒教は、明治期 の儒教的教養を持つ日本人キリスト者に甚大な影響を及ぼした(59)。海老名弾正は

『六合雑誌』第217号において「藤樹先生は吾教の祖父であり、吾弱冠なりしと き道に志すを得たるは蕃山の集義和書の教へし所なり其後数年を経て基督を尊 崇するに至りしも蕃山に負ふ所浅からざりき(後略)」と述べた

(60)

。魚木によれ ば、宮川経輝の「牧者の神学」は、日本の儒教的精神を基として形成され(61)、小 崎弘道はその趣は異なるにしても儒教道徳と教養によって彼の福音の理解が、

西洋の神学ではできない側面から豊かなものになったという

(62)

。それは日本のキ リスト者の信仰の内容と表現、そしてその背景に日本の伝統的精神が息づいて おり、影響を与えたということであろう。つまり魚木は、日本の精神文化の一 部である宗教的伝統が、日本人のキリスト教の理解とその表現の道具にもなっ たと読み取ったのである。これは前述したワリゴのインカルチュレーションの 概念と一致している。

二点目に、西洋の教会と宗教学も、日本を含めたアジアとアフリカの新しい 教会に対する理解が変わり、その固有性と重要性を認めた。1938年の国際宣教

(16)

協議会(International Missionary Council)で、宣教先の教会に対する待遇 は明確に変わった。魚木は、そこで日本のキリスト教がもはや「宣教先」

(Mission Field)ではなく「新興教会」(Younger Churches)として認定され、

またその中でも指導的役割が与えられることを、日本類型への期待として受け 止めた

(63)

。実際に、1938年12月、インドのマドラスで開かれた会議の重要な議題 は、福音と他宗教との関係、既存の西洋の教会と新教会との関係、そして、信 仰の土着化の問題であった(64)。クレーマー(Hendrik Kraemer)は、「キリスト 教の未来が現在決まっていて、また将来決められるのは、アメリカでも、ヨー ロッパでも、アフリカでもなく、アジアである」と述べ、それを明確にした(65)。 クレーマーの『非キリスト教世界においてのキリスト教メッセージ』(The

Christian Message in a Non-Christian World, 1938)はタンバラム会議に大き

な影響を及ぼしただけではなく、それ以降も、キリスト教以外の世界的宗教に 対する欧米人伝道者の態度とアプローチを変えたと評価される(66)

西洋の宗教史学においてトレルチ(Ernst Troeltsch)は、東洋宗教に対す る理解を深めるにつれて、東洋宗教とキリスト教との類似性とその宗教固有の 価値が明らかになり、キリスト教が究極的な宗教であるという従来の立場が否 定されると主張した(67)。魚木はこれも一つの日本類型成立の正当性として受け止 めた(68)。つまり、キリスト教が西洋人だけのキリスト教である限り、福音が普遍 的だとは言い難い。西洋の伝統宗教に過ぎないのである。そこで、東洋すなわ ち日本のようにキリスト教とそもそも無縁だった地域と民族がキリスト教と接 触し、信じることによってこそキリスト教が普遍的真理であることが立証され る。西洋の教会と宗教学の認識の変化は、魚木にとっては独自性を持つキリス ト教の日本類型の可能性を示し、土着化神学的な省察を可能にしたのである。

三点目には、魚木の論旨は彼の死後、土着化議論の可能性が認められた。魚 木は、1952年インドで開かれた世界教会協議会(WCC)の中央委員会に、日 本の代表の一人として参加するが、それ以前に「日本人の生活と思想における

(17)

非キリスト教宗教の影響:キリスト教伝道のための問題と提案」という英語の 文章を書いていた(69)。そこでも、魚木は日本の宗教精神の特殊性によるキリスト 教の日本類型(Japanese Type)を明確に主張した(70)。1960年代の『基督教研 究』の編集者は、この文章が当時の土着化議論に寄与するところがあると期待 したのである

(71)

