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博士学位申請論文概要

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早稲田大学大学院日本語教育研究科

博士学位申請論文概要

論 文 題 目

日本語教師性を構築する制度と日本語教育

―教師主体の日本語教育の構想に向けて―

申 請 者

牛窪 隆太

2 0 1 4 年 7 月

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本研究 は,日 本語教 育の内 部にお いて, 日本語 教師が ,自身 に求め てきた 教師と しての あり方を 「日本 語教師 性」と して議 論の俎 上にの せ,今 後,社 会に新 たな価 値を生 み出す ために必要とされる日本語教師の主 体性の あり方 につい て論じ るもの である 。

第 1 章 問題の所在と研究の目的

1 章では ,本 研究に おいて 日本語 教師の 主体性 を考え るにあ たり,「 日本語 教師性 」を問 題化しな ければ ならな いと考 えるゆ えんに ついて ,自身 の日本 語教師 として の現場 経験,

日本語教 育で主 張され ように なった 連繋を めぐる 議論, そして ,日本 語教師 につい ての研 究の三点から説明した。

まず,自 身の日 本語教 師とし ての経 験から は,現 場にお いて, 教師と して求 められ るあ り方を理 解し実 践する 中で, 教師と しての 自身の 主体性 のあり 方に疑 問をも つよう になっ たこと,そ してそ の後,新人日 本語教 師を対 象に実 施して いたイ ンタビ ュー調 査にお いて,

現場の教 師から 聞かれ た「日 本語教 師は孤 独であ る」や 「今ま で日本 語教育 の考え を話し たことが ない」 などの 声から ,日本 語教育 におい て,つ ながれ ない日 本語教 師のあ り方そ のものを 問題化 する必 要があ ると考 えるよ うにな ったこ とを説 明した 。二点 目とし ては,

近年の日 本語教 育の「 連繋」 をめぐ る議論 があっ た。日 本語教 育にお いては ,近年 ,教師 や教育機 関の連 繋(ア ーティ キュレ ーショ ン)の 議論が 盛んに なって いる。 教師が 連繋し 協働する ことに よって ,今後 ,日本 語教育 のあり 方を見 直さな ければ ならな いとい う議論 は,翻って いえば ,今ま で日本 語教師 はつな がって こなか ったこ とを示 してい るとい える。

さらに,1 990 年 代から 盛んに 主張さ れてい る日本 語教育 におけ る「自 己研修 型教師 」の議 論におい ても,教師の 関係性 は問題 にされ ておら ず,「教 師個人 」が自 身の実 践にお いて成 長するこ とが目 指され ている 。これ らのこ とから 浮かび 上がっ てくる のは, 今まで ,日本 語教師は連繋できない構造におかれ てきた のでは ないか という 疑いで あった 。

さらに 三点目 として ,日本 語教師 研究に おける 議論が ,教師 の交渉 や葛藤 ,拘束 性にお ける主体 性への 注目と してな される ように なって きたこ とがあ った。先 行研究 におい ては,

日本語教 師の成 長概念 への疑 問から ,成長 をアイ デンテ ィティ 交渉へ とおき 直すこ とが提 案されて いた。 そして ,現場 の教師 は,言 語政策 や教育 機関の 方針な ど制度 的制約 の下で 独自の意 味世界 をもち ,教育 実践へ のスタ ンスを 動態的 に変化 させて いるこ と,さ らに,

国内の日 本語教 師につ いて, 日本語 教師が ,社会 的な期 待と拘 束の中 で多様 な葛藤 を感じ

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ながら, 主体的 調整を 行って いるこ とが示 されて いた。 しかし その一 方で, 国内の 日本語 教育を考 えた場 合,先 行研究 におけ る主体 性のと らえ方 ,また その解 決の方 法には 問題点 も指摘で きた。言語教 育にお ける Age ncy を めぐる 議論で 指摘さ れてい るよう に,言 語教師 のあり方 を考え るため には, 常に制 度の制 約を考 なけれ ばなら ない。 教師の 主体性 とは両 義性をも つもの であり ,今後 の日本 語教師 の主体 性のあ り方を 考える ために は,日 本語教 師を拘束 してい る力が どのよ うなも のであ るのか につい て検討 しない わけに はいか ない。

以上のこ とから ,本研 究にお いて日 本語教 師の主 体性を 考える にあた って, 制度の 拘束性 を理解し た上で,そこに 生まれ る日本 語教師 の主体 性の意 味を問 い直す 必要が あると した。

