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あなたが自由意思で私に従うことを,私は自由意思 で望む

著者 鈴木 正道

出版者 法政大学言語・文化センター

雑誌名 言語と文化

巻 18

ページ 19‑36

発行年 2021‑01‑29

URL http://doi.org/10.15002/00023750

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あなたが自由意思で私に従うことを,

私は自由意思で望む

鈴 木 正 道

 ジャン = ポール・サルトル(1905-1980)は,人間存在を自由として定義づ け,自由な存在のせめぎ合いとしての人間関係,さらには社会を論じ,描い た。「実存主義」なるものの担い手として一大ブームを引き起こした戦後直後 から構造主義に蹴散らされたような格好になった 60 年代を経て,過激とも言 える左寄りの立場を取り,80 年代にこの世を去ってさらに 40 年ほど経った。

今,忘れ去られた,あるいは無視されたようでありながら,彼の考え方はそれ なりに残っている,あるいは地にしみこんでいるように思われる。特に,話題 になりながらまた反発も呼んだ「意識と意識の間の関係の本質は『共存』では なく争いである(1)」や「地獄とは他者のことである(2)」は現在の日本もしくは 世界の状況の中でも現実性を持った言い方だと考えられる。ただこれらの言葉 が放たれた時代から社会状況が変化しているのも事実であり,サルトルの考え に一ひねりを加える必要があるとも言えよう。ひねりを加えた上でやはりサル トル的な考え方は妥当だとも言える。本論では,現在のわれわれの生きる状況 に再びサルトルの考えを投げかけ,さらに悲観的とも批判された彼の考えか ら,さらに彼のおぼろげながら示した解決にも目を向け直してみたいと思う。

1.まなざしの存在論

 1943 年に発表された「現象学的な存在論の試論」である『存在と無』に基 づいて彼の自由に関する考えをごく簡単にまとめよう。サルトルは存在を,意 識を持った存在すなわち人間と意識を持たない存在すなわちもの0 0とに分ける。

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意識存在はその意識を他の存在ばかりでなく自らにも向けるという意味で「対 自存在[être-pour-soi]」と称する。それに対してもの0 0としての存在はそれ自 体そこにあるだけの存在という意味で「即自存在[être-en-soi]」と称する。

対自存在は自らに向き合い己の不完全さを意識せざるをえない。しかしそれが ゆえにその不完全さを乗り越えようとして未来に向かっていく,これが自由だ とサルトルは考える。自由とはあくまでもその人間が置かれた状況にあってど のように己の行動を選択するかということだとサルトルは定義する。いかなる 状況にも縛られない状況こそ自由であるという考えは無意味だとする。状況に 置かれて常に人間は何かを選ぶことになる,選ばざるを得ない,それが自由で あるとする,つまり人間は自由でないことを選ぶことはできないというのであ る。

 ただし状況が私の自由を制限するものでないとしても,それを制限するもの がある。私と同じ自由な存在である他者である。サルトルはこれを自由な対自 存在がお互いに向けるまなざしによって説明する。自由な存在が他の自由な存 在に向けるまなざしは,相手の存在をこいつはこんな奴だという具合に決めて しまい(これを他者にとっての自分の存在つまり対他存在[être-pour-autrui]

と称する),相手はそのような値踏みに固定されてしまい,自由ではなくなる というのである。もちろん自分なりにそのような決めつけを未来に向けて超え ていくことはできようが,自分を決めつけた意識においてはそのように固定さ れる,つまりもの0 0としての即自存在に堕ちてしまうのである。

 しかし私は私を見つめる他者にまなざしを向け返すことにより,逆に他者の 自由を固めてしまうことができる。もちろんそれによって私の自由が取り戻せ るわけではないが,少なくとも相手の自由を奪うことにはなる。こうした関係 はまなざしを向ける者,向けられる者が複数で集団をなしていても同じことで ある。

 このような状況は普遍的な現代性を持っていると言えよう。事実,これをサ ルトルがテーマとして書いた 1944 年初演の演劇『出口なし』はフランスのみ ならず日本でも繰り返し上演されている(3)。また 1959 年初演の『アルトナの 幽閉者』は 4 時間を超える長大さから上演の機会は比較的まれであるが(4),や はり他者のまなざしがその多重なテーマの一つをなしている。『出口なし』が 3 人の人間がお互いにまなざしにより相手の自由をきりきりと縛り付けるのに 対して,『アルトナの幽閉者』では未来の人間が自分の世代に向けるまなざし,

(4)

戦争犯罪人としての自分たちを断罪するまなざしが問題になっている。

 まなざしによる固定,今流に言えばレッテル貼りである。「レッテル貼り」

という表現自体が批判の意味を込めて使われるのが一般的であろうが,ついつ い我々はそうしてしまう。レッテルを貼っているつもりはなくても,相手がそ のように感じていることはよくあるだろう。そもそも何かに名をつけるという ことは文字通りレッテルを貼ることになる。ただし,相手が生身の人間,いい かえれば「自由な対自存在」である以上,相手が絶えずそれを脱することがで きることをはっきりと認めなくてはならないということだろう。しかしそれが できているかどうかは自分にも相手にもはっきりわかるわけではない。

