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博士学位申請論文審査報告書 論文題目:

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Academic year: 2021

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早稲田大学大学院日本語教育研究科

2014年2月

博士学位申請論文審査報告書

論文題目:

中国の日本語教育と大学日本語専攻生の対日認識の形成に関する研究

日本語教育における「個人」の意義

申請者氏名:喬 穎

主査 宮崎 里司 (大学院日本語教育研究科教授)

副査 戸田 貴子 (大学院日本語教育研究科教授)

副査 鈴木 義昭 (大学院日本語教育研究科教授)

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本論文は、中国の大学における日本語学習者の対日認識の生成、変容の過程を追っ て、日本語を専攻する学生の「対日認識」の形成・変容に、どのような影響を及ぼし ているのかを検証した論考である。具体的には、中国における従来の日本語専攻教育 の発展は、決して大学教育の「内在的な要請」や「学習者の需要」に応じるために導 かれたものではなく、実質的には「市場経済体制」の中で生み出された産物であると いう限界を示すとともに、社会構成員の個々人に、実用主義的な日本語教育だけでは、

自らの責任と力量で当面する問題を解決しようとする「知性」(intelligence)の形成 と発達にはなりにくく、国家主導という枠組みの中で、個々人が、イメージの再構築 の場としての日本語学習を捉えるという視点の転換が求められると指摘している。さ らに、結論では、中国における大学専攻日本語教育は、学習者の成長に向けて、個人 的体験を豊かにしていくことを保障できる教育活動を展開すべきであると提言してい る。以下に各章を概説する。

第 1章の「研究の背景と目的」では、中国に特有な価値観あるいは愛国感情を背負 う日本語専攻生の対日認識の形成過程を検証するとともに、以下に挙げる3点を課題 として解明を試みている。

1.国家主導体制における大学日本語教育が目指す、あるいは目指してきた教育理 念・方針内容・教育方法などの内実について、歴史的な観点からこれを概観し、

総括する。

2.「教育的介入」と筆者が名づける教育活動が、大学日本語専攻生の対日認識の形 成にどのような影響を及ぼすのかを考察する。

3.学習者の日本語学習における「個人」の意味について検証する。

続く第2章では、従来の当該先行研究におけるいくつかの問題点を指摘するととも に、十分な検証に至っていない点について言及している。中国における大学教育や外 国語教育、及び日本語専攻教育の先行研究をレビューし、その功績と限界を指摘した。

そして、そうした研究を概観することで、外国語教育で何を涵養しようとしているの かについて、「教養的な側面」と「実用的な側面」両面からの考察を試みている。中 国の高等教育機関の日本語教育は、第二外国語としての「公共外国語」を除けば、一 般的に四年制大学の中で、日本語が専門科目として設置されている「日本語学科」の ことを指しているが、実際には、ことばを道具としか取り扱わず、学習者の内面的な 成長が等閑視されてきたことを、批判的に論じている。とくに、90年代の後半から急

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激に進展した大学教育大衆化を背景とする日本語専攻の増設に伴い、日本および日本 文化に興味や愛着を持たず、日本に対するマイナスのイメージを抱く学習者は、日本 語学習を通して、「知性の形成」などは期待せず、単なるスキルトレーニングを目標と する傾向に注目した。

第 3章の「中国の大学日本語専攻教育の歴史的変遷」では、2章で取り上げた課題 を、日本語教育史から概観している。主に1949年から2012年上半期に至る、およそ 60年間の歴史に主眼を置き、中国の外国語教育において重要な役割を果たしてきた日 本語専攻教育がなぜ再開され、またどのように発展してきたかについて通時的に考察 している。3.1では、大学日本語専攻教育の発展過程を「人材育成」の目標変遷の歴史 に沿って、半世紀以上の歴史を、①1949から1977年までの「政治主導時代」におけ る「特定分野の実務人材」の養成時代、②「改革・開放」政策とともに、急速の経済 発展を遂げてきた1978年から1999年までの経済発展に奉仕するための「エリート人 材」育成の時代、および③市場経済化、高等教育大衆化の潮流が始まる 1999 年から 2012年上半期までの「複合型人材」の養成時代、という3時代に区分した。これらを、