最後に、魚木の神学は宣教的目的から出発し、宣教を志向するという面で、

土着化神学としての性格を持っている。魚木は、キリスト教精神史と日本類型 を考えるようになったきっかけについてこう説明している(下線は筆者のもの)。

日本民族は、神儒仏道などの諸教によって長く、しかも根深く養はれたも のとして、宗教意識の複雑性に関しては恐らく第一と云ってよい。基督教 は此処に於て如何なる反響を惹き起し得るか。かかる宗教意識の複雑性を 持つ日本人が正直に基督教徒となり、キリストに絶対の帰依をかけ得るか。

われわれの課題から云へば、基督教に改宗しなければならぬという福音の よさを何処に見出すかは、欧米学界に於ける真実な問題である。此処に日 本類型を認めねばならぬ理由がある。発生的に考へるならば、この問題が 私をして基督教精神史の類型を考へつかしめた主なる契機であった(72)

これは魚木の言説が、日本人がどのようにしたらキリスト教を信じるのか、

あるいは日本人がキリスト教を信じるとは何を意味するのかという宣教学的な 問いに起因することを表す。つまり、日本人がキリスト教を信じられるかとい う宣教学的な問いかけに対して、キリスト教の歴史の流れとキリシタン時代か らの日本人キリスト者の信仰経験を追究、分析した結果がキリスト教精神史と 日本類型である。そのような問いは、土着化神学とインカルチュレーションが 提起する問題意識と軌を一にするものであり、したがって魚木の神学は、土着 化神学への試みと捉えることが可能であろう。

(18)

3 魚木における土着化神学の限界と挫折

魚木の神学は、戦時下の他の「日本的キリスト教」言説と区別されるもので あったとしても結局、魚木の表現を借りれば、成立したが確立の段階までには 至らなかった(73)。すなわち、「日本基督教」の特質とその背景にある日本の宗教 精神とは何かを示したとしても、その特質が福音の本質を、どのような信仰告 白として、社会に対する実践として、そして教会形成として具体的に展開した かを立証することはできなかった。西洋の神学との区別をつけ、欧米の神学で 語ることができなかった聖書理解や神学の形式と内容を提示するところまでは 進めなかった。その意味で魚木の土着化神学は、解釈学的にも、宣教学的にも 挫折したと考えられる。

その原因は、何より敗戦後、「日本的キリスト教」のような日本の国家主義 的な理念と性格を持つ主題と言説に対して、批判と反省を含む議論ができなか った状況にあろう。敗戦直後の日本のキリスト教界の関心は、日本とキリスト 教との関係に対する神学的な省察より、戦時下とは別の意味での非常事態に向 き合うことだった。特に戦時下唯一の合法的プロテスタント教会だった日本基 督教団は、宗教団体法の廃止に合わせて新体制を整える一方、旧ホーリネス系 教会、旧日本聖公会系教会、旧日本基督教会系教会などの諸教会の教団離脱な どの課題に直面した。そうした状況の中で、小崎道雄教団総会議長は、1946年 6月の第三回臨時総会後、総会の三大決議として教団規則の改正、戦災教会の 復興と教師の援助、「新日本建設キリスト運動」を掲げたが、小崎が最大の重 点を置くと宣言したのは、第三の新日本建設キリスト運動、つまり全国伝道運 動であった(74)。それは、あらゆる方面で全力をあげて信徒の数を増やす伝道に励 む運動であって、自己省察的な神学研究と教会活動の余地はなかったと考えら れる。魚木の場合は敗戦後も、キリスト教の日本類型や基督教精神史の方法論 など自分の理論を放棄しなかったが(75)、それをさらに展開する状況ではなかった と推察される。魚木が生涯を終える1954年までに、日本の伝統宗教精神とキリ

(19)

スト教を結び付けるような神学的な議論はほとんどなくなってしまい(76)、いわゆ る土着化神学が再び議論の対象となるのは1960年代になってからだった。

一方、魚木の試みが挫折したのは、彼の神学自体の限界にも原因がある。ボ ッシュはキリスト教宣教の新しいパラダイムとして、インカルチュレーション を提示しながらも、その限界も明確に指摘した。インカルチュレーション、あ るいは本稿での「土着化」には二つの原理が作用しなければならない。一つは