2.マスメディアというまなざし

 昨今においてより問題が先鋭化してきたことには,メディアの発達と変化が ある。「レッテル貼り」が個人と個人の間で行われているならまだしも,メ ディアが介在すると事態はより深刻になりうる。まなざしを受けた私はまなざ しを相手に返すことで,少なくとも相手を私と同じ即自存在に貶めてしまうこ とができる。しかしマスメディアで何らかの事件の責任者,犯罪者として扱わ れてしまうと,まなざしを返すことが事実上できない。マスメディアに載る言 説は,その起源としては個人の言説もしくは複数の個人の言説が縒り合わさっ たものである。社外の執筆者や発言者は独立した個人として認識されるはずだ が,社員としての記者,特に匿名の記者はメディア全体を代表しているか全体 を反映する一人として感じられることが多い。また社外からの言説も読み手は それが社外からのものであることをいちいち覚えていないことも多い。結局そ れらすべてが一つのメディア組織の言説として受け止められる。

 こうしてマスメディアの言説により多くの受け手が対象にまなざしを向けて くる。それは隣近所の人かもしれないし,職場の人間かもしれない。これらの 人たち全員にまなざしを返してどうにかするというわけにはいかない。また見 知らぬ通行人,たまたま入った店の客や店員が対象となる人を容疑者扱いして いるように感じられるかもしれない。それは確かめようがない。反論の機会で も与えられればせめてもの救いであろうが,「犯罪者」とみなしている相手に 反論の場を与えることはまずない。せいぜい「取材」により,言い分を聞き,

掲載に値すれば載せるということになろう。結局疑いが晴れたとしても,ある

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いは犯罪ではなくとも事故などの責任を問われた場合に,自分の言い分をその メディアを通じて発表するとしても,最終決定権はメディアの方にある。フラ ンスやドイツと異なり,日本には「反論権」を保証する実体法はない。言うま でもなく,メディアに反論を載せたからと言って自分に貼られたレッテルがき れいにはがれるということはない。それでも少しでも状況を改善するには反論 権の保証はあったほうがよかろう(5)

 まなざしを向ける主体としてのメディアが企業体として大きな力を持つこと の問題は様々な形で特に昨今現れている。実名報道はその一つである。事故や 災害,犯罪が起きた時,被害者の実名が報道されるかどうかは昨今特に問題に なっている。

 朝日新聞社で出している月刊『Journalism』の 2020 年 7 月号は「実名と被 害者報道」を特集した(6)。「実名だから伝わること,被害者だから伝えられる こと」とある副題からは,その編集者,企画者と多くの執筆者が事故や犯罪の 被害者を実名で報道することをよしとしていることが推して計られる。この問 題は多くのメディア特に新聞の最近の重要課題の一つであり,朝日新聞社の社 員も議論の場を設けたということであろう。

 本論でこの問題自体に立ち入って論じることはしない。ただまなざしの主体 という点で着目すべき点を挙げておきたい。執筆者の中で数少ない実名報道懐 疑派の林香里はそもそも「政治家,マスコミ,警察関係者の匿名化には寛容 で,事件事故の当事者である一般市民の匿名化になると『匿名化社会』などと 話が大きくなるのか,不思議な話」だと指摘する(7)。そのうえで林は,自ら の立場を訴えたいとする被害者がいることは実名報道を原則とすることの理由 にはならないとする。社会が「個人化」する現代において,実名報道を希望す る被害者も匿名を希望する被害者も実は同じ個人としての自己決定権を主張し ているということである(8)

 かつては「普通の人」にとって新聞やテレビ,ラジオで自分の名や顔が出る ということは,栄誉なことであれ,不幸,不名誉なことであれ,「自分で決め る」ことではなかった。名なり顔が出てしまえば,大変な幸運に恵まれたと有 頂天になるか,どうしようもない不運に見舞われたと思うか,とにかく自分で どうにかするようなことではなかった。いわばまなざしの狙い撃ちにただ身を ゆだねるしかなかった。しかし「個人」として「自分のことは自分で決める」

世の中にあって,それは受け入れられないと考える人が多くなっても不思議は

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ない。私はのちに,「個人の主体性」という考え方にやや疑義を挟むが,それ でも本人が「自己決定権」を主張する場合にそれを尊重することにやぶさかで はない。

3.ソーシャルメディアというまなざし

 「実名」をほとんど一丸となり主張するメディア関係者の主張が今後どれだ け受け入れられるかはわからない。ただ昨今は別の形のメディアがより問題を 深刻にしている。いわゆるソーシャルメディアの普及である。

 今までは大きな範囲に自分の意見を広める機会をほとんど持つことがなかっ た「一般の人々」が,世界中に発信することができる。匿名も可能となるの で,いとも気軽に言いたい放題という事態にもなる。誹謗中傷もごく頻繁に発 せられ,いったん弾みがつくと特定の人間に集中的に非難が集まることも多 い。先の被害者が報道における自分の匿名性を強く望む重要な理由(9)の一つ は,被害者なのに中傷されることである。

 またそれなりの責任を問われても仕方がない場合でも,あるいは責任を問わ れるべきだとは言えない場合でも,全くバランスを欠いた形で非難が集中する ことも多い。2019 年の暮れに始まった新型コロナウイルスの広がりにおいて は,特にソーシャルメディアを通じで感染者がレッテル貼りを受けた。未知の ウイルスを原因としているので,気を付けていても感染する。しかしその注意 が不十分だったということにされる,あるいはまったく野放図にふるまってい たかのように言われる。もっとも感染者本人の責任とは言えない,つまり感染 の原因がよくわからないからこそ,不安が掻き立てられるのも事実である。