時代背景、日本語教育の特徴、人材観、言語教育観、教科書内容、文法説明のしかた、

練習問題の設定、カリキュラム、教材編集者の構成、教授法、日本受容に分別して、

日本語専攻教育の各時代の特徴を総合的に考察している。

研究方法論に関する記述章である第4章では、上海市の総合大学であるA大学日本 語学科の学習者(3年生および4年生12名)を調査協力者とし、大学日本語専攻生の 対日認識の形成と変容に関する半構造化インタビュー調査を行い、その結果を「修正

版M-GTA」によって分析した。その結果、日本語学習者が、それぞれの個人的体験を

通じて、新たな対日認識が形成され、動的な態度の醸成も見られることが明らかとな った。また、M-GTAによって、日本語専攻生の対日認識の変容実態(<どのような>)

を分析すると、【対日認識の先入観】、【日本語学習の態度】、【均質かつ画一化された「日 本語文化観」】、【日本語学習における対日イメージの生成】という四つのカテゴリーが 生成されていることが明らかになった。

そして、第5章の「総合的考察」では、第4章の調査結果に基づき、日本語学習に よる「個人」の確立と国家教育体制との葛藤や矛盾を検討しながら、学習者の対日認 識の形成過程(<どのように>)を中心に考察した。まず、5.1では、「国家」の枠内 における言語教育に存在する「外国語=道具」という発想を批判的に見ることによっ

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て、実用性を最終目標とする大学日本語専攻教育の限界を、学習者が「受け身」であ るという点を指摘するとともに、授業内容が「対象」となれば、新しい価値観の創造 による「認識」の形成は不可能であると指摘している。さらに、大学日本語専攻生の 対日認識の変容の過程を、三段階に分類した。第1段階は、母文化で培われ、すでに あった認識によって世界がカテゴリー化する「固定的イメージ化」の段階、第2 段階 は、「流動的イメージ化」の段階で、個人の能動的な活動によって、最初に形成された カテゴリーと新たなカテゴリーが併存する段階、そして、新たな認識によって世界が 新たにカテゴリー化されるようになる「イメージの再構築」の段階を第3段階として いる。また、各段階における自己と他者の「関係性」については、「社会的他者」と「社 会的自己」の関係から、「個人的他者」と「個人的自己」の関係までの変容が起きてい ることも検証され、筆者は、これを「自己の解体と乗り越え」(脱構築と再構築)のプ ロセスと名付け、彼らの「対日認識」の形成過程は、彼らが「日本語を学ぶ」ことの 意味を捉え直し続ける過程であるという認識を示している。

最終章である第6章では、「本研究の課題と展望」と位置付け、本研究で明らかにな った点をまとめている。第一に、学習者の対日認識の形成と変容は、彼らの日本語の 学習を通して実現され、より客観的で、柔軟性のある対日イメージの形成がなされた ことを明らかにしている。また、その過程において、学習者個人の能動的な役割を見 失ってはならないということも示唆された。第二に、日本語学習者の対日認識の形成 過程は、彼らが「対日イメージ」を捉え直しつづけ、自己を変容させる過程であると 同時に、新たな価値観や人格を形成する過程でもあることが解明できた。そして、第 三に、「見えにくい」あるいは「見ようとしない」学習者の変容の過程、およびそこに 影響を及ぼす要因を明らかにした。大学における日本語教育は、「国家利益」の追求か ら、個々人の「人間の成長」と結びつく教育理念への転換が求められる。教育の課題 は、最終的に政治や経済の観点から論じられるのではなく、教育学自体に立ち戻るべ く方向転換を図る必要があるという捉え方を示した。

最後に、本研究の諸課題が記されている。第一の課題として、教育する側にいる教 師は「支援」と「働きかけ」の役割を果たすべきであるが、学習者だけに焦点を絞っ たため、教師の調査を行うことができなかった。第二として、インタビュー対象者の 代表性に関する問題である。調査方法が面接法であったために、量的にデータが不足 していることは否めない点にも言及し、データの充実度とその量的分析重視の立場か

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ら、一般論を引き出すには不十分であるとしている。第三は、語学教育である日本語 教育を、大学教育としてどう受けとめ、かつ社会における必要な「教養」としてどう 融合させていくか、自らのクリティカルな人間の育成が、大学の大衆化時代から次の グローバル化時代に向けた価値観につながるが、研究成果が現実的な問題を解決する までには至っておらず、国家と個人の間にある教師の取り組みについての検証が十分 ではなかったことが課題として挙げられている。