「土 着 化 原 理(principle of indigenizing)」で、も う 一 つ は「巡 礼 者 原 理

(principle ofpilgrim)」である。前者が福音とホスト社会が容易く融和し、交 じり合う側面を意味するとすれば、後者は福音とホスト社会が葛藤する側面を 表す(77)。そうした意味で、熊野が何度も擁護した『伝統』や『性格』が持ってい る護教論的、弁証的な性格を考慮しても、魚木の日本類型は、福音と日本社会、

そして日本の宗教精神と葛藤する可能性と実例については沈黙しているという 深刻な問題を抱えている。敗戦後連合軍の占領体制のもと、キリスト教に対す る天皇制国家権力の現実的な脅威は消えた。にもかかわらず魚木は福音と日本 精 神 の 衝 突 の 可 能 性 や、福 音 に よ る 日 本 精 神 と 文 化 の 反 省、刷 新、変 革

(transformation)については何も語らなかった。

「巡礼者原理」が作用しなかったのは、魚木の神学的な作業の中で自己反省、

あるいは戦後になってからも戦時下の活動に対する公な形の懺悔がなかったか らであろう。自己反省と懺悔、変革なしに、他人にそうした変化を求めるのは キリスト教の信仰と倫理の構造上不可能である。非常時局という状況を勘案し ても、魚木の言説が戦争を遂行する日本帝国を肯定したのは事実であり、魚木 もそれを承知したと推察される。しかし、そのような理論と活動に対する自省 は魚木から見られない。そうした自己反省の欠如によって、日本の文化と社会 に対する福音の巡礼者原理、あるいはそれに準ずる性格の思想的原理が無視さ れたことが、魚木の試みが本当の土着化神学に至らなかった理由の一つであろ う。

(20)

4 魚木における土着化神学の実り

それにも関わらず、魚木の土着化神学への試みは、別のところで実を結ぶこ とになった。それは、魚木が同志社大学で教えた学生たち、特に戦時下同志社 大学の朝鮮人留学生から現れた。徐正敏は、韓国の文脈化神学を代表する二人、

尹聖範と徐南同が同志社大学で学んだ事実に注目した

(78)

。尹聖範は、韓国神学界 では代表的な土着化神学の理論家であり、徐南同は民衆の神学の創始者の一人 である。二人の神学者がコンテキストを重視する方法論を魚木から学んだ可能 性に言及した

(79)

のは徐正敏である。ただし彼も、二人が魚木の影響を直接受けた という具体的資料は提示していない。しかし、徐南同と尹聖範が魚木の教会史 およびキリスト教思想史の授業を受け(80)、卒業論文の指導教授も魚木忠一であっ たことが戦時下の同志社大学文学部神学科の教授会の記録に残っている(81)。二人 が、日本を離れてから著作の中で魚木の影響を直接言及する資料はないが、そ の思想形成に卒業論文を指導した魚木の影響があったと推測することは難しい ことではないだろう。特に尹聖範は、卒業論文でこう述べている。「私はこの 小論文を書く中に少なからず啓発された。(中略)将来において試みるべき神 学研究に関して、従来の哲学者達の合理主義的立場から見た自由の概念は如何 なるものかを、ひと先ず限定して置くといった消極的初果を既に獲得」したと(82)。 ここで、尹聖範はすでに西洋の神学と哲学の根本となっている合理主義に向け て疑問と限界を投げかけている。学部の卒論を書く際に、すでに彼の土着化神 学の可能性は芽生えており、魚木の神学とその教育はそのことと決して無縁で はなかったように思われる。

最後に、韓国でも宗教学者としてはあまり知られていない鄭大為について紹 介する。彼は同志社大学神学科の卒論として「カルヴンに於ける神及び神の律 法の自然的認識について」という題の論文を書いたが、その内容を鑑みるに魚 木の指導を受けた可能性が高い(83)。鄭大為は、朝鮮に帰り、解放された祖国のた めにも非常に大きな働きをした。彼は、アメリカのイエール大学に留学して

(21)

1959年、『韓国社会においての宗教的混合主義』(Religious Syncretism in Korean Society)という博論を提出したが、それが、後に一冊の本として出 版される『混合主義:韓国におけるキリスト教のはじまりの宗教的文脈』であ る

(84)