 マスメディアにせよ,ソーシャルメディアにせよ,まなざしが不特定多数で ある。マスメディアの場合には,ある情報を発信した特定の書き手,それを発 する運営主体がある程度特定化されるのに対して,ソーシャルメディア,特に SNS では,匿名の発信者の場合はさらに特定化ができないことが多い。マス メディアの場合には,情報を受けて直接もしくは間接にまなざしを向ける読者 や視聴者が不特定多数になる。ソーシャルメディアではトゥイッターの反応な どで受け手がまた送り手となり限りなく増幅することがある。ただし実際には 同じ人間が発信を繰り返していることも多い(10)。しかしまなざしの実数を調 べることは技術的に不可能でないにせよ,大変労力がかかる。いずれにせよ,

(7)

まなざしを受けた側にとって,相手にまなざしを返すことは極めて難しいと言 わざるを得ない。それにより自殺者が出るなどの深刻な問題となっている。近 頃,匿名の中傷者に関する情報を入手しやすくするべく,法の改正が検討され ている(11)のは,まさにまなざしを返す相手をはっきりさせるためだと言える。

 不特定のまなざしによる自由の疎外は,新型コロナウイルスに関連した自粛 要請においても見られた。自粛期間中に「不要不急の」用事で外出した人は,

周りの人たちの視線に後ろめたさを感じた。生活必需品の取り扱いをしている わけでもないのに営業を続けた飲食店などには「警察に通報する」などの張り 紙が貼られた。コロナウイルスに感染した人は,感染者としてのレッテルを貼 られた。これらの人たちは匿名の非難の電話を受けたり,SNS の匿名投稿で 名指しの中傷を受けたりもした。

 このような事態では,まなざしを返すことは難しい。単に技術的,法的な難 しさばかりでなく,非難を集中的に受けたと感じることから(12),それだけで 参ってしまうのである。しかし集団のレヴェルでは代理によるまなざし返しが 行われることがある。非常事態宣言下に出歩く人間をあしざまに言う人間を批 判する投書や書き込みがなされ,営業する店に貼り紙をする者は「自粛警察」

と呼ばれマスメディアやソーシャルメディアで非難を浴びる(13)。ある意味で は,自粛警察側と反自粛警察側の双方に抗弁の機会があると言えるかもしれな いが,実際には相互にやり取りが成り立っているとは言い難いかもしれない。

それぞれが言いっ放しの状態かもしれない。SNS はよく使うが,マスメディ アにはあまり接しない,テレビは見るが新聞は読まない,もしくは新聞しか読 まないという具合に,一部の人間が特定のメディアで激しくやり合う一方で,

全体として「対話」など成り立っていない可能性は高い。また非難を浴びた当 事者としては,自分がひどく攻撃されたことが強く感じられるわけで,特に何 らかの具体的な被害を受ければ代理でまなざしを返してくれる者がいても大し て助けにはならない。

 昨今は,大手メディアがソーシャルメディアでで「炎上」もしくは「祭り」

になった事柄を伝えることがあるが,きわめて限定集中的な取り上げ方をす る。自社に関することがその題材になっているときはまずそれを取り上げな い。結果としてそのメディアだけに接する人間は,あまりにも偏ったソーシャ ルメディア上の「世論」の傾向を思い描くことになる。

 

(8)

4.自由対自由としての他者との関係

 『存在と無』において自由と自由がまなざしにより相手の自由を捉えてしま おうとするとしたサルトルは,他者との関係,他者にとっての自分という存在 を「闘い」という枠で考える。「闘いというのが対他存在の根源的な意味であ る(EN,p. 404)。」これをサルトルは「愛」と「サディズム」を例にとって考 える。

 サルトルによると,愛する者は他者を単なるもの0 0として対象化して自分のも のにしたいと感じているわけではない。あくまでも自ら自分を愛してくれる自 由な存在として所有したいと思っている(EN,p. 407)。つまり相手が自由でな くなることではなく,自由な存在として自分に従うことを要求しているのであ る(EN.p. 443)。その意味で「愛」とは実現できない理想の関係である。それ はいわば矛盾した状態を求めることだからである。

 同様のことはサディズムにも言える。サディストは,自らは相手のまなざし から超越した自由として対象化されることを拒みながら,相手が事実性に埋没 した「肉」になることを望む。しかし相手が単にもの0 0になるのではなく,あく までも自分が対象化されたことを意識する自由であることを望むのである

(EN.p. 439)。ナチスによるフランス占領を体験したばかりのサルトルは特に 拷問による自白の強要を考えている。拷問する人間はあくまで相手が自分の自 由意思で自白をすることを望んでいる(14)。したがってサディズムも,相手が 自らの自由な意思で自分に従うことを望むことにあるという意味で実現不可能 である。

 このように愛とサディズムは,サルトルによると,同じ構造を持つ。言うま でもなくそれは両者が同じものであることを意味するわけではない。愛は相手 が自由を奪われて自分の言いなりになるのではなく,自由に自分の望むごとく 自分に愛を抱くように望むことである。サディズムは相手が自由な存在として 苦しみつつ自分に従うように望むことである(EN.p.443)。

 こうしたサルトルの存在論は一見して奇妙な印象を与えるかもしれないが,

その実,「相手が自由な存在として自分に従うことを望む」ということは程度 の差はあれ我々が日常的に行っていることではないだろうか。以下昨今の例で 考えてみたい。

(9)