以上 3 点を説 明し,本研究 の目的 を,「今 後,日 本社会 におい て日本 語教師 が新た な役割 を構想す るため に,現 在,日 本語教 師が自 身を拘 束して いる教 師とし てのあ り方を 「日本 語教師性 」とし て批判 的に検 討し, その上 で,新 たな役 割を構 想する ための 教師の 主体性 のあり方 を示す こと」 とした 。本研 究で議 論の射 程とな るのは ,国内 の教育 機関ま たはそ れに準ず るよう な形で ,複数 の教師 がチー ムティ ーチン グでコ ース運 営に携 わる日 本語教 育環境に おける ,母語 話者教 師につ いての もので ある。 本研究 の研究 目的に 照らし て,以 下の 4 つの研究課題を掲げ,2 章以 降の各 章で議論 した。

Ⅰ.日本 語教師 にとっ て拘束 性とは どのよ うなも のであ るのか 。その 拘束性 に力が 与えら れ,再生 産され る理由 はどの ように 考えら れるの か。そ の中で の日本 語教師 の主体 性 とはどのように考えられるものであ るのか 。

Ⅱ.日本 語教師 は,拘 束の中 で,自 身に対 してど のよう な教師 である ことを 求めて きたの か。またそこには,どのような問題 がある と考え られる のか。

Ⅲ.現場 におい て,日 本語教 師は, どのよ うな制 約の中 で教育 実践を 行って いるの か。そ こに見出せる教師の主体性とはどの ような もので あるの か。

Ⅳ.日本語教師が,他の教師との関 係性に おいて ,教師 として のあり 方を変 化させ ていく ためには何が必要であるのか。

第 2 章 日本語教師性を構築する制度と主 体

まず研究課題Ⅰについて,2 章に おいて ,制度論 ,主体 論の議 論にお ける拘 束性の 議論 を参照しながら,日本語教師にとっ ての拘 束性と そこに 生まれ る主体 性の意 味につ いて理

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論的に考察した。先行研究において ,日本 語教師 は,社 会的に 求めら れる役 割規範 の中で 葛藤を抱くとされていた。しかしな がら, それに 加えて 考えな ければ ならな いのは ,日本 語教師が「言語」を扱うことによっ て既に 強い規 範にさ らされ ている ことで あった 。日本 語教育において,教授内容と教授方 法は, 同じ「 言語」 によっ て制限 されて いる。 このこ とから,ま ず日本 語教師 を拘束 するも のとし て「言語 」の問 題があ り,中立 的な「日 本語」

を使えるようになることと,それを 教える ための 教授技 術とい う規範 が存在 するこ とを指 摘した。

制度論において,制度とは,「見える 制度」 と「見 えない 制度」 という 分類か ら説明 さ れる( 中村雄 二郎 )も のであ り,制度に 拘束性 が生み 出され るのは,「倫理 」の問題 である とされて いた(三木 清)。また ,個 人が抱 く観念 が ,客観 的に実 在する と前提 される ことに よって,拘束性 が個人 の間に 生まれる と説明 される もので もあっ た(盛 山和夫)。拘束 性は,

「暗黙の 約束事」(中村 雄二郎 )とし て存在 するも のであ り,「対 応規則 」(盛 山和夫 )が存 在することによって生じるものであ るとさ れてい た。

日本語教育において,「暗黙の約束事 」とは ,何で あるの か。日 本語教 育にお いては , 日本語を勉強したい学生に,日本語 を教え たい日 本語教 師が, 日本語 を教え るとい う自明 の「対応規則」が存在している。こ のこと から, 言語を もつも のとも たない ものと いう関 係性において,日本語教師の役割と は,学 生に正 しい日 本語を 教える ことに 固定さ れるも のであり,教師と学生の間に強固な 役割関 係を生 み出し ている 可能性 を指摘 した。

一方で, 実際の 教育場 面を考 えた場 合,教 室に集 まる留 学生た ちは, 日本語 教師に とっ て予測不可能な存在であり,学生た ちが経 験して きた学 校文化 も同一 のもの でない 。つま り,多様な背景をもつ学生たちを前 にして ,日本 語教師 は自身 の教師 として の正し いあり 方を,学生との間には想定できない と思わ れた。 このこ とから ,日本 語教師 は自身 の役割 を,日本語を教えるものとして固定 化する 一方で ,日本 語教師 として のあり 方は, 他の教 師との間に想定されるものであるこ とを指 摘した 。

主体論 におい て,主 体とは,権力に 服従化 する過 程に生 まれる もので あり,「服従 化=主 体化」と してと らえら れるも のであっ た(フ ーコー )。しか し再生 産の過 程にお いては ,「共 犯者」の存在 が指摘 されて いた(ブ ルデュ ー&パ スロン)。つ まり ,お 互いが お互い に対し て,そのような主体であることを押 し付け 合うこ とによ って社 会的価 値体系 が再生 産され るという関係にあった。これらのこ とから ,教師 の主体 性につ いて, 求めら れるあ り方に