以上、本論文の概略を基に、審査対象として検証すると、現在の中国における日本 語教育の根本的な課題、および歴史的な経緯の中で醸成されてきた牢固としてある構 造的な問題に迫り、そうした課題を、先行研究や独自の視点から、意欲的に筆致して いる点が高く評価できる。とくに、中国の日本語教育と大学専攻学生の対日意識の形 成とにどういう繋がりがあるのか、中国の日本語教育における「個人」、日本語学習者 における「個人」の意味とはどのようなものか、さらに、国家(政治)主導の日本語 教育によってもたらされた諸問題、とくに、「愛国」と「反日」の葛藤から解放される プロセスを明らかにしようとする意欲的な言及を試みている点などが挙げられよう。

従来の研究では、中国出身の学習者は教師の依存性が強く、学習者オートノミーの欠 如がしばしば指摘されていたが、日本語学習者の「受け身」の学習態度は、彼らがオ ートノミーを持っていないわけではなく、教育制度の束縛に起因しているという点は、

教師や学習者といったアクターだけを問題視するのではなく、教育部が主導する教育 政策に依拠するものであるとする観点からは、制度のドラスティックな改革が必要で あるとするダイナミズムを感じる。それだけにとどまらず、学習者が国家システムに おける教育の限界とジレンマを内側に抱きながら、個人としての「知性の形成」過程 を明らかにすることは、大学教育における「日本語を学ぶこと」の意義についての再 検討を迫る筆者の考え方は、正鵠を得ている。

反面、今後の課題とすべき点もいくつか確認された。中国の高等教育機関における 日本語教育が孕んでいる諸課題が、市場経済体制や大衆教育に移行した結果であると 結論付け、イメージの再構築の場としての捉え方が重要であるとする論法は、分かり やすいが、体制によって生み出された産物であり、そこに限界があるという主張に基 づけば、高等教育機関の大衆化や実利主義的な日本語教育も、そうした体制が継続す る限りにおいては、大きな変化を期待することは難しいと言わざるを得なくなってし まう。換言すれば、「スキルやツールとしての日本語ではなく、学習者に必要なのは『人

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間としての成長』である」という主張は理解できるが、具体的にどのようにしてそれ が達成できるのか、また、国家や大学という組織上の様々な制約の中で、教師にとっ て何ができるのかという点が見えにくいため、結論がやや弱い印象を拭えなかった。

また、本研究が指摘する日本語教育における問題の所在は、むしろ大学教育の再生に も関わる問題ではないだろうか。第5章において、「中国の大学日本語専攻学生に望ま れる能力と資質」(図5.3)として、「学習能力」、「状況調整能力」、「自己調整能力」が 挙げられているが、これらの能力は、すべての大学専攻の学生にも共通し、在学中に 習得すべき不可欠な能力と言えるのではないだろうか。そうした意味では、中国の高 等教育機関の課題を、エージェントである、中国教育部の政策課題も含めて、より高 次元に昇華して論究する帰納的な論述の取り組みが望まれた。加えて、「言語学の視点 から教育を捉えることではなく、「教育」の視座からことばを教えることを捉えられな いかという考えに至ったのである」としながら、本研究は、学習者だけに焦点を絞っ たため、教師対象の調査が実施されておらず、その役割に言及できなかったことは、

ある意味矛盾した論旨になっているように読み取れる。教師の視点に立って、中国の 教育システムや教師の指導について丁寧に検討していく作業が不足しているように捉 えられるので、今後の重要な課題としてほしい。なお、論旨の整合性に関して、筆者 は、今後の課題として、研究方法論について、「データの充実度とその量的分析重視の 立場から、一般論を引き出すには不十分である」と記述しているが、一方では、「本研 究の質的な調査手法で実証できたのは、人間の認識の変容の中には学習が存在してい ることである」とも記されており、この辺りの一貫性にも留意してもらいたい。

以上、さらに考察されるべき今後の課題は残されているとしても、本論文は、優れ た学術研究として高く評価することができる。よって、本論文をもって日本語教育学 の博士学位論文に値するものと判断できる。

参照

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