。その内容には、タイトルから推察できるように、キリスト教の受容におい て、その背景として韓国の宗教文化の作用の意味を取り扱っている。鄭は、韓 国の宗教文化にすでに唯一神論的概念、救済への願望、救世主への希望などの キリスト教の特質に合致する(congenial)要素があったことを論じた(85)。具体 的な分析は、今後の課題にするにしても、そのような主張は、前述したように、

魚木がすでに日本のキリスト教について論じた内容と軌を一にする。鄭は日本 のキリスト教に関してはあまり述べていないが、魚木の方法論と論旨が彼に刺 激を与えた可能性を全く無視することはできないだろう。

Ⅳ むすび

魚木忠一は、1930年代以降、様々な形で議論になった「日本的キリスト教」

論者の代表として、しばしば批判の対象にされてきた。しかし、他の多くの

「日本的キリスト教」の主唱者が、国家主義的立場でキリスト教と日本の伝統 思想を結合するか、非論理的に両者の関係を主張したのに対して、魚木の「日 本基督教」の論旨は、明治期までのキリスト教と日本との邂逅を、日本人の宗 教精神を土壌として蒔かれた福音の種が、西洋やアジア他の民族とも区別され る独特なキリスト教の類型を形成したものとして解釈、理解しようとするもの であり、それは日本の土着化神学に相応する神学的試みであった。魚木の作業 が評価できるのは、それが戦時下のキリスト教を守るための護教論的な動機か ら始まったわけではなく、日本人がキリスト教信仰を受け入れることとは何か という宣教論的な問いから始まり、その問いかけに対する取り組みの中でキリ スト教とは何か、という本質的な問いを抱いていた点であろう。その根本には、

(22)

西洋の神学的方法を採用しながらも、日本というコンテキストとその歴史に忠 実であろうとした神学的誠実さがあったと言えよう。この神学的誠実さは、現 在の我々にも課題となるものである。それはつまり、現在の日本人がキリスト 教を信じるということは何を意味するのか、今日の日本社会において伝道、宣 教とはどのようなものなのかということを明らかにすることである。現代の日 本人は、魚木の時代の日本人からも、経験においてすでに大きく隔たっている。

日本の歴史と社会は、魚木が神学的な作業を展開できなかった敗戦期をへて、

戦後74年の経験を積み重ねてきた。その意味で、魚木忠一とその時代のキリス ト教を研究する意義は、日本のコンテキストと歴史に対する忠実さをもって、

戦後74年のキリスト教の歩みを理解、分析し、現在における変革(transfor- mation)を求め、未来に対する希望を掲げ持つ神学と信仰の共同体を形成す ることであろう。

本稿は、第19期第3研究会の研究成果として、2018年9月11日、日本基督 教学会第66回学術大会(於:南山大学)において同題目で発表した内容を修正 加筆したものである。

(1)「日本的キリスト教」『キリスト教大事典』教文館、1986年。

(2) 笠原芳光「『日本的キリスト教』批判」『キリスト教社会問題研究』第22号、1974 年、134頁。

(3) 金田隆一『昭和日本基督教会史』新教出版社、1996年、377頁。李慶愛「『日本的 キリスト教』をめぐって―魚木忠一の『日本基督教の精神的伝統』についての一 考察」『折尾愛真短期大学論集』第41号、2007年、3−18頁。山口洋一「『日本的 キリスト教』の考察」『「日本的キリスト教」を超えて:信州夏季宣教講座』いの ちのことば社、2016年。KANAHARA Noriko, “Japanese Theologian Uwoki Tadakazu and His ʻJapanese Religious Spiritʼin Wartime,”Secularization, Religion and the State: UTCP Booklet 17, Tokyo:UTCP, 2010, pp.85‑95.