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「応じる主体性」ではなく,「逸脱す る主体 性」と して考 える意 味を主 張し,「逸脱 する主 体性」を「 共犯性」の中で とらえ る必要 性を指 摘した。その一 方で,「 逸脱す る主体 性」に は,二つの問題点が予想された。一 つには ,日本 語教師 が自身 を日本 語教師 として 主体化 する過程において「職業的良心」が 形成さ れてい るため に,そ れを裏 切るこ とが難 しいと いうことであり,二つには,実際問 題とし て完全 に逸脱 するこ とが, 周囲か ら日本 語教師 として認められなくなることを意味 してい るとい うこと であっ た。

日本語教師の自己イメージについ ての研 究では ,日本 語教師 が抱く 自己イ メージ として

「親」と して学 生を「 育てる」という ものが あり,「外国 で苦労 しなが ら学ん でいる 学習者 を精神的 に支え る支援 者」とし て自ら をイメ ージし ている こと(岡 崎,199 6),また ,支援 者として「授業技術」をもつこと( 八木,2 004) がある ことが 明らか にされ ていた 。これ らの先行研究を踏まえると,日本語 教師が 形成す る「職 業的良 心」と は,日 本語教 育の問 題点とし て指摘 されて いる「技 術至上 主義」と「パタ ーナリ ズム」( 細川,20 10)に 重ねら れるものとなっていた。つまり,こ れらの 自己イ メージ は,日 本語教 師とい う主体 になる 過程において教師が形成する職業的 良心で あると 同時に ,それ が現在 の日本 語教育 におい て問題を生み出していると考えるこ とがで きるも のであ った。 一方, このこ とを踏 まえる と,「逸脱する主体性」とは,「親と して学 生に日 本語を 教える ための 教授技 術を身 につけ る」という日本語教師の職業的良心 を裏切 るもの になる ことが 予想さ れた。

Tsui(2007)は,中国で英語を教 える中 国人教 師のナ ラティ ブから ,この 教師の 6 年に わたるアイデンティティの変容を描 いてい た。そ こに示 されて いるの は,現 場の教 師が,

教育機関の制約に巻き込まれ,自身 の考え をいえ ないま まに, 教師と して認 められ ること によって地位を確立していく姿であ った。 そこに 示され ている 教師の 主体性 とは, 求めら れる枠組みを再生産することへと向 かう, 服従化 する主 体性と して考 えられ るもの ではあ った。しかし,教師自身にとっての 意味と して考 えたと き,そ れは服 従化以 上の意 味をも つもので あるよ うにも 思われ た。さ らに言 語教育 におけ る Agenc y をめ ぐる議 論では ,教師 のあり方を「自由」と「抵抗」とい った二 分法や ,二項 対立軸 でとら えるこ とへの 批判が なされていた。

これらのことから本研究では,「逸脱 する主 体性」 を応答 する主 体性へ の対抗 軸とし て ではなく,求められるあり方を引き 受けつ つ,そ こから 自身の あり方 をずら してい く主体 性としてとらえるという方針を立て た。そ の上で ,制度 論的教 育学の 議論を 参照し ,その

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ための方法として制度的他者である 他の日 本語教 師との 絶えざ る応答 が必要 である ことを 示した。そして,状況に投げ込まれ る中で の「自 己認識 」の変 容の議 論と, 現場の 日本語 教師が抱 く「 二重の 表象」(塩崎 ,20 01)におけ る自己 認識の 分裂を めぐる 議論か ら ,その 応答の軸には,日本語教師として自 身がも つ言語 観や言 語教育 観を, 個人の 観点か ら問題 化していくことがあり,それらを学 生との 関係性 におい てでは なく他 の教師 との関 係性に おいて変容させていくことで,日本 語教師 として の「職 業的良 心」そ のもの を変容 させて いくことが必要であるとした。

第 3 章 日本語教師性を構築する「語彙」 の研究

研究課題 Ⅱにつ いて, 続く 3 章では ,日本 語教師 が自ら に求め てきた 教師と しての あり 方についてさらに具体的に検討する ために ,学会 誌『日 本語教 育』を 対象と した内 容分析 を行った 。分析 の対象 となっ たのは,『日本 語教育 』に掲 載され た論文 の中で 教育実 践を扱 ったものである。日本語教育では, 日本語 教師が 研究者 となっ ている ことが 多く, 研究者 として論文を執筆する視点には教師 として の日本 語教育 観が込 められ ている 。この ことか ら,教育実践を扱った論文の記述を 検討す ること で,日 本語教 師が後 進に対 して, 求めて きた教師としてのあり方を明らかに できる と考え た。