 

5.自粛の要請

 再び「自粛要請」の例を取り上げよう。この例は,人間の存在論的な欲求の 矛盾した面を極端な形で示している。2020 年 4 月 7 日に新型のコロナウイル スの感染拡大が深刻な状況に陥り,安倍晋三総理(当時)は改正新型インフル エンザ等対策特別措置法第 32 条第 1 項の規定に基づき,緊急事態宣言を発令 し,5 月 6 日まで「外出自粛をお願い」した(15)。また東京都はそれを受けて 4 月 10 日に,都民に向けては同法第 45 条第 1 項に基づき,「徹底した外出自粛 の要請」をし,事業者に向けては同法第 24 条第 9 項に基づき,「施設の使用停 止及び催物の開催の停止要請」を行った(16)。自粛とは「自ら進んで行動や態 度を慎むこと」と定義される。「要請」に強制力はない。したがって「自粛の お願い」や「自粛の要請」は戸惑いといら立ちを多くの人たちに引き起こし た。自らの意思で慎むことを他者から願われたり請われたりするとは妙ではな いか,矛盾しているのではないか。事業者にしてみれば,営業を「自粛」した とされれば,自分で勝手に休んだことになり,そのことを盾に補償をされない ことになりかねない。

 これをサルトルの自由に関する考え方に照らしてみよう。外出を自粛するこ とは自らの意思で外出を控えることである。それを政府や都が「お願い」や

「要請」をする。まさに相手が自由な存在として自らに従うことを求めている ことになり,愛やサディズムと同じ構造をもつことになる。もちろん自粛を求 めているのは権力機構であり,個人としての自由な存在ではない。しかしこれ により,国民や都民が自ら外出を控えるばかりでなく,他の国民や都民が外出 を自粛し,事業者が営業を自粛することを期待しかつ求めたのである。

 これは別に国民なり都民が自粛を通してお互いに愛やサディズムの感情を抱 いていたということを意味するのではない。他者に「自粛」を求める,つまり 他者が自由な存在として自分の意に従うこと(17)を求めるという,サルトルに 言わせれば実現不可能な望みを抱いたということである。

 フランスや他の国では罰則規定を設けて外出や商業活動の制限が行われた。

それに対して日本のやり方は特殊であったと言える。これを「日本的な美徳」

として称えるか,「同調圧力」の例として批判するかは意見が分かれる。ただ

(10)

権力機構が帰属者の行動の方向を定めるときに,強制するのではなくあくまで も自由にその行動を取るべく求めたこと,すべてではなくとも多くの帰属者が やはり他の帰属者が自主的にしかるべき振る舞いをするよう求めたことは注目 に値する。もちろんそのような措置に不満を表す人も多かったが,彼らは一枚 岩ではなく,そのような要請そのものを受け入れがたい自由の侵害と考えた 者,そのような不十分な措置ではなく他の国のような強制措置を求めた者に分 かれていたのも事実である。

6.主体的にこのように考えて振舞おう

 他者との関係で,相手が自由な存在として自分に従うことを望むこと。「自 粛の要請」はそれを極端な形で表している。しかしこのような欲求は実は日常 的に至る所にあるのではないだろうか。当事者たちが気づかぬままに。

 学校の教員の中には生徒が「主体的に考え」,「自分の意見を持つこと」を勧 め,そのために生徒たちが積極的に議論を交える場を設けようとする者がかな り多い。もちろん教員は特定の立場を取ったり,まして特定の意見を押し付け たりすることはない(ように努めている)ことが多い。しかしそもそもある テーマを選び,議論の場を設ける場合に,何らかの方向性をあらかじめ期待し ていることは少なくないのではないだろうか。もちろん人間としておおよそ許 されるはずのない意見は排除する方向は取らざるを得ないだろう。しかしその うえでやはりあるテーマを提供した場合には,教員もそれなりの意見を持って いるわけであり,全く同じではなくても,異論が出ても,最終的には望ましい 方向へ議論が進むことを期待しているのではないだろうか。テーマ選びも生徒 に任せたとして,「議論をする」という活動の設定自体がそもそも「民主主義 の育成」という目標を含んでいる。

 同様のことは政府から教員に対してもなされうる。道徳教育が小学校では平 成 30 年度(2018 年),中学校では平成 31 年度(2019 年)から教科化された。

使われている教材は見たところ,特定の政治方向へ生徒を誘導しようとしてい るものではない。ある状況において,生徒が「主体的に」(18)よい解決を探すこ とを促すもので,正解のないディレンマを設定したものが多い。しかしそうし たテーマの中に教科書の執筆者や編集者が必ずしも自覚していない方向付けを 感じさせるものがないとは言えない。それが日常的で非政治的な状況設定だと

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しても,同様のテーマが重ねられることで,何らかの方向性がされ,結局は少 なくとも広い意味での政治的な方向付けがなされる可能性がある。「周囲に疎 まれても馬鹿正直であることが大切なのか,1 円玉でも使い古しのハンカチで も,交番に届けるべきか」などという問いの繰り返しは,保守的な傾向を育む かもしれないし,却って反発心を刺激して反体制的な傾向につながるかもしれ ない。人それぞれで全体としては相殺されるとしてしまえばそれまでだろう が,検証が行われているわけではない。