(4) 熊野義孝「日本的キリスト教」『熊野義孝全集:第十二巻日本のキリスト教』新

(23)

教出版社、1982年、648−699頁。原誠『国家を超えられなかった教会:15年戦争 下の日本プロテスタント教会』日本キリスト教団出版局、2005年、39−71頁。

(5) 土肥昭夫「日本的キリスト教」『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年。

(6) 笠原芳光「『日本的キリスト教』批判」、114−139頁。

(7) 渡瀬常吉『日本神学の提唱』ほざな社、1934年、48−49頁。笠原芳光、同書、

122−123頁から再引用。

(8) 武本喜代蔵『日本的基督教の真髄』日英堂書店、1936年、273−274頁。笠原芳光、

同書、128頁から再引用。

(9) 魚木忠一『日本基督教の精神的伝統』基督教思想業書刊行会、1941年。

(10) 魚木忠一『日本基督教の性格』日本基督教団出版局、1943年。

(11) 笠原芳光「『日本的キリスト教』批判」、134頁。

(12) 金田隆一『昭和日本基督教会史』新教出版社、373頁。

(13) 同書、377頁。

(14)「朝鮮基督教連合会」『福音新報』第2202号、1938年5月19日。

(15) 丹羽清次郎「時局と内鮮基督者」『青年』第三輯、1938年7月。富坂キリスト教 センター編『日韓キリスト教関係史資料 II:1923‑1945』新教出版社、1995年、

640頁。

(16)「日本的キリスト教の樹立と教派合同問題(三)『基督教新聞』第二号、1942年10 月14日。

(17)『伝統』、6頁。

(18) 同書、4頁。

(19)『性格』、6頁。

(20)『伝統』、3頁。

(21) 同書、15頁。

(22) 同書、8頁。

(23) 同書、15頁。

(24) 同書、15−17頁。

(25) 同書、165頁。

(26)『性格』、30‑31頁。

(27) 熊野義孝「日本的キリスト教」、649頁。

(28) 同書、652−653頁。

(29) 原誠『国家を超えられなかった教会』、66頁。

(30) 笠原芳光「『日本的キリスト教』批判」、133頁。

(31)『性格』、19頁。

(32) 同書、21−22頁。

(33)「日本基督教団幹部錬成会実施要綱」『教団時報』1942年8月15日。

(24)

(34)『性格』、28−29頁。

(35) 椿真泉『日本精神と基督教』東京堂、1934年、38頁。

(36) 同書、49−50頁。

(37) 同書、52頁。

(38) 同書、64頁。

(39)『伝統』、6−7頁。

(40) 藤原藤男『日本精神と基督教:他二篇』ともしび社、1941年、2−3頁。

(41) 同書、11頁。

(42) 同書、51頁。

(43) 藤原の神社非宗教論は、同書37−46頁。

(44)『伝統』、167頁。魚木がここで意味する「神道」は、政府の分類による神道系新 宗教ではなく、国学神道を含めた、日本伝来の神社神道である。

(45) 原誠・仲程愛美「戦前の同志社神学部で学んだ韓国人留学生に関する研究」『基督 研究』第73巻1号、2011年、31−32頁の表を参照。

(46) 同志社大学文学部神学科の『教授會記録:自昭和十七年四月。至昭和十九年三 月』、9月13日の別紙。

(47)『魚木忠一資料』同志社大学神学部所蔵、Box003‑001, 袋004, Item002. “History of the Japanese Thought:Cultural and Religious Currents in the Past Japan.

「日本精神史」科目の英語講義案として推察される。

(48)『昭和十三年一月起教授會記録大学神学科』、昭和拾参年十二月五日記録別紙。

(49) 金元治牧師とその妻、朴貴洙氏とのインタビュー、2018年9月23日。金元治氏は、

1922年、咸鏡北道に生まれ、渡日し、同志社大学神学科卒業後、神学研究科に在 学中在日大韓基督教会大阪西成教会の牧師として赴任し、引退まで長年働いた。

(50) その講演の内容がパンフレットになった。魚木忠一『復活の基督:躍動せる永遠 の生命』朝鮮基督教連合会、1943年、1−31頁。

(51)「土着化」『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002年。日本におけるキリスト教の 土着化については、武田清子『土着と背教』(新教出版社, 1967年)を参考するこ と。

(52) Don Fanning, “Contextualization,”Trends and Issues in Missions. Paper 5.

2009, p.1.

(53) David Bosch,Transforming Mission: Paradigm Shifts in Theologyof Mission, NY:Orbis Books, 1991, p.448.

(54) “Accommodation/adaptation,”Dictionary of Mission Theology, Downers Grove:IVP, 2007.