分析対象 として 選出し た用語 は,198 0 年代 に日本 語教育 が迎え た教授 法の転 換と学 習者 の多様化という二つの出来事を象徴 する,「 主体( 性・的 )」と 「ニー ズ」で ある。 これら 二つの用語についてそれぞれ分析を 行い, その結 果を考 察した 。教育 実践を 記述す る際に 用いられた「主体(性・的)」は,196 2 年か ら 2009 年まで の掲載 論考 1 490 本 のうち 39 本 に確認す ること ができ た。そ のうち,「教師 の主体 性」と して記 述され ている のは,一カ所 のみであ り,そ れ以外 は,「学 習者の 主体性 」とし て記述 されて いた。その用 法の変 遷を見 ると,「主 体(性・的)」は,198 0 年代 までは ,教師 の教授 行為を 表わす 記述を 伴いな がら,

言語行為における学習者の主体性と して記 述され ていた 。その 後,198 0 年代 半ばの AL 法 批判において,教師の管理や学習者 の受動 性が問 題とし て提起 される と,そ れ以降 ,教室 活動における学習者の主体性として 盛んに 記述さ れるよ うにな った。 つまり ,教授 法の転 換期に教師主導型の授業が否定的に とらえ られる 文脈に おいて ,教師 ではな く学生 が自分 でという意味で,学習者の主体性が 主張さ れるよ うにな ったと いうこ とがわ かった 。その 後,2000 年以降,わずかにではある が,言 語行為 におけ る主体 性の記 述(3 本)が 見られ

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るようになった。

また,「ニ ーズ」 は,19 83 年 の初出 以降, 掲載論 考 1095 本のう ち,11 1 本で 記述が 確認 され,このうち教育実践を説明する 記述は 18 本に 見られ た。20 09 年ま で掲載 論考全 体の 10.1%の論考で何らかの形で「ニーズ 」とい う用語 が使用 されて いるこ とから ,「ニ ーズ」

は日本語教育において定着した用語 である と判断 するこ とがで きるも のであ った。 教育実 践を説明する 18 本の記述について検 討した 結果, 1980 年 代後半 に「ニ ーズ」 には, 学習 者の多様化への対応という教育的価 値が与 えられ るよう になっ ており ,教育 実践の 指針だ けではなく,意義や目的,教師の判 断根拠 や実践 の効果 を示す 意味を 与えら れるよ うにな っていた。このことから,日本語教 育にお いては ,教師 が自身 の言語 教育観 を示す ことな く,「学習 者のニ ーズに 応える 目的で 教育実 践を行 った」という 説明が 可能に なって いるこ とを指摘した。

これらの 語彙研 究の結 果から ,1980 年代の 教授法 の転換 と学習 者の多 様化と いう転 機に おいて,学習者のニーズに応え学習 者の主 体性を 重視す るとい うこと が,日 本語教 育にお いて無条件に価値づけされているこ と,そ してそ の中で ,教師 の主体 性は問 題にす る必要 がないも のとし て位置 づけら れてき た可能 性が浮 かんで きた。教 授法の 転換期 におけ る CA をめぐる議論によれば,唯一絶対の 教授法 に決別 した上 で重要 となる のは, それぞ れの日 本語教師 による 現状把 握のあ り方や ,教 師自身 の言語 教育観 であっ た。しかし ,市 嶋( 2009)

は,学会誌『日本語教育』に掲載さ れた実 践研究 論文を 分析し た結果 ,論文 中に授 業を実 施する教師自身の言語教育観が記述 されて いない ことを 報告し ていた 。

つまり, 日本語 教師は ,学習 者の主 体性や ニーズ を主張 するこ とによ って, 自身の 主体 性を問題 にせず ,言 語教育 観を語 らない まま,「外在 化」された 目的に「応 じる 」者と して,

自身の存在意義を主張してきたとい う可能 性が指 摘でき た。こ のこと は,翻 ってい えば,

日本語教師は自身の言語観や言語教 育観を 問題に しなく てよい という 観念を 生産し ,後進 に呼びかけてきた。そしてその中で 「親と して学 生に日 本語を 教える ための 教授技 術を身 につける」ことが,日本語教師の「 職業的 良心」 として 再生産 されて きたと 考える ことが できるものであった。これらのこと からす れば, 日本語 教師の 主体性 とはあ らかじ め,服 従化に向かうことが方向づけられて いるも のであ ると考 えられ た。

第 4 章 新人教師を日本語教師にするもの

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4 章では,研究課題Ⅲについて,3 名 の新人 教師に 対する フィー ルド調 査と, 16 名に 対 するインタビュー調査の二つの結果 を,ナ ラティ ブアプ ローチ と M-GTA (修正 版グラ ウン デッドセオリー)を用いて分析した 。