 これがマスメディアの商業広告となると方向付けの意図もしくは欲望は一層 はっきりする。キャンペーン[英 campaign 仏 campagne]とは「開かれた 野原のようなところ」,それから「そのような場所で展開する軍事行動」を指 すようになり,さらにはメディアでの世論の方向付けや企業による販売促進の ための運動,または公権力による人々の行動の促しを指すようになった。メ ディアに携わる人間ははっきりと意図するにせよ,しないにせよこうしたキャ ンペーンを展開することがある。この場合,彼らはあくまでも読者,視聴者が 自分の意志で(自分の頭で考えて)自分たちの主張になびくことを期待する。

戦争時には無理やり思想を植え付けることも行われようが,現代はあくまでも 受け手は自らの自由意思でなびかなくてはならないのである。

 商業活動の場合にはとにかく売り上げを数字で示すことが第一の目標とさ れ,ともすれば強引な販売もありうるだろうが,それでも現代においてはあく までも消費者が自らの判断で買い求めたことにならなくてはならない。法的に 問題がないとされなければならないばかりでなく,長く営業を続けるとなると それが必要になる。買った側が後悔するようでは後が続かない。

 昨今の新型コロナウイルスの件で特徴的なのは,政府が先頭に立ってキャン ペーンを行い,さらにメディアや業者がそれに乗っかっている点である。「Go to 何某」と銘打ったキャンペーンは,苦境に陥った業界に客を呼び込むため に政府が補助金を出すもので,受益者たる業者はそれに乗るが,メディアもそ れに伴った広告を掲載することでやはり利益を得ている。メディアでは Go-to キャンペーンで沸き立つ旅行者の声を伝えるのにむしろ熱心である。しかしこ れも驚くには値しない。そもそも街中へ取材に出れば行く先はこうした旅行者 の集まる場所であり,そこには感染を多少は恐れるとしても,キャンペーンそ のものを正面から批判するものはいない。

 学校教育の中であれその外にあるとされる「社会」においてであれ,「自分

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の頭で考えよう(考えろ)」という標語も,自由な意思で私に従えという部類 に入るだろう。そもそも「考え」や「ことば」なるものが,人がそれまで見聞 きしたり読んだりしたものを土台にしている以上,「自分の頭」と「他者の頭」

をどう区別するのか。どのような考え方も何らかの「引用」を伴っているし,

元を求めたら延々と遡ることになろう(19)。人は,自分の受け入れられない考 え方を見聞きすると一層それがどこからかの「受け売り」だと感じやすい。自 分の意にかなった考えだと「やはりそうだ」と悦に入る。結局は,「自分の頭 で考えよう(考えろ)」という標語は,あなたの自由意思で,私の考えになび きなさいと言っているようなものである。

7.「呼びかけ」

 「現象学的存在論の試論」と副題のついた『存在と無』は,存在がどのよう なものであるかを描くことを目的としているとするサルトルは,ではいかに自 由な存在としての人間は生きるべきなのかという課題を次の「倫理学」の著作 に託した(EN,pp.673-676)。そのために彼は 1947 年から 1948 年にかけて考 えをノートに書き留めておいたが,それが刊行されたのは彼の死後の 1983 年 であった(20)。そこには自由な存在としての人間と人間の闘いを乗り越えた共 同の関係への可能性を見てとることができる。とは言え,内容的にも記述的に も未完成であるうえに,当時のサルトルの政治への傾斜も伴い,『存在と無』

の現象学的な分析とは十分につながらない印象も受ける。そのうえでサルトル がどのような可能性を見ていたか,それが今の我々の問題に何らかの助けを与 えてくれるものかを見ていきたい。

 ここで私が注目するのは,他者へ何かを求める関係について考察している部 分である。サルトルによると[prière]は,もともとは神に向けた「祈り」で ありまた「懇願」でもある。従ってこれは自らを低い立場に下げながら,それ ゆえにこそ相手が自分の要求を受け入れざるを得ないように仕向けることであ り,「懇願は,暴力の手前の最後の手段である」ということになる(CM.p.

245)。それに対して[exigence]はかなり強い「要求」,「要請」である。それ が絶対的な義務であるかのように相手の自由に迫る。どちらも状況から脱し た,無条件な自由に基づいた,相手に対する要求である。上で,日本政府や東 京都が自粛を「お願い」もしくは「要請」したことを扱ったが,言うまでもな

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くフランス語とその訳語ではかなりの違いがある。「自粛のお願い」には「神 への祈り」という意味合いは込められていないのでサルトルの言う,相手を断 れないように追い込む,暴力の手前のような感覚ではない。また罰則規定のな い「要請」は法的な措置というよりも法的な強制措置が取れないことを受けて の「強いお願い」のようなものとして受け止められ方をしたので[exiger]の ような強引さはないと考えるべきであろう。その分,よきにつけ悪しきにつ け,当局による力業というよりも一般の人々のまなざしの力に頼ったやり方と 受け止められたのである。

 それに対して,サルトルが希望を抱くのは「呼びかけ appel」である。呼び かけは「懇願」や「要求」とは異なり,状況にある自由が同じく状況にある自 由を認めることである(CM.p.285)。