(55) 日本基督教団信仰職制委員会編『福音の土着』日本基督教団出版部、1962年、40 頁。

(25)

(56) 伊藤恭治・相沢良一『福音は土着できるか』日本基督教団中央農村教化研究所、

1963年、43頁。

(57) “Inculturation,”Dictionary of Ecumenical Movement, 2 ed. Geneva: WCC Publications, 2002.

(58) 魚木忠一「我が国に於ける基督教と仏教との思想的交渉」『基督教研究』第14巻 2号、1937年、124−161頁;「我が国に於ける基督教と仏教との思想的交渉−

二」『基督教研究』第14巻4号、1937年、340−368頁;「我が国に於ける基督教 と仏教との思想的交渉−三」『基督教研究』第15巻4号、1938年、339−367頁。

(59) 魚木忠一「中江藤樹の宗教思想と其史的意義」『基督教研究』第15巻1・2号、

1937年、79−116頁。

(60) 同書、113頁。

(61) 魚木忠一「宮川経輝先生と日本基督教神学」『基督教研究』第21巻1号、1944年、

6−7頁。

(62) 魚木忠一「日本基督教精神史に於ける小崎先生」『基督教研究』第22巻2号、1946 年、148−149頁。

(63)『伝統』、21−22頁。

(64) Kenneth R. Ross et al ed.Ecumenical Missiology: Changing Landscapes and New Conceptions of Mission, Geneva:World CouncilofChurches, 2017, p.50.

(65) Hendrik Kraemer,The Christian Message in a Non-Christian World, 3 ed.

London:James Clarke, 1956, p.40.

(66) Kenneth R. Ross et al ed.Ecumenical Missiology, p.51.

(67) Ernst Troeltsch, “The Dogmatics of the History-of-Religoius School(1913),”

Religion in History, Edinburgh:T&T Clark, 1991, p.94.

(68)『伝統』、21頁。

(69) Tadakazu Uwoki,「THE INFLUENCE OF NON-CHRISTIAN RELIGIONS ON JAPANESE LIFE AND THOUGHT⎜Problems and Suggestions for Christian Evangelism」『基督教研究』第32巻4号、1963年、13−38頁。

(70) 同書、34頁。

(71) 同書、13頁。

(72) 魚木忠一「基督教精神史の方法に就て」『文化史学』第2号、1951年、31頁。

(73)『伝統』、228頁。

(74)「伝道の教団」『日本基督教団教団新報』第2550号、1946年6月12日。

(75)「日本基督教精神史に於ける小崎先生」『基督教研究』第22巻2号、1946年12月で も日本類型の重要性を強調し、『基督教精神史研究』(全国書房版、1948年)には、

さらにキリスト教精神史の方法論で厳密にカルヴァンの神学を論じた。1951年の 論文、「基督教精神史の方法に就て」ではキリスト教精神史とキリスト教の日本

(26)

類型がより分かりやすく述べられている。

(76) 一つ、加藤一夫の『日本的基督教』( 岳本社、1948年)という著作があるが、そ れは神学的な考察でもないし、混淆的な立場でキリスト教の日本化を主張してい るので議論の対象にならないと言える。

(77) Bosch,Transforming Mission, p.455.

(78) 徐正敏「同志社と韓国神学:尹聖範と徐南同を中心に」『基督教研究』第74巻1 号、2012年、1−26頁。

(79) 同書、21頁。

(80)『昭和十三年一月起教授會記録大学神学科』昭和拾四年六月拾弐日、別紙。

(81) 同資料、昭和拾四年壱月二十九日。尹聖範の場合は、主指導教授は大塚節治で、

魚木は副指導だった。

(82) 尹 恒「カントの根本悪」1941年、同志社大学卒業論文、11頁。尹 恒は、尹聖 範の日本在留時の氏名。

(83) 鄭大為「カルヴンに於ける神及び神の律法の自然的認識について」、1940年、同 志社大学神学科卒業論文。

(84) David Chung,Syncretism: The Religious Context of Christian Beginnings in Korea, NY:State University of New York Press, 2001, p.xii.

(85) Ibid., p.179.

(第19期第3研究会による成果)

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