分析Ⅰで は,日 本語教 師の経 験を記 述する 方法と して, ナラテ ィブア プロー チに注 目す る必要性 を論じ ,3 名の 新人教 師を対 象とし た調査 を実施 した。3 名の 教師は ,現在 勤務す る場所も教育機関での立場も対象と する学 生も異 なって おり, また, 一年の 経過を 通して 見えてきた教師としての変化も様々 であっ た。し かし, それと 同時に 見えて きたの は,新 人教師たちが,求められるあり方と せめぎ 合い, それを ずらし ていく ことに よって 「逸脱 する主体性」を発揮していることで あった 。大田 さんは ,ベテ ラン教 師の目 をかい くぐり ながら「即興」を重視した実践をし ていた 。また 森田さ んは, 海外の 教育機 関への 移動を 経験し,現地で求められる「日本人 教師」 として のあり 方をず らしな がら, 自分が 現地で 日本語教 師とし て存在 する意 義(必要 とされ ない日 本語を 教える「日本 語教師 」では なく,

学ぶことの楽しさを伝える「日本人 教師」 である こと) を考え るよう になっ ていた 。また 海外の教育機関に所属する川島さん は,教 育機関 で求め られる 「いえ る」こ との意 味を,

他の日本語教師とのやり取りによっ てずら そうと してい た。

一方で, 教師と して求 められ ている あり方 からは ,共通 する問 題点も 見えて きた。 それ は,「学生 に必要 な日本 語を教 える」という 枠組み におい て日本 語教育 に携わ ってい る限り,

日本語教 師は,自 分が日 本語を 教える 理由を 考える 必要性 に迫ら れない という ことで あり,

基本的な 教授技 術を習 得した 後は, 自身の 経験の 中で日 本語教 育を考 えなけ ればな らない 状況にお かれて いるこ とであ った。 大田さ んと森 田さん の事例 からは ,新人 教師が 教員室 で良好な 関係性 を構築 してい る場合 もそう でない 場合も ,教師 たちの 間で, お互い に何を 考え日本 語を教 えてい るのか ,何の ために 日本語 を教え ている のかに ついて ,考え を共有 する機会 をもっ ていな いこと が示さ れた。 また, 川島さ んは, 日本語 教師と しての 自身は

「からっ ぽ」で あると 話し, 教師の 仕事を 辞める 決意を してい た。川 島さん は,教 育機関 において ,言語 教育観 を話し 合うこ とを提 案し失 敗した ことで ,孤独 になっ たとい う。そ して,教 育機関 におい て「生 産」の 感覚を もつこ とがで きれば ,ここ にいて いいと 感じら れるので はない かと書 いてい た。大 田さん や川島 さんの 事例は ,新人 教師に とって 言語教 育観を語 ること は,と きに既 存の教 師コミ ュニテ ィーか らはみ 出して しまう ことを 示すも のである 。新人 教師に 求めら れてい るのは ,割り 当てを こなす 教授技 術を身 につけ ること

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であった。

分析Ⅰの 結果を 踏まえ て,分析Ⅱ では ,16 名に対 して実 施した インタ ビュー 結果に つい て,M-GTA を用いて,新人教師たち が他の 教師との 関係性 におい て授業 に葛藤 を感じ 克服 するプロセスを分析テーマとして分 析した 。分析 焦点者 を授業 につい て問題 を感じ ている 非常勤の 新人教 師とし ,12 名 分のデ ータに ついて 検討し た。そ の結果 ,新人 教師た ち は , 授業見学を受け,授業を改善するこ とが求 められ る一方 で,ベ テラン 教師の 授業を 見学す ることは ないと いう環 境にお かれて いるこ とがわ かった 。その 中で,教 師たち は,[ ゼロか ら手探り で],[ 全部自 分でや る]こと が求め られ,[ 教科書 =指針 ]とす る中で ,日本 語を教 える教授技術を自分の力で身につけ ること が求め られて いた。

新人教師 たちは ,教育 機関の ベテラ ン教師 の間に[ 非常勤 =フリ ーラン ス]と いう意 識が 存在し,ベテラン教師と関係性が築 けない ことに よって ,[無難 にやら なけれ ばなら ない]

と感じるようになっていた。繰り返 し授業 を担当 するこ とによ り,[初 級は大 丈夫] という 自信を得る一方で,多くの授業を任 される ように なるこ とで[考 える時 間がな い]ま ま,ひ たすらに 授業を こなす ことが 求めら れてい た。そ して,〈 このま までい いのか 〉とい う思い と[無難に やらな ければ ならな い]こ とに対 する〈こ ういう ものだ という 受け入 れ〉の 間で,