  私は自由に,[私の企て]を他者の自由に現わす。ただし呼びかけは,私 の企てを純然たるただの対象にしてしまうような,ただそこにいる者0 0 0 0 0 0 0 0

[nur verweilen bei]の,メデューサのような石化する純然たるまなざし に目標を与えることはしない。呼びかけは私の企てを自由の行為により,

自由に据えられた目標として与えるのである。この意味で呼びかけはジェ0 0 ネロジテ0 0 0 0[générosité:高邁さ,気前の良さ,寛容]である。あらゆる呼 びかけには贈与がある。まず,まなざしによるもろもろの自由の間にある 根源的な闘いが乗り越え不可能であるとみなすことの拒否がある。私の目 標を他者の自由に委ねるという贈与がある。私がなすことは私一人で実現 されるのではないということの受け入れがある。これは,[�]他者が己 の自由により,私を超越するものの,私の目標に向かって0 0 0 0 0 0 0 0 0超越すること,

つまり他者の自由から私の自由において私の目標に向かって進むことを受 け入れることである(CM.p.293.強調サルトル)。

 また 1947 年に『現代[Les Temps modernes]』で発表が始まり,1948 年に

『シチュアシオンⅡ[Situations, II]』に収められた「文学とは何か[Qu’est-ce que la littérature?]」において,文学作品さらに芸術作品は作者から受け手へ 向けられた呼びかけとして述べられている。

  書くということは,言語を用いて私が企てた,明るみに出す作業を読者が

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客観的に存在させるように,読者に呼びかけることである(21)

  このように作家は読者の自由に呼びかける。己の作品を生み出すことに読 者の自由が協力してくれるように(QLS3,p.50)。

相手が自由な存在として自分に従うのではなく,自由な存在として自分の差し 出した行為を創り上げることに協力するように呼び掛けること。

 「存在論的試論」の続編のための準備ノートであるが故の抽象的な性格と未 整理な状態ゆえに,『倫理学ノート』の記述を応用して考えるのは難しい。ま たこれからのあるべき文学を「アンガージュマン」として世に投げかけたがゆ えの「限定性」ゆえに,我々が生きる時代の様々な具体的状況とは必ずしもか み合わない考え方に思われるかもしれない。要は,相手の自由に呼びかけると いうことである。

 とは言うものの,やはり疑問が残る。特にサルトルは大戦後のフランスがあ る方向に向かうことを望んでいたのであり,「文学とは何か」において彼が主 張した「呼びかけ」もそうした文脈で捉えざるをえない。世界を明るみに出し て読者の自由な判断に提供するとしても,その方向へ読者の考えが向かうこと を目指して事実を選び,表現するのではないだろうか。結局上で挙げた,学校 教育やマスメディアの例と同じことになるのではないか。また「マス」という だけでなく「マルチ」な形で自由が交錯もしくは錯綜している状況において,

サルトルの言う「呼びかけ」はどれほど効果を持つのだろうか。

 サルトルに言わせると「愛」や「サディズム」は相手が自由でありながら同 時に相手が自分に従うこと,つまりは自由を捨てることを望むという矛盾した 欲求であった。実は日常の様々な場面で我々はこのようなことを望んでいる疑 いが十分にあることが分かった。私の方からある行いを差し出し,どうにでも してくれと言う,それでいながら双方が自由なままでいることを目指す。その ようなことが可能であろうか(22)。結局は,一歩譲って,自分の自由が疎外さ れることも覚悟して自分の行いを相手の自由に委ね,まなざしに差し出すより ほかはないようにも思われる。しかしこれが自分のよく知っている「他者」と の関係であればまだしも,マスもしくはマルチのレヴェルのメディアを介する となるとそれでは済まないだろう。よくわからないままに政治的経済的な流れ に任されることになりかねず,また至る所で常にまなざしが自分を串刺しにす

(15)

るように感じられるのではないか。

8.ナッジ nudge

 近頃,「ナッジ」という言葉を見聞きする。行動経済学で提唱された概念で,

サルトルの「呼びかけ」とはそもそも次元が異なるように考えられるかもしれ ない。しかし自分のふるまいと他人のふるまい,自分の自由と他人の自由とい う問題系に関しては,共通の事柄に関しているのでこの点からも考えてみた い。「ナッジ」-[nudge]文字どおりは肘で軽く突いて相手の注意を引くこ とである。他の人間がある行動を取る,ある方向に向かっていくことを望むと きに,命令したり強制したり,あるいは強く勧めたりするのではなく,自らそ のようにふるまう如く促すことを意味する。2017 年にノーベル経済学賞を受 賞したリチャード・H・セイラーとキャス・R・サンスティーンが提唱した。

彼らの定義によると「ナッジ」とは「いかなる選択も禁止することなく,また 経済的な動機を大きく変えることなく,人々の行動を予測できる具合に変え る,選択の構築のあらゆる面」である(23)。「ナッジは命令ではない。目の高さ に果物を並べることはナッジになる。スナック菓子を禁止することはナッジで はない(24)。」副題に「健康,富,幸福に関する決定を改善する」とあるように,

本人のためによかれと考えられる方向へそっと後押ししてやるというのが趣旨 である。

 したがって,マーケティングなどでも使われるが,特に官公庁などでも応用 される。例えば日本では,環境省が「日本版ナッジ・ユニット BEST(Behav- ioralSciencesTeam)の事務局を置き,ナッジを用いた環境問題への取り組 みを進めている(25)。あるいは厚生労働省は,ナッジ理論の応用によるがん検 診率向上を目指す医療機関向けのパンフレットを出している(26)。このパンフ レットでは「“選ばなくていい”は最強の選択肢」という部分で次のように述 べられている。

  特定健診とがん検診の違いについて受診者は理解していません。特定健診 を受ける際に当たり前のようにがん検診を受けてもらえれば,がん検診の 受診率は改善します。今までオプションに見えていたがん検診を検診セッ トのように見せることで,申込時の「選択肢」をなくし,集団検診の予約

(16)

を促進させます(同書 p.5)。

確かに本人がそれとなく後押しをされた形で「自分で」選び,それでもある特 定の方向に向かって行動するようになっている。

 要は,相手を縛らないことである。その意味で相手の自由に「呼びかける」

ことだとも言えるだろう。しかし相手がある方向に向かうことを期待している からこそナッジに訴えるのである。そもそも「それとなく後押しされている」

か「どつかれている」かは,受け取る側の解釈次第であるとも言える。ナッジ という方法を用いているということを見抜かれると,反発を食らうこともあり うる。いかにも自分が操作されていると考えられるからである。マーケティン グにせよ,世論調査にせよ,「気づかれぬように誘導されている」と思われて は逆効果になりうる。特に国家などの公権力が「私的」とされる領域に明確な 法的根拠なしに踏み込んでくることに対する抵抗は強い。だからこそナッジと いう「それとない後押し」が好まれる部分もある。しかしそれでも健康などの

「個人的なこと」にまで「後押し」はされたくない,という考えもある。もち ろん社会全体にかかる医療費を抑える必要があるわけだが,これこそフーコー の言う生・権力の典型例だとされるだろう。

 もちろん,そう考える人,そこまで深読みする人ばかりではないだろう。結 局は統計的にナッジが有効かどうかが判断され,それの採否が決められること になろう。

 ナッジとサルトルの言う「呼びかけ」の大きな違いは,ナッジが「全体的な 利益が最大限になるために工夫をする」という意味での「功利主義」に基づく 点である。環境問題にせよ,福利厚生にせよ,さらには企業活動の業績向上に せよ,社会もしくは会社の利益を最大にすることがナッジを用いることの根底 にある。それに対してサルトルの「呼びかけ」は,己の行為を相手の自由に委 ねるという限りでは,このような「全体の利益の最大化」を意図したものだと は言えないだろう。その分具体性を欠いた,その結果何が生み出されるのか今 一つはっきりしない考え方にとどまると言わざるを得ない。またその後サルト ルが「政治的な有効性」を意図し,現実的な選択として,共産党に寄り添う身 振りを示した時には「功利主義的な」面が現れてきたとも言える。それと並行 する形で『倫理学ノート』は,あまりにも抽象的であるということで,サルト ルの生きている間はお蔵入りとなる。

(17)

 人が生きている限り,他者とのかかわりにおいて,何らかの共同体にあって 生きる。それがゆえにヒトという種は生き延びてきた。そこにおいて意識を 持った存在としての自分と同じように意識を持った存在としての他者との関係 は乗り越えがたい問題を孕む。食べ物であれ,他の資源であれ,つがいの相手 であれ,さらには「承認」であれ,相手とぶつかる場合にはいかにするべき か。とどのつまりは自由と自由がぶつかるときにはいかにすべきか。こうした 問題に対する解決方の提案は「呼びかけ」や「ナッジ」ばかりでないことは言 うまでもない。ただしどのようなやり方をもってしても,「人間には,他人の 行動をコントロールしたい,自分の影響下に他人を置きたい,という根本的な 衝動があるのかもしれない(27)」とすれば,いかに生きるべきなのか。自らは そのような衝動から解脱すべく養生し,他からそのような干渉を受けたらあえ て逆らわずとするのがよいのかもしれない。それができればという但し書きが つくが。

《注》

(1) Jean-PaulSartre,L’Être et le Néant. Essai d’ontologie phénoménologique,Gal- limard,1943,«Tel»1998,p.470. 以下 EN と略する。

(2) Jean-PaulSartre,Huis clos,Théâtre complet,Gallimard,«Bibliothèquedela Pléiade»,2005,p.128.

(3) 日本におけるごく最近の上演としては,2019 年 01 月 25 日(金)から 2019 年 02 月 03 日(日)まで上演された神奈川芸術劇場公演(上演台本・演出:白井晃,

出演:首藤康之 中村恩恵 秋山菜津子)がある。作品紹介として「『出口なし』

は哲学者としても有名なフランスの劇作家サルトルの代表作であり」とある。

「有名な」とことさら説明を加えなくてはならない点が時代を感じさせる。また 2018 年には,小川絵梨子の上演台本・演出,大竹しのぶ,多部未華子,段田安 則,本多遼の出演で SISCompany の公演が行われている(東京公演:8 月 25 日

-9 月 24 日,大阪公演:9 月 27 日-9 月 30 日)。

(4) 日本では新国立劇場において 2014 年 2 月 19 日より 3 月 9 日まで上演されてい る(翻訳:岩切正一郎,演出:上村聡史,出演:岡本健一,美波,横田栄司,  

吉本菜穂子,北川響,西村壮悟,辻萬長)。

(5) 2000(平成 12)年 6 月 21 日制定の『新聞倫理綱領』には「人権の尊重」の項 目で,「新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い,個人の名誉を重んじプライバ シーに配慮する。報道を誤ったときはすみやかに訂正し,正当な理由もなく相手 の名誉を傷つけたと判断したときは,反論の機会を提供するなど,適切な措置を

(18)

講じる。」とある。これがどこまで機能しているのかは,当事者ではない読者に はわからない。

(6)『Journalisme』,朝日新聞社,2020 年 7 月号,「特集:実名だから伝わること  被害者だから伝えられること:実名と被害者報道」

(7) 林香里,「『実名か匿名か』の問いの罠:個人化する市民感覚と乖離」,同書 p.