葛藤を感じるようになっていること がわか った。

この葛藤 を乗り 越える 転機と なって いたの が,[ギ ャップ 感]であ った。新人教 師たち は,

自身の〈 日本語 が話せ なくな る〉こ とによっ て,〈 不自然 なコミ ュニケ ーショ ン〉に ギャッ プを感じるようになり,また,日本 語教師 として 〈やり たいこ と・で きるこ と〉の 間にギ ャップを 感じる ように なって いた。そして[ 指針再 考のき っかけ] を得る ことで ,[そ うじゃ なくてもいい]という気づきを得ると いう道 筋が示 された 。

以上,二 つの分 析結果 から, 現場の 日本語 教師に 求めら れる「 日本語 教師性 」の問 題点 として,1 )個体 主義性 と同調 性,2 )教師間 の経験 主義的 関係,3)言 語教育 観の喪 失と教 授技術の 本質化 の 3 点 を指摘 した。その上 で,「日 本語教 師性」を構築 するも のとし て,1)

現場において,日本語教師の関係性 をあら かじめ 分断す る「こ なして いけば 終わる システ ム」が 存在す ること ,2 )言語道具 論的な 言語観 が存在 するこ とによ って ,道 具とし ての日 本語を教える教授技術が求められる こと,3 )「目 の前の 学生が 必要と してい る日本 語を教 える」という役割意識が存在し,日 本語教 師が自 身の存 在意義 を積極 的に考 える必 要に迫 られないこと,の 3 点を指摘した。 そして ,日本 語教育 の課題 として 「学生 に必要 な日本

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語を教える」という認識があり,こ の前提 に立つ ことに よって 日本語 教師の 主体性 は,あ らかじめ,そのための技術を習得す るとい う枠組 みの中 に押し 込めら れてし まうこ とを指 摘した。その上で,その拘束を同僚 教師と の関係 性にお いて克 服して いく必 要性を 主張し た。

第 5 章 「同僚性」から生み出される新た な日本 語教師 性へ

研究課題Ⅳについて 5 章では,4 章で明 らかにし たこと に対す る私な りの「 応答責 任」

を果たすものとして,現場で立ち上 げた授 業勉強 会(「読 み会」)を実 践研究 として 取り上 げた。そして,日本語教師が同僚教 師との やり取 りにお いて拘 束性か ら「共 犯的」 に「逸 脱する主体性」を見出す可能性を検 討した 。

活動開 始一年 半後の インタ ビュー におい て教師 たちは,授業勉 強会は「あな たはだ あれ」

と問われる場所であったと語ってい た。イ ンタビ ューを 分析し た結果 ,教師 たちに とって 授業勉強会は「教員室ではできない 話し合 い」を するた めの場 となっ ており ,教師 たちは 他の教師とつながることに意味を見 出す一 方で, 自身の 「日本 語教師 として のあり 方」を 問い直し ていた ことが 示され た。さ らに,「 読み会 」の話 し合い の方針 につい て 2 学 期目の 活動方針をめぐる話し合いを検討し た結果 ,教師 たちは ,教育 機関で 求めら れる読 解授業 のあり方を認識しつつも,それを全 て受け 入れる のでは なく, 自分た ちの価 値観か らとら え直す試みを行っていたことが示さ れた。

さらに「読み 会」の話 し合い の構造 を検討 するた めに,話し合 いにお ける発 言につ いて,

発言カテ ゴリー を用い て分析 した。そ の結果 ,「読 み会」で は話し 合いの 多くの 時間を「 B.

授業の狙いと授業設計」と,「D.授 業展開 と学習 者の学 び」に 割いて いたこ と,そ の一方 で,「C.教 授スキ ル」に ついて の発言 は,ほ とんど なされ ていな いこと が明ら かにな った。

時系列で考えるのであれば,教師の 報告を 聞き, 実際の 授業展 開と学 生の学 びのあ り方か ら,授業の枠組みそのものについて ,話し 合いが 展開し ている という ことで ある。 しかし この結果 は,授 業勉強 会の形 態に影 響され ている ことも 推測さ れた。つ まり,「読み 会」で は教師た ちがお 互いの 授業を 見学し ていな いこと によっ て,「C. 教授ス キル」の発言 割合が 低くなっているという可能性も指摘 できた 。

このこと から,「 B.授 業の狙 いと授 業設計 」へと 展開し ている 実際の 展開例 4 つに つい て実際の 話し合 いの談 話を検 討した 。展開 例にお いて話 し合わ れていた のは,1)実 践の言

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語活動と しての 意味,2)方 法の裏 にある 教師個人 の思い,3)現場に おける 教師の 迷い,4)