58.

(8) 同書,p.61-62.

(9) だからこそ 2016 年に相模原市で起きた障碍者施設での殺傷事件に関して,障 碍者に対する偏見や差別をまずなくすことが大切だという主張に異議を挟む余地 はない。しかし被害者や犠牲者の関係者が匿名を望むのは,取材そのものに対応 することの大変さも原因となっている。だからメディアスクラムをなくすための 代表取材などの方策を取ればいいという主張が出てくる。しかし抜け駆け取材を する者が出てくることは予想されるし,事件の直後にそもそもそのような気遣い をさせられることが大変な苦痛となる。ともかく当面はそっとしておいてほしい という人も多いだろう。取材に応じるか応じないかという問い合わせをされるこ と自体が苦痛であってもそれを責めることを誰にできようか。従ってともかく警 察が差し当たって一律非公開としてもやむを得ないのではないだろうか。

(10) 山口真一が 2014 年(2 万人対象),2016 年(4 万人対象)に行った調査による と,インターネットの炎上で 1 件当たりの参加者数はユーザーの 0.0015%だった ということである。Cf.山口真一,「ネットの暴力,なぜ:メカニズムと対策を考 える」,『Journalisme』,朝日新聞社,2020 年 9 月号,p.21.

(11) 総務省で「発信者情報開示の在り方に関する研究会」が 2020 年 4 月 30 日を第 1 回として開かれ,10 月 12 日には第 8 回が開かれている。https://www.soumu.

go.jp/main_sosiki/kenkyu/information_disclosure/index.html2020 年 12 月 8 日 閲覧。

(12) 上にも述べたように,実際はごく少数の者が大量の非難を送っている可能性も 高いが,それを調べる余裕は持てないのが普通であろう。

(13) 私が調べた限り「自粛警察」という名はそうした行為をする人間が自らを称し たものではなく,彼らを批判する側の人々がつけた名前のようである。公式の警 察組織にいるわけではない者(そもそも組織を成しているかもわからない)に

「警察」というレッテルを貼ることがそのまま批判になるのも興味深いことであ る。

(14) 1946 年初演の『墓場なき死者たち』はこの問題をテーマとしている。拷問者 は犠牲者が自由に自白することを強要し,犠牲者はそのような拷問者にまなざし を返すことで抵抗する。とは言え,これはあくまでもサディズムとしての拷問で ある。情報を得るための拷問がすべてサディスティックなものであるかは疑問の 余地がないとは言えない。

(15) 首相官邸ホームページ:2020 年 4 月 7 日新型コロナウイルス感染症対策本部

(第 27 回)。2020 年 10 月 18 日閲覧。https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/actions/

202004/07corona.html

(16) 東 京 都 ホ ー ム ペ ー ジ。2020 年 10 月 18 日 閲 覧。https://www.bousai.metro.

(19)

tokyo.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/007/661/2020041000.pdf

(17) 他の人々が自分と同じように公権力の自粛要請に従うことを望むのであるが,

結局それは,自分がそのように望んでいる以上,他者が自分の意に従うことを意 味する。

(18)「道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づ き,自己の生き方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者 と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とする。」『小・

中学校における道徳教育及び道徳科の基本的な考え方』小学校学習指導要領(平 成 27 年 3 月告示)より。

 https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/078/siryo/__ics Files/afieldfile/2016/08/05/1375323_4_1.pdf2020 年 12 月 8 日閲覧。

(19) このような見方は,テクストは他のテクストの引用から成るというジュリア・

クリステヴァの「関テクスト性」,テクストは永遠に元や終わりに差延されると いうジャック・デリダの考え方などと呼応する。

(20) Jean-PaulSartre,Cahiers pour une morale,Gallimard,1983.以下 CM と略す。

(21) Jean-PaulSartre,«Qu’est-cequelalittérature?»,Situations III. Littérature et engagement,Gallimard,1949,2013,pp.49-50.以後 QLS3 と略する。

(22)『〈呼びかけ〉の経験:サルトルのモラル論』においてサルトルの「呼びかけ」

をハイデガー,レヴィナスなどを参照しつつ,彼の文学作品とも関連付けて詳し く論じた澤田直も,「呼びかけこそは示唆に富んだ方向性を示してくれる概念で あるように思われる」としながらも「サルトルが提唱するような対象化や異化で はない了解の理論的な根拠はどこにあるのかという疑問も依然として残る」と述 べている。Cf.澤田直,『〈呼びかけ〉の経験:サルトルのモラル論』,人文書院,

2002,p.103.

(23) RichardH.Thaler,CassR.Sunstein,Nudge,2008,PenguinBooks,2009,p.6.

(24) Ibid.

(25) 環境省 HP:日本版ナッジ・ユニット(BEST:BehavioralSciencesTeam)

について。2020 年 10 月 18 日閲覧。

 http://www.env.go.jp/earth/best.html 2020 年 10 月 18 日閲覧。

(26) 厚生労働省,『受診率向上施策ハンドブック:明日から使えるナッジ理論』

(27) 菅野萱野稔人『リベラリズムの終わり』幻冬舎新書,2019,p.31.

(欧米文学・思想/国際文化学部教授)

参照

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