異なる授 業観/言 語観と の接触 ,であ った。これら の展開 例の具 体的検 討から,「C.教授ス キル」についての発言割合の低さの 背景に は,話 し合い におい て,実 践の言 語活動 として の意味,教師の思い,方法,学生の 反応, 言語観 ,言語 活動観 ,読解 観など 複数の 要素が 切り離されることなく渾然一体のも のとし て扱わ れてい たこと がある と指摘 した。 そして

「読み会」の話し合いにおいては, 教授ス キルだ けを取 り出し て発言 するこ とが難 しくな っており ,その ことが「 C.教授 スキル 」の発 言割合 の低さ につな がって いたと 結論づ けた。

授業勉 強会に 参加し ていた のは, 私も含 め,中 堅教師 であっ た。つ まり, 教師た ちは,

それまで 経験し た現場 におい て,個 人とし ての価 値観を 問われ てこな かった という ことで ある。一方 ,イン タビュー からは ,教師 たちが,「 読み会 」にお いて辛 さと同 時に楽 しさを 見出していたことが示された。

以上の 分析を 踏まえ ,日本 語教育 におけ る,「同 僚性」の意味 につい て考察 した。そして 日本語教 育にお いて「同 僚性」を 構想す るため には,「方法」を「教授 技術」として ではな く,それ ぞれの 言語観 ,言語 教育観 から, 言語活 動のあ り方と して考 えるこ とが必 要であ り,「同僚 性」と は,そ の過程 におい て教師 の間で 共有さ れる「 共犯性 による 連帯の 感覚」

であると した。 現職教 師に必 要とさ れるの は,新 人教師 を日本 語教師 として の学び が必要 な対象と してと らえる のでは なく, ともに 新たな 日本語 教育を 構想す る同志 として とらえ る態度で あると し,そ れぞれ の教師 が,自 身の現 場にお いてそ のため の場を 作り出 してい く必要性を主張した。

第 6 章 結論 「教師主体」の日本語教育の構想 に向け て

結論章となる 6 章では,まず第 1 節 におい て,5 章 までの 議論を まとめ た。そ して 2 節 から 3 節 におい て,「目 の前の 学生に 必要な 日本語 を教え る」日 本語教 育の問 題点に ついて 批判的に考察し,4 節から 6 節にお いて, 日本語教 師がも つ言語 観を「 不確実 性」へ とひ らいていく意義を主張した上で,「教 師主体 」の日 本語教 育の構 想を示 した。

まず,第 2 節では,「言語教育観」が ,役割 を与え られた 「日本 語教師 」の用 語であ る ことを指摘し,教師個人のもつ価値 体系が 喪失し 教授技 術が本 質化さ れる日 本語教 育の構 造において,ただ「言語教育観」の 重要性 を主張 するこ とでは ,教師 の日本 語教育 理解の 前提を問題にすることはできないこ とを指 摘した 。そし て,考 えなけ ればな らない 「言語

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教育観 」とは ,「言 語」の「教育観 」ではな く,「言語 教育 」の「観方( パース ペクテ ィブ)」

としての「言語教育観」であり,「言 語教育 」の「 観方( パース ペクテ ィブ)」とは ,最終 的には,教師の「言語観」の問題に 行き着 くとし た。そ して, 日本語 教育に 根強く 存在す る「教師が考えるのは方法だけでい い」と いう言 説につ いて, それら が,経 済的合 理性と 言語道具論的な言語観を前提として いるこ とを指 摘し, 経済的 合理性 が言語 に求め るもの は,道具としての役割であり,言語 を教え る教師 にもま た,自 身の存 在から 価値体 系を抹 消することが求められていると批判 した。

以上の検 討から ,続く 第 3 節 と第 4 節にお いては ,言語 の「不 確実性 」に着 目する こと でひらか れる可 能性に ついて 議論し た。佐 藤学(1 996) は,「省 察的実 践家」 の議論 から,

二つの専門家像を指摘していた。一 つは「 技術的 熟達者 」をモ デルと するも のであ り,こ のモデル におい て教師 の実践 的認識 は,複 雑な状 況を一 般化す ること によっ て,「確 実性」

を拡大する方向をとるとされていた 。それ に対し て,「反 省的実 践家」(省察 的実践 家)の 実践的認 識は,状 況に含 まれて いる多 義的な 意味の 複雑さ や豊か さを解 明しな がら,「不確 実性」の 世界へ と踏む 込む方 向で展開 される とされ ていた 。この 議論か ら,日 本語教 師が,

言語の不確実性を認めず,それを教 える教 授技術 の確実 性を追 求して いくの であれ ば,専 門家としての日本語教師は「技術的 熟達者 」モデ ルにお いて追 求され ていく しかな いこと を指摘し ,日 本語教 育にお いて,「省察 的実践 家」をモデ ルとし ,さ らに「誤 った自 我に安 住する」ことを逃れようとするので あれば ,言語 の不確 実性を 認め, それを 同僚教 師との 関係性にひらいていくことが不可欠 となる ことを 主張し た。

第 5 節では,「言語」と「労働」をめ ぐる「 疎外」 の議論 を参照 し,確 実な言 語観と し ての言語道具論と職業としての日本 語教師 の関係 につい て検討 した。 これら の議論 を踏ま えると ,日本 語教師 という 職業は ,「言 語の疎 外」と「 労働の 疎外 」が 同時に 起きる 構造に あることが指摘できるものであった 。

日本語教育における「言語の疎外 」とは ,まず 一つに は,教 師が扱 う日本 語が, 教師個 人の言語生活(あるいは,言語生活 におけ る価値 体系) と切り 離され ること によっ て起こ ると考えられるものであった。さら に日本 語教育 理解の あり方 として ,学生 のニー ズに応 えるとい う「貨 幣の論 理」が もち込 まれるこ とによ って,または ,「学 生に必 要な日 本語を 教える」という前提に立つことによ って, 言語道 具論的 な言語 観は強 化され ,日本 語教育 は「言語の疎外」へと傾いていくと 考える ことが できる もので あった 。そし て,同 時に考

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えなければならないことは,この「 言語の 疎外」 が,教 師自身 の言語 生活に おける 「日本 語」と,教師が 扱う「日 本語」の乖 離を意 味して いると いうこ とであ った。日 本語教 師が,

そのように疎外された言語を扱い, 教授技 術の獲 得を専 門性と して位 置づけ ること によっ て,日本語教師が労働において「生 産」す るもの は,日 本語教 師自身 の豊か さとは 何のか かわりもないものとして存在するよ うにな ると説 明でき るもの であっ た(例 えば,4 章の 川島さんの「からっぽ」であるとい う実感)。

つまり,「日本語教師という職業」 をめぐ って,「言語 」と「 労働」 におけ る疎外 が同時 に生じる ことに よって ,日本 語教育 におけ る「共 同化」機 能は,「言語 」と「 労働」の両方 において失われると考えることがで きる。 日本語 教育に 存在す る言語 道具論 的な言 語観に よって,言語の疎外と同時に,労働 の疎外 が生じ る。そ して, 日本語 教師に とって ,言語 の疎外と は,同 僚関係 におけ る言語 から「共 同化」機能を 喪失さ せるも のでも ある。「共同 化」機能を失った言語を,同僚関係 におい てやり とりす るので あれば ,日本 語教師 は,労 働において「生産」の感覚をもてな いまま ,自身 の教室 におけ る学生 とのや り取り に自閉 していかざるを得ない。このことか らも, 教師が 自身の 「言語 」に「 共同化 」機能 を取り 戻すこと が必要 であり ,同僚 との関 係にお いて,「 共犯的 に」言 語道具 論的な 言語観 をとら え直すこ とによ って,「 連帯を 作りあ げるよ うな交 流」,つ まり,「同僚 性」を 築いて いくこ とが必要であると主張した。

その上で,日本語教師が自身の価 値体系 を見据 え,そ れを同 僚教師 の間に ひらい ていく という方向性は,日本語教師が自身 の認識 と責任 の上に 展開す る教育 という 意味合 いを強 くもつも のであ り,その 意味に おいて「 学習者 中心」や「学習 者主体」ではな く,「 教師主 体」の日本語教育として展開されな ければ ならな いとし た。現 場の教 師がと もに日 本語教 育における「言語」のあり方を問い 直し続 け,新 たな価 値を生 産する 辛さや 楽しさ を共有 する。この応答と逸脱におけるせめ ぎ合い を繰り 返す中 にこそ ,日本 語教育 を内部 から変 えていく可能性を見出すことができ るとし た。制 度と主 体の間 に生ま れる日 本語教 師の主 体性とは,制度の拘束に対する応答 と逸脱 の反復 におい て,言 語を扱 うもの として 独自の 価値を示していく運動の中に生まれ るもの である と考え る。

参考文献

市嶋典子(2 009).日 本語教 育にお ける「実践 研究」論 文の質 的変化 -学会 誌『日本語 教育』

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をてがかりに-『日本語教育研究論集 』25 号 ,国立 国語研 究所,p p.3-17

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細川英雄( 2010) .実践 研究は 日本語教 育に何 をもた らすか『早稲 田日本 語教育 学』第 7 号,

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Tsui,AMY .B.M. (2007 ).Comp lexiti es of ident ity f ormati on: A narra tive inquir y of an EFL teacher.

TESOL QUARTERY

Vol.41,No.4, pp.657-680

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